ミラクル・プリンセス
 

 

 

 “彼女”はまだ登場しない。
 訪れるきっかけとなった、やりとりを先に。
 
序章
 
 メガネの男が、壁際にセットされたパソコンデスクに向かい、キーボードを叩いている。
 “理科年表”を見ながら何か書き込んだと思えば、唐突に笑ったりして、作業内容を知らぬ人間が見ればかなり怪しい光景である。
 男はまだ若い。着衣は上下とも青いジャージ。室内着としてもかなり“ダサい”姿ではある。大振りのコーヒーカップを度々口に運び、無精ひげに埋もれた秘密基地のようなニキビをポリポリ掻いたりしている。まぁ、プライベートな時間であるから、そこまで書いたら可哀想な感じもある。
 玄関ドアの開く音がした。
「ただいま」
 熟年とおぼしき女性の声である。男の母親。
 少しあり、パソコンデスク脇、リビングのドアが開いた。
 母親の両手には買い物袋。と、付き従いにゃーにゃー何かを訴える三毛ネコ。
「学(まなぶ)、あんたさぁ、オカルトな小説書くの好きだったよねぇ」
「なんだよ唐突に」
 学と呼ばれたメガネ男は、面倒くさそうに答え、それでもキーボードから手を放して母親の方を見た。
 相原(あいはら)学22歳。この春大学を卒業したばかりの電気エンジニアのタマゴ。背はそこそこあるが、どう見てもおしゃれ外見に気を遣うタイプではない。彼自身は“おたく”を自認している。趣味はファンタジー小説を書くこと。
「…そのヒゲ剃りなさいよ」
「毎日こう製造ラインでコキ使われると剃る気も失せるんだよ」
 メーカーの新人研修はラインで製品の製造実習…良くあるパターン。ただ、彼の発言はライン従業員の方々に甚だ失礼である。最も、呑気な学生から、いきなり9時5時で動き続けるという労働形態への移行は、率直な感想としてそうなるのであろうが。
「みっともない。社会人の自覚に欠けとるよ」
「そのうち慣れれば気力も出るさ。で、オカルトがなんやねん」
「それがさ」
 母親は“ご近所さん”の娘の名を口にした。小学校3年生。
 …小児ガンであり、親は医師から“宣告”を受けている。
「…魔法使いがいつか来て、病気が治る、ってごまかしていたらしいのよ。そしたらこれ見ちゃった、って」
 母親は言い、女性週刊誌のページを開いて差し出した。
 見出しは“くるんくるん”した飾り文字で、“最年少看護婦はお姫様”。その隣には東アジア人として親近感が持てる顔立ちをした娘の写真。少女マンガのヒロインをイメージさlemuriaせる、パッと華やかな雰囲気を持ったショートカットの美しい少女だ。スティックを持って馬の背から乗り出している姿からして“ポロ”の最中。13歳とある。
「ああ」
 相原学はさして驚くこともなく言った。その記事には、彼女の継ぐ王家“アルフェラッツ王国”が、中世以前魔女を排出し、その血筋を現代にも伝えるとしてある。だから女系を守り通していると。ただ、魔女云々はおもしろ半分といった書き方であり、 “これが魔女?”と題して、中世の肖像画と、ティアラを着け盛装した少女の写真を、見開きの左右に並べている。
 相原学は雑誌を閉じて母親に返した。
「魔女の血脈を受け継ぐ、とされる少女の記事を読んでしまったと」
「そういうこと。いっくら『それは大昔の話で現在ではおとぎ話』と言っても、聞く耳持たないんだって。だもんで、あんたにこう、納得してもらえるような、説得力のあるお話しを何かデッチ上げ…」
「無茶言うない。それにそもそも、そんな風にごまかすこと自体が間違い。医療の進歩はめざましい、信じて薬を飲むべし、位のことを言うのがセオリー。おとぎ話じゃねーんだから」
「それはそうだけどさぁ。その子を呼んで会いたいの一点張りで薬も飲まなくなってとなると。…あらこの姫さんすごいね。医療ボランティアで世界中をだって。12カ国語堪能!?」
 母親が雑誌をぱらぱらめくりながら言う。
 相原学は呆れたようにため息をつくと、パソコンに向かった。
 キーボードをカチャカチャ。
「調べてくれてるの?」
 母親がパソコンモニターをのぞき込む。相原学が字を打ち出しているのは、画面の片隅に開いているインスタント・メッセンジャー…インターネット経由で文字の会話が出来るソフト…のウィンドウであるが、母親に、それがそれであると理解するパソコン関係の知識はない。
「日曜満月なんだな」
「それが何よ。おまじないでもするの?」
「明日の夜お客さんが来る。1泊3食よろしく」
 相原学は母親に言った。
「何よ藪から棒に」
「藪から雑誌突き出して会話を中断させたのは誰じゃ」
「なんだ調べてくれてたんじゃなかったのかい」
「相手を待たせるのもたいがいに」
「ちぇ。わかったよ。客間に入れんだよ。他の部屋見せんじゃないよ」
「はいはい。あ、ネコ砂ないぞ」
 母親は買い物袋を再度手にし、キッチンへ去った。その足下をネコがちょろちょろ。母の帰宅はイコールエサの時間なので、ネコはくっついて離れないのだ。
『じゃぁ、悪いけどよろしくね』
 相原学は、メッセンジャーに、そう打ち込んだ。
 
 
 金曜日、夜10時。
 月明かりの草むらに相原はひとり立っている。
 まだ春は浅く、草花萌える季節ではなく、ジャージの上下にはんてんを羽織っている。
 腹の立つほどおしゃれの気配のない男である。
 ぐるりと見渡し、無人であることを確認すると、携帯電話に何やら話す。
 変化が生じる。
 流星を思わせる白銀の輝点が西方から流れ来、相原の遙か上方、頭の上で静止する。
 相原は輝点を見上げると、地面にしゃがみ込み、後ろを向き、腕で顔を覆う。
 突然の暴風が生じる。それは、相原の至近に、中空より吹き下りてくるものであり、地上へ達した気流は、四方へと枯れ草をなぎ倒しながら流れて行く。相原は、自らを吹き飛ばすかの如きその風に、低い姿勢でじっと耐える。
 月に照らされていた彼を何やら影が覆う。
 草原に伸びるその影の形は船。中世大航海時代を思わせる帆船。
 風と共に空から船が下りてくる。
 異様な光景である。だから相原は人払いをしたのだ。
 船底が草むらに接触する。
 風が収まる。
 相原は顔を上げ、そしてジャージはんてんをパンパンと手で払いながら立ち上がる。
 草原に船。
 マストは3本。但し、帆のあるべき位置には、工業製品の趣を漂わせる四角四面のパネルを抱えている。それ以外は、コロンブスが大西洋を横断した“サンタマリア”にイメージが近いか。
 船腹が一部奥へ動き、次いで右方へスライドして開く。
 スロープが現れて伸び、地上への昇降路を形成する。
 相原はその正面へ歩いて回り込んだ。
「じゃぁ、ちょっと」
 可愛らしい声。ポップで、ころんと転がるような、いかにも女の子の声。
 相原は小さく笑みを浮かべる。
「はい、しっかりね」
 若いがしかし、大人のイメージを与える別の女性の声が言い、スロープに人影が現れる。ブラウスにカーディガンを羽織り、Gパンを履いた小柄な少女。
 雑誌の写真の娘。
 メッセンジャーのハンドルネームはlemuria…レムリア。
 月明かりに照らされ、ボストンバッグを手にし、笑顔でスロープを駆け下る。肩ですぱっと切ったショートカットの黒髪が跳ね、輝くような笑顔は明るくて元気そのもの。同じ表現となってしまうが、少女マンガのヒロインとして渋谷や原宿を買い物していて違和感はない。異国の娘と言われてもピンと来ない。
「久しぶり。あはは、今日もはんてん?」
 少女はそう言いながら、草むらの上に降り立った。
 相原を見上げるその背は、相原の額に若干足りない。身長は150センチ。
「元気だった?」
 相原は問うた。二人の会話は日本語である。欧州の王家を継ぐ彼女だが、日本語を操るのに何ら不自由はない。
 と、挨拶を交わす二人の後方、船腹に開いた扉の位置に、白いローブの女性が姿を見せる。
 すらりと背が高く、髪が長く、しかしどこの国とも書けない…“異国”の顔立ちの女性。
「あ、どうも」
 相原は女性に言った。
「お久しぶりですね。お元気ですか?」
 流麗な、天界で奏でられるハープを思わせるような声音。
「ええ、おかげさまで。ではちょっと彼女お借りします」
「いいえ。これは彼女の意志です。彼女のままに。それでは、この辺で」
「はい」
 相原が頭を下げ、少女と共に2歩下がる。
 スロープが格納され、船腹の扉が閉まる。
 相原は船から顔を背け、少女の半身をはんてんで覆い隠す。
 再びの暴風。月明かりの作った船の影が二人を横切り、上空へと舞い上がる。
 暴風が弱くなり、二人は上方を見る。
 船の姿が輝点に包まれ、再び流星となり西へ流れる。それは船の速度が異様に高いことを意味する。
「改めていらっしゃいませ」
 船が消えるのを見届けて、相原は言った。
「いいえこちらこそ、夜分にお邪魔してすいません」
 黒髪の少女は頭を下げた。こうした立ち居振る舞いは、ひょっとすると、その辺の町中で見かける女の子より“日本人”らしいかも知れぬ。
「ではどーぞ」
「はい」
 相原がボストンバッグをかつぎ、草むらを歩いて斜面を下りる。
 そこは住宅街の裏の丘である。相原宅より坂道を上って徒歩5分。
「ごめんね唐突に」
 相原は言った。
「いいよ。それで少しでも、なら本望」
「正直、だからって呼んでいいものかどうかとも思ったんだけどね。君を私物化するようなもんだろ?」
「その瞬間に私とつながっていた時点で、偶然性は十分に確保されてると思うよ。それに、そうだと知ってそのままだったら、後々ずっと引きずるよ。あなたも私も。だから、いいよ」
 少女は心配するなとばかりにニコッと笑った。
 さてここで作者としては、なぜこの二人がこのように親しいのか、彼女の乗ってきた空飛ぶ船が何物か、など、説明責任が生じていることを認識している。
 端的に言えば、相原は過去に一度、空飛ぶ船に乗り組んだことがある。二人のつきあいはそこが端緒である。船には超常の能力を有する者たちが乗り組み、“奇跡を起こして”ピンチから人を救うべく、世界を馳せる。但し、彼女が加わっている医療ボランティアとは別の活動である。
 ただ、それ以上のことは、本筋とは全く関係がないので、省略する。経過によって書く必要があれば、その際に追記する。
 閑話休題。2人は相原宅に到着した。
「ただいま」
 相原がドアを開けると、歯ブラシくわえたパジャマの母親。足元に三毛ネコ。
「あらおはぇ…」
 母親は言いかけ、息子の背後の少女に気付き、そのまま固まった。
「客」
 相原は背後の少女を指さして言った。
「あの、初めまして。メディア・ボレアリス・アルフェラッツです」
 少女は本名を名乗り、頭を下げた。
「…!」
 歯ブラシの口から、驚愕した化石人類が発したような吠え声。「うそぉ!」と言っているようである。
「姫」
 相原は極めて手短に少女を紹介した。
 母親の口から歯ブラシがこぼれ落ち、母親は慌ててそれを拾う。
「…って、雑誌の?」
「そう、本人」
「あのお姫様で看護師で医療ボランティアに加わって世界中を飛び回るあのすごいお姫様?」
「そう、お姫様で看護師で医療ボランティアに加わって世界中を飛び回るあのすごいお姫様本人」
 相原は母親のセリフを、『お姫様』を2回言ったことまで含めて、そっくりなぞって言った。
「でも普段はオランダで一人暮らしって…ああ?今日は日本へ?でも日本にそんな難民や戦場は…大体なんで学と?」
 まばたきを忘れたまま母親が問う。
「いっぺんに訊いてどうする」
 相原が言う。しかし母親としては訊きたいことは多いだろう。雑誌の中のお姫様、遠い世界の存在が、唐突に息子に伴われて自宅にいるのだ。
「いいからそこどいてくれないと入れん」
「あ、はい、そうね、ちょっと待って」
 息子にせっつかれ、母親は今更思い出したようにバタバタと身繕いをし、パジャマのまま玄関マットに正座。
「どうも初めましてようこそ学の母親ですこちらはネコタレ狭くて汚くてもうどうしようもないところですがお上がり下さいませ」
 作り笑い。
「あ、その、こちらこそどうもすいませんこんな時間に。ネコタレ君初めまして」
 少女レムリアは申し訳なさそうな口調で言った。
 ネコの鼻先に指を出し、その指をネコがクンクン匂い、耳の後ろの部分をレムリアの手にスリスリ。匂い付け。
 なお、彼女の本名は彼女自身が言った通りであるが、“普段着の自分ではないから好きではない”とのことなので、以降彼女をレムリアと呼ぶ。
「いいえぇ聞いていましたから大丈夫ですよただその女の子でましてお姫様だなんてあらネコタレもう慣れたの…。あ、そうだ、何か飲まれますか?といってもお紅茶とか今切らしてまして日本茶でよろしければ…学!玉露出しなさい!」
「なんだその口調の変化は。それに句読点がないから聞き取りづらい。あ、てなわけでこれが母親ね。…いーよペットのウーロンで。それにこんな時間に玉露飲んだら眠れんくなるぞ」
「ぺ、ぺ、ペットってあんた」
「いーの。あのね、“姫”の堅苦しさから解放してあげる意味も込めて遊びに来てもらってるから、特別扱い無しなの」
「そうですお母様。長年行方不明だった謎のハトコか、実は学さんの隠し子が遊びに来たとでも思って頂ければ…」
 姫にあるまじき(?)、レムリアのそのセリフは、母親の度肝を抜いたようである。
「へ…」
「お邪魔するわけですし。夜遊びの小娘ですので適当にあしらってください。よろしくお願いします」
 レムリアはぺこりと頭を下げた。
 母親は緊張のガスが抜けたように笑った。
「要するに単純に学の友達ってことでいいのかい?姫さん」
「ええ、そうです」
「ん、判った。じゃぁ、そういう風にするよ。さぁ、上がって」
「はい、お邪魔します。夜分申し訳ありません」
 靴を脱ぎ、一旦玄関マット上に座って身体の向きを変え、靴を揃える。
 外見とよどみない動作から全く違和感ないが、それでも彼女は異国の王女である。
「へぇ…」
 母親が感心する。
「あと勝手にやってるから寝ていいぜ」
 相原はリビングの隣、客間の電灯を点けながら言った。
「バカおっしゃい。あんたとこの子二人っきりにして寝られますか」
「…中学生の生徒手帳か」
「彼女は立派な中学生年齢でしょうが。それに女の子のこと誰が説明するの」
「はいはい判りました。詳しいこと話したげて下さいな」
 相原は客間に彼女を通し、壁に立てかけておいたちゃぶ台を下ろして母親と共に座らせると、台所へ向かった。
 母親のセリフがこの場にいるための大義名分であることは百も承知である。なお、実際問題として、レムリアはそのような説明をわざわざ受ける必要はない。
 その場に行けば瞬間的に把握できるからだ。そういう能力を彼女は有する。
 相原がペットボトルを3本持って戻ってくると、話は結構なところまで進んでいた。
 レムリアの表情はさえない。
 母親がドンと置かれたペットボトルに不快な表情。
「はいお茶、…ってあんたもせめてコップに入れて持ってくるくらいの…しかも何これ冷えてないじゃん」
「お茶は人肌」
「気が利かないねぇ」
 母親はたまりかねたように立ち上がり、客間を出る。
「難病だね…」
 母親の姿が見えなくなったところで、レムリアはつぶやいた。看護師である以上、状況の把握は早い。
 なお病名は伏せておく。進行が早く、予後は不良。同じ病気のお子様がそれと知った場合、ショックを受けるからだ。
「私が何かしたとして、血行は良くなるだろうから、身体は温まると思う。でも、それだけ、なんだろうね。至極冷静に分析すると」
「いやに弱気じゃない」
 相原は言うと、ペットボトルの蓋を開け、ウーロン茶を口に含んだ。
 言われたレムリアはハッとした表情で相原を見る。
「お前さんらしくないぞ。先にあきらめてどうするの。子供はそういう気持ち持ってるとすぐ見抜く、と常日頃のたまってるのは誰」
 相原のセリフにレムリアは黙ってしまう。
 今度は相原がハッとした。
「そこまで進んでるってことか」
 レムリアは頷く。
「ウソ付ける性格じゃないもんな」
 レムリアは頷き、感情を隠せないのであろう、その目に透明な輝きを浮かべた。
 母親が戻ってきた。結局玉露を淹れてきたようである。
「はいお茶。とっときの常滑(とこなめ)焼きを出し…学あんた何したの!」
 涙の姫様に血相を変える。
「は?」
「そんな卑怯な子に育てた覚えは…」
 呆れたように言いながら、窯変(ようへん:陶土が窯の中で釉薬の作用により色付くこと)して、黒色を帯びた朱泥の湯飲みを、ちゃぶ台に置く。
 そこで相原は母親の認識に気付く。
「待てちょっと待て!何を大いなる勘違いを。大体すぐ戻ってくると判ってるのにいやいやだからそういう事じゃなくて」
「そういう事じゃなくてどういうことよ。そういう事という発言が出てくるってことは、そういう事考えてたってことでしょーが」
「そういうことだと言いたいと言いたいのはどっちだよ。大体この子にそういうこと…あーもうそれ言ったら逆に失礼になるだろうがっ!」
 親子の言い合いを止めたのはレムリアの笑い声。
「あははははは」
 親子は毒気を抜かれた。レムリアは赤くなった目元に輝きのしずくを一つ、しかしそのまま笑っている。
「…可笑しい」
 その笑顔によって、“隠せない感情”が消えていることに相原は気付いた。
「笑い、か」
「え?」
 レムリアがハッとする。ついで笑みを作って、
「そういうことか」
「そういうことだよ」
「どういうこと?」
 了解し合う二人に母親が訊いた。
「つまりね、小児病院なんでしょ?魔法とかそういうこと以前に、まずは子供達を、みんな一度に楽しませてあげられないかってこと」
 相原のセリフのそばで、レムリアが手のひらを握り、そして開く。
 …何もなかったはずの手のひらにコイン。
「あらおもしろい」
「マジックにもいろいろあるってことで」
「その女の子だけって必要もないと思いますし」
「…なるほど、いいかもね。笑い喜びは最高の薬だと言うし。お見舞いマジックショーか。よし判った。母さんが動こう。病院に頼んでみるよ」
「よろしくお願いします」
 レムリアは頭を下げた。
 
 
 朝餉の準備に伴う、リズミカルな包丁の音に混じり、ふすまの開く音。
 午前7時半。
「おはようございます」
 やや眠気の残る、とろんとした声に、母親は思わずという感じで笑顔を作り、キッチンから文字通り飛んで出て来た。
「おはようさん…はぁ。女の子がいるとこんな感じだったのかねぇ。またとびきり可愛いもんねぇ、あなた。抱きしめちゃう。こっちいらっしゃい」
「あ、はぁ、恐れ入ります。きゃは」
 本当に自分を抱きしめてしまった相原の母親に、レムリアは頬を赤く染めた。
 ちなみに彼女は、相原が贈ったブカブカの縞々パジャマを着ている。男物だが、埋もれるように身につけていると、それこそ少女マンガのヒロインであって、それだけで絵になる。同じ女性である母親ですら抱きしめてしまいたくなるのは当然(なのか?)。
 と、母親の足元から三毛ネコが顔を出し、ひと鳴きしてレムリアに身をすり寄せる。
「…あらまぁ。こいつ人見知りでね。学にすら、飯出せ水出せ外に出せ、って時しか近づかない位なんだよ。なのにあなたには一発で慣れたねぇ」
 母親は驚いた表情。
 レムリアはネコタレというらしいその三毛ネコを抱き上げた。
「…魔女のたしなみということで。ね、ネコタレちゃん」
「黒猫じゃなくて?…しかしまぁ、ほんっと、何やってもかわいいねぇあなたは」
 母親はネコを抱くレムリアをしげしげ眺めた。
「絵になる女の子っているもんね」
「あの、連発は恥ずかしいのでお控え頂きたく…」
 レムリアは真っ赤。
「でも可愛いもん。何であんなのの友達が…てゆーかそうよ、何がどうしてウチのあんなのと…」
「え、それはそのう命の恩人というか…」
「ウソでしょ。秋葉原に出入りして変態商品買ってくる男だよ。本当のこと言っていいのよ。何か変なことされたんじゃない?」
「あ、それはないです。…へ、へんたいです、か」
 レムリアは苦笑しながら、だぶだぶ袖の手先をぱたぱた左右に振った。
「それは無くても他にはあるとか?」
 レムリアは笑った。半ば根負け。
「…判りました後でお話しします。でも、彼が恥ずかしがるから、女同士で秘密裏にということで」
 レムリアはセリフの後半、ひそひそ声で言った。
「判った。顔洗ってらっしゃい」
 母親が同じくひそひそ声で応じる。
「はーい。じゃぁ洗面所お借りします。はいネコタレちゃんは待っててね」
 レムリアはネコタレを下ろし、ドアを開け、部屋から出、閉めた。
 ぽーっとした顔で母親がレムリアを見送る。
 程なくして再度ドアが開く。
「あらもう終わったの?」
「なんじゃ?」
「なんだお前か」
「朝っぱらから言ってくれるじゃんか…って痛ててててて。なんでお前はオレを噛む」
 ネコタレが不満そうに唸った。
 
 朝食はレムリアのリクエストもあって純和風である。ご飯にみそ汁、ししゃもに納豆、大根おろし、生卵。
「納豆は400回練るんだよね」
 欧州在住の姫君のすることではない。ではないが、ややぎこちないながらも、納豆を混ぜる様が取り立てて違和感ないことに違和感。
「学あんたさぁ。…この子と替わらない?」
 相原はみそ汁を熱いまま飲み込んでしまった。
「けほ…なんじゃい馬鹿たれ…」
「やっぱいいよ女の子は。あんたはもう、飽きた」
「本音に聞こえるんだが」
「本音だもん。インターネットのオークションで引き取ってもらうかね」
「人身売買は禁止」
「そこに突っ込むかいこの息子は」
「すいません笑えてしまってご飯食べられません」
「だって彼女何やっても可愛いんだもの。お母さん参っちゃうよ。あんたには友達にするにも勿体ない。下僕で仕方なく使ってもらう位でちょうどいい。どうやって知り合ったの…ウソ付くとひどいよ」
「しつこいね。偶然及びインターネット最強」
「本当?」
 息子の言に、母親はレムリアに真偽を尋ねた。
「ええまぁ、不実ではないのではないかと」
 レムリアは言い、ご飯茶碗の真ん中の米飯を箸でかき分けて穴を作り、生卵をそこへ落とした。
「いきなり庶民的な技知ってるねぇ」
「ここにおわします年上の友人に教えてもらいまして」
 醤油を垂らし、納豆をそこに載せ、混ぜて一気にかきこむ。
「…しあわせ」
 頬をリスのように膨らませてコメント。
「おもしろい姫様だこと。そんなのより普段食べてる方がおいしいんじゃないの?」
「自炊ですもの。食材もバリエーションも乏しいですし。お母様のご飯おいしゅうございます」
「納豆や卵は作ってないけど?ししゃももスーパーで20円引きだし」
「え?あ?あ、そういえば…すいません」
 照れ隠しに軽やかに笑う。
 その表情に母親も相原も思わず笑顔になる。
「ほんと、娘っていいねぇ。学、私は今、あんたがここにいることをつくづく後悔している」
「オレが居なければ彼女もここに居ないわけで」
「それは判らないじゃない。さて、あたしゃパート行くよ。あんたらは今日どうすんの?お昼は…」
「アキバ(秋葉原)と新宿」
「あ、秋葉原行きたい」
 嬉しそうなレムリア。
 対して母親は渋面になった。
「秋葉原!?あんなとこに姫さん連れてってどーすんの。変態商品の毒気に当てるつもり?」
「なんでそう秋葉原と変態が…」
「変態じゃない。この間買ってきた何あれ。マンガみたいな女の子の絵が付いた…」
「太陽電池なんだよあれでも中身は。しょーがないでしょが、メーカーのCMキャラクターがあの女の子なんだから」
「不自然きわまる」
「その不自然ちぐはぐな取り合わせを、おもしろいと感じさせて手に取るように仕向ける作戦なんだよ。実際問題として発電効率が一番いいから選んだんだけどもが。パソの下に置いてあるから見てみるがよろし」
「…判ったよ。姫さん。注意しなね。いざとなれば大声出せば誰か来てくれるし、そうだ、おばさんの携帯番号…」
「あ、大丈夫です。…多分」
 苦笑と共に、そして間を置いて付け加えられた最後の一言に、相原はくずおれた。
 
