Good-bye red brick road(グッバイ・レッド・ブリック・ロード)
 

〜第1部〜

 
 
きっかけは、東京の知り合い宅で出された茶器である。
「どこのだ、って言ったっけ」
 インターネット経由で繋がった、パソコンモニタの向こうに向かって、彼女は問うた。
『常滑だよ、と、こ、な、め』
 その東京の知り合いがモニタの中で答え、動画IPメッセンジャーでURLが送られてくる。アクセスすると地図。
「これって例の新空港…」
『そだよ。お礼のついで…にはちょうどいいんじゃないの?それに…だったらアレだ。雨降る流れ星も、岬の先っぽまで行って見てくるといい。空港が何かイベント組むかも知れないし』
「判った」
 そして今、彼女は名古屋鉄道(名鉄)の、空港行き特急電車の車中にある。日本型電車には乗り慣れた彼女であるが、立ち客用のつかみ棒など、サーモンピンク色を多用したこの車輛の配色には、一瞬我が目を疑うほどのけばけばしさを感じた。だがすぐに、色覚ハンディのある乗客を想定したものと気付き、納得。
 車内は走行音以外静かである。乗客は多くはなく、彼女を含めちらほら立ち席がある程度。時節は11月半ば過ぎ、金曜の昼下がりであり、ガラス越しの西日は心地よくやわらかい。大荷物片手の旅行者が、ここまでの移動で既に疲れたか、座席からガラスに寄りかかり、ウトウトしている。ちなみに、東京の言う“雨降る流れ星”とは、翌早暁に予報されている、“しし座流星群”のことを指す。車内ドア上、電光ニュースでもその旨のニュースが流れる。穏和な車内といい、流れ星がニュースになるこの国は平和だ、とつくづく思う。
 外に目を向ける。電車は郊外の住宅地を快調に飛ばしている。やがて駅を通過し、走行音が変わり、コンクリートの高架橋に駆け上がり、速度を落として駅へ到着。
 常滑市。愛知県知多半島の中程、西より海岸沿いに位置する。沖合人工島に中部国際空港を擁する。
 古来より陶器の製造で知られ、その原初は平安期にさかのぼる。「せともの」に代表される、同じ愛知の「瀬戸」などと共に、日本六古窯(ろっこよう)に数えられる。有名なのは朱泥(しゅでい)の茶器類であろうか。ちなみに“まねき猫”の生産量が日本一である。
 詳細は専門書に譲るが、出自が古いだけに、後付加工で彩るより、素材の良さを生かしたシンプルな焼き物が多く、彼女の場合も、知り合い宅で見せられた、その系統に惹かれた次第。今日はたまたまこの地に用事があったので、帰国がてら立ち寄り、気に入った物でもあれば、と思ったまで。
『常滑です』
 女性車掌のアナウンスと共に、電車のドアが開き、彼女はいくらかの乗客と共に降り立つ。
 ホーム上で待っていた、男性の待ち客が彼女を見、声に出すならおー、となるか、口を小さくアルファベットの“o”の字に開く。
 かわいらしい女の子だ、と書いて異論を持つ者はおるまい。
 彼女の身長は153センチ。小柄と表現できるが、それでもここ1年ほどで3センチ伸びた。
 顔立ちは平成年代風美少女とでも書くか、“ころん”としており、少女マンガのヒロイン向きと言える黒い瞳の娘であって、髪の毛は肩に触れない程度でスパッとカット。ジーンズ姿と合わせ、軽快な印象を与える。その軽やかさと、かわいらしさによって、彼女がいるだけで周辺がパッと華やぐ、そんな感じと書けるだろうか。異国の娘であるが、東京渋谷、名古屋なら栄(さかえ)か、繁華街を歩いていて、そうと気付く者はおるまい。
「あ、どうも」
 道を空けた男性客に彼女は軽く会釈をすると、意外に強い風にちょっと驚きながら、羽織っていたカーディガンの前ボタンを留め、高架ホームの下へと階段を下りて行く。
 改札を鉄道カードで抜け、構内にある観光案内所へ。
 窓口のお姉さんに、即売もしている工房を訪ねたいと告げると。
 やきもの散歩道案内「『やきもの散歩道』を行ってみてはいかがですか?」
 傾斜地を縫うように走る小道で、そこここに工房やお店があるという。
「一般のご家庭もありますので、プライバシーには十分ご配慮下さい」
「ありがとうございました」
 地図をもらい、送り出されて駅を出る。アーチ型の鉄道橋梁(ニールセンローゼ橋)を背中に、南東の方向へ。
 途中、人に訊いたりなどして、たどり着いた『散歩道』の入り口は、“ありゃりゃ”というのが正直なところ。
 綺麗に整備されすぎているのだ。舗装やカンバンなどまだ新しい。道そのものはクルマが入れる幅はなく、斜面にへばりつくように、くねりながらの上り坂。
 首を傾げながらとりあえず歩き出す。こういう場所には“小洒落たお店”は多いかも知れないが、昔ながらの工房というのはどうだろう。
 ちなみに東京で見せられた茶器は、えらく高名な陶芸家、の弟子が作った1点ものとか。そういうのは、引き継ぎ引き継ぎ大事に使うシステムの産物が多いのではないか。
 比較対象として適切かどうか知らないが、一度乗ったことのある“オリエント急行”の客車は、二次大戦前の姿に復古されたヴィンテージカーだったが、その作業はわざわざ元々の工場で、リタイアした職人を呼び寄せて、当時と同じ手仕事で行ったという。同じ理屈で、古典的な味わいを求めようとするなら、それに最適化されたシステムの方が良いような気がするのだ。
 “小洒落た”…現代向けにソフィスティケートされた陶芸を否定はしない。でも、少なくとも自分にはお呼びではない。ちなみに、そのオリエント急行のディナーで供された食器は、列車の紋章こそ入っていたが形状はシンプルそのもの。しかし無機ではなく、ムダをそぎ落とされた“機能美”みたいな物があり、どこのだろうとクルーに尋ねたら、リモージュ(Limoges)と返ってきた。
「いらっしゃいませ」
 声を掛けられて我に返ると、前掛けの女性がニコニコ顔で自分を見ている。
 そこは元の工房を買い取ったと見られるお店。店頭には陶器と無関係な小物や装飾品がずらりと並ぶ。そしてカンバン代わりであろうか、路上に赤土色した小型の土管が立ててあり、ペンキ書きで“ケーキと紅茶はいかがですか”。
 …悪いけどそれ、“常滑”である必要、全くないと思う。
 だがしかし、行く手の道はそんなのばかりであるようだ。振り返ればかなりの高台。眼下には新旧混交の家々が並び、海の向こうを離陸して行くジェットライナー。
 他方、散歩道の行く手は、というと、赤レンガの煙突が幾つか見えるが、火を入れている様子はなく、向こうの店では、女性二人組の旅行者が、商品を手に談笑中。
 ガシャン、という陶器の割れる音が聞こえたのはその時。
 しかし、聞こえたのは恐らく彼女だけ。常人の聴覚で聞き取るのは不可能だ。
 なぜなら、その音は、“心”で聞こえた音。更に詳しくは、心が受けた強い衝撃を、その原因となった音と共に、心理で直接感じ取ったもの、だからだ。
 超常感覚的知覚、テレパシー。彼女が持つ特殊能力に起因するもの。
「…どうかしたの?」
 そのお店の女性が声をかけた。彼女はひょっとすると、反射的に驚いた、或いは小さく声を発したかも知れない。店の人としては、通りすがりの女の子に軽く声を掛けただけなのに、そんな反応をされたら、それはそれで驚くだろう。
「いえ、用事を思い出して…すいません」
 自分を気にしてくれたのに、場違いの店とか…。ちょっと申し訳ない。
 いたたまれないような気持ちも手伝い、来た道をとって返す。その“気持ち”が発せられたのはここから100メートルほど。早足で下る小径は、他の観光客がしげしげ眺め、或いはカメラ構えるあたり、有名なのであろう。足元と壁に輪切りの土管がびっしり植わっている。
 “散歩道”を外れる。階段を下り、少し行くと、見逃してしまいそうな細い路地。ベビーカーですら通るのは難儀であろうと思われる程。
 “気持ち”はその奥からであるらしい。息せき切って出所を追う。アホかと思う向きもあろう。実際彼女自身、何を必死にこうしてその場に行こうとするのか、疑問に思うことがある。「傷ついた心理」に強く反応してしまうのは、もはや半分本能的とさえ言える。もちろん、そんなのこと一々気にしていたらキリが無いのだが、重々判っているのだが、知らぬ振りは後々罪悪感で悩むだけなので、それよりは、とつい足を向けてしまう。
「…やる気あるのかお前」
 叱責の声。怒鳴り声でこそ無いが、もの言いの調子はきつい。これはテレパシーではなく、耳で聞き取れた物。
 叱責されているのは、父親というイメージの男性。叱責しているのは更に年上の男性。詫びる声。頭を下げるその姿勢は直立不動。その動作の影で落胆する心理。引き裂かれるプライド。これはテレパシーで把握した状況。
 現場は近そうである。感じながら路地を行くと、視界が開けた。
 作陶工房であることはすぐに判じた。窯とおぼしき、かまぼこ型に整形され、煙突を立てた土壁の構造物があり、平屋建ての建物と直結。
 建物の前の庭では、汚れた前掛けをした、眼鏡の男性が、バラバラになった陶器片を拾い集めている。
 そのしょげた表情。叱責されていた男性であろう。
 思い詰めているらしく、角ぶち眼鏡の目線はうつろ。一旦拾い、手に積み上げた陶器片を、再度ガシャガシャと落とす。
 見てらんない。
「あ、すいません…」
 拾うのを手伝う彼女に、男性は少々過ぎてから気付き、ぼんやりとした口調で言った。
 その声に、彼女は心臓のあたりがズキッと痛む。油切れした機械のような、覇気のない声音は、傷ついた心の証。しかもよく見れば頭髪には白髪が目立ち、フケが多く、健康清潔に気を付けている様子ではない。そういう方面に気を回す余裕を持った心理状態ではない。
 それどころか。
 男性の顔色に彼女はハッと気付いた。
 …倒れる。
 果たして男性は、スイッチが切れたように白目を剥き、糸の切れた操り人形のように、力が抜け、倒れ込んだ。
 彼女は手をさしのべたが、わずかに遅れたうえ、少女の細腕で大の男を支えるには能わず、散らばった陶器片で男性の額に擦過傷が生ずる。
 顔から外れ、土の上に転がる眼鏡。
「ちょっとすいません、どなたかいらっしゃいませんか!」
 彼女は叫び、座り込んで額の傷を手で押さえ、男性の手首の脈を取る。
  
  
 畳の上、延べられた布団に仰臥している男性。
 懇々と眠るその目の下には、どす黒く隈があり、頬はこけ、文字通りの無精ひげが、その見るからに不健康な顔立ちを更に不健康に見せている。
 布団を挟んで、向き合って座するのは、彼女と、
 困惑した面持ちで男性を覗き込む、やつれた感じの若い女性。
 男性の妻なのだろう、普通に考えて。相当年の差はあるが。
 ピピピピ、と電子音。
 彼女は眠る男性の布団に手を入れ、電子体温計を取り出した。
 デジタルの表示は39.5。
「こんなに…」
 女性がため息。
「この発熱は病気と言うより極度の疲労とストレス、栄養不良に伴うものと思います。まずこのまま休まれて水分を取り、それでも変化が無いようなら、やはりお医者様に懸かることにしましょう。そして消化が良くて栄養のあるものを口にされること。ここ数日、満足に食事を取っていらっしゃいませんね」
 体温計をオフにする。医者に診せた方が確実だろうが、お金が…とかでイヤだと言うんだから仕方がない。とはいえ自分が“診察と決断”を下すわけにも行かぬ。結果の妥協点が、少し様子を見てから、だ。最も、同じ状態の人々はこれまでもよく見ているから、間違いないだろうとは思うが。
 女性が布団を掛け直す。
「ええ、まぁ、その、なかなか先生に認めて頂けてないようで…。あ、ごめんなさい。私ったらお礼もせずに。その、助かりましたありがとうございます。でも…その失礼ですけど、なんでそんな専門的な…お若いのに…」
 女性は彼女の傍らに置いてある、一見湿布を思わせる白っぽいパッケージに目をやった。
 ソフラチュール。ガーゼに“硫酸フラジオマイシン”を染みこませた物。傷口からの感染予防に応急処置的に用いる。言ってみれば高級なバンソウコウ。
 彼女はそれを、自らのウェストポーチから取り出し、カットして男性の額に貼ったのだ。どう見ても市販品に見えず、従ってこういう質問になる。
「申し遅れましたこういう者です」
 彼女は同じくポーチをゴソゴソしてIDカードを取り出す。
 カードに貼ってある写真の彼女は、ナースキャップをかぶっている。
「…看護婦さん。で、えーと、これは」
「メディア・ボレアリス・アルフェラッツ(Media Borealis Alpheratz)と申します」
「外国の方?」
「ええ」
「あら。全然そんな風には…ご両親がこちらに?それとも帰化されて…」
「いえ、祖先の出自が東アジアなのでこういう顔をしているだけで」
「へぇ〜。変な言い方だけど、あなた、そのまんまでこんなド平日にぶらぶらしていたら、補導されそうよ」
 面白がるような薄い笑みを浮かべて言う。病人の前でその態度ってどうか?とも思うが、想定外の話に相違ないので、強い興味を持って当然といえば当然か。なお、女性の発言は、彼女の顔立ちも、言葉遣いも、その辺の子供と変わらないね、という意味と解釈すれば良さそうだ。彼女の年齢は14歳と数日。
 女性が立ち上がる。
「ちょっと待ってね。お茶でも、えーと。メ…」
「あ、私インターネット上の通り名が“レムリア”なので、友人知人にはそう呼んでもらってます」
「れむりあ?」
「太古海中に没した幻想の大陸。その真相を知る者は現世一人して存在せず」
 女性の調子に合わせてこう言ってみる。雰囲気と場違いなのは否めないが、深刻で陰鬱よりは良いか。
「あらミステリアス」
 女性は微笑を浮かべて立ち上がり、窓際の流し台に向かった。
 その流し台の窓の向こう、小道から駆け込んでくるブレザーの制服。
 女の子。ぶつかるかの勢いで玄関ドアに到着し、ドアを開く。
「だ…」
 女の子は何か言おうとし、彼女…意を汲んでレムリアと書く…と、目を合わせ、押し黙った。
 “態度を硬化”と書けばよいか。女の子の表情が非常に硬く、防衛的、攻撃的に転化したのをレムリアは感じ取った。自分の周囲にバリアを張った、そんな感じか。
 きつい目線。眉間のしわ。更にそのしわに向かい、鋭い勾配を描き吊り上がる眉。風圧と感じるほどの拒絶感。
 年は近似と見る。離れていても1年。故の拒否であるとも知る。清楚で整った顔立ちの娘だが、そのはずだが、常時きつい目をしているせいか、顔面筋が緊張しているようで、少女のかわいらしさがスポイルされている。
 背は自分よりも高い。体格もそれなりで服の号数2つは違おうか。
「なんだお前」
 かくして開口一番、女の子はレムリアにそう言った。
 子供同士とはいえ、はなはだ失礼…一般観念としてはそうなろう。
 しかし、出会い頭の攻撃に、レムリアは別の要素を感じ取った。
 この攻撃は防衛のため。防衛の理由は傷付きたくないため。
 心が張った予防線。
「ちょっと真由(まゆ)さん失礼…」
「うるせぇよ!」
 真由と呼ばれた制服の少女は、女性の言葉を荒い声で遮った。乱暴と言うよりは、喋らせもしない、声も聞きたくない。そんな気配。
 対し女性は少女を“さん”付けで呼んだ。それは、子供の反発を恐れる親が良くやる間違い。
 この二人が、ぎすぎすした関係であることは、書くまでもあるまい。
「いきなりごめんなさい」
 レムリアはまず柔らかく言った。
「通りががったら…お父様かしら?倒れられたので」
 しかし真由は、レムリアを無視するが如く、目線を外し、何も言わず部屋に上がると、最前まで女性が座っていた男性の傍ら、布団の向こう側に座った。
「用が済んだら出て行けよ」
 レムリアを睥睨。さながら野良犬を追い払うよう。ただ、拒否したところで例えばすぐ暴力に訴えるという感じではない。子持ちの母猫のように相手を近づけたくないだけであり、もちろん初対面から生理的に嫌い、という物とも違う。
 従って当然、レムリアは動かない。
「真由さん!」
 さすがに女性が叱咤。
「うるせぇな!元々てめぇが…」
 言い争いになるかと思ったその矢先、布団の男性が苦悶の声を上げた。
「あっ…」
「大丈夫、悪夢を見ているだけ。…ストレスのせい」
 心配そうな表情の真由を制し、レムリアは男性の手首を取って脈を診る。ちなみに真由は、レムリアがこうして父に触れても、手を出さないし罵詈も口にしない。心底寄りつくなという意味ではやはりない。
 敵か味方か探っている…そんなところか。
 レムリアは腕時計を見ながら拍動を数える。早い。伴い呼吸も早く、そして浅い。
 男性が寝言を言う。まゆ、まゆ、行かないでくれ、父さんを見捨てないでくれ…。
 真由の表情から怒りの炎が消失し、親を想う女の子のそれに変わる。
 他方、父は仰臥したまま、追いすがるかのように、レムリアが触れていない方の手を、中空へと伸ばした。この種の追われる、追いかける類の夢は、現実でも追い込まれている人、せっぱ詰まった人に、良く現れる。
 脈が加速する。この身体で心臓に掛けて良い負担とは思えない。レムリアは伸ばされた手を掴み、同時に脈を診ていた手を離して、男性の頬にそっと触れた。
 男性がレムリアの手をぎゅっと握り返してくる。病顔に小さな笑みが宿り、伸ばされた手が弛緩する。
 レムリアは男性の手を持って布団へ下ろす。頬にはまだ触れたまま。
 寝息を確認してから、ゆっくりと頬の手を離す。
「よかった…」
 女性がため息を付き、胸に手を当てる。
 と、真由が磁石の反発を思わせる勢いで唐突に立ち上がり、玄関へ走って靴を履き、ドアを開け、建物全体がビリビリ言うほどえらい勢いで玄関ドアを閉め、飛び出して行った。
「あっ、真由さん…」
 女性が呼び止めようとした時には、既に庭から走り出た後。
 女性は力なく向き直り、流しから黒く窯変(ようへん:窯の中で化学反応によって釉薬が変色すること)した湯飲みを盆に載せ、レムリアの元へ持ってきた。
「ごめんなさい、いきなり失礼なことで」
「いいえ。ただ、真由ちゃんの反発は自我防衛機制だと思います」
 レムリアは言った。
「じ…が?…」
「傷つく、と感じた心が、傷つかないようにと本能的に取る、回避行動のことです」
 心当たりは?とは問わない。気にはなるが、今の自分の立場では、訊くにはまだ早い。
 出された湯飲みを手にする。それは書いたように黒い窯変で、それはそれで東京で見たものと同じなのだが。
 何か違う。見た目は良いが、惹き付けられる何かがない。“よく見えるように作りました”。
「それは、この人の作品です」
 レムリアが湯飲みをじろじろ眺めていると知り、女性は言った。
「そうですか」
 茶を一口。自分を見る女性の目が、津々たる興味に満ちていることを感じ取る。
 女性が問う。
「陶器お好きなんですか?」
「母親が東洋趣味に目覚めたようで、ちょっと買って帰ろうと」
「それで常滑へ」
「ええ。直売もしていただける工房はないかと」
「そうですか。…あの、そういうわけで、それ、この人のなんですけど、率直にいかがですか?」
 女性は少し笑みを浮かべて訊いた。先ほどと同様、今この状態でする会話か?とも思うが。
 訊かれたからには答えることにする。素人が評論するのはおこがましい気がするが、こういうのは直感の囁くままに答えた方が良いと思うので。
「形や色合いはいいと思うんです。良くできてる。ただ…」
「ただ?」
「ただ、それだけ、なんです」
「え…」
 背後に人の気配、と感じて程なく、ガラガラと玄関隣接の引き戸が開かれた。
 作務衣に白いあごひげの老男性。いかにも芸術家という風体。険しい表情。
 …この人が、この男性を叱責していた、と、レムリアは判じた。
 すると、老男性は、レムリアの姿を見るや、意表をつかれた、という目をして見せ、笑みとともにスッと玄関先の床面に正座した。
「これはこれはようこそ。お見苦しい所を申し訳ない。私は窯の主で川俣(かわまた)と申します」
「ご丁寧にありがとうございます。私は相原姫子(あいはらひめこ)と申します。突然お邪魔致しましてすいません」
 レムリアは返した。女性が驚いた顔をしているが仕方あるまい。だが看護婦で本名はこうで、なんてのはまだるこしいので、必要に迫られない限り基本的には語らない。ちなみに、相原というのは東京の知り合いの姓である。『22歳の男がローティーンの女の子連れ回して“友人です”では不要な憶測を生む』ので、二人で行動する際には、従妹ということにして、こう名乗っている次第。
「いえいえ、この度は私の不肖な弟子がお手間を。しかしまぁ…」
 窯主川俣は、仰臥する男性を腕組みして見つめ、ため息をついた。
 あきれかえっているという表情である。明らかにこの老男性と、伏している男性との間には、認識の齟齬がある。
「医者を呼んだのかね?」
 川俣は女性と同じく、布団の傍ら、ソフラチュールのパッケージを捉えて言った。
「いいえ、このお嬢さん看護婦さんなんです。ストレス、睡眠不足、栄養不良とのことです」
「それはそれは。重ね重ね申し訳ない…。まぁ、確かにこいつに今必要なのは睡眠だな。今のままでは、やればやるほど悪化して行くばかりだ」
 その言葉に、女性がギョッとした表情を見せる。
「先生、それでは集合展に…」
「心配するな、だから出て行けなどとは言わぬ。ハッパがけ…こら、客人に聞かせることか。余計なことを軽々に…これは失礼。まぁ、ゆっくりなさっていって下さい」
 窯主川俣は言い、しかし女性の方に一瞬じろっと睨むような視線を向けると、場を立ち、引き戸より奥へ下がった。
「ありがとうございます」
 レムリアはその背に向かって言った。
 お茶を一口頂き、男性の様子を見る。脈拍は落ち着いている。また、我慢を重ねている人は、寝ている間に異常なほどの力で歯を食いしばっていることが良くあるが(歯ぎしりはその延長)、それも感じられない。
「複雑な事情が、おありのようですね」
 レムリアは女性を見ず尋ねた。首を突っ込むというか、それがあの真由という少女に影を落としているのでは、と思ったまで。子どもの立場からすれば、大人に振り回されて傷つけられるなんざ、たまったものではない。
「真由ちゃんはこの人の連れ子なんです」
 女性は、レムリアが思わず振り仰ぐようなことを、いきなり言った。
 アウトラインは以下の通り。男性は妻と真由の3人で暮らしていたが、趣味が高じて脱サラし、作陶の弟子入りを決意。安定職を失うことに当然妻は難色。応援したこの女性…麻子(あさこ)と名乗った…に夫はなびき、離婚し、駆け落ち。
 まるでドロドロ系昼ドラマ。子供にとっては最悪そのものであり、この地の方言を使うなら『くそたわけ』だ。ただ腑に落ちないのは、そういう場合、主旋律から脱線したのは夫である上、収入も不定。自分が真由の立場なら、クールに母親の方に付くと思うが。
「に、しては、真由ちゃん、麻子さんに随分風当たりが強い感じですね」
 遠回し。
「…あの子、私をこの人から引き剥がそうとして、この人の連れ子になった、と、私に宣言しました」
 で、麻子としては、真由に気に入られようとして、敬語。
 なるほどとレムリアは思った。ちなみに、通りがかりの自分にそんなことを話したのは、川俣窯主の言った口の軽さもあろうが、それよりも、自分がこの男性を助けたことで生じた信頼感と親近感、更には、そもそもこの不協和音がどうにかならないかと、麻子自身が思っている証拠。味方が欲しいという真意が無意識裡に表出したものだろう。なお、男性の無理は、近々開催の集合展示会に提出する作品が、幾つ作っても川俣窯主のOKを貰えず、とのこと。
 オトナの事情は承知した。次は真由の言い分を聞いてみる番。
「すいません。スポーツドリンク買って来たいんですが、この辺りにコンビニか薬局は…」
 立ち上がりながら尋ねる。ちなみに、それはそれで口実でも何でもなくて、買って来て男性に飲ませるつもり。
 点滴の定番、リンゲル液の代わり。大体、スポーツドリンク自体、飲めるようにしたリンゲル液だ。
「え?買い物なら私が…」
「いえ、その間にお父様がお目覚めになったらあれですし」
 レムリアは心の中で目を剥いた。
 私がひとりいてどうするのだ。何を頓狂な。
 この麻子という女性、軽いんじゃなくて少しずれてるのでは…思ったが口にはしない。
「あ、そう。…それなら」
 麻子に、散歩道をこう行ってこう行くと自販機が、と判りづらい説明を受け、千円札を渡される。
 …まぁ最悪、あのお店が並んでいた近辺に何かあろう。
「じゃぁちょっと」
「気をつけて。…それであのもし、真由ちゃん見つけたら、おやつ用意してるから」
「判りました」
 外に出、目を閉じ、真由の“思い”を探す。高地に行って視界が開けるように、“雰囲気を感じ取れる範囲”が、ぱーっと広がって行く。
 イメージが浮かぶ。無人の公園でブランコに腰を下ろし、しかし遊ぶでなく、ナチュラルに揺れながら、地面の方をぼんやり見つめる寂しげな少女。
 そのイメージが強くなる方向、散歩道を高台の方へと向かって歩く。途中発見した自販機でスポーツドリンクと、もう一本ペットボトルを購入する。観光客らとすれ違いながら、散歩道の順路を逆行し、新しい店が並ぶ場所から小道に入り、散歩道より外れの方へ外れの方へ。
 コンクリートの階段を上がると、滑り台とブランコだけの公園に、真由は置かれた人形のように座っていた。
 レムリアに気付き、少女の顔から一転、母猫のように警戒の目を向け、次いでその目が怒りの色を帯びる。
「まだいたのかよ」
「ごめん、全部事情を聞いちゃってね。そのまま去るのは失礼だし」
「大体なんだよお前」
「お父様が倒れられた時、通りがかった看護婦」
「看護婦ぅ?ふざけんなよ。お前幾つだよ」
 レムリアはペットボトルを真由の隣のブランコに置き、IDを取り出し、彼女に見せた。
「European free will medical care mission」
 真由はIDに記してあったレムリアの所属団体、国際医療ボランティア“欧州自由意志医療派遣団”の英文名をすらすらと読み上げた。
 レムリアは気付いた。
「Are you good at English?(英語お得意?)」
 反射的に英語で問う。真由はハッとした表情を見せ、レムリアを振り仰ぐ。
「Yes. But I was made to feel to mother by force precisely.(まぁね。とは言っても母のごり押しだけどね)」
 真由はあっさり答えた。ほぼ完全なバイリンガルとレムリアは断じた。
 ちなみに、レムリア自身は12カ国語を操る。なお、レムリアが真由について“気付いた”と書いたが、その中身を解説風に書くとこうだ。彼女は英語が得意であり、その方面で認めてもらいたいという思いがあるのと、見知らぬ少女より心理的順位として優位に立ちたい、という無意識の情動が働き、つい、口に出た。
 レムリアはその意を汲んで英語で返したのである。ただここで、彼女の“認めてもらいたい”という気持ちは、その裏側に、認められていない現実の存在が指摘できる。
 本筋に戻る。真由は意表を突かれたというか、目を見開き、“へぇ”という表情。
「…すげぇなお前。返されるとは思わなかったよ。てかあれ?じゃぁお前日本人じゃないの?メディア…」
「それが本名。コールサインをレムリア、日本人になりすます時は相原姫子」
「なりすます?」
 訝しげな表情。
 レムリアは答えず、もう一本のペットボトル、ジンジャーエールのフタを開け、自分が一口カパッと飲んでから、真由に差し出した。
「走って帰ってきたでしょ?」
 すると、真由は何も言わず、ひったくるようにペットボトルを奪い、ゴクゴク飲んだ。
「あーっ!」
 天に顔を向けて声を出す。まるでスカッとさわやかなコマーシャル。
 だがしかし。
 深秋のさわやかな青空を、暗雲で覆い尽くすように、超常感覚が警告を発したのはその時である。
  
