夜無き国の火を噴く氷
上半身が起こせる介護用ベッドに男の子が一人。
ベッドを跨ぐ形で設置されたテーブルには、極めて分厚い本と、何やら機械が載っている。
本は一見して古さが際立つ。表紙は何と木製、すなわち木の板であり、留め金が付いていてロックできるようになっている。本文は紙ではなく、なめした羊皮。文字は印刷ではなく、一文字一文字焼き入れで刻んである。
機械の方はL字型のロボットアームを持っており、アームはページ端を押さえている。ページめくり装置である。
装置からはUSBのケーブルが垂れ下がり、ベッドサイドの小テーブルにあるノートパソコンにつながれている。
男の子は口にくわえたアクリル棒で、パソコンのキーを叩いた。
ロボットアームが動いてページをめくり、アームがくるりと円を描いて回転して戻り、次のページの端を押さえる。
「(こんにちは)」
壁をノックする軽い音があってフランス語、少女の声。
男の子はくわえていたアクリル棒をパソコン傍らのコップに入れ、振り向いた。
「(お姉ちゃん!)」
お姉ちゃん、と呼ばれた少女はしかし、言葉から想起されるイメージと異なる黒髪の娘……秋葉原や原宿で見かけそうな容姿雰囲気である。少女マンガのヒロインを思わせる黒く煌めく瞳。髪の毛は肩に僅かに掛かる程度で、ジーンズ姿もあって軽快な印象。
対し、男の子は黒檀の肌の持ち主であり、パジャマの両腕を伸ばした……ただ、その腕は包帯が白く巻かれ、肘から先の部位が存在しない。足も然り。
男の子の家は、政府軍の爆撃に遭い、彼の手足と、両親と、兄弟達と共に破壊された。
彼女がボランティア活動で野戦病院にいた時に担ぎ込まれた。
続く戦闘と爆撃は彼の心をむしばむと判断され、彼女の現居住地であるオランダ・アムステルダムの小児病院へ引き取ったのである。
「(マジックショーはいつなの?)」
男の子が尋ねる。
「(来週だよ。今病院と打ち合わせしてきたところ)」
彼女は言い、手を握り、手を開き、それこそマジックの手法でキャラメルを取り出し。
「(どう?その本。面白い?)」
訊きながら前かがみになり、男の子の口にキャラメルをころり。彼女はボランティアで医療活動をしている看護師であるが、年齢は14である。活動の一環として小児病院・病棟を回り、マジックショーをしている。ホスピタルクラウンと称される活動の一つ。
「(すげぇや)」
彼は8歳の男の子なりの無邪気な笑顔でそう応じたが、すぐに、不意に消えた火のように、床面の何もないところを見つめた。
とにかく長い長い面白い本を持ってきて……退屈しのぎであろう、男の子の求めに応じて用意したのが、古いその本である。彼女の実家に伝わる物で、グーテンベルク以前の産物。
「(この機械。こんなのどこで売ってるんだ?)」
取って付けたように、男の子は彼女に笑顔で訊いた。
「日本、東京、秋葉原」
彼女は即答した。すると男の子は驚きを小声にした上で、
「(マンガの国だよね!え?行ったことあるの?)」
興奮気味に訊く。ジャポン≠ニいうフレーズは、男の子に新たな別の火を点けたようだ。
ただ、頷いていいものかどうか彼女は躊躇する。恐らくは生まれてこのかた戦乱しか知らない彼達に、平和の象徴とも言えるかの国はどう映っているのだろう。
「(友達がいてね)」
結局、彼女の妥協点はそこ。
「(日本の友人か。オタクか。いいなぁ)」
彼は言い、再びフッと表情を曇らせた。
短時間に極端に感情が変化するのは、大きな、大きな、耐え難い傷を負った心によくあること。
そういう場合に出来るのは、それを否定せず、結論を急がず、全て受け入れること。
誰に対しても、同じ光を投げかける、月になった気持ちで。
「(この本ってさ)」
パソコンがスクリーンセーバーに切り替わるくらいのタイムラグを経て、彼は言葉をつないだ。
「(昔むかしの冒険の記録だよ。人間が移動するには歩くか船しか方法がなかった頃の)」
「(だから、全部本当のことなんだよね)」
「(えっ?)」
伝聞や脚色が多分に含まれるからそうとは限らない。自分が読んだのは幼い頃なので記憶が怪しいが、ドラゴンやシーサーペントが実在≠ニして出てくる。