 相原宅から秋葉原まで、バスと電車を乗り継いで2時間弱。
 道中で相原はレムリアに様々なプリペイドカードを手渡す。関東一円で通用する“バス共通カード”、同じく私鉄用改札カード“パスネット”、JR用鉄道ICカード“suica(スイカ)”。
「え、いいの、こんな」
「いいの。それ持ってれば好き放題東京来られるでしょうが。ちなみにやがてsuicaだけで全部事足りるようになる」
「あそ。あのーところでさ、こういうの渡すって、生活環境の一部を移せって意味だよね。電気街それって人は、結構ススンでるカンケーと言わない?」
 レムリアは各種カードをトランプのババ抜きのように広げると、カードの影から相原の目をじっと見上げた。
 相原は黙り、レムリアを見、ついで目を見開いて真っ赤になった。
「あのね。持ってれば自由に動けるかなぁと。急に行き先変えたりとか柔軟に対応できるし」
 相原は言った。口から出任せではない。実際そういう意図ではない。
「真っ赤ですけど」
 レムリアは小悪魔のように笑う。そういう意図はないと認識した上でわざと言ったのである。彼女はこのお出かけを“デート”になぞらえて面白がっている。
 ちなみに、相原がレムリアに好意を持っていることは(年齢差的には犯罪に近いが)説明するまでもあるまい。そして、その旨相原はレムリアに表明しており、レムリアもそのこと自体は認識している。ただ、レムリアの側にはそういうことを考える心理が生じていない。否、“まだ芽生えていない”と言うべきか。そして、相原の側はレムリアのそうした心理を把握し、自分の感情を前面に押し出さないようにしている。
「…お前さんウチの母親の病気もらったか?。なんか帰ったら二人してイジメられそうな気配」
「えへへ。それはお楽しみと言うことで」
 レムリアは笑ってウェストポーチにカードを収めた。
 JRに乗り換えて都心部を横切り、2層高架…高架線路の上に更に高架線路がクロスする秋葉原の駅に降り立つ。
 複雑な構造のホーム階段を抜け、改札機にsuicaをかざして、
 電気街口。
 耳に押し寄せてくる喧噪と、目に攻め込む宣伝広告。その全てが電気製品である圧倒感。
 レムリアは半ば見上げながら立ち止まった。
「すっごいね」
 相原を振り返る。力感、密度感、発散されるエネルギー。それらが醸す秋葉原の雰囲気は、東京の中でも群を抜く圧力の高さだ。それは感じるというレベルではなく、押し戻そうにもぐいぐいと入り込んでくる。
「おなかいっぱい?」
 相原は訊いた。止まって語り合う二人の脇を、間断なく、ゾロゾロと、一部邪険な目を二人に向けながら、人が行き交う。これだけ多くの人がいながら、立ち止まっているだけで空気が違って感じられる。
 止まらない街。戻らない街。
「おなか…ああ、そういうことね、ふぅって感じなのは確かだね」
「嫌いなら戻るけど?」
「ううん、いい。香港とかマカオもこんなもんだもん。それに一度来てみたかったし」
「了解。でも注文していたパーツとか先に受け取りたいんで、気ままなぶらぶらはその後でよろし?」
「よろし」
 相原は進路を右に取り、総武線高架下のガシャガシャ建て込んだエリアへ向かう。レムリアは興味深げに相原の後を追う。
 それはれっきとした姫君が、普通の娘として秋葉原を歩いているという図である。彼女は周知の如く相当な美少女であり、現にすれ違いざま彼女に目を奪われ、その後も振り返ってずっと彼女を眺める者すらある。ただでさえ衆目を集めるのであるから、雑誌記事を知る人間が彼女を見れば、瞬時に当人と判じてもおかしくはない。実際相原は騒ぎが生じる可能性を少し憂慮した。しかし、あり得ない人間があり得ない場所にいるせいもあろう、そのような事態が生じる気配は今のところないようだ。
 警戒を緩めた相原の腕に、レムリアが自分の両腕を絡める。
「ふにゃ!?」
 これは相原。突然の事象に目を見開き、少し頬を染めて。
「邪魔?でもこう人が多いと、こーしてないと迷子になりそうで…」
「まぁそうだけどだからって…」
「手ぇつないでるだけじゃ、びろーんと長くなって、かえって他の人に迷惑だと思うけど」
 無意識で罪作りな小悪魔、と書けばその状態の表現には適切か。
「…そやね」
 相原は苦笑して、電子部品の小店が並ぶ、高架下の“デパート”へ入った。
 そこは狭い通路の両側に間口一間の店が並ぶ。扱っているのは携帯電話、ポータブルオーディオ、電池やケーブル、専門的な測定機器。送信機受信機の類。照明器具、工具、電子回路部品、放送局関連機器。中には盗聴器や暗視カメラなどというものまである。
 相原はそのうちの一軒、通信機器の店に立ち寄った。
 タバコ臭い店であり、老年の主人は狭い空間に身を畳むように座り込み、煤けたラジオから浪曲を流しながら、スポーツ紙を見ている。
「すいませんGSM4709−1142の変換アダプターを注文した者ですが」
 相原はいきなり言った。
「あ?ああ」
 主人は、必要最小限の発言しかしないぞとばかりそう答えると、足下から茶色い紙袋を取り出した。
「試してみて構いません?」
「ああ」
 主人が答え、紙袋をごそごそ開く。
「携帯出して」
 主人のその作業の間に、相原はレムリアに言った。
「は?あ、はいはい」
 レムリアはウェストポーチを開き、彼女の“携帯電話”を取り出す。
 それは軽く薄くて可愛らしい…CMでなじみの携帯電話しか知らない者には、軍用無線機のように見えるであろう。
 衛星携帯電話。世界中を飛び回る彼女の電話は、これでないと用をなさない。
「ほぉ」
 主人が彼女の機械を覗き込む。
「現物は初めてだよ。お嬢ちゃん軍人って事はないよな」
「え?ええ…」
 レムリアが戸惑いの表情で相原に目で尋ねる。曰く“どういう意味?”。
 …別にテレパシーというわけではない。レムリアは表情豊かな娘であるから、そのくらいの意思表示を読み取るのはたやすい。
「これで医療ボランティアとして世界中行きますからね。暑い寒い、土砂降りのスコール、砂漠に高山…タフでないとやってられんでしょう」
 相原は主人への説明がてら、言った。要するにレムリアの持つモデルはタフな仕様であり、ゆえに軍関係者がよく持っているのだ。
 レムリアは複雑な表情である。生死全く相反する目的の“職”にある者が、同じ機械を使用している。さもありなん。
「その歳で医療ボランティア…」
 レムリアは主人に目を戻した。
「ええ。いたたまれませんで、看護師の資格を取って時折出かけています」
「そうかえ。そらすげぇなぁ」
 主人は歯の少なくなった口を開き、オーバーなほど驚いて言った。別にのべつ仏頂面というわけでもないようだ。
 2人の会話の間に、相原は携帯電話の底の部分にあるゴム製の蓋を開け、取り寄せたアダプターをセットした。
 きちんと入った。次いで抜いてみる。
「OKですね」
「あいよ。他にはあるかい?」
「ACアダプター余ってません?」
 それはコンセントから電話に電力を供給し、内蔵電池に充電するもの。
「ああ、あるよ」
「え?別に壊れてないけど?」
 怪訝なレムリアに相原は電話を戻した。
「もしAC側の壊れ品があれば逆に歓迎」
「なんか改造かい?」
「ええまぁ」
「じゃぁこれ持って行くか。プラグ曲がってんだ。300円でいいや」
 主人は差し込みプラグがぐんにゃり曲がった不良品を示した。
 相原は購入に及んだ。
「あの…」
 申し訳なさそうに相原の袖を引っ張りながら、レムリアは首をかしげた。
 色々買ってくれるのはありがたいけどその意図は?
「こっちはぶった切って太陽電池に繋ぐ。出先で充電できんべ」
 レムリアは目を丸くした。
「そんなこと…」
「できるよ。わけない。はい、次行きましょう。じゃぁどうも」
 相原は一礼し、店を辞した。
 狭い通路を進んで行く。すれ違うのもやっとの狭さである。品選びの学生風や、スーツ姿の背後をカニ這いで通過し、天日干しの染め糸の束…を、思わせる、たわわに下がった電気ケーブルを、暖簾よろしくかき分けくぐる。
 大きな道へ出る。左右方向に通行量は非常に多い。旧五街道の一つ。
 休日の昼以降は歩行者天国になるが、今は昼食にはまだ早い。
 青信号を待って横切り、相原が入った店には、カメラの類がたくさん。
 一般的なデジタルカメラの他、一千万円もする放送局用のテレビカメラ、更にはカメラ内蔵の靴やライターなどという物まで置いてある。レムリアは価格や機能にのけぞったり眉をひそめたり。
「あーこれだ」
 相原が手にしたのは、大きめのサイコロサイズの小さなデジカメ。携帯電話内蔵品を箱に収めたような仕様といえば判りやすいか。
「いらっしゃいませ」
 店員が飛んでくる。客に案内と言うより、小型故に万引き警戒というのが正確なところか。
 攻撃的な心理の持ち主は、レムリアにはたちどころに判る。とげとげしさは、幾ら表情や口調を繕っても隠しおおせるものではない。
「そちらですか?そちらは小型で画素数も…」
「試してみていい?」
「…ああ、どうぞどうぞ」
 相原は長くなりそうな店員の売り込み文句を遮り、先ほど購入したアダプターを取り出した。
 使ってレムリアの電話につなぐ。電話のメニューからオプション、カメラ、キャプチャー(と、英語で書いてある)を選ぶ。
 カメラの画像が携帯電話の液晶画面に表示。
「へぇ、こんなこと出来るんだ」
「あとはこの電話から、…説明書にあると思うんだが、データセンターにダイヤルすると、データセンターから画像を添付ファイルにしてメールで飛ばせる。動画チャット…メッセンジャーの動画版ね、あれにも接続できる。値は張るけどね」
「すごいね」
「持ってきな。医師の意見を聞いたり的確な指示を受けたりするのにきっと役立つ」
「え!」
 レムリアは首を左右に振った。金額は万を優に超える。さすがに頂戴するには高価すぎる、というわけである。
 相原は構わず勘定を頼む。
「命は値段じゃないと思うが。気を引くためのプレゼントならこんな実用的な物は用意しない。銀座に行って黄色いケースのカバンでも買うよ。でも君はそういう女じゃないだろ?。背負った物はあまりにも大きい。でも、この街には、この街だからこそ、その背負った使命を少しでも軽くできるガジェットがある、だから連れてきたんだ。
 エレクトロニクスは不可能を可能にするとオレは信じる。それで救える命が一つでも増えるなら上等じゃん。困ったらいつでもここにいらっしゃい。何かあるから。全てはそういう意図」
 相原のセリフにレムリアは目線を外し、少しうつむき、駅前とは少し違う力の入れ方で、相原の腕に腕を絡めた。
 相原は腕を伝う暖かな雫の感触を捉えていたが、知らぬ振りをした。
 店を出る。レムリアはうつむいたまま、デジカメとアダプターをウェストポーチに収めた。
「さてこれで買い物は終わりです。どこかブラブラしますか?」
 相原が尋ね、レムリアは一回後ろを向いてハンカチを扱ってから、相原に目を戻した。
「じゃぁ、CDショップへ」
 明るく一言。赤い目で。
「ジャンルは?」
「トルコ音楽」
 レムリアは言った。欧亜の接点トルコの曲調は、パワフルで哀愁を帯びた物が多く、日本においてもファンが多い。
「ほう。相変わらず聞いてるんだ」
「うん」
「じゃぁこっちだ」
 相原が向かったのは、複数の店舗ビルで構成される量販店の“音楽館”。5階建ての建て屋でCDだけを扱っている。逆に言うと5階建てのビルが全てCDショップ。
 レムリアは“ワールドミュージック”のフロアで、お目当てのCDを5枚ほど買い込んだ。
「これアムステルダムには無かったのに…」
「“まさか”と“ひょっとして”は、アキバにお任せということで…最近トホホだけどな」
「トホホって変態商品?」
 美少女の口から唐突に飛び出した、ヘンタイなるフレーズに、衆目が集まる。
「…おいおい。まぁ、ね。仕方ないんだけどさ。古今東西、必ずある程度の売り上げが見込めるのはその方向。さて他に無ければ出ますかね?」
「は〜い」
 CDの入った袋を相原が持ち、エレベータで1階へ。
 店を出てすぐ、レムリアの足が止まった。
 
 
「どうした?」
 レムリアが何事か異変に気付いた、と、相原は知った。
 少女マンガのヒロイン向き、の笑顔が、一瞬にして託宣を待つ巫女のような真剣さを帯びるからだ。
 レムリアは周囲を見回し、大通りを挟んだ反対側、駅の側で目を止めた。
 その目線を追うと、JRの高架下、青いサングラスを掛けた少女に向いている。
 少女の手には白い杖。
 雑踏の中で、一人流れに取り残されたような、白い杖の少女。
「何か困ってそう?」
 うなずき、直ちに道を横切り行こうとするレムリアの手を相原が引き留める。まだ歩行者天国にはなっていない。
 焦るレムリアをなだめ、信号を見ながら横断歩道へ。
 青になる直前に、居たたまれない、とばかりにレムリアが走り出す。
 相原が追いつく頃には、腕を取り話しかけている。
「点字キーボードの置いてある店ってある?」
 レムリアは訊いてきた。女の子は年齢ほぼレムリアと同等と言ったところか。背はレムリアより少し高い。
 相原は少し考えて。
「あーある。あるが一緒に行った方がいい。今のCD屋よりも向こうの方になる。お前さん達には不快で危険だ」
「じゃ一緒に」
 レムリアが女の子の腕を取り歩き出す。相原は先行し、数歩歩いて気付き、振り返る。
 レムリアの足取りはゆっくりである。
 歩調を女の子に合わせているのである。“確認できてから進む”が基本だからだと、相原は理解する。
「早すぎ」
 果たしてレムリアは相原を指さし睨んだ。幼い子を“めっ!”と叱るようなイメージ。
「申し訳ない。次の信号で行こう」
 信号が変わり、車が走り出す。しばしの待ち時間。
 その間に女の子同士でおしゃべりが弾む。女の子は由利香(ゆりか)と名乗り、中学1年生であるという。やはりレムリアと同い年だ。
「パソコンを買ってもらったんですが、近所の店に点字キーボードがないので、秋葉原なら有るかなぁと。人が一杯いるだろうから、訊けばと思ったんですが。…考えが甘かったです」
 由利香ちゃんはしょげたように言った。
「ひょっとして日本って不親切?」
 レムリアは相原に訊いた。
「お手伝いするのは、やぶさかでないんだが、ズバリそのために割く時間はありません、ってことじゃないのかね。つーても一般に日本はバリアフリーにはほど遠いわな」
 信号が青になる。由利香ちゃんのペースに合わせ、道を横断、高架線路の脇を行く。ここは配達のトラック、一般車、買い物する人々が道にあふれ、正直、由利香ちゃん一人では難しいと思われる。
 それどころか、こうして腕を添えてアシストしているとしても、右へ左へやたら進路を変えるのは考え物。
「すいません通して頂けますか?」
 時に声を出し、自分ではなく、行く手の方に動いてもらい、3人は雑踏を行く。人々は一瞬嫌そうな顔をするが、白い杖を見ると、スッと身を引いてくれる。決して不親切なわけではない。
 道を折れる。
「雰囲気が変わりましたね」
 由利香ちゃんが指摘した。
「変態商品」
 レムリアが言う。相原は素っ気なく、そう、と答える。
 店先に並ぶ同人誌、電信柱に立てかけられた看板、古ぼけた雑居ビルのガラスに貼られた宣伝ポスター。
 その筋のアニメでありマンガでありゲームであり。
 行き交う者たちは若い男が圧倒的に多い。彼女たちの姿は奇異ですらある。そのせいか、向けられる目線は多いが、その殆どはすぐに目線を外す。しかし中には、少女らの存在に気付くや、露骨に舐め回すような目を向けてくる者もある。
 それは仮想世界の“意のままになる少女”に対する視線であって、要するに仮想と現実が完全にゴッチャになっているのである。
 レムリアが眉をひそめ、身を縮めるような仕草を見せる。
 相原は自らそんなレムリアの腕を取った。
「ナイト?」
「昼だけどな」
 “そのエリア”を行き過ぎる。
 細い道を挟み、新しいビル1階の小綺麗なショールーム。
 ITバリアフリーの専門店とある。
 内装がサーモンピンクなのは色覚ハンディの方に対する配慮。
「すごい色」
「緑の黒板赤チョーク」
 相原はそれだけ言い、先に店に入った。
 レムリアは首をかしげたが、すぐハッとしたように頷き、由利香ちゃんと共に続いた。
「RGブラインド…」
「ざっつらいと」
「いらっしゃいませ」
 お姉さんが声を掛けてくる。
 点字キーボードを求めると幾つか出してくれる。
 由利香ちゃんがあれこれ試す間にレムリアは店内を見て回る。その後ろから好々爺のように相原がついて歩く。
「いろいろだね」
 店内にあるのは、主としてハンディを乗り越えてパソコンと接続し、意思疎通を図るためのアイテム。入力デバイスとしては点字の他、指先で、顎で、頭にセットして目線で、音声認識で。
 動かすとピピピと音を立てたり、ブルブル震えるマウス。マウスカーソル(画面の矢印)の位置にある文字を読み上げる機能。ワープロや表計算など、スタンダードなソフトの、よく使うメニューだけを、外付けキーボードにまとめた物。
 出力は一般的な読み上げソフトの他、骨伝導イヤホン、指先にはめるセンサーのような物もある。値段は簡単な物は安価だが、パソコン本体同等か、ヘタしたら遙かに上回るものもある。由利香ちゃんの探すキーボードは後者の類。だが、売り上げ数が限られるので仕方ない面もあろう。
「この指紋センサーみたいなのは?」
 レムリアが訊く。
「はめると、中にずらっと並んだ小さなピンがガシャガシャ押し上げられて、点字を構成する」
「なるほど…あ、すごい、これCDテキストの歌詞を読むんだ」
 感心するレムリアに、相原は胸を張って腕組みをし、
「科学の発展は人の心を貧しくしたとよく言うけど、逆にこいつらは技術の結果として、ハンディ持つ方々のコミュニケーション手段として生まれた。それは心に翼をもたらした、とか言ったらかっこよすぎ?」
 そのセリフにレムリアはニッと悪戯っぽく歯を見せ、
「うん、あなたが言うと激しく似合わない。でも…こんな店まであるとは、恐れ入りました」
「ふっふっふ。どうだ参ったか」
「あなたが威張ってどうするの」
 レムリアは笑った。この状況を楽しむように。
 キーボードの選定が終わり、由利香ちゃんは購入に及んだ。ノートほどのサイズで、六つのパッドと、確定信号を送るパッドとで構成される。ドットにしたいところのパッドを叩き、次いで確定パッドを叩く、で、一文字送られる。
「お手数かけました」
 由利香ちゃんがぺこり。レムリアは首を横に振り、
「ううん、秋葉原の知らない一面が見られておもしろかった。こちらこそありがとう。送るよ。お宅はどちら?」
 由利香ちゃんの手をぎゅっと握って言う。
「あ、いいです。…あのありがとうって私何も」
「休みのひとときをありがとう。ずーっとこんなのと一緒かと思って気が滅入っていたところ」
「どうせオレは歩く変態商品だよ」
 由利香ちゃんは笑った。
 店を出る。歩行者天国の始まった通りを横切り、駅まで送る。電車に乗れば後は判るという。こういうアシストは、あまり手取り足取り先回りも失礼、という側面もある。
 改札を抜け、ホームへ向かう彼女を見送る。
「さてレムリアさん」
 由利香ちゃんの背中が見えなくなったところで、相原は向き直った。
「はい」
 レムリアが相原を見上げる。
「お昼ご飯三択。新宿のオサレなお店でランチ、銀座のゴージャスな中華料理で飲茶、アキバで立ち食いラーメン、さあどれだ」
「立ち食い!」
 間髪を入れずレムリアは言った。なお、オサレというのは“おしゃれ”のネットスラング。
「テッテ的に庶民派だね君は」
「姫様ですので」
 ラーメン食べる部分まで描写する必要はあるまい。
 食後二人は秋葉原を後にし、改札を通る。次なる行き先は新宿。
「何か買うの?」
「ショーの演出小道具。来れば判るよ」
 駅で電車を待つ間に電話着信。相原の母親である。
「なんやろ」
 相原は応じる。電車が来たがまぁ仕方あるまい。1本見送っても、次まで3分かそこいら。
「あいよ」
『今どこだい』
「まだアキバ、新宿で買い物して帰る」
『あそ。病院の件だけど…』
 母親は、病院のOKはもらったが、今日の4時に説明に来いと言われた、と話した。
 その間相原はレムリアの目を見、レムリアも相原から目を逸らさない。
 熱く見つめ合う男女といった案配だが実態は少し違う。
『院長室に来いって。内容的にびっくりさせたり、色彩的に問題があったりすると、発作を起こす子もいるから、事前に教えろと。ちなみにショータイムは明日の午後3時ね。彼女は従妹の姫子ちゃんということにしといたから。間に合う?』
「大丈夫でそ」
『んじゃよろしくね。あ、今夜6時で例のとこ予約しておいたから、勝手に夕食食べないように』
「わかった」
 相原は電話を切った。が、別段レムリアに内容を伝えるでもなく。
「だそうです。姫子さん」
「姫子って…」
 レムリアは苦笑した。彼女は内容を把握している。
 相原から意志の形で内容を読み取ったのである。意識と意識を直接交わしてコミュニケーションを取る能力…それこそテレパシーを彼女は有する。その能力のゆえんが血筋にあることは説明するまでもあるまい。“病状をわざわざ聞かぬでも、その場に行けば一瞬で判る”のもこれに基づく。但し、彼女はこの能力を恣意的に使うことはない。だから相原はレムリアの目を見、伝えたい内容がある旨、合図したのである。
 次の電車が来て乗り込む。秋葉原から新宿への移動は、一駅乗った“お茶の水”で中央線快速電車に乗るのが早道。
 しかしレムリアが線路際、神田川の眺めを見始めたことから、相原は乗り換えずにそのまま各駅停車に乗っていった。別に大して時間が違うわけではない。ただ、それは後に思い返せば“運命”だったのかも知れぬ。
 新宿の一つ手前、代々木。
「降りるよ」
「え?新宿じゃ…」
「店自体は新宿と代々木の中間にあるんだ。新宿の人混みガシャガシャ歩くより、代々木から行った方が早かったりするのですよ」
 相原は言い、指さす手の形を作って見せた。
 その形をロゴに使った店のビルが、車窓の前方に見えている。
 代々木駅ホーム割り付け「ああ、あそこなんだ」
 レムリアは納得し、寄りかかっていたドアを離れた。
 電車が停車し、ドアが開き、二人は降りる。
 代々木駅はホームのわりふりがやや特殊で、秋葉原から乗ってきたこの“総武・中央線直通各駅停車”新宿・中野方面と、山手線原宿・渋谷方面とが、一本のホームを共用、両線の電車はホームを挟んだ両側に発着する。これにより、各駅停車から山手線原宿方面へ、同一ホームで乗り換えが可能になっている。その筋の用語で島式ホームの両面に発着と呼ばれる状態である。ただ、本来両面発着を想定した構造ではないので、狭い。
 その時。
「どけバカ!この…」
 酒酔いであろう。粘っこく、ややロレツの回らぬ口調で発せられたその罵り語は、列車到着を示す音楽放送に重なりながらも、さっきの白い杖の少女を思わせずにはいられない内容を含んだ。彼女が聞いたらどんなに悲しむか。但し、ここに書くべき文言ではない。
 驚きを示す、あっと言う声がホームの人々からあがり、立ち止まってホームの下を見る数名の姿が見えた。
 女性達の短い悲鳴、人体と人体がぶつかる音。
 人々を押しのけて、何者かがこちらへ走ってくる。逃げてくる。
「(月よ我が友に差し迫る危険を排除する力を)」
 相原があとで聞いたところによれば、レムリアがその時発したフレーズは、日本語でそんな意味になるという。なお、内容の性質上、乱用防止の観点から、原語での記述ができないことをご了承願いたい。
 呪文である。
 そう、彼女は単なる末裔ではない。
 だから、相原は彼女を東京に呼んだのである。
 男が現れる。
 空を掻くように前方に腕を伸ばし、前のめりになり、体より意識が先行している。そんな感じ。
 しわの刻まれた赤ら顔。白髪混じりでフケだらけ。必死の形相。
 〈由利香ちゃん〉
 それは相原の意識に、ライターの炎が点るように、唐突にポッと浮かんだフレーズである。
 ただ、浮かんだ理由を相原は知っている。
 レムリアである。彼女は赤ら顔の男の意識から、男が他でもない由利香ちゃんをホーム下へ突き落とした、と、読み取ったのだ。
 時を平行して二つの事象が生じる。
「非常停止お願いします!」
 相原が声を放つ。駅のホームには、作動させると、“緊急停止信号電波”を近隣の電車に送信する、非常停止ボタンが設置されている。むろん乗客が操作して構わないのだが、イタズラ防止の観点からか、あまり大々的に周知されておらず、一般に知る人は少ない。ただ逆に、マニアや駅係員などは、これだけで意図は通じる。
 だから相原はこのように言ったのである。そういうボタンが存在し、どこに設置されているかを説明するより、その存在も名称も知っている人種に伝わった方が確実で早い。
 もうひとつの事象。
 それは、列車接近の放送を聞き、寄りかかっていた柵から歩き出そうとした男性が、読んでいたスポーツ新聞を折りたたもうとして、数ページをホームにバサバサと落とした、というもの。
 そして、その、落ちた新聞紙の上に、赤ら顔の男の足が乗り上げる。
 男は前のめりであった。
 足はホームを蹴らず、新聞紙を蹴り上げた。
 新聞紙が舞い上がる。
 一連の動きをまとめて書くと、男は落ちた新聞紙によって滑った。
 顔からコンクリートのホームに落下し、したたか打ちつける。
 その上を相原が飛び越え、レムリアはレムリアで別ルートでホーム反対側へ。
 相原は山手線の線路敷内に目をやる。
 新宿方向。
 レールとレールの間、幅1067ミリの部分に、見知った少女がうつ伏せに横たわっている。
 さらに新宿方向へ目を向ける。
 巨大ターミナルを、加速しながら抜け出してくる、グリーンのストライプ。
 右方、ホーム屋根を支える柱にその非常停止ボタン。
 そのボタンをリュックにメガネの男の子が押すのを、相原は確認した。
「ありがとう!」
 とどまることなくホームから線路へ。
 鋭い音が聞こえる。バシャッという空気の吐出音であり、要するに接近してくる山手線電車が急ブレーキをかけたのである。
 相原は着地する。コンクリートの枕木に足の位置を正確に合わせ、東京の大動脈、山手線の線路にしっかりと着地する。
 ホーム上で異コースを取った二人が、少女の元に到着したのは、ほぼ同時であった。
 と、背後から隣の線路に電車が滑り込んでくる。新宿方面行きの山手線電車である。
 急ブレーキはかかっているが、ここまで行き着いてしまったのである。30トン近いステンレスの塊が11両。その慣性モーメントは容易に速度をゼロとはさせない。
 電車が減速する。運転士と、窓際の乗客達が、隣の線路の状況に目を向ける。
 弾けるような鋭い音が、行き過ぎる電車の先頭から聞こえた。
 跳ね上がり、くるくる回りながら飛んで行く、白い棒状のもの。
 彼女の杖。
 折れ飛ぶ彼女の白い杖。
「大丈夫?ねぇ大丈夫?」
 線路に降りてレムリアが声をかける。由利香ちゃんは額から血を流し、端から見て判るほどにぶるぶる震えている。
「私たちだから。さっきの秋葉原の私たちだから」
 呼びかけて手首を取る。
 その瞬間、由利香ちゃんが痛そうに身体をのけぞらせる。
「手を打った?手を打ったのね?」
 レムリアの問いかけに由利香ちゃんは頷いて答える。そして、そのまましがみついて泣き出してしまう。
「…学だめだよ」
 レムリアは由利香ちゃんを抱き寄せながら、厳しい母親のようにひとこと言った。
 相原の目を見、その心に芽生えた義憤に気付き、釘を刺したのである。
「確かに、あの男のしたことは万死に値する。でもだからってあなたが動く必要はない。そんなことであなたが人生棒に振るような価値が、あんなのにあると私は思わない。だからお願い。その矛は収めて」
 相原は何も答えず、ホームを睥睨して目を離し、散乱した由利香ちゃんの荷物を紙袋に戻し始めた。
 程なく背後の止まった電車、すなわち新宿方面行きの運転士が確認に訪れ、少し遅れて駅員が担架を持ってホームの上に現れる。
 脚立の半分を思わせる非常階段が線路とホームの間にセットされる。一般に線路面とホームの間はレムリアの首ほどもあり、抱き上げるなど映画の中だけの話。
 相原と駅員が担架を持つ。別の駅員にリュックの男の子が事態を説明している。
「酔っ払いのおじさんが目の不自由な女の子を邪魔だと突き飛ばした」
 その酔っ払いはというと、ゴミ箱の脇で手が後ろに回っている。乗降客の多い駅には鉄道警察官の巡回があるが、首都圏は土地柄その殆どが対象駅。
 これで、目下注意を向けるべきは、由利香ちゃんの怪我の状態。
 駅事務室へ移動し、救護用ベッドへ座らせる。
「怖かったでしょう怖かったよね。でももう大丈夫、犯人捕まったし私たちはあなたのそばを離れない」
 レムリアは言うと、自分のウェストポーチの中身と、駅の救急箱を使って応急処置をした。額は消毒して絆創膏。手首は消炎剤を塗って包帯でぐるぐる巻き。
 由利香ちゃんは恐怖のせいか小刻みに震えながら、鼻をぐすぐす。
 …ただでさえ、電車が接近する線路に落ちるなど怖い経験である。線路上から身を動かせば済む話なのだが、そんな簡単なことも出来なくなるほど、パニックに陥る人もいる。
 彼女が、突然放り出された彼女の感じた恐怖は、一体その何倍であろうか。
「おでこの傷はたいしたことない。でも手首は病院で診たほうがいい。ほかにぶつけたり痛い所は?」
 レムリアは由利香ちゃんの手を握ったまま放さない。
 由利香ちゃんは、問いの答えには首を横に振った。
 と、駅員がドア(開けっ放しではあるが)をノックし、ペットボトルのジュースを持って入ってきた。
「飲みますか?」
「ありがとうございます。由利香ちゃんジュース。飲んで。落ち着くから。…駅員さん、近所にレントゲンを備えた病院は?」
「さぁすぐには…調べてみないと…」
 駅員は首をかしげる。
「信濃町行くか?」
 相原が言った。
 信濃町。それは代々木の2駅隣であり、著名な大学病院がある。
 その病院にレムリアは“撃たれて”入院していたことがあるのだ。
 …追って説明する。やがて交わされるであろう女二人の秘密の話を記述すれば、事は足りよう。
「ああ、そうか」
 レムリアは両の手を叩いてぱちんと鳴らした。ちなみにこれは嬉しいとか、得心が行った時の彼女が見せる癖である。
 相原は駅員に病院の名を言った。
「それならクルマを手配します。当駅からも連絡を入れておけば話は早いでしょう。…あと警察はどうされますか?被害届とか」
「後回しにしてください。彼女は今痛いし、怖がっています。この場を離れたいし蒸し返されたくもないはず」
 レムリアは強い調子で駅員に言った。
 13の娘の物言いではない。最前線で臨機応変に“今何が必要か”考え続けてきた経験が放った言葉だ。
「わ、判りました」
 信念に基づく真っ直ぐな瞳に気圧されるように、駅員は答えた。
 タクシー待ちの間に由利香ちゃんはペットボトルを口に運ぶ。
 かなりの量喉に流す。
 それで少し落ち着いたようである。その間もレムリアは手を放さない。
「ごめんね」
 由利香ちゃんはレムリアの手を握り返し、小さく一言。
 レムリアは握り返した手を更に両手で包む。
「なんで謝るの?あなたは被害者だよ。そんな事言う必要は全くないよ」
「だって…迷惑かけてばかり」
「ほえ?友達じゃん」
 レムリアはけろっと言った。
「え…」
 由利香ちゃんは動作を止めた。
「あ、自己紹介してなかったね。私は姫子。この人のいとこ。よろしく」
 相原はフッと笑ったが、さすがのレムリアもそんな相原には気付かなかったようである。
 自己紹介する前に友達になるヤツがあるかい!
 
