女神の自分史
序
生命科学研究所。
主たる研究テーマは以下三点である。
一・老化機構の解明と成果を用いた老化防止
二・老化が主因とされる疾病の治療薬開発
三・人類の長寿命化
一と三は近似しているようだがニュアンスが異なる。一は死≠ヨ向かう変化そのものを食い止めようとするものであり、三は死期まで≠フ時間を延ばそうというものだ。一と三のシナジーによって労働可能期間の延長を図り、ひいては労働人口と労働時間の積で示される生産量の増加を目指す。更には、全てのシナジーによって老化に伴う保険料などの各種負担の国家レベル削減を目指す。
但し三の目的は公にはされていない。
不老不死≠フ追求そのものに他ならないからだ。一般に荒唐無稽な概念であり、税金の投入は認められまい。このため該当予算は前記一と二の項目に割り振られて要求される。しかし、当然の事ながら、組織上層はその真の目的を理解し、予算を充てる根拠と見通しもある程度も持ち、承知している。
その根拠=B
それは本件の主任研究者、雪車町(そりまち)の仮説に端を発する。すなわち一般に幻想、或いは神格化のための後付け創作とされる神話伝説中の異常な長寿≠ェ「事実であるための条件」を考えたならば。
神武天皇の生誕から崩御まで一二七年。
箱船のノアは九百年を越す生涯を過ごし。
エジプトのファラオには万年を治めたと記述された墓碑が存在する。
これらの伝承に何か、「長寿であるための条件」が過去存在していた、とするならば。そのような視点の転換に彼が用意した事実≠ヘ。
オオナマケモノ(Megatherium )という象サイズの霊長類の実在。
更に遡り、恐竜という巨大生命の億年単位にわたる繁栄。
これだけ大きな生き物が生息可能な条件は、すなわち生きやすかった≠アとの証左であろう。それが人類には長生き≠ニして現れた可能性はないか。更には、体毛のない人類が幾度も訪れた氷河期を乗り越えるには、衣服のみならず、体温発生(基礎代謝)が活発化される必要があったはずだ。そのメカニズムは、巨大生命を支えるに充分な環境だったからこその結果ではあるまいか。
だとするなら、その環境は気温・温暖に依存しない。その代わりに、地球等しく存在する、生命に必須の別の要素が豊潤だったのではないか。
その軸たるは。
酸素。
1
事務椅子にだらしなく斜めに腰を下ろした白髪の男性。
小鼻の老眼鏡を上げたり下げたりしながら、レポートのページをめくったり戻したり。
「で、お前はこの高濃度酸素環境下の生物<Tンプリングに南極まで出張らせろ、こういうわけだ」
「はい」
かしこまって答えた男はあごひげを蓄え黒縁のメガネを掛けている。白衣に身を包み、身分証を首から下げたその姿は、いかにも研究者・博士的な風貌と言えた。
雪車町明史(あきふみ)三三歳。ライフワークは寿命=B
その理由。彼の母親は彼が生まれる時、彼の誕生と引き替えに世を去った。
『出産のために生命力を使い果たしてしまったようなものだ。一気に寿命が尽きてしまったのだ』
医師はそう答えたという。今にして思えば訴訟回避のための詭弁であったかも知れぬ。
ただ、その詭弁は詭弁の常として当然の疑問を彼に生じさせた。寿命とは、ゲームの生命力同様、蓄積された残存エネルギを意味しているのか。
老化という現象が寿命と分かちがたく結びついていることは確かであろう。そして老化は端的には細胞のコピーが次第に正確性を失って行く現象と言える。老化は確実に死へ至らしめる。但し老化のトリガは生きた長さに必ずしも一致しない。例えば昆虫は数ヶ月から数年程度の寿命≠持つが老いさらばえた″ゥ虫は存在しない。植物は枯死するが、それは老化というよりシステムの停止であり、機械の故障にイメージが近い。
そして、他ならぬ人間においても、例えばハッチンソン・ギルフォード・プロジェリア症候群……Hutchinson-Gilford Progeria Syndrome (HGPS )……と呼ばれる病気は、幼年期から老化≠ェ始まる。
すなわち、老化は寿命を縮める。但し、寿命は必ずしも老化のトリガではない。逆は真ならず。
「同じ南極でも深海底生物ではいかんのか?高濃度であることは同じだぞ。ヘモグロビンすら要らない位だが。人体への影響も宇宙機乗員のデータを取り寄せれば求められないか?」
白髪の男性は引き出しから職印を取り出し、スタンプマットに押し当てて問うた。ちなみに、宇宙船は内部の酸素濃度がほぼ百パーセント。文字通りの高濃度酸素環境である。
「ええ、深海底とはいえ、太古環境が保存されているわけではありません。気圧が異なる可能性も」
「すると五百万年南極地底湖に現代地球の空気を持ち込むのか?」
雪車町の回答に間髪を入れず男性が問う。南極は人類共通の資産であり、環境の人為的変化は極力回避する。それは現代人類共通のコンセンサスである。このため法律を各国で制定し、出入りの位置や手段を厳しく制限している。
「自律掘削ロボットを考慮しています」
雪車町は応じた。すなわち、人間ではなくロボットに氷の下を探らせ、生命サンプルを持ち帰ろうというのである。深海や宇宙探検と同じ発想だ。
「ちゃんと帰って来るのか?氷床は数キロあるだろう」
「音波誘導を考えています。氷床にアクチュエータをあてがい、振動させます。その音源を探させて帰還する」
「下まで届くか?」
「氷床は氷床のゆえに下まで連続かと」
「中間に水の相を挟んでいるかも知れんぞ。どころか、そもそも架橋構造で中は空洞だろう?」
その心配は、氷床中の水や空気によって、誘導用の音波が遮断され、ロボットが探知不能になるのではないか。
「重力センサも積んでいますので、少なくとも上へは出て来るものと」
「動力は。一週間のミッション持つのか?」
「原子力電池」
その言葉に白髪の男性は目を剥き、老眼鏡をずらして雪車町を見た。
「お前、正気か」
原子力電池。名の通り核反応の熱エネルギを電力に変換する発電機構である。
自然に手を付けないという約束の地。その地に人類が強引に引き出した自然エネルギの極北、核物質を持ち込もうというのだ。