そもそも、過去の魔法の普及と活用に関する資料の一環。それは現代人には体のいいおとぎ話。
彼女が答えの言葉を用意している間に、男の子は再びスティックを口にくわえ、ロボットにページを戻させる。
ジージーと音を立ててロボットが動き、現れる話が変わる都度、男の子がこの話は……と短くコメントし、結果56ページ戻るのに250秒。
「(これだ)」
ゴール?地点のその話は、タイトルを夜無き国の火を噴く氷=B
あらすじは次の通り。みなしごの青年が自分の親を知りたいと思い、魔法使いに訊いたら、この氷を見つけて食えと教えてくれた。彼は冒険に旅立ち、時を経てようやく見つけてその氷を口に含むと、確かに両親が目の前に蘇り、しかし直後彼は息絶えた。旅立ちを決意してから70年後のことだった。
但し、具体的にどこの国かは推測できない。雪山を越え、怪物跋扈する大森林を抜けると夜無き国で、海を渡ると氷の島があって火を噴いている、とあるだけ。
「(どうせ……)」
男の子が独りごちるように言う。この手足では、傷癒えて故国に戻っても笑い者になるだけ。働く口はないし、
部族のために戦うことも出来ない。
「(だったらせめて、家族に会いたい)」
本に書いてある通りの氷を、入手したい。
揺らめく瞳に見つめられ、彼女は気付かれないようにため息をついた。自分の解釈では、この話は事実と言うよりは教訓、寓意。すなわち、
不可能を可能にするには死ぬほどの決意と努力が必要だ
及び、70年は単なる寿命で、努力が実は生き甲斐になっていて、従って生き甲斐とは努力するものがあるかどうかで。
両親は想像していた幻か、死を目前にした故の霊的な交流で、みたいな皮肉では。
「(大昔でも70年で見つけられたんだ。……そういやニッポンの友達って言ったよね。ニッポンの技術ならすぐに見つかるんじゃないのか?なぁ、訊いてみてくれよニッポンの友達に)」
男の子は話す途中で思いついたのだろう、声のトーンを上げ、ベッドから身を乗り出した。
「(え……)」
彼女は躊躇した。即答できる言葉を持っていなかった。
それは全て想像の産物、おとぎ話……言えるか?
日本の友人に訊く、知らないと言われて終わり。
日本の友人など実は嘘だ……
いずれも彼が納得できる答えになるまい。落胆と裏切りの傷しか彼には与えない。
男の子の表情から、笑みと興奮が熱冷めるように去った。
「(……判ってるんだ。全部ウソなんだろ)」
そして、ただ黙っていることも同じ。
ならば。
「(待ってよ)」
彼女は唇を噛んで言い、ジーンズに巻いたウェストポーチに手を伸ばした。
「(えっ!?)」
彼が逆に驚く。友人がいること自体はウソではない。
見つめる男の子の前で、取り出したのは衛星携帯電話。一見すると軍用無線機を思わせる無骨さ。
窓際に立ち、数百キロ彼方の電波を捕まえたことを確認し、発呼する。今の日本の技術でも最早見つからない。過去あったが今はない。そう言ってもらうのも、残酷だが一つの手だと思うからだ。自分が言ってもいいが、当の日本人なら説得力があるだろう。サンタクロースじゃないが、やがて無いと明らかになるもので誤魔化すのは二重に傷つけるだけ。
呼び出し音。相手は歳8つ離れた勤め人の男である。日本は土曜の夜だから邪魔にはなるまい。
『はいよ。どした?マヌエル君の見舞いだろ?』
相手が自分のスケジュールを把握しているのは、自宅ではインターネットのインスタントメッセンジャーで繋がっているから。
それで喋るのが寝る前(※)の習慣になっているせいか、声を聞いたら自分自身少し落ち着いた。(※オランダの午後11時で日本は午前7時)
「あのさ、古代の伝説に出てくる夜無き国の火を噴く氷≠チて何だと思う?」
「(すっげー日本語だ!)」
マヌエル少年が驚く。彼女は12カ国語を操る。
声がデータ処理され、700キロ彼方の衛星に向かい、衛星間を中継され、アメリカ大陸にあるパラボラに降り、国際通信回線に入り、光ファイバケーブルで太平洋を横断し、日本の通信網を走り、携帯電話システムに載り、彼の電話に届き。