 
 由利香ちゃんの手首の診断は“左手尺骨(しゃっこつ)の骨挫傷(こつざしょう)”であった。端的に言えば“ヒビが入る一歩手前”である。
「だったら普通に湿布していれば治りますね」
「そう…ですね。これはてぃーつーだぶるあいぴーでーえふえすですが…」
 若い医師とレムリアが、眺めながらあーだこーだ議論している画像は、MRI(核磁気共鳴断層撮影装置)のプリントアウトである。専門家同士で白熱すると、周りのシロトは眼中にない。よくあること。
 ちなみに医師は普通、看護師にこう懇切丁寧に説明しないが、レムリアの場合は医療ボランティアに所属しているせいか、ついでだから知っておくといいぞ、みたいなニュアンスで、所見とそのわけを説明してくれる医師が多いとか。
 中略。
「湿布と痛み止めを処方しておきます。お嬢さんよかったね。骨折にはなってないよ。それに何より、この彼女に見つけてもらったのは幸運だった。彼女は…知ってるかな?“国際自由意志医療派遣団”の看護師だからねぇ」
「え?」
 由利香ちゃんは包帯を巻くレムリアに顔を向けた。“…派遣団”は、レムリアが所属するボランティア団体の名称。
「だって13歳って」
「そうだよ。でも試験受かった。外国だけどね。日本だと准看護師に相当」
 レムリアは答えながら、医師に向かって人差し指を口に当て、“しーっ!”とやっている。
 実は先に触れた入院後、彼女の正体は冒頭の雑誌から病院中が知るところとなり、“姫様だった”と語り草になったという。
 そして今日、突然その伝説の少女が現れた。この整形外科の医師は、一目で彼女が彼女と判った、と言った。
「すごいんだね。あなた」
「恵まれた環境でのほほんと育つのがいやだった、と言ったらカッコつけすぎ?」
 レムリアは言いながら、由利香ちゃんの腕を取り、立ち上がった。
「じゃぁどうもありがとうございました。…小児科病棟に寄って帰りますね」
「おおそうかい。そりゃ子供たち喜ぶわ。あっちの婦長にメール打っとくからナースステーションに寄って」
「判りました。由利香ちゃん悪いけど寄り道させて」
「え、あ、うん。あの私ならいいよ、親に来てもらうから」
「いいえ、あなたに来てもらわないと困るの」
 レムリアは言い、腕を取って歩き出す。そして、小児病棟へ向かうエレベータの中で、この歩く変態商品と企んでいることがあって、と話した。
「私がマジックショーの助手?」
「そう。元々誰かに手伝ってもらったほうが盛り上がるかなぁ、とは思っててさ。でもこのヒトじゃイマイチこう華やかさという点で甚だしい問題が」
「イマイチ甚だしいってなんだよ」
 相原のセリフに女の子二人吹き出す。
「…でも私で勤まるの?だって手品なんて私」
「まぁ慣れてもらったほうがいいのは確かで。だから来てもらったわけ」
 レムリアは言った。
 エレベータが速度を落とし、着床を示すチンというチャイムを鳴らす。
 この時点で、既にドアの向こうが賑やかしいのが聞き取れる。
 ドアが開く。廊下を行き交う子供達とその喧噪。まるで学校近くの道路を思わせる。
「あっ!姫様のおねーちゃん」
 早速、リハビリであろうか、廊下を歩く松葉杖の男の子がレムリアを見るなり言った。
 周囲の目がエレベータホールに向く。
「うっそ!」
「あ、マジだ。マジで姫様のお姉ちゃんだ」
 その伝播速度、院内電子メールの比にあらず。
 あっという間にレムリアは子供たちに囲まれてしまう。これだけ有名なのは、もちろん、彼女が入院中にここを訪問し、ボランティア活動同様、いろいろやったからである。
「はいはいちょっと離れて。こっちのお姉ちゃんがびっくりしちゃうから」
 そこで由利香ちゃんが何かに気付いた表情。
 右の手のひらを開き、左の手指で触って確かめ、口をあんぐり。
 キャンディの包み。
「え…」
「このお姉ちゃんがみんなにって。手のひら握って開くとあら不思議」
 まさかという表情で、由利香ちゃんが言われたとおりに手を動かす。
 キャンディ2つ。
「みんなで何人かな?」
「目測25人」
 これは相原。
「じゃぁお姉ちゃん両手を合わせて。開いて」
 山のように。
 由利香ちゃんは唖然。
「な…」
「さぁお姉ちゃん、子供達にお菓子を配ってくださいな」
「う、うん」
「わーいちょうだい!」
「あ、セコい!」
 子供たちに配る。というより子供達の方が勝手に取って行く。その頃には通りがかりの看護師が、微笑ましく即席のショーを見ている。
 一通り行き渡ったところで、また後で、と、ナースステーションへ移動。
「あなたはすごい」
 由利香ちゃんが言った。
「子供たち、みんなあなたの事を大好きなんだね。ものすごく、びんびん伝わってくる」
「助手ってこんな感じ」
 レムリアははぐらかすように由利香ちゃんに言った。
 ナースステーション窓口に来意を告げる。奥の方より、婦長とおぼしき、体格の良いメガネの女性が振り向き、席を立ってやってきた。
「お久しぶりね、お元気ですか?」
 にこやかに一言。
「ええ。すいません突然」
「いいのよ。あなたが来ると子供たちの表情が変わる。食事や薬に対する姿勢まで変わってしまう。退院した後、しばらく泣いていた子もいたくらいよ。まるで魔法…あらそちらは?」
「友人ですが、トラブルで手首を怪我して、近かったのでこちらに…」
「そう。…あらあなたは…そう、それは怖かったでしょうね。でも彼女なら安心していいわ。送って行く途中なのね」
「そうです」
「じゃぁ引き止めちゃ悪いわね」
 相原はそこでチラッと腕時計に目をやった。
 ナースステーションの外では子供たちが鈴なり状態で“姫様のお姉ちゃん”が戻るのを待っている。ちなみに子供達がレムリアに付ける“姫様”という冠であるが、これは別にわざわざ子供達に素性を説明した結果ではない。病院関係者が姫様言うのを、アイドル、といった意味合いに受け取って定着した、と見る方が雰囲気的には合っている。
「行ってあげて。ところで怪我の事、お嬢さんの親御さんには?きっと心配していらっしゃるわ」
「あ、はい。では」
 レムリアは、今度はみんなのポケットにいつの間にか紙風船が入っているという業を見せて、小児病棟を離れた。
 エレベータに乗ると、さっそく由利香ちゃんが訊いて来る。
「ねぇ今のどうやってやったの?。私何もしてないのに…」
「マジック、だからだよ」
 相原が言った。
「でも、あーいうのって、私があらかじめ持っていて、とか、タネが…」
 この問いにレムリアは小さく笑って。
「そこは企業秘密。うふふ。でもどうかなぁ。こんな感じなんだけど、助手、やってもらえる?」
「…あ、うん、そういう感じでいいんなら」
「わぁありがとう」
 レムリアは両の手をぱちん、そしてさらに続けて。
「衣装2人前いるね。今から…なんだっけ」
 レムリアは店名を忘れたようである。
 相原は本来行こうとしていたその名と目的を口にした。
「…行くんだけど、一緒に付き合ってもらっていいかな?」
「マジックショーの衣装ですか?」
「うん」
「単純に燕尾服にシルクハット、みたいなヤツなら、うちの店にあると思いますけど」
 レムリアと相原は顔を見合わせた。曰く、由利香ちゃんの家は貸衣装の店なのだそうだ。
「色々お世話になったし、ウチに寄ってください」
「でも…」
「お友達ですから」
 由利香ちゃんにやり返される。
 固辞するのは不自然だし、彼女が負担に思うのは確かであろう。二人は彼女の家で選んでみる事にした。住所は都内多摩川よりやや都心寄りで、相原家の最寄駅と新宿との間。要するに帰り道すがらである。
 由利香ちゃんは電車に乗る前に、自宅に連絡を入れた。杖を折ってしまったので送ってもらう…。
「人の多いところに行くなとさんざ怒られました」
 由利香ちゃんは舌をぺろっと出した。
「でも、便利な場所ってたいてい人が多いんですよね。それに大体…」
 代々木は、母親が薦めた“気功”治療院に通うためだと、彼女は頬を膨らませた。
 電車がその代々木に止まり、そして発車する。
 新宿で特別快速に乗り換える。“特別”と冠がついてはいるが、車両がゴージャスなわけではなく、特段速いわけでもない。普通のオレンジ一色の通勤電車。
 土曜の昼下がりである。優先席に、彼女の席だけは確保できた。
「素朴な質問だけど、気功ってどんなのなのなの?」
 レムリアがどちらにともなく尋ねた。彼女の出自は西洋の魔法の国である。東洋の神秘を知らなくて当然。ただ、おそらく理解は早い。
 なお、彼女のセリフは、書き間違えたわけではない。
 相原が説明を買って出る。
「端的には身体の中の超自然エネルギーの流れを整える。あるいは自分のを注入する。君的には“月からの流れ”がそれに当たると思う。それのこっちの呼び名が“気”。雰囲気なんて言葉の気はこの気から来ている。精神状態を意味する気も恐らく同じ」
「ふ〜ん、どんな風にやるの?」
 この問いには由利香ちゃんが、
「私が行ってる所では、右の手のひらをお腹の辺りに、左手を背中に、で、“気”を入れる」
 由利香ちゃんは自分の身体に手を当てて示した。
「こう?」
 レムリアは隣に立つ相原を使ってそのようにした。
 やられた相原は一瞬眉をぴくりと動かし
「ふ〜ん」
 と一言。そして、
「由利香ちゃんにやってみ…手先握るだけで十分だよ」
「そう?」
 レムリアは由利香ちゃんの両の手を握った。
 みるみるうちに由利香ちゃんの表情が驚愕に形作られる。
「な、何これ、なにこれ!」
 その声は周囲の乗客たちが驚くほど。
 やがて由利香ちゃんはゆっくりと深呼吸し、
「手がこう…お湯でも流れているようにじわーっと全体が熱くなって行く。それがだんだん痺れるような感じに変わって、とろけるような、ほぐれるような…。温泉で腕だけプカプカ浮かしているような…不思議…心地いい…」
「…なるほど」
 レムリアは、由利香ちゃんの反応に感心したように言った。
 手の配置をいろいろ替えてみる。左手は手首を持ったまま、右手は彼女の頬へ。
 更にそっと抱きしめる。はぐ。
「あ…」
 由利香ちゃんは言ったきり、黙り込んだ。
 陽だまりの猫の表情。
「こうなると人間ハイパーサーミアだな」
 相原が言った。Hyperthermia:温熱治療装置。更には、ガン細胞と健全細胞で温度上昇速度が違うのを利用し、ガン細胞だけを選択的に死滅させる、ガン治療法の呼び名である。
 レムリアは相原を見て、
「それ直感的には判りやすいかも知れないけど作用自体はむしろ逆だね。これは…感覚としては賦活化とか自然治癒能力を向上させる方が強く出る。自分の発熱だからHSPの発生も少ないだろうし…HSPか。ちょっと待って」
 そこでレムリアは気付いたように身体を離すと、由利香ちゃんの怪我した手首を両手で挟んだ。ちなみにHSPとはヒートショックプロテイン、熱ストレスタンパクのことで、身体が非生理的な高温(最近の研究では一般に強いストレス全般)に曝された場合、身体を守るために産生され、熱により変形した細胞を元に戻す作用があるという。
「わぁ…」
 由利香ちゃんがマンガの表現よろしく、小さく“O”の字に口をあけた。
「すごい。そうやってもらうと痛みがスーッと消える」
 レムリアは数分、そのままの状態を保った。
 その間、席が席であるゆえお年寄りの姿もあり、強い興味を持った表情で、レムリアの“治療”を見ている。
 レムリアは手を離した。
 湿布を剥がすと、手首患部は汗でびっしょり。
 レムリアはウェストポーチからミニタオルを出して、その汗をふき取る。
 するとまるで、その部位だけ、生まれたてのように白い。
 表層だけ皮膚細胞が新品に入れ替わった…とすれば、現象の説明はうまくできる。ただ、一般にこれほどの短期間に、これほどの細胞が入れ替わる事はあり得ないため、断定は避ける。
「治ったとは言わないまでも少しは進んだとは思う。痛みはしばらくすると戻るけど、前ほどにはならない」
「私、代々木行くのやめて、あなたにやってもらおうかな」
 由利香ちゃんは手首をさすりながら言い、湿布を戻した。
「いいよ。でもなんで気功なんかに?」
「母なりの責任感なんだと思う。私の目は幼い頃の高熱が原因と聞いたの」
 女の子二人の会話を、老女性の声が遮った。
「失礼ですけど、あなた目を?」
 隣席の女性。歩行補助用であろう、ステッキを手にしている。
「ええ、はい」
「とてもそんな風には見えないわ」
「え…ああ、杖でしたら折れてしまってそれで友達に家まで…」
「ううん、そういう意味じゃないの。生き生きしてるの。光り輝いて見えるわ」
「え…」
 指摘に驚く由利香ちゃんに、隣席の女性は、生きる望みが半減していたところだ、と語った。何でも、薬と病院通いを一生続ける慢性病の宣告を受けたのだという。
「自分が世界一不幸に思えたけど、あなたの姿を見たら些細な事に思えてきたわ。そっちのお友達の女の子、あなたにずっと気を送っていたのかもね」
 女性は言うと、到着のアナウンスに席を立とうと、ステッキに力を込めた。
 電車のブレーキがぐっと強くかかる。
「へたくそ」
 相原が言い、そのブレーキ操作から予見したか、立とうとした女性に腕を回す。
 果たして女性はバランスを崩す。
 とっさに、しかも相原より早く、由利香ちゃんが女性の肩に手を回した。
 次いでレムリアが女性の前へ。相原は二人に任せるとばかり腕を引っ込めた。
「大丈夫ですか?」
 女の子二人同時。
 レムリアは女性の両の手を取り、その目を見つめる。
 女性が見返す。目線と目線がしばし行き交う。
「ああ、これは辛いですね…由利香ちゃん肩の手そのまま」
 レムリアは言うと、左手は女性の手を持ったまま、右の手のひらを女性の手首に、ひじに、ひざに、素早く走らせ、ふわりと触れた。
 電車が止まる。
 レムリアは女性の手を引いた。
 女性はその目を大きく見開いた。
「大丈夫です。怖いようでしたらゆっくり」
 電車のドアが開く。レムリアは女性の手を取って、そのドアへ誘う。
 女性は恐る恐る両の足で立ち、ハッと気付いたように背筋を伸ばし、歩き出す。
 ステッキを使わず。
「あなたは…」
「お薬はきちんと。食事は栄養のバランスを考えて。規則正しい生活を心がけてください。そして病院には、改善状況を確認に行く、位の気持ちで。治してもらうのではなく、治らないと諦めるのではなく、治すという強い意志を持って下さい」
 レムリアは女性から手を離した。
 女性は引き続きステッキを使うことなく、車体とドアの段差を越え、ホームに降り立った。
 何か言いたげに振り返る。何か口にしたかも知れない。しかし発車メロディで何も聞こえず、電車のドアが閉まる。
 電車が走り出す。女性が、いつまでもこちらを見送る姿が去って行く。
「ねぇ、今何したの?」
 由利香ちゃんが尋ねた。
「あなたから…その“気”が出ているのを感じたから、こっちへ引っ張っただけ。今のおばあさまは間接リウマチを患われてた」
 レムリアは言った。彼女の“一瞬にしてその病状を知る”はこのように発揮される。先にも書いたように特異能力であり、医学的な説明は出来ない。しかし、内容ゆえに彼女は派遣先で憶せず用いる。医師達は彼女を不思議がるが、疑うことはないという。
「私から“気”?」
 由利香ちゃんは自分を指差した。まさかとばかり首をかしげる。
「うん、多分“勇気”」
 レムリアは笑って言った。
「そういうことか」
 由利香ちゃんは笑顔で応じた。
 下車駅に着く。規模の大きな駅で、モノレールが南北に横切っている。
 家は歩いて10分もかからないという。改札を抜け、バスターミナルの上を覆うペデストリアン・デッキを横切り、商店街の一本裏を北へ向かう。
 するとなるほど、古くからあると感じさせる、「貸衣装」の看板のかかった店が目に入った。
 モルタル塗りで瓦屋根。木枠にガラスをはめ込んだ入り口引き戸を、ガラガラと開く。
 店内にはあちこちにマネキンやガラスケースが置かれ、和洋さまざまな衣装のサンプル。和服の小物は販売もしているようだ。奥手に2畳の畳と姿見。その姿見の脇にはウェディングドレスがスタンバイという感じで置かれている。どちらかと言うと呉服屋の造りである。居住エリアは一段高い奥の方で、板張り廊下が続いている。
「おかあさんただいま」
 二人は店外でそのまま待機した。
 店の奥から、白髪交じりで頭髪を束ねただけ、という感じの女性が出てくる。
「由利香、まったく心配させて…そのお友達は?」
 二人は店外で会釈。
「どうぞどうぞお入りください。わざわざどうもすみません。あの、店番があるので申し訳ないんですがこちらで」
 母親はちゃぶ台をその2畳のスペースに出し、お茶を用意した。
 事の次第を説明する。レムリアは自らを相原姫子と名乗り、由利香ちゃんが知ってるのと同内容…看護師でボランティア団体に所属…まで話した。
「看護師さん?その歳で看護師さんなの?由利香と同い年で?」
 果たして母親は当然と言うべきか、驚愕の反応。
「ええまぁ。それで由利香さん、杖がない以外に、一人で電車にというのはちょっと怖いかなとも思いまして、厚かましくもお送りさせて頂いた次第です」
「いえいえ助かりました。本当にもうなんと申し上げてよいやら」
「そんなお母様。友達ですもん」
「友達…」
 畳に手をつこうとした母親は、意表を突かれたという顔で言い、レムリアを見上げた。
 由利香ちゃんもそうだが、この母子の“友達”というフレーズに対するこうした反応は、母子の持つ“友達”のイメージと、レムリアの言動とに、大きな差違があることを意味する。
「それでねお母さん」
 由利香ちゃんがマジックショーの事を話す。
「ああそれでしたら幾つかありますのでお持ちください。今後もなされるでしょう。差し上げます」
「あのお母様そこまでは…」
 レムリアは首を横に振り、押しとどめるような形に両の手を出す。
「いえぜひ。あなた様方は娘の命の恩人です。しかも娘がこんなに楽しそうに誰かの事を話した事なんてない。ぜひ使ってください。日本中の、世界中の子供たちが、私どもの衣装を着たあなた様によって楽しんでくれる。これ以上の幸せはありません」
 この手の“納得させるもの言い”はレムリアの得意とするところであるのだが、この場に限っては母親の方が一枚上手だったようだ。
 かくしてレムリアが選んだのは、会社の受付嬢を思わせるスーツ姿に、本当にマジック用の、タネも仕掛けも設定可能なシルクハット。
 相原は断った。明日のショーは何もしないし、“たまたま従妹の娘が東京に来ただけ”。ちなみに、レムリアの言う“イマイチ甚だしい”問題の正体は、相手が子供達なので、できれば仕掛ける側も子供だけにしたい、という意味であることも承知。自分は単なる付き添い。
「ではありがたく頂戴いたします」
「いえ、このくらいしかできない私たちをお許しください。本日は娘に対し重ね重ね格別のお心配り、心より感謝申し上げます」
 和の謝意と返礼。レムリアは大過なくて本当に良かったと応じた。
 その後の段取りであるが、これ以上ない恐怖体験をした由利香ちゃんの精神安定のため、彼女はこのまま自宅で静養。病院への説明は二人で行くことにした。翌日は相原のクルマで迎えに来る事にし、頂戴した衣装はその時にと。
 辞する事にする。件の子供病院は駅に戻って別の線で3駅ばかり。
「それでは」
 二人は席を立つ。
 
 
 財団名の後ろに、“自由の森聖ヨハネこども病院”と付いた、その小児疾患専門病院は、武蔵野の面影を残す森の中、他と隔絶され、教会と一体となってあった。欧州の田舎の病院を建物ごと移設した、そんな洒脱な外見であり、日本に多い四角四面のコンクリート建造物とは様相を異にする。
 正面入口に回ると閉鎖中。土曜日であり、外来の診療はないからか。待合室の照明も間引かれて薄暗く、人はまばら。
 休日入口からぐるりと受付へ周り、応対した女性に来意を告げる。到着したのは約束の5分前であり、二人の側に落ち度はない。
 しかしそこから待たされること小一時間。
 院長秘書と名乗る、スーツ姿の若い女性が現れ、ようやく奥へ通される。案内されたのは院長室脇の応接室。回診の時間が伸びていると言われたし、こちらは許可をお願いする身。このくらいは仕方がないか。
 しかし。
「ああ、どうぞ」
 応接室の奥から出て来た白衣の院長…その肩書きの割には若いと言えるだろう、40歳代と見られる背の高い男は、二人を一瞥すると、別段詫びることもなく、応接室の巨大なソファに着座を勧めた。これはさすがにちょっと失礼で、レムリアは露骨にいらいらしているが。
「本日はお忙しい中、お時間を頂戴してありがとうございます。私連絡いたしました相原香(かおる)の息子で学と申します。口頭だけでは失礼と存じますのでこちらをお納めください」
 相原はあくまで平身低頭で名刺を渡した。この辺り会社の新人研修の成果であろうか。
「ああ、うん」
 院長は名刺を一瞥し、胸のポケットへ。一般に名刺交換と言うが、この場は一方通行のようだ。院長はさも当たり前のように自分の名刺は出さない。
 相原は間を取るように1回まばたきして。
「こちら従妹の姫子です。中学生ゆえご挨拶だけでご容赦ください」
「相原姫子です。本日はありがとうございます」
 レムリアは目を合わせることはせず、しかし尋常に一礼。
「まぁ座って」
 ラフな口調で勧められ、2人は着席。
「マジックショーと」
 若き院長はどかっと腰を下ろし、ひとこと言った。
 興味津々という風には見えない。お義理で事務的な対応というか、本当にショーが患者に与える影響の有無“だけ”見たい、そんな意図を感じる。
 要するに“そこだけ知りたい。あとはどうでもいい”。
 相原でも如実に感じるその意図は、レムリアにとってはより明確に相違ない。
「ええ、私と、都合で参っていませんがもう一人の女子中学生との二人で、こんな感じで」
 レムリアは相原の右の拳を指差した。
 相原は拳を開いた。
 万年筆。
 若き院長は現れた万年筆に目をやり、一瞬置いてその目を見開くと、己の白衣の内側を見つめた。
「スリみたいだな」
 乾いた笑い。レムリアは一旦唇を噛み、解放。
 次いで万年筆を返し、目を伏せて。
「失礼しました。こんな感じで、物が現れるとか、物が移動するとか、そういった類のマジックをします。音や光、動物は用いません。お菓子を出してプレゼント、というパターンがあるかと思いますが、その際には氷砂糖を紙に包んだ物にする予定です」
 レムリアが相原の手元を指さし続けるので、相原は左右の手を交互に握ったり開いたり。
 開くたびに、手からはお菓子が現れてはこぼれ落ちる。無関心院長も、さすがにこれには目が大きくなったようで。
「ほう…これは鮮やかだな」
「特段シナリオめいた物は作りません。即興で、子供達からリクエストが有ればそれに応えよう、そんな感じで考えております。時間的には30分」
 レムリアは言うと、出した菓子を回収してウェストポーチに戻した。
「こんな感じですがいかがでしょう」
「まぁいいだろ。じゃぁ明日の3時で。おーい堺君」
 若き院長は言うと、先ほど案内してくれた女性を呼び、自分は早々に席を立って院長室へ戻った。
 要するに“用が済んだら帰れ”。
 えっもう?と、誰もが思うであろう。そのあまりの早さには二人とも唖然である。2時間待って診察3分…主に総合病院の対応を揶揄する言葉だが、それほどではないにせよ、こういうことをされると、身体的に楽とは言えないお年寄りや妊婦さんが、果たしてどんな気持ちか、想像が付こうというもの。
 要は横柄だ。
「どうぞ…」
 その女性…堺さんが現れ、廊下へのドアを開く。
「申し訳ありませんね、お待たせした上に…。わたくしから代わって失礼をお詫び致します」
 堺さんは頭を下げた。
 レムリアは慌てて、お控え下さいとばかりに両の手を広げて小さく左右に振り、
「いいえ、そんな。何もあなたが…。あの、申し訳ありませんが、明日使わせて頂ける場所を下見したいのですがよろしいですか?」
「え?あ、はい、どうぞ」
 案内されたのは、6階にある、レクリエーションルームと称す部屋。
 小さなステージがしつらえてある。大きな小児病院には、大抵、院内学校が併設されているが、ここはその講堂に相当すると説明を受ける。
 レムリアは見渡す。白い壁、白い天井、蛍光灯、窓。
 以上。建築基準法には違反していません。外見の洒脱さは何?
 他に誰もいない室内は、しんとしていて静止しており、“アクティブな感じ”がない。
「そんなにしょっちゅう使う場所ではないんですね」
「え、ええ…」
 レムリアのセリフに堺さんはためらいがちに答えた。
 相原は腕組みした。
 レムリアは“レクリエーション”と言いながら、その実、ここがそういう目的では余り活用されていないと見抜いたのである。
「ナースコールのボタンは?」
 彼女ならではの心配。
「当日は数名のナースが現場にいるはずです。人工呼吸器を付けた子どもさんもいますので」
「判りました。あ、ここはもういいです。ありがとうございました。あと…よろしければ婦長さんにもご挨拶を」
 3階へ移動する。婦長はこのフロアのナースステーションに専用の部屋があるという。
 ナースステーションに赴いて来意を告げる。
「あ…はい。明日の彼女ね。待ってください」
 応対した若い女性看護師は、にこやかに言って席を立った。
 その間にレムリアは廊下を見渡す。良く病院を白ビルと称するが、それは殺風景で“人の手の温かみ”を感じないことを意味する。それから行くとこの病院の内部は、外見とは不相応に全くの“殺風景”であり、衛生関係のポスターと、食事配膳用のワゴンがぽつりぽつりとあるだけ。
 子供達の声も聞こえない。時間的に夕食時の所為もあろうが(病院の夕食は5時前後が多い)、廊下が住宅街の道路同然だった信濃町とは、おおよそ様相が異なる。
「どう思う?」
 レムリアが訊いた。
「5Sの行き届いた…」
 工場のライン、というセリフを相原は飲み込む。レムリアには意図さえ伝わればいいからだ。ちなみに5Sとは整理、整頓、清掃、清潔、習慣(前4つを守ることが習慣づけられているか?)を意味する、製造現場などの合い言葉である。
 これが出来ているかどうかは現場管理の指標になる。製造現場で発揮される分には全く構わない。
 堺さんが、自分たちの会話に耳をそばだてていることに、2人は気付く。
「すっきりしてますね。清潔で気持ちがいい」
 相原は言った。
 後方より声が掛かり、若い看護婦に先導された婦長が現れる。やはり40歳台であろうか、“お母さん”が似合う年齢帯であると感じる。ただ、その表情は仕事に対する姿勢の表れか峻厳で、醸す態度は威圧的。子ども達が萎縮してしまうのではと思うほど。少なくとも小学校低学年の教員には向かない。
「明日のマジックショーを依頼した相原姫子と申します。ご面倒をおかけしますがよろしくお願いします」
 レムリアは頭を下げた。
「かわいいマジシャンだこと」
 笑顔を伴うでなく、お高くとまった感じで言い放たれたそのセリフは、レムリアを小馬鹿にしているニュアンスを含む。
「子供達に親近感を持ってもらえればと思いまして」
 レムリアはまずは無難に返す。但し目は婦長を見ない。
「同情の押しつけなら、要らないのよ」
 二人は、婦長の態度と、その裏の意図を解した。
 “幸福が不幸を見ている視点からのお義理な施し”…マジックショーの趣旨をそう曲解したのだ。
 歓迎側の態度じゃない。更に言えば上意下達で仕方なく従っただけ。そんな背景すら読み取れる。
「そうですね」
 レムリアは斜め彼方に視線を向けた。
「子ども達鋭いですからね。そうと見抜けば、多分みんな病室へ帰ってしまうでしょうね。廊下に出て遊ばずとも充分楽しい病室みたいですし」
 彼女一流の逆襲である。“子ども達鋭い”というフレーズには、言外に“自分もそうした鋭い子どもの範疇”という意図を含む。すなわち、
 “アナタの意図は私にはお見通し”
 しかし婦長には通じていないようである。レムリアのセリフを“敗北覚悟宣言”とだけ受け取ったようだ。
「ええ、子ども達はドライですよ。表面的なのは見抜きます」
「わかりました。判断は子ども達に任せたいと思います。本日は院長先生のご指示でご挨拶に伺いましたので、婦長さんにも是非にと参った次第です。お忙しいところをお手間取らせました。申し訳ありません。では、失礼致します」
「ああ、そう。頑張ってね」
 レムリアは頭を下げると、ナースステーションに背を向けた。
 もう顔も見たくない、そんな風情。
「では…」
 相原と堺さんはそろって婦長に会釈し、ナースステーションを後にレムリアを追う。
 と、右方病室のドアが開き、女の子が一人。
 女の子は廊下に描かれた(おそらくはテープを貼った)“センターライン”をまたがないように給食ワゴンを避けつつ、うつむき加減でこちらへ歩いてくる。
 そのすれちがいざま。
「ねぇ」
 レムリアは立ち止まり、女の子を呼び止めた。
 女の子が不思議そうに見返したところで、右の手のひらを開き、閉じ、また開いて、ビーズで作ったアクセサリーを“出現”させる。
 女の子は一瞬笑顔を作ったが、すぐ何かに気付いたように目線を外し、元通り黙々と歩き出した。
 レムリアは立ち止まったまま、去って行く女の子の背中を追う。その向こうには、ナースステーションから半身を出して見ている婦長。
 レムリアは唇を噛む。しかし一瞬だけで、ニッコリ笑って会釈をし、再び歩き出す。
 エレベータに乗り、文字通り溜め込んでいたのを吐き出すように、大きなため息。
「ごめんなさいね」
 堺さんがぽつり。
「効率第一で、どうしても素っ気なくなってしまって…院長先生と婦長さんはご夫婦なんです。だから誰も…」
 そこでエレベータは1階に着いてしまったが、この病院にはテレビドラマ的ドロドロが裏に有ると容易に想像が付いた。堺さんが唐突にそんなことを口にした理由は、察してください、であることに相違あるまい。
 堺さんに辞し、入場者バッジを受付に返して病院を後にする。
 レムリアは車寄せで立ち止まると、背後のビルを見上げた。
「病院は工場じゃないんだよ」
 呟き、背にして歩き出す。
 院内でオフにしていた携帯電話の電源をめいめい入れる。相原の電話にメール着信。母親から帰宅時刻を報告せよ旨。
 時刻5時である。夕食の予約は6時なので、気を揉んでいるのであろう。
 電話して予定時刻を伝える。2駅向こうで乗り換えてさらに1駅。充分に間に合う。
 電話を切る。レムリアの顔には不平不満と書いてある。
「はいはい。まずはご飯食べて。少しの間忘れましょう」
「うん。あ〜疲れた」
 レムリアは頷いた。
 