それは度を越した発想のようにも思える。但し、放射線さえ確実に遮断できれば、外界と一切の関わりを持たない自己完結型のエネルギ源ではある。実際に宇宙船では、前世紀のアポロを始め、太陽系の奥地以遠へ向かう探査衛星に搭載されている。
「心臓ペースメーカにも入っていたくらいですから」
雪車町はトドメを刺すように答えた。なお、核反応による熱は熱電変換素子≠ノよって電力として取り出す。
男性はメガネの上から呆れたように小さく笑った。
「姑息なヤツめ。言っておくが、何かあったら降って来るのはオレのところなんだからな」
しかし、判は押された。
2
北半球の季節では秋。
雪車町は南極へ向かう電磁推進観測船極光≠フ中にあった。
南極に到達するには暴風圏≠越える必要がある。名の通り常に嵐の領域である。まるで冒険物語の架空設定のようだが、現実に存在する。少し解説する。地球大気は赤道域が常に加熱、極地域が常に冷却である。このため、暖気は極へ、寒気は赤道へ向かおうとする流れが生じる。双方衝突するところが天気予報でおなじみの前線……気団同士の衝突の最「前線」……であり、暖気が寒気の上に昇って発生するのが低気圧(温帯低気圧)である。すなわち温帯低気圧は南北という面方向の対流が作り出す。なお、温帯低気圧に対する熱帯低気圧(台風)は、天地方向の対流が作り出す低気圧である。
また、寒暖衝突の力には、地球自転の効果(コリオリ力)が加わり、常時西から東へ向かう風を作り出し、地球を取り巻く。これが偏西風である。これは南北半球で差違なく生じる。
しかし、北極に暴風圏はない。これは北半球の場合、ヒマラヤなどの陸地山岳の影響により、前線帯や偏西風が常に大きく位置を変えているためである。水流の中に石を置くと、流れが乱れるのと同じである。対し、南半球は前線帯が全て海上となるため、安定して存在し、低気圧が並ぶことになる。当然低気圧の直下は嵐である。この低気圧が並ぶ帯域が暴風圏≠ナある。
であれば、超高空から航空機で入ればよい。すぐに思いつく案であろう。実際、他国には、基地直近に氷上滑走路を設けているところもある。なぜ自国が追随しないのか、雪車町は理由を知らない。最も、成層圏まで卓越するという暴風圏を抜ける困難、極低温による着氷のリスクなど、もっともらしい理由は幾つか浮かぶ。加えて、国際法上も、一冊の本になるほど、南極に関する規制は事細かく量が多い。
「お前大したヤツだな」
極光船長、大越(おおこし)が、艦橋で立つ雪車町の背後から声を掛けた。
観測船極光は、十二メートルを超す波頭を、まるで砂丘の踏破行のように、一つ一つ乗り越えて行く。その際の船の挙動は、前後左右に動く巨大なゆりかご。但し人が視界から予測する挙動や傾きを超越し、或いは逆らう。上昇と身構えると落下し、落下の最中に左右に首を振る。こうした人体感覚とのズレは一般に船酔いを引き起こす。しかし、雪車町は行く末の一点を見つめたまま、酔う気配すらも見せない。
船長は、過去に幾らかマスコミや物見遊山の芸能人を乗せたが、吐かないのは雪車町が初めてだと賞賛した。
「我々でも慣れることはないというのに。訓練でもしたか?ジェットコースターに百回乗るとか聞くが」
そんな馬鹿げたことをお前もした効果か?船長は問うた。
「いえ何も。ただ、この先に……未知の世界があるかと思うと、そのわき上がるような気持ちの前では、大したことでは」
雪車町は答えた。
「そうか、でもムリするな。これからもっと酷くなる」
「ありがとうございます」
船長は雪車町の肩に手をし、艦橋自席に腰を戻した。
やがて船長の言葉通り、嵐は次第に狂乱と言って良い様相を呈して行った。
吠える四十度、狂う五十度、叫ぶ六十度。
南極暴風圏を語るこの言葉の通り、砕氷機能を備えた電磁力推進船と言えど、暴君と化した波頭の合間にあっては、漂う木の葉も同然。ただ、電磁推進の副次作用として、船自身が海水に吸い付く力(※)を発生するため、船長によれば、
「波に対する位相遅れはペラ船より少ない」
という。つまり波に振り回されると言うよりは、積極的について行く。ちなみに、電磁推進とは、向かい合わせに配置した磁石を船底から海水中へ突き出し、海水に大電流を与え、磁石と電流との電磁力で海水を動かし、反作用で船を動かそうとするものだ。レールガンの弾丸を海水に置き換えたシステム、と書いた方が、判りやすい向きもあるかも知れぬ。なお、要する電力は宇宙空間の太陽電池発電衛星より電磁波で受け取る。
南極圏の夏の沈まぬ陽光が見えてきた。
暴風圏を抜ける。
※ 従ってこの海水吸着力は、電気工学的にはモータのトルクに相当する
3
基地での客人歓迎パーティが終わると、雪車町は無人探査ロボットの初期設定に入った。
ロボットと言っても、地底湖を行くので小型の潜水艦スタイルをしている。全長三〇センチ。太さは両の手指を回して軽く余るほど。重さ七キロ。口の悪い同僚はその外観と原子力電池を持っていることからリトル・ボーイ≠ニ言った。非常に不謹慎に聞こえたが、核能力に対する意識は、その視点を失ってはならない、とも思う。
電源を投入し、全機能の動作性を確認する。パソコンと接続し、動作指令を自動で与えて反応を見るのだ。画面に表示される状況進捗。PASS≠ニいう表示が幾十幾百、目にも止まらぬ早さで画面を上から下へ横切って行く。
エラーゼロ。オールクリア。
次は簡単に試運転をしたい。無論一通り出発前にしているが、GPSが正確に働くか、など、現地ならではという部分もある。
案内を頼んで基地の外へ出ることにする。基地は若干高地にあり、永久凍土に深々と土台を打ち込んで建てられている。但し大陸岩床までは達していない。あくまで氷上の楼閣=B最も、シベリアなど永久凍土を持つ土地では、一般的な工法ではある。
外へ通ずるハッチを開く。
銀行の大金庫を思わせる重々しい扉が開き、外気が身を包む。
どこまでも広がる緩やかな白い平原が雪車町を迎え、囲繞する。気温氷点下四度。天候快晴。深夜一時だが、白夜であり、太陽は地平線に張り付いてこちらを見ている。
「暑いねえ」
