1
咲き誇る花たちがケシの花だと知っている。
それがなぜ大規模に栽培されているかも知っている。
彼女達を乗せたワンボックス車は、およそ欧州の水準からは道≠ニは言えない悪路を盛大に揺れ走る。道無き道という表現があるが、単に帯状に連なるケシの無いところ=B
「車酔い、ないか?」
口ひげを生やした地元ガイドが訛りの強い英語で彼女に尋ねる。
「ええ」
彼女は答える。運転席以外シートが撤去され、殆ど貨物車然とした車中は人種民族様々だ。彼女はその中で唯一女性、どころか少女であり、日本の繁華街を歩いていておかしくはない容姿をしている。肩に触れない程度にカットした短い黒髪、マンガのヒロイン向きといえる大きな瞳と、ころん≠ニした丸みを帯びた顔立ち。
但し彼女は日本人ではない。
「この姫≠ネらこの位どうということはないよ」
オーストリアから参加している碧眼の男性が答える。但し強い日差しから目を守るためサングラスをしている。
車が止まる。エンジンが止まり、運転手氏がホールドアップ。少しそのまま時が過ぎ、ケシの波のただ中に取り残されたよう。予測の出来ない状況に会話が途切れて誰しも黙り込む。たまに風が吹いてクルマが揺れる。
やがて近づく複数の男あり。ひとりが彼女達が座る荷室の窓を銃口でコンコン。
同行している現地人ガイド氏が応対し、現地の言葉が交わされる。彼女は12の言語を操るが、ここの言葉は守備範囲外。
ワンボックス車の後部扉が開かれ、米国映画のステレオタイプ的テロリストそのままの男が2名、一同に銃を突きつける。すなわち、地域の装束をまとい、頭部には巻物。弾帯を2本タスキにして身に巻き、銃はカラシニコフ突撃銃(要するに機関銃)。
地元の反政府ゲリラであり。
「検問です」
ガイド氏が言った。ここから先は彼らの実効支配地域ということ。ガイドを介して現地語で説明する。
彼女達国際医療ボランティア、欧州自由意志医療派遣団(European Free-will Medical care Mission:EFMM)は、この先に内戦復興事業で巡回病院キャンプを設営している。その近所で子どもの間に伝染病の疑いが発生、この部族に専属対応者として許可されたのが彼女である。青い眼のオーストリアスタッフは身辺警護。
「(そいつは?子どもか?女は女みたいだが)」
「(とんでもない。東洋人は童顔なだけだ。我々の貴重なスタッフだ。最も、子ども達には好かれるタチだがね)」
ガイド氏の通訳を介し、検問係とスタッフがやりとり。指さす代わりに銃口を振り向けるので殺伐で仕方がない。体のいい差し棒だ。
「(聞いてた話と違うから同行させてもらうぜ。お前は降りろ)」
検問係のうち、ひとりが乗り込んできた。出発を許可する条件を2つ提示される。オーストリアの警護スタッフはここで引き返せ。そして、代わりにこの乗り込んだ男がキャンプまで同行する。
「(しかしオレは彼女の警護を)」
「(黙れ)」
これ見よがしにカチャリと音を立て、銃の安全装置を外す。その鉛筆でも扱うような気軽さには殺人機械を扱う慎重さは微塵もない。そもそも殺人に禁忌を感じていないであろうから、こっちが狼狽えても始まらない。文字通り殺すための道具である。
「私なら大丈夫」
彼女は答えた。
どころか、むしろ危険なのは彼。
「しかし……」
「銃で撃たれた経験があると度胸が据わるので」
ウソではない。
「最近の女の子は強すぎるよ」
彼は銃口に突かれながらすごすごとクルマを降りた。まるで自分が彼をやりこめたかのようだ。
ドアを閉めてすぐに発つ。検問係が後ろを見、検問所が見えなくなると向き直り、彼女に向けてニヤニヤ。
「(日本人かお前。可愛いなぁ)」
実際にはもう少し下品なことを言ったが略す。ちなみに日本人ボランティアは内戦終結後よく見かけるという。……シルクロードのこちら側に極東系の民族は見分けにくいはずだが、武器を持たない東洋人≠ヘ日本人だけという認識なので、自分もそうかと訊いてみた由。
「(アメリカの犬め)」
皮肉っぽく追加。
「私は違いますけどね。日本にも友達がいます。一つだけ名誉のために言わせてもらうと、かの国は宗教の違いで毛嫌いしたりはしません」
彼女は敢えて日本語で言った。目的はそれなりに日本知ってますよという意思表示。言葉尻の雰囲気や強さの伝達。
通訳氏が困惑。
「(日本語か?何て言ったんだ?)」
英語で言い直し、通訳、現地語。
「(だったら何故アメリカに媚びを売る)」
「(そうしないとクルマを買ってくれないから、と聞きました)」
それは日本の知り合いに言われた事。日本をヨイショしてくれるのはいいが、海外では親米と捕鯨の点で噛みつかれることが多いから、問われたら模範解答としてそう答えろ。
意趣返し。
すると、のべつ剣呑だった印象の検問係の男は笑った。
「(トヨタは好きだぜ。壊れない。サムライが作ってるんだろ?)」
検問係は言い、盛大に揺れる車内で腰からごついナイフを取り出した。
銃は背中にひょいと回す。安全装置は解除したままなので下手にぶつけると暴発するが、気にしているそぶり無し。
「(サムライは世界一の剣術使いだ。知ってるぜ。お前も実はサムライ女か?)」
風切り音が、とは言わないが、走る車中構わずかなりの勢いでそのナイフを振り回す。すなわち完全に日本人と勘違いされているがまぁいいだろう。彼らから見た場合どこの宗教圏にも属さない日本は不思議であり、その中立性は会話に有効。
「むしろ忍者かも」
彼女はやはり日本語で言って、振り回すナイフの刃先を指二本でつまんで受け止めてみせる。
真剣白刃取りのミニチュアである。これは車中の男達すべからく驚いた。但し大したコトはしていない。男がナイフをどう動かすか、その意志を読み取って先んじて指を出しただけ。