  
 階段を上がって来る4人。
 真由が着ているのと同じ、ブレザーの制服を着た女子生徒。互いに顔を見ながら喋っているが、下卑た印象があり、友達にしよう、という感じではない。一人は棒付きのあめ玉を持ち、口の中に出したり入れたり。
「…逃げろよ」
 真由が呟くように言った。その声音に感じる萎縮。
 顎を引き、唇を固く噛み締め、拳をぎゅっと握る。目の挙動が落ち着かない。
 その動作で、レムリアは逆に、自分は絶対にここから逃げてはならない、と自分に命じた。
 判った、のだ。
 真由の手を熱く握る。
 対し真由の手は冷たい。レムリアをハッとした表情で見つめる。
 4人が彼女らに気付いた。向けられた目線に真由の手がびくりと震える。
「お〜真由ちゃん」
 その表情と口調で、レムリアが思い出したのは、
 …難民キャンプに食料をたかりに来る、自称“聖戦士”の男ども。
「行けよ」
 真由はレムリアの手を振り払うように言ったが。
「断る」
 レムリアは逆にいっそう、手を強く握り、どころか引き据えた。
「でもこいつらは…」
「あなたを傷つける存在。ひとり対集団で、執拗に。だから私はあなたを絶対にひとりにしない」
 レムリアは真由の目を見ず言った。判っているから見ずに言った。
 すなわち。
  
 “いじめ”
  
 しかしその言葉を、レムリアは敢えて使わなかった。わざわざこの状態で再認識させる必要はないからだ。
 それは尚いっそう、彼女を傷つける。
 真由の身体が、僅かに震えるのが、握った手を通して伝わる。
「なんでそれを…」
「筋肉の緊張、体温の低下、血圧の上昇」
 レムリアは答える。テレパシーを行使するまでもない。
 身体の位置を変える。真由に向いた4人の視線を遮るように、間に割って入る。
 4人を目線で迎える。彼女らの背後に西日があるため表情はよく見えない。だが、嫌悪感を抱く目の色をしているのが、印象的なほどよく判る。目は口ほどに…とはよく言った物だ。
「へぇ〜」
「これはこれは」
 果たして4人は、ニヤニヤ笑いを浮かべながら階段を上って来、そう評した。そして当然のようにレムリアに目を向けた。
「なんだお前」
「彼女の友達」
「そうかよ。おい真由、ちょっと来いよ」
「今私が彼女と話してるんだけど」
 レムリアは食いついた。そうはさせるか。
「なんだおめぇ…そういや知らねぇヤツだな。こいつの横浜の友達ってか?」
 レムリアを上から下までじろじろ見回すその様は、ケンカの前に相手の体格を値踏みするチンピラそのもの。
 そしてヘラヘラ笑う。得た結論は“与しやすし”そんなところか。確かに4人はいずれも真由並みの背丈であり、対しレムリアは頭一つ確実に低い。
「どーでもいいでしょ」
「なんだお前さっきから」
「『なんだお前』しか言えないの?」
 背後で真由が目を剥くのを意識しながら、レムリアは言った。
 ケンカを売っている。そう取られても構わぬ。ここで大事なのは自分が絶対の味方であり、頼りになる存在であると印象づけること。
 ちなみに、こんなのゴキブリほども怖くない。集団で暴力を働くのは本質弱虫と相場が決まっているからだ。自分に自信がないから、集団で力を誇示して、その自信を確保しようとするのである。無論、暴力に訴えてくるリスクはある。しかし、軽機関銃突きつけられてソセゴン(強力な鎮痛剤。麻薬の代わりになる)よこせ、とは比較になるまい。
「ほう、やんのかよ」
 あめ玉の生徒が、そのあめ玉をプッと地面に吐き捨てて言った。
「救助活動を少しね」
 レムリアはあめ玉を踏みつぶして笑ってやった。
 4人の雰囲気がガラリと変化し、目が暴力の色を帯びる。どう対処すべきか。指先に意を乗せれば呼応はしよう。しかしそれはこの場の選択肢として正当と言えるだろうか。
 さりとてそれがノーならどうやって防御。使える物は左手のIDカードと、右手に持ったスポーツドリンクのペットボトル。
 水入りボトルは充分な質量があり、“使える”と聞いたことがある。凍っていれば凶器になり、推理ドラマの殺人トリックで常道なのは知られる通り。
 その時。
 うーいーうーいーと耳を聾する大音響が至近で鳴り響いた。
 防犯ブザーである。家並みにこだまし、小道の間に響き渡る。
 何事かと思う家人もあろう。小窓が開いて目線も幾つか。
「ちくしょう!」
「行くぞ」
 4人がバタバタと逃げて行く。
 ブザーの出所…レムリアは振り返って知った。真由が携帯電話内蔵の防犯ブザーを起動したのだ。
 電話の電池を一旦外し、ブザーをオフ。
「ばか、無茶しやがって…」
 真由は下を向き、電話をいじりながらぼそっと言った。
 電池を再セットし、睨むような目をレムリアに向ける。
 怒って…否。
 その目に涙。荒れた口調と裏腹の、西日に輝く金色の涙。
「お前が…お前がやられたら、どうするつもりだったんだよ!」
 ブランコから立ち上がり、レムリアにしがみついてわんわん泣き出す。小柄なレムリアに比して彼女の方が背が高い。レムリアは上半身を抱え込まれるように抱きつかれた。
 まるで迷子の孤児(みなしご)のよう…レムリアのまず抱いた感想はそれ。真由は今まで誰にも話さず、誰にも気付かれず、一人で、あの4人と戦ってきたということ。
 荒い口調は精一杯の強がり。きつい表情も、寄せ付けまいとする雰囲気も。
 本当の真由はそんな娘ではないのだ。ただ、麻子に関しては、父を奪った“敵”に相談など出来ない、“弱い”ところなど見せられない。それに値する器にあらずという認識もあるだろう。
 レムリアは全部を受け止める。力一杯受け止める。強ばった身体が、腕の中で溶けるようにほぐれて行く。
 そのほぐれる身体を、尚一層力込めて抱き止める。
 少し、時が過ぎた。
「お前、リアルあいつらボコって来たら、どうするつもりだったんだ?」
 真由が、ぐすぐす言いながらレムリアに尋ねた。ちなみに、『本当に殴りかかって来たらどうするつもりだったのか』、の意。
「その間にあなたが逃げられればそれでいい」
 震える肩にレムリアは答えた。
「ふざけるなよ。見ず知らずのヤツに、自分のことでケガなんて…」
 真由は言い、レムリアに回した腕に力を込めた。
 息が出来ないかと思うほど抱きしめられる。
 やや暴力的ですらある。その動作と力は、レムリアの行動をありがたく感じる反面、余計な、無謀なマネをしやがってというニュアンスを含むか。確かに、物理的な暴力を目の前にした時、二人の体格差を考えれば、そう感じて当たり前であろう。真由は今、徒手空拳で拳銃に立ち向かう大馬鹿者みたいなイメージでレムリアを捉えているようである。
「実は自信があったりして」
 レムリアは明るく言った。
「武道の達人か?」
 真由は身を離した。少し尊敬の面持ち。
「ううん…」
 レムリアは首を横に振り、4名分の名前を読み上げた。
「…こいつらには、自信満々の相手にかかってくる勇気なんかないよ。だからいつも4人で固まってんじゃん」
「なんだハッタリかよ…あれ?なんでお前あいつらの名前知ってるの?教えたっけ?」
 目を円くする真由に、レムリアは手のひらを開いて見せた。
 生徒手帳が4冊。
「…あいつらの?いつの間に」
 手を握ると消える。
 真由は目も口もあんぐり。
「お前…」
「私の母は私に言った。その能力、人を救うこと以外に使う事なかれ。従わないならば腐って滅びる。だから私は、今この力を、あなたのために全力で使う」
 レムリアは真っ直ぐに真由を見た。
 真由の表情が変わってくる。テレビやマンガの世界、半分インチキ。そんなキーワードで語られる物が、たった今、眼前に、現実として立ち現れたことに対する、驚愕と畏怖。
「私が偽名を使うのはこれのせい。私がそういう者と知る人はこの国にたった一人。あなたが信じてくれるならば二人目」
 真由は声も出ない。当然であろう。超自然的な能力・現象は、超自然的であるがゆえに、今まさに目の前に見せられたとしても、にわかに信じられる物ではない。
 レムリアは真由の目を見、少し笑みを浮かべ、風に髪を任せ、彼女の結論を急かさず待った。なお、お断りしておくが、彼女の役どころは本来、友人や親、カウンセラーが“絶対の安全とこれ以上の暴力停止を保証する”という形でなされるべきものである。もちろんレムリアは決して超自然能力で安直に解決することを目してはおらず、従い当然、その能力で4人に手を加えることもない。
 ちなみにレムリアは、忽ちの対処として必要なのは眼前の暴力回避であり、そのための能力を自分は有し、ゆえに頼ってもらって良い…そういう意図を持ってカミングアウトした。
 信じてもらえるかどうかは問題ではないのだ。この問題で火急的に大事なのは、絶対的な味方がいるぞ、という意思表示であり、その信頼を得ることだ。私はカウンセラーだ、相談所の者だ、と言うのと同じである。
 真由が、高度を下げ始めた陽光に、目線をずらした。
「その、“たった一人”ってどんな人物?」
 真由が尋ねる。
「電気エンジニアの卵。お兄ちゃんみたいな存在。でも、私のことを愛してると公言して憚らない人」
 レムリアは陽光を背にハッキリと発音した。
 14の娘が口にするには、極めて大人びた台詞であると承知している。しかし言い切る必要性を感じたからそう言った。
 感じた理由を後から理解する。自分自身、そうした確固盤石たる味方がいるから、自信と心理的強さを保持しているのだ。
 そして、その味方は、他でもない今の真由に無いもの。つまりは
  
 “信じられる存在”
  
「史上最強のお節介を感じるのは気のせいか?」
 真由は目線を戻さず、しかしわずかに笑みを浮かべて言った。
 頼る、イコール子供のように甘える、という認識が真由の中にあるのだとレムリアは知った。だからそういう意思表示はしたくないのだ。
 …そもそも父親を内縁者から奪い返そうとする意志の持ち主である。他力の介入はプライドが許すまい。
「そうかもね、9千キロの彼方から押しかけてくるお節介なんてね」
 レムリアは真由の横顔に言った。そして。
「日本のマンガやアニメじゃそういうの定番みたいだね」
「でも主人公がそういう押しかけさんを信じないと物語は始まらないぜ。自分がお前を信じない、と言ったら、お前どうするんだ?」
「去ります…」
「だろうな」
「あなたを連れて」
 この付け足しに真由は目を剥いた。
「私と同じ学校に、アムステルダムのフリースクールに通えばいい。国籍も境遇もまちまちだから、いじめのきっかけに多い“自分たちと、それ以外”というカテゴライズ自体が発生しない。好きな時に学校行って、好きな科目を勉強して、時々孤児院にボランティアに行ったりして。オランダだけど、あなたの英語力なら不自由ないはず」
 レムリアはまばたきすら忘れた真由に向かって言った。
 …いじめ問題で鉄則として言われる事は幾つかあるが、そのうちの3点を今レムリアは提示している。信頼者であること、当座の暴力を回避する場所を用意すること。現行の勉学続行が不可能な場合の代替手段を確保すること。
「…本気で言ってるのか?」
 真由の問いにレムリアは頷いた。
 そして。
「私と同じ目に遭うのは、私一人でたくさんだから」
「え…」
 真由は目を見開いた。
「じゃぁお前も…」
「国の事情で、生まれついてある種の特権があった。放っておいても将来が約束されている…反感のるつぼの中に私は放り込まれた。いたたまれなくて飛び出した。そして、だからこそ私は、誰かのために生きている、という存在であろうと決めた。…だから、だから、あなたの気持ちは、判る。息が詰まるくらい判る」
 涙が出てくるのをレムリアは感じる。思い出したくもないが仕方がない。記憶は関連する内容によって呼び出されるように出来ている。
 ただその代わり、自分の涙が、真由を激しく揺さぶっていることも認識している。
「今の私には、安心できる居場所と、自分を認めてくれる絶対の存在がいる。あなたと私はスタート時点の立場は一緒。であるならば、私で可能なことは当然あなたでも可能だと私は信じる。
 私は、あなたの、力になりたい」
 風に顔を振り払って真っ直ぐに真由を見る。涙はもういい。
「お前…」
 真由の声が震える。
「自分のために、泣いて…」
「私を信じてくれるその人は、私を守る盾となり、私のために骨折し、更には大怪我を負い、その後私が怪我をしたら…その結果、私の身体の中には、その人の血が流れている」
 レムリアは自らの胸元に手のひらを当てた。端的には輸血を受けたのである。詳細は略する。
「それに比べれば私の涙なんか」
「安っぽい同情なら、口にした人間はいたけどね」
 真由は下を向き、ブランコに乗って、揺れた。
「生意気に見えたらしいんだ。英語の発音。よそ者のくせにってね」
「外国語や数学は苦手なのが普通だもんね」
「で、その下敷きには、親父がニート状態とバレた、ってのがあるわけよ。バカな担任が喋っちゃってさ。その時うろたえた態度を取った自分も悪いのかも知れないけど」
 真由の台詞を借りると長くなるので以下要約する。陶芸家宅に居候のニート状態。威張れる環境ではないので真由は担任に口止め。ところが転入生紹介の際、著名な陶芸家だからと担任は口を滑らせた。『弟子入りなんてスゲェなぁ』そんな反応を目していた、と担任は弁明した。
 ところが実際は、愚弄の対象としてニートがインターネットで話題になっていた時期であり(無論、無職という表面だけを捉えた一種のバッシングであるが)、結果として担任の“配慮”は逆に作用。良くあるパターン。
 しかも住居が割れたため、そこに“母親にしては若すぎる謎の女”の目撃が絡む。
 結果出来上がったのが。
 養ってもらっているから物乞いと同じ。
 そんな家の子だからろくな子じゃない。
 女が不自然に若いから実の親ではなく、婚外子のもらわれっ子。
 英語が堪能なのは、母親が外国人で、しかも日本に出てきて性的サービスを売り物にしていたから。
 真由はその際の“失敗作”であり、親譲りの生まれついて病気持ち。
 いかにもな設定のため、噂は既成事実化。
 典型的な“エスカレート現象”だとレムリアは判じた。それは、“気に入らない”子を、攻撃の対象として正当化・理由付けするために、その子に不利になりそうな情報をあること無いことでっち上げ、拡大解釈して吹聴するものだ。
 
 よくある“バイキン、汚い”はこの幼稚な例である。なお、この手のウソに性的な内容を含むのは近年の特徴と言えよう。性的な内容は被害者の傷つき方が尋常でないため、攻撃者のサディスティックなカタルシスをより強くする上に、被害者が恥ずかしくて口に出来ない…被害を訴えることが出来ず、陰惨を極める内容であるのに隠されやすいのである。
「お前、そういうのと違うな」
 果たして真由はレムリアを見上げ、小さな笑みを浮かべ、涙を一筋流した。
 但しその涙は悲しみを意味しない。誰にも言えなかったことを、言っても解決しないからと心の奥にしまい込んでいたことを、洗いざらい喋って少しスッキリした、ということだろう。ストレスはその理解者が存在することで少し軽減される。受け入れられたという認識を得るからだ。ちなみに、“そういうの”とは、口先だけの同情者のこと。
「…ありがとう」
 レムリアは目を伏せて言った。少なくとも、自分を味方と感じてくれた、と解釈して良さそうだ。
 すると真由はもう少し表情を緩めて。
「自分みたいなのでも認めてくれるヤツがいるなんてね。…あーあ、でも困ったぞ。月曜学校行ったら何がどうなっているやら。お前のせいだ」
 冗談めかして言ったその真意は、持ち物が荒らされたり、更にあること無いこと吹聴される、メールでばらまかれるといった心配、と、レムリアは理解した。ちなみに、そういう仕返しをされるから、尚のこと他人に言えないという事情が、この問題の背後には常時存在する。だから、盤石のバックアップが保証されない限り、被害者である子ども達は口を開かない。勇気を出してと言われてもひとりで抱え込むのはこのため。逆に言うと、そんな子達が真実を口にするかどうかは、尋ねる者を信頼しているかどうかを現すバロメータである。
「行くことないよ」
 レムリアはあっさり言った。
「わざわざ傷つけられに行く必要なんかない。極端な話、勉強なんて後からどうにでもなる。現に金曜の昼下がりに9千キロの彼方でのんきに焼き物探している大タワケがここにいるわけで。必要なら私からお父様と…」
「あの女には何も言うな!」
 真由は突如きつい口調でレムリアの声を遮った。
 その声音はナイフさながら。それも肉を骨からそぎ落とす、狩猟用の荒さ鋭さ。
「あいつに母親面なんか…」
「判った。じゃぁ黙っておきましょう。でもお父様にはご了解を得ないと。学校から問い合わせが来た時に、お父様自身の答えがない」
「親父か…」
 真由は空を見上げてため息をついた。
 その所作は、“頼りにならん”という意味であろう。今の彼女の父親は、彼女の理想とズレているのだ。
 ズレの背後に、脱サラや麻子の存在があることは言うまでもあるまい。なお、彼女は当然、父親にも心を開いていないと見て良い。自分の経験上、娘のピンチを知った父親というのは、我が身そのものを盾とした野獣だからだ。
「いっそのこと姿消す?」
 レムリアは提案した。父親に言うのも乗り気でないならそれしかない。
「お前のセリフっていちいち突拍子もないな」
 真由は苦笑。レムリアは微笑み返しで、
「偽名を操る怪しい少女ですので。普通の女の子とは少々異なる選択肢もご用意できますのですよ」
「オランダ行くのか?」
「とは、限らない」
「なんだそりゃ」
「密かな家出をするなら、警察が尋ねそうなところは避ける必要がございます。どこかに隠れるの類はその点で最悪。スパイはいつまでも同じ場所にはいません」
「…なんかマジでアニメかマンガの世界になってきたな」
「その方面では私のようなのが現れたら、ヒロインは幸せになって大団円というのが予定調和」
 レムリアは笑って見せた。
 真由は力が抜けたようにフッと笑った。
「イマイチ信じられないけど…絵空事の割には具体的すぎるし…とりあえずお前のおかげで気が楽になったのは確かだよ。ありがとう」
「よかった!」
 ならまずは結構なことである。レムリアは両の手を合わせてパチンと鳴らした。
 これは安堵や納得の際に彼女が良く見せる仕草である。その動作が可愛く見えたか、それとも幼く見えたか、真由は少し驚いた風な、しかし柔らかな表情を見せた。
 当座の問題は回避した。レムリアは判断した。しかしそれは、この後長いであろう解決への道の第一歩に過ぎない。
「一旦帰らない?探しに来られるのもまたちょっと、でしょ?こういうのは平静を装わないと悟られる」
 レムリアは言った。知ってもらう必要があるのに、隠すような行動を取るのは不思議というか妙だが、物事タイミングが肝心、その点で今は時期尚早。親の方が対応出来る状況とは思えない。
「そうだな」
 二人は歩き出した。 
  