恐らく彼が答え、同じ経路を通って戻る。
その、タイムラグを、日本側が何か調べていると捉えたか、マヌエル少年が聞き耳を立てて彼女を見ている。
『アイスランドの氷河割れ目噴火のことだろ』
あっさり訪れた答えに、マヌエル少年がこちらを見る目を輝かせた。
「(アイスランド……氷の国か!)」
電話の声が聞こえたのである。……彼は現地では少年兵、僅かな音を捉える訓練は当然のように受けていたであろう。
「え?本当にあるの?」
頭からサーッと血の引く感覚を覚えながら、彼女は問い返した。……それなら現在ただいまも煙を上げている。それこそこの電話の向こう、日本の彼の教えてくれたことだ。歳の差もあって家庭教師的な部分があるが、潜在する世界規模の災害リスクの一つとして、救命ボランティアするなら覚えておいて良い、と言っていた。ちなみに18世紀には日本の火山の噴火も合わせて不作と飢饉を招いている(天明の大飢饉)。
対応に失敗したと彼女は認識する。こうなるとウソ付くことも、本当のことを言うことも。
どちらも解決にならず、ただ彼を傷つける。違うのは傷の深さだけ。
怖いような気持ち。
「(アイスランド。アイスランド……氷の国ってそのまんまだな。お姉ちゃんその人に訊いてくれよ。それはどこにあって、日本のテクノロジーで僕が行くことは出来ないかって)」
言葉が用意できず、ただ背筋の温度が下がる。
唯一の逃げ道は、マヌエル君が日本語を解しないこと。
だったら、だったら。
『何か嬉しそうな声だな』
「それが……あのさ」
彼女は渇いた喉から声を絞り出す。貸した本の話と、否定を確信して尋ねたことと。
対し彼は「先に言えや」と挟んでから、こう説明した。
・夜無き国とは白夜のこと。
・火を噴く氷とは氷河に覆われた火山のこと。
すなわち、両方を満たすアイスランドについての伝承であろう。
「どうしよう。ごめん、対応まちがえたの私なのに巻き込んじゃって」
泣きそう、率直な気持ち。でも、当座思いつく相談相手はこの彼だけ。
『……そのままじゃ、どう動いてもマヌエル君は傷付くなぁ』
「うん」
やっぱり判ってくれる、と思い、思わず頷く。
頷いてから、自分の反応が幼女みたいだと思う。ユーラシアの向こうを頼ってるんだと、否が応でも自覚せざるを得ない。
代案の一つも用意できるのが、あるべき姿なのだろうが。
返事が来るまでのタイムラグが、待ち遠しいような怖いような悔しいような。
しょうがねぇな、と、電話の向こうで苦笑いするメガネの顔が目に浮かぶ。
『ロッテルダム出張があんだよ、来週』
それは解決のサジェスチョンだと彼女は知っていた。
そこからここまで超特急で40分である。彼はここに来てくれるつもりなのである。
「え?こっち来るんだ?」
言葉尻に笑みが入る。ゲンキンな自分。
『ロケット燃料の学会』
「(ロケット!)」
これも聞こえたらしい。日本のハイテク+ロケット……マヌエル君がすごい想像を抱いたことが容易に知れる。ちなみに、彼女自体は、米ロの派手な宇宙開発より、この国がソーラセイル(光圧推進)≠フ衛星をヒョイとばかり打ち上げたことの方に心底驚いた。
それがSFに登場する未来技術であると当の彼から聞いて知っていたから。
でも、
「え?回路エンジニアって言って……」
彼女は自分が認識していた彼の職との齟齬を口にした。そういう方面の研究職でOJT(オンジョブトレーニング)しごかれ中とか。
「(ロケット!エンジニア!)」
カクテルパーティ効果に近いのだと思うが、都合の良い部分は案外ハッキリ聞こえるものだ。
『えらい大はしゃぎだな彼は。……ああ、回路ったってロケットエンジンの燃焼系の回路なんだよ。燃料の性質知らずして燃焼制御回路作れるはずもなく。お前直接行ってこいと。まぁ君の悩みには解決の心当たりあるからついでに寄らせてもらうよ。じゃぁ決まりでいいね、タネの仕込みの指示をするぞ。まずその彼に……衛星写真で夜景貼り合わせて世界地図に仕立てたのネットにあるべ
、北朝鮮が真っ暗なやつ。アレの日本を見せてやってくれ』