 
 相原が就職早々にローンで買った軽自動車を運転し、予約した店へと向かう。
 市街地とは逆方向、行く手には、夕日に浮かび上がる関東山地のシルエット。
 その道中、レムリアが我慢出来ないとばかりにぶちまけた。あれじゃ病院という名の監獄。
「そんなに雰囲気悪いんかい」
 母親は眉をひそめた。
 ちなみに帰宅後、相原がクルマを出すまでのわずかの間、レムリアはインターネットで病院を検索していたのだが、充実の設備で安心の医療、大切なお子様のために万全を、みたいな能書きが並んでいた。例のレクリエーションルームで人形劇か何かをしている写真もあった。無論、一緒に映っている子どもはモデルであろうが。
「ショーの提案をした時、病院の反応どうでした?」
 レムリアは助手席から身体をひねり、後席母親に尋ねた。
「別に。ええもちろん結構です、代表者の氏名と簡単な内容を書いてファックスか電子メールで…って。送ったらすぐ電話が来て打ち合わせ云々って」
「そうですか…」
 レムリアは首をかしげた。納得行かぬも道理。受付は歓迎、院長はどうでもいい、婦長はあからさまに不快。
 外面と実態?タテマエとホンネ?
 ちなみに院長の名前と、口コミ情報掲示板みたいなものも検索したが、院長は2代目で、学会論文も幾つかある権威であり、腕は立つようである。なるほど若くして院長が務まる腕の持ち主というところか。一方で口コミに関してはプラスもマイナスもない。
 最も、掲示板での評判記は一般にオトナのすること。親がつきっきりで内情ばっちりというわけではないし、子どもは自分自身でネットの掲示板に書ける状態でない。それに、子ども達は普通、そうしなさいと言われれば従うしかなく、良い悪いを判断する個人的尺度など、持たされなくて当たり前。
「まぁ、こっちには一期一会でも、向こうにはまたかよ面倒くさいな、みたいな話なのかも知れない。あなたがぶーたれてると、子ども達、見抜くよ」
「…そうですね」
 母親に言われて、レムリアはようやく顔を上げた。
 でも、そのままじっと、窓の外を見るだけ。
 走ること10分。
「はい着きましたよ」
 予約時刻を5分少々過ぎる頃、夕闇の中、軽自動車が到着したのは、山懐の旅館のような建物。
 しかし駐車してあるクルマの数に対して、建物の収容力は明らかに小さい。
 と、思いきや、よく見ると山の斜面あちこちに日本家屋が点在し、家屋と家屋の間の小道を、和服姿の仲居さんが料理を持って移動中。
「何かすごそうなんですけど」
 レムリアはクルマから降りながら、恐る恐るといった感じで言った。
「ここはね、山を丸ごと買い取って、そのあちこちに古い建物を移設して、中を個室にしてあるの」
 母親は言うと、意気揚々と、旅館のような建物の受付へ向かった。
 レムリアはクルマに施錠する相原の袖口をつんつん引っ張った。
「ん?」
「あの…私…こういう高級なのは…」
「抵抗ある?」
 頷く。理由は、彼女が援助隊として赴く土地には、貧困と飢餓にあえいでいるところが多い。なのにこういうところで飲食というのは、それこそ“幸福が不幸を見ている視点からのお義理な施し”になる気がして、強い拒否感がある。
 だから相原の提示した三択の答えもラーメンなのである。
「ごめんな。母親はそういうこと知らないからな。お姫様に対して目一杯のおもてなしのつもりなんだよ。まぁ、今回限りと言うことで、付き合ってやって」
「判った」
 レムリアは小さく頷く。但し、気乗りしていない表情は隠せない。
 先行した母親が、受付建て屋から振り返って二人を呼ぶ。
 受付で少し待った後、仲居さんに先導されて沢沿いの飛び石を歩き、3人が通されたのは、滝のそばにある平屋。2室有り、片方には既に接待と思われる人種がいい調子だ。
 靴を脱いで上がり込む。6畳タタミに掘りごたつの純和室。
 3人が座るのを待って仲居さんが一礼し、挨拶。続いて。
「本日のおすすめでございます」
 メニューを開いて見せる。先付け、お造り…と続く和風のコース料理である。値段的には3ランクほど有るが、どれであれラーメンが何日分も食べられる金額であることに変わりはない。
 レムリアの肩がびくりと震え、その目が見開かれるのを相原は見過ごさなかった。
 仲居さんが先に飲み物をお持ちしますと言って去る。
「実はさ」
 相原は意気揚々とメニューを選ぶ母親を呼んだ。
「ん?な〜に?」
「俺ら友達の家でホットケーキたらふく食わされとんねん」
「え?あらなんだそうなの?」
「なもんで、俺ら二人でひとつでええわ。味わうにはそれで充分だし」
 結局相原が最後に和牛ステーキの付くコースを頼み、レムリアは魚の西京焼きとご飯にみそ汁を単品で注文した。
「ちょっと失礼するね」
 母親が中座する。
「ごめんね、わがまま」
 母親が建て屋の外へ出たところで、レムリアが言った。厚意を無にしたと気にしているのである。しゅんとしたその姿は、輝くほどに元気な普段とは別人のよう。
「ん?ああ、気にしなくていいよ。『高い店に連れてきた』それだけで母親的には充分目的を達したから」
「そうなの?」
「そうだよ。テーサイとミエってやつさ。気になるなら俺のをちょこちょこつまむといい」
「ふーん…」
 レムリアは言い、少し考え。
「判った。あなたがそう言うなら、そういうもんなんだって思うことにするよ」
 小さく笑顔。
 相原は頷いた。
「そそ、そう思ってていい。母親的には突然娘が出来たみたいで喜んでるんだよ。何せ息子がどんどんひねくれて行って、子どもから別の何かに変わってしまったわけだからね。可愛い娘に悪い印象持たれたくないわけ」
「わかった」
 レムリアは今度は目から笑った。
 ウーロン茶を一口。
 相原も一口含んで。
「しかし母親…ごめんなぁ。君に何かかんか構いたくてしょうがないんだよ。俺の方が居候みたいな気分だわ。娘を得た以上、穀潰しなんか放り出したいけど、父親的用途という役目があるから、家にいさせてやるか、みたいなね」
「そういえばお父様は?」
 レムリアはハッと気付いたように座卓を見回し、箸でも数えたか、訊いた。
「死んだ」
 相原はあっけらかんと言った。
「は?…」
「ああ話したことないもんね。君が信濃町退院して少しだったかな。交通事故。夜遅く横断歩道歩いていて信号無視の酔っぱらいに突っ込まれた。よくあるパターン」
 人ごとのように喋る相原を見つめるレムリアの瞳から、見開いたままの瞳から、頬を伝う雫がひとつ。
「おいおい」
「ごめんなさいあたし…だって私の入院先に信濃町を選んだのはそもそもお父様の難病を治したからって聞いてたから…」
「いいんだって。そら直後は相当応えたよ。でも母親にとって俺しかいねーんだって自覚がそんなもん吹き飛ばした。男って失恋には女々しいが、逆にこういう方面は冷徹なまでにクールなのかも知れないね。変な話だけど、太古、部族間で闘争を繰り返していた時代には、いちいちメソメソしてる暇ないもんな、その遺伝子かな、と思った。背筋を伸ばして大学を卒業し、無事就職しましたとさ」
 レムリアは涙をぬぐいながら笑顔を作った。相原が本当に父の死を引きずっていないと理解したようである。
 母親が戻った。
「…我が子息は私がいない間に姫ちゃんに何かする癖があるようだね」
「アホぬかせ」
「すいません。お父様の話を伺ったもので」
 レムリアのセリフに、母親は小さく笑った。
「そうだったのかい。泣いてくれたんだ。ありがとね。でも、私らは大丈夫だよ。男の子ってね、一瞬で父親になるんだ」
「よせやい」
 相原は言い、ウーロン茶のグラスを片手に後ろを向いた。
「照れるぜ」
 外を見ながらぐいっとあおる。
 バカである。
「んなもんだからさ。姫ちゃん来た時、あなた隠し子って言ったけど、ホントそんな気分になったよ。んで?こいつ後ろ向いてるようだから、聞かせてもらおうかい?“なれそめ”をさ」
「バカこけ」
 そう言う相原の背中に笑いながら、レムリアは“そもそもの始まり”を口にした。
「昨年、某超大国の軍事コンピュータが不正情報操作をされ、迎撃ミサイルが多数発射されるという事故がございました…」
 それは国防総省の防空コンピュータシステムが、強い電磁波によってハッキング、ありもしない弾道ミサイルに対して迎撃したという事故である。端的には核ミサイルが世界中…とりわけ旧冷戦時代の東側諸国にばらまかれた。
「ああ、あったねぇ。さすがに死ぬかと思ったけどね」
「某国はミサイルの自爆や破壊に失敗しましたが、これに欧州より超高速宇宙船を派遣、全ミサイルを追尾処理して事なきを得ました。しかし、某国はそれがそれであると知ってか知らずか、高速宇宙船を事件の主犯とみて攻撃に出ました。船は最終的に東京秋葉原に不時着、マスコミを前に真相を公開して某国の間違いであると判るわけですが、その直前に高速船の乗組員が一人撃たれます。それが私です」
「ああ、あれテレビで見てたよ。…そうかい、あの時撃たれたのは姫ちゃんだったんかい」
「ええまぁ、それで、その場に居合わせたこの歩く変態商品さんに助けられて輸血までしてもらってと。そういう次第です」
 レムリアは、その時他ならぬ変態商品も一緒に船に乗っていたことは話さなかった。
 そのきっかけとなると、やや超自然的な要素を含むからであろう。一方で相原がちょうどその時秋葉原にいるのは何ら不自然ではない。
 ちなみに、二人が出会った真のきっかけ、及び秋葉原までの一部始終は、彼自身が物語の形にまとめているのでここでは触れない。なお、レムリアの入院はこのときの銃撃に伴うもので、ぶかぶかパジャマも、納豆たまご御飯の作り方も、入院中の出来事である。
「そういうことかい。じゃぁなんだ、あの頃こいつ足繁く通ってたのは秋葉原じゃなくて…」
「ええ。多分」
 微笑するレムリアに、母親はゆっくりとため息をついた。
「背景は理解したよ。でもね。…学こっち向きな。あんたも聞くんだ」
 相原は不承不承という感じで向き直った。
 そこで仲居さんが現れ、先付けを置いて行く。
 仲居さんが下がった。
「でもだからって、義理に感じてこんな所まで来ることはないよ。言ってる意味が判るかい?」
 母親の言いたいことは、“命の恩人”の見返りとして、息子の頼みを無理に聞いてやっているのではあるまいね、ということ。
 レムリアはやや目を伏せると、しかし唇の端に小さな笑みを刻んで、首を横に振った。
「なんだかんだで楽しんでるんです。私。学さんと一緒にいるの」
 相原は再び後ろを向いた。
 瓶入りウーロン茶を瓶のままラッパ飲み。
 バカである。
 レムリアはそのバカを横目でちらりと見、そっと口を開く。
「王女の時であれ、一人暮らしの学生の時であれ、救助隊活動であれ、コッカのタイメンとか、生活の組み立てとか、人の命とか、何もかも自分で考えて、決めて、動く、ということばかりやってきました。
 でも、この人と出会ってそれが変わった。
 前を見れば手をさしのべて待ってくれている。困ったら選択肢を用意してくれる。
 自分を判ってくれてるなって、すごく気が楽になるのを感じました。
 寄りかかってる自分がいるんです。居心地がいいんだと思う。
 だから、だからもしご迷惑でなかったら、時々遊びに来させてやってください」
 レムリアはぺこっと頭を下げた。
 今の彼女の素直な気持ちであろう。ただいわゆる恋心とは少々ベクトルが異なると思われる。相原に対する彼女の気持ちは明らかに依存の比重が高く、それはむしろ兄や父に対する感情に近い。
「だってよ学。こらこっち向け」
 相原は応じない。が、どぎまぎしている顔がガラスに映っている。
 母親はレムリアに目を戻す。
「遊びに来るのは全く構わない。合い鍵を渡してもいい。あなたはいい子だ。でもひとつ、条件を出していいかい、姫さん」
 母親は言った。
 レムリアはまっすぐ母親を見返す。
「…ええ。はい」
「小悪魔でいなさい」
 母親は言い、狡そうに笑った。
「は?」
「少なくとも私の知る限り、この変態商品が家に女の子を連れてきたことなんて、宇宙創生138億年間で刹那の一瞬たりともない。ツレなくして、徹底的にツレなくして、コイツが持っているであろうオンナに対する幻想と思いこみを徹底的に否定してやんなさい。私はこいつがあなたに寄りかかられるほど甲斐性があるとは、針の先のダニの糞ほども思わない。優しくすると、つけあがるよ」
 彼女イナイ歴生まれてずっと…それを曝露されたせいもあろうか、さすがに相原が向き直った。
「そこまで自分の息子否定するか?普通」
「研修生の分際で何を言う。偉そうなことは親の巣に居候してないで一国一城の主になってから言うもんだ。彼女は自活している。人の命を助けるという技を身につけている。あんたはどうだ。以上」
「ぎゃふん」
 擬態語を発し、拗ねて後ろを向き、タタミのケバを毟り始めた相原の背中に、レムリアは笑った。
 その後食事が運ばれたが、母親は父親と付き合っていた時代、いかに当初父親が頼りなくて、自分が小悪魔になって夫を鍛えたか、こんこんと解説した。レムリアは笑いながら、一切れ1200円の西京焼きをおいしく食べた。たかだか魚の切り身に1200円。含まれるタンパク質やDHAが何か特殊と言うことはあるまい。この価格は文字通り“おいしく”食べるためのコストなのだ。食べること自体は当たり前、当然という前提の元、それを楽しむ方面が有料化した物である。
 味のためにカネを払う。そういう余裕が日本にはある。
 つくづく平和な国だなとレムリアは思った。同じ気配を相原や、彼の好きな街秋葉原にも感じる。平和ボケとののしるなと相原は言うが、その安心感がとても心地よい。平和ボケ上等ではないのか。
 思い出し笑いをするように、ひとり微笑むレムリアの隣で、相原はレアの和牛をつついていたが、美味であったかどうかは、定かではない。
 
 
 翌日。
 マジックショーは3時の約束だが、由利香ちゃんの家から誘いのメールが入り、二人は昼食に間に合うような時間に出かけた。曰く、前日に電車の中でレムリアが発揮した“気功”の能力が絶大であり、彼女の母親が話を聞きたいという。
 駅前の100円パークに車を止め、店を訪れる。
「ごめんください」
 引き戸をガラガラ開けるが反応無し。売り場には母子どちらの姿もない。
 奥の方から声が聞こえる。
「…別に」
 由利香ちゃん。つまらなそうというか、機械的な応じ方。
「気功の方は、どうですか?」
 ソフトな感じの男の声である。“押しつけがましくないテレビショッピング”相原はそんな感想を抱いた。
「…全然。こう言ってはアレですが、私の友達の方がすごいです。体中が温まります」
 その声音は急に力を帯びた。
「ほう、ではその方もこの…」
 男はナンタラいうキノコの名を口にした。その友達…レムリアも食ってるから気功の能力があるのだという。
 これにはレムリアが瞠目。
「ほう」
 相原がぼそっと。そして腕組みして。
「典型的な健康詐欺だ。キノコ屋と気功屋が結託しとる」
 そのセリフに、レムリアは相原を見上げ、次いで声のする方を凝視した。
 相原は頷いて見せた。由利香ちゃんの目にかこつけて、効きもしないキノコを売りつけ、気功に通わせるという手口だ。
 ハンディを食い物にする卑劣行為。
 果たしてレムリアは少しの間凝視した後、ゆっくりと頷き、動いた。まず、開けた引き戸を大きな音が出るように強めに閉める。
「こんにちはー。由利香ちゃん姫子だよー」
 程なく、母親が奥から現れた。
「どうもどうもごめんなさいね。お客様が見えてて…」
「私そんなキノコ食べてませんよ」
 レムリアはいきなり言った。
「え?」
 母親がとまどいの表情。その時、レムリアの目は怖いという印象を与えたかも知れぬ。
「姫ちゃん」
 明るく応じる声がし、由利香ちゃんが壁づたいに奥から出てくる。レムリアは彼女が来るのを待ち、一声掛け、その手を取った。
 続いて一人残されては無意味か“押しつけがましくないテレビショッピング”が、黒い革カバン片手に、営業スマイルを浮かべ、やってきた。
 オールバックでスーツの男。そのオールバックはピッシリとセットされている。
「あなたがそのお友達ですか?」
 口の端にしわを寄せ、ニッコリ。
「私そんなキノコ食べてません。勝手なこと言わないでください」
「これは参ったなぁ」
 ロボットのように笑う。男は口元こそ笑みの形を作っているが、瞳が凍るように冷たい目線を放っているので、彼女を小馬鹿にしているのが見て取れる。フン、小娘が。そんな感じであろうか。
 再掲だが、“とげとげしさは、幾ら表情や口調を繕っても隠しおおせるものではない” 。
「キノコなんかで治るわけがない。馬鹿馬鹿しい」
 レムリアの吐き捨てるようなそのセリフは、営業マンからスマイルの仮面を奪った。“カモの客”の面前で、見知らぬ小娘に露骨に馬鹿と言われては、反撃せざるを得ないであろう。
「おい君…」
「効くというならキノコに含まれるどんな成分が体内でどう変化してどこの器官や細胞にどう作用するのか明確に述べてください。あなたがおっしゃるように彼女のような症例で作用するというなら医学界が見逃すはずがない。ノーベル賞級の仕事ですからね」
 レムリアはたたみかけるように言った。だが営業マン氏はこの程度の問いかけは想定内であるらしく、怒りの表情から慇懃無礼とも取れる笑みに遷移し、ニヤニヤ。
「キノコがクスリのように作用するわけではありません。気功との併用で身体の持つ自然治癒力を高めるのです。判りますか?しぜんちゆ」
 聞き分けのない子どもをあしらう…営業マン氏の態度行動が、そういうスタンスであることは説明するまでもあるまい。
 対しレムリアはその黒々とした瞳でまっすぐに見返した。
「膝小僧すりむいて、そのキノコと気功を使うのと、ツバ付けてなすっておくのと、どちらが早いか試しましょうか?それで?自然治癒を主張するからには彼女の視力がそれで回復するという根拠があるわけですよね。だったら教えて頂けますでしょうか。現状所見、すなわち視力が失われている理由とその根拠。及び自然治癒によってどの細胞器官がどう変化して視力が回復するのか」
 営業マン氏のスマイルが徐々にボルテージを下げてくる。目の前の少女が単なる小娘ではないと気づいたようだ。瞳孔がアウトロー特有の様相、刃のような鈍い銀色を帯び始める。
「その説明の前に論より証拠、これを…ちょっと失礼、ご覧頂けるかな」
 理詰めには実例と権威で…ということであろうか。営業マン氏はやおらスーツとワイシャツをめくると、自らの腹部を露出した。
 そこには傷がある。胃袋の斜め下、位の位置であろうか、1本筋で、筋の両脇には赤黒い点々が幾つか並んでいる。手術で縫合した痕ということであろう、指でなぞって見せる。
 次いでその指を黒革カバンに入れ、診断書と書かれた紙を、王の勅令でも扱うように恭しく取り出した。
「お嬢ちゃんならそれ読めるわけだよね」
 営業マン氏が出したそれをレムリアは受け取った。営業マン氏の表情は、さながらジョーカーを切ったディーラーのように得意げ。
 対しレムリアは手術痕と診断書を数秒ずつ見た。
「だから?」
 答えはこれ。
「は?…なんだお嬢ちゃん読めないのかい…」
 営業マン氏が浮かべた勝ち誇った表情…が次の瞬間凍り付く。
「Duodenal Ulcer…十二指腸潰瘍ってのは判りました。迅速ウレアーゼでHPですか。HPがいること自体は不思議じゃないんですけどね。治ったですか。よかったですね。で?これが彼女の目のと何の関係があるんですか?」
 レムリアは診断書を、不要チラシでも扱うように指先でビシバシ弾いて文字通り“指弾”した。
 徐々にシワが増えて行く診断書を相原が上から覗き込む。診断書に書かれた医院の住所が代々木駅至近であることに失笑。
「そこのあなた、何か疑問でも?」
 営業マン氏はアウトローの目を相原に向けた。
「いいえ、ただ、ピロリで十二指腸潰瘍になるのと、Hibとが何で同じ土壌で語れるのかと」
 相原はそれだけ言った。ピロリとは、胃潰瘍、十二指腸潰瘍の原因として名高いヘリコバクター・ピロリのことであり、レムリアの言ったHPはこれを略したもの。迅速ウレアーゼはピロリ菌の有無を検査する簡易な方法の一つである。また、Hibはそれこそ由利香ちゃんを失明に至らしめた感染症の主因たる病原菌の名前。相原はレムリアから聞いて知ったが、敢えて略号のまま言った。
 Hibが何であるか知っていれば、レムリアの質問に対する答えとして、営業マン氏の口から出てきてしかるべき語であるからだ。
 しかし。
「で、これで?あなたはHPがキノコと気功で消失したと、こう申されたいわけですか?」
 レムリアの方が先に動いた。
「ええ、そういうことです。ですから…あっ」
 レムリアは営業マン氏に二の句を継がせず、不要チラシを握り潰すような仕草をして、“診断書”をそのままかき消した。
 取り戻そうとした営業マンの手が宙を掻き、その目が剥かれる。
 その虚をレムリアの舌鋒が突く。
「結論から申しましょうか。彼女に勧める理由にも証拠にもならないですよこれ。あなたがもし万が一仮に100歩譲って本当に十二指腸潰瘍に罹患して治ったのだとしても、それとこれとは病理が全く違う。で、答えて頂きたいんですが、それが彼女にはどう作用するとおっしゃるので?答えになってませんよ」
 営業マンは即答を避けた。
「ですから」
 一呼吸置いて。
「説明が不足したかも知れませんが、これは保有する豊富な栄養成分が気功との相乗効果で自然治癒力を高めるんです。身体自身の治そうとする働きを活性化させる。私のはその結果の一例としてご紹介しただけです」
「あなたこそ言ってることが判ってませんね。その自然治癒力によって細胞が再生するなり病原菌が駆逐されるなりするわけでしょう?彼女の場合具体的にそれがどの組織に起こるのか、説明してくださいと申し上げているんです。相棒も申しましたがHibに作用するならすごいことですからね。で、その肝心なキノコの豊富な栄養成分、拝見しましょうか」
 レムリアは言うと、手の中から何か取りだして広げた。
 丸めた診断書…否、キノコの販売パンフレットである。デカデカとキノコの写真があり、医学博士某のコメント、含まれる成分の化学式、下の方には体験談が載っている。相原の見る限り化学式はどう見ても炭水化物とタンパク質であり、要するにありきたりな栄養素に過ぎない。
 いつの間に、という表情が営業マン氏と母親の顔に浮かぶ。しかしレムリアは止まらない。
「えー『含まれております核酸は、細胞の元である染色体の構成物質です。これが、有機ゲルマニウムなどと総合的に作用しあうことにより、信じられない相乗効果』…難しい言葉並べれば誤魔化せるとお考えですか?細胞は染色体が原料でできてるわけじゃないし、総合的な作用ってモノスゴイあやふやですけど具体的になんですか?何かと何かのシナジーでより高い何かが得られるって事でしょ?何が起こるんですか?」
「それが自然治癒力です」
「ということは、治癒という結果に着眼した場合、服用しない場合と有意な差違があるわけですね?だとしたらそれ臨床的にデータ取れますね。取れるはずですね。治癒という言葉を使う以上そういうデータ揃えて許可得ないと法に触れますもんね」
 法。この文言に営業マン氏から舌打ちが、小さい音ではあったが洩れた。
 レムリアは構わず、とどめの一撃。
「あなたはうそつきです。あなたは、あなたの言うキノコと気功のセットは、彼女の状態へ対する作用はおろか、基本的な効能さえも説明することが出来ない。自分で自分の能書きを裏書き出来ないようなものを売りつけるな」
 その口調は13の娘から発せられる物ではない。さながらインチキを叱る教師である。
「小娘に何が判る。専門家でもないのに」
 果たして営業マン氏は言いながらスーツの内ポケットを探る。なお、こういう方向で人格攻撃に移るのは、議論では負けたと自ら認めたオトナが取る、特徴的行動。
「そっくりお返しします。えーと、重病であればあるほど、医学に対する限界感、失望感から、非医学的な手段に強い興味を示す。特に年寄りは神仏にすがるという観点からの関連性からも霊的なというフレーズを盛り込むと落としやすい。…ほう、医学的なツッコミを受けた時には私に電話せよか」
 レムリアはパンフレットとは別の白い紙を広げた。
 営業マン氏は内ポケットから出した携帯電話を取り落とし、真っ青な顔でレムリアを見た。
 ついでカバンの口をガバッと広げて中をかき回す。
「いつの間に!」
 怒りをあらわにレムリアに手を伸ばす。
「返せっ!」
 それはすなわち全てが嘘である証明。
「お母様これっ!」
「え?え?」
 レムリアは紙を丸めて投げる振りをした。
 営業マンが後ろの母親を向く。
 その刹那。
 レムリアは人差し指を自らの唇に当てる。それは静かにして欲しい時の“しーっ”の動作に似て。
「(意図したこと形をなさず)」
 日本語にすると、そんな意味になる文言を小さく口にし、指先を営業マンに向け、フッと吹く。
「…あれ?」
 営業マンの動きが止まった。
 まるで強制リセットボタンを押されたロボットである。きょとんとなり、それまでの動作を全て忘れた、そんな表情で店の売場に立ちつくす。
「あの、えーと、私は…」
「いらっしゃいませ。何かご用ですか?」
 レムリアは可愛らしく小首をかしげて問い、落とした携帯電話に足を載せて隠した。
「いえ、あ、すいません、何かの間違いです。失礼します」
 恥ずかしそうな表情を見せ、慌てて店を出ようとする。
「いいえ、二度と来ないでくださいやがれ〜」
 引き戸を開けたその背中に、レムリアはニッコリ笑って丁寧に、『またお越し下さいませ』のイントネーションで、そう言った。ちなみに“くださいやがれ”は、相原から教えてもらったネットスラングである。
「はい、二度と来ません…」
 男は首を傾げながら、しかし素直な口調で応じ、走り去った。
 レムリアはその姿が視界から消えたのを確かめ、携帯電話を拾い上げた。
「もう来ないでしょう。これはコピーを取って。領収書や診察券があれば、一緒に警察へ渡してください」
 レムリアは言い、手のひらから“戦利品”であるパンフレットと“売り込みマニュアル”を出現させると、携帯電話もろとも母親に渡した。
「は、はぁ…」
 母親が困惑に眉をひそめる。言い争いで専門用語が飛び交ったかと思うと、一転して男は“全て忘れた人”になり、立ち去った。理解せよという方が困難。
「申し訳ありません。看護師としてキノコの話聞き捨てならず差し出がましいことを致しました。端的に申しますと、今の男は気功治療院と手を組んだ健康詐欺です。キノコにそんな効能はありません。しかも、しつこいようですので、催眠術を少々用いました。これであの男には“ここは来てはならないところ”という刷り込みがなされたので、来ることは二度とないでしょう。もちろん、代々木の気功も行く必要はありません」
「そ…そうですか」
 母親は頷いた。が、表情はキツネにつままれたよう。
 仕方あるまい。言い争いに続いてレムリアが見せたのは、一般的には“超常現象”である。このギャップはあまりに大きく、突拍子もない。
 順序立てて説明した方が良さそうである。レムリアはHibというフレーズに男が飛びつくかどうかで反応を見た、と、まず言った。Hibはヘモフィルス−インフルエンザb型菌(Haemophilus influenzae Type b:Hib)のことである。由利香ちゃんの視力を奪った直接の原因…幼い頃の高熱は、これの感染による眼窩蜂巣織炎(がんかほうそうしきえん)に伴う。彼女はこの結果視神経を損傷し、視力を失った。ちなみにこのことから判るように、彼女の視力に作用を及ぼすのであれば、視神経の回復という答えが必要になる。従って仮に男がHibを病原菌と認識し、それを自分のピロリ菌と同様に何とかすると主張しても、それは視力の回復とは最早関係がない。すなわちHibに反応しなければウソツキ、反応してもHibに対する効能を謳うのならば、内容をよく判っていないということでやはりウソツキ、となる。要するに二重のワナを仕掛けたのだ。なおここで、Hibの名称に入っている「インフルエンザ」という文言は、流行性感冒の病原ウィルスとして余りに著名な「インフルエンザ」とは全く別物(たまたま同じ名前なだけ)であるので注意されたい。
「要するに姫ちゃんがインチキ追い払ってくれて、二度と来ないように魔法かけたわけね?」
 由利香ちゃんが、合点が行ったらしく要約し、笑顔を見せた。
「まぁ、そういうことになるのかな?」
 レムリアは苦笑した。“魔法”というフレーズにちょっとドキッ。
 と、母親が居住まいを正し、恐縮の表情。
「…何かもう何と申しましょうか重ね重ねどうもありがとうございます。…でも、それってことは、由利香の目はやっぱり…」
 母親の表情が沈んだ。
「現在の医学では、限界です」
 レムリアは躊躇せずきっぱり言った、但し、その手は由利香ちゃんの手を強く握った。
 由利香ちゃんの鼓動の乱れが、手指を介して伝わってくる。その手をレムリアは両の手で包む。
「現在では、です。最新情報的なことを申し上げますと、まずHib対策自体は良いワクチンが開発され、有効であることが判っています。これは予防という方面で活用されます。一方視力の回復ですが、これは細胞再生というバイオ面、電気信号を神経細胞に流すという電子技術面双方から、アプローチが続けられています。時間こそ掛かるでしょうが、不可能とは誰も思っていません」
「そうですか…では待つしかないと。気功はやはり何の作用もないんですね?」
「えーでも姫ちゃんにやってもらうとほわ〜んってなるけど?」
 由利香ちゃんはレムリアと手のひらを合わせる。
「それについては解釈が難しいのですが」
 レムリアは前置きして。
「気功というのは、体内を流れる何らかのエネルギー…今は霊的な流れとなっていますが、このバランスを取る物だとこのヒトから聞きました。流れの方向をどちらかに傾けず、プラスマイナスゼロに保つ」
 “このヒト”と指差したのは相原である。
「その結果として、躁でもなく鬱でもない、精神的な安定が得られます。その次に身体的な不満点が解消されて行く。これが大まかな流れでしょうか。以上がまず一つ。
 その一方で、不治の病が何かの弾みで治ったという例も実際に存在します。そして多くの場合、治った人は、臨死や形而上的存在との邂逅、人命救助などの超絶的な経験をしており、それによって人格や性格、精神状態に変化を来し、良く聞く話として“病気なんかどうでも良くなっちゃった”状態になります。すると逆に病気が治り始めるという経過を辿っています。この場合、不治と言われたものが治ったのですから、それこそ自然治癒力が極めて活性化したと解釈できます。この二つの事実から言えるのは、精神の状態が肉体の状態を変えるということです。逆に病気になる事例が神経性胃炎です」
「そうすると気功というのは?」
「それだけ捉えてインチキというのは正しくない。と言えるかも知れません。但し条件があります。よく病気やケガを治すことを“手当て”と言いますが、これは本来病んでいる部分に手のひらを当てたり、かざすことを意味します。動作は気功ソックリですよね。この大家が例えばキリストさんです」
 レムリアは言った。譬えとしてスッとこの大工の息子が登場するあたり、彼女が欧州の出自であること、魔法が過去キリスト教と繋がりを持っていたこと、と、無関係ではあるまい。ただ、多く日本ではこの手の話が登場すると強い拒否反応が示されるものであるが。
「『そして、シロアムの池に行って洗いなさいと言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、戻ってきた』」
 由利香ちゃんは新約聖書“ヨハネによる福音書”の一節をすらすらと口にした。おっと、宗教臭いと読み飛ばさないで頂きたい。由利香ちゃんが即座にこの一文を持ち出した理由を、レムリアは見抜いている。ちなみにこの部分は、生来視力を失っていた男性が、イエスによって見えるようになる、という内容である。
「ひょっとして悪霊のせいだとさんざん言われましたか?」
 レムリアは尋ねた。
「ええ。はい」
 母親が目を伏せる。その悪霊を祓えば…。典型的な霊感商法詐欺である。そしてその過程で、由利香ちゃんは聖書のこの文言と同じようにしてやる、など言われたのであろう。内容が内容だけに憶えてしまったに相違あるまい。
 目は病気が原因である。しかも由利香ちゃんが物心つく前の話。意図したことではない。
 それをいきなり悪霊のせいにされる。そして、悪霊が取り憑いたのは自分たちのせいだ、と言われる。
 レムリアは衝動的とも取れる動作で由利香ちゃんを抱きしめた。
「そんなことを言う人間は、言われた人がどれだけ傷つくか判っていない。従って人の心の判る人間ではなく、ゆえに心だけの存在である霊など判るわけがない。私は、そう思います。誰かが悪いだけでも、何かが悪いわけでもありません。ただ、そのおかげで、私は、由利香ちゃんと出会えました」
 レムリアは言い、母の瞳を見つめた。
 母は、レムリアを見返した。
 その母の瞳から、次の瞬間、涙が堰を切ったようにとめどなく溢れてくる。レムリアは傍らに少女を抱きながら、他方の手を母へと延べる。相原は何も言わず、そうして手を取り合い、或いは見つめ合う女性達の有り様を、少し距離を取って見ている。
 レムリアは今、この母子の心に押しつけられ、重石のように居座り続けた責任感と罪悪感、レムリアに対し「迷惑掛けてばかり」と言わしめた心理すらも、汚泥を流す清流のように押し流し、涙として体外へ取り払ってしまった。
 少しの時間が流れた。
 涙が収まるまで待って、レムリアは静かに、そして少し厳かに、口を開く。
「手当という行為を、キリストを例に、気功や難病完治の事例と比較してみます。福音書の記述では一瞬で治ったことになっていますが、ひょっとしたらそれは文書(もんじょ)化する際の誇張で、実際には少しずつ治っていったのかも知れません。むしろその方が普通でしょう。そして、キリストの行為自体は、神サマに直結した人ですから、そこから与えられた霊的なエネルギーを、その男性に流したのだ、と解釈してほぼ間違いないと思われます。するとここに、体のバランス回復、及び、彼に出会ったという超絶の体験で心の持ちようが劇的に変化、“どうでもよくなっちゃった”の域に達し、その結果、自然治癒力が驚異的に活性化され、生まれつき失われていた視力を得た、というシナリオが描けます」
「そういえば…」
 と、由利香ちゃん。
「その話に出てくる彼って、治った後、自ら物乞いをしていたとカミングアウトしたり、なんか悪そうな宗派と真っ向渡り合ったりするよね。差別されるかもしれないのに、異端扱いされるかも知れないのに、そんなのどうでも良くなっちゃった…」
「かも知れません。もちろん、キリストは本当に一瞬で彼を治したのかも知れません。それはそれで彼の能力は気功に比して遙かにレベルが高いからだと言えます。でもどちらであれ、盲目の彼にとって、超絶の体験であったことには変わりありません。彼は精神的にめちゃくちゃ強くなった可能性はあります。ただ、ここで一つ注意したいことがあります。キリストは他にも色々手当を見せますが、それで治った人々は、決して彼を頼っていた、のではなく、信じていた、ということです。この信じる、という言葉には、宗教的努力、信心深さという意図も含まれますが、よくある神仏におすがりして、金だけは出すので何とかしてくれ、では決してない。信じることに対価を求めていた人たちではない」
「ただ行くだけの気功に効力はない」
 相原が付け加えた。
 レムリアは頷いて…由利香ちゃんを抱きしめたままなので、頷いたことは彼女にも判る。
「私のやりかた聞いただけの気功が、由利香ちゃんに効力を持ったのだとしたら、それは、あなたが私を受け入れてくれたから。私からあなたへの通り道が、あなたの中に出来たから。霊的なエネルギーであるなら、その通り道はココロでしょう。あなたがココロを開いてくれたから、私からあなたへ流れることが出来た。
 そして全ての原点は、あなたが、前を向いて進もうとして、秋葉原へ来たから。あなたに必要なのは、金が目当ての気功じゃない。だってそういうエネルギーの源泉たる方には、そもそもお金など意味はないんだから」
 レムリアは、言った。
 彼女レムリアによる一連の言動によって、実はそれこそ、この母子の心理構造組み替えが生じたことは、敢えて書くまでもあるまい。
 母親は一度、涙を拭った。
 そして、娘の手を取り、言った。
「由利香、生まれてきてくれて、ありがとうね」
※作者註:Hibのワクチンは2008年より日本国内でも任意接種が開始された。 
 