案内人の基地スタッフはそんな言い方をした。分厚く着込んだ雪車町に対して半袖であり、更には団扇をパタパタしている。身体が寒冷地順応をした結果だ。最も人類、特にモンゴロイドは、氷河期シベリアを生き抜いて来ており、寒さに対する耐性は遺伝子的に持ち合わせている、と言える。
「どのくらいで慣れますかね」
「身体のせいだけじゃない」
雪車町の問いにスタッフは団扇を止めて渋面になった。
「言わずと知れた温暖化さ」
その時、あたかも地震を思わせる地響き。
それは遠い大太鼓、否、遠雷か。
「氷床が割れた音だ。しょっちゅうさ。永久凍土が溶けてズルズル。上に載ってる板もペラペラ。僅かな荷重で割れてしまう。ここも気をつけた方がいい」
「ありがとうございます」
雪車町は応じ、基地の庭先≠ヨ足を踏み出した。
靴を下ろすと水が撥ね、飛沫が直ちに凍って白く靴に付着する。その様は春先昼下がりのスキー場の如し。薄く脆い水が白い木の葉のように漂い、ベシャベシャだ。
「白い大陸も今や形無しさ。ああ、そっちは危ない。昨日抜けたから氷が薄い。こっちの方がいい」
言われて場所を変える。案内を受け基地から少し歩く。緩斜面になっており、日陰であるためか、氷は小じっかりしている様子。
ロボットがGPS衛星との交信を成立させ、雪車町の腕時計タイプ通信機に座標を送って寄越す。南緯七七度少し。通信機自体の座標と一致。GPSは正確に動作し、通信機能も問題ない。
足元が揺れる。
「今度も氷で?」
「これは……」
基地スタッフの声を、雪車町は最後まで聞くことが出来なかった。
足の下、己れを支えていた盤石が消滅し、何もかもが浮き上がる。
落雷に似た轟音が同時に存在し、耳を圧した。
身体が下方へ動く。空気が風となり、びょうと音を立てて耳を切り裂く。
水中に没し、直ちに足をすくわれ、倒れる。
そのままローラーコースターさながら、身体が水の流れに乗って滑り落ちて行く。
氷板が割れ、板の下の流水に落ちたのだと雪車町は合点が行った。
「雪車町!雪車町さん……」
スタッフの声が奔流に遠くなる。なすすべなく雪車町は流れに取り込まれる。永久凍土の奥底へ向かうようで、視界は即座に暗くなり、闇に閉ざされ、五感は水流の音だけを捉える。
南極大陸の内奥であって、その水流を構成するのは氷の溶融水である。
身を切るような冷たさのはずであるが、防寒服のせいか冷たいという実感はすぐには無い。頭部が水面から出ているせいもあろう。
それは危険な姿勢だ。雪車町は気付いて仰臥し、極力姿勢を低く取る。この行先、生死は不明。だが、下手に頭を持ち上げて氷柱の類に衝突する必要もない。ソリ競技のリュージュ≠ヘこんな感じかと妙に客観的な認識がある。ただ、胸に原子力潜水艦抱えては滑らないだろうが。
しかし、それ以上何か考える時間を、この極南のウォータースライダーは与えてくれなかった。
再び身が宙に浮く。
真の暗闇なので何も判らないが、滝のような場所で空中に放り出されたのだ、とは想像が付いた。
びょうびょうと音を立て、空気が耳のそばを流れて行く。
重力による加速は感じない。滝と思ったが、流れ落ちる水音も聞こえず、相当に高度差のある落下であると判る。ならば足掻いても叫んでも無駄。自分はまぁ、助かるまい。
ただ、そうだとして、ここで死んだら、テクトニクスで南極がどこかへ動く頃、化石で発掘か。
それを発見するのは未来人か、進化したサルか、案外環境変化に強い昆虫の子孫か。
落下にブレーキが掛かった。
何故、と考える前に息苦しくなる。息がしにくい。但しそれは、空気が肺に入って来ない、というのではない。
身体が酸素を欲している系の苦しさではない。
吐き出せないのだ。さながら過換気症候群である。それと違うのは空気の方が肺へ勝手にどんどん入って来ること。肺より環境の方が気圧が高い。
派手な音を立てて雪車町は液体中に墜落する。ばっしゃーん≠セ。水だろう。ただ、水中でこうして意識があるので、水面に叩きつけられて血肉の塊、ではなく、生きて、しかもケガ無く水中に没した、と認識できる。
唐突に胸元の潜水艦が動き出す。水底サンプルを探すようにしてあるので、水を検知して動き始めたのであろう。
身体が潜水艦に引き寄せられる。電磁推進の生じる磁力は極めて強力であり、雪車町の身につけた何か金属を引きつけ、引きずって潜り始めたのだ。白色LED(発光ダイオード)の照明が点灯し、人類がかつて誰も見たことのない南極地底湖の様相を映し出す。
それはただひたすらな青く透明。さながらサファイアの中に入り込んだよう。
気付く。そうやって冷静に観察しながら生きている℃ゥ分に。
水中で苦もなく生きていられる自分。
ゴボゴボ泡を立てているわけではない。意識して肺の動きを追うと、呼吸のための伸縮をしている気配がない。
実は死んでいる?オレは意識だけの存在、霊魂≠チて奴になったか。
でも、だったら潜水艦の磁石に張り付くのはおかしい。
胸に手を当ててみるが、手袋や防寒服が分厚く、鼓動を感じることはできない。
とまれ、自分は生命を維持していると考えるのが妥当だろう。それこそ水中酸素濃度が恐ろしく濃く、肺が通常通りガス交換可能なのかも知れない。そもそも地球生命が生まれたのは海中だ。条件が揃えば水中でも生きられる何か≠ェ、人体に残っていてもおかしくない。
つまりオレは浦島太郎だ。雪車町は苦笑した。生きているカメならぬ、人工知能で生き物みたいな潜水艦に引きずられ、水底へ水底へ。太郎≠煖ーらくカメに掴まっているより他になかったのではあるまいか……妙な実感。
ただ、あれも長寿伝説の一種といえばそれだ。アジア広汎に似たような話があるというから、日本固有のものではあるまい。アジア人モンゴロイドの始祖に関わる話ならば、千年万年単位昔の話であっておかしくない。
であれば、他の長寿ものと出現時期を一にする。
どちらにせよ、こういう場所があること自体大きな発見だと雪車町は思った。最も、発表するにはここから出る必要があるが。このロボットカメ、外まで連れて行ってくれるか?
そのカメから反応。腕時計形通信機が赤いLEDをチカチカさせる。
そのランプは生命反応感知を意味する。
自分を拾ったか?