それが夜無き国≠ノ他ならないことに彼女は気付いた。
『で、1週間待っててね、っと。その病院のマジックショーに設定してもいいぜ。手品みたいなもんだし』
それは少し意地悪が見え隠れする口調。え、ちょっと待って。
「あの……それで火を噴く氷の正体って?……自分で訊いておいて悪いんだけど」
『教えてあげません』
彼は勝ち誇ったように言った。
彼女はぶ〜と膨れたくなったが。そういう心理を抱いたことに少し罪悪感もあり。
『それは内緒ってことで。お前さん自身も知らない方が彼も更にワクワクが増すでしょ。大したことないって君が思ってしまったら、彼にも以心伝心するしね。ナゾはナゾのままに。たまにはオレにも魔法を使わせてくれ。じゃぁ追加あればメッセンジャーで』
彼は電話を切った。
そして一週間後。
魔女のレムリアのマジックショー≠ヘ、昼食後の30分イベントとしてホールで開催され、併設のホスピスからも多くのお年寄りにも来てもらい、大いに楽しんでもらった。
日本の彼はイベントの最初姿が見えずヒヤヒヤしたが、気が付くと観衆の後方に立って次第を見ていた。そこには面白がって見学に来ていた病院スタッフもいたが、彼は背の丈167センチの日本人であって、メガネを掛けてスーツ姿であることから、埋もれるでもなく探すに労するでもなく、彼女が観衆を驚かせるのを、表情変えず慣れた風に見ていた。
それは彼女にとっても見慣れた情景だが、いつもと違うのは、その足もとに、プロカメラマンが持ち歩くような、立方体に近い形状のジュラルミンケースがあること。
「(以上で終わりです。どうもありがとう)」
3日後に誕生日というおばあちゃんに花束をシルクハットから取り出し、みんなでお祝いして式はお開き。
自力で、或いは車いすや介護ベッドを看護師や助士が押して、めいめい自室や病棟に戻って行く。
残ったのはマヌエル君と、彼女と彼と、マヌエル君の主治医の男性。
この病院のイベントホールはドア壁で仕切っているわけではなく、ガラス天井から陽光が注ぐ、いわば屋内の中庭≠ナあるが、午睡タイムに入ったこともあり、前を行き交う入院入所者の姿はなく、事実上彼らだけ。
「(え?え?)」
自分だけ特別扱い、の雰囲気にマヌエル君はたじろいだ。ちなみに彼の車いすは彼女が担当してきた。
「(特別マジック)」
彼女は言った。
「学(まなぶ)」
学と呼ばれた日本の彼、相原学(あいはら・まなぶ)が、傍らケースを持ち上げて歩き出す。
「ぼんじゅうる」
「(日本から来ました)」
彼女の通訳にマヌエル少年は目を見開いた。
以下、彼女の通訳後の状態で記す。
「(日本のあんた、その持ってるものは……)」
「夜無き国から火を噴く氷を持って参りました」
「(おお、君が食いたいと言ってた奴だな、夢が叶ったなマヌエル)」
主治医氏も興味津々。但し、氏がここにいるのはマヌエルの不安定な心理を踏まえてのこと。彼女が事の次第を話したら、氷≠ナ心が溶けるのか見届けたいと同席を申し出たのだ。なお、マヌエルはフランス語、主治医はオランダ語である。
「あの、お願いしていた奴を」
相原が何か主治医に頼み事。
「(おお、これだよ。ミスターニッポン)」
主治医が差し出したのは分厚い手袋。相原学が彼女を通じて事前準備を依頼したもの。
相原学はマヌエル君の車いすの前にジュラルミンケースを置き、留め金を外し、借り受けた手袋を手に嵌めた。
「(手に持てないほど冷たいのか?)」
マヌエル君が尋ねた。
「マイナス25度。ドライアイス並だ。素手で持ったら皮膚が損傷してくっついてしまうよ」
相原学はそう言いながら、ケースの蓋を開けた。なお、病院には多く液体窒素冷却されたサンプル等の扱いがあり、この種の手袋は珍しい物ではない。
中の冷気に空気中の水分がサッと凝結して霧を生じる。相原がパタパタ追いやると、黒に着色された発泡スチロールの容器に、理科の実験でおなじみのガラスのビーカーが嵌め込んであり、その中に、氷≠ェ入っている。
一見すると氷菓の如し。
「これが火を噴く氷」