 
 ショーの衣装は面倒なので店から着ていった。助手役が由利香ちゃんに移譲されたので、相原はマネジャーよろしく出勤スーツである。
「…とっちゃんぼうや」
「言葉を慎み給え。君は私の運転に命を預けておるのだ」
 その会話に由利香ちゃんがクスクス笑う。
 出会った当初は“おどおど”した感じが拭えなかった彼女であるが、今はすっかり馴染んでおり、雰囲気も明るい。これは、単にレムリアと親好が深まった、というだけではなく、彼女の“居場所”が出来た、という事もあろう。
「あードキドキする。こういうの初めて」
 由利香ちゃんは胸元を押さえた。
「大丈夫。昨日と同じ」
 レムリアはその手を握った。
 病院に近づくにつれ、レムリアの方が、表情がこわばってくる。
「…どうしたの?」
 レムリアの変化に由利香ちゃんが気づいた。
「気にしないで。ただ、見知った病院じゃないからさ…」
 クルマを止めて受付へ。到着は10分前である。その旨は連絡してある。
「お待ちしておりました」
 引き続きにこやかな、いや昨日より笑顔がはじける受付。
 ここの応対は普通の病院並みか、それ以上なのだが。
 堺さんを待ち、6階へ。
 エレベータを下りる。こちらも引き続き静かなフロア。
 小児病棟だからといって、いつも賑やかとは限らないであろう。ただ、“楽しさ”の有無の違いは歴然だ。
「子供たちいるの?」
 由利香ちゃんが呟いたほど。
 レクリエーションルームへ歩く。その道中で、堺さんがようやく由利香ちゃんの目に気づいたらしく、相原に耳打ちして確認を取った。レムリアがアシストしているからやっと判ったという。“そういう風に見えなかった”そうだ。
「失礼ですが、マジックの助手ってどういう風に…」
「そこが彼女のマジックなんですよ」
 相原はそれだけ言った。
 レクリエーションルームに到着する。
 ドアの前で止まり、外から伺う中は静かである。誰もいないかと思うほどだ。特に、肝心な病の少女はどうか。
 レムリアはウェストポーチを外して相原に渡した。その表情にはやや不安の色がある。しかしそれでも由利香ちゃんを促し、用意してきたシルクハットを、二人してかぶった。
 ドアを、開く。
 すると、まるで図ったかのように拍手の嵐が一行を迎える。ステージには色とりどりの折り紙やらモールやらで飾り付けがされ、スポットライトも用意。客席部分にはパイプ椅子に座った子供達の他、車いすや移動ベッドの子供達の姿も、女性看護師に伴われてある。
 更に、カメラマンとおぼしき頭の薄い中年男性が現れ、フラッシュが瞳を射る。
 レムリアは慌てて由利香ちゃんの目を腕でカバーする。彼女の瞳孔(カメラの絞り、アイリスに相当する)が開いたままの状態だからである。強い光で傷つける必要はどこにもない。なお、彼女が常時サングラスをしているのはそういう意図である。
 これには堺さんが動いてくれた。カメラマンに説明する。
「すいません。新聞記者さんです。広報部が…」
 堺さんは戻ってきて言った。
 それは病院が意図して、この企画を喧伝に利用しようとしていることを意味する。
 レムリアは眉をひそめた。なお、この間に単なる運転手に過ぎない相原は、客席後部へ回り、オトナの観客に加わった。オトナの観客には他に、キリスト教系の病院ということもあり、シスターが2名見え、相原と会釈。
 院長と婦長はいない。
 ステージ脇に視線を戻す。
「私は病院の宣伝に来たんでしょうか、子供達のために来たんでしょうか」
 レムリアはシルクハットを脱ぎ、天地をくるりとひっくり返した。
 客席に目を走らせる。冒頭からのトラブルに、子供達は不安な表情。
「すいませんごめんなさい」
 堺さんが頭を下げる。
 そのタイミングで、レムリアは、シルクハットをフリスビーよろしく、客席へ向けて投げた。
 それは怒りにまかせてモノを投げた…ようにも見えたが。
 シルクハットからは、回転の遠心力に乗り、ひらひら舞う物が周囲に振りまかれた。
 紙を折り曲げてプロペラ状にした“カミコプター”である。くるくる回転しながら子供達の間へ落ちて行く。
 子供達からワーと声が上がり、それを取ろうと手を伸ばす。シルクハットは客席後部に達し、相原がその手に収め、自分の頭の上にひょいと載せた。
 虚を突かれた記者らオトナ達は呆然。
「どうも皆さんこんにちは。マジシャンの勉強中の姫子と、こっちは由利香です。今日は少しの間ですが、どうぞ楽しんで行ってください」
 レムリアは記者達を、そして堺さんをも無視するかのように言った。
 ショーの開幕である。オトナたちのくだらない駆け引きなど、どうでもいいとばかりに。
 子供達から再度拍手が沸き上がる。
 まず由利香ちゃんの手のひらから、レムリア自身の手のひらから、ぬいぐるみの付いたキーホルダーをを次々出す。握って開いただけで出てくるので、マジックとしては極めて鮮やかだ。子供達の声は楽しそうというより驚きに近く、それはオトナ達についても、身を乗り出して覗き込むという動作から、同様に驚きを与えているようだ。
 カメラマンの動きがにわかに慌ただしくなる。とにかくタネを仕込んでいる風は一切無いのだ。“その瞬間”を捉えようという、カメラマンとしての本質的欲求が生じてもおかしくない。
 しかしカメラマンが幾ら二人を先回りし、レンズを向けても、その瞬間は撮れない。レムリアにレンズを向けたら由利香ちゃんが出す番だったり、シャッターを切るタイミングが微妙にずれたり。
 ことごとく、決定的瞬間をカメラに収めることが出来ない。
 二人はカメラマンを煙に巻くように椅子の間を歩きながら、ぬいぐるみを出しては女の子に渡した。
 一通りに行き渡る。
 こうなると我慢ならないのが男の子である。一人が立って手を差し出す。なにかちょうだい。
「あらボクも欲しいの?」
「うん」
「そうか。じゃぁ、由利香ちゃん来て」
 レムリアは由利香ちゃんと二人、男の子の前に自分たちの拳を並べる。
「さぁこの4つから選んで」
 まず由利香ちゃんの右手。
 開いたらバスのミニカー…のボディだけ。
「なんだよこれぇ」
 不機嫌そうな膨れ面で今度は由利香ちゃんの左手。そっちは車輪があるだけ。
 じゃあとばかりにこじあけたレムリアの手には、座席の部分と窓ガラス。
「全部外れじゃんよ!」
「アタリはぼくのポケット」
 レムリアは言い、男の子のズボンのポケットを指差し、指先をぱちんと鳴らした。
「え?」
「ポケット見てみましょう」
 男の子が半信半疑という顔でポケットに手を入れると、きちんと組み立てられたバスのミニカー。
「あ、すっげー!」
「いいないいな〜」
 他の男の子達から羨望の眼差し。ずるいという声もある。なお、ただ見て歓声を上げていただけの子供達が、レムリアと会話するようになったことに注意されたい。
「ハイハイ判りました」
 レムリアは笑って。
「さっきの紙ヘリコプター拾った男の子手を挙げて!」
 応じたのは5人か6人か。
「そのヘリコプターの紙を開いてみましょう…」
 レムリアのセリフに誘われて、男の子の1人がカミコプターを開く。
 そこにはトラック。
「あっ!」
 残りの子供達もめいめい開き、トラックの存在を確認。
 大喜び。だが、この時点であと3人ほど何ももらっていない男の子がいる。悲しそうな目でレムリアを見る。
「由利香ちゃん、帽子を取ってください」
「はいはい」
 由利香ちゃんがシルクハットを取る。
 レムリアはそのまま、彼女を悲しそうな男の子の元へ連れて行った。
「お手々出して」
 男の子が手のひらを差し出す。そこに由利香ちゃんがシルクハットを伏せてかぶせ、
「ワン、ツー、スリー」
 パッと取ると手のひらにスポーツカー。
 その時女の子でカミコプターを取った子が、同様に紙を開いた。
 中に入っていたのは糸とビーズ。
 更にもう一人の子の紙には、宝石を模したプラスチック。糸通しの穴が空いている。
「それは、今日ここに来られなかったお友達に、作ってあげてくれるかな」
 レムリアは言った。つまり、糸とビーズと、プラスチックの宝石でネックレスでも。
 一通りプレゼントが行き渡ったところで、手品少女二人は、部屋の前後に離れ、レムリアは腕組みしている相原の頭からシルクハットをひょいと取る。その際、相原の傍らにいるシスター二人に会釈。なおここまでの間、カメラマンは“見せ場”が次々に、しかも離れた場所で起こるため、シャッターどころかピント合わせすら一度も成功しなかったと付記しておく。
「さて次は不思議なテレポーテーション手品です」
 そこでルームのドアが開き、移動ベッドに横たわった少女が看護師に伴われ現れる。輸液(点滴)装置がセットされ、酸素吸入補助装置のパイプを鼻にセットし、頭にはバンダナ。表情は一見して辛そう。
 魔法を求めた彼女である。辛そうな表情のゆえは、痛みが間断なく続いているせいであろう。年齢は9歳というが、憔悴の見えるやつれた身体は、表情の幼さを除けば、成人以上の年代かと思わせる。
 少女のベッドの電動装置がペダル操作され、上半身が起こされる。
 レムリアはベッドの動きが止まるまでの間、まばたきもせず彼女を見た。
 下唇を噛んで目を閉じる。端から見れば次の出し物を考えているようだが、その仕草の真意を知っているのは相原だけ。“一瞬で状況を把握する”。
 レムリアは相原をちらりと見る。相原は腕組みしたまま頷く。
 レムリアは気を取り直したように、女の子のベッドに近づき、シルクハットにスーツ姿、を生かして、中世貴族が姫君にする風に、恭しく挨拶。
「本日はわたくしのショーにお越し頂き誠にありがとうございます」
 両の足を交差させて上半身を折り曲げ、シルクハットを持った腕を、円を描くように動かし、頭を下げる。
 重病の少女と、近い年代の少女達によるボランティアのマジックショー。しかも一人は視覚にハンディを持っている。
 “絵になる”と踏んだのかも知れぬ。鳴りを潜めていたシャッターが連続して切られ、フラッシュが焚かれた。
 信じられない出来事が起こったのはその時である。
「あんた、邪魔だぜ」
 最年長であろうか、小学校高学年、という感じの、男の子が言った。
 頭髪が抜け落ちているのはクスリの強い副作用である。
 静まりかえる。カメラマンに向けられる子供達の視線。彼がこの場で唯一“浮いた”存在なのは確かである。子供達は確実に楽しんでいるのだが、そこをオトナの勝手でちょこまか動き回られては、興を殺がれる。
 うつむくカメラマン。しかし、レムリアは振り向くと、言った。
「どうぞ」
 女の子のベッドに寄り添い、カメラに顔を向ける。
「ああ、悪いね」
 カメラマンはぎこちない動きでしゃがみ、カメラを向け、ピントを合わせ…。
「(意図したこと形をなさず。流れとどまらず光よそそげ)」
 耳元で聞こえたであろうレムリアのつぶやきに、女の子は目を見開き、レムリアを見た。
 シャッターが切られた。
 レンズの部分からポンとオモチャの花が飛び出た。
「えっ?」
 大爆笑。
 カメラマンが慌ててカメラを見回す。再びシャッターを切ると、今度はストロボ発光機から、びっくり箱よろしくバネ仕掛けでピエロの指人形が飛び出した。
「失礼しました。まぁ、そんな血眼にならず、ひととき楽しんで行っては下さいませんか?」
 レムリアは笑顔を見せて言うと、花と指人形がびよんびよんしているカメラを受け取り、自分のシルクハットに収めた。次いで由利香ちゃんの持っているシルクハットから、別のカメラを出して記者に渡した。
「そっちが本物ですよ」
 カメラマンが慌てて見回し、安堵の溜め息。
 次いでギョッとしてレムリアを、レムリアのシルクハットを見る。
 いつの間に?そう思うのは当然のこと。レムリアはカメラマンに一瞬も触れていない。
 しかしレムリアは、“タネも仕掛けもございません”とばかりに、シルクハットの中を見せるだけ。無論、空っぽであり、収めたであろうイタズラカメラは、影も形もない。
 カメラマンは笑った。
「こりゃ、参った」
 追い回す表情は一変、カメラマンは気のいいおじさんの表情になって、頭をポリポリ掻き、壁沿いにしゃがんだ。
 レムリアは笑顔を見せ。
「という感じでテレポーテーション。こっちの帽子からこっちの帽子へ。やってみたい人!」
 数人が手を挙げる。もらったミニカーなりキーホルダーなりを、レムリアの帽子に入れると、由利香ちゃんの帽子から取り出せる仕掛け。
「すっげー。すっげーよお姉ちゃん」
「どうやってるの?」
「みんなが楽しんでくれてるからだよ。さて、後から来た彼女にはまだ何もプレゼントがなかったよね。由利香ちゃんちょっと」
 二人してベッドの傍らにシルクハットを並べる。
「どっちがいい?」
 女の子は指を動かそうとするがしかし。震えるだけで意志通りにならず。
 悲しそうな表情でレムリアを見る。
「判った」
 レムリアは、由利香ちゃんと、シルクハットのツバの部分同士を向かい合わせ、カポっと突き合わせた。
「ワン、ツー、スリー」
 数えて、開く。タマゴの殻を開くように。
 蛍光灯下にその輝きは周囲を圧した。
 ティアラ。レムリア自身の、王女メディア・ボレアリス・アルフェラッツの所有物。
 女の子達からどよめきがあがる。
「どうぞ、お姫様」
 レムリアはプラチナのベースにジュエルを散りばめた王女の徴を、ベッドの少女に戴冠。
 少女はそれを見てニコニコしていたが、載せられた重みに気が付き、その手を頭の上へ伸ばそうとする。
 バランスを崩しそうになる。一緒にいた看護師が手を伸ばし、触れた感触に目を剥く。
「あなたこれは…」
「私も女の子のなれの果てですから。女の子なら。一度は」
 プリンセス…それは女の子の多くが抱く、“一生に一度は…”という夢。
 一生に一度は。
 レムリアの意図を知ったか、看護師の目に光るもの。しかし、こぼすようなことはしない。
 この時、後部のシスター二人が何事か言葉を交わす。
 そして傍らで腕組みしていた相原に。
「あの、失礼ですが、彼女の本名は…いえ、あの方の本当のお名前はメディア様と申されるのでは…」
 シスターは真剣なまなざし。
 どうしてそのような質問に至ったかの経緯は簡単である。医療ボランティアの派遣先で受け皿となるスタッフ・組織には、多く現地の宗教関係者が関わるからだ。
 魔法のようなマジックを操り、子ども達を笑顔に変える、王女の素性を持つ娘。
 目立たないわけがない。しかも彼女のなしたことと、その結果を見た時、神の道を選んだ人々が何を感じるか。
 相原はどう返答しようかと一瞬考えた。
 その時だった。
 ルーム入り口のドアがガラリと開かれる。
 内部のイベントは周知であるから、その開け方は無遠慮と言える。
 婦長であった。
 子ども達の笑顔が一気にしぼんだ。
「はいそこまでです。騒々しい。こんなに騒ぐとは聞いてませんよ」
 氷の剣を突き立てたような、怜悧な物言い。
 レムリアは婦長に面と向かった。
「まだ時間には早いはずですが?それにこのくらいなら別段うるさいとは…」
「いいえ。遠くまで聞こえます。来られない子供がこの騒ぎを聞いたらどう思うでしょう」
 その物言いは、ある程度説得力を持つように聞こえるが。
「そうだと思うのなら何故このイベントをお認めになったのですか?来られない子に判らなければやっていいと?」
 レムリアは刃向かった。
「わけが判らない。受付は二つ返事。院長は無関心。そして婦長さんは…。だけどカメラマンがスタンバイ。一体どうして欲しかったんですか?マジックショーが“あったことにしたかった”だけですか?子供達が楽しそうにしてるの悪いことなんですか?」
「あんた、“ロッテンマイヤー”かい?」
 レムリアに続き、苦言を呈したのは、壁に寄り掛かって見ていたカメラマン氏。
「…な」
 予想外の人物から意表を突いた発言を受けたせいであろう。婦長は言葉が出ない。
「知らんのか。小児病院の看護婦が」
 じゃぁしょうがねぇとばかりにカメラマン氏が苦笑する。読者各位におかれては、名作“ハイジ”において、アルプスの少女ハイジを些細なことで厳しく叱りつけ、束縛する女史であることはご承知であろう。
「そ、そんなことはありません。見ました…テレビで」
 婦長のセリフはボリュームが尻すぼみ。
「アーデルハイド!」
 アニメにおいて、女史がハイジを叱りつける際の口調を男の子が真似する。
「アーデルハイド!。廊下は静かに歩きなさい」
 別の男の子が追従し、みんなして笑う。なおそれは、子ども達が普段婦長に言われていることを、アニメの口調で言い換えた物であると容易に推察される。
「あんたのやってることは、ハイジを知ってる人間のすることじゃないな」
 カメラマン氏は言い、立ち上がった。
 果たして婦長の顔が怒りを帯びる。
 そして婦長は…看護師を統括する者にあらざる軽率さで、怒鳴った。
「黙りなさい!」
 “ロッテンマイヤー”婦長は、調子づく子ども達を一喝したつもりだったのだろう。
 子ども達がびくりと身を震わせる。
 ベッドの少女も、頭の真上で怒鳴られ、身を震わせた。
 だが、彼女においては、単に怒鳴られる以上の深刻な結果を与えた。
 レムリアに対し、院長が事前に取った、あらかじめショーの内容を聞くという行動は、少なくとも正しかった。
 “驚かしてはいけない”
「う…」
 セリフの形で記することは不適当であるかも知れぬ。それは彼女が声として発したというより、気道を通過した空気が、声帯を震わせて出た音。
 ベッドの少女が前のめりに倒れ込む。頭から外れ、ベッドの上に落ちるティアラ。
 呼吸補助装置が、圧力変動から異常を感知し、警報を発した。
 非常事態が生じたことは子供達にも容易に知れた。
「まいかちゃん!」
 少女の名前であろう。別の女の子が声を出す。
 場にいた看護師3名が動き出す。レムリアは少女の手首を取る。
 まいかちゃんの担当看護師がベッドのペダルを踏んだ。
 起こされた寝台が倒れ、少女の上半身が仰臥の姿勢へ。レムリアは少女の胸を見、手で触れ、口元に耳を持って行く。
「徐脈徐呼吸」
 レムリアは言った。意味、脈拍呼吸とも所定の回数以下。
 付き添いの看護師が円い目でレムリアを見る。
「あなた…」
 レムリアは少女の胸に耳を当てた。
cardiac arrest。CPR開始します」
 それは心停止であり、心肺蘇生を始めるという意味。
 実は以前、信濃町に入院している際に、レムリアの向かいのベッドでやはりお年寄りが心停止になったことがある。この時彼女は相原に伝える意図もあったろう、心停止、人工呼吸と日本語で状況を口にしている。
 だが、この場でそう言えば子ども達が不安がる。そして同業者には略号で良い。
 レムリアが心臓マッサージを始め、開始しながらベッドの下や周囲を見る。探している。
 一方、看護師達は、レムリアを手伝うでなく、一様に驚きの表情。
「徐細動器とか心電図はないんですか?」
 レムリアは問うた。看護師達は互いの顔を見合わせた。
 それはさながら予定外の状況に出くわした反応である。無論、その一つはレムリアが動いたこと、ではあろう。だが、この状況にはそれ以前の違和感が存在する。
「彼女の状態なら充分そういう…」
「あ、はい。いえそんなことは」
 言いかけるレムリアに、まいかちゃんの担当看護師は絆されたように答えると、婦長を見、次いで躊躇があるのかやや緩慢な動きで、他の二人の看護師へ目配せした。
「じゃぁ私はドクターを」
「心電図用意します」
 看護師達が慌ただしく走り出し、担当看護師はまいかちゃんの顔の方へ回り、人工呼吸を開始する。
 そこへ相原が首をかしげながら室内後方より歩き出す。彼にその動作をさせたのも他ならぬ違和感である。
 違和感。すなわちこの命の危機的状況に、対処に二の足を踏むような、ことごとくワンテンポ遅れの動き、病院にあるまじき反応はどうだ。
 レムリアがいなかったらどうするつもりだったのか。どうなったのか。
 一連のレムリアの動きが余りに場慣れ(当たり前だが)しており、看護師達にとけ込み連携していたせいもあろう。婦長がそこでようやく気づいた。
「ちょっとあなた勝手に何を」
「突っ立ってないでエピネフリンとか…。学!ペンライト」
 レムリアは婦長に一瞥もくれることなく、近づく相原に手のひらを出す。相原は心配そうに見守る子供達をごめんごめんとかき分け歩き、レムリアのポーチからペンライトを取り出し渡した。ちなみにエピネフリンは血圧上昇剤。
「由利香ちゃん」
 レムリアは呼び、傍らのその手を握った。
 その額に汗。
「ちょっと代わって。心臓マッサージ」
「えっ」
 レムリアは由利香ちゃんの手を取り、その両の手のひらを重ね、まいかちゃんの胸骨の上に載せ、彼女の手もろとも力を込める。
 ぐっと胸骨が沈む感触がある。
「体重かけて、そう。今の感じ覚えた?」
「う、うん」
「じゃ、お願い。すぐまた代わる」
 レムリアは少女のまぶたを開くと、相原から受け取ったペンライトで瞳を照らした。
「反射あります」
 レムリアは言い、看護師と目を合わせる。2人とも少しの笑み。
 マッサージを相原が変わる。経験のある方はご存じと思うが、心臓マッサージ(胸骨圧迫式)は、胸部がベコッとたわむくらいの力を必要とする。これを1分間に80回だの100回だの行うのだが、施術者は大変な疲労を伴う。畢竟、体力だけは優れる男の方が適任である場合が多い。ちなみに相原はレムリアの素性を知る以上、講習会に参加して体得している。
 レムリアはその間に由利香ちゃんの右手にまいかちゃんの手首を持たせ、左手は脇の下へ触れさせた。
「あなたの方が判りやすいと思う。心臓マッサージに合わせて手首に脈拍を感じる?」
「うん。びくびくって」
「OK。それが感じないとか、脇の下体温低いなと思ったら知らせて」
「判った」
「お願いね。あ、呼吸私が代わります」
 レムリアは担当看護師と交代した。
「あなた、普通の女の子じゃないね」
 看護師の問いにレムリアは一瞬だけ笑顔で応じ、呼吸開始。と、そこで出て行った看護師の1人が戻って来る。
「だめだ、ドクターオペ応援で外出。クスリは3つとも持ってきた」
「応援なんて聞いてないよ」
 二人は婦長を見た。そういう連絡はあんたの所にまず来るんじゃ…
「い、院長先生を呼んできます」
 婦長はいたたまれなくなった事もあろうか。逃げるように出て行った。
「高木は?」
 戻ってきた看護師が訊いた。
「心電図」
「あるかな。あ、私代わります」
 戻ってきた看護師は相原からマッサージを更に引き継いだ。
 相原は手首をこね回しながらふぅと息をつく。
「とりあえずここに運べってシステムはないのかねここには」
 グチりながら子供達の様子を見る。子ども達が一言も発せず、静かだからである。
 相原の目が見開かれる。
 祈りがあった。
 シスター二人が前に出、子供達と共に、手を合わせ、じっと、祈っている。
 祈る子供達に見守られ、女性達のCPR…心肺蘇生。
 廊下を走ってくる音がし、その高木看護師が“非常持出”と書かれたリュックを持って戻って来た。
「ケチるからこれしかないよ」
 高木看護師は言いながら、リュックの中から体重計に近い形態、サイズのその機械を取り出した。
 AED。automated external defibrillator…自動体外式除細動器。
 恐らく、災害時に現場でCPRを行う為に用意していたのだろう。そして、どうも心電図が…あってはならないことだが使える物が無く、これを持ってきたらしい。
 と、看護師達の間に一瞬躊躇。
 その理由をレムリアは大体読み取った。呼吸を高木看護師に代わってもらう。
「勝手に使ったのは部外者の私ということで。凄いですね。合理化は人命より尊重されるなんて。CAに即時対応するシステム無いんですか?」
 レムリアは相原と同じ皮肉を言い、さっさと封を開き、パジャマの下に電極をセットし、ケーブルを繋ぎ、電源を入れた。まいかちゃんの担当看護師に聞いて年齢と性別をセットする。
 合成音声。『今から心電図を解析します』…各自まいかちゃんから手を離し、心臓マッサージも一旦停止。
 解析が終了。心室細動という判定。
『徐細動処置を行います』
 ボタンを押せの指示が出、当該のボタンが赤く点滅する。
「みんな離れて」
 レムリアはボタンを押した。
 AEDが作動。ブザーが鳴り、まいかちゃんの身体が大きく動き、そして戻る。
 そのまま少し。
 心電図が再度解析される。
 多少の乱れの後、一定のリズムを刻んで波形が描かれる。
 成功。問題ない旨の音声。
 由利香ちゃんが手首を握る。
「脈拍感じます」
 それから程なく、まいかちゃんが大きく音を立てて呼吸を再開した。
 脳への血流が滞ったせいもあり、意識まで回復したわけではない。ただ、呼吸心拍とも安定しており、危機を脱したのは確かである。
 レムリアは子ども達にVサインを作って見せた。
「やった!」
 子ども達から歓声が上がり、祈りが喜びに変わる。レムリアは子ども達の中に飛び込んで行き、片っ端から抱きしめた。
「ありがとう、ありがとう、みんなのおかげだよ!」
 シスターは天へ向かいもう一度手指を組む。
 廊下を走ってくる足音。
 院長がドアの向こうに現れる。半ば呆然とした面持ちで立ちつくし、荒い息をしながら歓喜の輪を眺める。
「何をしている?これは?」
「蘇生しました。ドクターのご意見は伺っておりましたが…。あ、自発呼吸もありますのでAED外しますよ」
「ちょっと待て」
 高木看護師のセリフに、院長は不承不承、という表情で、まず聴診器をあてがった。
 次いでAEDを心電図測定モードとし、しばらく波形を眺める。
「…次来たらと思ったが…うーむ。戻ったか」
 言葉尻を単純に解釈すると極めて残酷に聞こえるセリフをひとりごとのように言い、AEDのスイッチを切る。
 そこまで行い、非常リュックと、新品パッケージを開いたための袋や箱等を見、果たして院長は不機嫌になった。
「このAEDは非常用の…」
「非常事態でしたから使いましたが何か。普通に心電図と徐細動器があれば使わずに済んだんですけどね。彼女の状態ならベッドに常備していてしかるべき。それとも何ですか?もはや必要なかったとかお考えで?」
 レムリアは言った。
 口調に不機嫌な調子をはらんだのは否めないだろう。まいかちゃんに対する病院の見識は、状況を見る限り、CAの可能性とCPRを前提としていたものではない。
 レムリアに怒りが芽生えたと知った子ども達から、一斉に笑みの花がしぼんだ。
 まるで一心同体である。それはすなわち、レムリアと子ども達との間に、信濃町とほぼ同等の“絆”ができあがった事を意味する。
 院長は戸惑いを含んだ笑み。
「おいおい何で君がそんなに怒ってるんだ?君は関係ない…」
「CPR主導したの彼女です」
 まいかちゃんの担当看護師が言った。
「…は?」
 院長は首をかしげつつ、何をバカな?という表情で担当看護師を見返す。
「バイタルの確認、一次蘇生の着手と内容、大変場慣れした手際でした。婦長にも確認頂き、そのままCPRを」
 担当看護師は正面から院長の視線を迎えて言った。資格の有無よりも、腕は確かかどうかで彼女に任せた、と言ったのだ。
「いいえわたくしは認めた覚えはありませんよ!」
 婦長が戻り、戻るなり、全否定した。
「全てはこの少女の勝手な行動です。…ったく、蘇生したからいいようなものの。素人が…」
 レムリアは夫婦であるという二人を見た。
 怒りではない。哀れな者を見る表情だ。
「帰りたまえ」
 院長は唐突にレムリアに命令し、エレベータホールの方向を指さした。
「…君は医師でも看護師でもない素人なのに勝手なことをしたんだ。事故が起きたらどうするつもりだったんだ。冗談じゃない」
「そうですよ。勝手に」
 婦長が便乗する。無論、表向きの理由はそれだが、実際にはレムリアの行動は病院を出し抜き、コケにしたことになる。
 …病院が、“まいかちゃんにCAが生じる”、という事態を、どう考えていたか、明確に書く必要はあるまい。レムリアはその“見通し”を覆したのだ。院長が“プライドを傷つけられた”と捉えても不思議ではない。
 結果、強権発動。高木看護師が何か言いたげに息を吸ったが、
 それより先に声を上げたのは子ども達だった。
「あんたが帰れよ院長」
「そうだよ。このお姉ちゃんまいか姉ちゃん救ったんだぜ?放っておけってか?」
「まいか姉ちゃんが院長や婦長と喋って笑ったの見たことない。でもこのお姉ちゃんがティアラを出したらまいか姉ちゃん笑った」
 子ども達が指を差したティアラに、婦長の目線が落ちる。
 それを見た相原がスッとティアラを取る。婦長は手元をびくりと震わせ、ごまかすように腹部に戻す。
「院長」
 高木看護師。
 院長は不機嫌な表情のまま、高木看護師に目を向ける。
「何かね」
「意識が回復していないこともありますし、脈圧を見たいんですが」
 しかしその問いに院長は何も言わず、ふて腐れたようにベッドを自ら動かし、婦長と共にレクリエーションルームを出て行く。
 事実上の逃走である。
「あ、待ってください」
 看護師達が後を追う。レムリアにウィンクしたり、小さくVサインを見せながら。
 レムリアは手を振って彼女らに応じ、ベッドを見送ると、子ども達を振り返った。
「みんな今日はどうもありがとう。みんなのおかげで、まいかお姉ちゃんは、助かるでしょう」
 いえ〜い、と拍手。
「でもね、私はもういられません。帰れって言うから帰ります」
 ぶー、と大文句。
「だって私がいたら、みんな院長と婦長泣かせるでしょ?」
 ウィンクして言うと、子ども達は笑った。
「冗談はさておきね。30分って約束だったから、これで帰ります。また呼んでね。今日は楽しかった」
 頭を下げるレムリアと由利香ちゃんに、子ども達は拍手した。
 辞することにする。子ども達の方はシスターに任せ、堺さんがエントランスまで送ってくれることになった。
 レムリアはシスターにティアラを託した。
 重量と輝きから、シスターはその可能性にすぐ気が付いたようだ。
「あなたこれは…本物ではありませんか?」
「え?どうしてですか」
「だってあなたは、いいえ、あなた様は本当は…」
「彼女になるべく長く、プリンセスの時間を、お願いします。そのために、今回神様は待ってくださった。そんな気がします」
 レムリアの言葉に、シスターは、目を見開いた。
 涙がこぼれる。
「判りました。ええ判りましたとも。これは確実に彼女に」
「よろしくお願いします」
 レムリアは頭を下げ、由利香ちゃんと共に部屋を出ようとした。
「ああ彼女ちょっと待ってよ」
 カメラマン氏。
 レムリアは立ち止まり、振り返る。
「はい?」
「記事に…していいかなぁ。病院の提灯持ちじゃなくて新聞の地方版でさ。こんなドラマチックなことそうそうない、奇跡を見た思いだ。あ、君の写真を出そうとは思わないよ」
「ここは、子どもがいるべき場所じゃない」
 レムリアはそれだけ言い、歩き出した。
「えっ!?」
 論理の繋がらない唐突なセリフに、カメラマン氏は返す言葉がなかったと見える。しかし氏は更に彼女に話しかけようとはせず、そのまま見送った。
 その代わり。
「彼女、最後に一つだけ。名前は?」
「相原姫子」
 レムリアは振り返ることなく、それだけ背中で言い、早足で歩き去った。
 呆然と見送るカメラマン氏の脇を、相原と堺さんが、それぞれちらりと頭を下げ、レムリアの後を追う。
 レムリア達はエレベータに乗って降りた。しかし、追記しておかねばならぬ事がある。
 レムリア達とほぼ入れ替わりに、ショルダーバッグを下げた女性がひとりエレベータから降り立ち、焦燥の面持ちで走って来た。
「まいかは。まいかは!?」
 女性は走って来ながら名を呼んだ。
 まいかちゃんの母親である。
 カメラマンがそれと気づき、室内のシスターに声をかけた。
「大丈夫ですよお母さん。まいかちゃんは大丈夫です」
 シスターが言った。事態ゆえ、誰かが連絡したのだろう。
「今集中治療室で処置をされているはずです。ご一緒に…ああ大丈夫ですか?」
「良かった…」
 母親はへたり込んでしまった。
 と、ショルダーバッグからはみ出ていた雑誌が落ち、雑誌の間から印刷用紙が数枚バサバサと床に散る。
 シスターとカメラマンがしゃがみ込んで拾いに掛かる。
「ああ、すみません」
 母親は涙ながらに頭を下げる。
「ああ、そのままで」
 カメラマンは母親を制し、雑誌を手にし、そのまま視線が固まった。
「あれ?シスターこの子って」
 ページを広げて見せる。
「やはり、そうでしたか」
 シスターはゆっくり頷いた。
 母親が涙を拭った。
「それは、その子は、うちの娘が会いたがっていたお姫様です。無理とは判っていたんですが、ひょっとしたらと思って調べました。そしたら、医療ボランティアを支援している宗教団体の間では、有名であることが判りました。それで、こちらの教会にも伺ってみようと思ってたんです」
 母親は印刷用紙の方をシスターに見せた。
 それはレムリアの写真。手のひらにお菓子を持って、その両脇に子ども達が瞳を輝かせて。支援団体のホームページに載っていた、ソマリアの派遣先でのスナップ。
「それさっきの手品のお姉ちゃんじゃん」
 子ども達から声が上がった。
「え?」
 母親が目を見開く。
「そうだよ。それさっきのお姉ちゃんだよ」
「おばちゃん。そのお姉ちゃんならさっきまでいたよ」
 母親は目をしばたたく。理解を超えた事態に困惑の表情。
 その時。
「おお、これじゃん」
 カメラマン氏が雑誌の別のページを広げた。
 それはティアラを身につけ、着飾った姿のレムリアの写真。
 シスターは微笑んだ。その手にしたティアラを持ち、カメラマン氏の元へ。
 シスターが手にしたティアラと、写真のティアラを、突き合わせる。
「同じものの、ようですね」
 シスターは、言った。
「じゃぁなに?あのお姉ちゃんお姫様…」
「それ本物ってこと?ティアラ本物ってこと?本物をまいか姉ちゃんにあげたの?」
 シスターは、子ども達の問いに、都度頷いた。
 そしてまいかちゃんの母親の顔を見る。
「確かに、この雑誌の彼女、メディア王女がついさっきまで、ここにおいでになった、と考えるべきであるようです」
「え?…」
「彼女は今回、ボランティアのマジックショーをやるということで、もう一人、目の不自由な少女とここに見えました。そしてそれはそれは鮮やかなマジックを披露しました。こうやって子ども達が興奮するくらいに。そして、そこでお嬢さんに緊急事態が発生しました。でも、彼女は慌てず、看護師さん達と心臓マッサージを行い、緊急事態は回避されました。
 彼女が、彼女であるならば、その全てはそれが当たり前であると、今は理解することが出来ます。
 彼女は、彼女のゆえに私たちの間に知られています。
 彼女は王女メディア・ボレアリス・アルフェラッツ。彼女が子供達に笑顔をもたらした時、それは奇跡の始まる合図。だからそう、そのページもこう書いてあるはずです。
 ミラクル・プリンセス、と」
「ミラクル…」
「奇跡か、ああ、そうかも知れんな」
 カメラマン氏が、エレベータの方向を見て呟いた。
 
