東京魔法少女
 
好きかと言われると、首をかしげてしまうのが正直なところであろう。
東京・秋葉原。
嫌いではない。香港にも通ずる、アジア的ゴッタ煮風とでも言うか、ぐつぐつと溢れ出てくるようなエネルギー感は、歩いていると元気をもらえる気がする。ただ、色彩的には派手だし、何より“有象無象が散乱している”という印象はいかんともしがたい。統一感のなさ、洗練されていない街の作りは、そういうのが備わった街の住人としては、たまに来るならいいけれど、住めと言われると…なのだ。
「お嬢ちゃん、終わったよ」
くわえタバコで喋ったと判る、トーンの低い男の声に、彼女は振り返る。
短めの髪を翻し、店の男の方を向いた彼女は、一見して美少女である。その黒々と澄んだ瞳は、薄暗い店舗内では自ら光を放っているようであり、思わず見つめてしまう吸引力を有する。髪の毛は肩に触れない程度でスパッとカット。背は小柄と言うべきであろう。顔立ちがころんとしていることもあって、少女マンガから飛び出してきたようだ。化粧っ気は全くなく、服装もブラウンのセーターにジーンズで洒落っ気はない。
総じて優等生的スタンダードそのものであるが、ティーン向けのファッション雑誌が販売され、少女達がモデル顔負けのオシャレと化粧をしている昨今では、逆にシンプルで目立って見える存在かも知れない。
「珍しいね、こんなの持ち歩いて。3Gとか、もっと安くて、もっと小さくて、軽いのあるよ。メールも映像も送れるよ」
くわえタバコの店の男は、彼女に、軍が使う高出力無線機のようなごつい機器を手渡した。
衛星携帯電話である。そして、店頭に陳列してあるキュートなデザインの最新型携帯電話を彼女に示す。
「いいんですこれで。馴れてるし、都合で世界のあちこちに行くので…それであの修理代は」
「そうかい。はい明細」
男は販売活動を断念すると、修理明細書を彼女に示した。“買う気がない”なら、しつこく心変わりを試みるより新しい客を待つ。
客は幾らでもいる。それが秋葉原である。
「どうもありがとう」
支払いを終え、電話と財布をウェストバッグに収め、彼女は歩き出す。
ここは駅の隣、個人店が多数入った雑居ビルだ。すれ違うのがやっとの通路はただ歩くだけでも大変。そんな通路の両側に間口1間の小さな店がひしめいているのが、この街の特徴的光景である。店先には電子回路部品、工具、携帯電子機器、果ては盗聴器や防衛関連機器までもが、雑然と隙間無く並べられている。それをスーツの男が、或いはリュックを背負った学生が、稀には顔を見られて困るのか、うつむいたサングラスの男が、品定めをしているといった案配だ。
そんな男達の背後やリュック下を通って通路を抜け、のれん状にたわわに吊された電気ケーブルをくぐり、大きな通りへ出る。頭上近くの高架線路を、轟音と共にステンレス製の電車が走る。
電話の修理以外特段用事はないので、次になすべきはこの電車に乗ること。
でもそう急ぐものでもない。小春日和だし、たまの東京。遅くならなければ少し歩いて無駄遣いもいいだろう。
CDでも探して行こうか…彼女が電飾看板も派手派手しい量販店群を見回し始めたその時、電気の街にはおよそ場違いな人間が、目の前を通りかかった。
女の子。7歳かそこいらであろう。赤いミニスカートに白いタイツ姿。犬のリード(引き紐)と思われる赤いロープを持ち、しかし犬はおらず、困った表情。
「どうしたの?」
彼女は思わず、前屈みになって声を掛けた。
女の子は彼女に目をやり、一瞬警戒の表情を示したが、相手も子どもの範疇と断じたか、すぐに頼るような目に変わった。
「ハリーがいなくなっちゃったの」
リードを見せる。そのリードは一端がちぎれているようだ。これにより犬が逃げ出したのだと彼女は解した。
「一緒に探してあげようか」
彼女は切れたリードを手にしながら言った。犬はオスのミックスで白くて毛が長い。女の子に対し自分がリーダーという認識。いつも女の子をぐいぐい引っ張るように歩いていたらしい。
そしてここ秋葉原には、必ず立ち寄る大好きな場所がある。
「いいの?」
女の子が小さく笑顔を見せるまでのわずか数秒の間に、彼女はそれだけの情報を切れたリードから得た。
むろん特殊な能力である。その筋の用語でサイコメトリといい、持ち物から持ち主の情報を読み取るというものだ。
「うん。ハリー君がいつも必ず行く場所ってないかな?」
「あっ!」
心当たりがあるのだろう。彼女の問いかけに、女の子は円い目を見せて走り出した。
振り向きざま、交通量の多い大通りへ飛び出そうとする。
「待って待って!」
彼女は慌てて女の子を捕まえた。
接近してきた車が急停止。
「危ねぇぞバカヤロー!」
タイヤのスリップ音と男性ドライバーの怒鳴り声に衆目が集まる。
「すいませんごめんなさい!」
彼女は即座に頭を下げ、女の子を抱き寄せて歩道に下がった。
「気をつけろ!」
本当は降りてきて殴りつけたい衝動にかられたらしいが、相手が少女達ではそんな気持ちにはなれないのだろう。ドライバーは再度怒鳴ると、荒々しく車をスタートさせ、走り去った。
彼女は小さなため息をつく。幾ら“車に気をつけなさい”と言ったところで、小さい子には…である。
「ごめんねお姉ちゃん」