相原学は霧たなびかせるそれを手袋に載せ、握り砕いて幾らかのカケラとし、その一つを持ち、少しそのまま置いた後、これまた主治医から借り受けたライターの炎を次第に近づけた。
「(おっ!)」
ボッと音を立てて氷が炎を噴き、マヌエル少年が目と口を揃えて丸くする。それは固形燃料か、或いは角砂糖に点されたブランデーの炎か。
文字通り氷が直接燃えるという状況を呈しながら氷は溶け、炎もろとも消えた。
マヌエル少年は声も出ない。
「(判ったぞミスターニッポン。メタンハイドレートだ)」
主治医が指をパチンと鳴らした。
「ざっつらいと」
相原学は言って、手袋をマヌエル少年の腿に置き、もう一度そこで燃やして見せた。
「(それを食うのは医師として感心しないぞマヌエル)」
メタンハイドレート(Methane hydrate)。
高圧低温の環境下でメタンガスの分子が水分子に取り囲まれた状態で凍ったもの。シベリアの永久凍土で成長したのが有名であるほか、深海底でも見つかった。特に20世紀後半に発見された日本の太平洋岸の海溝沿いは豊富に含んでいると見られ、燃料として産業化が模索されている。
「(オナラの塊を食うかい?)」
主治医はスカンクに遭遇したかのように鼻をつまんで見せた。なお、確かに屁≠フ主成分はメタンであり、メタンガスすなわちオナラのニオイというイメージがあるが、屁の悪臭成分は別である。メタンは本来無色無臭。
「(実際食ったら腹の中で膨張するだろうな)」
主治医の問いかけ。
「体積は100倍以上になります」
相原学の答え。
「(君は爆発しちまうぞマヌエル)」
マヌエル少年は膝の上で燃えるハイドレートを見つめ、燃え尽きるまで見つめ、そのまま動かない。
相原学は手袋を取り、ジュラルミンケースの蓋を閉めると、マヌエル君の前に座って見上げ、顔を覗き込んだ。
「レムリアから話は聞いた」
相原学は言った。レムリアは彼女のこと。本名は別だが、マジックショーの芸名をインスタントメッセンジャーのハンドルネームに使っており、相原も日常彼女をこの幻の大陸の名で呼ぶ。
「夢叶えられなくてゴメンよ。でもね、現代は本が読めてパソコン叩いて論文書けりゃ学者になれる。こいつは見た通り石油に変わる燃料として期待されているが、海の底から取り出すのは難しい。シベリアの土の中で凍ってる奴は温暖化で溶け出している。メタンの温室効果は二酸化炭素の比じゃない。温暖化が進めばもっと溶け出すし、蒸発したメタンに火が付けば火を噴く氷なんて悠長なことは言っていられなくなる。確かに君の手足はとても悔しいと思う。だが、このように解決するべき課題満載。そして、人類の未来を背負うのに決して手足は必須じゃない」
相原はマヌエル少年の両肩に手をして言った。
彼女レムリアがフランス語とオランダ語に訳すのを待って主治医が発言。
「(ミスターニッポン。それは水とメタンだけなんだよな)」
「おっしゃる通りです」
「(逆に言えば人体への影響はたかが知れてるわけだ。体積が増えるのは塞がれた血管の拡張なんかに使えるかも知れない。可燃性ってのも何か使えないかという気がする)」
相原は頷いて。
「祖国のために。君の気持ちは判る。でも僕は君に、地球と人類のためにというスタンスを提案する。ちなみにオレが研究しているのは……人類が太陽系から飛び出すためのエンジンだ」
立ち上がって、相原は言った。
対し、ようやく、という感じで、遅れて顔を上げ、相原を見るマヌエル少年。
その傍らでハイドレートの燃えっぷりを自ら試す主治医氏。
レムリアはそれが、父と兄が悩める弟を導く有様に思えた。
その男同士のやりとりこそは。
薫陶、とレムリアは気付いてハッとした。
男だからこそ解決する、出来ることもある。彼が以前言ったこと。そして今回、彼は自分の失敗がその領域に入ったと悟って、1万キロ飛んで来た。
かっこいい、学、あんたかっこいい。
医師が手袋を外し、口を開く。
「(学者になれというミスターニッポンの提案に僕も賛成だね。祖国へというなら、成果を持ち帰って生かせばいい。メタンハイドレートはメタンと水だ。祖国の水不足解消に繋がる部分もあるんじゃないか?)」