それとも、乙姫様か。
雪車町はカメの前照灯が照らす先に目を凝らす。
水の反射が白い以外特段見える物はない。
ただ、流れ≠ェ来ると頭髪で判じる。何かに押されて水に流れが生じ、自分と核ガメをぐいぐい圧迫してくる。
暗渠が生じた。
眼前が突如暗黒に閉ざされる。洞窟、否。
やはりオレは霊魂≠ノなって宇宙に彷徨い出、ブラックホールに出食わしたか。
吸引力が身に加わり、それこそブラックホールに引かれる星くずとなって暗渠へ一直線。その力は核ガメの推進力も、勿論雪車町自身の力でも抗う術無く、されるがまま。
すると渦にでも巻かれたか、強い回転が身体に加わり、雪車町は思わず核ガメを抱きしめる。というより、それ以外何も出来ない。
力任せとばかり振り回される。手足の指先が痛い。遠心力で血流が四肢末端に寄せ集められているのだろう。おかげで今の状態は生物学的に生存≠ェ正解と判じたが、それ以上何か考えるという行為が辛い。高速回転は意識を正常に保つのが困難であり、とりあえず上下の判別が付かない。
目を固く閉ざし、歯を食いしばって耐えるだけ。
経過時間の感覚は無い。ただ、次に意識が明確になったのは、回転が雪車町を解放した時。
また放り出された、そんな感覚と共に雪車町の思惟は復活した。
舞って落ちる。落ちたそこは、液体でも固体でもない。強いて言えば弾まないトランポリンか。とびきり柔らかいマット様の物が雪車町の身体を捉え、弾むことなく、怪我や痛みも与えず、そのまま迎える。
何かグニャグニャした感触の場所≠フ上にいることを雪車町は認識する。
そして、瞼の向こうに光を感じる。
目を開く。
想像を絶する光景が、雪車町の眼前にあった。
4
赤い空間であった。
変な話だが、思い出したのは幼い頃見た図鑑の挿絵。ベスビオ火山の噴火で真っ赤に染まるポンペイの想像図であった。
視界の赤い空間が小刻みに震えていた。
目が回っているのせいだと判った。余りに長時間の回転に晒されたが故に、常識的な目が回った≠通り越し、振動になったのだ。
完全に三半規管がどうにかなったようである。身を起こそうとするが足元がおぼつかない。自分で自分の足に蹴躓いて転んでしまう。
その拍子に核ガメが転がる。カメが自分の身から離れた。つまり電磁推進が停止している。取り敢えず、ここは水中ではない。
但し生命反応は変わらず捉えている。カメは反応の方向に雪車町の通信機が存在する場合、その反応は雪車町であるとして無視する旨プログラムされている。従って、尚動き続けているのは故障か、本当に何かいるのか。
見回してみる。しかし視界の震えがひどく、満足に合焦しない。
立てる自信がないので、四つんばいで核ガメを掴みに行く。ここが何であれパートナー≠ヘこいつだけ。
足音。
雪車町が反射的に動きを止めると、近づいて来たそちらも止まる。
人間≠フ物ではなかった。
目の前に結像したのは、ウロコと鈎爪。
爬虫類の趣。それこそカメかトカゲか。
次いで、同様にウロコと鈎爪を持った手≠ェ、核ガメを掴んで持ち上げる。
「あっ……」
雪車町は思わず声を出し、カメ持つ手≠フ先、手の主を見上げた。
異形の生命がそこに立って在った。
雪車町より頭一つ大きな体長を有する。オリーブグリーンのウロコに覆われた全身は大型のトカゲそのものであり、立ち姿の故に小型の肉食恐竜を思わせた。直立≠ヘ脚と太い尾の三点で支持され、大きな目を持つトカゲ頭が雪車町をじっと見下ろす。今にも取って食わんばかりと書けるが、その目には明確な知性を伺わせ、恐竜的な野蛮肉食のイメージはない。
知性持つ恐竜……ヴェロキラプトル類がそんな想像図で描かれていたと思い出す。ただ、目の前のこのトカゲ人≠ヘ雪車町の知る限り新種≠セ。尻尾の先端には牙を思わせる鋭いトゲを数本有する。尻尾の太さと想像される筋力からして、これで薙ぎ払われたら一溜まりもあるまい。
トカゲ人が突如振り返って走り出す。
核ガメを持ったまま逃げたのか、はたまた目的があるのか、一直線に走り出す。
ここがどこかはGPSが働かず判らない。だが、戻る方法がプログラムされているのは核ガメだけ。
追いかけない手はない。
「待てよ!」
通じているかはさておき、声は聞こえるようである。トカゲ人$Uり返って一瞥すると、CGアニメのティラノサウルスのように後ろ足二本で立ち、前傾姿勢を取り、尻尾をバランサとして左右上下に動かしつつ、走って行く。
それは人間に追いつける速度ではない。現生のトカゲで二足歩行というと、水上走行で有名なバシリスクなどがある。彼らは右足が沈む前に左足を出し、左足が沈む前に右足を出す≠実際やっている。その有様はスクリューが水面を叩くが如くであって。
同様の走行を人体サイズでやられたら圧倒的で当然。爬虫類は本来敏捷な狩人。悠然としているカメだけが別格なのだ。しかも足下はグニャグニャで耐震ジェルの中身の如く。
トカゲ人はあっという間に夕焼けじみた世界の向こうに姿を消した。
ただ、足跡はずっと続いている。
追えばよい。が、時間の猶予は少ないと雪車町はすぐに気付いた。
ジェル状なのですぐに復古してしまうのだ。
再び雪車町は足跡を追跡した。その穿たれた紅葉は見る間に輪郭がぼやけ、ジェルの大地に吸い込まれ、消えて行こうとする。
その速度は長時間の全力疾走を要求した。僅かであれ、この速度を落とすことは許されない。
だがしかし。
雪車町は足を取られて転倒した。勢いもあり身体が二転三転。ただ、大地≠フ構造の故に、痛くもないし怪我もない。
即座にグニャグニャ大地に両の手を突いて半身を起こす。見えたのは、転倒の衝撃が波紋≠描いてグニャグニャ大地に拡散して行く有様と、今まさに足跡が消えて行くフェードアウト。
及び。
ガシャガシャと音を立て、足跡の果てから接近してくる何か塊。
遠目には、まず金属製の巨大蜘蛛を思わせた。
それが、次には、中世の甲冑騎士の大集団。
確かに、人体の形状に近い、とは言えた。
ただ、人体が鎧を着ているのではない。
胴体に四肢を備え、直立に至るのは、地球生命の進化形態として普遍的。それが雪車町の感想。
異形の生命再び。別種。しかも。
金属光沢。
端的には鉄で出来た首無し人≠ナある。