 
 相原が受付で駐車チケットをもらい、ジュースのペットボトルを抱えてクルマに戻ると、少女2人はシルクハットを手に、おしゃべりしながら待っていた。
「待たせたね」
「何か言われた?」
「別に。はいどうぞ」
 ジュースを後席の二人に持たせる。
「安月給の安駄賃?」
「いいえ単純に喉が乾いたに相違ないと思ったから」
 由利香ちゃんを送って行く。
「彼女、どんな病気なの?」
 その問いにはレムリアが答えた。
「そうか…」
「正直なことを言う。彼女は私が見た限り、もう、心臓を動かしていることさえ辛いほどだった。だから、婦長がやらかした時はハッキリ言って背筋が凍った」
 CPRを始める際、レムリアが淡々と事実を並べたように聞こえたのは、実は恐怖感ゆえの硬さのなしたことであったのだ。
「でも…子ども達の気持ちが伝わってきた。やるだけやってみよう、って思った。」
「その気持ちが彼女を救ったんだね」
「えっ?」
「私にくれた物を、あなたは彼女にもあげたんだなって思ったよ。自分のために一生懸命になってくれる人。その存在を知ることがどれだけ、どれだけ心の栄養になるか。安心と平和な気持ちに包まれるか」
 由利香ちゃんのそのセリフに、相原がルームミラーの向こうで笑う。
「そういう状態の由利香さんを見て感想を述べたのが、昨日の電車のおばあちゃんだとオレは思う。心安らかな人間の表情や気持ちは、それを目にした人もまた安らかな気持ちになるんだよ。その点で由利香さん、あなたは素晴らしい宝箱をその心に持ったんでないかい?」
「え…」
 二人して後席で赤くなってうつむく。
「乙女をからかって…」
「そ、そうですよ」
「変態商品」
「変態商品」
 変態合唱1分間。相原が「うえ〜ん」と泣き真似するまで続き、二人は笑い転げた。
 由利香ちゃんが言う。
「…あ〜面白い。ね、お二人は漫才のショーはやらないの?今日みたいな病院にはそういうのもいいんじゃないかと。にしても変な病院だったね」
「あれは、子どものいる所じゃないよ」
 レムリアは笑顔を引っ込め、再び言った。
「そんなに良くない?」
「うん。人と人とが触れ合うっていう肝心な部分が欠けてる。シスターや看護師さんはよさげだけどね。でも…」
「工場勤めの人間の視点から見ると、あの病院の意図はよーく判るよ」
 相原はレムリアのセリフにかぶせて言った。
「ほう。ご拝聴」
「子ども達の治療じゃない。人体の修繕工場の経営なんだよ。合理化によるコストダウンと人寄せのための宣伝。子ども達は病室に押し込んで、その分必要な目配りは削減、転じて人手が減らせますわな。流れでロビーは暗いし自動ドアも止めておる。心電図モニタも数が足りない。その一方で宣伝ネタには記者まで使うし、非常持ち出しにご丁寧にAED突っ込んであるのも、その辺の計算の結果を強く感じる」
 相原は言った。クルマは渋滞に捕まっている。都内西部の大通りの一つ、青梅街道に出る交差点が詰まっているのだ。
「なるほどね。まーあの院長“愛と情熱”ってタイプじゃないみたいだからね。純粋に生物学的に治癒するかどうか、それを可能とする技術が存在するか、それだけで判断してるみたいだからね。昨日漁った論文見る限り。…あー納得した。そりゃ持ち上げられるわ。成功すると判っている手術や治療しかしないって事だもん。実際彼女、まいかちゃんだっけ、宣告されてたんでしょ?」
「と、うちのオカンは聞いたって」
「宣告?」
 由利香ちゃんが尋ねた。
「医者が未来を否定すること」
 レムリアはそういう言い回しをした。
 由利香ちゃんがうつむいてしまう。
「それって本人に直接、じゃないよね。最も親が言われても、親はそれを黙っていたとしても、子どもはそれとなく判るわけだけど。
 目と命じゃ、ショックのレベルが違うんだろうな。今ね、あなたの言った精神の状態は肉体に影響を及ぼすってのすごく理解出来るの。ダメだと言われる絶望は身体を蝕んでしまう。ああ、私彼女のそばにいてあげたくなってきた。どうしたらいい?」
「大丈夫。身代わりにティアラ置いてきたから。あれは私たちからのプレゼントだから」
 レムリアは言い、シートベルトを外して由利香ちゃんに寄り添い、その肩に腕を回し、手を握った。
「ああ、あなたにこれされるの好き。暴れていたのが静かになって行くような…」
「同じ事は、既にあなたも誰かにしてあげることが出来るよ」
「えっ?」
「保証する。今度、ためしてみてみて」
「わかった。ためしてみるみる」
「動くぞなもし」
 相原は言った。
 クルマが渋滞を抜ける。
 そこから由利香ちゃん宅まではわけもなかった。路上駐車して相原が車中待機し、レムリアが1人で彼女を送る。
 店に入って着替えて出てくる。頂戴した衣装の入った紙袋を手に、玄関先で母親と少し喋る。また来るねという話にしたので、別れの挨拶は深刻にならない。
 手を振り、頭を下げあって次を約束する。相原もクルマから顔だけ出して頭を下げる。
 レムリアは笑顔で別れてきた。
 相原がエンジンを始動する。あとは帰るだけである。明日は月曜であるから、相原は出勤、レムリアも自宅に戻り、時差ボケ直してフリースクールだ。このため、予定では深夜0時に彼女を迎えに船が来る。それまでに夕食を済ませ、太陽電池充電器やらガシャガシャした物を持たせて…。
 しかし、ナビゲーターシートに身を滑り込ませたレムリアの表情は、こわばっていた。
「走ってよ」
「ん?」
「なるべく早く。なるべく遠く」
「ん」
 相原はただそう答え、ETCのカードをリーダにセットすると、高速道路へと進路を取った。
「激しい音楽ない?いつもあなたが聞いてるヤツ」
 CDを回す。イタリア製ダンスサウンド。ビートの根幹を支配する重低音に、高音を多用したシンセサイザーのメロディライン。欧州人種の体格を存分に生かした、腰の据わったヴォーカルが重畳され、超高速で突き進んで行く。
「いつも聞いてる音量で」
 相原がひねったボリュームは会話が成り立たない。
 が、レムリアの心理状態にはそのくらいでちょうど良いようである。音楽が思考を邪魔し、強引に入り込んで来て欲しいということだ。背もたれに身を預け、やや苛立ちを含んだ表情で窓の外を見たまま、一言も発しない。
 夕日を背にし、まっすぐ伸びる中央フリーウェイを転がって行く。この時相原はわざと一段低いギアを用い、エンジンの回転数を上げてクルマを猛々しく疾駆させるという小細工をした。アクセルの限りのスピード…無論、違反で捕まっては元も子もないのでそういうイメージを提供しただけ。速度そのものは制限ギリギリ。
 渋滞は相応しくない。都心方面を避け、首都を迂回する環状路に入り、北からぐるりと巡り、東の方へと向かう。
 まだ夜の訪れは早い季節である。やがて遠い山並みが夕闇にかき消され、対照に東京のビル群が灯火に彩られる。双方を分かつ高速道路は、オレンジのナトリウムランプが行く手に点々と続き、光の道と化す。
 レムリアは変わらず、移りゆく車窓にじっと目を向けたまま。何も言わない。その頬をオレンジの照明がストロボのように交互に照らす。
 北西へ向かう道、北へ向かう道、北東へ向かう道…。標識に数百キロ先の地名の書かれた、幾つかのジャンクション。
 分岐合流を次々通り、やがて車窓の風景だった東京の照明ただ中へと、相原はクルマを向ける。
 湾岸地帯。光と闇との境目が、弧を描きながら南西へと流れている。
 溢れる人工の光の中、背後からプラチナ色の円盤が光を投げかける。
 今日の月、満月が姿を見せたのである。
 三叉路をなす鉄道立体交差をくぐる。程なく左手は日本一著名な遊園地。それを行き過ぎ、海沿いの道をひたすらに行く。針路が西方より南西、南南西と向かうにつれ、月の姿は背後より左方に移り、ナトリウムランプに変わって窓辺の少女の頬を照らす。
 肥大化した空港を見送り、都県境のトンネルをくぐり。
 そこで相原は湾岸線から離れてジャンクションへ入る。絡んだ紐のような立体交差をぐるぐる走り、一瞬、月を正面に捉えたかと思うと、トンネルに入る。
 高い天井、長いトンネル。
 同じ道を行くクルマは少ない。
「長いトンネル」
 レムリアが久々に声を出した。
 身を起こし、前を向く。少し気持ちに変化があったか。
 トンネルを抜ける。
 坂を駆け上がると、ビルに埋もれたオレンジの道…ではない。都心とは異なる空間。
 そこは、海と夜空と月明かりの中、場違いに人工物を入れ込んだ、そんな場所。
 東京湾横断道路…通称アクアラインの海底トンネル出口に作られた、海の上のパーキング“海ほたる”。
「へぇ」
 レムリアの瞳が、ライトアップ用高演色ランプの青白い光芒を捉える。レストランやアミューズメントの入った施設ビルは、船の形を模したか。
 施設ビル内の駐車場にクルマを止めると、レムリアは促すまでもなくクルマを降りた。
「屋上へ出られるけど」
「うん」
 展望デッキへ出る。浅い春の夜。満月の光は柔らかいが、海を行く風は決して柔らかくも暖かくもない。
「預かって」
 相原はそう言って、スーツのジャケットをレムリアの肩にひっかけ、フードコートへ向かう。
 ジャンクフードを手にして戻る。レムリアは左手より月明かりを浴びて展望デッキの手すりにあり、東京湾の入り口の方を見ている。
「食べる?」
 相原はレムリアの隣に少し距離を取って寄りかかり、アメリカンドッグにカラシを塗って差し出した。
「ありがと」
 レムリアが手を出す。潮風が二人の間を行き、彼女の髪がなびいて頬を撫でる。
 彼女はその髪を右手で押さえ、ドッグを頬張る。
「寒くないの?」
 ワイシャツネクタイの相原を気にかける。
「全っ然。ヤセの大食いってのは基礎代謝が活発でね」
 相原はホットドッグを一口。
「なるほどね。これ暖かいのはそのせいだね」
 レムリアは相原のスーツの袖に腕を通し、引き続きドッグを頬張る。小柄な娘にスーツのジャケット。ぶかぶか袖と満月と、ショートカットとアメリカンドッグ。
「カラシひぃ」
 舌をぺろっ。
 相原はその姿をメガネの奥に収め、小さく笑ってジンジャーエールのペットボトルをプシャッと開けた。
「パンを食べたら次は水が欲しくなるだろう。そこで彼が水だと仮定した語は適切にも正解だった」
 言いながらレムリアに持たせる。
「それは何か解読したと言いたいの?ヒッタイト人のウリヤの忠誠を言いたいの?」
 レムリアは言いながら、その炭酸飲料を勢いよくぐいぐい煽った。
「っあー!」
 少しおどけたように目を閉じて声を出し、痛みに近い喉への刺激を逃がす。
 相原は少し驚いた表情を見せ、そして小さく笑って。
「よろしかったら全部どうぞ。しかしなぜ解読ネタだと判るかねこの娘は」
「シャンポリオンのせいだね。あの人は11歳でヒエログリフ解読を志し、17になるまでに13の言語をマスターした」
「ほう、誰かさんと似てますな」
 レムリアが13歳にして12カ国語を操ると冒頭書いたが、半信半疑の方も多かったと思う。
 しかしそういう人間はこのように他にも存在する。ちなみに、レムリアが血筋の力を“誰かのために”と決意したのは9歳の時である。
 なお、相原が口にしたのは、ヒッタイト語の解読の糸口となったエピソードによる。この場面に合致するという状況なので持ち出したと見られるが、レムリアの知識水準、嗜好分野を考慮し、知的好奇心をくすぐる意図もあったようである。ただ、彼女が即応してくるとは思わなかったようだ。
 シャンポリオンについては解説する必要はあるまい。
「だから私はあきらめるのは嫌い」
 レムリアは言い、海の彼方を見た。
「カッコいいじゃないか」
「嫌い、なんだけど…」
 レムリアがそこで相原に見せた顔は、今にも涙が溢れ出しそう。
「ウリヤの忠誠の方はどういう意味だい?」
 相原ははぐらかすように目線を外して言った。
 するとレムリアは、え?とばかりに表情を変えてから。
「ダビデ王に忠誠を尽くしたヒッタイトの戦士。だけどダビデは彼の妻に懸想した挙げ句、子供までもうけた。こうなると彼の存在そのものが邪魔。そこで、どうせ元々ヒッタイトなんだしぃ、みたいな差別意識から、彼を無茶な命令で戦場に赴かせ、死に追いやった。当時ヒッタイトとイスラエルは敵対していたんだけど、彼はイスラエル人の妻を持ったことからイスラエルに、その王ダビデに忠誠を誓った。なのに、ってわけ」
「悲劇だなぁ」
「だけど、神様はちゃんと見てますよっていうのが最後に付いてね、ダビデも懸想の子を奪われる。旧約聖書の逸話。裏切られても忠誠を尽くせ、みたいな話のネタに使われる」
「神様はちゃんと見てます。か」
「私の場合、神様には見てるだけじゃなくて、イエスと同じ力私にひととき、とお願いしたいところ。だって、だって時間がないから」
 レムリアは真顔で言った。
 相原を見る。
「泣き言いうよ。あなただから言うよ。天使になりたい」
 彼女は呟いた。その口調は、子どもの無茶なおねだりに、印象としては近い。
 人の心は、深く傷つくと、幼い頃と同じ優しさを受けよう、という意識が働くと聞く。
 幼子がわざと悪態を付いたり無茶を言うのは、親にかまってもらうため。
「天使?」
「まいかちゃんに誰にも知られず近づける」
 レムリアは言った。
 その瞳が揺れ動いている。
 今回、そもそもの主旨、真の目的は彼女であるのに、オトナの都合で彼女には充分楽しんでもらえなかった上、今現在、彼女に対して何のアクションも取れない。そうかと言って頭から追い出すことも不可能。
 距離を取っても、速度を出しても、逆に心には、それだけが浮き彫りのように残る。
 相原はもうすっかり冷えた自分のドッグの残りをかじった。
「いやだね」
 少年の口調で一言。
 レムリアは目を剥いた。
「君が見えなくなっちまう。天使ってのは見えないから天使なんじゃないかい?」
「じゃぁやっぱりイエスの力だ」
「で、バケモノ扱いされて、磔にされる。君の志はジ・エンドだ。普通命を賭けてと言うとカッコイイ印象があるが、人命救助は逆に当人がたやすく死んじゃいけないと思うのはオレだけか?」
 果たしてレムリアは不機嫌になった。…八つ当たりに近いが。
「意地悪だね。判っててやってるもんね。私が小悪魔ならあなたは大悪魔だ」
「君がなすべき事が何か、オレが決めろと言ってるように聞こえるが?」
「そう言ってます。だってどうしていいか判んないんだもん!だって、だってまいかちゃんは、まいかちゃんは…」
「だ〜め」
 相原は“泣きが入る” 前に、断ち切るように、言った。
「その手には乗りません。こと君の能力発揮に関しては、なるべく自分で考え出すようにすることをおすすめします。俺の発想じゃ限られるし、毎度地球の裏側まで状況見に行くわけには行かないし」
 果たしてレムリアは円い目になった。
「学ってもう少し優しいと思ったんだけどな」
「冷たくしたつもりはありませんよ。ただ、ずっと君を見てきて俺の感じる限り、君の力は君の向上心とセットになってると俺は思ってるんだ。実際君は半年前より精神的に成長してるし、力の行使もスマートになってる。んなもん、門外漢手を出すにあらずっていう以外、解釈のしようがない」
「ずるい言い方」
「仮に今ここで、君がこの月の光を利用して、俺をスーパーエンジニアにしたとする。俺は完璧な製品を作れる能力を得たとする。でもそれ、ブレイクスルーのための新しい発見や、苦労して生み出したって満足感一切無し」
「オトナって嫌い」
 レムリアは口をとがらせ、赤い目で相原を見た。
 相原は自分のドッグの残りをかじって、
「仰せごもっとも。でもね。自力でプロセスを踏む事によって初めて身に付くってことも多いのよ。その人ならではの得意な分野、能力であれば尚のことね」
 レムリアは不平をあからさまに、唇をタコよろしく尖らせた。
「そういう言い方って、答え知ってる人間ならではの余裕の口調だよね。ねぇ、判ってるなら教えてよ。どうすべきか、見当付いてるんでしょ?ずるいよ。私こんなに悩んでるじゃん…」
「魔法使いに相応しい見当なんか思いつくかい。まだ時間はあるだろ?。ギリギリまで考えてごらんな。紡ぎ出す回路っては脳を働かせないと作られないんだよ。よく知ってるでしょうが。はい帰りましょう。実言うと寒い」
 相原は言うと、くしゃみを一発飛ばした。
 