次いで。
「(どうぞ。日本のライスクッキー)」
手品の要領でパッと取り出す、要するにお煎餅。
半分に割って渡す。
「ニンジャ!ニンジャ!」
検問係は形而上の存在にでも出くわしたような、恐怖とも言える表情を浮かべ、ナイフを腰のホルダーにしまうと、彼女の真似して煎餅をバリバリ囓った。
「(美味い)」
「(子ども達でも食べられるかな?と)」
彼女がそう返すと、検問係は背中の銃を一旦戻して安全装置をセットした。
つまり、発砲の意志はなくなった。
「(お前気に入ったぞ。名前は)」
煎餅をかじりながら尋ねる。表情は幾らか温和になった。
「レムリア」
彼女は答えた。
2
EFMMの医療キャンプは赤茶けた乾燥地の真ん中にぽつんと設営されていた。陽炎の向こうに切り立った崖を望む。地質時代に浸食された川底にあたる。
人々はその崖の中にトンネルを巡らせ、土中都市を建設して暮らしている。異教徒の無人偵察機の目を逃れると共に、大地そのものを要塞として利用するためである。そしてキャンプが崖から離れているのは、異教徒が含まれているから。異教徒は基本的に異教徒というだけで処罰対象者だが、医療救命を引き換えに接近を特認されたという扱いである。何か彼らにとっての不都合が生じれば即座に処刑されることは実例を引くまでもない。もしこの地に異教側の走狗たる政府軍が近づけば、密告の嫌疑で処刑されるであろう。それが単なる偶然であったとしても、である。疑わしきは罰せよ。
ちなみに、崖の上は一面ケシ畑。異教徒が畑に手を出したら下から吹っ飛ばしてやるのだそうだ。
レムリアは医療キャンプには日があるうちに着いた。しかし、ガイドとワンボックスは早々に帰される一方、彼女はそのまま一晩留め置かれた。それは疲れたから休めというより、警戒の様子見と判断するのが恐らく正しかろう。その間にキャンプのスタッフから概況をレクチャー。
翌、夜が明けて程なく、その何もない乾燥地を走ってくる少年の姿有り。時計の針は4時25分。
伝令である。彼らはこちらに受診≠ノは来ない。往診≠フみ許可される。
彼女は気付いて目が覚め、彼が目覚まし代わりにカラシニコフを中空へぶっ放す前に起き上がった。
「(来てもいい)」
伝令役の少年はキャンプのそばまで来、銃口を天に向けたまま、片言の英語で言った。……敵対する異教徒の言語を勉強したことになるが、何のことはない、彼らが奉じるテロリストのスパイ養成合宿で習って来たのだという。
無論、欺き近づくために。
彼女が応じると程なく他のスタッフも目を醒ました。一般に4時半に起こしに来るなど嫌がらせに近いが、この地では彼らのルールが絶対なのだ。5秒後に逆のことを言えば、5秒後からはそれが新しい法。
許可を得て洗面と携帯食料の朝食を済ます。その間じっと待っていた彼を昇った朝日が照らす。日焼けした肌に天然パーマの黒髪。ブラウンの瞳。引き締まった表情は戦士であるという自覚もあろう、大人びて見える。体躯は絞り込まれ筋肉質であり、小柄なサッカー選手のそれを思わせ敏捷そうな印象。そして背中にはカラシニコフ。
「(お前か、子ども係は)」
レムリアが差し出した紙コップの紅茶を断り、彼は訊いた。次いで医師や看護師の白衣は怖がると言われたので、白いTシャツに水色のカーディガンを羽織る。下はくすんだグリーンのGパン。
以下邦訳を意味するカッコ付けを略す。
「ええ、初めまして」
「お前も子どもじゃないか」
オトナには見分けが付かなくても、子どもにはそれと判るもの。
実際の年齢は、14歳。それで看護師というのも希少であろう。
「虫歯があるでしょ。何か食べると歯が痛い」
指摘したら、果たして彼は驚いた。
「見ただけで何故判る!?」
「看護師ですから」
当たり前のように言ってちょっと自尊心をくすぐってみる。……ただし、看護師というのは本当だが、虫歯を見抜いたのはその結果というわけではない。彼女には、先のニンジャとは違う傾向の秘密が少々ある。
「それよりも子ども達に流行り病と聞いて来たんだけど」
「そうだ。お前の他には誰が来るんだ?」
手を上げたのは短い金髪に碧眼の男性スタッフ。小児科医。スイスから。
「了解した。言っておくが、お前に許したのは病気の子を看ることだけだ。指定した場所以外に1インチでも動けば殺す」
少年は銃に手を掛け再度強調した。住居内は神聖であり、基本的に同じ民族しか入れない。そのため彼らは当初、異教徒でない丸腰の女医師を寄越せと要求した。対して同じ肌の色した看護婦なら用意できると応じたところ、許可されたのが彼女である。以下、族長と何度も協議し懇々と説得したところ、丸腰の女である上、コーカソイドでないことが決め手となったとか。それでも、これ以上は絶対に無理という妥協点として特認中の特認だそうである。ちなみに女を指定した意図は、何かあっても素手で殺せるという理由による。……彼らにとって女は単なる柔弱な存在、しかし一族の存続に不可欠だから保持しておく、程度の認識。
持って行く機材を一つ一つ彼に見せて大型のバッグに詰める。無論、バッグは手品同様、先んじて空であるところを見せておく。問診キット一式に注射器たくさん、抗生物質、超音波解析装置……お腹の赤ちゃんを見るのに使うあれ……である。及びその際塗布するジェル。
「この機械はなんだ」
少年は解析装置をバッグに収める動作を制して言った。……テレビに近似だが似て非なる謎の箱であり、疑う理由も判らぬでない。
「身体の中を切ったりせずにある程度覗くことが出来る……」
「そんなこと出来るもんか」
「あなたの虫歯も口開けずに見えますよ。やってみせましょうか?」
「オレに触るな」
突撃銃の銃口がこっちを向いて、安全装置ががちゃんと外れた。