女の子が言った。
「飛び出したのあたしなのに…」
半べそ。
「いいよ。気にしないで。私はレムリア」
彼女は女の子の頭に手をやり、笑顔で言った。自己紹介した理由、区切りがつくまでそばにいた方がいい気がするから。
「れむ…外人さん?」
女の子の目が円くなった。
「そうだよ。いつもはオランダに住んでるんだよ」
今日は東京多摩だが。
「すご〜い。日本語上手なんだね」
「ありがと」
「あ、あたし江藤真美子(えとうまみこ)」
「まみこちゃんか。あ、信号青だよ」
レムリアは真美子ちゃんの手を取り、大通りを横断した。
そのまま真美子ちゃんの案内で、“心当たり”の場所に向かう。電気街から数ブロック奥、一方通行の細い道。
配達駐車であろう、宅配ワゴン車の向こうに、パタパタと揺れる白い尻尾。
「あ、いた。ホントにいた!ハリー!」
真美子ちゃんの声にわん!と吠える声。
ワゴン車を通り過ぎると白い犬。そしてこちらを見ている白い厨房着の熟年夫婦。
見ればラーメン屋の店先である。夫婦は店の主人氏と女将さんであろう。ハリーに発泡トレイに盛ったエサをあげている。
…散歩の途中いつもここで食べ物をもらっている。レムリアは理解した。
「まみちゃん。あ〜良かった。心配してたのよ。ハリーだけ来たから」
「ごめんなさ〜い。綱が切れちゃって。このお姉ちゃんに一緒に探してもらったの。お姉ちゃんすごいんだよ。ハリーがここにいること一発で…」
女将さんと真美子ちゃんが喋っている。
そして主人氏の方はレムリアの方を厳しい目で見ている。
「あんた、この子の親戚か何かかい」
主人氏は腕組みして尋ねた。刺すような声音。
「いえ、通りがかりで…」
「命の恩人だよ」
真美子ちゃんはさらっと言った。
「え?」
女将さんの目が円くなる。
「お姉ちゃんがいなかったらあたし車にはねられて死んでたもん。お姉ちゃんホントは外人さんなんだよ。オランダに住んでるんだって」
真美子ちゃんは言った。
今度は主人氏の目が驚愕で円くなる。
「へぇ。オランダかい。えらいべっぴんな大和撫子に見えるけどな。日本語も上手そうだし」
声音がころりと変わった。
「…恐れ入ります」
レムリアとしてははにかむしかない。
と、ハリーが発泡トレーにもらったエサを大体食べ終わった。
「ハリー帰るよ。あっ…」
真美子ちゃんは言い、思い出して困ったようにリードの切れ端を見つめた。
「どうしよう…」
「荷造りの紐じゃダメかい?」
女将さんが言う。
「ダメだろ。かと言ってあとはチャーシュー縛るタコ糸くらいしかないしなぁ」
「もっとだめじゃないか」
主人氏の発言に女将さんが突っ込む。
レムリアはその間にハリーに歩み寄った。
ハリーが気付いて振り返る。
「お嬢ちゃんそいつは…」
「いい子だね」
レムリアはハリーから少し距離を取ってしゃがみ、手のひらを差し出した。
そのままじっと目を見つめる。ちょっと笑顔を忘れずに。
警戒…許容。
「おい噛みつかねーよ」
「すごいねぇ」
夫婦が話し合っている。ハリーは自分を真美子ちゃんより地位が上と思っているが、その分保護意識があり、真美子ちゃんに近づく者は吠え立てて噛みつこうとするようだ。
なぜこの子が一人で、この街で犬の散歩が出来るか。レムリアは合点がいった。
「いい子だから一緒に帰れるよね」
ハリーは尻尾をパタパタ。
「ありがとう。いい子ね」
レムリアはおいでと両腕を広げた。
犬が歩み寄る。レムリアは両手でごしごし撫でてやった。
「あらま〜」
「お嬢ちゃん。犬と喋れるのかい?」
不思議そうな夫婦。
「そういうわけではないんですけど…」
レムリアは言った。
「すごい…魔法みたい…」
自分を見つめる真美子ちゃんの目がまんまる。
「そお?」
“魔法”と言われて、レムリアはちょっとドキッとしてから笑顔で言った。
真美子ちゃんの指摘は実は正しい。レムリアはそう呼ばれる特殊能力の持ち主である。嘘をつくのはイヤなので否定はしない。ただ、真面目にその言葉を口にしても取り合ってもらえないので、自ら口外する気もない。
ちなみに、彼女の能力はまだ半人前で、魔法もののアニメのように動物と会話することは無理である。意志は伝わるし、意図は判る。でもそれだけ。
「ハリーが真美子ちゃんをおうちまでエスコートしますから」
自分の仕事は終わり。レムリアは思い、そう言った。
しかし。
立ち上がろうとするレムリアをハリーがじっと見つめる。
「行っちゃうのかい?」
と主人氏。
「え〜お姉ちゃん行っちゃうの?」
と真美子ちゃん。雲行きの怪しい表情でレムリアを見上げる。
それでレムリアは知った。真美子ちゃんは自分になついてしまった。
“区切りがつくまでそばにいる”…そんな気がした理由はそういうことか。
「やだ〜。お礼もしてないのに。まみのうちに来てよ〜」
真美子ちゃんは行かすまいとするかの如く、レムリアの手を両手でしっかりつかんだ。
そこで店の主人氏が店内に戻り、女将さんがレムリアに歩み寄る。
「あんた、いきなりで悪いんだけどさ。この子、家まで送っていってやってくれないかね。ほら、最近いろいろあるでしょ?。ここ…変なの多いしさ」
女将さんは顎と目線でレムリアの左上方を指し示した。