 日付が変わる頃、船は再び丘の上に降り立った。
 レムリアはボストンバッグを手に昇降スロープに足をかけ、うつむいたまま振り返った。
 そのまま倒れ込むように相原にもたれかかり、額をはんてんの胸元にぶつける。体のいい頭突きである。
「あうち」
「思いつかない」
 もたれかかったまま一言いう。どうしてくれるんだこの変態商品と付け加えても、過剰演出ではあるまい。
 相原は右手を動かし、一瞬躊躇し、レムリアの頬に触れた。
 レムリアがハッとした表情で相原を見上げる。その表情は、瞳の輝きは、幼い女の子の、今にも泣き出しそうな幼い女の子の純粋と透明そのもの。
 相原は手を頬からそっと放し、しゃがみ込んで、レムリアを見上げた。
「君に出来ることは、呪文を口にするだけかい?」
 相原は、レムリアの指先を持った。
 レムリアは相原に目線を降ろし、しかし何も言わない。
 考える気も問いに答える気もない。そういう気力が生じないのであろう。
 精神的に疲弊している。
 ショックを受けた精神は、視点を切り替えるということが往々にして難しい。
「ちがうよな。そうじゃないはずだ。まず喜んでもらう。今回最初に決めたのはこれのはず。迷うなら原点に戻ろうよ。君にしかできない、君だからこそ出来ることは、呪文唱えることだけかい?そのためには忍び込むしか方法がないのかい?」
 レムリアは否定も肯定もせず、ただ唇を噛む。
 と、その背後、昇降スロープの上に人影。
 件の美女である。その名…この船では互いをコールサインで呼び合うのでそれを書いておく。セレネという。
 seleneレムリアは振り返る。
「副長…」
「PSCが耳栓型に改良されたので持ってきましたよ、レムリア」
 副長セレネは言い、確かに耳栓様の小さな機器を手のひらに載せてレムリアに示した。
 PSC:Psychology-direct-reflection Synchronization Control-unit。心理同期制御とでも訳すか。それは端的に言えば思った通りに、思っただけで、この船を動かすシステム。従前…相原が乗り組んだ時はヘッドホン型で、何本ものケーブルで船の制御コンピュータと接続して用いるタイプであった。
「そして今夜は満月です」
 副長セレネが微笑を浮かべる。その微笑はエキゾティシズムに溢れ、古代の女王を思わせる。
 相原は頷くと、立ち上がり、はんてんのポケットから銀色の輝きを取り出した。
「そういうこと。命に制限やこだわりは必要はあるまいて。使える物は皆使う。ああそうだ忘れる前に」
 レムリアは相原に向き直り、小首を傾げた。
「ウチのカギだ。オレがいなくても君は来てくれて構わない。ウチは君に対してフルオープンだ。我が家は我が家の全てで君の全てを受け入れる。何も隠せず、制限を設けず、全開でね」
 相原はカギをレムリアに握らせ、手を離した。
「無制限全開だ。フルムーンだしな」
 レムリアの目がそれこそ“全開”になった。
 洞察を得たのである。相原を見、月に目を走らせ、セレネの手からPSCユニットを受け取る。
 カギをウェストポーチに収め、PSCを耳に押し込む。
 勢いのままにという感じで相原に抱きつく。否、しがみつく。
「ありがとう…」
 相原はよろめき、頬を赤くし、それを見てセレネがクスッと笑う。
 相原はセレネにVサインをして見せた。
「さぁもう行きな。…夜通し待機してるから、何かあったら電話してらっしゃい。出来る限りの回答を用意する」
 相原はショートカットの耳元に囁いた。
「うん」
 レムリアは頷き、笑顔となり、来る時と同じように、元気よく手を振ってスロープを上った。
「またね!」
 相原は腕組みのまま頷く。
 次章、彼は登場しない。彼女の心理に、少し詳しく触れてみようか。
 
10
 
 月明かりの病室。
 照明は用いていない。消灯時間をはるかに過ぎているからである。満月の灯りだけ…であるがしかし、室内は充分に明るい。
 ベッドにはバンダナを頭部に巻いた女の子の姿があり、うつぶせ気味に横たわっている。そして、母なる人の手のひらが、背中から腰の辺りを、ゆっくりと、眠くなるほどの緩やかさでゆっくりと、優しく、さすっている。
 女の子は目を開けている。その瞳には、月光に含まれない種々の色の光がきらめく。
 種々の光をもたらすもの。女の子の目の前、シーツの上に置かれたティアラ。
 まいかちゃんの病室である。
「きれい…」
 まいかちゃんが口にしたその言葉は、消灯を過ぎて何度目かになる。散りばめられたジュエルは国力を反映してか決して大きくはなく、また数も少ない。しかし、月光はブリリアントカットを経て幾つかの光に分解され、陽光と異なるスペクトルで、小さな虹の王国をシーツの上に作っている。
「これ、王女様が魔法で出してくれたんだよ。まいかのためにって魔法で出してくれたんだよ」
「そうね」
 答える母親の目から、雫が筋を描いて伝う。
 “魔法”というフレーズに娘が全てを託し、僅かな光明を見いだそうとしているのが如実に判る。その姿を見ることは、親として、不憫でならないであろう。
「まいか助かるよね」
 まいかちゃんは突然の動作で、母親を振り向き、尋ねた。
「え、ええ」
 母親は慌てて涙を拭く。
「だって一度助かったもんね。お姫様が来て魔法で治してくれたもんね」
 まいかちゃんが自分に言い聞かせるように言う。
 その顔が歪み、僅かに震え、歯を食いしばる。
 痛いのである。痛みが強く襲ってきたのである。
 その痛みは身体を蝕み、死に追いやろうとするものを象徴している。その自己主張は、魔法の国を信じる心に、震撼に値する恐怖を招き寄せる。今の彼女に、9歳という年齢相応の子どもの心に、それと正面から向き合う強さを求めるのは酷であろう。健気な心ができることといえば、それを誤魔化し自らを鼓舞するために、意識をティアラと、それをかぶせてくれた年上の娘へと向けること。文字通り一心に意識を向け、痛みをやり過ごそうとすること。
「まいか…」
 まいかちゃんは母の呼びかけに答えず、両の手で腹部を押さえ、身体をぎゅっと、胎児のように、小さく丸める。
 目で見て変化が判るほどに、彼女の身体が小さく縮こまる。
 激痛である。激痛に対する生物としての反射で、体中の筋肉が縮み、固くこわばり、身体全体を縮こまらせたのだ。
「痛い。やっぱり痛いよ。すごく、すごく痛いよ。まいか…死にたくない。死にたくないのに」
 母は身を寄せ娘を抱きしめる。言葉がない。痛みという現実を、言葉だけで消すことは出来ない。抱きしめ、さするより他に、出来ることは何もない。
 まいかちゃんは歯を食いしばり、まぶただけ辛うじて開き、その眼(まなこ)にティアラの輝きを収めようとする。それは目を閉じることを頑なに拒否し、溢れ来る光にだけ目を向けようとしているかのようである。確かに、目を閉じること、目を閉じた姿が意味するもの。そして訪れる闇の向こうに繋がる絶望。…想起すらしたくないであろうそれらは、目を閉じれば、現実の恐怖として、襲ってくる。
 その時だった。
 ティアラの輝きの源である、月の光を、何かが遮った。
 影である。
 影が窓よりすっと伸びて来、ティアラを月から隠してしまう。但し、雲ではない。
 伸びてきた影は人の形をしている。風に揺らぐショートカット、女の子のシルエットだと判る。
 まいかちゃんはゆっくりと、震えながら母親に目を向け、笑顔を作った。
「おかあさん、あのね、魔法の国のお姫様、来てくれたよ」
「え…」
 母親は、瞠目を我が子に向けた。
 死に直面して精神状態に、と思ったのであろう。
 しかしその時。
 気流が、病床の母子を捉えた。
 窓の向こう、開いていればそれと判る、遠い都市部のざわめきが、今確かに耳に聞こえる。
 母は顔を、窓に向けた。
「まいか…」
 母は、その光景を、揺らめく瞳で捉え、娘の名を呼んだ。
 まいかちゃんは、ゆっくりと影を追い、目線を動かす。
 窓の外。
 女の子がそこにいる。月を背後にし、放つプラチナ色の光に照らされて、女の子の姿はシルエットとして母子の視界にある。ショートカットの娘であり、その髪が緩くなびく。
 髪に続いて女の子の身もゆらりと動く。女の子は不動の何かにいるわけではない。何かに乗り、窓の外に浮いている。
 それは船。
 深夜の病院。窓の外。
 月明かりの中、明らかに空中と思われる場所に、船が浮いている。
 空飛ぶ船に女の子。
 童話世界さながらの超絶の光景が母子の眼前で展開している。その映像の鮮烈さと衝撃は、意識に根付いているであろう常識による否定の開始を許可しない。夢かと問うことすら認めない。ただ、その光景を目にしているという認識のみが存在し、母子の心を捉えて離さない。
「こんばんは」
 シルエットの少女が声を出した。
 その声に、まいかちゃんの瞳には、自ら光を放っているような輝きが宿った。
 花が咲くように形作られる笑顔。
「お母様におかれては初めまして。わたくしは、メディア・ボレアリス・アルフェラッツ」
 少女は、名乗り、胸に手を当て、頭を下げた。
「メディア…だってそんな魔法なんておとぎ話…」
 母親は言ったきり、手を口に当て、言葉を失う。
 震えわななく肩、ぼろぼろとこぼれ落ちる涙。
 王女メディア…レムリアは、窓より病室に降り立ち、母の手を取る。
「お待たせをしてしまいました。まず先に、お招き下さったお母様に、ご挨拶を差し上げるべきでした」
 片膝を突き、母を見上げ、お詫びの言葉を口にする。
 母親は首を横に振る。
「いえ、いいんです。いいのです。あなたは、今こうしてここへ、まいかの元へ来てくださった。王女様であるあなたが、世界の幾千幾万の子ども達のおねえさんであるあなたが…」
 言葉にならない。母親は大きな声を上げて泣いてしまう。
 レムリアはそのはるか年上の女性を抱きしめ、抱きしめつつ、まいかちゃんに手を伸ばす。
 まいかちゃんは満面の笑みで自らに伸ばされた手を握る。
「やっぱり魔法使いだったんだ」
「ごめんね。お昼は、あなたに充分に楽しんでもらえなかった」
 まいかちゃんは首を横に振った。
「ううん、ううん、まいか、魔法で助けてもらったよ」
「マジックをまだ見てもらってないもん。…お母様、今宵、彼女をひとときおとぎ話の世界へ招いてもよろしいでしょうか」
 尋ねた母親は、涙で何も声に出すことができない状況であったが、それでも、問われたのだからと思ったか、ハンカチで涙を拭い、しゃくりあげつつも、レムリアに目を向けた。
「ええ。ええもちろん。あなた様のお心のままに。まいかを、まいかをお誘い下さるというのでしたら」
 レムリアは、ゆっくりと頷き、母の肩に回していた腕を解いた。
 両の手でまいかちゃんの手を取る。
「立って、歩けるかな?」
「うん…。わぁ、この船に乗るの?ピーター・パンみたいに?ウェンディみたいに?」
「ネバー・ランドには行かないし、私に、翅はないけどね」
「じゃぁ、影じゃなくて翅を縫えばいい?」
 まいかちゃんの瞳が輝いている。今彼女は確かに、物語の魔法の国に、遊びに来たヒロイン。
「さぁ、船が出ますよ。急いでください」
 レムリアは、まいかちゃんを、船の甲板へ引き上げた。
 船の甲板。
 そこには月明かりが落ち、その白銀の光で満ち、それと同時に、金色の光の粒子と感じる物が、煌めきながらふわふわと舞っている。
 それが何であるか説明することは可能である。しかし技術用語が現れ雰囲気を阻害するため、なさずにおく。また、読者にあっては、レムリアが例のコントローラを耳に装着していることを含み置き願いたい。
 レムリアは、まいかちゃんをそのまま甲板の前頭部、船の竜骨が舳先となって天を指向する位置まで誘った。
「本当におとぎ話みたい」
「おとぎ話は、普通の女の子が魔法の力でお姫様に変身」
 レムリアは、自らの右手人差し指と中指を揃えて伸ばし、
 まず口づけて想いを託し、
 その指をまっすぐ天へ向け、月の光を与え、
 そのまま腕を伸ばして円を描くように動かし、
 一周したところで、指先をまいかちゃんへと向ける。
 その指先の動きを追うように、光が尾を引いて走る。
「今宵この時この愛すべき我が友にひとときの夢の時間を」
 指を動かしながら、レムリアはそう口にした。
 豪奢なドレスをまとったプリンセスが現れる。
「わぁ」
 まいかちゃんは気づき、目を輝かせて自分を見た。
 だが足は素足。
「ガラスの靴も」
 レムリアは指をパチンと鳴らして靴を取り出し、彼女に履かせ、ティアラをベールの上に戴せた。
「素敵ですよ。お姫様」
「嘘みたい…」
 まいかちゃんが自らを見回す。
 レムリアは額に汗して小さく笑う。彼女の魔法は月の精霊に力を借りるもの。
 その力は月光に載って届き、指先の想いを形にして解き放つ。
 アルフェラッツ・ムーンライト・マジック・ドライブ。
 但し彼女は半人前である。力の強弱は月の満ち欠けに左右され、満月の光の中ではこうして変身すら可能とするが、新月の日中には手品がせいぜい。だから、相原は彼女を呼ぶに当たって月齢を調べたのであり、彼女が手品で子ども達を楽しませるのは、それしかできない時でも出来る、という逆転の発想の産物なのだ。
 ちなみに半人前と書いたが、それでも少し前、相原が乗り組んだ時には、変身ですら全身が脱力するほどの精神集中と、手順に沿った儀式と呪文を要した。相原が言った通り、比して成長していると言えようか。
「さぁお姫様、今宵はようこそ私どもの船へ。これよりひととき、姫を夜の空の旅へとご案内申し上げます。まずは姫の国を遥か高みよりどうぞお目にお収め下さい」
 レムリアは言い、頭の上に腕を持ち上げ、くるりと円を描き、その動きに応じて現れた金色に輝くリングを、船の舳先へと投げた。
 リングが舳先に投げ輪のようにひっかかり、くるくる回り、周りながら光の粉を放ち、バラバラに散ったようになり、舳先の部分全体がキラリと光る。
 船が動き出す。
「あ…」
 まいかちゃんが慌てて舳先部分の木(実際にはカーボンナノチューブ)の柵に掴まる。
 船はゆっくりと浮上を始める。上がって行く船を母親が病室から見つめ、二人は母親に手を振る。
 浮上からゆっくりと前進のベクトルを混ぜて行く。前へ行きつつ、上へ昇りつつ。
 金色の光の粒子が吹き上がるように甲板周囲に現れ、海行く船から上がる波しぶきのように、船の周囲を覆う。
 視界が広がって行く。
 病院が小さくなり、周囲に広がる森と共に月に照らされる様子が見え、森の向こうの市街地が目に入る。道に沿う街灯が縦横の模様を描き、やがてそれが網の目となり、一つに繋がり、光の絨毯と化す。
 光の絨毯が遠くに広がる。高層ビルを擁する都会の灯火が銀河中心のように華やかに光を放ち、やがて、神奈川から千葉にかけての海岸線が、光に彩られて浮かび上がる。
 甲板上は風が緩やか。夜間の屋外であり、季節と高度を考慮すれば凍えるほどでもおかしくない。しかしその穏やかな風はむしろ暖かい。無論、船の能力による小細工の結果である。
「上も下も星だね」
 まいかちゃんが言った。
 彼女の言う通り、この高度からは、地の灯火は星に覆われた如く。他方天空の星々は、都市から巻き上がる煤煙に阻害されることなく、夥しい数の煌めきとなる。そして、その夥しい煌めきの中にあって、月明かりは戸惑うほどに鮮烈だ。
「少し飛びましょうか」
「うん!」
 レムリアの提案にまいかちゃんは一も二もなく頷く。レムリアは指を舳先に向け、船に加速を命じる。
 西へ向かう。光による日本列島の輪郭線は途切れることなく、地図さながらの形を夜闇に描いている。深夜帯に地より溢れる光は、豊かさと幸せの象徴だ。すなわち、潤沢にエネルギーを消費することが可能であると共に、襲い来る敵から身を隠すため、闇に紛れる必要がない。
「綺麗…」
 遥か下方を飛行機が行く。欧州へ向かう夜間便である。亜音速の夜間飛行を軽々と抜き去って行くことで、この船の速度が知れる。
 12分で地球を一回りすると言ったら、驚異を感じるであろうか?
「プリンセスまいか」
 レムリアは、マストより舳先へと配されたロープを手にして、主賓に問うた。
「何でしょうプリンセスメディア」
「これよりこの船を、姫がぜひにと思う地へ差し向けたいと思います。どちらか、かねてより行きたい、見たいと思っていた場所はございますか?」
 すると、まいかちゃんはすぐには答えず、レムリアの顔をじっと見つめた。
 まるで迷子にでもなったかのような、不安そうな表情である。事態が事態ゆえ、ここに来てようやく夢との疑いでも持ったのであろうか。
 まいかちゃんは、レムリアの元に歩いてきた。
 ガラスの靴で、少し不器用に、コツコツと甲板に音を立てて。
 心配そうな顔で、実物かどうか確かめるように、まいかちゃんが自分を見、レムリアに手を伸ばす。
 その手をレムリアはそっと握る。言うまでもなく、まいかちゃんに今“確固たるもの”はない。たった今も、この先も。それが彼女の心理を非常に不安定なものにしている。
「大丈夫。私はどこへも行かない。私を呼んでくれたのはあなただから…」
 レムリアは力強く言った。
 まいかちゃんに笑顔が戻る。笑顔を作りながら、その目から涙が流れる。
 そしてレムリアにしがみつく。しがみついて、大きな声で泣き出す。
「ずっと我慢してたんだね。そうだよね。一生懸命頑張ってきたもんね」
 レムリアはまいかちゃんを抱きしめる。彼女の意識を流れる数々のフラッシュバックがテレパシー能力に補足され、まるで自分の体験のように感じられる。
 レムリアは涙を抑える。必死になって涙をこらえる。
 疲れ切ってしまった彼女の心を思う。頑張って、我慢して、闘って…病気の子どもに掛けられる言葉として、圧倒的に多いのはこれらではあるまいか。
 親として、大人の立場として、必死に励まし応援する気持ちはよく判る。
 でも、子どもの側からすれば、我慢・頑張るより以前にまず、病気に対する恐怖が、暗闇の斜塔のように立ちはだかっているのではないか。
 今にも倒れ掛かりそうに立っているのではないか。
 気を抜けば、目をそらせば、その斜塔は倒れてくる。
 のみならず、足下の左右も、背後も、底知れぬ深い闇。
 逃げ場はない。
 その状態で、その状態のまま、じっとそこに踏みとどまることを要求される。
 常に全力を発揮して対峙していないと、全てが終わる。
 生まれてより十指に満たない年数しか生きていない子ども達にとって、青春も恋も知らぬ、“大人”など遥か未来に過ぎない子ども達にとって、それがどれだけ、どれだけの絶望と恐怖をもたらすか。
 心理精神が、身体の状態に影響を与えるなら、そんな恐怖にさいなまれる精神状態が、病気に対して良い作用をもたらすわけが無い。
 一国の王女を呼びつけてくれという、端的には無茶至極の要求も、必死さの表れとするなら、むしろ当然。
 彼女としては、それなら可能性がある、と言われたのだから。
「今日は、私のことを呼んでくれて、ありがとう」
 まいかちゃんが少し落ち着いたところで、レムリアは囁いた。
「聞こえたよ。私に魔法を掛けて欲しいって。だから、私飛んで来た。この船で飛んで来た。私のこと必要と思ってくれて、とっても嬉しいよ」
「まいかも嬉しい…」
 まいかちゃんは小さく言った。
「夢じゃないよね、これは、夢じゃないよね」
 尋ねるまいかちゃんにレムリアは頷く。何度も頷く。
「どこにも行かないよね」
「どこにも行かない。ずっといるよ」
「もう終わりじゃないよね」
「あなたが望むなら、ずっと飛ぶよ」
 全て肯定する。
「良かった…」
 まいかちゃんが、一応の、と書けるか、安堵を含んだ笑みを浮かべる。
 その表情には憔悴が見られる。精神を鼓舞し続けた事による疲労、間断なく襲ってくる恐怖がもたらす心理的ダメージの蓄積、明らかな寝不足。
「ずっと、ずっと、あなたと飛んでいたい!」
 思いのたけをぶつけるようなその言葉に、レムリアはまいかちゃんを抱きしめ、そして抱き上げた。
 軽い身体。病気との闘いで文字通りすり減った、何という軽い身体。
 神様、恨みますよ。
「大丈夫、あなたが望むなら、ずっとこのまま」
 レムリアは耳元で囁き、まいかちゃんを抱きかかえたまま、船の針路を南方に取った。加速させ、その速度をPSCの許容上限に持って行く。列島の海岸線が遥か後方へと去り、プラネタリウムの早送りのように、星空が目に見えて動く。
 非常な高速。
「どこへ」
「月の架け橋を眺めに」
「え?」
「あの赤い星が、見上げる位置に来たら到着。あの星は、月が橋を架ける位置を教えてくれる」
「星が教えてくれるの?」
「そう」
 とはいえそれは魔法ではない。あの星、とレムリアが指差したのはさそり座の主星、赤く明るいアンタレスである。それが頭上に来るということは、赤道近くまで移動したことを意味する。
 次第に空気が暖かくなるのを感じる。
 さそりが天頂を這う頃、レムリアは船の速度と高度を落とす。
 昼間であれば、珊瑚礁特有のブルーグリーンの海原に、緑に覆われた山が双つ、並んでいるように見えたであろう。
 しかし今の時間、その二つの山の間に、月を背にして目を向けると。
「うわ…」
 まいかちゃんが、あんぐりと口を開けた。
 それは確かに“架け橋”である。淡い白色を呈するアーチがぼんやりと空中にあり、二つの島をちょうど繋ぐような形になっている。
 ただ、その淡いアーチは、よく見ると、いや時々、色が付いて見える事がある。
 その色の付き方は。
「これ…ひょっとして、虹?」
 まいかちゃんが言った。
「そう。月明かりの虹、月虹(げっこう)、英語でムーンボウ(moonbow)」
「ムーンボウ…」
 まいかちゃんは響きを楽しむかのように、その名を口にした。
「なんて淡くて、はかなくて…きれい…」
 まいかちゃんは呟き、引き寄せられるように自らレムリアの腕より降り、舳先へ歩いた。
 そのまま見入る。レムリアはそんな彼女を見つめながら、次に行く場所を考える。船速が船速ゆえ、対象は全地球と置いて良い。ちなみに、この船を用いる方のレムリアの活動は、彼女の魔法が最大能力となる時期を狙い、満月に行う。だから逆に、月によるこの種の現象がどこで見られるか、レムリアはそれなりに把握している。
 但し。
「すごい素敵…あ、あ、消えちゃう」
 まいかちゃんは船から身を乗り出した。レムリアは背後の月に目を向け、その姿が雲に隠され始めたと知った。
 月の光は太陽に比べ非常に弱いため、月によるこの種の光学現象は、非常に不安定だ。
 そして、今のまいかちゃんに“消える”という現象はあまりいい影響を与えるとは思わない。加えてレムリアの変身能力は月明かりの中だけ有効。月が隠されたら、この姫君の変身も消えてしまう。
 それは夢から覚めるようなもの。できれば避けたい。
「また後で来ましょう。姫を待ってくれている場所は他にもあります。次は光のカーテンです」
 レムリアは言い、船を浮上させつつ、北へ動かし始めた。
「光のカーテン?」
「そうです。今度はあの星が真上に来たらお知らせ下さい。あの星は光のカーテンが現れる位置を示します」
 あの星、と今度レムリアが指差したのは北極星である。それが真上に来るということは、ほぼ極地に達することを意味する。
 層状に広がる雲を突き抜け上へ出る。雲自体が水面であるかのように、船が高速で突っ走る。空気の温度が下がるのに応じ、船体を包む金色の粒子が増加する。ちなみに、この粒子の圧力を一種のエアカーテンとして働かせ、甲板上の温度をコントロールしている。
 天空の星々がぐいぐいという勢いでダイナミックに動く。そして、雲による海の彼方には、金色の月。
「真上ですよ」
 それを聞いてレムリアは船の速度を落とした。
 雲の下へ降り、見える地上は白い平原である。但し針葉樹が所々に森をなし、北極海氷ではなく、ツンドラ領域であると知れる。
 レムリアはアラスカに来ていると承知している。
 周囲100キロほど人家はないはずだ。見られる心配はないので、船の高度を雪原近くまで一気に下げる。
 甲板を浮遊する金色の粒子達に、命じるように指を出す。
 粒子達が輝きを潜める。金色の粒子達は甲板を淡く照らしていたので、甲板は真っ暗。
 そして。
「オーロラだ…」
 まいかちゃんが気付いた。
 風に舞うカーテンさながら、極光が種々色を変えながら天から舞い降り、視界を横切り、揺れ動く。
 音もなく。
 眼下は湖であろう、鏡のような氷面に姿を映し、静かに舞う光のカーテン。
「こんな綺麗な眺めがあるなんて。あ、あれは何?」
 まいかちゃんが気付いたのは湖の傍ら、雪原を行く数頭の動物。
「犬?」
「いやあれは…狼」
「狼!」
 驚くまいかちゃんにレムリアは頷くと、船を狼たちに近づけ、速度を合わせた。
 雪原を蹴立てて行く、5頭ほどの小さな群れ。
「お話ししてみる?」
「えっ!?」
「魔女だもの」
 レムリアは指を振るった。
 光のリングが飛び、砕けて粉となり、狼たちに降りかかる。
 リングを投じたその後も、レムリアの指からは光が尾を引き、まるで残像のように軌跡を描く。
 それは魔法がフルパワーであることを意味する。彼女は今、ありったけの能力をもって、まいかちゃんに“マジック”を披露している。
 さながら、この一晩に全てを凝縮するかのように。
『珍しい物に乗った人間がいるな』
 男の声で、そのように、まいかちゃんには聞こえたはずである。
 レムリアがテレパシーを仲介している。動物とのコミュニケーションは魔女のイロハ。従って、今の魔法は狼に対してというより、まいかちゃんに使った、と言った方が正確。
「どこへ行くの?」
 まいかちゃんは訊いた。
『食える土地までさ。一族の命を繋ぐ責任がオレにはあるからね』
 走りながら答えたのは群れの先頭、と知れる。
 群れのリーダ。専門家が呼ぶところのアルファ。
『お前はどこに行くんだい』
 その問いにまいかちゃんの表情が曇る。
『どうした。元気が無いじゃないか』
「病気なのあたし」
 まいかちゃんはどうにかそれだけ言った。
 話す相手を間違えたかとレムリアは一瞬思った。まいかちゃんの今の状態に対し、酷寒の地を生き抜くバイタリティ溢れる野性。
 すると、予想もしなかったことを狼は口にした。
『そっちに行ってもいいか?』
「えっ」
 レムリアは、まいかちゃんが肯定も否定もする前に、船の高度を下げた。
 それは直感である。この狼に出会ったことは何か意味がある。
 船体を傾け、左舷を地表へ向けた。
 狼が白い大地を蹴る。
 跳躍し、甲板へとドンと降り立つ。その全身は深々とした灰色の毛で覆われ、付着した雪氷が甲板に散る。
 まいかちゃんが思わず後ずさる。
 現生の狼は、一般に大型犬よりも更に一回り大きい。体重も彼女たちと同等以上は優にある。後足で立ち上がれば、恐らく見上げるほどはあろう。
 そのサイズと纏った野性のオーラは、最も野性が退化した人間と、正に対極に位置する存在といえる。
 それは狩る者と狩られる者との対比そのものであり、たとえ人間であれ、否、人間ですら、気圧される、迫力に圧倒されるような感じを受けても不思議ではない。
 狼は、まいかちゃんに生じたであろうそんな気持ちを、それこそ狩る者の野性で敏感に感じ取ったようだ。
『怖いか。悪かったな。でもお前に力を感じなくて、つい、な。名前は』
「まいか」
『そうか。まいかか。じゃぁいいかまいか。あれに向かって吠えろ』
 あれとは満月である。いかにも狼の発言。しかし。
「吠える…」
『そうだ。目一杯の、お前が出せる目一杯の声出して吠えろ。ありったけでっかい声でな。スッキリするぞ』
 レムリアはハッとした。
 しかし、の中身はこれである。狼だから月という直結思考ではない。大声によるストレス発散だ。自分自身調べている段階なので詳細は判ってない。ただ、ストレスは往々にして…ストレスがもたらす危機感からの防衛であろうか…身体を縮こまらせ筋肉を固くさせ、身体全体を肩凝り同様にしてしまう。従って、それは血行に影響を与えるであろうと容易に想像がつく。対し大声を出す行為は、結構な全身運動であり、そうした縮み固まりを解き放つことは確かであろう。
『先にオレがやるぞ』
 狼は言い、率先して遠吠えを披露した。
 頭を天に向け、朗々と、尾を引くように。
 思わず耳をふさぎたくなる。生き物が発したと思えない大きな音声(おんじょう)。
 と、遠く近く、他の狼や、コヨーテも混じっていようか、声が返ってくる。確かに“無人”の荒野であるかもしれないが、“生き物”自体は数多く息づいている。
 レムリアも声を出してみた。あの院長を思い浮かべてばか〜っとやってみる。
 この荒野である。誰にも何にも遠慮はいらない。
 誰かがうおーんと返してくれた。別段テレパシーで呼んだわけではない。
 異種動物間で受け入れてもらえているようで楽しい。レムリアは思わずまいかちゃんに笑顔を作る。
『さぁ、お前の中の嫌なもの、デカい声にして捨てちまえ!』
 狼に促され、まいかちゃんは声を発した。
 それは彼女の、心のありったけを託した絶叫そのものであった。
 うわー、と、バカー、と、恐らく、いやー。
 以後しばらく、3人(!)で交互に一緒に白銀の荒野に声を上げる。
 まいかちゃんは笑った。
「おもしろい。狼になったみたいな気持ち」
『少しすっきりしたか?』
「うん」
『じゃぁ次は思い切り走る。オレたちならな。これからオレんとこへ来るか?』
「いいかも」
『歓迎するぜ。でも今のまいかは走れないな』
 狼のその言葉にまいかちゃんはしょげた。
「…うん」
 うつむき、一瞬にして楽しそうな笑みを引っ込めてしまう。
『あー、だめだだめだそんなになっちゃ』
 狼は言い、怒るようにウーと唸った。
『ひとつ訊くが、まいかの病気、まいかが悩んで治るモノか?」
「ううん…」
『だったら悩むな』
 狼は力込めて言った。
 まいかちゃんがカルチャーショックという顔で、瞬きを忘れ、口をポカンとあけて狼を見る。
 その言葉はレムリアにも少なからず衝撃。
『人間の悪い癖だな。何でも自分でどうにかなると思ってる。だから、どうにかならないと自分が悪いのかと悩む。お前たちがオレたちと獲物を取り合っていた頃は、そんなこと無かったはずだがね。いいか、治るものは放って置いても治る。でもそうじゃないのものある。そして、そうじゃないものを、どうしようどうしようと考えて、余計悪くしているのがおまえら人間だ』
 レムリアは再びハッとした。
「治らないのを不可能と思いこみ、転じて恐怖となり、身体を縮こまらせ強ばらせ、元気を失わせ、血の巡りを悪くする」
 レムリアは納得して補足した。
『その通りだ。身体はいつでも治ろうと頑張ってる。でも、早い遅いはまちまちだ。重い病気なら当然遅い。悩んでもそこは変わらないだろ。だったら、治らないって幾ら悩んでもしょうがねぇじゃねえか。それどころか、悩めば悩むほどかえって悪くなる。だったら悩むなってわけさ。望む答えはないのに悪くなる。そんなの損だろ?。だったら、その間楽しんだ方がいい。だからオレたちは走って、吠える』
 狼はもう一度吠えた。
 答えが返る。
『ほれ、まいか、今しょんぼりしたろ。そのしょんぼりを怒鳴りつけろ。アホバカ出て行けって。全部出せ』
 まいかちゃんは叫んだ。私は狼になりたい!
 まいかちゃんの声は残響を持って荒野に広がり、吸い込まれ、小さくなり、消えた。
 遠くの狼から反応があった。
 まいかちゃんに再び笑顔。
『なかなか筋がいいぞ。仲間たちもおまえを歓迎だ。じゃぁ、走れるようになったらまた来いな。おい魔女、まいかは今からオレたちの仲間だからな。泣かしたらお前のこと食ってやる』
 狼はニタッと笑うかのように、唇をよじらせて牙を見せた。
「受けて立ちましょ」
 レムリアは真似して歯を見せて応じた。
 同時にこの狼に会えたことを良かったと思う。いろんな示唆を得られたし、何より再会の約束をした。今のまいかちゃんにとって、それは目標を与えることそのもの。しかもうまく言えないけれど、単に治れ頑張れというよりも、プレッシャーも恐怖感も少なくて済む。
 最も、実は、真実を敏感に感じ取ったであろう狼の、精一杯の優しさなのかも知れないが。
『いい返事だ。まいかはどうだ』
 狼は問うた。
「うん。走れるようになってまた来るよ」
『よしいい返事だ。約束だぞ。そうだまいか。もし苦しいことがあったら、オレを思い出して吠えろ。まいかがどんなに遠くにいても、オレはお前の声を聞きつけて返してやる。たとえお前が地の果てにいてもだ。じゃぁ、またな』
 狼は再び華麗そのものの跳躍を見せ、併走していた群れに戻った。
 家族で吠え声を上げる。
 まいかちゃんは左舷に駆け寄り、彼らに手を振る。バイバイと大きな声を上げて手を振る。
 まいかちゃんはもう一度、狼になった。
 群れが応じ、森の中へ消えて行く。
「人間も、狼になれればいいのにね」
 まいかちゃんは、狼が去った方向を、ずっと見ながら、言った。
 寂しげな横顔。
 去った、終わったという認識が、彼女の意識をどうにもそういう方向に引きずり込んでいるようだ。彼女は、恐らく本能的に、忍び寄るものを、至近まで迫ってきているものを、残された僅かを、
 全て知っている。
「そのあこがれが、シリウスって星を、天空の孤高の狼と呼ばせたのかもね」
 レムリアは言った。会話を途切れさせてはならない。
 空白を作ってはならない。
 次を考える。北極圏に来たついでだ、今度は一足飛びに南極に行こうか…。
 船を南天に指向させ、加速する。伴い、白銀に輝く孤高の星が正面に捉えられ、水平線の向こうから徐々に上がってくる。
「あの一番明るい星がシリウス」
 レムリアは指差した。
 まいかちゃんがその指先に目を向ける。
「そういえばシリウスって、世界のあちこちで、狼とか犬とか言われてるんだよね」
「人類共通の記憶というか認識なんだと思うよ。だんだん野性を失って、野性には無かった地位とか名誉とか、余計なことに悩むようになっていった人間にとって、身近な野性であった犬や狼は、野性の象徴として憧れの存在に変わっていった。だからひときわ輝いて見える星にその姿を見たし、妬ましさが童話の悪者にしたんじゃないのかな。そして…今の狼の彼には、そんな人間たちが、かわいそうに見えたんだよ。病気の時くらい野性に戻ったらどうだって…」
 レムリアは言い、言ったその自分のセリフに、三たびハッとした。
 天啓と呼ばれる洞察が訪れようとしているのを感じている。紡ぎ出される言葉をそのまま口にしてみる。
「人が病気になるのは、人も野性を身体の中に持った動物である証だ。だったら、病気のことは野性に任せればいいじゃないか。変に頑張って人間らしく振る舞う必要がどこにある。
 怖いのも道理。痛いのも道理。必然として存在するモノをなぜわざわざ耐えたり我慢して打ち消そうとする。その我慢自体ストレスだ。発散しなければたまって行く。怖ければ怖い。痛ければ痛い。声に出して何がいけない。人が人である以前に、生き物としてあるがままにあるのはいけないことか?」
 その言葉に、まいかちゃんはポカンとしてレムリアを見つめた。
 9歳の彼女にはやや語彙が堅かったかも知れぬ。
 要するに。
「我慢しない。頑張らない」
 レムリアは、言った。
 まいかちゃんの目が大きく見開かれる。
「大事なのは、あなたが、一番、ほっと安心できること。だから私はあなたから離れない。あなたが望むなら、あなたといつまでも」
 レムリアは言い、まいかちゃんに向かって両腕を広げた。
 これだ、という確信がある。
 今のまいかちゃんに必要なもの。
 それは恐怖をぬぐい去ること。
 “そのこと”を考えずにいられること。
 完璧な味方にして、一瞬たりとも目を離さない、全てを託せる存在であること。
 相原の言った通り、それに呪文は必須ではない。むしろ呪文ではそうはなれない。
 呪文ではない。
 頑張れ、でもない。
 守る、こと。
 そして、
「大丈夫、だから」
 レムリアは、言った。
「うん…」
 まいかちゃんがしがみついてきた。
 レムリアは彼女を抱きしめる。
 その目を見つめる。
 月明かりの中ではプリンセスまいか。
 でも腕の中の少女の真実はそうではない。
 憔悴と、疲労と、極度の睡眠不足。
 数日寝ていないと見られる、加えて病気でただでさえ体力に乏しい身体。一度心停止に陥った身体。
 その身体を離れようとしない間断なき恐怖。
 レムリアはまいかちゃんを“お姫様だっこ”する。
 微笑む彼女。その目の下の色濃い隈。
 揺らぐ瞳。対して抗うように震えるまぶた。
 首を横に振る。否定するように首を横に振り、その目から涙が溢れる。
 ぎゅっと唇を噛む。
「もっと…どこか…」
 振り絞るように声を出し、再び唇を噛む。
 意図的に自分に刺激を与えている。
 レムリアは気付いた。
 今、彼女を捉えているのは強い眠気である。しかし、彼女は眠りたくない。
 その理由。眠ったらそれっきりになるのでは、という非常な恐怖。
 夜だからと眠ってしまったら、朝が来るという保証はない。それを本能的に判っている。
 だから恐らく何日も寝ていないのであり、寝不足の表情なのだ。朝が来るまで安心感が得られない。
 心地よいはずの眠り。子どもが最も幸せな表情を見せる夢の時間が、恐怖でしかないなんて!
 でも、今の彼女に何より必要なのは、信じて、安心して、眠れること。
 そして、その答えを、レムリアはたった今、狼から得た。
「大丈夫。神様とケンカするから」
 レムリアは囁いた。
「神様があなたを迎えに来ても、私はあなたを渡さない。天使が来いって言ったら、蹴っ飛ばして追い返す。
 私が助ける。何度でも助ける。
 お昼にあなたにそうしたように、私は絶対にあなたを神様に渡したりはしない。引き替えに私を地獄に落とすというなら落ちましょう。代わりに私に来いというなら行きましょう。
 それで、あなたが、助かるのなら」
 レムリアは言い、ゆっくりと、トーンと、リズムを下げながら、この船ならではの方法で彼女を睡眠へ誘導し始めた。温度を整え、気流を呼び込み、星の海の中を行く。
 腕の中の少女の身体から、こわばりと震えが徐々に抜けて行くのを感じる。
 あとは、あと出来ることは。
 朝への確信が持てないのなら…。
 船を東へ向ける。
「また狼に会いに来る?」
 レムリアは問うた。
「うん」
「じゃ、魔法を使うから、目を閉じて」
 レムリアは、そっと言った。
「…うん」
 まいかちゃんは頷き、そのまぶたをゆっくり閉じた。
「一緒に言ってね。(私の道は私の力で。あなたの光に守られながら)」
 レムリアはまいかちゃんが復唱するのを待ち、船の速度を、格段に上昇させた。
 行く手の空、水平線の彼方より見え始める青い領域。
 その青みは、次第に周囲を夜の闇から解き放ち始める。
 天文薄明と呼ばれる、夜と朝とのはざま。
 空が闇を、星を失い、次第に青から“空色” へと変わって行く。
 波頭が煌めく。浮かぶ雲が見える。船は今、海面すれすれを超高速で東方へ馳せている。
 海面の向こうが赤みを帯びた。
 赤みから天へ向かい黄色へ青へとグラデーションが描かれる。赤みは光芒となり、真っ直ぐな道と化して水面を伸びてくる。
 その道の彼方。
 赤みが円弧を描いて盛り上がり、まばゆい光輪が、血潮と同じ色の巨大な光の球が、ゆっくりと、しかし堂々と、生まれ出ずるように姿を現す。
 母なる太陽。
 魔法が解ける。
「朝がきたよ。まいかちゃん」
 まいかちゃんは頷いた。
「夜は、明けたよ」
 レムリアは、言った。
 まいかちゃんは頷き、少しまぶたを開き、その瞳を金色に輝かせてから、再び、まぶたをゆっくりと閉じた。
 安心したように微笑を浮かべる。その体から力が抜けて行く。
 レムリアは両の足を踏ん張り、しっかりと彼女を両の腕に抱き、朝日に向かう甲板に立ちつくす。
 腕の中の少女は髪の毛が抜け落ち、あまりにもあまりにも痩せ、肌の色には生気無く、そして目の下には、ひどい隈がどす黒く腫れ上がっている。
 だが、その安らかに眠る笑顔に、レムリアは赤ん坊のような愛らしさを感じた。
 思わず洩れたレムリアの微笑みを、地球大気に今日の循環を開始させた日輪が、白く、強く、明るく照らした。
 