 工房に戻ると、布団の主は、半身を起こして娘達を迎えた。
「遅くなりまして」
 レムリアはスポーツドリンク、及びドラッグストアの袋を片手に、布団の傍らへ。
 一方真由は一言も発せず、陶芸家が出入りしたのと同じ引き戸から奥へ。
「あ、真由ちゃ…」
 呼びかけようとする麻子を、レムリアはその肩に手を載せ制した。
「彼女と少し話し込みました。今は一人に」
「え?」
 問い返す麻子。レムリアは肩を持った手に力を込める。
「そう…。うん、判った」
 制止の理由が“女の子同士の間の合意に基づく”…さすがの麻子も悟ったようだ。
 その間、主は布団でスポーツドリンクをぐびぐび煽り、飲み干した。まるで知らぬ存ぜぬと言ったそぶり。
「お嬢さん」
 空いた容器のキャップを閉めながら、レムリアを呼ぶ。
「はい」
「その、私の作品を見て頂けたとか」
 小さな笑顔。
 ああこりゃだめだ…その発言でまずレムリアが抱いた感想がそれ。
 同時に真由の失望を理解する。そして思い出した言葉がこれ。
『“おたく”っては、のめり込むと周りへの気配りが出来なくなって礼節を欠くし、自分がどう見られていようと気にしない。だから他人には失礼に映るし、所作はキモくなる。生来独りよがりの人は尚ひどい』
 …これはその唯一の理解者。東京の知り合いが、自らを“おたく”と公言してでの自己分析である。
 この父親の心理状態はこれに近いのだとレムリアは理解した。陶芸…更に言うとその集合展示会…であろう、出品作品の出来映えについて師匠の合格をもらう。ただその一点のみに必死なのだ。
 畢竟、子供のことには疎くなり、その発言は口先ばかりの“おざなりのなおざり”になりやすい。すなわち生返事と一緒であって、子供は当然、その発言の底浅さにすぐ気付く。結果出来上がるのは“こんな親父”というレッテルと、伴う子供社会における“あんな親父”という引け目の意識。
 要するに“恥ずかしい父親”“こんなのお父さんじゃない”という認識が、真由を無意識に萎縮させているのだ。見知らぬ土地で唯一の身内、本来存在すべき“信じられる存在”が、この体たらくではさもあろう。なおここで、一般に“いじめ”の端緒として、“弱そう或いは自信なさそうに思えた”、が多いことに注意されたい。そして、彼女は彼女なりにその諸悪の根源が麻子にあると断じ、引きはがそうと爪を立てたわけだ。
 父親が父親、真由も真由。そしてこの麻子なる女性も、自身が真由に関わろうとするほど、彼女の反発を強めることに気付いていない。大体、“引き剥がす”宣言に対し、理解してもらうという発言をしていない辺り、事態の深刻さに対する自覚がないことを意味する。裏を返せば子供の心理を理解しておらず、その理由のひとつには、“子育て未経験”があるのだろう。…きついもの言いではあるが。
 で、麻子のしていることはとどのつまり、下手に出てご機嫌を取ろうという、やはりうわべだけの行動だ。真由と和解するのではなく、既成事実を積み重ねればやがて納得せざるを得ないだろう…という腹づもりなのであろうか。いや、ひょっとしたらヘタなドラマみたいに無意識裡に張り合っている?
「最悪ですね」
 かくてレムリアは、父親の問いに対し稲妻の一撃を見舞い、額のソフラチュールを一瞬の躊躇も無くベリッと引っぺがした。
「あうっ!」
 痛そうに額を抑える父親の手をのけ、帰りがけにドラッグストアで買ってきた、保湿タイプ絆創膏に張り替える。多少の再出血を認めるが大したことはないし、それは言ってみればソフラチュールの“副作用”。余談になるが、実はソフラチュールというのは、封を切ってすぐは、傷に当てる面が“ぷるぷる・ぺたぺた”しており、患部に優しく接触する。しかし、だからって貼ったままにしておくと、ベリッと剥がれたことで判るように、乾いてガリガリになり、ガーゼの繊維が傷口の組織にからみつく。このため、剥がす時にムチャクチャ痛いという困った性質を持つ。
 だったら、保湿タイプの医療業務用を最初から持ち歩けば良い。となるのだが、ボランティアしてるからと厚意で分けてもらっている身には、高価な保湿シートを下さいとはとても言えないのである。なお、彼女のウェストポーチの中には、この他に包帯と三角巾、“マキロン”、サロメチールあたりが応急処置アイテムとして入れてある。
 残ったソフラチュールをゴムバンドで封じ、ポーチに戻す。
「な…」
 果たして、突拍子もないほど辛辣な台詞に、不倫の二人は瞠目して絶句した。
 絶句ついでにイカズチもう一つ。
「私、工房で直売頂けるなら購入しようと思っておりましたが、見せて頂いたのがあなた様の最高の作品だというなら、失礼ながらお断り致します。買うどころか、札束付けてもらってくれと言われてもイヤです」
 さぁどう出る。怒る?それとも落胆する?
 ちなみに、レムリアは“ダメ男はつっぱねて鍛えろ”と、その東京の知り合いの母親から伝授?教育?されている。それを発揮した故は、書いたような状況から、諸悪の根源父親にありと判断したため。お前が自信を持って立派な作品を製作し、あわよくばこの工房の跡継ぎとして認められでもすれば、全員が心理的に立脚できる屋台骨が建つのだ。
「あ…あなたねぇ!」
 先にトサカに来たのは麻子の方。
「確かに助けて頂きましたよ。でもだからって幾ら何でも失礼じゃなくて?」
「しろとは言いませんが、礼も言わず私の作品ドデスカと問う方もどうかしてると思いますけどね。ましてや自分の娘が帰宅したのに無視ですか。彼女息が弾んでましたよね。それって麻子さんの連絡に慌てて戻ったってことですよね。親子とて礼節はあるはず。それなのに娘がアクセスしないからってだんまりっていうのは、保護者の姿勢として如何なものかと」
 イヤな小娘だなぁと自覚しつつ。しかし子どもの立場として筋は通っているはず。
「そうだな」
 ポソッと、呟くように言ったのは、父親の方。
 意外、と書くべきであろうか、老いたように上半身を丸め、布団の上に投げ出した手指を組む。
 この動きは麻子の怒気を奪い取ったようである。表情から諦念を感じ取ったとしても仕方あるまい。疲労の蓄積もあろうが、その位、父親の顔は憔悴と落胆に彩られている。
「あなたの言う通りだ…申し訳ない。まずは、助けて頂いてどうもありがとう。それから、娘を連れ帰ってくれたようで」
「あなたが心配でとりあえずそばにいよう、というだけかも知れませんけどね」
 レムリアは真由の今後の行動に対して伏線を張った。
 無論、その犯人は恐らく自分になるだろうという確信犯だが。
「シャンとしなさいよ」
 虚空を見つめる男の横顔に罵声を叩きつける。さながら叱りつける母親である。
 父親はハッとしたように身体をびくりと震わせ、レムリアを見た。
「あなたの頭の中は陶芸でいっぱい。子を守るべき親であるはずのあなたが、子供に学業以外の心配や心理的負担を背負わせてどうするんですか」
 この台詞には、言外に麻子に対する嫌味も含む。親がくっついたり離れたりするなど、子供にとって最悪の環境であるというのがレムリアの信念。
 大人の都合を押しつけるなど、“大人”のすることではない。
 と、背後で引き戸が開く。開く速度と力感から真由ではない。
 窯の主。
「先生…」
 布団の主は、レムリアの背後に立つ老師の顔に目を向けた。
 レムリアは主導権を老師に渡した。声を荒げたやりとりに立ち上がったと判ったからだ。
「お前の作品にはお前の意気込みを感じないのだよ」
 父親は目をそらした。
「その萎縮の理由を考えたことがあるか」
 娘をドタバタに巻き込んだという引け目。それがレムリアが把握している問いの答え。更には、作陶が理解を得ての活動ではないから。
 要は全身全霊で打ち込める状況にないのだ。一般に創作・芸術に雑念が混入すると、作品には魂が入らない。
 最も、この男性の場合、それだけではないのだが。
「整える技術は持っている。それは認める。だがその技術を駆使するココが、なっておらん」
 老師は“ココ”と、自らの胸板を叩いた。そして。
「空っぽの心で作った作品に魂は宿らない」
 言い捨て、去った。
 引き戸が閉まるのを見届け、父親がため息。
 まずい、とレムリアは思った。老師は恐らく原因を内省で突き止め、再度前を見よ、と鼓舞するつもりで言ったのだろうが。
 言葉と流れだけ取れば、見知らぬ娘との連続攻撃…父親は自らに打たれた烙印、と受け取ったようだ。
 これでは逆効果。そしてこの受け取り方…悪い方に考える…は、鬱傾向の兆候。
 要は心がすり減ってしまっている。
「集合展はいつですか?」
 レムリアは声音を明るくして尋ねた。
「次の木曜…です。それまでに先生に作品を認めて頂けない場合、私たちはここにいられなくなります」
 父親はしゃがれた声で言った。小娘相手に敬語なのは、自信喪失の表れ。そして、いられないというのは、先の麻子と老師とのやりとりを考え合わせると、集合展に出せないなら、居候ならず追い出す、というようなことだろう。
「一旦、離れません?創作から」
 これに再び麻子が鋭く反応した。
「あなた何様のつもりで…」
「思い詰めすぎなんです。それから私ひどいこと言いましたがその正体、『これだったら合格って言ってもらえるかな?』と思いながら作ってませんか?」
 レムリアは言った。自分が“それだけではない”と感じた中身はこれである。
 にしても自分は小悪魔だとつくづく思う。突き落としておいて蜘蛛の糸を垂らす…似たようなことを釈迦がしているが、自分の場合は間違いなく悪魔だ。
 父親はオジギソウが首をもたげるような緩慢な動きで、ゆっくりとレムリアに目を向けた。
「おっしゃる通りです」
「それがあなたの意志の反映だとは私には思えません。だから、“よくできてるけど、それだけ”なんです」
 ここまで言って、ようやく、麻子が瞠目を見せた。やっと小娘の真意が判ったのだ。
 赤くなってうつむく。そして立ち上がり。
「あのあたし晩のお買い物に…」
「いや、いい」
 父親は麻子を制した。
「え?」
「この彼女の言う通りかも知れない。私はあまりにも視野が狭くなりすぎた…。お嬢さん。助けて頂いたお礼だ。そこの空港においしいエビフライを出す店があるんだが、食べに行かないかな。真由を連れ戻してくれたのも彼女のおかげだろう。みんなで行こうじゃないか」
 レムリアは手をパチンと鳴らして笑顔を作った。
「それ真由ちゃん喜びますよ。私呼んできますね」
 場を立ち、彼女や老師が出入りした引き戸を開く。
 渡り廊下。工房は離れの建屋ということか。
 引き戸を閉める。途端にひんやりした空気の動きが止まり、時間までもが止まっているよう。土壁に木の屋根という古い作りであり、はめ込まれた木枠の窓は、ガラスに歪みがある。風が吹くとガタガタとお喋り。
 歩く。今度は床がギシギシ鳴った。
 行く手、本宅のふすまが開く。顔を出したのは真由。
 厳しい目線だったが、レムリアと判るや一転、笑顔になる。
「お前か」
 真由の背後から老師も顔を出した。
 一緒にいたということだろう。何か真由が相談でも持ちかけたか。
「お前、すごいんだってな」
 真由はいきなり言った。
「え?」
「いきなり見抜いたって。お前の言動によっては親父が変わるんじゃないかと」
「いや申し訳ない勝手に話して」
 老師は笑みを見せた。
「まぁ、こっちへおいでくださらんか。是非あなたに見てもらいたいものがある」
 招かれてその部屋に入ると和室。
 床の間に壷。傾(かし)いでおり、入れ口の部分がむくれた唇のようにめくれている。
 ハッとする感情が芽生え、思わず目を見開く。驚愕や強い痛覚のそれに似て、熱いものが身体を上から下へと走る。
 その表面はつや消しの金…銀に見えることもある。但し金属的ではなく渋い色合いであり、若干アバタを見せる。輝いていない月面とでも表すればよいか。どっしりした形態は古いが重厚であり、さながら土が自ら壷の体をなしたとでも言おうか、素朴だが存在感たっぷり。
 それは芸術性を念頭に置いたというより
「この土の荒くれぶりを壷という形となすならばこれがふさわしいのではないか」
 思うまま口にする。それは壷から得たレムリアの印象。無意識にサイコメトリを使ったのかも知れない。
「古いですね」
「ああ、存分にな。どうかね真由ちゃん」
 その台詞で、レムリアは、老師が自分の鑑定眼のことを“すごい”と言っているのだと判じた。
 少し恥ずかしい。なぜならそれは経験と知識に基づくものではなく、半分は超能力。
「お前マジすごいな」
 レムリアは苦笑するだけ。
「本物は心に直接届くということだよ」
 老師は言い、壷を手にした。
 コンと指の背で叩く。硬質な音は高密度である証拠。しかも、単に高密度というだけではなく、それが均一でなければ、焼く時に膨張力の集中を招き、割れる。
 つまり土台である土の準備、形作る腕、どちらも非常に精度の高さが求められる。
「1000年前だ。なのに我々はこれを越えるものを作れているだろうか」
「文様や形象は代を重ねると抽象化する」
 それは知識ではなくポッと浮かんだ言葉。
 言ってから納得する。“文字”というのは、そもそもそういう形象が線刻という形で抽象化したもの。
 ちなみに、レムリアは12カ国語を操ると書いたが、その課程である程度、文字・言語の成り立ち、系統体系について学習している。浮かんだ言葉は、その際に知識というより感覚的に掴んだ内容だ。壷はそれを具象化したようなものであり、ゆえに連想されポッと出たのであろう。なお、この若さでそれだけの言語を喋れるかという疑問がわく方もあろうが、希ではあるが事実存在する。最も有名な名を挙げれば、それこそ形象の文字であるヒエログリフを解読したシャンポリオンがいる。
「…どういう意味?」
 真由が問うた。
「例えば漢字。あれは元々ある状態を表した絵でしょう?」
「うん」
「ところが毎度丁寧に書いていられないから、だんだん殴り書きになっていって、省略されていって、本質部分だけを残した“それっぽい形”に落ち着いたわけ。それが漢字」
「ああ、で、今度はその漢字自体が殴り書きされて落ち着いたのがひらがな…」
「そう。で、この手の道具にそれを当てはめた時、人間工学的、かつ、美観的に納得できる形に最終的に落ち着くはず。しかもそこで重要なことは、人間工学的に素晴らしいものは形も美しいものが多いと言うこと。人間は道具に本質的に無意識的にそれを求めるから、美しいだけを追求すると“ただ綺麗なだけ”に陥りやすい。だから道具としての本質を失ったものは愛着や感動を呼ばない」
 浮かび上がる思いをレムリアはそのまま言語に変換して口にした。
 真由が唖然とし、目と口をあんぐりと開く。
「とか思ったんですが」
 レムリアは老師の目を見た。
「これは参ったなぁ」
 老師は白髪の頭部をポリポリ掻いて苦笑した。
「私が語るもおこがましいが、常滑の本来はこの壷のような、大型で本当に実用的な入れ物の製造にあった。お経を収める3本の横筋が入った三筋壷(さんきんこ)という壷…まぁ形はこいつに似ているかな?があるが、これは殆ど常滑の独壇場でな。九州から東北地方にまで流通していたことが判っている。その点でこのお嬢さんの言う要するに機能美が評価されていた、ということだろう。である以上、時代が下り、凝った装飾やら芸術性が求められるようになっても、常滑は常滑であって良いし、それにはそこを外すべきではないはず。それこそお嬢さんの言う“本質”が失われてはならない。その点で真由ちゃん、君のお父さんは、名工の作品の持つそうした流転原点をふまえての結果と言うより、上っ面の形態色合いばかりを見過ぎの傾向があるのだよ」
「…お前、親父の作品を一見しただけでそれだけのことを?」
 レムリアは首を横に振った。
「お父様は川俣先生のOKを得よう。そこに意識が向きすぎていて、結果として、見てきた作品のコピーを無意識に作ってしまっている。“良い”と言われるモノと同じものを作れば、“良い”と思ってもらえるという、ちょっと幼い情動なんだけれど、せっぱ詰まった心理状態がそうさせている、と思ったわけ。そしてそういう行動に出てしまう根本は、パッと見の“綺麗さ”に囚われている証拠。
 だから…実はこれを伝えに来たんだけど、少しの間陶工から離れてみては?って。そしたら、空港にエビフライ食べに行こうっておっしゃったから真由ちゃん呼びに来たの」
「親父が?」
 意外、という真由の表情。
「ああ、行っておいで。その方がいい」
 老師が目を細める。
「あいつも?」
 対し真由は眉根を曇らせて尋ねる。麻子も来るのか。
「気持ちは判るけど押さえて。あなたにとってお父様が唯一の身内であるように、お父様にとっても真に血のつながりを持っているのはあなただけなんだから。血のつながりこれ最強。ちょこっと協力。ね?行こ?」
 レムリアがウィンクして手を引っ張ると、真由は特段拒否する反応は見せない。

 