ええい面倒くさい。
「めいど・いん・じゃぱん」
指さして言う。別にウソではない。裏の銘板を見せる。読めたようだ。
そして実は日本≠ニいうフレーズは、自分の知る限り、国際的な緊張を一瞬で解くマジックワード。
「私自身で」
言って電源を入れ、起動を待ち、自分の頬にバーコードリーダのそれに似たようなセンサ部分をあてがってみせる。歯並びが3次元で表示される。
「胸に当てるとこの通り心臓がドキドキ」
「ば、バカヤロ」
彼が目を逸らして照れてから、彼女はその理由を知った。
「持ち込んでいい。オレの後ろから付いて来やがれ。走るんじゃねぇぞ」
荷造りを終えると、少年がテントの下から洞窟都市の方へ声を発した。行く旨報告であろう、朗々とその声が反響する。少しあり、洞窟側から応じる声が聞こえ、男が2名現れ銃を掲げた。
2名は銃を下ろしてキャンプへ向けた。疑義あればレムリア達はおろか、キャンプ丸ごと銃撃するぞ、というわけだ。
機器のバッグは少年が担いだ。レムリアと医師はホールドアップさせられ、そのままの状態で彼について行く。
「重くない?それ」
測定器はバッテリー内蔵で10キロ以上ある。
「無駄口を聞くな。それから、オレの足跡以外踏むな。1フィートずれたら地雷を踏むぜ」
洞窟に近づくと、待っていた男達の顔に驚きが浮かび、構えていた銃の向きが若干下がった。
「女って小娘じゃねぇか!」
「オレがそっちだ。ボディ・チェックさせてもらうぜ」
……現地語だが、判るものは判るもの。
果たして彼女めがけて我先状態の二人の間に彼が身を差し入れた。
「頼まれたのはオレだぜ兄弟」
見れば彼らは顔が似ている。彼は大家族の中で最年少の男、と知れた。
「悪いな下品な兄どもでよ」
「いいえ」
それが下品と言うことが判っているだけ君はマシ。
充分に婦女子への敬意を感じながら足首から太ももまでタッチしてチェック。
「服の下には何もないだろうな」
自分から証明する機会をくれたのは彼の気遣いと捉えるべきだろう。Tシャツを少しはぐってバタバタさせる。恥ずかしがるほど胸のサイズが無いのが、かえって何もない≠フ証明をたやすくしているのは何の皮肉か。
すると、
「おいちょっと待て!」
彼は大きな声を出して彼女を制した。
「ん?」
言われた通り動作を止めると、彼は銃を背中に回し、腰を屈めて彼女のヘソの脇を覗き込んだ。
「銃かこれ」
横腹に抱えた弾痕に一言。
「ああ、うん。こんなことしてれば撃たれるし、命中することもあるよ。でも助けるべき命はそういうところに多いわけで。怖がっていたら何も出来ない」
彼女は言ったが、実際に撃ったのは米軍である上、医療ボランティアの活動とは無関係。本編とは関係ないので省く。
ちなみに綺麗に貫通したので、マンガの老兵のように不発弾を腹に抱えて歩いているわけではない。
果たして彼はTシャツを下ろさせた。
「女ってひ弱なだけかと思ったぜ。おい兄弟、この女は戦士だ」
おいおい。
「しかもサムライだ」
「お前は黙れ異教徒」
調子づいて補足した青い目の小児科医は、カラシニコフ3挺を向けられてホールドアップ。
「お前に免じて近づくことを許す。その窪みを踏むな」
「ありがたいこって」
「だからてめぇは黙れ。必要なこと以外喋るんじゃねぇ。これ以上言わねえぞ」
軽口の小児科医は即座に何か返そうとしたようだが、さすがに今度こそ黙ってやり過ごした。
3
入村の儀式として掟の読み上げを聞かされる。要約すると、許可されたこと以外の勝手な行動は処刑対象。族長の姿を見るな。ケシ畑について口外するな。洞窟住居は彼女以外入ってはならぬ。……処刑は勿論、即座に死刑。である。
「質問いいか。オレが入らないでどうやって診察治療するんだい」
「この娘には見せる。娘の見立てをオレが伝令する。それでてめぇが判断しろ。薬とか必要なモノは運んでやる」
それは事実上彼女が診断≠キるに等しい。
同じ事を医師も思った、とその困った顔は示していた。
「そんな無茶……」
「黙れ。だから女医者と言ったじゃねえか。聞かずにこいつを寄越したのはお前らだ。だったら文句を言うな」
銃口が医師の口に突き刺さらんばかり。
「まぁ、出来る範囲のことをしましょう」
彼女は言った。その時はその時だ。
「オーケイ」
銃口が下げられ、命令その1。他の子どもが罹患してないか診察しろ。
医師は文句言いたげだったが、口に出す寸前でため息にすり替えた。言いたいことは判る。普通は病気の子をまず診て、その結果に基づいて同じ病気の可能性がないかを確認する。順序が逆。
命令を承知すると年季の入った木製の椅子と机が出てきて座らされ、洞窟都市に声が飛び、子ども達が走り出てきた。
彼らの服装はハッキリ言ってボロ布をまとったような。
乾燥地だから目立たないだけで、衛生状態は良くない。生活排水であろうか、土中都市からチョロチョロ出てくる水は汚泥混じりに思われ、実際、少々臭う。
ただ、幼子たちは元気であり、その目の輝きは天真爛漫。にっこり笑って銃撃つ真似事「異教徒をぶっ殺すんだ」ダダダダダ……多分。
ともあれ、彼女がしゃがんで腕を広げたらあっという間に囲まれた。
みんな同じ言葉を口にしながら、青いカーディガン引っ張ったり頬ずりしたり。その言葉は殺すとも異教徒とも異なる発音。
「天使の服、なんだよ」
そもそも青い服は珍しいらしい。目立つから着ない上、この地の服地は基本、麻。仮に染めるにしても、古来青い染料≠天然の産物から調達するのは至難の業。宝石であるラピスラズリを砕く程度しか手は無く、畢竟、神権の象徴や王家貴族のステータスシンボル。