ゴリラを思わせる体型バランスであり、重量と筋力≠フ程は相当な物と思わせる。その故か、この大地≠ノ、その身体≠ヘ、かなり沈み込んでいる。ただ、足の裏が極めて幅広の扁平足であり、そこでバランスを取れている。
鉄の生き物。
金属光沢を見せる生き物自体は珍しくない。昆虫の翅がそうであるし、それこそ爬虫類のウロコも光線状態によっては金属のように見える。
しかし、この生命体は純粋に金属で構成されているようである。但し人型ロボットのような構造ではなく、皮膚≠ノは可撓性電気ケーブルに見られる繊維の編み合わせが見て取れる。糸ならぬ金属線で編まれたウェットスーツ。そんな印象。
思わずしげしげ眺めてしまう。自分が彼らに包囲された状態であることは承知で、それが多分に身の危険を意味することは判っているが、知的好奇心の方が恐怖に勝る。
集団の一人が核ガメを持っていることに気付く。
これをトカゲ人が持って行き、応じて彼ら鉄人≠ニ書こうか、が、馳せ参じた。
核ガメに感じるところがあって、持ち主たる自分に興味を持った、と判断できるだろう。このカメは核の隔離の必要から内奥に鉛の塊を抱えている。彼ら鉄人が親和性≠感じても、別段不思議ではない。
だったらば。
自分が核ガメとコミュニケーション取れるところを見せれば、どんな反応を示すか。
腕のコントローラからカメのコンピュータを呼んでみる。
すると鉄人たちはカメを放り出し、一散にカメや雪車町から距離を取った。まるで磁石が反発する様に似ていた。
それはカメとの通信手段電波≠ェ、彼らに取って忌避すべき存在であることを容易に想起させた。
人間を含む地球生命の神経系は要するに生体電気信号回路である。彼ら鉄人も同じような仕組みであることは、鉄人の故に至極当然であろうし、また電磁波が生命活動に深く関与しているのも当然想定される。大体、地球生命に普遍の首≠ェ無いのであり、目も耳も必要ないなら、電磁波こそが情報・感覚の窓口と考えるのが妥当だろう。
つまり彼らの感覚器官は、レーダ≠ネのだ。
彼らのレーダの視線≠感じながら、雪車町は核ガメに近づく。視線の正体は恐らく自分にフォーカスされた電磁波であって、それが自分の脳で電流に置換されているのであろう。いつだったか落雷時に頭の中でパチパチと音が聞こえたことがある。原理は同じだ。
カメから通信パケットが返され、交信成立を示すLEDがチカチカ瞬く。コントローラに届いた情報によれば、カメは生命反応と、絶え間ない電磁パルスを感知しているという。この電磁パルスに基づき、原子力電池に異常がないか確認する旨、核ガメのコンピュータが要求している。ちなみにカメは原子力電池の異常検知を目的に電磁波の強さ(電界強度)をチェックしている。鉄人のレーダに対し、核のそれでは?と推論したわけだ。
問題ない、と雪車町はコントローラの操作で答えてやり、但し電磁波強度の表示を出しっぱなしにしておけ、と要求する。
腕コントローラの画面にはグラフが現れ、彼らが六百メガヘルツ、及び二四五〇メガヘルツの電波を出していると表示された。
二四五〇。電子レンジの周波数である。すなわち水を振動させる。これは当然、細胞に水を取り込んだ生体に露骨な変化を与える。もっと言えば武器となる。
六百は彼らの使う言語帯域であろう。証拠に自分とカメとの通信に対し、六百のグラフが都度激しく変動し、彼らは自分とカメとの間に更に距離を置いた。そして二四五〇は強度がゼロになった。
比して頭に直接感じた視線≠フ感じが消えた。
それは攻撃の意図はない、と捉えていいのか。
グラフの反応が、どっちの周波数帯ともおとなしくなった。
すると彼らが動いた。カメ持った雪車町を包囲するようにしていたが、左右に下がり、雪車町の前方、彼らが走ってきた方向へ道を開いた。
二四五〇がリズミカルにパルスを出す。頭の中でチッチッ、チリチリという感じの音になる。地球生命でリズムを持つのは、明らかにコミュニケーションを意図する。
道を開けたことと、リズムを持つ生体感応電波で出したことからして、開けたそこへ進路を取って進めという意味であろう。
雪車町は少しずつ道へと歩き出す。捨て猫を脅かさずに拾う時のような慎重さである。これは地球生命の基本として急≠ネ動きは攻撃と逃亡を意味することによる。現代人はいつも急いでいる。それは攻撃か逃亡か。
対し、彼らは特段大げさな反応を動作には出さない。ただ、二四五〇が少しレベルを上げた。一挙手一投足を固唾を呑んで見守る、そんな気配である。攻撃一転、想定外の動作を怖がっている、ようにも思える。
そこで雪車町は、二四五〇で送られたパルスのリズムを、そのまま六百で作って送り返すようカメに指示した。
果たして六百は大いに乱れた。まるで愛の告白を受けた動揺の心拍を思わせた。
新しい周波数がグラフに現れた。但しメガヘルツに対しずっと周波数が低い。百から三百キロヘルツの間で断続的にパルスを出している。
この状態に核ガメはイルカ類を検知した≠ニ言って寄越した。
イルカ。高い知能を有する海生哺乳類。超音波を発して会話≠キることが知られている。
単純にイルカそのものが生息しているとは思わない。ここは、自分がこうして人間として立って歩ける陸地≠ナある。ただ、海生哺乳類は、陸生哺乳類が海中へ生息域を広げた進化である。
「とりあえず、行けば何かありそうだな」
雪車町はひとりごち、鉄人の道を行く速度を上げた。歩く雪車町の後ろを、少し距離を取って鉄人達が付いてくる。彼らは二四五〇で雪車町とコミュニケーションが取れると理解した。それは雪車町も同意。彼らは雪車町の進路がずれると強いパルスを寄越し、一致していればパルスを弱めた。こうして雪車町は行き先を誘導された。
グニャグニャの大地≠誘導され、歩くこと一〇分。
5
ここが竜宮城≠ナあるというのが、雪車町にとって最も単純で理解しやすい説明であった。
石積みの建造物。
人類が古来生成してきた石の建築は大別三種。サイズ種類バラバラの石を集めて積んだもの。定型のサイズに切り出して積んだもの。定型のサイズの石を人造したもの。レンガ・コンクリの類は三番目だ。エジプトのピラミッドは二番目だ。
そして眼前の竜宮城≠ヘ文句なく一番目だ。
簡素な二階構造である。砂利を敷き、板状の石を並べ、その上に主として円柱形状の石を環状に並べて柱とし、板状の石を被せ、更にその上のフロアを構成。