  
 とはいえ、麻子がいる前では、真由が心に壁を作るせいだろう。打ち解ける・和む系の雰囲気は望めなかった。電車を待つ海風のプラットホームで、ぎこちなく固い、沈黙の時間が過ぎて行く。頬を叩く晩秋の海風は冷たさを強調しこそすれ、逆はない。
 この状況良くはない。レムリアは話題はないかと考えた。見回すと、少し離れた所に著名なタイル工場。
「あの会社タイルで有名ですよね。ここが本拠なんですか?」
 レムリアは口にしてみた。
「ああ、この町で育った世界企業さ」
 父親が応じた。
 その目が輝く。好きなのだろう。しかも技術肌だとレムリアは感じた。東京の知り合いはエンジニアのタマゴな訳だが、同じ気配をこの父親にも感じる。
 だったら。
「タイルも陶器ですもんね。でもよく考えるとすごいですよね。数万、数百万単位の焼き物で質のバラツキがないって」
 この質問を発した根拠は、タマゴの彼のタマゴのゆえんが新入社員の研修生であり、製造ラインの実習について“一定のクオリティでモノを作るのは難しい”とぼやいていたからだ。
 自己満足でこと足りる趣味の1発製作と、安定して供給し続ける量産品では、おのずからアプローチが異なる。
 するとレムリアの発言に、父親はほう、という顔をして見せた。意表をついた言葉だったらしく、少しのけぞったようにも見えた。
 そして。
「実は日本の大量生産技術の一つの原点がこの町なのだよ」
「え?そうなんですか?」
 自動車、エレクトロニクスを始めとする日本の工業製品。
 その質的下支えの出発点が、この町のしかもタイル?
「そうだ…」
 父親は説明を始めたが、口語体ではまだるこしいので要約する。タイルも窯で焼く。窯で焼く以上、熱源とタイルとの距離はタイル個々で異なり、結果タイルの出来具合にムラが出来る。悩んだメーカは、窯の温度ムラをなくそうとするのではなく、温度に多少差違があっても同じ質で出来るように、タイルの原料の方、すなわち土をはじめとする原料の成分比を変えた。そしてその発想は、“部品や作業者のバラツキに寄らず、一定以上の品質を確保する”方向へと発展し、今日の高品質・大量生産技術の確立につながった。
 実験計画法…田口メソッド…伊奈のルール…ロバストネス…。
 父親の口からは技術・学術用語が踊り、電車が海の上、高架橋を走り始めてからも続き、その口調は熱を帯びた。そもそも大学以上で学習する内容でもあり、技術に興味を持たないレムリアには、理解までは至らない。しかし、薄い笑みさえ感じられる父親の姿は自信に満ち、そして楽しそうであった。その姿は以前、自分用にと、太陽電池から携帯電話へ充電できる装置を作ってくれた、タマゴの彼に似ていた。
 そして、そんな父親の姿は真由の目の色を変えた。
Robustness…頑健性?」
 ロバストネスの意味を捉えて、真由が訊いた。
 タイルの頑健性…ただでさえ固いのにそれ以上何を求めるのか。普通、言葉を聞いただけでは理解不能であろう。
「ああ、頑丈なタイルを作るって意味じゃないんだ。与えられる条件が多少変わっても、その条件に左右されるようなヤワなものじゃないって意味…」
 父親はそこで言葉をちぎった。
 書くまでもあるまい。心理的頑健性こそ、今この父に、己れに求められている課題そのものである、と気付いたのだ。
 同じ事は真由にも言えるだろう。ただ、彼女は頭では理解しているが。心が追いついていない。単純に言えば彼女の受けている陰湿な暴力は、彼女の英語能力をやっかんだ連中の嫌がらせである。連中は彼女が傷つく、困る、恥を掻く、といった状態を面白がっているのであるから、受け流す…“華麗にスルー”すれば良いことは判っている。大方のオトナもそう言うであろう。しかし、アイデンティティ確立期にあり、ひとりの『人間』としての地位保全(“誰かの子ども”ではなくなること)に、極めて敏感な心にとって、それは原理的に不可能だ。“悪評”であればあるほど敏感に、勝手に、自分の心であるのに意に反してと言えるほどに、反応し、傷ついてしまう。この問題に際した大人が『そこまで思い詰めてるとは思わなかった』とこぼすことが多いのは、こうした、大人と子どもとの認識の違いに基づく。
「父さん?」
 黙り込んだ父親に真由が尋ねた。
「ん?ああ、いや、何でもない。ちょっと昔のことを思い出しただけさ」
 父親は小さく笑った。
 初めてこの男性の笑顔を見た、とレムリアは感じた。笑ったことそのものはあるかも知れないが、“心の喜び”の表現として、笑顔を見せたのは初めてではあるまいか。
 そして、その小さな笑みは、真由の口元も緩ませた。
 笑みを交わす父娘。
 レムリアは安堵を覚えた。だが同時に、傍らでひとり疎外感を持っている存在にも気付く。
 確かに今、“真の家族”である二人に対し、そこに入り込もうとしている者にとって、排他的な風圧を感じてもおかしくはない。
 ましてや、レムリア自身はあっさり双方に受け入れられているのだ。
 こうなると今度はこっちの方が可哀想な気がしてくる。人の気持ちとは、かくも難しき。
 かといって、この若い女にネタを振るとわざとらしくなり、余計に彼女を孤立させる結果になろう。よくある『この子も仲間に入れてあげて』というヤツだ。あのセリフは当該の子供に“お前仲間外れだね”と言外に認識を迫っているに等しい。
 父が娘に説明をしている間に電車が速度を落とし、ガタガタと転轍線路を渡ってホームに入る。
 終着駅、中部国際空港。
 ドアが開いて乗客が吐き出される。平日の夕刻故か、スーツ姿のビジネスマンが目に付くが、歩く速度が彼らと異なるアベックや、お喋りに忙しい女性同士も目に付く。この空港はアミューズメントの側面も持っており、中のレストラン街が目当ての人もかなり多いのだ。
「あの、私、先行って並んでますね」
 麻子はいたたまれない気持ちになったか、電車を降りるや走り出した。
 父親は見送るが、真由は見ようとしない。
「真由」
 父親が呼んだ。
「ん?」
「お前…」
「あの女のことなら何も訊かないでね。折角食べに出たんだから」
「申し訳ないな…」
 父の言に真由は立ち止まって見上げた。
「え?」
「お前の気持ちを無視して。最悪の親父だよオレは。許してくれとは言わないし、彼女を受け入れろとも言わない。ただ…」
「いいよ判ってるよ。邪魔はしないよ。あ、先行って。この看護婦お嬢に土産物探すから」
 真由は言うなり、レムリアの手を引っ張って走り出した。
 …自分と話したいことがあるのだ、とレムリアはすぐに気付いた。
 空港グッズのショップ。
「ごめんないきなり。ちょっと二人きりになりたかった」
「いいよ。んで?」
「親父が謝った。びっくりした」
 真由は空港のイメージキャラクター“フー”のぬいぐるみで“バンザイ”の形を作った。
 諸手を挙げてしまうほど驚いた、と言うことか。
「それはお父様が、あなたのことを、“親の言うことを聞くべき子供”じゃなく、大事なひとりの家族、人間として再認識したってことでしょ。お気付きになったんだよ。振り回されたあなたが深く傷ついていることに。ようやく、ではあるけどね」
「…なるほど」
「で、どうにかしなきゃ、諸悪ことの始めは自分の勝手わがままだから、ケリを付けなきゃって思ったんじゃないのかな」
「でも、それって私にあいつを受け入れろってことだろ?」
 真由はフーにうつむかせ、“がっかり”させた。
「そうじゃないかもよ?」
 レムリアは言ってみた。今しがた父親が口を開いた時もそうだが、麻子に関して、真由の反応はいつもそこに向かい、直ちに激しく拒絶する。その自己確立を乱すがゆえに。このため、そもそもまともに話が始まらないのだ。
「そうじゃない?そうじゃないってことは…」
 果たして、真由は違った反応を見せた。
 が、それ以上、そこで話すことは出来なかった。
 エビフライの順番が回ってきたのではない。幼い泣き声が二人の耳を捉えたからだ。
「mother, mother, where?」
 しゃくり上げながら、涙ボロボロの顔で、ショップを右往左往する金髪碧眼の男の子。
 以下日本語で記述する。カッコ書きは、英語より訳したことを示す。
「(どうしたのボク?)」
 真由が問うた。碧眼の男の子は弾けるゴムのように真由を見、
「(お母さんがいなくなっちゃった。おかあさんが)」
 迷子である。この男の子が、行き交う誰からも声を掛けられなかった。というより、誰も声を掛けることができなかった、と容易に想像が付く。
 言葉の壁のゆえに。
「どうしようか。空港のスタッフに。…でも引き渡して、じゃあそゆことで、ってのもなぁ」
 真由は男の子の涙をハンカチでぬぐいながら言った。確かに、言葉も通じぬ異境の地でたらい回しにされるほど、心細いことはあるまい。
 何とかして男の子を笑わせようとする真由。その姿にレムリアは気付く。この彼女には今、人に優しくなれる余裕が出てきている。
 そして、それが恐らく本来の彼女の姿であり、そうやって逆に優しいから、相手の気持ちを慮るから、そういうものを持ち合わせない相手がつけ込んで来るのだ。
 そういうことなら。
 レムリアは真由の手をぐいっと引っ張った。
「(握って)」
「へ?」
 何を唐突に、そんな顔をしながらも、真由は引かれた自らの左手で、拳を作った。
「(開いて)」
「はぁ。お?」
 開いた手のひらにあめ玉。
「これってさっきの生徒手帳と同じ…」
「sorcery(魔法)」
 レムリアはあえてそう言った。
 このフレーズには男の子の方が敏感に反応した。しゃくり上げながらも目を見開く。真由は出てきたあめ玉を男の子にあげた。
 男の子があめを口に放り込んだところで、童謡の“ふしぎなポケット”のメロディに乗せ、3人の衣服各所のポケットをポンと叩いては、歌詞の通りにビスケットを取り出す。歌詞は真由が即興で英語化した。
 出てきたビスケットを男の子の手のひらに積み上げる。碧眼が輝きを帯びて夏空の色となり、感嘆の言葉が次々に飛び出す。
 これは人目を引いた。この空港ではイベントコーナーで様々な催しを行うが、行き交う人々はその一種と思ったらしい。
 あっという間に人だかり。
「お母様がいらっしゃる」
「え?」
 レムリアは出したビスケットを、今度は一枚ずつ消しながら言った。衆目から上がる感嘆の声。
 その衆目を真由が見回し、金髪の女性を見つけ出したと判る。
「男の子の名前はジョージ」
 レムリアは伝える。真由が確認を取り、その通りと判明する。
 頃合い。
「(最後の大手品。ワン・ツー・スリー)」
 レムリアが指をパチンと鳴らし、指差すように、人だかりに向け手を伸ばす。すると、人だかりは何か出すとでも思ったか、さっと左右に別れた。
 その向こう、眼鏡を掛け、涙でぐしゃぐしゃの欧州系の女性。
「ママ!」
「(ずいぶん探したのよ!)」
 泣きながら抱き合う親子。その姿に拍手がわき起こり、二人は群衆に会釈。問いかける人には、男の子が迷子だったので…と説明。
「お前すげーな」
 真由が言い、次いで母親が男の子を抱き上げ、二人の元へ。
「(二人に遊んでもらったと聞きました。親切にどうも)」
「(いいえ、お気を付けて良い旅を。はいボクどうぞ)」
 レムリアは消したビスケットを今度は袋詰めにして出現させ、男の子に持たせた。
「サンキュー!」
 男の子が手を振り、母親と去って行く。
 余興終わり。二人は男の子に手を振って見送った。その様子に、集まっていた人々も自然解散。
 残った男性が一名。
 真由の父親。
 人だかりの中心が自分の娘達と知ったか、あっけにとられたように少女二人を見つめる。
「…その、そろそろだが」
「あ、はい、行きます」
 父親の後について、エスカレータで上のフロアへ。
「何が行われ…」
「ああこの子すごいよ。魔法みたいな手品をする」
 真由が弾む声で説明する。
「…英語が初めて役に立った。今までろくな事なかったのに」
 真由は言葉尻にそう付け足した。
「そうか」
 しかし父親はこう言っただけ。…男性は一般に女性の“それとなく・思わせぶり”な系統の発言に対して鈍感である。“これなら判るだろう”と女性が思ったことでも、男性側はカケラも理解していないことが多い。ただもちろん、レムリアは真由のわずかな心理の変化にしっかり気付いている。
 閉じこめていた思いを、ほんの少し口にしてみた、真由の気持ちに。
 そして、父の無理解の壁のゆえに、再び少し後ろ向きにベクトルを返したのも判っている。…でもそれは真由がうつむく必要のない、男性特有の鈍感さのゆえ。
 だから、レムリアは真由の顔は見ず、ただそっと手を握る。
 真由は別段振り払おうともしない。ふたり手をつないで父親の後に付き、エスカレータを上がる。セントレア
 レストランフロア。
 その賑やかしさと人の密度は思わず身がのけぞるほど。心持ち温度も高いようだ。加えて、フロアの設計モチーフは狭い路地の両側に店が建ち並ぶ…そんな昭和な町並み。時間的にどこの店にも行列が出来ている上、通路の狭さも手伝って、混雑感は相当なもの。行列を避けるためか、右往左往している人を見ると、飛ぶ前に食事したい人がちゃんと食べられるのか、余計な心配もしたくなる(店によっては搭乗客優先コーナーがある)。
 人混みをかき分け、エビフライで知られるその店へ。麻子は先頭から3番目の位置にいた。
 ふたりは、どちらからともなく握りあった手を離す。
 途端に空気が張りつめる。会話という雰囲気ではない。
 ぎこちない時間を避けるため、のっけから手品。となりが男の子を連れた家族連れで、いかにも待ち疲れた表情、ということもある。こんな場面にと東京に頼んで買いそろえてもらったミニカーを出したり消したり。
 1台あげる。男の子は大喜び。両親はペコペコ。
「不思議だ」
 真由はレムリアの手を取って見つめた。つないでいた手のひらに、数秒後にはパトカーが現れたのだ。“特殊能力”と言われてはいるが、実際の所どうなの?とは誰もが思うもの。
「本当に魔法だったり」
「企業秘密」
 レムリアは舌を出し、“手のひらを返し”、そして元に戻した。
 そこにはミサンガ。
 レムリアは真由の手首に結びつける。…レムリアの取っている行動や動作が、いちいち“女の子っぽい”ことに、注意すべきであるかも知れない。
「おそろい」
 レムリアは自分の手首に巻いたミサンガを彼女に見せた。
「いつの間…もういいよ。訊かねー」
 真由は怒ったように膨れて、ぷいっと顔を背けた。もちろんふざけて、である。
 男の子がレムリアを見て笑う。ミニカーを自分の腕に走らせる。
「…どこに行っても、いつ行っても、傷ついているのは子供達」
 レムリアは、楽しそうな男の子を見ながら言った。
「え?」
「戦乱、疫病、天変地異…泣いているのは、真っ先に犠牲になるのは、子供達。大人は子供を守ると言っても、極限状態に追い込まれれば、大事なのは自分の命。残されて怯えているのはいつも子供。だからわたしは、子供達にまず笑ってほしくて、こんなことを始めた」
「European free will medical care mission」
 敢えて英語で言ったようである。真由の言にレムリアは頷いた。
 何故英語で言ったか。…真由がレムリアのトップシークレットと判断し、麻子に知られたくないと思ったから。
 何故麻子に知られたくないのか。レムリアを仲間と捉えたが故に、麻子から離そうとした無意識の情動。
 麻子が耳を欹てているのを感じる。英語で言ったことに秘密を感じたのだろう。現状、レムリアの存在は、大黒柱が歪んでいびつに傾いた、“一つ屋根の下”に打ち込まれた楔と言える。そして、それぞれがそれぞれの思惑で、楔の位置や深さをコントロールしようとしている。
 ただ、その楔が極めて自立的に、しかも予想外に動くことに、まだ誰も気付いていない。
 順番が回ってきた。
「どうぞ」
 のれん越しに、店のおばさんに誘われ、席に陣取る。
 4人がけのテーブルに、父と麻子が隣同士。レムリアと真由が隣同士で、父の正面が真由。麻子の正面がレムリア。
 メニューを開く。隣近所のテーブルのエビを見るや、かなりのサイズ。
 真由は2匹食べると言うが。
「3匹をふたりで分けません?」
 レムリアは麻子に提案した。
「え?ええ、いいけど…」
 突然声を掛けられ、麻子が目を円くする。ここでレムリアが彼女に話を振った理由は簡単。今ならこの“浮いた”女に、不自然でなく話しかけられるからだ。
 現状、この二人に性急な相互理解を迫っても磁石の反発。さりとてどちらか孤立させれば、暴走か爆発のタネ。
 誰が正しいとか悪いとか、糾弾して解決する問題ではない。
 注文完了。
「不思議な子ね。あなた」
 声を掛けられて安堵したか、そして気を良くしたか、目を輝かせて麻子が尋ねた。
「よく言われます。でも普通と言われるよりは印象強い方がいいだろうと自分を慰めてます」
 この手のネタには軽く冗談を交ぜ、深刻に感じさせないのがレムリアの流儀。
 大体、めたくそにけなされるか、ベタベタに褒められるか、どっちかだからだ。
 どっちに話が振れても、回答に困る。
「不思議、本当に不思議。外国の人にはとても見えない」
「恐れ入ります。おかげさまで、ハナから寄ってこないか、深く理解して下さる魂の味方か、私の周囲はそのどっちかです」
 レムリアはテーブル下で真由の手を握った。
 真由は麻子から視線を外したまま、しかし手は握って返した。雰囲気作りというレムリアの意図を解しているのであろう。
 麻子は感心、或いは意外、といったニュアンスの笑みが浮かべた。
「魂の味方!…カッコイイというか、失礼だけどその年齢で飛び出すセリフじゃないみたい」
「付き合う相手に年上が多いもので。すっかり耳年増になりました」
「あら年上の彼氏がいるの?」
 そーじゃねーだろ。
 だが、“間”は持つのでネタには応じる。エビフライはまだですか?
「従兄のに〜ちゃんみたいな人はいますけどね。彼氏かってぇと…あはは」
 言うまでもなく東京の知り合いである。ちなみにセリフは誇張でも何でもなく、素直な気持ち。
「でも、“魂の味方”なんでしょ」
 輝く瞳で覗き込んでくる。
 麻子はミステリー系のドラマの見過ぎではないかとレムリアはふと思った。“探偵じみた才能を発揮するOL・雑誌記者”ってのが良くあるキャラクターとして存在するが、この誘導尋問に近い展開はそれを彷彿させる。
 でも、悪いけど、セリフ回しほど軽薄じゃないんだ。
「ええそうです。彼は命がけで私を守ってくれたことすらあります。凍死しかけたり、腕を折ったり。あまつさえは、私のこの身体には、ひところ彼の血が輸血されて流れていました。それでも“友達だろ?”であっさり済ます男です」
 軽みを示す麻子の顔に、レムリアはまばたきひとつせずそう返した。なお、彼女のセリフの「それでも」以下は演出のために付け加えたウソである。
「すごいねぇ。まるでマンガか小説みたい」
 果たして麻子から返ってきたセリフはこうであった。似たことを真由にも喋ったわけだが、彼女と、この反応の違いは何だ。
 心を、気持ちを軽んじられてる。レムリアが抱いた率直な感想がそれ。
 初対面の自分がそうなのだ。毎日顔を合わせる真由はさぞや。
「君は、かなり修羅場をくぐってきたというか、過酷な経験をしてきたようだね」
 (半ば呆れて)二の句が継げなくなったレムリアのあとを、父親が引き継いだ。
 セリフの内容の割に表情は穏和である。この場の状態を“お喋りが弾んでいる”といった感じで、安堵を持って捉えているようである。
「だってこの子ボランティア団体で世界中飛び回ってるもん」
 真由が応じた。
「へぇ。その歳で…真由とあまり…来た来た」
「お待たせしました」
 父親が言葉をちぎり、相好を崩す。
 見るからに美味そうな、湯気立つエビフライが、次々運ばれてきた。
  
  
 さんざ待たされて食べたエビフライは、身が大きくてプリプリしている上、油の質も良いのだろう、かなりカロリーは高いはずなのに本物のその店のエビフライだよ♪、ぺろりと平らげてしまった。
「名古屋名物エビフライ、というのは、テレビでタレントが言いふらした結果の誤った認識だ」
 父親が言いながらエビフライの最後の一口をバリっ。なお、こういう席にはアルコールがつきものだが、父親の身体を考慮したレムリアの勧めもあり、控えている。
「しかし、ここまで傑出した味覚的クオリティを有するなら、名物と称しても問題はあるまい。宇都宮や浜松の餃子、各地のラーメンと比しても、ご当地ものと謳うに値する。オリジナリティがないといえばないが、逆に言えばシンプルでベーシックであり、であるがゆえにデファクトスタンダードとなるポテンシャルは充分にある」
 レムリアは父親の論客ぶりに吹き出してしまった。
 なんか、どうしようもなく下らないことを、わざわざ難しい語彙を使って“格調高く”語ってはいまいか。
 そして、これがこの父親の“素のまま”なのだとレムリアは理解した。自分たちのお喋りによって精神的にほぐれたのか、追いつめられて影を潜めていたものが久々に顔を出した。そんなところだろう。
「実はお父さん面白い?」
 レムリアは真由に尋ねた。
「…こんなキャラだったっけ、って思ってるとこ」
 同様に驚いているのだろう、円い目で真由が応じる。
「看護婦さん」
 急に父親がレムリアを呼んだ。
「はい?はいはい」
「あなた…外国の方だそうだけど、日本のこういう料理って本場と比べてどうだい?」
 日本人が異邦人と話す時、まず食い物の話をするのはそれこそデファクトスタンダードなのか。
「あんまりそういう見方していませんね。これが標準でこれが邪道。自然科学ならともかく、人の感性が関わるもの、人そのものに、正解を与える方程式はないはず、と思っていますから。他と比べて、でなく、単に“自分にとってこのお店のエビフライはおいしい”、で、いいと思いますよ。このお店は多分、この長ぶっといエビさんを、しつこくなく揚げるっていうのが持ち味なのでしょう。私はそれに対して美味しいと言うだけ」
「なるほど」
 父親は爪楊枝をくわえると、腕組みして頷いた。
「感性の関わるものに王道なし、か。…確かにそれならいいってもんでもないよなぁ」
 レムリアは気付いた。
 父親は作品の構想において、思考的にさんざ彷徨った挙げ句、一つの光明として“王道”に乗ってみてはどうかと考えていたのである。
 王道…それは常滑焼きの場合、老師の言った“飾り気のない実用的な”容器・茶器となろうか。
 でも多分、じゃぁそれで行ってみよう、なんてのは単なる惰性であって、意識した、魂の入った行動ではない。当然、作品に魂が宿るとは思えない。
 だったら。
「邪道で王道で…考えていたら肩が凝るし怖くて何も出来ません。天動説地動説のように、立場がひっくり返ることもあります」
 レムリアは言ってみた。学術肌の父親ならこの話題食いついてくれるだろう。
 果たして父親はうーんと唸って。
「地動説といえば、ガリレオはそれでも邪道を貫いたなぁ」
「あの…ちょっといい?」
 口を挟んだのは麻子。尖った口調。
 目が怒っている。先ほどまでレムリアにニコニコしていたのは何?
「はい?」
 レムリアは用向きは当然自分だろうと向き直った。
「さっきから聞いてると、邪道を貫けってひどくない?」
「そんなこと言ってねぇだろ」
 真由がそっぽ向いたまま、ポソッと言った。
「あなたには言ってません真由さん」
 麻子が真由を見る。対し真由は受けて立つ、かの如く、じろりと目線を返す。
「偉そうに。お前何も判ってないじゃないか。頑張れ頑張れド突き回して、親父がぶっ倒れたの自分には無関係とか思ってんじゃねぇだろな!」
 声を荒げ、まくし立てる真由に、周辺テーブルの花咲くお喋りがしぼみ、凍り付いたように静まりかえり、目線が注がれる。
「おい真由…」
 父親が困惑。
 しまった、とレムリアは思った。麻子が表面だけで物事を断じる浅薄な思考回路の持ち主であることは解説するまでもあるまい。ちなみにこういう思考回路は苦労せず育った人間に多い。深く見ずとも事足りたため、そういう回路に脳神経が組まれてしまったのである。
 だから、子どものことを考えずにその親を奪おうなどと思ったり出来るのだろう。
 対し、子どもというのは、自分に直接関わる相手に対して、直感で本質を見抜く能力を持つ。超能力的ですらある。それほどまでに敏感な理由は自分の命に関わるからである。生物としての本能の発露と言って良い。レムリア自身、14歳の身である自分にも、まだそれがちゃんと残っていることが、東京の彼とその母親に接してよく判った。
 であれば、同年代である真由とて大した差はないだろう。恐らく彼女にとり、麻子は根本的に親代わりにはなれないのだ。だから既成事実を作られても反発を持続できる、むしろ強化できるのである。そして彼女は、麻子の底浅さゆえの物言いが聞くに堪えない。ゆえに我慢を重ねたり、或いは、先ほど帰宅時のように、そもそも発言させないことによって、どうにか自分の怒りの導火線に火を点けないように“しのいで”来たに相違ない。
 それが、今この場になって、限界点を越してしまったようだ。
 理由は簡単、“真由陣営”である自分に対して、麻子が攻撃を企てた、と感じたからである。
 衆目の中沈黙すること少し。
「ひどい…」
 麻子は涙を浮かべて鼻をすすった。
 同情の目線が集まったところでいきなり立ち上がり、服で引っかけでもしたか、ガッターンと派手な音を立ててイスを倒し、店から走り出す。芝居がかっている気がせぬでもないが、こちらはこちらで、真由に徹底的に否定され続けてきた、という蓄積があるのだろう。
 いびつな“一つ屋根の下”は、元の木阿弥、どころか、負に転じてバラバラ。
 楔の力で?
「あ、麻…」
 父親は立ち上がり追いかけようとし、札入れから1万円札をテーブルに放り出すと、倒れたイスを起こし、走り出した。
 風圧で札が動く。その意図は“君たち払っておいてくれ”ということだろう。だが真由はその札を手にしようとしない。
 彼女の瞳にも涙。父親の座っていた、イスの方を見たまま。
「お騒がせしました」
 レムリアは立ち上がって周囲に頭を下げる。
 しぼんでいたお喋りが順次再開する。レムリアは真由の背後に回り、そっと近づき、彼女の肩の上に顎をちょんと載せた。
「今夜」
 囁く。
「え?」
「このままフェードアウトしようか」
 真由は弾けるような動きで首をひねりレムリアを見た。
「その…姿消す、か?」
 レムリアは陰謀を思いついたようにニンマリ頷いた。
 状況を整理する。いじめ問題解決の糸口は、まず加害者側に自分たちの行為のおぞましさを理解させ、全て中止させることが一つ。その後もまだあるが、今は被害者側に注力しているので略す。
 一方被害者側には当座の隠れ家をまず確保し安心させる。その上で、当人の自信を回復させ、傷ついた尊厳の修復を図る。この作業により、自分の中で封じ込めていた感情を発露させる。これは同時に、隠蔽されていた事態を、被害者が自ら白日の下にさらけ出すことになる。いじめる側が増長する理由のひとつに、暴力を背景圧力とした事態の隠蔽があるので、その連鎖を止めるのだ。当然、それは被害者側には相当な勇気を要求する。勇気は尊厳を保ち充分な自信を有するココロのみが発揮できる。
 今現在、レムリアが試みているのは尊厳の回復である。これは根本的には“名ばかりの保護者”という実情を修復することである。すなわち、このギスギスした家族関係において、真由が父親からも、当然麻子からも、本来与えられるべき“家族としての愛情や思慮”を受けていないと判ってきた。その原因は二人とも目線のベクトルが真由に向いていない、向いていても表面だけ、という事が挙げられる。
 そこで父親は陶芸から離れさせた。その結果、真由に多少は目を向ける余裕が出てきたようではある。
 しかし麻子はそうではない。
 恐らく、麻子と真由は、一度互いの感情を全てぶつけ合う必要があるのであろう。本来求め合った仲ではないのだから。イヤでも一つ屋根の下で暮らすのであれば、相互理解は必須である。
 そうした状況において、今レムリアが提案したフェードアウト、すなわち夜遊びプチ家出は、当然の事ながら、オトナ二人の注目を、真由にのみ向けさせることになる。父親は陶芸どころではないし、麻子は麻子で真由が出て行った理由を考えざるを得ない。自分に原因の一端を帰すであろうし、最終的には真由の心理を“なぜ”という形で問う必要が、否応なしに出てくる。
 そして、夜遊びという文字通り禁じられた遊びは、真由自身に対しても、涙の理由…それでも父親は麻子が大切なんだという内向きの心理…を、一時的であれ解放する作用を持つであろう。なお当然、レムリアは単なる夜遊びを彼女に提案したわけではない。“自信回復”のための一つの小旅行とするつもりでいる。自信回復の手段は、何も周囲の心理改革を図るだけが唯一ではないからだ。
「でもどこへ?ヘタにうろつくと補導されるし、近いと見つかるぜ」
 真由は訊いた。
 レムリアは小悪魔の笑みを浮かべて。
「この空港施設にいる分には疑われないでしょう。お父様だってああ二人で遊んでるな、位にしか思わない」
「それだけ?」
 レムリアは首を横に振って。
「迎えに来てもらいます」
「え?…ああ、東京の人呼びつけるの?」
「それは秘密」
 レムリアは舌をぺろっと出して立ち上がった。
「夜遊び、行こ」
「うはは、いい響きだな、夜遊び。禁断のオトナの世界、ってか?」
「あはは」
 二人は遊んだ。
 空港ビルのショッピングモールで買い物をし、ケーキを食べ。
 屋外の見学デッキで夜空に舞い上がり舞い降りる飛行機を眺め。
 そして、ビルの奥にある展示スペースに向かうと、秋口まで開かれていた、環境だの自然だのテーマとした国際博覧会の回顧展。
 写真パネルがぐるりと並び、中央に設置された“受付カウンター”の中では、博覧会の目玉の一つ、女性アンドロイド型ロボットが、コンシェルジュ風に丁寧に一礼。
「結局これ行かなかったもんな」
 パネル写真を見ながら真由がぽつんと呟いた。
 見て歩く。そこでレムリアはある可能性に気が付いた。が、まぁその時はその時だ。
 程なく可能性は現実になった。
「え?あれ、これってお前…」
 真由が写真パネルを見ながら指さし、レムリアを振り返る。
 それは壇上でレーザポインタを使い、大スクリーンの写真を説明している少女の写真である。ふわっと広がった白いワンピース姿であるが、背格好と顔立ちはレムリアにそっくりである。
 “子ども達に特別講義のメディア・ボレアリス・アルフェラッツ王女殿下”
 写真の説明文を読み、真由の目が見開かれ、口元がわななき始める。
「お前…わぁお前なんて言っちゃいけない…」
「だから、偽名使ってるのあたし」
 レムリアは頭をぽりぽり掻いた。こんな形でバレるとは。
 真由が指をパチンと鳴らす。
「思い出した。そういえば聴講者募集って知らせが学校に…」
「そうそれ」
 レムリアはあっさり言った。
 欧州の小国アルフェラッツ王国。代々女系だが、現女王の一人娘が彼女、メディア・ボレアリス・アルフェラッツである。
 そういう血筋、日本語ペラペラ、ボランティアの医師団に加わって世界を飛び回る少女看護婦…いかにも誰もが興味を持ちそうな存在を“使える”と踏んだか否か。環境面・経済面で極限状態を見てきた彼女に対し、“世界の現実を日本の子ども達に是非”みたいな意図でオファーが来たのである。
「で、ちょっとお礼を言いたい方がいてね。帰りがてら常滑焼きでも探そう、それで来ましたですのよ」
 そう言うレムリアを真由は上から下までまじまじ見つめた。
「本物、なんだよなぁ」
「でも気にしないでね。これまで通りお前と呼んで」
 言ってちょっと吹きそうになる。まるで演歌の歌詞。
「え?それはさすがに…どうしよう」
「んじゃ東京からのコールサインはレムリア。東京と行動する時の偽名は姫子」
「レムリアって…幻の大陸?」
「そう、幻の存在ということで」
「…なんかミステリアス。でもレムリアって、あなたっぽい響きというか」
「そう?」
 レムリアは苦笑した。あの麻子と同じ感想とは何の因果か。
「レムリア」
「はい」
「…でもなぁ。顔立ちがその辺にいそうだしなぁ。姫子さん」
「は〜い?」
「姫ちゃん」
「はいは〜い」
「かわいいなぁ。でもやっぱりレムリア、かな。呼び捨てなのに呼び捨てっぽくない。“さん”はよそよそしいし、“ちゃん”はべたつきすぎ」
「了解。私をレムリアと呼ぶ人はこの国で二人目です」
 レムリアは真っ直ぐに真由の目を見返した。
「え…?」
「いけないっていう意味じゃないんだ。少し嬉しい。本名は地位を象徴する以上、名乗る上で体裁を求められる。姫子は所詮、世を忍ぶ仮の姿」
 …レムリアが時代劇好きな自分に気付くのはもう少し後の話である。
「あなたは何者?」
 真由が問うてくる。看護婦、手品使い、本物の王女、そこまではバラした。
 レムリアは時計を見る。
 夜11時30分。
「いきなりだけど、“セラモール”って近い?」
「近いは近いよ。え?今からぁ?」 
  