ビルの屋上に設置された大きな看板。媚びた女の子のイラストが描かれている。いわゆる“美少女ゲーム”の広告である。
レムリアはその意図を解した。確かに、この街にはそういう方面にばかり意識が向いている人間、本能的に接近したくない、見られたくもないというタイプがチラホラいる。
幾ら、“知らない人に云々…”と言ってもだ。さっき飛び出したのと同じである。現に真美子ちゃんは見ず知らずの自分とここにいる。
「ハリーが吠えなかったんだ。あんたを見込んでさ。お願いできないかね」
レムリアは頷いた。なすべき行動は一つしかあるまい。
そこへ主人氏が戻ってくる。白い買い物ビニールと、スープの材料であろう豚の骨。まず、豚の骨を真美子ちゃんに渡し、ハリーにあげるよう一言。
そして真美子ちゃんがハリーに骨をあげている間に。
「これ、持ってってやって」
レムリアに買い物ビニールを手渡す。
温かい。
「チャーハンと餃子だ。あんたラーメン自分で作れるかい?」
「!」
レムリアは瞠目した。
同情にあふれる主人氏の表情から全て読み取る。
真美子ちゃんの家庭環境は決して良いものとは言えない。
「この子の母親、病気でもう随分伏せっているんだよ」
レムリアは小さく頷いた。主人氏の意識に、真美子ちゃんの母親のイメージが浮かぶ。それによると、母親はひと頃、このラーメン屋で働いていたらしい。
「母ひとり子ひとりだから、充分に食べてるか心配でね。最もこの子は嫌がるんだが…」
施しを受ける。受ける側の気持ち…さもありなん。
一計。
「おいくらですか?」
レムリアは財布を出した。
「え?いいよこれは…」
「元々晩ご飯どこかで買って帰るつもりだったんですよ。どうせなら真美子ちゃんちで作らせてもらって食べようかなと。…真美子ちゃん。私の作ったご飯食べてもらえるかな。私ね、今、お料理の勉強してるの。私の料理食べてみて、味に点数付けてよ」
レムリアは言った。勉強しているのは確かである。
「テレビのグルメ番組みたいにさ」
真美子ちゃんの顔がにわかに晴れやかになった。
「うん。いいよ。でもまみ厳しいよ」
「よろしくお願いします先生」
「じゃぁ500円だ」
レムリアの意図を汲んだか主人氏が言った。しかしすぐに。
「でもウチの料理の代行調理アルバイト代が500円だ。だから差し引きゼロ」
財布から硬貨を取り出したレムリアの手を押し戻す。
やられた…レムリアはちょっと笑った。
「一枚上手でらっしゃいますね」
「年の功ってね」
レムリアは主人氏の意図を汲み、硬貨を納めた。
「じゃ、行こうか」
「うん!」
レムリアの言葉に、真美子ちゃんは弾む声で答え、レムリアの手をきゅっと握った。
「それじゃぁ」
夫婦に会釈。
「ごめんね。通りがかりだってのに」
「いえ」
レムリアは笑顔で応えた。
強く感じるものがある。それは託された信頼。それを負う責任。そして自分たちを結びつけた、優しさといたわり。
“いいな”と思う。この国のこういう人間関係はとても好きだ。
『お前たまに用もなく日本来るだろ』…多摩で数日の宿を借りている家の男は、からかい半分でそう言う。確かに、日本へ来る理由に、いつも絶対的な用事が含まれるかというと、そうでもない。
なのに“ちょっと”来たくなる。その理由は多分この辺にある。
「ばいば〜い」
真美子ちゃんが夫婦に手を振り、ハリーと共に店を後にする。
「おうちはどっち?」
「こっち」
真美子ちゃんが先頭に立って歩いて行く。どうやら電気街を一旦横断するようだ。交差点を渡り、雑踏の中へ分け入る。
角を一つ曲がる。すると、自分が親ならこんな子ども(自分も含めてだが)一人で来させたくない光景が広がる。
『大通りの向こう側はお前さんには不快かもね』…多摩の家の男の言葉を充分に理解する。見回す必要もなく目に付く“18歳未満お断り”のゲームショップやビデオ店。デリカシー無く貼り付けられたその広告用の写真やイラスト。
『以前は家電機器とオーディオ、パソコン、そんなのが主体だった。だけど不況で利益が下がると、売れりゃ何でもいいや方向に変わっていった。古今東西、景気に左右されず一定の利益が出るのは、知っての通り大人向け』
ため息が出る。確かに事実だし、どころか自分の住む町にはこういうバーチャルではなくリアルが存在する。
でも、ここまで露骨で下品で、汚らしくて…。
更には…。
「オジョウサン、イラナイカイ?。ケータイ、タダデツカエルヨ」
たどたどしい日本語が路上からレムリアを呼ぶ。口ひげを蓄え、肌の色が浅黒い、南国系アジア人の男だ。路上に敷いたレジャーマットに、明らかに正当な方法で入手したとは思えない、携帯電話端末が並ぶ。プリクラが貼られたままのものまである。
更には…言いたいのこはこれ、こうも犯罪的ではない。
「カワイイオジョサン」
無視する。目を向けることすら好ましいことではない気がする。真美子ちゃんの顔を覚えられては困るのである。
このうそ寒い感覚。11月の風がその数字以上に冷たく感じる。
前方から目線。
「パソコンいらない?はい安いよ。パソコン安いよ。パソコンいらない?」
機械的なリズムで同じフレーズをくり返し、チラシを配る、ずろっと長い白装束の若い男。恐らく、多摩の男が言うところの、宗教法人を名乗る団体のパソコンショップの者であろう。