主治医は言って白衣のポケットに手を入れ。
「ページめくり機と燃える氷は持ってけ。君にやる。でも言った通り食うと舌べろが凍り付いて腹の中で膨れるからな」
相原はケースの蓋を閉め、丁寧に留め金を掛ける。
マヌエル少年は父≠ニ兄≠フ発言を交互に見つめた。言葉の意味は判らなくても鼓舞しているとは気付いているようで、レムリアが訳す前にその瞳が輝き出す。
それは、その輝きは電球、炎、星……否否。
原子炉。
僅かな原料が膨大なエネルギに転じ、人間社会に無数の光と巨大な力を与える原子炉。 今、彼の内奥に点った炎は、開いた世界は、その電力の生み出され広がる有様に似て。
「(図書館行くなら付き合うぞマヌエル。コトバのヘタクソは勘弁してくれよ)」
主治医はニヤッと笑って言った。ややたどたどしいフランス語。最も、オランダは相原の乗ってきた超特急がパリ発であるように、ベルギーを介してフランスとつながりがあり、バイリンガル、トライリンガルは珍しくない。
「(この身体でも……祖国に貢献……)」
「(当然だ。君は原始人でも野蛮人でもない。身体的ハンディキャップは機会の不利を意味しない)」
主治医は言った。
「日本に来たらアキハバラ行こうぜ」
相原学はニヤッと笑って午後のひげ面の顎をポリポリ掻いた。
「(あ、うん!行くよオレ日本に。ありがとうミスターニッポン。先生、図書館連れて行ってくれ)」
「(請け合った。魔女っ子ちゃん、彼を借りるぜ)」
「(お願いします)」
レムリアに断りを入れ、主治医はハイドレートのジュラルミンケースをマヌエル君の腿に乗せ、車いすを押しながらイベントスペースを後にした。
「(ここに人類の課題が入ってる……誰も解決できてない問題が入ってる……なぁ先生、オレもっと勉強したい。そうだよな、手が無くても足が無くても勉強できる。国で一番になって……)」
「(国?セコいこと言うな。世界一の宇宙物理学者は病気で手足どころか声も不自由だぞ……)」
父と息子≠フ会話が次第に遠くなる。
「さて、飯でも食いに行くか?」
車いすを見送ってストップモーションのレムリアに相原が言った。
彼女は振り返って彼を見る。ポケットに手をしたメガネの顔はいつもの笑顔である。
ちょっとヒゲの目立つ。
「おおどうしたいきなり。メタン弾けて目に飛び込んだか?」
おろおろという口調で自分に手を差し伸べる相原の腕の中に、レムリアは逆に飛び込んだ。
泣く。
中から沸き上がる衝動に任せて泣く。自分でもどうしたかと思うくらい大声で泣く。
爪立ててしがみついて泣く。もう幼女に戻ったように。
相原が狼狽えたのは、レムリアの目から突如涙があふれ出したのを見たから。
「……さい」
ごめんなさい≠ニ言いたいのだが言葉が紡げない。
「……っぱい、……したのはあたし……のに、あなたに……押しつけ……」
失敗したのはあたしなのに、解決をあなたに押しつけた
どうにか言葉にしようとするが、それよりも何よりも、
そんなことどうでも良くなった。
爆発するように涙と泣き声が止まらない。みっともなくて情けないが、それよりは全部出してしまいたい。
相原が自分を抱きしめて抱き上げたことが判った。
そのままぶら下がる。彼が自分に好意以上の好意を抱いていることを知っているが、それを当然のように思っている自分を確認する。
知っている。そう、だから、頼った。
何とかしてくれるだろうと思って窓際から電波飛ばした。
そして、彼が自分を抱いてぶら下げた意図は、
自分だけで立とうとするな
ぶら下がってる自分。
この状態が当たり前で居心地がいい。
「……ごめんなさい」
どれほど泣いたか時間の感覚がない。どうにか苦労して声に出したら干からびていた。
対し特に言葉はなく、ハンカチが目の下を拭う。
「どうせありもしない話だと思って、でも、彼を落胆させたくなくて。だけど、ウソは付きたくなくて」
ゾッとする思いが浮かぶ。まさか学の出張なんて実はウソで、ただこれだけのためにジェットで半日1万キロ。
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