 セラモールは、常滑市街中心よりやや北側、田んぼに囲まれた高台に位置する陶器専門のショッピングモールである。概略五角形に道が配され、中央を貫く通りを中心に店が並んでいる。観光バスが駐車できるスペースが広くあり、主たる客層はそういう方面。要するに店舗しかないエリアであって、客のいない深夜帯は無人と言って良い。
「今からセラモールですか?」
 果たしてタクシー運転手の中年男性は、訝しげに後席二人を振り返った。
「はぁ。友人と待ち合わせで。若い私たちとしては親の目を盗んでの逢瀬を望むわけです」
 レムリアの時代がかった言い回しに、白髪混じりの運転手氏はガハハと豪快に笑った。
「まぁいいや。イヤ実は夜闇に乗じて悪さをする手合いかと思ってね。いいよ、嬢ちゃんの言葉を信じよう」
「恐れ入ります」
 クルマをスタートさせる。この空港島地区は、鉄路以外では船に乗るか、有料道路を経由しないと出入りできない。要するに入るにも出るにもカネが必要。
 ETCシステムにモノを言わせ、ものの3分で“本土”に帰還する。タクシーは深夜割り増しの時間帯であるが、セラモールは料金が気になる程の距離ではない。
 市街を抜け、北に向かい、大通りを右に外れ、細い坂道をくねるように昇って行くと、突然、建物群が立ち並ぶ一角。
 但し人の気配はなく、薄暗く街灯が灯り、それら建物がひっそりと並んでいるだけ。
 眠った街という表現がピッタリ。
「あの公園みたいなところでいいです」
 レムリアは言った。実際に必要なのは“道幅”である。
「そうかい?」
 運転手氏がクルマを止める。車代を払うが、真由の父の紙幣から、というのも抵抗があり、ポケットマネー。多少は日本円を持ち合わせている。
 タクシーが去った。
 エンジン音が聞こえなくなると、いよいよ“眠った”印象が強まる。左手の公園に並ぶ遊具はぴたりと静止し、鋼の持つ無機質の本質をあらわにし、正面から奥の方向、街路両脇に立ち並ぶ真っ暗な店舗群は、魂を抜かれたよう。
 夜11時59分。
 西の空には、首を傾げたレモン型の月。
「んで?」
 背後からの真由の声にレムリアはウェストポーチをゴソゴソする。
 取り出したのは衛星携帯電話。一見すると軍用無線機を思わせる無骨な外観。アンテナを伸ばし、ボタンを押して発呼。
「レムリアです。よろしくお願いします。お客様がいます。…はい」
 電話を切り、ポーチに戻す。
「待ち合わせじゃなくて今から呼ぶの?」
 真由が訝しげ。
「大丈夫。すぐ来る」
「すぐって…だってクルマじゃないと来られないよ?空でも飛んでくるとか?」
「だったりして」
「だったり!?だったりって…あ」
 それは一見すると天を疾駆する白銀の流星。
 だが天文学の言う流星でないことはすぐに明らかになった。
 その白銀の星は、二人の頭上まで来ると、二人が目的地であると言わんばかりに、ピタリと静止したからだ。
 西方から天を流れ来、頭上で止まった白銀の星。
「目を閉じて。風が吹く」
 レムリアが言ったそばからドッとばかりの気流が吹き下ろす。吹き下ろした気流は周囲に広がり、眠った街が突然の台風に見舞われたようにバタバタと鳴動する。
 思わず腕で顔を覆う。身体がよろけ、風圧で吹き飛ばされるか…そう感じた瞬間、風は収まった。
「大丈夫だよ」
 レムリアは未だ顔を隠している真由に言った。
 真由が腕を動かす。
 そして顔を上げ、そのまま固まったようになる。
 船。
 書き間違えているのではない。アスファルトの道路に座するその構造体は紛うかたなく船である。サイズとスタイルは中世大航海時代の帆船に近似するか。但し、3本のマストの帆の部分には、工業製品の趣を漂わせる四角四面の白い板を装備している。
「これ…」
 真由が驚愕の中から、ようやくそれだけ言葉を発した。
 レムリアは振り返り、言った。
「亜光速宇宙航行帆船アルゴ号」
 真由は目を見開いたまま絶句。“亜光速”など、日常で耳にする言葉ではないが、宇宙航行という言葉は理解可能であろう。
 その間に船の方で動きが生じる。船体側面、本来の船なら水中に没する部分が、一部切り取られたように開口し、奥へ引っ込み、次いで右方へとスライドする。
 出入り口である。程なく開口部分の下方から板がスルスルと伸びて来、アスファルト上へスロープを形成する。
 出入り口部分に蛍光色の明かりが灯る。
 人影が二人。
 ひとりは白いローブに身を包んだ、長い髪の女性である。背が高く、一見して国籍不明であり、古代世界の謎の王女、とでも記した方が似合うようだ。
 他方、もうひとりは、黒檀の肌をした見上げるような大きな男。ダークグリーンの軍服とおぼしき制服を纏い、眼球部の白さが月明かりに際立つ。
「こちらが、今夜のお客様ね」
 天空で奏でられるハープ、そんなイメージのソフトな声が女性から発せられた。
「はい。友達の真由ちゃんです」
 レムリアは言った。
「わたくしたちの船へようこそ。わたくしは副長の“セレネ”。コールサインでごめんなさい」
 セレネと名乗ったその女性は胸に手を当て軽く会釈した。
「あ、ああ、はい。あの」
 真由はしどろもどろでどうにか自己紹介。
 男性の方が一歩進み出る。
「私がこの船を預かる船長、コールサイン“アルフォンスス”だ」
 ラジオの深夜放送向き、とでも書こうか、重心の低い、渋みのある声で男性アルフォンススが言い、真由の2倍はあろうかという大きな手のひらを差し出した。
「あ、…どうも」
 真由がためらいがちに手を差し出すと、覆うように包み込まれ、ハッとした表情。
 その、少し頬を染めた横顔に、
「あなたと、見たいものがあったから」
 レムリアは、言った。
「私…と?」
「しし座流星群。今夜これから何万という流れ星が飛び交うんだって。それをこれに乗って夜通し眺めようって算段」
 レムリアは言った。真由は目を剥き、
「流れ星が何万?」
「そう」
 レムリアは頷いた。電車の電光ニュースで流れる辺り、稀代の天体ショーとしてテレビ新聞で結構取り上げられてる、という印象だが、彼女の反応はそんなの初耳、という様子。…まぁ、あんな心理状態で流れ星、以前にテレビ新聞でもないであろうが。
「この船で?」
「そう。空飛んで。あなたと」
「飛ぶ…」
 そのフレーズを口にしながら船を見回す真由に、セレネが微笑みかける。
「わたくしたちも、あなたと是非見たいと思います。流星群」
「え…」
「ああ申し遅れました。わたくしたちは、国際救助ボランティア、アルゴ・ムーンライト・プロジェクト」
 セレネは言った。
「奇蹟の天使の手助けをするために、奇跡を待つより他にない窮地の人を救うために、わたくしたちは招聘され、組織されました。今宵、レムリアより貴女(あなた)という女性を是非、と連絡を受けました。わたくしたちは貴女を歓迎します」
「あの…」
 真由が言葉に詰まる。さもあろう。あまりにも、あまりにも、目の前の光景はファンタジックであり、現実離れしすぎている。
「ごめんねいきなり」
 レムリアは言った。
「この連中は…私も含めてだけど、信じてと言うにはちょっと、な能力の持ち主ばかりなわけね。で、そんなのをかき集めて、このどえらい速度で空飛ぶ船に乗せて、普通のレスキュー隊じゃ手に負えないような状況にある人を救い出す。それが主旨。ああでもあなたに手伝えというわけじゃないんだ。あなたはお客様。ただ、そういう船だから時々寄り道は許してね」
「でもそれじゃぁ…あのまさかこれ私を乗せるためにわざわざ」
「いいえ。本当は茶器だけ買って、これに乗ってそのまま定例活動の予定でした。だから、あなたを家出させるため、というわけじゃない。ついでに乗せてかっさらっちゃえ、そんな感じ」
「あら営利誘拐とは聞いてませんよ」
 セレネが笑った。そして真由を見。
「真由さん」
「…はい」
「今回はレムリアが強引な真似をしてごめんなさい。もちろん、突然ですし、内容が内容ですから、そんなのいきなり困る、というお気持ちは判ります。ですから、わたくしたちは、このまま貴女の元を去るのがあるべき姿だとは思います。ただ、これだけは判ってやって下さいませんか。
 レムリアは、自分が用意できる、精一杯楽しい夜遊びとして、この船で流れ星を見る、という選択をしたのだと思います。彼女は…ご承知のような活動をしているので方々に友達がいますが、この船に招いたのは、なおかつこのプロジェクトを知ってもらった上で、というのは、あなたが初めてです」
「あ、東京は別格だよ」
 レムリアが付け足した。理由は略す。
 真由はゆっくりレムリアに目を戻す。
「これ…ってさ」
「ん?」
「やっぱ超秘密、なんだよね。レムリアの本名血筋と同じくらいに」
「うん、だから誰もいない今ここにってわけ。でも、あなたなら、いいよ」
 まるで友達を初めて自分の部屋に招くように、レムリアは言った。
 真由は再び船に目を向ける。船長アルフォンスス、副長セレネ。
 2人とも笑顔で真由を受け止める。
「救助隊」
「そうです」
「あのさ」
 真由はレムリアを見た。
「…どれだけ、役に立てるか判らないけど、手伝わせてくれない?気持ちは嬉しいから断りたくないけど、ただの物見遊山はやだ」
 レムリアはセレネを見た。
 真由もセレネに目を向ける。許認可権者がセレネであると判断したか。
 対してセレネは優しく見返すだけ。その意図…判断はあなたに任せます。レムリア。
 レムリアは頷いて真由を見る。真由は自らの決意を示すようにまばたきせずレムリアを見返す。
 真由ちゃん。あなたならそう言うだろうと思った。レムリアは声にせず言葉にした。
 さもなければ、空港で異国の迷子に声を掛けたりしない。
 あてがわれ、お仕着せに、無言で甘んじる娘ではない。
 だったら。
「そういうことなら…」
 レムリアは悩むように言い、腕組みして少しう〜んと考え込んだ。
 そして。
「この船の乗組員ね」
「うん」
「中にもいるけどオッサンの集合体なわけよ。しかもこの船長みたいにゴツくてでかいのがゴロゴロと。泣くのよ、子どもが」
「へ?」
 真由は気の抜けたような顔。
 突然空から現れた船の使命は奇蹟を起こして人を救うこと。そのファンタジー性とコンセプトの高尚さは、形而上的ですらあると言っても良いかも知れない。
 しかしレムリアは、それが真由に敷居の高さ、とっつきにくさ、ひいては自分も同レベルの活動必須という義務感を与えていると判断し、このように冗談でぶちこわしたのだ。
 気楽さを失って欲しくないから。
 船の目的が何であれ、そもそもは友達の悪い子が、悪い友達が、夜遊びに誘い出したに過ぎないのだから…。
「レムリアも言うようになったな」
 かくして船長アルフォンススが苦笑した。
「張り合ってないとやってられませんので、船長殿。…てなわけで、そういう感じでなら、ちょっと手伝って貰えると嬉しいかも。大丈夫。さっきの迷子の男の子みたいに相手してくれればいいよ」
 レムリアは言うと、昇降スロープに向かい、アルフォンススとセレネの間に立った。後は真由の判断待ち。
 真由がレムリアを見る。レムリアは彼女の目にまだ多少の逡巡を見て取る。手伝いたいと言うには言ったがいざとなると…そんなところか。
「あなたを解き放ちたい」
 レムリアはその目に語る。
「あなたが全てを抱え込んでいたのは、お父さんに迷惑を掛けたくないと思ったから。あなたが感じていたのは、あの人の耳あたりの良い言葉に隠された棘。そしてそもそも、学校で受けている、あなたに対する故無き拒絶。
 でも本当のあなたは、親思いで、まじめで、一生懸命で、そして私を助けるために、勇気を奮ってくれた、素敵な女の子。
 なのに、なぜ、見えない檻があなたを閉じこめる。あなたの気持ちを、あなたの心を、誰が受け止める。
 痛かった。そのまま帰るなんて出来なかった。だから、あなたを檻から盗み出すことに決めた。私は今夜、あなたと空を飛びたい。一緒に空を飛んで流れ星を眺めたい。
 あなたの中に、私の居場所を認めてくれるなら」
レムリアは、自分の見知った真由という娘について、そう話した。
 それはレムリアなりの一つの結論である。要するに、真由には彼女を認めてくれる存在がなかった、自分の心の居場所がなかったのだ。
『言っても無駄』…いじめの被害に遭っている子ども達が良く口にするこの言葉は、そうした状態を自己認識している表れである。理解者も、味方もいない、そういう意味だ。本来、親や教員は、子供にそんなことを言われた自分たちを恥じるべきであろう。
 真由の目に輝きが浮かび、真由は隠すようにそれを拭った。
「何やってもスッキリしなかった。何やってもひとりぼっちな気がした。でも、レムリアといるのは楽しいと思った」
「友達だもん」
 レムリアは言った。
「友…」
「楽しいと思ってもらわなくちゃ、友達である意味ないじゃん」
 レムリアは言った。そして。
「私で良ければ」
 真由に向かって手を伸ばす。
「夜遊びの続き」
 真由は笑みを見せ、手を伸ばし、レムリアの手を握り返した。
 レムリアはその手を取って引き寄せる。
「よろしくお願いします」
 真由が一礼。
「こちらこそ。さぁ、中へどうぞ真由さん」
 セレネの声にレムリアが真由の手を引き、船のスロープを上がり、乗船する。
 アルゴ号。言うまでもなくギリシャ神話の同名の船の名による。神話のアルゴは黒海の奥へと進路を取ったが、こちらのアルゴは宇宙深淵へと航行可能である。
 つまり宇宙船、正確には恒星間宇宙船に属するが、そう書いて、21世紀初頭の技術では不可能と、即座に首を横に振る向きもあるだろう。
 しかしこの船にはそれを可能とする動力機構を搭載する。実現は22世紀と言われた究極の原動機“光子ロケット”である。
 詳細な説明は省くが、その最高速度はほぼ光速に匹敵する0.9975C(時速10億7730万キロ)。特殊相対性理論に覚えのある方は、ローレンツの式に代入し、その能力のほどをご確認頂きたい。
 従って太陽系を抜け遠く他の恒星へと向かうことも可能ではある。しかし、燃料が極めて特殊でグラム単位でしか用意できないことから、全地球を対象に瞬時に駆けつけるレスキュー船として用いている次第である。なお、大気圏内の最高速度は光速の1パーセント、秒速3000キロに抑制している。それでも地球の裏まで6秒で到達する。救助船の能力としてはまず充分であろう。
「映画のセットみたい」
 真由が見回して言う。船は両舷(左右の側面、船べり)に沿って通路が配されているが、その通路はハチの巣の室を思わせる6角形の断面で、壁も天井も白一色、確かにSF映画の宇宙船に近似しているかも知れぬ。
 背後に船長アルフォンススと副長セレネが乗り込み、昇降口がスライドして閉まる。
「PSC(ぴーえすしー)を使いますか?」
 セレネが耳栓様の小さな機械を2個出し、レムリアに訊いた。PSCとは意識で直接船をコントロールするシステム。Psychology-direct-reflection Synchronization Control-unit。心理同期制御とでも訳すか。
 レムリアはその機械を手に取り、一つを自分の耳に押し込み、
「いえ、通常ルーチンで。私たちは甲板にいます。INS(いんす)のシールドをタイプ2で」
「了解しました。真由さん、素敵な夜空の旅を」
 セレネが言い、二人に背を向け、アルフォンススと共に船尾方へ去る。INSとはInertia Neutralization System。慣性力中和装置。つまり、クルマや列車が急加速・減速を行った時に身体が受ける、あのぐらっとよろける力“G”を相殺する。原理と仕組みは略す。
「本当に映画みたい」
 SF用語を当たり前のように交わす二人のやりとりに真由は瞠目した。
「しょっちゅう乗ってるとハリウッドの特撮なんかチャチだよ。はいこれ耳に。無線通信機にもなってるから。こちらへどうぞ」
 レムリアは真由の手を取り船首方向へ招き、通路を開き、階段を数段昇って甲板へ出た。
 一見すると古風な帆船である。しかし木製に見える板材は“カーボンナノチューブ”である。また、帆柱に折りたたまれた帆の如き、しかし工業製品を思わせる白い板の正体は、恒星からの粒子流を受け推力とする補助動力機関ソーラーセイルである。つまりこの船は恒星からの風を受け、星の海を行く。
 その星の海を真由が見上げる。
「…嘘みたい」
「レムリアです。甲板へ出ました。準備OKです。発進願います」
 レムリアは言った。耳栓機械から聞こえた音が大きかったか、真由がびくっと身体を震わせた。ちなみに音量はPSCが脳波の応答を見ながら自動制御する。
「動くよ」
 レムリアは真由に言った。程なく、薄い金色の膜のようなものが、両舷から現れて立ち上がり、二人の頭上をスクリーンのように覆って行き、卵の薄皮のように船全体を包む。
 船が、ゆらりと動く。
 浮上する。よろめく真由の手をレムリアは掴む。降りてきた時と同じ暴風が生じ、商店街のあれやこれやがバタバタ暴れる。
 離着陸時は空気圧を用いる。それに伴う暴風である。
 船が垂直に高度を上げて行く、見慣れぬ目線となり、店々の屋根が見え、遠く見通せるようになり、夜景の向こうに周囲の街々が光の島となって浮かぶ。
 “セラモール”全体を見下ろす高度。
 そして。