入り口≠ニ思われる横長に開いた口には、先のトカゲ人の姿が二名見える。門番であろうか、槍状の白い棒を所持している。
雪車町に同行してきた鉄人の一人がトカゲ人と向かい合う。電波モニターが盛んに動いているので、それが二人の会話≠ニ知れる。人間が端から見れば、目と目で通じ合う。とでもなろうか。鉄人に頭≠ヘないが。
電波モニターの二百キロヘルツがポンと跳ね上がった。
恐れか敬意か、トカゲ人が入り口§eで一歩退くような動き。
第三の生命体。
人魚、それが雪車町の第一印象。
白く、大きな頭部を有し、知性を帯びた目を持つ。
但し伝説のそれと違い、人体と魚の合体ではない。
イルカそのものである。それも人に懐き、観客の目線を意識する水族館のイルカだ。
驚くべきは宙に浮かんだ状態であること。
ここは水中ではない。しかし、水中と同じ姿勢でそこにいる。
イルカは雪車町に対して口を開き、次いで口を閉じて寄越した。少し遅れて、雪車町の顔に気流が届いた。
重くよどんだ気流。
息を吹きかけて寄越したと考えれば妥当なようだ。言うなれば風の言葉か。
イルカ・クジラ類は口を巧みに使って水中に自由に泡≠作る。あまつさえは円周状に動きながら泡を連続的に生成し、エアカーテンならぬバブルカーテンを作って、その中に魚を追い込んで一網打尽にするなどという技まで持っている。バブルネットフィーディングとか言う。要するに人間の口笛のように彼らは泡を作り、使う。コミュニケーションに用いて何ら不自然ではない。
ならば。雪車町は口から息を吹いて返そうとし、肺の空気をどうしても吐き出せないことに気付いた。肺が動かない。横隔膜に物を言わせようにも、意識して筋肉に力を込めても、胸郭が反応しない。
思い出す。先ほど、空気が無理矢理入ってきた気がしたが、その状態がまだ続いているのか。
それでも、自分は、生きているのか。
キイ、とか、擬音化するならそんな声を、イルカの姫君が寄越した。……メスかどうかは不明だが、しなやかな外見がもたらすイメージは女性であり姫としておく。
イルカの姫君は再度雪車町に息を吹くと、くるりと向きを変え、城の入り口付近へ向かい、中空を泳ぎ回った=Bイルカの姿で空中に浮かんで動くので、そのように表現せざるを得ない。
イルカの姫君が雪車町を見て再度キイと言い、程なく鉄人から二四五〇のパルス。
経緯から、姫君の元へ行け、ということだろう。
イルカの姫君に歩み寄り、果たして雪車町は瞠目した。
石を並べて描いた人間の顔。
イルカの姫君は顔の石に向かって息を一吹き。それで石がころりと動く。
どうやら泳ぎ回って見えたのは、器用にも息を吹いて石を動かし、この顔を描いていたらしい。やはり外見通りイルカの系統の生命であろう。
そして重要なことは、この絵は、姫君が過去人間という生命体を見て知っており、自分も同族かと尋ねているのではないか。
雪車町は転がる小石を集め、人の顔の傍らに並べ始めた。
描いたのは横から見たイルカ。対し姫君はキイキイキイ。
「い・る・か」
雪車町は石のイルカと姫君を交互に指さし、声を出した。
キイキイキイと返してくる。ただ、トーンとイントネーションは雪車町の声を真似している。声真似が下手なオウムか、人間のつもりになったサルか。
次は自分……雪車町が人の顔を指さす前に、イルカの姫君がそこに息をした。
キイキイキイ。
イルカと同じく三文字か。
人間を意味する語は三文字として認識しているのか。
過去に出会った人類は何語で自らを語ったか。……判ればコミュニケーションの手がかりが掴めるが。
日本語は強力だとその瞬間雪車町は思った。表音文字五十で言葉が構成できる。
一文字ずつ口に出して、イエスノーを答えてもらえばいい。
問題は意思表示の方法。
雪車町は再びイルカを指さす。
「ま・な・てぃ・い」
発音も文字数も変えてみる。
イルカ姫はキューと低いトーンで長鳴きした。
「い・る・か」
高いトーンでキイと一鳴き。
是がキイで否がキューか。
人の顔を指さす。キイキイキイ。同じ事を繰り返す恐らくは、イルカ姫も自分のコトバ≠理解して欲しいということだろう。
一音ずつ反応を見る。あ・い・う・え……
試みた結果は簡単に得られた。イルカが是と返したのは「ア・オ・オ」であった。しかしそれが人を意味する言語雪車町は知らない。
ただ、この方法でコミュニケーションはある程度取れそうである。雪車町はイルカを指さす。
「い・る・か」
キイキイキイ。
次に自分を指さし。
「あ・お・お」
キイキイキイ。
イルカの姫は喜びの表現かくるくる踊るように泳いだ。宙に浮いて泳ぐイルカ。或いは自分が水中にいるのか。
不思議な光景だが、最早慣れた。慣れた自分が不思議だが。
雰囲気の変化を感じたのはその時である。
6
例の、脳に直接来る電波。
鉄人達の動きがにわかに慌ただしくなる。明らかに何か異変を察知し、警戒している。
大地≠ノ感じる微震動。
地震か。南極は安定陸塊のはずだが。それとも噂に聞く氷床溶解リバウンドか=B
鉄人達が雪車町らの前に進み出、相互の腕を絡め合い、横に隊列を組んでズラリと並ぶ。
生体防塁状態である。その背後にトカゲ人がやはり並んで、トゲ付きの尻尾を高く掲げ、牙を剥き出す。
この陣形は雪車町に古代ローマの重装歩兵、ファランクスを思わせた。そして、この光景を見て思うに、彼らがこの陣形を組むのに慣れており、それぞれ攻撃と防御を司っているのだと知れる。
つまり、これから起こる事象は、この空間では日常茶飯事。
まず震動が大きくなる。
次いで背後の竜宮城≠ェガタガタと音を立てて揺れ、組み合わされた石同士が擦れ、軋んで悲鳴を上げる。
次の瞬間。
恐らく、雪車町がここへ到着する時もそうだったのだろう、爆風にも似た冷たい気流が正面から叩き付ける。
吹き飛ばされる……雪車町は思ったが、すぐにウロコの生えた太い腕に強く拘束された。トカゲ人が雪車町を背後から抱え込んだのであった。
大きく重い音が響いた。
何かが落下した音のようであった。
程なく、落下による地面の波紋≠ナあろう。柔らかい地面≠ェ波打って高速で接近してくる。
それは隕石落下で生じた津波、そんなイメージ。
その波頭。
横たわった体を打ち振るう大きな生命体を雪車町は確認した。
巨大な魚。但し、普通の魚類ではない。