結果キラキラの瞳に囲まれ、カモの子のように引き連れて診察の準備。机は本来彼がこの子達に教鞭を執る際の教卓だという。そこに測定器をドッカと載せ、バッテリで起動すると、子ども達がワッと集まって電子画面のスタートアップを覗き込む。その手に手におやつを配り、男達にも手渡す。
せんべい。
「なんだこりゃ。米帝のウンコか?」
日本のお菓子で原料がコメだと説明したらやはり顔色が変わった。
子ども達を並ばせ、順次診る。そもそも走ってきた程なので、やや身体は小さい気はするが、少なくとも病気ではない。むしろ伝令の彼同様、体脂肪率の低い引き締まった体つきだ。流行り病と聞いて想定したのはコレラや赤痢だが、この様子ならそれは無いと断言できる。ただ、みんな小さな擦り傷をあちこち作り、前述の衛生状態であるため、破傷風の予防注射。痛そうだが泣き顔を見せないのは神に庇護された子≠フ自負だろうか。
想定外の予防注射で破傷風は残り一本。ただまぁ、みんなオーケイだから良かろう。
そろそろ本題に入りたい。
「それで?流行り病と聞きましたが?」
ウソ付いて自分たちを呼びつけ、例えば人間ドックのような検査を首領や支配者に施せ、という集団もある。その類例を疑ったが、病気の子がいるのは本当で、その伝染の可能性から隔離しているという。ちなみに、この子達を先に診断させたのは、その子の病気が医師や看護婦にうつり、そこから元気な子へ伝染したら困るから、だそうだ。
「お前たちが死んでもどうでもいいが、戦士となるべき授かり物のこいつらが死ぬのは困る。案内するからついて来い。女、お前だけだ」
彼女が準備する間、医師は銃口を向けられホールドアップ。彼女は応急処置に必要な用具一式リュックに背負い、その医師を机に残して立った。
少年はその間に洞窟まで往復した。戻った手には火の付いた松明。
炎を掲げて洞窟都市の奥深くへ案内される。足もとの汚水と、時折感じる天井からの雫が気になる。なお、汚水の捨て場を外部に設けないのは、発酵して熱を持つと無人探査機に察知されるから。及び、侵入者があった場合に内部の堰を切って侵入者めがけて鉄砲水≠ニするため。
排泄物を武器にするのはローマ軍などに見られると彼女はどこかで読んだ気がした。
と、思考を遮るうめき声。そしてリズムと音階を持った祈りの声。
うめき声は子ども、しかも乳児であり、祈っているのは父親。と判じる。
赤ちゃんが泣く≠フではなく、うめくというのは尋常ではない。
ひどい臭い。
近づく前に様子を見たい。思わず立ち止まると、少年が引き金に手をして俊敏に振り返った
「オレの見てないところで勝手な行動をするな!」
「ごめんなさい。空気感染する危険な病原菌の可能性が無いかと気になって」
彼女は答えた。
「あなたも出来るなら近づかない方が……いつも様子を見に?」
「妹だ」
止めるわけには行かないか。
自分達の会話に気付いたか、祈りの声が一旦止まった。粗末な布を巡らせた幕屋があり、彼がその布をめくる。
祈祷の装束であろうか、貫頭衣を着、帽子をかぶった父親が彼女を見る。次いで面食らって眉をひそめる。
彼が割って入り、親子の会話。父親は頷くと彼女に目を向け、恐らくは症状の説明を身振り手振りで懇々と始める。
対し、彼女は頷いて応じつつも、一見して症状を理解した。逆エビ形に反り返った身体と、食いしばられた口蓋。顔面に浮き出た筋肉の造作。
それこそ。
「破傷風(Tetanus)。表の医師にさっきの注射(破傷風免疫グロブリン)を。1本残っていたはず……」
本当は菌の有無が確定しないと判断を下せないが、特徴的な様態はまず間違いないし、仮に間違いでも構うまい。疑わしい段階でも本日先ほどのように予防的に使うくらいだ。
「なに?どんな病気だそれ」
説明しているヒマはないのだが。
「細菌感染症の一種。神経に重いダメージを与え、筋肉を無茶苦茶に動かし、身体を弱らせる。この流行り病≠ヘ、他の子も同じような状態?同じ状況で暴れて骨を折ったり、舌を噛んで亡くなったりした子はいない?」
該当三人。皆、既に死んだ。
ちなみに破傷風菌は空中を飛ばない。不衛生な土中に棲息し、主として傷口から侵入する。
そして、ここは不衛生。
なので感染というよりは、不衛生を基点とする何か共通項がある。と思って訊いたら、犠牲は全部彼の弟や妹だったという。
「何でキャンプにもっと早く……」
「神が家族をお試しになっているんだと思って」
死ななければ神の庇護下。
敬虔なのは不信心より結構なのだろうが、非論理的なのは弊害と言うしかない。
反射的に怒鳴りつけたくなる。しかし、音や光の刺激が破傷風には良くないことに気が付いて、
代替として取った行動は。
平手打ち。
しかも頬骨のあたり。鈍い音がしたのでほっぺにビンタ≠謔閧熬ノかったと思われる。
実際彼は濡れた通路に尻餅をつくことになった。存外に力が出て張り倒してしまったのか、柔弱なはずの女の子にひっぱたかれて腰を抜かしたのかは判らぬ。
あまりの出来事に、きょとんと固まってしまった彼に対して。
父親の方が動いた。腰のナイフを抜いて構え、低い声で脅迫調。だが次の行動に移ろうとはしない。どうやら警告と言うことらしい。次は躊躇しないぞ。
その、構えたナイフ。
血痕がある。彼女は見て取った。
それは、疑問の答えと認識した。
「殴ったのは申し訳ない。でも君が命を粗末にし過ぎるからだ。神様が試したんじゃない、不潔にしている人間が原因だ。病気を広めたのはこのナイフ」
説明すると瞠目した。
父親への通訳を頼んで確認を試みる。
「そのナイフで、この子の臍の緒を切りましたか?」
答え、イエス。同じ症状の弟妹も然り。
「そのナイフは他にどんなことに使っていますか」
万能ナイフだという。ここは良くネズミが出るから投げて刺し殺す。
果たして、父親が指さした足下、汚泥の中にネズミの死体。