「パソ…」
男がそこにいないかの如く、前を見てレムリアはそこを行き過ぎる。しかしそれで終わりではない。足を進めるほどにそこここに見て取れる、犯罪や、犯罪近似行為への落とし穴。
さながらブラックホールの巣の中を歩いている気持ち。恐らく、自分がここでテレパシーを働かせたなら、おぞましさで吐き気を覚えること相違ない。
「お姉ちゃん痛いよ」
レムリアは無意識に真美子ちゃんの手を強く握っていた。
そのテレパシーが、休眠状態から警告を発したのはその時である。
通りから奥まった場所に入口がある、薄汚れた雑居ビルから出てきた、一人の男。
手にはしわだらけのコンビニビニール袋、背中にはすり切れかかったリュックサック。中身はどちらも“18禁”の本やゲーム。
…どころじゃない。男の意識に充ち満ちているのは変態ロリコンだ。それに加えて体型は運動不足と見えて肥満気味であり、アニメ系女の子の顔がプリントされた、薄汚れたTシャツははち切れんばかり。高飛車な物言いかも知れないが“醜悪”という文字を当てはめたくなる。
そして、眼光には偏執狂特有のギラギラした圧迫感。
明らかに、精神に偏向が見られる。
「エルシオン!」
醜悪な男はレムリアを見るなりそう叫んだ。
醜悪な男が自分とゲームキャラクターを同一視していることを知る。自分はその美少女キャラにそっくりであり、“萌える”らしい。
衆目が醜悪な男を見、しかしすぐにそのまま歩き出す。“触れた”のが何か叫んでいる、関わらない方がいい。そんな認識なのだ。
「アギ・イオラ・レミルエシオス!」
醜悪な男が自分を指差してそう叫び、走り出す。ゲームの中で女の子を意のままに操る呪文であるらしい。
…なるほど端から見れば“触れている”そのものだろう。
もちろん、そんな者を自分たちに近づけるつもりは毛の頭ほどもない。傍らでハリーが鼻にしわを寄せて唸っているが、彼に噛みつかせることすら穢らわしい。
「(月よ我が友に差し迫る危険を排除する力を)」
「お姉ちゃん何か言った?」
レムリアが小声で口にしたのは、日本語に訳せばそんな意味のフレーズ。
人差し指で唇に触れ、次いでその指で男を指し示す。なお、乱用防止の観点から、彼女が言った言語について、文字での記述は差し控える。
こんな出来事が生じた。
醜悪な男のリュックの底が抜ける。
道路上にドサドサと落下する、恥ずかしい表紙の本やゲーム。
「あーっ!あーっ!」
醜悪な男はにわかにパニックになり、路上にしゃがんで本を集め始める。
「お姉ちゃんすご…あっ…」
「行こう」
醜悪な男がうろたえている間に、レムリアは真美子ちゃんの手を引き、ハリーと共に走り出す。男がこっちを見、何事か叫んで立ち上がろうとするが、その前に角を曲がって男の視界から消える。
信号を渡って駅前へ向かい、更に駅に出入りする人波に紛れる。本当はここの駅ビル“アキハバラデパート”に入り込んでしまえばよいのだが、ハリーがいるので無理。
「おうちあっちだよ」
違う方向へ走ったせいか、不思議そうにレムリアを見る真美子ちゃん。
「うん。わざと。あんなのに見つかりたくないから。ちょっと遠回り」
レムリアは言い、駅前の自販機でジュースを買う。

 

 一休みして出発。大きく回って到着したのは、電車の高架脇、狭い路地に面した古い雑居ビル。
埃っぽい空気。人の気配は希薄。
「お姉ちゃん」
真美子ちゃんが呼んだ。
「ん?」
「さっき、変な人に魔法使ったでしょ」
真美子ちゃんは言った。彼女にもあの醜悪な男は尋常ではないと映ったらしい。幼さ故の本能的危機察知能力であろう。
しかしレムリアは、それよりも彼女が言ったもう一つのフレーズにドキッとしていた。
「え?」
「だってお姉ちゃんがこうやったらあの人のリュック壊れたもん」
真美子ちゃんは男を指で差し示した動作をまねした。
しまったとレムリアは思った。小さい子は周囲の挙動を細かく見ているものである。無意識の行動を真似され、“どこでそんなの覚えたの?”というのはよくあることだ。
「ハリーがどこにいるか当てたし、ハリーとおしゃべりできるし…」
真美子ちゃんのその言葉は、彼女が何を、しかも確信を持って思っているかをレムリアに教えた。そもそもがハリーという名前の犬。それは世界的に有名な魔法ファンタジーの主人公。
すなわち。
「お姉ちゃん、本物の魔法使いなんでしょ?」
真美子ちゃんは立ち止まり、まっすぐレムリアを見た。
その瞳が物語る。揺るぎなくそう信じている。
「あのねお姉ちゃん」
レムリアが何を言おうか考えている間に、真美子ちゃんが意を決したように切り出した。
自分を見上げる瞳に涙がいっぱい。
「あたしに、あたしに魔法を教えて…お母さんを助けたい…」
精一杯、気丈に頑張ってきて、そしてこらえきれなくなったのだろう。真美子ちゃんは涙と共に大きな声で泣き出した。
「お母さん、まみのために一生懸命働いてくれたのに、まみ何も出来ない。だから、だから…」
魔法使いになれば助けてあげられる。そう思ってかのファンタジーを一生懸命読んだという。
でも、本の通りにはならなかった。ほうきも空を飛ばなかった。
そこで出会ったのが自分。家に来てと言った真意はそれ。
どうする?自分?