終章
 
 夜の部屋に鳴り響く着信音。
 暗闇の中で、布団の中の男は手だけ伸ばして電話を受けた。
 液晶画面には発信者として“姫”。
「なんじゃ?」
『ごめん、音信不通で』
 レムリアである。別れてより2週間。
「いいよ」
 相原は起きあがり、寝グセ頭をガリガリ掻きながら照明を点ける。
『昨日由利香ちゃんからメール来てさ。子ども達のためのアロママッサージやりたいから資格を取るって…』
 レムリアはそこで一呼吸置いた。
『嬉しくなってやっと勇気が出たから単刀直入に訊く。その後、まいかちゃんは?』
「どうなったと思う?」
 相原はイタズラ小僧のように、ニタッと笑って言った。
『焦らされるのいや…って。やっぱり言うのを躊躇するようなこと…』
 レムリアの声のトーンが下がる。
 相原は少し慌てたように。
「悪かった悪かった。不安がらせるつもりじゃなかった。明日彼女は退院する」
『は!?』
 レムリアが目を剥いている様が容易に想像出来る。
『嘘でしょ?だって…あ、最期の時くらい自宅でという』
「何でそう新月時は悪い方にばかり考えるかねこの娘は。その逆だよ。君が帰ったあと、彼女は丸2昼夜、昏々と眠り続けた。そして目覚めたら人柄ががらりと変わってたそうな。我が儘ばかりですぐに癇癪を起こすような状態だったのが、一転して周りの小さな子に絵本を読んだり、画用紙でティアラ作ったり、そんなことを始めた。そうしたら、リンパ節にまで転移していたのが消えたとさ」
 そのセリフにレムリアは黙った。無線通信ノイズが少しの間ジリジリ言った。
 そして。
『本当に?』
 疑念の問いかけ。
「本当に」
 自信の応答。
『ホントのホントに?』
「ホントのホントに。嘘だと思うなら飛んでおいで。君は彼女に何をしたんだ?」
『え?って船で空を飛んだだけ。船の上でマジックを見せただけ』
「ホントにそれだけかい?詳しく話した方がいいと思うよ。どうせ君自身知りたくなるから」
『え?じゃぁ…うーんと南の島でムーンボウを見せて、アラスカでオーロラを見て、そこに狼がいたもんだから話して、また来るって約束して、そう、それで私は狼の言葉から天啓を得て彼女に言った。頑張るなって。だって彼女…』
「それだ」
 相原はニタッと笑って言った。
「彼女は起きぬけ一番こう言いましたそうな『私は狼になります。無理はしません』って」
『ああ、なるほど』
「薬も治療も素直に受ける。その代わり痛くなると布団に潜って怒鳴るわめく。でも、前のように病院スタッフや親御さんに当たったりはしない。するとあら不思議、ぜんぜん悪化もしないし痛いのも収まり始めた。最も、それは痛み止めの作用か、単に一時的に進行が止まっただけかも知れなかったけどね。ただ、シスターに言わすとその頃彼女は『目覚めた』らしい。君の魔法が効いたと解釈したらしいんだ。そうなるともう後は螺旋階段を上って行くように状態。そういうのって『目覚めた人』の特徴的な変化なんだってね。自分と同じことを他の子ども達にって言い出して、教会がやってるお話会にお話する側で参加したりとか、君のティアラを女の子にかぶせたり、画用紙でつくってみたり。言うことすごいってさ、『婦長が何か言ったら私が守る。院長が来たら蹴っ飛ばす』…そりゃ最初は揉めたらしい。でも、シスターが徹底的に彼女の味方をした。彼女が君に直接“魔法”を掛けられた当事者ということもあるだろうがね。やがて病棟全体の雰囲気が変わり始めた。子ども達の笑顔が増えて、食事や、投薬、治療に対する姿勢が前向きになった。こうなるとギャンギャン吠えてた方も黙ってしまう。あとは喜びと楽しさの連鎖と言えばいいかな?それこそ目覚めた病棟の螺旋階段。“楽しむことが元気の源”がここでエンジン始動、と。
 つまり君は、由利香ちゃんに続き、今度はまいかちゃんを変えてしまった。彼女を神様の腕から横取りしてしまったのさ。そして、それをきっかけに、病院全体を変えてしまった。
 ミラクル・プリンセス看板に偽りなし」
『…大げさだよ』
 相原の台詞に、レムリアはワンテンポ置いて微笑混じりに応じた。
「否定するもんでもないでしょに。しかしまぁ君は会う人片っ端から元気にしたり治したり。君は自分が魔女として半人前だとこぼすけど、こういうのは君だけにしかできないそれこそ魔法だ。呪文無き魔法だな。言っておくけどこれ最上級のほめ言葉だからね」
『…うん』
「そんな娘、応援しなけりゃ男が廃るだろう。いろいろ言ったがもーいい。君は君のあるがままにありなさい。そのために僕は、君のそばにいよう。考えろなんて意地悪言わない。地球の裏からでも電話してらっしゃい」
 相原の台詞にレムリアは小さく笑って。
『とっちゃんぼうやの研修生がかっこいいことで』
「君きみ、それは今このビシッと決める場面で言ってはいかんよ」
『だって似合わないもん』
 レムリアの口調に明るさと元気さが戻ってくる。
『でも良かった。また邪魔しに行くね』
 その安堵に満ちた弾む声は、ほんのりと頬を染め、笑顔を浮かべるレムリアのもの。
「ん。邪魔されるの待ってるよ。ところでお前さん。ウチのネコタレ籠絡したろ。あれ?」
 電話は、切れていた。
「この娘は」
 相原は、笑った。
 
 − 大きな病院の小さな奇跡 −
 
 あまり気乗りのしない取材ではあった。病院自ら「取材しに来てくれ」などというのは、十中八九宣伝目的だからだ。おまけに記事の掲載先は支援財団の機関紙。書ける内容は最初から決まっている。
 だがドラマがあった。今回の取材は少女二人が小児病院にボランティアのマジックショー、というものだった。
 マジックはそれはそれは鮮やかであった。次から次に飛び出す。変わる。隠れる。消える。筆者のカメラもいつの間にかオモチャにすり替わっていた。ずっと持っていたはずなのだが、いつどうやってすり替わったのか未だに判らない。子ども達が驚いていたが、大人でも圧倒される。あそこまで鮮やかなマジックはそうそうあるものではない。
 トラブルが生じたのはそんな時。重病とおぼしき少女が心肺停止に陥ったのだ。率先して動いたのはマジックを披露した少女であった。少女は鮮やかな手つきで心肺蘇生を開始した。場に居合わせた教会関係者は子ども達と共に祈りを捧げた。
 そして重病の少女は回復した。
 信じられないのはここから先である。
 どうやら、マジックを披露したその少女は、知る人ぞ知る某国のプリンセス“奇跡の王女”らしいのだ。その王女が子ども達に微笑みをもたらす時、奇跡が始まる合図なのだという。
 それが本当なら、王女様がこっそり日本の病院を訪問し、身分を隠してボランティア活動をしていたことになるが、果たして。
 ちなみに、その重病の少女は、それこそ“奇跡的に”完治して間もなく退院という。
 少なくとも、一つの奇跡は起きたようだ。
 
 
 
 
ミラクル・プリンセス/終
 
 あとがき
 
 レムリア−lemuria−幻の大陸の名を持つ娘。
 彼女は元々、本作にも登場する空飛ぶ船に相原が乗り組むお話「快速アルゴ船同乗記」に登場する魔法娘です。このお話は「奇蹟」をメインテーマに据えた話でしたから、乗組員も奇蹟能力者を集めました。そのうちの一人が、魔女の血を引くプリンセス、レムリアだったわけです。
 本作はその彼女を主役に据えたスピンアウト作品となるわけですが、そういう経緯を持つ以上、「奇蹟」−ミラクル−をカンバンに掲げることになるのは、ある意味当然と言えました。ただ、その「奇蹟」がどういう形で現れるのか、具体的にどんな経過と結果になるのか、書き始めの段階では、彼女は私に教えてはくれませんでした。欧米映画に良くあるように、悲劇寸前の状況で形而上の存在が出てきて代打逆転サヨナラ満塁ホームラン風に劇的な奇蹟を起こすのか、言っても信じてくれないだろうけど実はね、みたいな、小さくて可愛い不思議になるのか、作者である私自身、何がどうなるか判らないまま、話が進行して行ったわけです。
 その結果。
 本作の「奇蹟」は、そのどっちでもないけど、彼女らしい。と、言えましょうか。
 納得できない方もあるかと思います。魔法そのものが奇蹟を呼んでも良いはずなのですから。それこそ必殺技的に炸裂して、死の淵から引き戻してしまう逆転サヨナラホームラン、その方がよほど劇的で「感動的」だったでしょう。「歓迎される予測可能な最高の終わり方」(予定調和とも言う)として自然ですし、畢竟、ドラマとしてはそう作りたくなるモノです。
 でも多分、私がそんなエンディングにしたいと言ったら、彼女は私から去ったでしょう。理由は言うまでもなく、彼女は意図して「奇跡的な」展開にしようとはしていないからです。
 ハッとした方もあるかも知れません。でも実際、彼女は特段ドラマチックな話にしようとは、これっぽっちもしていないのです。全編を通して、ただ、「味方でいよう」としているだけなのです。
 由利香ちゃんと、彼女のお母さん。まいかちゃんと、彼女のお母さん。
 そして、二つの病院の子ども達。
 楽しんで、喜んで、心配しないで、安心して。
 そのままでいいから。
 確かにその指は光を放ち、紡いだ呪文は不思議な事態を起こします。でもそれは、味方であるための必然に過ぎません。実際、彼女が味方したこうした人たちは、やがて変わって行くわけですが、それは呪文で変わったわけではありません。味方を得たが故の安心と自信で変わって行ったのです。そしてその延長線上が予想外の結果…奇蹟と認識される状況になっているだけです。
「誰かが悪いだけでも、何かが悪いわけでもありません。ただ、そのおかげで、私は、由利香ちゃんと出会えました」
「神様があなたを迎えに来ても、私はあなたを渡さない」
 ここまで味方になってくれる存在はそうそうはいないでしょう。しかもリップサービスではなく、実際に神様と張り合ってしまう。
 彼女に掛かると、心の傷も、絶望も、瞳輝く笑顔に変わる。それは、奇蹟の始まる合図。
 相原の言う「呪文なき魔法」
 いろんな示唆、暗示、寓意(全部一緒やんけ)、が含まれていると私自身思います。それは私が織り込んだものではなく、恐らくは彼女自身からのメッセージです。彼女のような、彼女ほどの味方がいるなら、傷つく人はいないか、その傷の回復は早いでしょう。全部認めてくれるなら、誰も不安は抱かない。そして、彼女は、自分が子どもであることを大切にしている。
 対し現実の世間はどうか。
 
 呪文が不要な魔法なら、きっと、あなたにも。
 
2006/10/24
 
 ●作中引用:「聖書」新共同訳 ヨハネによる福音書 9章11
 
 Special Thanks to
 ●イラストレーション 茶坊主 先生
 ●cooperation TAC'S DDDD(Dreamin' Dreamy Dreamer's DEPARTMENT)

 

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