  
「INSタイプ2作動確認。発進許可」
 レムリアの喚呼(声に出して確認すること)より程なく、見えていた光の島々が、さながらカメラブレでも起こしたようにブレて見え出し、次いでその場から引き抜かれたように光のラインを描き、後方へ流れ去る。
 発進加速である。本来なら伴って身体に感じる力は相殺されているため、“体感的加速感”は皆無。
 上昇がかかり、船首が夜空に向かい、街灯りに慣れた視界は闇に閉ざされる。やがてその闇に目が慣れてくると、瞳がまず捉えたのは、宝石のような輝きを放つ5〜6の星の小さな塊。
「すばる…」
 レムリアは呟いた。そしてその“すばる”…プレアデス星団が、まるで船に進路を譲るかのようにすーっと高度を上げ、頭上へと動いて行く。
 星が動くのが目で見て判る。
 それは、この船が、地球自転を遥かに上回る速度で東方へ向け飛行していることを示す。
 更に目が慣れ、見える星が増加する。増加に従い視界は無数の煌めきで埋め尽くされ、天蓋全体が輝く巨大な機械と化して頭上を巡る。その姿は、まるで大昔の円盤式オルゴールが、照明を反射しながら回転しているかのようだ。ちなみに今は晩秋なので拝むことは出来ないが、これが7月期になると、視界の端から端まで天の川が横切るため、船の動きによって巨大な時計の文字盤がぐるりと動くかのように見え、ダイナミックそのものだ。
「プラネタリウムみたい」
 真由が呟く。その瞳にも天蓋を埋め尽くす無数の煌めきが映っている。つづみ型の星の配列が目立つ巨人オリオンが水平線近くを闊歩。日本で見える高度より低いのは、船が北方へ向かっていることを示す。別段神話丸暗記の星空ロマンチスト気取る気はないが、こう幾度となく夜空を飛ぶと、見慣れた天体や星座も幾つか出てくるし、高度や傾きで緯度経度大体の予測が付けられるようになる。
「わぁ…」
 ため息にも似た声で真由が言い、彼女が指さした東方、カーテンが開くように空が青みがかり始める。
 朝間〜昼間帯の地域へと船が進行したためである。
 視界下方が漆黒の海より陸域へ変わる。
 夜が明ける。空の色が漆黒から群青、ブルーから紫、赤、黄色へとめまぐるしく変化し、太陽を頂いて透明へ変わって昼間の空に落ち着く。
 下方に見えるのは森林と、その森林をナイフで傷つけたように貫く幾筋かの道。そして、所々に見える茶色のゴチャゴチャした領域は町であろうか。今、船の高度は国際航空路を遥かに上回る20キロほどに取っている。
「北アメリカ大陸。アメリカとカナダの国境付近」
 レムリアは言った。
「アメリカ?」
 真由が瞠目する。
「もうアメリカ?」
「そう。この船の今の速度、巡航速度って言うけど、これで地球一周12分ほど」
「12分!?」
 振り返って尋ねる真由にレムリアは頷く。
「うん。…あ、あの太陽反射してる辺が五大湖ね」
「あ…ああほんとだ地図そっくり。わぁなんかゾクゾクしてきた。さっきまで常滑に、セラモールにいたのに。空を飛んでる。世界を巡っている。“常滑から世界へ”か」
 それは空港に付けられたキャッチコピーである。
「夢みたい」
「夢だったりして」
 レムリアはちょっと意地悪に笑って見せた。
 船が大西洋に出る。現在の進路は南東方向。船自体は舵を切ったわけではないが、紐をボールに巻き付けて頂ければ判るように、北へ向かってもいつしか南へ向かうことになる。
 大西洋を横切る。
 イベリア半島部よりユーラシアへ上陸する。地中海を横切り、アフリカ大陸へ入ると、緑地は沿岸のみで途切れ、すぐに視界一杯の砂漠地。
「サハラ」
 レムリアは言った。
「これが…」
 真由が息を呑む。
 ずっと砂漠が続く。針路前方を見てもその端は判然とせず、まさに地の果てまで続くが如く。
「広いね…温暖化砂漠化って言うけど、こうやって目の当たりするとなんか怖いみたい。毛利(もうり)さん…だっけ、宇宙飛行士の。あの人がしきりに環境を口にするけど、口先だけじゃなくて真剣なんだってようやく実感沸いてきた。見ちゃうと、てゆーか、こうやって見なくちゃ判らないよこれ」
 真由は言った。上空から見ると、蒼や碧といった豊富な色彩に彩られた地球大地において、砂漠だけは、枯れた、或いは荒れた、“死”の地域のように感じるのだ。もちろん、実際には砂地に適応した多くの生き物が生息してはいるのだが。
 永遠かと思われた砂漠がようやく途切れ、インド洋へ出る。
 マダガスカルには雲がかかり、渦巻くその姿から熱帯性低気圧であると判じる。但し南半球であるので、その渦は北半球と逆向き、時計回り。
「あれって台風?」
 真由が訊いた。
「の、お友達。…大丈夫。それで危機的状況にある人はいない」
 レムリアは言った。
「なんで判るの?」
「副長にはそういうことが判ってしまう。私が真由という女の子が傷ついていると判ったように。この船は、副長のそうした類稀な能力を持って危機にある人を探す…待って」
 レムリアはPSCをセットしている左の耳を指先で押さえた。ピン、という小さな金属的な音と、セレネの声。次いで同じものが聞こえたであろう、真由も同様に耳を押さえる。
「副長が危機にある人の心の悲鳴をキャッチした。…ごめん早速だけど寄り道させてもらう」
 セリフが終わる直前から、発進時と同様の急加速がなされ、それこそ映画のシーンチェンジのように一気に夜になる。
 月明かりの時間域に戻る。このように地方時に慣れる前に昼夜逆転したりするので、結局今が何時なのか訳が判らなくなる。短時間でめまぐるしく入れ替わる昼と夜。生物の体内時計は曙光でリセットされると言うが、このような短時間で何度も曙光を浴びるのは影響としてはどうなのだろう。
『到着します』
 セレネがイヤホンの向こうで言い、船が減速し、高度を下げる。
 星空が移動をやめた。オリオンの高度はかなり高い。従い南方。
 唐突に潮騒が耳に入ってくる。発進時にセットされた薄膜が解除されたのである。
 海の匂い。夜の海。
 目の前にはヨットが一艘転覆しており、西に傾いた月光に無惨な姿をさらしている。主のいないライフジャケットが波間を漂う。
 海難事故の現場であることは歴然としていた。ちなみにかなり沖合いであり、人家とおぼしき明かりは水平線遥か彼方。
「ニューカレドニアです。この船でしょう、おぼれた人の悲鳴を副長が捉えました。今は途切れています。水中に沈んでしまったようです」
「え…」
 真由が凝然となり、常夏の島に不似合いな胴震いを見せる。さもあろう。レムリアの言葉は直接的には“死”の宣告。
 “死”の現場に立ち会うという事態。
 人が死ぬ。その認識がもたらす本能的な恐怖感。
「助…かるの?」
「助けるの」
「どう…やって…」
 レムリアはウィンクして。
「ウチらボランティアですから。…ドクターシュレーター、レムリアです。船体を傾けてください。右舷を水面ギリギリまで。…はい」
 レムリアは真由の腕を取り、甲板右舷の柵に掴まらせる。
 船が傾き、波頭がその柵を軽く打つようになる。
 レムリアは目を閉じる。
 そして、その人差し指を伸ばすと、まっすぐ、低い高度の月へと向けた。
 指先が光り出す。セントエルモの火ではない。中に星を蔵したように金色の光を放つ。
 そして彼女は唱える。
「(我が意を解す水の友よ、我が思い我が頼みを聞き届けては下さらぬか。肯とあらば水の上へ)」
「え?」
 カッコで記述したレムリアのセリフは、現存するいずれの言語体系にも属さない文言である。
 レムリアは言い終わり、指先の光を海中へ投じる。まるで意のままに動く蛍のように、金色の光はレムリアの指を離れて海中へ入り、走る。
 レムリアは目を開いた。
「答えた。こっちへ来る」
 呟くと、船縁から水面を覗き込む。
 真由は不思議そうな目。
 理解不能で当然であろうとレムリアは思う。ただ、この期に及んで、この船に乗せた現時点で、その理解を越えた内容について、もはや隠しておくつもりはない。
 イヤホンに男の声。
『ソナーに感。お前が呼んだか?』
「ええ」
 レムリアが答えると、二人が水面を見つめる目線の方向へ、船からスポットライトの光芒が向けられる。なお、ソナーとは船が備えている音波探知機のことである。
 船が投じた光が、水の中に動きを捉える。深みよりせり上がる黒い影。
 流線型の煌めく身体が、飛沫を上げ音を立て、水上へ踊り出す。
「イルカ!」
 真由が叫ぶ。イルカは一度水面から飛び上がり宙返りし、再度飛び込むとレムリアの前に水面から顔を出した。
 立ち泳ぎでレムリアを見ている。その様子はまるで水族館のショーにおいて、飼育員の指示を待ってるかのよう。
 イルカと、レムリアの間に、意志の疎通が成立していることは説明するまでもあるまい。
「イルカに…?」
 かくして真由は問うた。
「そう。探してくれるって」
 レムリアは指で一回くるりと宙に円を描き、その円を投じるようにイルカに向けた。
 イルカが特有のキイという鋭い声で鳴き、水中深くその身を沈めて行く。
「あなたは何者」
 真由が問う。
 レムリアは真由の目をまっすぐに見返す。
 話すべき時が来たと知る。
 真由が口を開く。
「普通じゃないとは理解してる。姫様で、魔法のような手品を操る看護師で、世界中を飛び回るボランティアで。そして…この船…。そこに今度はイルカと喋ると来た。友達と言うなら教えて。あなたは一体何者」
「動物との意思疎通は…私の家系においては当然のたしなみの一つ」
 レムリアは先ず言った。
 そして。
「そんな能力を持つ者を、古来、人は魔女と呼んだ。そう私はホウキじゃなくて船に乗って空を飛ぶ魔女。
 魔法。アルフェラッツ・ムーンライト・マジック・ドライブ」
 レムリアは言い、真由の手を取った。
「魔法…じゃぁさっきのは呪文」
 頷く。
 否定する必要はない。レムリアは真由を見、彼女の手を引き寄せ、まるで口づけでもするかのように彼女の両の頬を手で包み、しかし幼子の熱を計るように、額に、額で触れる。
 真由の目が見開かれる。
 これ以上ないと言うくらい見開かれ、震えすら伴いながら、驚愕の表情が形作られる。
 〈どう?見つかりそう?〉
 〈難しいですね。意識がないから。海流の速度から言えばこの辺…〉
 会話形で表現すれば、そんなやり取りが真由の意識で展開されたはずである。
 レムリアは、現在進行中で海中のイルカと交わしている意志の会話…テレパシーの一部を真由に垣間見せた。
 〈見つけた!女の人。一人だけですね?〉
「副長」
『ええその人です』
 〈…でも魔女さんこれは〉
 〈何も言わず連れて来て〉
 〈判りました〉
「ドクター、ソーラーセイル展帆(てんぱん)!。展開後操作権を私に移譲下さい」
 レムリアはそこで真由から額を離した。
 以上わずかの時間に起こった出来事…真由の意識の中で反芻がなされているので、それに従って書いてみる。
 まず、イルカは溺れ沈んだ女性を海底、砂の上に横たわった姿で発見した。東南アジア系、マレーシアの富豪の娘であるとまで、その時点で判っている。そこでレムリアはそのイメージを副長セレネへとテレパシーで転送する。この女性二人は永遠の電話よろしくほぼ常時テレパシーで繋がっているような状態であり、副長セレネは助けを求めた当人であると確認、その時点でレムリアはその旨イルカへ伝えた。イルカは女性の生命について不可能性を指摘したが、レムリアは構わないから連れて浮上してくるように指示。この際、イルカから、船をまたぐようにジャンプしながら女性を甲板へ放り出すので、適当に受け止めてくれと依頼が来た。そこでレムリアは船の帆をクッション代わりに用いることとし、操舵手である搭乗員、シュレーター博士に、帆の展開とその後の帆の操作権限を自分に引き渡すように依頼した。
「帆を動かすから気を付けて」
 レムリアの声に、真由が我に帰ったように、身をびくりと震わせる。既に船の持つ3本のマストの中央、もっとも大きなセイルが展開され白い膜状になっている。次いで、マストがその根元から左舷方向へ向かってがくんと折れ曲がり、水平に倒れる。
 帆膜が水平に広げられた。言うまでもあるまい。この膜をトランポリンのように使って、イルカが運んでくるであろう女性を受け止めようというのだ。
 イヤホンがピンと小さな音を立てる。
「ソナー感、来るぞ」
 間近で聞こえた男の声に真由が振り向く。
 立っていたのは北欧系とおぼしき金髪碧眼の見上げるような大男が二人。タンクトップ姿で筋骨隆々。しかも間に鏡を立てたかのように二人はうり二つ。
 …救助活動に際し、体力及び戦闘を要す場合に彼らの存在は欠かせない。双子の兄弟活動員、コールサインは“アリスタルコス”“ラングレヌス”。
「了解」
 レムリアが答えて程なく。
 先ほどのイルカがざぁっと水しぶきを上げ、再び空中に躍り出た。
 その背びれの位置に載せられた、ぐったりした人の姿。
 確かに女性である。茶色っぽいワンピースの水着をまとい、首や腕にはアクセサリーの類が沢山。
 イルカは“予告”通り、船の上を横切るように飛ぶ。
 飛びながら身体をねじり、くるりと一回転。
 反転し、上下逆さまとなったイルカの背から人体が滑り落ちる。
 人体を帆膜でキャッチする。イルカは尾びれをパタパタしながら、そのまま船を飛び越え、水中へダイブ。
「ありがとう!」
 レムリアは日本語でそう言った。意志さえ伝われば言語自体はどうでもいいからである。イルカは少し離れたところでジャンプして宙返りし、水中に姿を消した。
 その間に大男二人が白膜から人体を下ろす。なるほど東南アジア系の女性であり、女である自分たちの目から見ても結構な美人さんである。手肌の手入れや痩身ダイエットの類に気を使っている(カネをかけている)なと一見して判る。じゃらじゃらしたアクセサリといい、富豪の娘ならではの自己演出。
 が、しかし。
 その肌には生気無く色は鈍く、唇は青紫。血流が滞ってよりやや時間が経っていることを示している。無論、意識は無く、腕がまるで作り物のようにだらりと垂れる。
 大男片方、ラングレヌスが女性の水着胸元を引き裂く。一瞬ギョッとする眺めだが、次いで手を伸ばしたのは傍らの枕サイズの機械。そこからケーブルを引き出し、その先端にある吸盤付き電極を乳房の下へ貼り付ける。
 機械…体外式除細動装置の電源オン。
「心電図モードで」
「了解」
 レムリアはラングレヌスに言い、自らは女性の腕を取り脇の下を指先で圧迫する。次いでまぶたを指先で押し開き、ウェストポーチからペンライトを出して瞳を照らす。
 装置の描く心電図は横一線…心臓は停止。
 それは客観的には“死”そのものだが。
「心停止。瞳孔反射なし」
 レムリアはそう言っただけ。
「使うか?」
 ラングレヌスの質問の意図は、機械の除細動システム…心臓電気ショックを使ってみるか?の意。
 しかし、それは除“細動”の言葉通り、心臓駆動筋肉の痙攣を排除するものであり、対し女性の心筋は微動だにしていない。なお、本来この種の判断は医師が下すものであるが、レムリアは普段の活動ゆえに各国医師らからある程度ノウハウを伝授されている。最前線が即座に医師の診断を受けられる状況とは限らないからだ。その場合“可能な限りの最善”をその場の人間が選択できなくてはならない。
「いや、これは心筋が完全に…直接じゃないと。それまでは我々で持たせて」
「OK任せろ」
 レムリアの台詞にラングレヌスが女性の胸元に手のひらを当て、圧迫を始める。なお、レムリアの言った“直接”の真意は、胸部を切開し、心臓に直接触れてのマッサージ(開胸式心臓マッサージ)、を意味し、当然外科手術の範疇である。従いここで出来るのはセオリー通りの心臓マッサージ。
 ラングレヌスの動作に心電図が反応する。但し、描かれる波形は尖り乱れたノイズの固まり。
「ドクターシュレーター。センターへ急行」
 レムリアは言うと、自らは女性に対しマウス=トゥ=ノーズ(鼻の穴から吹き込む)で人工呼吸。
『了解』
 回答に程なく船が離水し、猛然と加速。レムリアはラングレヌスの動きに合わせて息を送る。対しラングレヌスが、蓮の葉を思わせる大きな手で女性を圧迫するたび、口元からあふれ流れる水。
 真由は傍らでまばたきもせず息もせず。今、甲板は文字通り“命のための戦場”であって、初めて見る彼女が圧倒されてしまうのは当然と言えば当然。
「大丈夫だ…彼女は…強い」
 アリスタルコスが、真由の両肩を背後からそっと支え、野太い声で囁く。
 真由は突然肩を抱かれた驚きも混じっていようか、ひゅっと音を立てて息をして。
「…うん」
 しかし少し安堵したように頷いた。その抱かれた肩がほぐれるように動く。緊張していたらしい。
 そして、緊張がほぐれたせいもあろうか。こういう場合、見ているしか出来ない側は、得てして何も言えなくなってしまうのが普通であろうが。
「この水って出さなくて…」
 彼女は、言った。
 少しでもいい、手伝いたい。その意志がつむいだ言葉だとレムリアは理解した。
 しかし。
「ここまで大量に飲んでしまうと管入れて吸い出さなくちゃならない。だったらそれまで心臓動かして維持した方がいいんだ」
「そう…」
「話しかけて」
 無念そうな真由にレムリアは間髪入れず言った。
「血の巡りと呼吸は私たちがやる。あなたは意識を刺激してこの世に引き戻して。…国際的な職にある人でしょう。プライド刺激するにも英語の方がいい。意識と五感を刺激して引き戻す。手を握って、頬を包んで。こう言うの、あなたを助けました。今から病院へ向かいますって」
「わ、わかった」
 真由はアリスタルコスの肩から脱し、女性の手を取り、その冷たさに驚いたか一瞬ぴくりと震えたが、ためらうことなく次いで頬を包み、耳もとに向かって声を出す。
「You were saved. We go to a hospital from now on. Therefore please never give up !. We perform all can do it so that you survive.」
「あなたは素晴らしい。普通、いきなり出来るもんじゃない」
 レムリアはひとこと言った。
「レムリアの真似だよ」
 真由がはにかみながら答える。程なくイヤホンにピンという電子音。
『センターに到着する』
「了解」
 船が中空に停止し、次いで降下を始める。ニューカレドニアの月夜に対し、これから夕映えに移ろうかという時間帯の地域であり、欧州地域であると知れる。
 船が停止した。船が離水してよりここまで30秒。
「着いた。ここはこのプロジェクトのために用意された救急医療センター」
 程なく、船体左舷に下方より上昇してくるものがある。
 ストレッチャー(台車付き寝台)用リフトである。
 リフトには白衣をまとったアジア系の女性と、アフリカ系の男性。
 レムリアは左舷の船縁に向け指をパチンと鳴らす。船縁の柵が一部パタンと倒れ、ストレッチャーが段差無く甲板に乗り入れ可能となる。
 合わせて大男二人が女性を甲板から持ち上げる。二人の体格・体力からして、いわゆる“お姫様抱っこ”は充分可能なのだが、女性の身体を水平に保つためこのように二人がかり。
 女性の身体がストレッチャーへ載せられた。
「“ヒギヌス”、“ガッセンティ”。Drowned, heart stops. no breathing, no reaction of eyes. Open chest massage」
 白衣の二人にレムリアが伝達。
「OK」
 白衣の二人が答え、ストレッチャーを彼らに託す。
 レムリアは送り出すに際して横たわる女性の手を握り、小さく笑みを作ると、その手を真由にも触れさせた。
「さっきと比べてどう?」
 真由がはっと目を見開く。
「あたたかい」
「その通り。この人は助かるでしょう」
 レムリアは言った。それを聞いた真由に小さな笑み。
 握った手を離し、ストレッチャーが昇降装置に乗って降りて行く。
「ミッション・コンプリート」
 レムリアは言った。
「さ、散歩に戻ろ」
 振り返り真由に言う。
 思い切りの笑顔で。
「う、うん」
 戸惑いがちに真由が頷く。船は再び薄皮のような膜に包まれ、医療センターを飛び上がる。
「じゃぁ邪魔しないようにゴツくてデカいゴロゴロしたのは引っ込むぜ」
 アリスタルコスが言った。明らかに北欧系の顔立ちから、軽妙な日本語が滑らかに出てくるのは違和感があるが、この船の乗員は地球規模で活動する関係上、それぞれある程度マルチリンガルである。
「その筋では失礼いたしまして。ああ真由ちゃんあなたに紹介してなかったね。ウチのファランクス」
 レムリアは今更ながらであるが、大男な双子兄弟を彼女に引き合わせた。ちなみに両者身長2メートル体重100キロ。レムリアの言った“ファランクス”とは古代ギリシャの重装歩兵のことだが、さもありなんと言うべきか。
「ごゆっくり、真由姫様」
 ラングレヌスが跪き、大柄ゆえの低い声で言い、真由の手のひらにそっと口づけ。
「ど、どうも…」
 騎士の流儀に照れたか、頬染める真由にラングレヌスはフッと笑顔を見せ、アリスタルコスと共に甲板から下がった。その間に、船はロシアから北極海へ出、再び夜のエリアへ進行。
 天空には薄墨のような冬季の天の川が姿を見せ、水平から垂直へと立ち上がって行く。その天の川両岸には幾つかの一等星が姿を見せており、埋め尽くす星くずの中で、その輝きは光というより、見守る者の強い眼差し。
 そして、そんな一等星の一つ、おうし座アルデバランを追って再びのすばる。つまり。
「世界一周…」
「したよ」
「嘘みたい…」
 真由が天からの眼差しをその瞳で受け止めながら、ため息混じりに呟いた。
「あのさ」
「ん?」
「世界一周って大きなスケールみたいに思えるけど、こうして飛んでみると、大きな地球も宇宙の中では小さな、本当に小さな水と緑なんだね。朝露に濡れた道ばたの草と同じで、踏みつぶしてしまうのは、多分一瞬。でも…」
「少し離れてこの星を見れば、永遠に等しい時間で宇宙が作った、丸い小さなビオトープ」
 レムリアはそれだけ言った。
 船が真東に進路を向ける。
 と、頭の上を光の筋が一本、残像を描いて西へ流れた。
「始まったかな?」
 レムリアは呟く。
「え?」
「しし座流星群」
 正面には“?”の字を左右逆さにした星の並びが目印、天駆けるライオン。
 その逆ハテナを中心にひとつ、またひとつと、花火でも打ち上がるように光の筋が飛ぶ。
「これが流れ星?」
「そう」
「初めて見たかも」
 真由が呟き、流星が流れるたびに顔を振ってその軌跡を追う。しし群の流星は流れた軌道に沿って煙のような痕跡(流星痕という)を残すものが多く、それが、余韻のような雰囲気を見る者に与える。
「願い事、残らず言わなくちゃ」
「でも3回も言う時間ないみたい」
 流星が増え出す。同時に二つ現れたり、間髪を入れず後を追うように飛ぶなど、なるほどニュースで言うように“雨降るような”数まで増える、と予感させる。
 イヤホンがピン、と言った。
「寄り道?」
 真由が先に言った。
「うん」
  
 再び船に急加速が掛かる。中空に巨大な、それこそ流星を思わせる光の弧を描いて反転し、西へ進路を取り、雲の下へ降下。なお、これより展開されるミッションの具体的な活動地は、内容上、差別的との誤解を受ける可能性があるため、明記は避ける。時間的には夜のエリア。
『…反政府勢力の盗賊団が難民キャンプを襲撃中』
「は?」
 真由のその声音は“我が目を疑う”を声で表した、そのもの。
 同じ気持ちは読者の方にも多いのではあるまいか。確かに“反政府集団”という言葉に対して、“貧しい人々の味方”という印象が、特に日本では強いかも知れない。
 レムリアは舌打ちして。
「取れる場所から取れるだけ取る。判る?義賊ってのは幻想ってこと。難民…つまり武器も力もない。そんな人たちの所に食べ物も医薬品もある。これ幸いってわけ」
「そんな…」
「反政府、宗教対立、正義の味方を気取って武器と暴力にモノを言わせ、苦しい人々を尚苦しめる心底悪辣な者どもは後を絶たない」
 レムリアは拳を握った。
 船が地域上空を旋回する。月は程なく沈もうとするところであり、地表はほぼ闇。その中でタイマツが激しく揺らぎ動き、その炎の光を反射しつつ、流れ飛ぶものが幾つか。
 流れ飛ぶものから少し遅れて、パン、パンと、爆竹の破裂音に似た乾いた音。
 多数の悲鳴。
「銃声!?」
 真由が息を呑む。
 直ちに聞こえてくる船長の声。
『甲板の二人動くな。我々が掃討する』
「了解」
 言い終わると同時に船が急降下。例の暴風と共に船体を地表に付けた、かと思うと再浮上する。
 直後、一方通行のように飛んでいた銃弾の流れに逆らい、グリーンとブルーの光条が無数に放たれ、突っ走る。
 高出力のレーザビームである。驚愕の声、逃げまどっているのか無数の足音。対し、攻撃の銃声は途絶えた。
「あの光は船長達のレーザー光線銃。大丈夫、ハリウッドのアクションと違って戦闘能力を奪うだけ」
 レムリアは説明した。彼らは長大サイズのそれら銃器(救助支援機器、が正式名称)を持ち、船体が地表に接した瞬間、先の昇降口より地面に降りたのである。なお、地上からは、後述するシステムによって、船を視認することはできない。
 その時。
 船の直下で、大型の太鼓を叩いたような、ドーンと尾を引く破裂音と炎の柱。それは、“大量の可燃ガスが膨張しながら燃焼した”系の爆発現象。
 立ち上がる火柱と照らし出されたキャンプ。火の中に見えるのは、くしゃくしゃのシーツを思わせる破壊されたテントであり、周辺に散逸した段ボールや木箱、搬入に用いたかフォークリフト用パレット。
 逃げまどう人々。
 キャンプが放火された。
「水…」
 真由が呟く。が、ここは砂漠地。
『ここにはない』
 シュレーター博士の声と舌打ち。
「じゃぁどこからか」
『レムリア。私たちで対処しなくてはなりません』
 セレネの声。今、船内には博士以外の“男手”は出払っている。無論その彼らとは無線で繋がっているので、どうしようと訊く事は可能ではあるが。
 無線経由で聞こえてくる状況は、相談など出来そうもない。
「水…水を持ってくる…ペットボトルでああダメだそんな発想」
 真由が自分の頭を拳で殴る。
「いや持てる水であればいいんだ。水が持てる状態…」
 レムリアはごんごん叩く真由のその手を制した。
  