「まず、ご飯作ろう。それから、お母さんとお話しさせて。私こう見えても看護婦なんだから」
レムリアは努めて明るく言った。まずなすべきはそれだろう。
「わかった…」
真美子ちゃんはぐずぐず声で答えた。レムリアはその目をハンカチで拭った。
笑顔の復活を待って雑居ビルの階段通路に入る。1階は店舗スペースのようだ。しかし閉じたシャッターは錆び付いており、もう随分とテナントはないらしい。
階段の昇り口には集合ポスト。どの投函口も広告でぐしゃぐしゃ。
だが小ぎれいに保たれているポストが一つ。そこを真美子ちゃんが覗く。
「何も無し。っと」
階段を上がり始める。入居しているのはこの親子だけのようだ。
2階。ドア前に犬小屋があるのでそれと判った。
ハリーがさっさと小屋に戻る。恐らく本来は犬を飼えるビルではあるまい。不況で土地が売れ残り、取り壊しも中止。一家族だけなので犬も黙認。そんな図式が伺える。
真美子ちゃんが首から下げていた紐を引き上げ、ドアカギを取り出す。
「ただいま〜。お母さん、お客さん」
少しあって。ゆっくりと。
「珍しいね。お友だちかい?」
かすれた、か細い声。
「ううん。お姉ちゃん」
「え?」
訝るお母さんにごあいさつする。
「あの…“中華ばんば屋”のご主人から頼まれて真美子ちゃん送って来ました。看護師のレムリアと申します」
レムリアは部屋の奥に向かって言った。部屋は暗いが整理され…
否、何もない。畳の上にちゃぶ台一つ。
加えて言うなら湿気がこもっており、カビ臭い。真美子ちゃんが掃除をしているのだとは思うが、限界があるだろう。
「お引き取り、願えませんか」
か細い声の応答があった。
やっぱりとレムリアは思った。真美子ちゃんが“施し”を嫌がるのは、当然ながら親からそう言い聞かされているせいだ。
「お母さん、このお姉ちゃんお母さんのこと看てくれるって」
「お帰り下さい」
細い声だが強い口調。しかし帰れるわけがない。レムリアは靴を脱ぎ、上がり込んだ。
「失礼します」
部屋は二室。窓際の部屋に布団。
「ずけずけと申し訳あ…」
レムリアは言いかけて絶句した。目にしたその状況は、もし、自分が自分でない別の誰かであったとしても、同様に絶句し、次いで“なんで21世紀にもなってこの豊かな日本で?”と思うであろう。
げっそり痩せたお母さん。骨と皮に近い状態。
理由は聞かずとも判る。食べ物は全て真美子ちゃんへというわけだ。
…世界中の難民キャンプで、貧困にあえぐ集落で、幾度も目にした。
「前に何か食べたのはいつですか?」
レムリアは布団の傍らに正座し、お母さんの手を取った。
冷たい。額、首、その他要所に触れたがしかり。体温が低いのである。栄養不良で体温が作れないのだ。人体というのは、ある程度温かくないと動けない。
「恥ずかしい…見ないで下さい。恥ずかしい」
お母さんはぽろぽろと涙を流した。
「いいえ。そんなことはありません。私、医療援助隊で世界中の恵まれない土地を見ました。お母さんは母の鑑だと思います。文字通り身を削って真美子ちゃんを助けようとしています。でも、真美子ちゃんのためなら自分は死んでもいい、そんな風には思わないで欲しいんです」
レムリアはお母さんの手を握り、言った。
テレパシー能力により状況が判ってくる。夫が事業に失敗して失踪、借金を抱え込んだ状態で母子家庭となり、食費節約のため、ろくにものも食べずに働き続けた結果、ある日突然倒れ、高熱と共に身体が動かなくなった。
その後は蓄えを取り崩しつつ、足りなくなると自らの食事を抜きつつ、抜く回数を増やしつつ。
「苦労なさったんですね」
レムリアはお母さんの目を見つめ、言った。
お母さんが頷く。ただ、その目の中には“施し”に対する強い警戒と躊躇の壁があり、崩れる気配はない。身の上を理解してくれてありがとう。でも…というわけだ。
承諾頂くにはもう少しかかりそうである。であるならば先に。
「体温を測らせて頂いてよろしいですか?」