胴と尾の造作、ヒレの配置は一般的な魚類同様である。ただその身体はカブトガニの殻のように硬い印象であり、更に口が違う。エイや、ヤツメウナギの口を思わせる歯の生えた穴≠ナある。
「まさか……」
雪車町は逃げ腰になりながら呟いた。波頭に弄ばれているのか、ゴロゴロ転がりながら送らてくる、それ≠ヘ、小さく見積もっても観光バスのサイズ。
甲冑魚。億年単位の過去に生きた巨大な化石魚類。
甲冑魚は身体で波頭を叩いて跳ね、その口を開いて雪車町達へ向けて飛び込んできた。
明らかに食う≠スめであった。
対しファランクス≠ェ一散に走り出す。雪車町より大柄な連中だが、この巨大な敵には比ぶべくもない。雪車町は反射的に逃走の姿勢を取ったが、把握しているトカゲ人の腕がそれを許可しない。それは自信の表れか、
はたまたいけにえ≠ゥ。
走り出した鉄人達が集まって相互に上に乗り、大きな鉄ボールになった。
鉄球が大地≠トランポリンの如く用い、弾んで甲冑魚の口に飛び込む。
文字通りの鉄砲玉を食らわせたのだと雪車町は合点が行った。
甲冑魚は中空で鉄の球を受け、のけぞってひっくり返る。
しかしそれは解決を意味しない。裏返しのまま、のたうち、暴れる。猛悪たる歯牙が口腔内の鉄としのぎを削り、耳に痛い音が空間を埋め尽くす。
タンカーの舵のような尾鰭が横から飛んできた。
トカゲ人達がタイミングを合わせてトゲ植わる尾を打ち振り、巨大な鰭を迎え撃つ。
鋭利なトゲが多数の銛と化し、甲冑魚の鰭に突き刺さる。
攻撃されるや甲冑魚は尾鰭を逆方へ振った。生じた穴から漿液が散り、また幾人かのトカゲ人は尾が刺さったまま、尾鰭に持って行かれた。
イルカの姫君が何事か声を出し、雪車町を抱えたトカゲ人が後退を始める。
その時、雪車町は裏返しの甲冑魚と目≠合わせた。
肉食、狩猟者の目である。この生命体の視覚がどの程度のレベルか雪車町は知らぬ。ただ恐らく、今目の前にいるこれは、現生の猛獣同様、目で獲物を見ている。ある程度の知性がある
ならば。
雪車町はカメから二四五〇を発生させた。
背後トカゲ人を見上げると、彼≠ェ見下ろしてくる。
そこで雪車町はまず甲冑魚を指さし、次いで雪車町自身の目を指さし、カメを投げる動作をしてみせる。
すると。
トカゲ人はどう判断したか判らぬが、雪車町を抱え、甲冑魚めがけ走り出した。事態に振り返った鉄人の一人に六〇〇のパルスを何事か放つ。
すると鉄人は雪車町達の先頭に立ち、まるで切り込むように甲冑魚の目玉めがけて突進を開始する。
それはトカゲ人が依頼したのか。鉄人が自ら意識して前に出たのか。
目に向かってくる彼らを見、尾鰭が彼らを叩きに来た。特殊な攻撃であると感じたか。
迫り来る尾鰭に向かい、鉄人が地≠蹴り、跳ね上がった鉄球よろしく体当たり。
それは、雪車町と甲冑魚の間を遮るものが消えたことを意味し、
甲冑魚の視線が攻撃を受けた尾鰭の方向へ向いたことを意味した。
甲冑魚が隙を作った。雪車町は反射的に核ガメを甲冑魚の目に向け投擲した。
氷床内推進モード……すなわち、二四五〇メガで氷を溶かす。
雪車町は原子力電子レンジを甲冑魚の目玉に放り込んだ。
核ガメが眼球に突き刺さり、直ちに奥深くへ潜り込んで行く。
まるで感電による硬直であった。
二四五〇メガは眼球を溶解させ、直結している甲冑魚の中枢神経に達し、運動能力を奪ったのだと推定できた。
程なく、尾鰭がドウと音を立てて横たわり、古代魚の巨体は力を失った。核ガメから信号が来、生命反応の消失を伝える。
つまり、甲冑魚は死んだ。
すると。
ほぼ時を同じくして、雪車町を抱えていたトカゲ人が雪車町を放り出すように手放し、甲冑魚へ向かって走り出す。
「……」
それはトカゲ人の声であったようだ。文字で置き換えにくい短い音を数音発し、背後にいた他のトカゲ人達が同様に甲冑魚に向かって走り出し、とりつき、よじ登り。
その恐竜起源であろうか、鋭い歯の並ぶ口を開いて甲冑魚にいきなり食い付く。
餌に群がる肉食小竜。
彼らはやはり爬虫類である。それが雪車町の結論。
程なく、トカゲ人が胃袋を食い破って穴を開け、飛び込んでいった鉄人達が次々出てきた。まるで赤ずきんの大団円だ。核ガメも過程で拾われ、雪車町の手に戻った。
鉄人達は甲冑魚の血であろうか朱にまみれていた。
いささかグロテスクかも知れないが、以下その後状況をそのまま書く。
トカゲ人達は甲冑魚をあらかた食ってしまった。
ただ、目玉≠セけは手を付けず、数人で抱えて竜宮城≠ヨと運んで行った。
続いて、殆ど骨格だけになった魚に鉄人が集まり始める。現れた魚の骨を折り、中に腕≠差し込む。骨髄をどうにかするつもりか。
見ていると、金属光沢を帯びている腕が、白っぽく染まり始めた。
毛細管現象である。腕の表皮≠なす金属繊維にこの原理が働き、骨髄成分を吸い上げているのだ。
それが口≠持たない彼ら鉄人の食事のようであった。しかも、動物の骨髄は主として造血を賄う。すなわちヘモグロビンの元である鉄分を多く含む。血が赤いのは鉄分が酸素と結合して錆びた$Fである。
鉄人が鉄を欲しがる……理に適っているではないか。
その時、雪車町の背後から風。但し、何かが来る暴風ではない。
イルカの姫君。
キイキイキイと鳴く。そのイントネーションは先ほどのあ・お・お=c…つまり雪車町を呼んでいる。
雪車町は振り返り「い・る・か」
姫君の傍らにはトカゲ人の姿があり、その手のひらには肉の塊一つ。
彼らが食い尽くした甲冑魚の魚肉=B
イルカの姫君は手のような胸びれを動かし、口元に運ぶような仕草を見せた。
食え=B
雪車町はそう解釈し、トカゲ人の手から肉片を一つまみ。
億年単位の古代魚を食った現代人は……シーラカンスは食用だったか。
逆に言えば同様に食っても構わない♂ツ能性が高い。
口に運んでみる。
歯ごたえは身の締まったそれこそ刺身である。脂分がまとわり、血の味がする。決して旨くはないが、食って初めて空腹だったという認識が起こり、もう一口二口。
イルカの姫に笑顔を作って頷いてみせる。
そこで雪車町は思い立ち、先ほどの石ころを手にして食べる仕草をし、しかめっ面で首を左右に振った。
次々魚肉を食べて笑顔。
石を口にして渋面。
これで肯定≠ニ否定≠ェ伝わったのではないか。
すると。