間違いなかった。ことごとく不潔なナイフを使うから、ことごとく感染するのだ。破傷風菌はこの刃に常在しているのだろう。
ちなみに不衛生な新生児対処で破傷風というパターンは途上国での典型例と言える。へその緒を切るというのが儀式化しているゆえに、最も不潔に弱い状態で不潔が繰り返される。
「呪われているのはそのナイフだ」
彼がそう通訳したせいで、父親が激怒した。
何事か怒鳴り、その怒声に幼子が驚いたようでびくりと震え、その小さな身体にあるまじき勢いで暴れ出す。
破傷風は神経に影響を与え、その結果として筋肉がひどく突っ張り、前述の身体の反りや歯噛みの様態を呈すわけだが、他に、僅かな刺激で爆発的な筋肉運動が惹起される現象も現れる。視覚、聴覚、触覚、嗅覚、振動……ささいな刺激で七転八倒し、その際例えば、自分の筋力で背骨を折る、舌を噛むなどして死に至るのだ。人間は五感から刺激を受けると応じて何らかの反射を示す。破傷風は通常なら言わばぴくり≠ナ済むようなその反射が一気に全身発作になり、自身の命に関わる。
父親は押さえつけようというのだろう、幼子の身体に覆い被さると、予告通りに彼女にナイフを投げつけた。
しかし次の刹那、彼女は左手の人差し指と中指の間にそのナイフを挟んで取った。
車中で見せたワザと基本的には同じである。応じて父子は度肝抜かれたようにそれ以上の動作を止めた。
そして、そのストップモーションが効いたらしい。幼子の発作も治まった(押さえつける行為自体、幼子には激甚な刺激)。
ただ、車中に比して失敗が一つ。
指の間から手の甲へと血が流れ出す。指の間の水かき状の部分に刃が触れて切れた。
破傷風菌の付着したナイフの刃が。
4
「う……」
勿論こんな活動しているのでワクチンを受けては来ている。
怖くはない。
10年と言われるその効力が正しければ。
「お前……」
流れる血筋に彼が腰を浮かせる。一方、妹の様子も気になり。
ただ、その状況を彼女は好都合と受け止めた。
「呪いは私の身体が引き受けた。このナイフと引き換えに病気を治す」
携帯電話をウェストポーチから取り出し、「てれほん」と見せる。ちなみに彼女の電話は世界各地を飛び回ることから衛星携帯電話。電話と言うよりは軍用無線機を思わせる無骨な機器である。ボタンをあれこれ押して音声メモ機能。
「医師に伝えて欲しい。不潔ナイフによる臍帯(さいたい)からの感染による破傷風の疑い濃厚。TIG必要。それからへその現況によってはデフリードマン要となる可能性あり。用意して欲しいもの。ペニシリン、メトロニダゾール、テトラサイクリン……」
言いながら携帯電話にその内容を録音する。その電話と、ビニール袋に入れたナイフを持たせる。
「これ持ってって医師に聞かせて」
「判った。あんたは平気か。血が止まらないみたいだが」
「パカパカ動く場所だから仕方が無いよ。私のケガは黙っておくこと。君の秘密で」
「い、イエス・サー」
強く言ったら、ビンタの効果だろうか、恐怖を感じたようで、彼はこわばった。
電話をしっかり胸元に抱える。濡れないようにであろうか。
彼が外へ出、次に行うことは幼子の気道確保。舌噛み防止。
破傷風では前述の筋肉暴走の結果、自らの筋力で気道を塞いだり、循環器系に障害が起きたりして死に至る。
このためマウスピースを装着し、舌を保護すると共に、気道まで直接パイプを差し込むという対応が取られる。
ただ、その前に自分を止血し、血が幼子に触れないよう手袋をする必要があろう。
それこそ自分の傷口に付いた破傷風菌が幼子の口から入る。
ウェストポーチを開いてソフラチュールを取り出し、そのプルプルしたゼリー状を食いちぎって傷口にかぶせ、サージカルテープを貼って固定。
ゴム手袋を付ける。ポーチの中から日本の割り箸を取り出して……
舌を噛まないように上下の顎の間に噛ませとしたいのだが、なにぶん凄まじい力で歯を食いしっばている。
そこへ少年が戻ってきた。
「言われた通り電話を渡した。口を開けるならこれを使えと」
気道確保用のツールを持ってきてくれたので使う。薄い金属板を噛みしめられた歯と歯の間に当て、少し押し込む。ネジを回すとその金属板が少しずつ変形して顎を開いて行く。工作物を固定する万力(まんりき)という工具があるが、そちらは締め付ける道具であるのに対し、同じ原理でこちらはオープン。
途中道具を交換し、2種類の道具を使って大きめに口を開かせ、マウスピースをセット、胃カメラを挿入する要領で気管へパイプを通す。
ここで件の超音波診断機が活躍した。人工呼吸装置の挿菅は慣れてはいるが、中の状況が見て取れる道具があるなら使うに越したことはない。
「それと、注射、なんだけど」
「ちょうだい」
「君に使え、と」
彼女は怪訝な顔をした。つまり。
「言っちゃったの?このケガのこと」
「ごめん……その、うまく言えないけど」
彼の説明は略す。要するに誘導尋問にイエスと答えた。
次に電話に録音で返されたメッセージを聞く。既に全身症状が出ているならTIGはもう効かない……。
だから自分に打て。しかし彼女は無視した。出来ることは出来るだけやるのだ。
彼に手伝ってもらって各種薬剤を幼子に注射。当然強い反射が見込まれるので麻酔剤を皮膚に塗布し、極細の針を使う。
「それも……いいのか?」
TIG投与完了。
「平気だよ」
答えてヘソ、感染源の処置だ。産着であろうか麻布を切り取って。
周囲がひどく化膿しており、デブリードマン……その部位を切り取る……要の判断。
もう一度麻酔剤を塗布。描写は控える。父子は目を背けるでなく、手伝うでなく、彼女の所作をずっと見ていた。
消毒をしてガーゼとテープ。
「やるべきことはやりました」
彼女は言った。男達の表情が僅かに緩んで安堵の兆し。
そこで気付く。この子の母なる人は?