「氷!」
  
 二人は叫んだ。
『南極へ行くぞ!』
 二人の声を聞くなりシュレーターが言った。直ちに船が浮上する。
『甲板下がれ。そこを使う』
「了解」
 レムリアは真由の手を取った。
「氷を南極まで取りに行くの?」
「この船なら出来るんだよ。地球の裏まで6秒だもん」
「ああ!」
 なるほど、という表情。
『甲板まだか』
「入ります。入りました」
 二人は甲板から船内通路へ戻る。
『了解。INSタイプ1に遷移(せんい)』
 シュレーターの声。通路でぼーっとしていても仕方がない。状況を確認するため、そのまま通路を走り、いかにも頑丈そうな巨大な扉の前に立つ。観音開き(2枚のドアパネルが両側へ開いてゆく)であり、中世欧州の城から取ってきたみたいな、凝った木目の意匠が施されている。
 厳かな機械の儀式、とでも書くか、内部でメカ類の力感溢れる駆動音がし、観音開きが両側へゆっくり開いた。
 操舵室。
 まず目に付くのは左手にそびえ立つ巨大なスクリーン。
 その映像を見、真由が思わず目を伏せる。
 なぜなら、映った映像は船が今まさに雪山に突っ込もうとしている所であるからだ。
「うあ」
 まぶたを閉じる閉じないの時間で、画面が真っ暗になる。
 雪山に船もろとも突っ込む。ショックが無いのはINSの作用。
「主機関逆転全力!両舷全速後進!」
 喚呼の声はドクターシュレーター。口ひげを蓄え、額の広い、ラテン系の小柄な男性である。手元コンソール上の左右レバーを操作。
 何事もない事に気付いたか、真由が伏せた目を開くと、船は穴の空いた雪山から後進状態で浮上中。…雪山に船ごと突っ込み、甲板上にその雪を積んだのだ。
「雪を甲板山盛り取ったね」
 レムリアは言い、真由の手を引いて操舵室内に入った。
 室内を手短に説明する。操舵室はその巨大スクリーン、スクリーンに沿って湾曲する形で設けられたコンソール(操作卓)。そして背後にひな段状に配された副長席、船長席で構成される。
 スクリーンの画面はさながらビデオの早送り。瞬時にキャンプ火災現場に戻り、その炎が見えた次の刹那、画面内部が天地逆さま。
 先のイルカよろしく、今度は船体がくるりと回転し、甲板に積み上げた雪を火災現場に投下。
 周囲を照らしていた火災が消えた。
「視認して来ます。INSオフ」
 レムリアは言った。
「了解」
 シュレーターがスイッチ操作。
「ちゃんと消えたか肉眼で確かめる。手伝って」
 レムリアは真由に言った。
「うん」
 真由と走り出す。
 甲板へ出、二人で左右両舷からキャンプを見回す。火は消えたようだ。完全な闇であるせいか、逆に良く判る。
 その時。
『レムリアこの胸騒ぎは?』
 セレネから、不穏な心理をキャッチした旨の言葉。
 程なく近場で騒ぎが生じる。
 甲板の二人は、同時に、その声に気付いた。
 赤ちゃんの泣き声と、その母親とおぼしき女性の悲鳴。
 灯りが欲しい。
「船の…」
『船長たちが危険に晒される』
 レムリアの言葉をシュレーターが即否定。船の能力上、一帯を明るくする事は可能ではある。だがそれは周囲に対して、『ここに何かある、強力な照明を有する物がある』、と知らしめることになる。
 強力な照明は物持ちの証。反政府勢力の彼らにとり、それが敵であれば攻撃するだけだし、支援団体なら強奪するだけの話。
 要するに明るくしたらロケット弾が飛んでくるのだ。
「(月女神よ我らの目となる天の光を)」
 レムリアは指を唇に当て、そういう意味の語を唱え、その指で天を指し示した。
 現れる、小型の太陽を思わせる白い光跡。
 まるで天が与えた照明弾である。まばゆい輝きが東方より出現し、一帯を照らしながら西へ流れる。
 超高輝度の流星。火球(かきゅう)。
 その文字通り火の玉が照らした状況に、甲板の二人は目を瞠った。
 それは男達が数名、乳飲み子を抱いた母に群がっているという状況。
 それだけで異常な光景であるが。
 その男達は、その乳飲み子抱いた母の腕を無理矢理押し広げ、
 乳飲み子を奪い、
 泣き喚くその乳飲み子を、
 大地に放り出した。
「いやっ!」
 叫んだのは、甲板にいる少女二人、そのどちらであろうか。或いは二人ともであったか。
 二人は甲板を駆け出す。操舵室が気付いたか、併せて船体が高度を下げ、右舷を下げて傾く。
 二人は甲板を蹴り、暴風と共に赤砂の大地に飛び降りる。
 現場まではやや遠い。離着陸の暴風が及ぶ範囲を考慮して距離を取っているせいだ。
 走る。
「(月女神よ天の光途切れさせることなく)」
 レムリアは指を振るう。
 そのマジカルなタクトに呼応するように、ドッとばかり流星が流れ始める。さながら夏の豪雨の如く、流星が数限りなく天の一点より四方へと放たれ始め流れ出し、月灯り程度に大地がほのかに照らし出される。
 無数の流星が全天蓋を覆い尽くす驚異的な流星嵐(メテオストーム)と化す。それはさながら地球という船が、星の海の中今まさに進んでいるが如くだ。同様の流星嵐は1799年、海流に名を残すフンボルトが観測しているほか、1833年アメリカで記録され、“世界が火事だ”と人々が逃げまどったとされる。
leonids1833
1833年北米でのしし座流星群を伝える新聞用版画
 さすがに鳥肌立つ超絶レベルの現象であり、二人とも…走りながら…思わず天を仰ぐ。
「これもあなたの…魔法?」
「かも知れないけど判らない。天の采配かも。ただ、天文学の記録には、歴史的現象の再来と書かれ、メカニズムはダストトレイルに地球が、と説明されると思うけどね。ともあれこれはチャンス。悪いけどまた手伝って」
「もちろん」
 二人は天の照明を頼りに擾乱を追う。拉致に躊躇ない粗暴の集団を、特段武道をしているでもない少女達が一心に追いかける。しかも抱いて当然であろう恐怖を思わせる語は口にしない。恐怖の元凶である、彼我の差違比較すら許さぬ衝動が、二人を突き動かしている。
 それは恐らく、二人の持つ女性原理…庇護本能の発露以外の何物でもあるまい。今、男達は乳飲み子を放置のまま、母親の方を引きずり、抱え上げて連れ去ろうとしている。彼らは抵抗する母なる人の上半身に手を伸ばし、平手打ちを繰り返し、纏っていた布を引き裂く。
 乳房が露わ。
 その様子に真由が唇を噛む。
「あなたが思っているのとは違う」
 レムリアは真由に対して言った。男が女を連れ去る理由は大抵、一つであるが。
「むしろそれよりひどいかも知れない。あの男達の目的は…あのお母さんのお乳、母乳」
「は!?」
「食べる代わりに飲ませろというわけ。飢餓と貧困は人をただの獣に変えてしまう」
「そんな…」
「信じられないかも知れないけどそれが現実。しかも、男性達は襲ったゲリラの方じゃない、援助を受けた側の同じ部族。支援食料が焼かれた。じゃぁ、ってわけ…真由ちゃんは赤ちゃんを!救ったら船まで全速力で戻って!」
 レムリアは母に進路を取った。真由はレムリアが指差す方へ向きを変えた。
「判った」
「お願い!…ラング!掃討はまだ終わらない!?船を回して欲しいんだけど」
 レムリアは言いつつ振り返り、真由が乳飲み子を抱き上げるのを確認してから、男達に視線を戻した。
 男共と目線が合う。次いで拉致される母なる人に目を向ける。すると母なる人は、…レムリアの超常の視覚が捉えたのだが…その瞳に、真由に抱かれる我が子の姿を見たようで、意志の糸ふつりと切れたかのように失神し、我が子に向け伸ばしていた両の手を、その腕を、だらりと垂らした。
 その所作に男達は薄笑みを浮かべる。次いで追いすがるレムリアをチラチラ見ながら逃走の足を早める。ただ、その目線は自分の走る速さを推し量るというより、値踏みしている、という印象。
 レムリアは己が身の内に、にわかに沸き上がる怒りの感情を意識した。友が傍らに、という抑止力が外れた故であろうか、いかに飢餓のゆえとはいえ、この逃げる者共のなす卑劣は、それ以下はないと断言出来る、文字通り最低レベル。
 今この手に、船長達が持っているであろう超銃が、今この手にあったならば、その銃口を躊躇無く向けた自分の可能性を否定しない。
 否。我を顧みよ。
「(意図したこと形をなさず)」
 レムリアは内なる扇動をも御する意を込め、呪文を呟き、指を自らの唇に当て、次いでその指を走り去る卑劣の団へと振り向ける。
 次の瞬間。
 最前の火球をも上回る、炎天の太陽も斯くやと思われる光の塊が東から西へと突っ走る。
 それは頭上を通過する際、文字通り爆発して幾多の光に分裂した。そのビジュアル的動きに同期し、電気のショートを間近に聞くような、バチンという鋭い破裂音が頭の中に響き聴覚を圧し、その異常性ゆえか、男達が叫び声を上げ、担いでいた女性を放り出す。
 流星現象の一つ爆鳴火球(ばくめいかきゅう)…と、レムリアは後に東京から聞いた。
「ドクター!船体を割り込ませて透過シールド!」
 レムリアが依頼したその直接的内容は、男達と、放り出されて横たわる女性との間に、船体を置くという動作。
 船が動き、レムリアの指示通り、男達と女性との間に、風と共に降り立つ。
 但し船の姿は一切見えない。このため、男達の視覚には、流星のなす明かりの中、落とした女性の姿が暴風と共に消えて行くように見えたはずである。
 透過シールド。一部読者にあっては“光学迷彩”と記した方が判り良いかも知れぬ。船体が無ければ見えるはずの風景を作り出して見せ、船自体の姿をカモフラージュするもの。最前、戦闘時に“視認できない”と書いたのもこれによる。
 レムリアは横たわった女性を抱き上げた。恐怖が流した涙の跡に砂粒が付いている。まずその砂粒が目に入るのを防ぐため、いかにも平和そうな丸っこい字で“マキロン”と書かれた日本の消毒薬を軽く脱脂綿に噴き、目元の砂を拭き払う。
 次いで身体を見回すと、まず腕を骨折している。後で処置することとし、先ほど男達に引き裂かれたせいもあろう、尚更衣服とは言えないような、身に纏ったその布で、あらわな胸を覆い隠す。ただ、飢餓地帯の如実さ、と言えるか、その男どもが目を付けた乳房ですら、ふくよかな形状とはとても言い難い。骨折も、線のように細い体躯からするに、カルシウム不足が背景にあるとわざわざ考えるまでもない。『華奢だ』と東京が評する自分の体躯より尚細い。だいたいその華奢な自分がこうして苦もなく抱けるではないか。
 なのに母なのだ。レムリアは思わず自分の胸元に視点を移した。14歳という自分の年齢。在地欧州や、夏の湘南に見た同年代の日本の少女達。
 大人びた彼女たちとの差違に覚えた、焦りとコンプレックスが贅沢で低レベルに感じられる。恥ずかしい気持ちが目に作用して何かこみ上げさせようとする。
 上を向いて耐える。涙の代わりに光り流れる星の滴。
 レムリアは顔を戻し目を閉じた。船の向こうにいるであろう、野蛮と化した男達の意識を探っているが、何を捉えているか敢えて書きはしない。
 目を開く。
「船を動かして下さい…大丈夫」
 船が浮上する。すると、船体に隠されていたその向こう、男達は腰が抜けガクガクと震えた状態で地に座り込み、失禁している。すなわち恐怖から動けない状態。その彼らの目に、今映じているのは、天空を無数の星が流れる中、暴風と共に女性を抱いて現れる美しい少女という図。
 男達は大声を、正気を逸したかと思うほどの喚き声を上げた。稀有の天体現象を背景に、“沸いて出た”、肌の色異なる娘。
 彼らに取り、それは理解常識を超えており、形而上の現象であり、その出現を招いたのは、己れらの所作に対する罰の故…という理解であるようだ。
 そしてそれがゆえに、レムリアは口にしようとしたセリフを引っ込めた。…聞いて欲しいことがあったが、これほどの恐怖を覚えていては無理だろう。これ以上何かすれば、ましてや、追いかけて聞かせようなどするならば、狂に陥るか驚愕ショックで死亡する。
 ちなみにレムリアは彼らを弾劾しようとしたのではない。ことの背景は飢餓なのだ。すなわち、この地は耕作には不向きということ。だったら、援助をただ待つでは解決しない。
 耕作できる地を探し、動いた方がいい。レムリアは、彼らが自分をそれと見ている形而上の存在に代わり、言おうとしたのだ。もちろん、自分が形而上の存在と思っているわけではない。そう思われてるなら、その立場だけで説得力を持つからである。自分の知る限り、原初人間は、狩猟採集の地を求めて5大陸をさすらった。援助は必要と思うが、自活する道は常に探り続けなければ永遠に援助が終わらないし、こんな悲劇も断ち切れない。それが自分の見解だ。
 真に必要なのは、初期段階こそともかく、食べ物そのものではなくて、自分で生きて行くための知識と手段だと信じる。
 “先進諸国”よ、カネとモノさえ送ればいいというのは、飢える者を見た富める貴殿らの、単なる驕りではないのか。
 レムリアは這々の体の連中に背を向け、母を抱いて船へ戻った。今、船は地にあり、光学機能を解除して姿を見せており、舷側船倉を解放、内部装備を展開して簡易救護室にしている。内部には救護用ベッド、及び、エレクトロニクスにモノを言わせた各種検査装置がひと揃い、表示類をパカパカさせて稼働中。もちろん、超銃を背にした男達が戻ってきて傍らにいるから、ここまで出来る。
 ベッドには真由が腰を下ろしている。乳飲み子を抱き、哺乳瓶でミルクを与えているが。
 その姿を見下ろす船の仲間達は困惑の表情。
「なんで、なんでこの子は飲まないの?甥っ子にやったことあるし、私ヘタ…じゃないと思うけど。…だってヤバいんでしょうこういうお腹って」
 真由は赤く腫れた目で、母を横たえるレムリアを見、問うた。真由の言う赤ちゃんの腹部は、栄養失調の典型所見である膨満状態を示している。
 飢えの状態であるのにミルクを飲んでくれない。真由の泣き腫らした目は、彼女なりにさんざ工夫したが、どうにもならない。どうすればいい?ということであろう。急がないと…という焦燥も混じっていようか。
 レムリアは抱かれた赤ちゃんに触れた。その手足に“芯”を感じない。それは、骨が無いのでは?と思えるほどであり、戦慄すら覚える。枯れた小枝よりたやすく折れても不思議ではなく、無造作に投げ出されたこの子に大きな怪我がないのは、それこそ奇蹟と言って良い。
 レムリアは、赤ちゃんに哺乳瓶をあてがっている真由の手に、自らの手を重ねると、その哺乳瓶をゆっくりと引き離した。
「えっ…」
 その動作は一瞬真由をゾッとさせたかも知れないが。
「この子は“乳を飲む”ことそのものを、身体がまだ充分に覚えていない。口を動かし、押し揉んで吸い出し、飲み下すための筋力がない。本来、授乳は、上手に飲もうとする子どもと、子どもに飲まそうとする母親との、共同作業で、双方の練習で育んで完成されて行くもの」
 レムリアは言い、哺乳瓶を引き取り、洗浄装置の傍らに置き、淡々と輸液(点滴)の準備を始めた。真由が抱く分には泣き出す気配を見せないため、抱いてもらったそのまま、純水で湿した脱脂綿で幼子の身体を拭き清め、額の傷に絆創膏をあてがい、産着を着せる。次いでアルコールで手の甲を拭いて、輸液管を挿す。…手に針を刺して痛いはずだが、泣きはしなかった。
 幼子に乳酸リンゲルの輸液を開始する。次いで母親。骨折し“ぶらぶら”状態の腕に添え木をし、同様に輸液。
 周りでその作業を見ている人々の、流星を反射しギラギラと光る目。
「怖い」
 真由が呟く。失礼だが、彼女の抱いたその気持ちは本能的なものであろう。彼女は、幼子を守り抱え込むような姿勢を示した。
 とはいえ彼らも追いつめられた人々なのである。食うために生きるために手段は問わない…問えない段階なのだ。それは“狩猟者”の心理であり、その目線は、自ずと優しさとは最遠に位置することになる。
 幾人か怪我人がいるので処置する。幸い銃弾命中者はおらず、消毒して絆創膏程度の話。ただ、こうして“施す”ことによって、少しずつであるが、彼らの目線が和らぐのを感じる。
 その理由は…明記を避ける。代わりに。
「これが、世界の現実」
 レムリアはただそれだけ言った。次いでラングレヌスに頼み、船倉奥から自分より重い木箱を一つ出してもらった。
「本来私たちは食料援助はしない。ただ今回、私たちは、放火されることを事前に見抜けず、あるべき食料を失う羽目になった。これはそのせめてもの穴埋め」
 木箱を船から少し離れたキャンプの中に下ろすと、人々が船から離れ、そちらに競い群がる。
 彼らは釘で組まれた木箱の板を、素手で力任せにむしり取り、開き始めた。
「あれの中身は、日本でもおなじみの“そば”の実」
 レムリアは真由に言った。真由は意外、とばかりに目を円くし、
「そば?ざるそばとかの?」
「そう。痩せた土地でも育つ数少ない穀物。日本固有ってわけじゃないし、食べ方は麺に限らず様々。ただ、食べてしまったらそれっきり。だから、植えると同じものが大量にできるとイラストが入れてある。どう解釈するかはこの人たち次第。こればかりは、与えるだけ、待つだけ、じゃぁ何も解決しない。口頭で教えても、食べてしまう人たちは食べてしまう」
 レムリアは言った。そして船長アルフォンススに目を向け。
「で、いいんですよね船長。私たちにはこれ以上…」
 船長アルフォンススは頷くと、展開された機器の傍らにあるボタンを押した。
 簡易救護室が船倉に折りたたまれる。狭くなるが、救護室としての機能が失われるわけではない。ただ、ベッドを機器類が取り囲むことになるため、やや物々しい印象にはなる。
 雨降る星の下、そばの実をケンカの勢いで取り合う人々を見せつつ、船倉が閉じられる。
 船が飢餓の地を離れる。
 センターへ急行し、NICU(新生児集中治療室)に母子を預ける。実はこの過程で赤ちゃんが心停止に陥ったのだが、そこは最新機器と赤ちゃん本来の生命力で何とか乗り切った。
 心拍安定を確認してレムリアは甲板へ戻る。真由を先に甲板に帰していたが、トラブルが生じたことは無線を通じて把握していたようだ。果たして彼女は甲板に立ったまま、心配そうな目でレムリアを迎えた。
「大丈夫、母子共に安定」
 レムリアはまず、笑顔で真由にそう言った。
「そう」
 真由はまずは小さな笑みを浮かべて応じた。
 船が再びの夜空へ飛び立つ。
 真由は遠ざかる医療センターを見ると、ふぅーっと声に出してため息をつきながら、甲板床面にぺたんと座り込んだ。
「良かった…」
 呟き、茫然と床面に目を向け、まばたきもしない。その目に流星が幾多煌めきを映して流れる。だが、彼女の瞳は流星に、別の何かに、焦点を合わせているわけではない。
 放心状態。
 それは、この短時間で生じた膨大な、しかもことごとく衝撃的な出来事の数々が、彼女にとり、いかに激甚な心理的ショックであったかの証。
 フラッシュバックが生じているかも知れないとレムリアは思う。すなわち、真由の意識の中で、そうした個々の出来事を象徴する数々の映像、ワンシーンの集合体が、奔流のように、流れ巡っているのではないかということ。
 フラッシュバック。その映像は、往々にして、その1枚1枚が、心に刻み込まれた1つ1つの傷に対応している。だとしたら、自分は、今夜彼女を引っ張り出した挙げ句、映像の数だけ、彼女を傷つけてしまったのかも知れない。それは申し訳ないと率直に思う。ただ、確信として持っているのは、その傷は時の作用で確実に癒されるタイプの物であり、後々彼女を大きく変える原動力になるであろう、ということ。
 その根拠は。
 自分自身。
「赤ちゃん、ありがとうね」
 レムリアは言った。
「へ…?」
 真由がゆっくりレムリアを振り仰ぐ。
「あなたが救ってくれなかったら、あの子はこのお母さんの元にいられなかった」
「そういやcardiopulmonary arrestって言ってたね。そんなに危険…」
 レムリアは首を横に振った。
「命の危険じゃない。その前の話。あなたが船から飛び降りてくれなかったら、あの子は別の人の手に掛かり、人身売買ルートに乗せていたでしょうってこと」
「人身ば…!」
 真由は、目に見えて判るほど、身体をびくりと震わせ、絶句した。
「そんな…」
 その瞳が輝きを浮かべる。唇が震えわななく。
 そして、幼い子どものようにわぁわぁと声を上げ、真由は泣き出してしまう。さもあろう。これでもか、まだあるか、そこまでするかとばかり、卑怯と凄惨を立て続けに見せられたのだ。幸せが当然な国の娘にとって、フィルタの向こうに隠されていた想像を超える現実、さらけ出された状況は、文字通り筆舌に尽くしがたい事態であっただろう。感情が抑えきれなくなってしまったに相違ない。
 レムリアは真由の気が済むまで、その身を自分に預けさせた。
「親父が…」
 泣きすぎて、しゃっくりが出ているような状態のまま、真由が口にした。
「親父が、お前のこと、修羅場をくぐってきたというか、過酷な経験をしてきたようだ、って言ったろ?あれ、大げさじゃなかったんだな…」
 レムリアは、真由の肩へと回した自分の腕に、力を込めるだけ。
 真由は続けて。
「…卑屈になってた自分が恥ずかしいよ。世界で一番不幸なつもりのバカなお嬢だよ」
「そんなことない。あなたの受けた数々が酷い事には変わりはない。人を傷付ける事に、上も下もない」
 レムリアはすかさず言い、真由の涙を指で拭った。と同時に、彼女の言葉に、認識変化の兆しを見、それ以上言うのをやめた。
 というのも真由のセリフ、直接的には、彼我の被害の程度を比較し、彼らの方が自分よりも傷ついてると感じた…という意味であろう。但しそれは、“いじめなど、訴えるようなレベルの被害ではない”と言っているわけではない。むしろ、相似した卑劣行為だからこそ、比較が成立した結果である。レムリアが着目したのはこの“比較”だ。真由が、自分という存在を、客観的に捉えることが出来はじめた、と考えられるのだ。ただ、その比較対象とした事象は、その極北ではあったが。
 すると。
「みみっちいね」
 真由は言い、涙だらけの顔で、薄笑みさえ浮かべてレムリアを見た。
 その意図をレムリアは一瞬判じかねたが。
「出来る範囲で、つーか、ばれない範囲で、隠すとか、壊すとか。一度可愛いラッピングで猫の死体が入ってたけど。確かにここで見た事は卑怯だと思った。でも、生きるための必死が生み出した卑怯なんだとも判った。…でもあの4人って“ただ下らないだけ”じゃん。ああ、なんかあいつらが可哀想なくらい子供じみた存在に見えてきた」
 真由の涙だらけの笑みは、レムリアには失笑と感じられた。
 だから、
「所詮、そんなことしかできない連中。ってこと」
 と言った。ここまで聞いた限り、真由は彼女自身もそうだし、同様にいじめる側の程度についても、客観視できたのだろう。
 ところが。
「でも、ここの人たちは、そこまで虐げられて、それでも頑張ってるのに、私と来たら、そんな下らないヤツにさえ…」
 真由はこう続けた。それは違う、レムリアは言おうとして声にしなかった。今の彼女は自虐的、と書いていいだろう。そんな心の誤謬を軌道修正するのに、否定語は良くない。彼女を認めない、ということになってしまう。
 そこで。
「そんな下らないヤツが足元にも及ばない、そんなのより凄い集団に、船飛び降りて立ち向かって行った、凄い女の子いるじゃん」
 レムリアはこう言った。
 そして言いながら気がついた。真由には自分に責任を帰してしまうという、思考上の“クセ”が付いてしまっているのだ。
 これか。という洞察感がある。いじめの被害を受けた子どもに対して、安心しなさい全て終わった今後の事は任せなさい。多少の差違など将来には影響なし…それだけでは足りない何か。
 いじめるという行為は暴力そのものであって、責任の全てはいじめる側にある。いじめられた側が何かしなくちゃならない、という事は一切無い。いじめられる方が悪い?じゃぁ“いじめていい”、のか。
 ただ。
 いじめを受けている側のこうした“自分に帰着してしまう”クセの存在は気付かせても良いように思える。その思考ロジック自体が存在していること、及び、それは正しい自己評価ではない、と認識させること。そうしないといつになっても“どうせ自分は”が出てきて、先へ進まない。それは求めている尊厳の回復、その先にある“自分への自信”とは逆のベクトル。
 レムリアは言う。
「連中があなたに対して鼻につく、と感じているのは、あなたが人より優れている、と感じたからでしょう」
 そして続けて。
「加えてあなたには真の勇気がある。夕方防犯ブザーを鳴らしてくれたのもそうだし、どころか、こんな銃弾飛び交う異国の地で率先して駆け出した」
「でもそれはレムリアを手伝おうと…」
「だからってだめな人はだめだよ。たとえ船のムサい連中が両脇でレーザ銃抱えていてもね。連中が守るから大丈夫と幾ら言っても、怖じ気づいてしまうでしょう。でも、あなたはそうじゃない。あなたみたいな友達がいることを私は誇りに思う」
 真由は瞠目してレムリアを見つめた。
 まるで、初めて先生に褒められた、1年生の女の子のように。
 と、背後でドアが開かれる。風に揺れる花のように、ふわりと甲板へ上がって来たのは副長セレネ。
「私からもお礼を言わせてください。真由さん」
「お礼?」
 なぜ?真由の目は問うているが。
 セレネはニッコリと微笑んで。
「そうです。貴女のおかげであの母子は救われました」
「でも私は何も…ミルク一口すら。人身売買とかって言っても抱っこしただけ…」
 否定し、再び目に涙を浮かべる真由の前に、セレネはすっと跪いた。そして…悔しさのゆえであろう、ぎゅっと拳を握った真由の手を、両の繊手で取り、包んだ。
「それはレムリアが説明した通り。貴女がその腕に幼子を抱く以前の環境の問題です。それよりも…素晴らしかったのは貴女に抱かれた幼子は泣きやんだ」
「そう。そして母なる人は気を失った…判る?貴女に抱かれた我が子を見て安心したんだよ」
 レムリアはセレネの言葉に付け加えた。
 二人の言葉は、文明先行の国の住人である真由には少々、難解であったかも知れぬ。
 セレネは微笑みを絶やさず真由を見た。
「貴女が見た通り、あのキャンプの人々は飢餓にあり、それがゆえに“命”に関わる事に関して極めて鋭敏、遺伝子に刻まれた生存本能が全てに優先している状態です。そんな鋭敏な心理が、貴女に対して安心し、貴女に任せたのです。母子が得た安らぎは、無防備なまでのその姿は、貴女が見せてくれた勇気と、守ろうとする意志がもたらした結果。貴女には本能に響く勇気と優しさがあるのですよ」
「ほ、本能…ですか」
 褒め言葉として最上位に属するであろう。真由はキツネにつままれたような目でセレネを見、次いでレムリアを見た。
「そういやレムリアもそんなこと…自分で言うと恥ずかしいけどさ」
「うん言ったよ。普段自分を傷付ける相手に向かって、私を傷付けたくないからって防犯ブザーを作動させる。後からどんな仕返しされるか判らないのに。これほどの勇気はないと思うけど?」
 真由はうつむいた。そうまで誉めてもらえる事と、日常の自分とのギャップ。
「真由さん」
 セレネは呼んだ。
「はい」
「レムリアが当面の貴女の身の振り方に付いて、幾つか提案をしたと思いますが。…どうでしょう。私たちと行動を共にしませんか?」
「え?は?」
 真由は目をまん円。
 しかし。
「でもこの船の皆さんは奇蹟のような能力の…なんでしょう?私は看護師のような技術も、魔法も…」
 しょげたように。
 セレネは包んだ真由の手をそっと撫でながら。
「確かに、この船には奇蹟の能力を持つ者が多くいます。そして貴女には、異国の乳飲み子すら泣きやんでしまう優しさがあります」
「でも…それとこれとはレベルが」
「そうかな?異国の空港で迷子になって言葉も通じない。そこで自分でも判る言葉で声を掛けられた。だからってハイハイ付いて行って良い…普通、親はそんな風に我が子に教えるかな?逆に警戒して逃げるのが普通じゃないのかな?」
 レムリアの指摘に、真由はハッとした表情で振り返った。
「それは…」
「あの子が一目で真由ちゃんを信頼したからだ、と私は思ってるけど?」
「あらそんなことが」
 これはセレネ。
「ええ。だから安心して私は赤ちゃんを真由ちゃんに任せました」
 しかし真由はまだ反論する。
「でも空港の子はレムリアの手品が…」
 頑ななまでの自己否定。
 ここまで褒めているのに何なんだと思われる向きもあるだろう。しかしレムリアはその理由が判っているから、思わず溢れそうになるものをこらえた。つまり、自分はダメだ、認められないんだと、再三再四認識を強要されていたゆえの、一種の自己暗示のなせる技である。
 気が付いた方おられると思われる。いじめられるという体験は、繰り返されることにより、このように暗示を経て固定観念になってしまうのだ。その果てが自己評価の消滅、自分という存在そのものの否定、そして自分の消去…すなわち自殺である。
 いじめられるという体験、いじめるという行為の底知れぬ恐ろしさがここにある。傍目にはからかって遊んでいるだけ。
  