レムリアはウェストバッグを開き、耳で測るタイプの体温計を取り出し、お母さんに見せた。看護師的にはこれで果たして本当に必要な温度…鼓膜温が取れているのか疑問ではあるが、目安にはなるし、何より手っ取り早い。
「失礼します」
耳にあてがい1秒。
34度。低体温症だが軽微な部類だ。酔って寝込んだりして起きるのと同程度。でも、放っておけば動けないことから余計に栄養を取れずの悪循環となり、である。ちなみに、良くある寒さの中で眠くなる現象はこれの重症だ。内臓の温度保持のため、身体のエネルギー消費を減らそうとするのである。
「低体温ですね」
レムリアは言って体温計を収めた。処置としては保温と加温を行う。保温は熱が逃げないようにするもので、毛布や布団で覆う。加温は熱を加えることだが、ゆっくりやるのが基本だ。マッサージなどで急激な温度上昇を図ると、マッサージした部位の血流が増加し、その部分で冷えた血液が心臓や肺に戻ってショックを起こすのである。このため、添い寝をするとか、脇の下などにカイロなどを置いて、流れの緩やかな静脈血を温める方法をとる。更に望ましくは体内から温めることで、これには湿気の多い暖かい空気を吸わせたり、温かいものを飲ませたりする。むろん病院に連れて行くのが正当で、この場合風呂湯程度に温めた点滴を受けることになる。
「お母様」
レムリアは布団を直し、母体をくるむようにしながら言った。
「お母様の今の状態は、栄養不良による体温不足です。でもこれは、身体を温め、栄養を充分にとることによってすぐに回復します。真美子ちゃんのためを思うなら、お母様自身が、しっかり食べて元気になって下さい。この子だけでも、そんな悲しいことは決して思わないで。子どもに必要なのは家族です。血のつながった肉親です。
母親です。
子どもの居場所は、いつだって、親の、母のそばです」
レムリアは母の手をぎゅっと握って言った。
しかし。
「でも…」
それでも困惑するその姿に、誇り高き母なのだとレムリアは心底思った。この親にしてこの子あり、だ。
でも、こっちも“でも”なのである。何か口にしてもらわないと大変なことになってしまう。
かと言って、押しつけがましいことはしたくない。
どうしよう。この親にしてこの子あり。
この子にしてこの親あり。
親と子と。子と親と。
そうだ!
「お母様」
レムリアは笑顔を作った。
「実は、今日、真美子ちゃんに料理の試食を頼んでいるんです。聞けばお母様は“ばんばや”で働いていらっしゃったとのこと。一緒にご批評願えませんか?」
レムリアは、言った。
お母さんが自分を見る。
お母さんの瞳が揺らぎ出す。次いで輝くものが満ちてその瞳を潤す。
輝くものがお母さんの目からあふれてくる。本当の気持ちと、実際出てきた言葉との乖離。
「ありがとう」
お母さんはまず言い、
「ごめんなさいね…あなたの気持ちを踏みにじるようなことを言ってしまって…お願いします…」
頭を下げる。レムリアは首を左右に振った。そんなことはありません。
「こちらこそお願いします。では台所をお借りします」
立ち上がる。了解得られたところで調理である。調理台はちゃぶ台のある部屋の奥だが、どうもこのところ使用した形跡がない。
「電気もガスも…水道だけはまだ…」
であるならば。
レムリアはまずウェストバッグを探った。その多摩の男に、それこそ秋葉原で買い集めた電子部品で作ってもらった物がある。電気のない場所へ行くからと、太陽電池とバッテリーを組み合わせた衛星携帯電話の充電器。及び、それに接続して使えと更にもらった、発光ダイオードのミニランプ。
天井の灯具からコードをぶら下げ、ランプをつないでスイッチオン。
「わぁ」
真美子ちゃんが拍手する。白色発光ダイオードであり、明るさはかなりの物。小型の蛍光灯程度はある。実際これで診察や簡単な手術をやったことがある。
続いて戴いてきた材料をまな板の上に広げる。作り方はサイコメトリで把握。必要なのは調理の炎だ。だがガスは出ない。
この際魔法に頼るしかあるまい。ただ、これで出るのは竜の火噴きと一緒で一瞬だけ。しかも室内でやったら火事必定。
どうする?