尋ねた回答、閉じ込めてある。
その理由、この病気が母親のせいなら閉じ込めることで感染は収まるだろう。
何故にそこで母を疑う。
「でも、違うんだよな」
彼は言った。ナイフ経由というメカニズムは医師からの補足もあり理解したという。
「当たり前です。閉じ込めるとか何てひどいことを。あなた方は女を何だと思ってるの。ただ、お母様には、お母様自身にうつってしまうから、処置は終わったけど少し待ってと伝えて」
もちろん、実際にはそれのみならず、パニックで大声など刺激のある行動を取られると困るから。という側面もある。
少年が伝令に出たのを見送り、彼女は幼子の傍らに腰を下ろす。
「……」
父親が異国の語で何か尋ねた。この後どうするのかという意味のようだ。
あの攻撃性や粗暴さはすっかり影を潜めている。自分が形而上的な何者かとつながりがあるのでは、という認識。
「見守ります。見守るしかありません」
彼女は言い、幼子の汗をガーゼに吸い取らせた。言葉は通じなくても気持ちは理解してもらえる、そんな気がする。
実際、どんな名医でもできるのはここまで。現在までの所、人類は神経細胞に結合した破傷風菌毒素を再分離、攻略するまでには至っていない。そして、上記の激しい身体の様態は、毒素が神経細胞を冒していることを示す。
だから、前記筋肉の硬直は発作的に生じるが、いつ起きるか判らない。昼夜の別はない。
24時間体制で体内の戦いに付き添い、危機が生じたら即座に手を差し伸べる要がある。もちろん、一般の病院であれば集中治療室で対処する。
少年が戻ってきた。父子の会話があり、父の言うには、
「あんたがさっき何を言ったか判らない、と」
「見守るしかありません、と言いました」
「いつまで?」
「症状が緩むまで。何日か、1週間か……」
「どうやって」
「私が」
「一人で?」
「もちろん、医師も承知しているはずです。入室を許されたのは私だけなのでしょう?」
彼女は言った。医師にその旨告げたら交代を言い出すであろうが、自分が拒否することもまた知っているであろう。
むしろ、この父親が自分に対する認識を変えた以上、自分が継続的に状況を見る方が合理的だ。
父親が何か言った。
「天使だ、って」
「お父様は食事をお取り下さい。東京に兄貴分の男がいますが、彼が教えてくれました。『腹が減っては戦が出来ぬ』」
5
破傷風のこの状態は第三期と呼ばれる。
コミュニケーションが困難であるため失神状態と捉えられがちだが、実際には意識は清明で、間断ない激痛の故に眠ることはもちろん、失神すらも不可能な状態が続くという。痛みが続く他の病気、様態にあっては、さすったりするだけでもかなり和らぐものだが、これの場合、さする行為が刺激になるため、見守ることしか出来ない。
ただ、彼女はそれに耐えられず(我慢できず)、試みに幼子の手に準静的とも呼べる動きでそっと触れた。すると、刺激的反応を生じさせないことには成功したが、大人ですらかくやという筋力で指を握られて抜けなくなった。
6時間が経過した。
「食べてないじゃないか」
深夜になり少年が姿を見せ、彼女が食事に手を付けていないことを知り不満をもらした。
羊肉のステーキ。切って焼いて木の皿に載せただけ。
「手が使えない。これで無理矢理引き抜いたら何が起こるか。大丈夫、一晩くらい問題ない」
「俺たちのは食えないってか」
少年が不機嫌になる。そうじゃない……彼女は答えようとして口を噤んだ。
どうして、このような否定、相違する見解を受けると、ネガティブに攻撃的に捉えるのだろう。自分たちが正しい、主観、だからであろうが。
「食べさせてよ。それなら」
彼女は言ってみた。
「えっ?」
あーん、と口を開けてみせる。少年は困った顔を見せ、周囲を見回す。気にしているのは父親の存在。男が女に何か施すのは御法度なのだとか(逆は「当然のたしなみ」)。なお父親は食事以降戻ってきていない。族長と話し込んでいるという。
「しょうがねえな」
彼は腰のナイフを抜き、肉を切って先端に刺し、彼女に突きだした。
まるで狼が群れの子に分け与えるように。
ぱく。
「ありがと」
彼女は言った。硬くて噛み切るのに苦労し、味はひたすら塩辛いが、タンパク質はありがたい。
彼の気持ちがほぐれたと知る。
「病気のことだけどさ、族長がなかなか……」
理解してくれない。彼は次の肉を切り分けながら言った。
感染に対する疑念がどうしても晴れない、科学的な説明を受け入れないという。なぜなら、感染は悪魔が次々憑依するという概念。
「お前は本当に大丈夫なのか?」
彼は彼女の手を見て訊いた。手の傷を忘れていた。
ガーゼの下から膿が出ている。
白血球達が戦っている。
「48時間以内に症状が出たら危険」
訊かれて意識がそこへ向くとズキズキ痛い。最もよく考えれば、神の加護だか幸運の印だか何だか知らないが、業界の視点では単なる極めて不潔なナイフだ。破傷風菌の他、ブドウ球菌など、化膿をもたらす系統の細菌類が繁殖していると考えるのが普通。
「……白い液が出てるぞ!?」
「大きな声を出さないで。これは私の中で病原菌と戦って死んだ白血球たち……あ」
彼女はそこで説明を切り、幼子の上に覆い被さる。
発作である。
幼子の身体は彼の声により発作を生じ、強く反り返り、跳ねる。彼女はその余りの激しさに脊椎を折ってしまう危険を感じた。
幼子が確実に落ち着く方法。