 しかし内実は、拷問で暗示に掛けて殺すのと同一。
  
 “ちょっと悪口言われたくらいで何で死ぬかね”
 “自殺するほどのことか”
 “逃げるにしてもあの世に逃げることはないだろう”
 …部外者が勝手に決めつけたこの手の言は多く聞くが、これらは、暗示が現在進行中の心に対し、“加速”の方向へ作用することは言うまでもないだろう。絶望に近い状態の心が“死ぬほどじゃないだろう”とヘラヘラした口調の街頭インタビューを見る。
 話に戻る。
「手品?そうかな?」
 レムリアは唇の端でフフンと“姫様笑い”を浮かべた。
「私はそうとは思わないよ。あの子はあなたを信用した。あなた…あの子笑わせようとしたでしょ?私はそれに手を貸しただけ。大道芸見に行ったならさておき、道すがらいきなり手品見せられたら“なんだこいつ”って思わない?不安から楽しいへ変わる途中には、安心という状態が必要。安心はどこから来たのかな?」
 真由は目を伏せて黙り込んだ。
 その目に浮かぶ煌めき。
「真由さん」
 セレネが呼んだ。
「貴女なら、この船で私たちと共に活動できます」
 その言葉に真由がゆっくりと顔を上げる。その目から、現在の星空のように、あまた流れ出す銀色の滴。
「貴女には勇気があり優しさがある。それは何にもまして、この船に乗り組む者に求められる条件です」
「でも心臓マッサージも人工呼吸も出来ませんよ。子どもの相手しかできない私なんか連れて行ったら足手まとい…」
「You were saved. We go to a hospital from now on. Therefore please never give up !. We perform all can do it so that you survive.」
 レムリアは、真由がおぼれた女性に対して掛けた言葉を、そのまま言った。
「あのひと子どもだったっけ?氷という着眼点は?」
 レムリアは意地悪そうに笑った。そして続けて。
「あなたが幾ら否定しても、あなたは既に立派に救助活動に参加し、そしてやってのけてしまったのですよ」
 レムリアは言った。
「意地悪…」
 真由はぼそっと呟いた。
 涙流しながら、しかしその目元にかすかな笑みを湛えながら。
「あーいえばこーいう。全部否定してくれちゃって…もう反論のネタがないよ」
「自分の身長より高い甲板から飛び降りて何を今更『何もできない』ですか」
「副長さんレムリアがいじめます」
「あなたは素敵な女の子だって言ってるのに信じてくれないからです」
 ちなみにレムリアは怒ってそう言っているわけではないが。
「真由さん」
 セレネはレムリアを手のひらで制し、改めた。
「はい」
「すぐに回答とは申しません。ただ、一度真剣にわたくしたちの活動への参加を検討頂けませんか?わたくしたちには、貴女が、必要です」
 セレネは真由の手をぎゅっと握った。
「必要…」
 真由の瞳が揺らいだ。
「ええそうです。人を安心させる能力。それが、貴女の魔法です」
 真由は絶句した。
 その瞳見開いたまま。
 彼女はセレネを見る。今まで即座に拭うことの多かった涙を、見せまいとしていたであろう涙を、ぼろぼろと溢れさせたまま。
「そんなこと…」
「言われたこともないし、実感もないかも知れません。でも、貴女は、“自分のせいで誰かに迷惑を掛けたくない”、という強い想いが常にあります。違いますか?」
 真由は一旦涙をぬぐい、セレネを見た。
「はい」
「だから、貴女と接した人は、貴女に対して安心感を抱くんです」
「でも…」
「学校では拒絶されてしまった」
「…はい」
「だから違うのでは。そうおっしゃりたいのですね。その理由は恐らく、貴女が安心を勝ち得るからです」
「えっ?」
 どういう意味だろうとレムリアも思った。言葉尻だけ捕まえれば、受け入れられるのも、否定されるのも、どっちも同じ理由ということになる。
 が、口を挟むのはセレネに制されたこともあり控えた。しかも本当なら、もっと彼女に関しては本人に認めて欲しいダイヤモンドが山ほどある。自分で見えないと思っているダイヤモンドが山をなして輝いている。
 だがセレネに任せた。というのも、ここでセレネが自分を制したのは、恐らくは。
  
 “大人”の出番なのだ、と思うからだ。
  
 
 ああ、と合点行くものがある。自分が彼女をこの船に乗せようと思った理由…夜っぴて流れ星はもちろんだが、無意識裡にはこの、それこそ自分自身を受け入れてくれた大人達、子どもを“子ども”としてだけではなく、ちゃんと“人間”として捉えてくれる、認めてくれる大人の存在があったのだ。この船の連中なら、彼女を正確に受け止め、受け入れ、そして彼女自身気付かないダイヤモンドを発見し、認識させてくれる。
最も、そもそも論として、自分がジタバタ走り回って、“彼女を見て”と大人に働きかけている方がおかしいのであるが。
 セレネは微笑んで。
「貴女を知った人が貴女に安心する。それは、そうではない人たち、常に敵意を向けられている人たちには、気にくわないのです。後から入って来たくせにいい子に見られようと思って、ぬけがけされた、と感じるのです。あなたが人より優れているように見える…これは多分、レムリアも言ったと思いますが」
 真由は、セレネを見たまま、羽化したばかりの蝶の翅のように、まぶたを一回、ゆっくりと閉じ、開いた。
「自信をお持ちなさいな」
 セレネは真由の頬に触れ、姉が妹に言うように、軽く言った。
「いじめたいと思うくらい、貴女の“安心させる能力”は強いということなんですよ」
 真由の瞳孔が目に見えて開くのがレムリアにも判った。
 自分の瞳も同じように動いただろうと実はレムリアも感じた。そういう言い方は思いつかなかった。
 セレネが続ける。
「今の貴女が、わたくしはとても愛おしく感じられます。成長した貴女が、どんなに素敵な女性になるか、目に見えるからです。貴女は、貴女のままでいい」
「そう…でしょうか」
 真由は小さく言った。
「本当に…私は、今の私でいいんでしょうか」
 それらは彼女が初めて口にした、自分の現状に対する肯定。
 でも、言葉と裏腹に、顔は再びうつむき加減。
「ええ」
 セレネはまず笑みを作って。
「保証しますよ。わたくしは、これまでもいろんな女性が女の子からママになるまでを見ています。このレムリアと一緒に、貴女がレディになって行く姿が見られるかと思うと、心が躍ります」
 真由は、自分の頬に触れているセレネの手に、自分の手をそっと重ねた。
 その言葉信じていいの?と、問うが如く。
 セレネは、真由の下向き顔に自らの顔を近づけ。
 そして。
「命に関わる活動に、お世辞や冗談で、加われなど申すものでしょうか」
 途端、真由はバネが弾けるような動きでセレネを見上げた。
 震えわななく口元。セレネは、大きな蝶が音もなく翅を閉じるような動きで、星雲の広がりを持つローブの袖で真由を包み、抱き寄せた。
 それはまるで母…レムリアはそう感じ、ハッと気付いた。
  
 彼女が、母親不在状態であることを今さらのように思い出す。
  
 途端、怖いような気持ちに襲われ震えが来る。友だ味方だと鼓舞していたが、実際何より必要だったのは、それこそ彼女の全てをまずは全て受け止める(二重表現ではない)、母のふくよかな胸、だったのではないか。
 自分は傷ついた彼女を引きずり回し、ド突きまくっていただけではないのか。“鬱にある人を励ますな”…最大の禁忌を自分もやらかしてしまったのではないか…。
「真由ちゃん!」
 レムリアは思わず彼女の名を呼んだ。
 今度は自分の目からぼろぼろ涙が出てくるが止められない。止める気も起こらない。
 真由がセレネの腕の中から自分に目を向け、そして驚いたように目を見開く。
「レムリア…ど、どうしたの?…私?。私が違う違う言い張ったから?」
「そうじゃなくて…私…今までとんでもない勘違いをしてて、あなたを傷つけ続けたんじゃないかって」
「なんで?なんで?そんなことない。嬉しかった。あいつらの前であめ玉を踏みつぶしたあの瞬間、レムリアは私を守ろうとしているって判った。だから私は、レムリアを裏切らないと誓った。傷ついて?とんでもない。あなたは“誰かといて安心出来る時間”っていうのを私にくれた。何もしなくていいって思える時間を私にくれた。あなたと一緒にいる時間がとても楽しい。一瞬一秒が愛おしい。“あいつら”ばかりが頭にあった日常に、あなたの声がある、笑顔がある、私のことをいつも考えてくれる。幸せだし贅沢だよ。だってあいつらのことなんか、もう、ああそんなことあったね、だもん。
 だからお願い、泣いたりしないで。あなたは間違ってなんかいやしない。あなたは私を救ってくれた。私叫べるよ。あなたは私の友達だって世界中に胸張って叫べるよ!」
 迸るような真由の言葉に、どう返していいのか判らなくて、レムリアはただ両の腕を広げた。
 しゃがみ込んでいた真由が立ち上がり、セレネの元を離れ、同様に腕を広げ、
 出会った夕暮れと同じように、互いに力一杯、腕の中に相手の身体を感じる。
「もう違うって言わない。判ったよ。レムリアがそう言うならそうだと信じる。私はこれでいい。この船で、奇跡のような皆さんと一緒にやっていってもいいんだって信じるよ」
 真由が言う。レムリアはただ頷き、そしてただ、腕にぎゅっと力を込める。出せる目一杯で愛おしい友を抱きしめる。すると同じ力が友の腕から戻って来て、自分たちの身体を締め付け、結ぶ。
 息苦しいが心地いい。感じる拘束力が逆にいっそうそれを求める。彼女の鼓動を身体で直に感じ取る。自分の鼓動が彼女に伝わり、それが更に自分に戻って来ることすら今は判る。
 するとその時、何かが、手首でフッと切れ、外れた。
「あっ」
 それは真由も同様だったようである。二人は身体を離し、各々手首の異変に気付き、足元に目を向けた。
 重なるように落ちている、編まれた刺繍糸の切れ端。
「ミサンガですか」
 セレネが言い、微笑みながら立ち上がった。
 二人のミサンガ。
 エビフライの店の前で、二人同時に手首に巻いた、二人の願い。
 そのミサンガが切れるということ。
 真由は切れたミサンガを手にした。
 振り切るように涙を拭い去り、セレネを見上げる。
 見上げた顔の、瞳に光を与える、数多の流星。
 僅かな風になびく髪。
 レムリアは、真由の背丈が、セレネとさして変わらない長身であることに、今さらのように気付く。
「副長…さん」
「はい」
「お返事の件、ですが」
「急ぎませんよ?」
「はい。いや、お断り、という意味ではないのですが、ご承知の通り夜遊び中の身ですし、仮にお言葉に甘えるにせよ、父の許可は得たいと思いますので」
 真由の言葉に、セレネはゆっくりと頷いた。
「そうですね。まずはともあれお父様の元へ、がよろしいですね。…ああ、流星が…しかし今夜は本当に多いですね。眺めていると、しし座へ向かって吸い込まれて行くようです。では、日本へ船を向けますよ」
「はい」
 二人は答えた。
「ミッション・コンプリート」
10
  
 携帯電話の時計が示す世界時。
 日本時間に直すと午前4時と出た。真由の気持ちは大きく変わったし、彼女が続いてアルゴプロジェクトに残るにせよ、プチ家出から一旦戻るには、丁度いい頃合い。
 船は甲板に二人の少女を乗せ、ユーラシアの今度は北部、ロシアよりシベリア域を横切って日本へと向かう。流星は変わらず途切れなく飛んでいるが、さしもの“しし座大流星雨”もピークは過ぎてきたようで、セレネが言ったような吸い込まれる感じは最早ない。陸域が途切れ、程なく、指向する日本海、その向こうに、眠りを知らぬかの如く、日本列島が明るく見えてくる。灯火で列島の縁取りが浮かび上がるのだから相当なものだ。まさに今宵訪れた地とは対極に位置する。
 と、そこでイヤホンがピンと音を立て、緊急事態と同じ急加速で船が降下。
 しかも行く先は日本。
「日本で、ですか?」
 レムリアは問うた。
『ええ、絶望の淵に立った男性がいます。…真由さんの方が適任ではないでしょうか』
「私…ですか?」
 イヤホンのセレネの声に、真由は自分を指さした。
 船が止まったので下を見る。砂浜に立つ灯台。
 愛知県知多郡美浜町(ちたぐんみはまちょう)…常滑駅から知多半島先端方向へ南下することおよそ20キロ。
 真由があ、と小さく言った。
「ここ野間(のま)灯台?…うわマジ野間じゃん。あ、親父」
「え?」
 言われてレムリアは目を凝らす。
 確かに灯台頂部の足場に男性の姿があり、手すりに手を載せ、遠く海原を見つめている。
 絶望の淵の男性、とセレネは言った。
 まさか!
『レムリア、後はあなたに』
「はい判りました」
 イヤホンがピン。船の制御権が自分に移った。
 心理同期制御。すなわち“思う”ことにより船を制御する。レムリアは船の高度を下げた。ただ、まさか目の前に空から降りて『ただいま』と言うわけにも行かず、背後に回る。
 船の甲板を足場のレベルに合わせる。念のため、船にはそのまま海岸へ降下待機してもらい、二人は足場へ飛び移った。
「ただいま」
 遠くを向いた父親の後頭部に向かい、真由は言った。
 父親は反応しない。
「親父ってば。おいこら」
 レムリアは気付いた。
「お父様は、今、あなたのことで頭が一杯。思い浮かべているあなたの声だと思ってらっしゃる」
 真由はレムリアを見ると、少し考え、小さく頷いた。
「お父さん」
 父親は身体をびくりと震わせた。
「お父さんただいま。夜遊びごめんなさい」
 その言葉に、父親は、ゆっくりと、顔を後ろに向けた。
「…真由?」
 灯火に翳るやつれた顔。半信半疑の表情。
 場所が場所ということもあろう。想像の真由か、現実なのか、未だ判然としないようである。
 その目が傍らのレムリアに向いた。
「ああ、看護婦さん…」
 目が見開かれた。現実だと合点が行ったようだ。
「すいません、帰りが遅くなりすぎました」
 レムリアは言った。
「それは…しかしどうしてここへ。一体どこへ?」
 その当然の疑問には、真由が答えた。
「ちょっと、彼女と勉強してきた」
「そうか」
「心配した?」
「それはな…まぁ看護婦さんと一緒だとは思っていたが」
「ごめんなさい」
 真由は頭を下げた。
 しかし父親は薄笑みを浮かべて。
「いいよ。オレにも経験があるからな。どうあれお前は今ここにいるんだ。なら、それでいい。お前さえいれば」
 その言葉にレムリアはへぇと思った。経験…つまりプチ家出の過去が父親にもあるということだろう。根掘り葉掘りどこへ何しに?と訊かない辺り、当時の自身の心理を良く把握してらっしゃると見る。
 行くアテとか目的が問題じゃないのだ。親に反発して家を出たい。ただそれだけ。そしてその衝動の背景は“ひとりの人間”としての独立心。思春期とはそういう時期。
 この父親なら今回の事態に対して、真由の最大最強の味方になる。それこそ天空の獅子が今宵自分たちの味方をしたように、“家族を守る雄々しき獅子王”として立ち上がる。レムリアは確信を持った。
  
 言って、いい。
  
 問題は。
 と、そこでレムリアは気付いた。
『お前さえいれば』と、父親は言った。
 麻子さんはどこへ?
「麻子に連絡は…」
 先に真由が訊いた。
「その必要はない」
 父親は真由を真っ直ぐ見返して、言った。
「え?」
「『朝になれば帰ってきますよ』とか吐かしたからひっぱたいた。そしたらキョトンとしてな。叩かれた理由がワカランということだろう?だから言ってやったんだ。それでお前は真由の母親になるつもりか、ってね。そしたら…出て行ったよ。歌に出てくる振られた女みたいにな。まぁ…帰ってくる気があるなら連絡してくるだろう」
 これには真由が目を剥いた。
 父親はニヒルにすら見える笑みを見せて。
「そう驚くな。確かに麻子の見立て通り夜遊び家出だったかも知れない、結果的にな。だが、それは親の取る態度じゃないし思考回路じゃない。だから、そうだと言ってやったんだ。そしたら…オレは子離れ出来てない!だとさ。それってテメエとお前を対等に見てくれってことだろ。女対女として。
 一気に冷めたよ。悪いがオレは既に父親なんだ。
 そしてコイツは母親じゃない、なれない、ああ、まだ無理なんだと思ったね。真由、お前あいつを避けてただろう。当然だと思ったな。あいつのお前に接する態度は、言葉遣いは慇懃丁寧だが、要するに押しつけねじ伏せの裏返しなんだ。まぁ…そういうわけさ。フフ、14の娘に何話してるんだか。にしても今日の流れ星は凄いな」
 父親は恥ずかしそうに頭をポリポリ掻くと、それ以上訊くなと言わんばかりに話題を変えた。今しし座中心は南南東、天高くにある。そこから四方へ星が打ち出される様は、さながら途切れぬ花火。
「流星群、なんだって。宇宙モノの映画でさ、星の雨の中に突っ込んで行くみたいなシーンがあるじゃない。あんな風に降ってた時もあったよ。それだけで地面が明るいんだ。まるで奇蹟」
 真由は言った。
「それは凄いなぁ」
「でもね。星見て喜んでるなんて凄い贅沢なんだよ」
 真由の言葉に、父親は己の娘をチラッと見、
「…それも『勉強』の成果か?まぁそうだな。平和な証拠だもんな」
 星を眺めて父娘の会話。
 もう、夜遊びはいいだろう。レムリアは船を帰した。
 全速発進。流星に混じり、しかし他の流星と軌道を異にし、白い輝点が西へ向かう。
「おお、今のはすげーなぁ。火球ってヤツが出るかもってニュースで言ってたけど、それか?」
 驚く父親の傍らで、真由が気付いた。
「今のって…」
 レムリアを振り向く。
「そうだよ。もう、いいでしょ」
「でも…」
「参加するしないの件?今のあなたは、刺激の連続でハイテンションだから自覚してないかも知れないけど、あれから4時間経ってるし、高温で乾燥した地域で走り回った。今日はもう休まなくちゃ」
「ドスターストップならぬナースストップ?」
「まぁ、そんなところ。それに、その件は重要だし大切だからよく考えて。あんなことずっとやるのかどうかってね。それからでいい。もしOKであれば、改めて、事前準備として、応急処置のレクチャーに来ます」
「判った。お礼と、よろしくって言っといてね」
 真由は思い出したように耳の無線セットを取り出し、レムリアに手渡した。
「うん」
 レムリアは受け取り、自分のも外してウェストポーチへ。
「…何か凄いことのようだな」
 これは父親。レムリアは頷いて。
「確かに凄いことだと思います。でも申し訳ありませんが女の秘密です」
 言い、ペロッと舌を出した。
「そりゃ参ったな」
「でもねお父様」
 レムリアは改めた。ようやく、これを伝えるべき時が来た。
「実はお父様に知っておいていただきたい秘密があります」
 真由が自分を見る。何を言うか悟っていると判る。でも止めることはないだろうとも判っている。
 流星は相変わらず途切れなく流れる。
「何かな?」
「真由ちゃん、学校でずっと嫌がらせされてるそうです。転校生のクセに生意気、とか。メールかネットでしょう…一晩明けたらみんなに無視だった、と」
 見開かれる父親の目線を、真由はうつむいて外した。
「そうか…」
 父親はひとこと言い、
 そして。
「それは苦しかったな。父さん、気付かなくてごめんな。ずーっと頭の中焼き物のことばかりで、お前のことが等閑(なおざり)だった。いや、大人二人がかりでお前に背を向けていたかもな。お前が何も言わないからって。ああ、自分で言ってお前にどんな淋しい思いをさせていたかと背筋が寒くなってきたよ。ひどいお父さんだな。言えないよな、自分が等閑にされてると感じてるのに、その相手に、そんなこと簡単に言えないよな。」
 父親は衝動的とも取れる動きで、自らの背丈とあまり変わらぬ長身の娘を抱き寄せた。
 真由はちょっと驚いた表情を見せたが、すぐに目の前の男の腕をそっと叩いて。
「でもこうやって夜っぴて私のこと探してくれたじゃん。最高の親父だよ」
 真由は言ったが、自戒の念か、父親が背中を震わせる。
 星が流れる。
 後から後から流れる中、東の空が徐々に白み始める。
 夜がひとつ、通り過ぎた。

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