安直な方法がないではない。しかし、あくまで“試食と批評”をお願いするのであるから、自分の力だけで解決したいところ。
「お姉ちゃん寒くない?」
腕組みして考え込んでいるレムリアに、真美子ちゃんが手をすり合わせながら訊いた。
その動作にヒント有り。
要は水を“温める”ことが出来ればよいのであって、炎である必要はない。
鍋に水を張る。
「(命なき者に命を与え、我が意のままに操る力を)」
彼女の魔法は、本質的には、月の精霊と意識を交え、自らの身体にその高次元エネルギーを導き、更には流れ出る通路とするものである。しかし、水をいじるという行為は、命ある存在(それ自身がエネルギーの流れを有する)に干渉するわけではないため、先ほどのリュック底抜けもそうであるが、このくらいなら月の精霊に力を借りる必要はない。更に言えば、手品のレベルであれば呪文を唱える必要もない。
ちなみに、以前であれば、月の姿が見えない時には、マジック以上のことは出来なかった。この点で、多少は成長しているのかな、とは思っている。
余談はこのくらいにして。
レムリアは指先を鍋に向け、指同士擦り合わせた。同時に、鍋の水同士が擦れ合う旨、思い浮かべる。
摩擦熱というわけだ。実質的に電子レンジと同じ方法である。
「真美子ちゃんおいで」
こっちは抱っこ。
「うわぁ暖かい…」
前述の通り、魔法の行使は自分の身体からエネルギーが放出されることである。このため、身の周りが発熱したみたいに熱くなる。
困るのは自分の身体自体は冷たくなること。代謝に必要な熱まで持って行かれるらしい。
程なく鍋から湯気が立ってきた。
「お姉ちゃんすごいね。本当に魔法使いなんだね…」
真美子ちゃんがまばたきもせず自分を見ている。
ウィンクで応じ、麺を入れて茹でる。タッパウェアに入った濃縮スープを取り出し、ドンブリにあける。
チャーハンと餃子はまだ温かいのでそのままちゃぶ台へ。
麺の茹で加減をチェック。
「どうでしょ先生」
真美子ちゃんに麺を一本。真美子ちゃんがそれをちゅるっと口にする。
「…う〜んこのくらいでいいでしょう」
「はい。それでは」
湯をドンブリに注いでスープはOK。麺を湯切りして移し、メンマとチャーシューと海苔とスライスゆで卵。
できあがり。
「いただきま〜す」
「お母様起きられますか?」
レムリアはドンブリを片手に隣の部屋へ行った。
抱きかかえて上半身を起こす。弱っている上に筋肉を使っていないため、身体を動かすと痛いようだ。
腰に手のひらをあてがう。
魔法を使うのと同じ感覚を手に与える。
この動作により、医療機関で行われる基本的な低体温の処置…中から温めるが可能になる。もちろん、彼女の能力あったればこそであり、一般的には前述の通り救急車を呼ぶべきだ。だが、特にボランティア活動時にはそんな処置が出来ない場合もままある。そういう場合、彼女はこうやって自分の手のひらを使う。
ただ、彼女は所属の団体に対し、自分の力について公言してはいない。このため、彼女の文字通り“手当て”は、“東洋系の不思議少女が起こした奇跡”と、彼女を知る者には認識されている。
だから、団体において、彼女は驚嘆と、少しの憧憬と、親しみをこめてこう呼ばれている。
“ミラクル・プリンセス”。
「温かい…」
お母さんの表情が柔和になった。
「痛くはないですか?」
「ええ…」
レムリアはお母さんを壁にもたれさせた。
「ご批評下さい」
お母さんに割箸を渡し、ドンブリは自分が持つ。
本当はラーメンなんて油っぽいものではなく、消化の良いものの方がいい。胃腸自体の能力も落ちているからだ。
でも何より温かいし、少しずつであれば。
お母さんは麺をゆっくりと口にした。
「うん…ああ、おいしい。麺の茹で加減もちょうどいいみたい」
「本当ですか?」
レムリアは言った。しかし、お母さんはそれ以降箸が続かない。
涙が溢れてきてしまう。レムリアはドンブリを置き、お母さんの身体を抱きしめた。
その涙に込められた、相反する二つの気持ち。
自分、出過ぎたまねをしただろうか。
でも、黙って立ち去れば、その後の経過は推して知るべしだ。一生後悔抱えて生きて行くつもりはない。
レムリアはお母さんの気持ちが落ち着くまで待って、身体を離した。
お母さんは不思議そうに自分の身体を見、やせ細った腕や肩を撫でている。
「身体がぽかぽかします。まるで春の日溜まりみたい。あなたは一体…」
「だから魔法使いなんだってば」
真美子ちゃんが言った。ラーメンはすっかり食べてしまい、チャーハンをぱくついている。
「すいません。夢みたいなことばかり…。現実が現実だから、夢想癖がついたらしくて…」
お母さんがうつむく。
「いいえ」
レムリアの否定語にお母さんがハッと目を向ける。
「夢想癖ではありません。真美子ちゃんから聞きました。お母様に元気になってもらうために魔法使いになるんだと」
「そうだよ。お姉ちゃんに教えてもらうんだ。お姉ちゃんすごいんだよ、ハリーの行き先当てたし、ハリーとおしゃべりできるし、このラーメンだって…」
信じようとしないお母さんに業を煮やしたか、真美子ちゃんはちゃぶ台を立って枕元にやってきた。
レムリアに向けられたお母さんの目の色が変わってきた。
「そういえばお湯をどうやって…」
「魔法が働いたのだとしたら、お母さんを助けたいという、真美子ちゃんの一生懸命な気持ちのなせる技でしょう。まみちゃんこっち来て」
レムリアは真美子ちゃんを傍らに座らせ、お母さんの腕を彼女の手のひらに載せた。
「約束だから魔法を一つ。お母さんが元気になる魔法」