ひとつ、知っている。ただ、でも。
他に手はない。彼女は意を決すると、カーディガンとTシャツをまくり上げ、幼子に覆い被さり、胸に抱いて自分の肌に触れさせた。
胎内の赤ちゃんは、羊水に浮かびながら母親の血流と鼓動の音を聞いているとされる。
それは貝がらを耳に当てて聞くあの低いノイズとほぼ同じである。それに鼓動の音が加わったもの。
だから、誕生後も暫くはそれに類似の音を聞かせれば落ち着くとされる。母の温度を感じ、母の音を聞く。
幼子の横顔に胸元をあてがう。
感じる体温は発熱のためか炎のよう。
変化が、あった。
幼子の身体から強張りが抜けた。
それは、これで行ける。これで乗り切れると彼女が確信した瞬間でもあった。
幼子の顔をシャツの胸元から覗き込む。切りそろえた髪の毛がさらりと降りて、うつむいた13歳の横顔を彩り、彼女は安堵して小さく微笑む。
見ていた彼は言葉を発さず、そして目を離さない。
どれくらい時間が経ったか。
小さな声がして彼女は気が付いた。
そのまま、眠り込んでしまっていたようだ。慌てて見下ろすと幼子は穏やかである。腕と胸元に感じる体温は温かく、その筋肉は幼子本来の柔軟さに満ちている。
そして。
彼女はこの時、自分が女であること、そして豊かな胸を欲していることを強く激しく意識した。
幼子の手が自分の胸元を触る。
乳房を探していることは明らかだった。
第三期。それは岐路ではあるが終着を意味しない。特徴付ける筋肉の反応が収まれば、症状は緩解に向かう。
「この子のお母さんを……峠は越えました」
彼女は顔を上げ、少年に声を掛ける。彼は銃を放さず、土壁に寄りかかって口を開けて寝ていたが、彼女の言に弾けるように目を開けた。
「お乳が欲しいって。早く」
Tシャツの下から幼子を出すと、みるみる顔を真っ赤にして泣き始める。但しそれは苦悶に発したものではなく。
すると……少年が呼びに行く必要は無かった。
程なく父親が飛んで来て、彼女の腕から幼子を奪うようにして去って行く。
「おい待て親父!おい!」
少年が追いかけて行く。
彼女は彼の背中を見送り、安堵を覚えた瞬間、スイッチが切り替わるような感覚に囚われる。
堰を切ったように溢れ出す疲労と、
自分が何らかの病気にかかったという確信。
指の付け根は明らかに化膿していた。赤く腫れて火照り、その毒素はリンパに入ったのであろう、腋の下(の、ぐりぐり)が鼓動のリズムでビクンビクンと反応している。身体がだるく、熱い。
立ち上がろうとすると視界がモノクロームに変化する。アナログテレビの砂嵐さながらの様相を呈し、すなわち貧血を起こしかけていると教える。しかも、そう認識してから結論が出るまでの間延びした遅さ。
自分は恐らく大変な高熱を発している。
立とうとすると思考の間延びがひどくなる。思考速度が明確に落ちるのが判る。立ち上がることは失神を意味するであろう。
失神し、そのまま放置されたら。
自力でここから出なくてはならない。しかし、這って行くことしかできない。
寝ぼけたカメのような気持ちで動き出したら、目の前に土色でガサガサの大きな手があった。
がちゃ、と音がし、視界を横切る弾帯。
タスキに掛けていたのが、前かがみになったのでぶら下がった。
「大丈夫か、お前」
彼の声だということは記憶している。
幾らか会話したが、内容は覚えていない。
感じていたのは硬く乾いた革の感触、その匂い。カチャカチャという銃の機械音。
風が髪の毛に絡み、砂埃が頬を打つ。
彼の息づかいが間近に聞こえ、自分は背負われて運ばれていると認識したが、それ以上何も考えることが出来ない。
6
「37.2。68と90」
体温と血圧だと認識している自分があった。
誰を診てるんだっけ。
「安定したな。ゲンタマイシン切れたらどうしようかヒヤヒヤしたぜ」
「おお、気が付いたかプリンセス」
目を開くと、自分を覗き込む男の顔が3つ。
その少し安堵した赤髭と、身体を支配する気怠さに、診られているのは自分であるとようやく気が付く。
ベッドの上に仰向け。少し緩んだテントの屋根。風呂無しで数日缶詰なりの風貌と、自分の嗅覚の反応。それは、男達の野性とでも書くか。
「おっと起き上がる前に言っておくぜ。子どもは助かった。元気にオッパイ飲んでるよ」
言われて、記憶が繋がる。
「良かった」
元気はないが笑みは作れた。声も出た。
「ったく、お前さんのもたらす奇蹟ってのは自分自身の生命力を分け与えてるんじゃないかと思うね」
「破傷風……」
「だよ、その子はね。君は違う。緑膿菌(りょくのうきん)だ」
つまりこのにおい≠ヘ……自分。
傷口のある手、化膿したその部位を、ゆるゆると目の前に持ってくる。
「そこなら治療した。緑の膿ならほれ」
試験管を見せられる。その菌の感染症は、名の通り化学反応による緑色と、伴う臭いが特徴。
「面倒を掛けました……」
「気にするな。もう少し休むといい。少し食べな。オートミールか何か用意しよう」
安心か疲労か、そのどちらもか。フッと力が抜けてしまい、ハイ、という声も出ない。頷くだけ。
少し微睡んだだろうか。
ココアの匂いを意識した時、誰かキャンプに来たと判った。足音がスタッフと違う。
「彼女はいるか。治ったか」
少年であった。
「治ったがまだ動けない」
スタッフの誰かが応対している。実際、声が用意できない。
「結婚したいんだ。これを渡したい」
けっこん?自分と?
それはいわゆる先進国の文化圏では冗談以前の問題だろう。サラリと言われた事もあり、彼女は思わず苦笑を漏らそうとしたが。
こちらの文化圏では単なる本気だと気付き、身を起こそうと努力に入る。文化の相違以下、説明すべき事が山ほど。
「結婚だぁ?いきなり頓狂だな。お前彼女を誰だか判って……」
「女どもに聞いたんだ。あの娘は良く乳の出る女になるって。痩せて小さかったぞって言ったけど、今小さくても問題無いって」
少年はスタッフの声を遮り、急くように言った。
どこを見て何の評価を……彼女は今度こそ苦笑した。要は幼子を抱え込む時に服の下見られたのだろうが、余り恥ずかしいという感情は沸かない。目の前で女が服脱いだら見るのが男の子だろうと恬淡と理解している。
それとも、自分に女という自覚が足りないからだろうか。
「そしたら族長がこれを用意してくれた。お前らの世界では結婚の約束に贈り物をするのが習わしなんだろ」
「彼女は14歳だぞ」
「充分子供産めるじゃないか。会わせてくれ。すぐ終わる」
「そうじゃなくて……しょうがねぇな。そういうことは直接本人に言うもんだ。レディの病み上がりに言うには失礼だし深刻すぎる。一旦帰れ。明日また来い」
「それ追い出すつもりじゃないだろうな。彼女連れ去るとか」
「銃器持ってる奴にウソ付いてどうする。しかしお前それ突きつけて押し倒す気か」
「ふざけたことヌカすとぶっ殺すぞ。オレは彼女だけいれば他は用は無いんだ」
安全装置をガチャン。
「おお、コワ。冗談悪かったよ。ウソ言わないよ。彼女だって追い返したと知ったら本気で泣くからな。何せ勘が良すぎてウソ付くとすぐ見抜くんだ。魔法かと思うぜ」
彼女は小さく笑った。ようやくベッドの上に身を起こし、履き物を探す。
「俺は魔女でも構わない……じゃぁ、とりあえずこれだけ渡してくれ。礼だ。女って花好きじゃねぇか。異教徒もそうだろ?」
「おっとケシの花はお断りだぜ。持ち帰ったら死刑だ」
「これは違うよ。好きな女が出来たら渡そうと思って紛れ込ませてこっそり育てた」
「ポピーか?それなら請け負った。さあ、悪いけど彼女の治療が残ってるんだ。しつこいと嫌われるぜ」
それはウソ、と彼女は言いたくなった。おっしゃる通り勘はいい。すごくいいですよ。人の考えてること判ろうとすれば百発百中ですよ。
「わかったよ。ちゃんとそれ渡せよ異教徒」
彼女はベッドの枠につかまって立った。が、歩き出した時には、彼の背中が遠ざかるところ。
貧血起こして座り込む。
「おいおい起きるには早い。まぁ聞いた通りだ。また来るぞ。ありゃ本気だ。どうするね?」
スタッフはニヤニヤしながら、無造作にちぎられたのであろうポピーを一輪、彼女の前へ差し出した。
勘がいい、それは本来なら、この時点で事の成り行きを察知して然るべきだった。
だが。貧血では頭が回らない。
銃声の轟きが、いやに間延びして聞こえた。
爆竹、或いはかんしゃく玉の破裂音と何ら変わりなかった。乾いた音が一発、残響を持って崖下一帯に広がった。
「あのガキさっき安全装置……」
医師が言いかける。
彼女は気付いた。それは違う。そして、立ち上がって向きを変え、見たもの。
左側頭部から血煙を噴き上げる少年の後ろ姿であった。
走る姿が、糸の切れたマリオネットのように力を失い、慣性の法則に従ってそのまま前の方へ倒れ込み、二転三転。そのプレゼント≠ナあろう小箱が宙を舞い、落ちる。
狙撃されたのである。
なぜ。彼女はテントから走り出そうとし、
その小箱が、中から火を噴き、火の玉を形成するのを目撃する。
目を閉じると、遅れて爆発音。
少し距離があるため、鼓膜が破れるような、とまではなかったが、爆風はテントを揺さぶり、吹き上げた砂をザアッと辺りに降らせた。
「爆弾だ!あのガキャ!おいみんな逃げるぞ」
「いえ……攻めては来ません」
慌てふためくスタッフと、色めき立った他の医師らを、彼女は落ち着いた声で制した。
異国の言葉が響く。それは、父親の吠えるような声であった。
崖の上、ケシ畑があるところに、馬にまたがり長剣を天に向けた男があり、古代戦士の勝ちどきよろしくその剣を天へ突き上げて何事か叫び、やがて走り去った。
立ち上る煙と炎。ケシ畑に火が放たれ、燃えている。
「魔女に呪いのあらんことを」
彼女は言った。
「判るのかい?」
私の勘は勘というより。
「ここの現地語もレパートリーに?」
スタッフの声を遮り、再びの爆発音。
今度は崖の地中都市が火を噴く。横向きの火山噴火のように火柱が突っ走る。
彼らは住居も、畑も放棄し、この地を立ち去る気である。
「逃げたのか」
「ええ。でも元より殺そうとしたのは確かでしょう。彼の父親は私の接近を快く思っていない節がありました。私は恐らく、呪いであるはずの病気を治し、あまつさえは息子をたぶらかした異教徒の女。文字通り魔女です」
「プレゼントと称して……」
「ええ恐らく。でも私は受け取らなかった。だから」
父親は自分が魔女故に爆弾と察知し、突き返したのだ、と彼女は解した。つまり爆弾は魔女かどうかの判断材料。魔女じゃ無ければ爆死しようが、異教徒が巻き添えで死のうが、損失無し。
一方、息子の彼はそんな父親の企みは知らなかった。ただ、純粋に。
多分。推測であるが。
結果、爆弾を持ち帰られたら困る……だから射殺。そして、爆弾を察知する魔女への恐怖からか、殺すことを断念し、逃げ出した。
息子の命よりも大事な信仰……本当なのか。
子どもが死んだのは弱いからとか、或いは神の加護が無かったからとか。数と確率で考えていた節はある。
アヘンを吸うわけにも行かず、ケシの煙が収まるのを待ち、彼を探しに行く。
しかし……どれだけ強力な爆弾なのか、そこにあるのは地面に出来たクレーターだけ。
凄惨な破壊を受けた人体なら幾度も目にした。しかし、ここには憚るような描写の対象すら無い。
文字通り、吹き飛んでしまったのである。
結果、荒野の墓標は、突き立てられた銃と、焦げた靴だけ。
彼が存在したという証は……このポケットのポピー一輪。

「名前は?」
医師は油性ペンと、トリアージのタグを手に彼女に訊いた。
トリアージとは、災害救助において、被災者の身体の状態に応じて治療の優先順位を付ける行為。タグは、その結果を書き込んで足首に付ける荷札状のもの。
「いいえ。聞いてません」
彼女は首を横に振る。自分は彼の名前を知らない。彼も自分の名前を知らない。
「私が来なければ……」
男の子に言い寄られた経験はないではない。拒絶した経験もないではない。
それは、自分がそれなりに人を惹き付け、そして傷つける存在でもある証左。
でも、でも、こんなのってあるか……。
神様、あんたひどい。どこの神様か知らないけど。
「いやむしろ、あなただから受け入れて、だからこそ昨日の子は助けられたのだ。そうでなければ彼らは治療を受け入れなかっただろう。昨日の子はもちろん、汚染されたナイフで今後も乳幼児が死に続けた」
彼女の二の句を遮って医師は言い、タグの記名欄にペンを走らせる。
「思い込むな。あなたが死に追いやったわけではない。彼らは命より大事なものがあると判断したのだ。彼らは戦士だ。それが彼らにおける人命の価値だ。彼らの判断に口を出すのは、彼らへの冒涜、我々のエゴの押しつけ」
R.I.P./little assassin
(眠れ安らかに/小さな暗殺者)
リトル・アサシン/終