「…うん!」
真美子ちゃんは笑顔と共に頷いた。
「今夜は、まみちゃんが楽しかったなと思うことをお母さんにお話ししながら、一緒に寝てあげて」
「それだけでいいの?」
「うん、そのかわり」
「(月の女神に願いを申す。我が友と、友の母とに血潮の巡りを。継ぎたる海に命の力を)。母は海なり。海は母なり」
唇にタッチ、真美子ちゃんの額にタッチ。最後の二つのフレーズは日本語である。
「わ〜い。魔法だ」
真美子ちゃんは喜んでお母さんの首に腕をからめた。
「あなたは…」
「通りすがりに真美子ちゃんを送って行ってと頼まれただけです」
レムリアは言った。お母さんの意識に、自分に対し“不思議な女の子”という認識が生まれようとしている。魔法とは思っていないにせよ、超能力と呼ばれる特殊な能力の持ち主なのではないか、という確信が出来つつある。
だが、ここで必要なのは自分自身でなんとかしようとすること。実際、自分の能力…月の精霊の仕事…は、その人の潜在能力をパワーアップするだけにすぎない(その点、“素質”の無い人には効かないわけで、彼女の能力はまだ半端であると言える)。
「お母様」
「…はい?」
「母体に、命をはぐくむための海が含まれていることはご存じかと思います。この海は海ゆえに月と協調を取って活動し、母体にそのための力を与えます。そしてその力は、命のためにと思った時、必要性を自覚した時、遺伝子の力によって覚醒し、最大限に発揮されます。
ですから今、お母様が真美子ちゃんのためにと思うのであれば、この子さえ生き延びれば誰かがなんとか…などとは決して思わないで、お母様がお母様であることをまず第一に考えて下さい。お母様が真美子ちゃんを思う気持ちと、真美子ちゃんのお母さんを思う気持ちは、相互に手を取り合い、お母様の内在された海に強い、強い力を与え、血潮という名の潮汐となってお母様のお体を巡り、命守るための身体に、本来あるべき姿に戻ろうとします。確約します。必ず、健康を回復することが出来ます。真美子ちゃんをとお思いでしたら、お母様、何よりお母様の回復が必要です。真美子ちゃんを守り、幸せにするのは、他の誰でもなく、お母様自身です。だから絶対、せめて真美子ちゃんだけでも、そんな風には思わないで下さい。真美子ちゃんにとって、母であるあなたは、かけがえのない母なのですから」
レムリアは一気に喋った。
世界各地で、貧困にあえぐ地域や被災地で出会った、母子らの姿を思い浮かべながらレムリアは一気に喋った。
母子とは、人間として、哺乳類として、地球で生きる上で基本にして永遠の姿。
「母が母であること…」
お母さんの唇が震えわななく。
寄せては返す波のイメージ。
強く打ち付け、そして砕ける波頭のイメージ。
「私は13です。恋愛経験すらない年端も行かぬ小娘です。その私が母であるあなたに対し、生意気なことを申したかも知れません」
お母さんはゆっくり首を横に振った。
「そんなことはありません。私が間違っていました」
静かに言う。
「私が死ぬことで、あらゆる不幸をこの子の元から持ち去ることが出来れば…そんな風に思っていました。でも…違いますね。そうなればこの子はひとりぼっちになってしまう。そしてそれは、私がこの子を見捨てたことになってしまう。それはこの子にとって最大の不幸。この子にとって何も考えず頼れるのは私だけですもんね。まみ、ごめんね。お母さんがんばるよ。身体治してまた働くよ」
真美子ちゃんは頷き、お母さんに頬ずりした。
お母さんは真美子ちゃんの頬をゆっくり撫でさすりながら、レムリアを見た。
「不思議な気持ち。あなたには、本当に、魔法があるのかも知れない…」
「だとしたら、その私をお母様に巡り会わせてくれたのは、まぎれもなく、真美子ちゃんの魔法です」
レムリアはお母さんの目をまっすぐ見ながら答えた。
そこにいるのは“母”である。最前まで布団に身体を横たえ、死を意識していた痩せこけた女ではない。立ち向かう意識を宿した瞳、まっすぐに伸びた背筋。
発揮される意志のエネルギーは、オーラの如く母体を包み、決して不健康には見せない。
「私の魔法?」
自分を指差す真美子ちゃん。
「そうだよ。まみちゃん、お母さんを治したいって一生懸命思ったでしょ?だからホラ、お母さんどんどん元気になってく」
レムリアは言った。
確信が生まれる。そう、これはまみちゃんの強い思いが届いた結果。
そして、自分のなすべきことは終わった。
「大丈夫かなって、怖い気持ちになったら、私のこと思い出してね。きっとうまく行くから。魔法もう一つ」
レムリアは指先で真美子ちゃんの唇にそっと触れた。
そう、大丈夫。これで大丈夫。
「伸びないうちに召し上がって下さい」
「あ、ああ、どうもありがとう」
お母さんはラーメンのドンブリに手を伸ばした。
 
レムリアは食事の後かたづけをし、トランプやマジックで真美子ちゃんと遊んでから、母子の部屋を後にした。
その後3ヶ月ほどして再度訪れたが、雑居ビルは取り壊されて既に無く、“ばんば屋”の主人によると、引っ越しの挨拶に来たという。
「すっかり元気になってたよ。故郷の介護施設で働くって。そうそう。これを預かった」
主人が持ってきたのは丸めた画用紙。
開くと“まほうのおねえちゃん”。
描かれているのは三角帽子をかぶり、ほうきにまたがった“おねえちゃん”と、
その後ろを、小さなほうきに乗って飛ぶ、女の子“まみ”である。
 
東京魔法少女/終
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