食べて笑顔に対して、キイキイキイ。
石で渋面に対してキューン。
笑顔だけでキイキイキイ。渋面だけでキューン。
伝わった。この辺の知能はイルカそのものか。
「そうそう」
雪車町は思わず言い、それこそ笑みを見せた。姫君は先ほどと同じく鳴きながらくるくる回る。
ひとしきり回ると、雪車町の背後から空気の塊をぶつける。合わせて、鉄人が最初と同じく、脳に直接来るパルスを寄越す。
行け≠フ意であろう。雪車町は脳のパルスと姫君の吐息に案内され、城へ向かった。
7
イルカは高度な知能を備えるが、文明を築くほどではない。海という環境で充分暮らして行ける以上、住環境と食性を改する必要は無いのである。そもそも、人間が文明を携えたのは、狩猟採集だけでは生活が立ち行かなくなり、応じた工夫を繰り返した結果だ。文明は人類の特徴ではあるが、地球の恵みだけで生活出来なくなった時点で、地球生命の範疇からは外れたのかもしれない。
従ってイルカがこの城≠作り、中に住んでいるという時点で、ここは自然条件だけでは生活出来ない環境と判断できる。また、同居人たるトカゲ人・鉄人の存在は、棲み分けの必要性という点で文明的℃v惟の発露を惹起した可能性はある。例えば、トカゲ人は恐竜を彷彿させる獰猛な肉食であって、これだけの数がいれば、組織的にイルカを捕獲して食うという行動は取るだろう。しかし実際にはトカゲ人の誰一人イルカ姫に手を出す気配はない。超音波コミュニケーションの賜物と思うが、そのコミュニケーション能力の獲得動機は、捕食行動の回避だった、という可能性は充分にある。
ただ。そこまではダーウィン的に考えることは出来ても、住居の獲得、更に異種同居に至ったプロセスが理解出来ない。実際イルカは巣を作らない。誕生から死亡まで休まず回遊しており、睡眠も泳ぎながら脳の半分ずつという適応ぶりだ。巣という概念を持つならばトカゲ人であろう。イルカと鉄人は巣を学習≠オたのか。
雪車町は考えながら城に入った。
そこは当然、あるいは意に反してとなるか、人間の住居とは構造が異なる。視界を占するその様に立ち止まって見回す。竹の節のような間接部を備えた柱がぐるりと立錐し、その節々は梁で結ばれ水平のリングを構成する。環形の梁である。環形梁は柱の高さ方向に一定間隔で配され、全体として吹き抜け≠フような空間を構成する。空間の壁は赤いキャンバス状の生地で覆われており、さながら巨大な赤ちょうちん≠フ中に入り込んだような印象を受ける。
「…」
イルカの姫が声を出し、トカゲ人が数名、奥手より出てくる。彼らは石板に例の古代魚の肉を載せている。まるで料理を運んできた女将さんである。
ハッと雪車町は気付く。それは人間の食に関する慣習を知っていることになる。更に言えば食事を持って来る≠フは一般に歓迎か保護の意思表示(裏切り底意を除けば)である。イルカ姫の描いた石の絵といい、この連中が過去に人間と出会い、歓待した経験があることはまず間違いない。或いは歓待を受けた側か。どちらにせよ、自分に対して好意的なのは確かであろう。
それこそ、トカゲ人たちに集団で襲われれば、核ガメから電波出したところでひとたまりもないからだ。彼らは電波におののいて自分に手を出さないというより、過去の経験から敵視(捕食対象視)していないという方が恐らく正しい。
状況を整理する。イルカとトカゲ人の間は超音波である。要するに声である。人間に聞こえないだけ。
鉄人は音波を受け取り、自らは電波を相手の脳に直接送る。そもそも脳内では細胞間で電気パルスが伝達され、情報が行き交うが、このパルスを電波(強い脳波)として直接送り込む。受信≠オた脳内では音の情報として処理され、聞こえる。これは前にも触れたが、雷の稲光に同期して(つまり、ゴロゴロという音より先に)パチパチという音を聞いたり、百キロ上空であるはずの流星に同期して音が聞こえる現象(爆鳴火球)と同じである。そこへ自分が核ガメ経由で電波によるアプローチを試みたため、彼らは驚いたのである。
視線を感じ、雪車町は顔を上げる。
イルカの姫とトカゲ人たちが自分を見ている。
イルカ姫が「キューン」と声を出す。先ほど石食べて渋面、の際に出した声である。
食べながら考え込んでいる自分を見て不味いのか?≠ニ尋ねたのだろうか。
雪車町は核ガメを操作し、記録されているであろうイルカの姫の声を呼び出す。
肯定の意である「キイキイキイ」を聞かせ、笑顔を見せる。
イルカの姫も同じ声で返す。
姫は同時に超音波の声≠出したようである。カメを通してトカゲ人とのやり取りした波形が表示される。
その波形を記録させ、イルカ姫が発した声に肯定≠ニ意味づけする。
トカゲ人は雪車町に目を向け、口をあけ、犬のあくびに似た音を発した。
イルカ姫との会話に基づいての問いかけと見られる。雪車町は記憶させた超音波の肯定≠返してみた。
何を訊かれたか判らぬが、とりあえずイエスと答えた、わけである。これにより、反応しだいで何を言ったかおおよその傾向が掴めよう。
果たしてトカゲ人は動いた。奥の方へ向かい、赤い幕の向こうに姿を消す。どうやら舞台の袖のように幕が折り重なり、出入りが出来るようである。
去れ、行け、そんなニュアンスで伝わったのか。いや、強制に近い意図を持つのは二四五〇メガヘルツではなかったか。
再び動きがあり、トカゲ人は再度魚肉を手にして戻ってきた。肯定≠フ意図が正確に伝わった、のであるなら、トカゲ人の問いかけはお代わり≠フ要求であった可能性が高い。
実際まだ食べられることもあったが、確認のため、出されたお代わりも全て平らげ、今度は否定してみる。
トカゲ人は石板の皿を下げて奥手へ向かった。これより、彼らの問いかけは、必要か?程度で記憶させておけば、外れではあるまい。
「(必要か?)」
トカゲ人は再び訊いてきた。そしてごろりと横たわってみせた。
単純に捉えれば横たわる必要があるか…寝るか?
食ったら寝るか?…それは過去訪れたであろう人間あ・お・お≠ェそのように行動したのであろう。
意識しなかった眠気は、そう言われた途端に訪れたりするもの。最も、腕時計は氷が割れてより六時間の経過を教えている。その間生死の境を彷徨い、異境≠ノ放り出されてという極度の緊張状態にあった。疲労が無いのは嘘だろう。
そこで物を食わせてもらい、寝てもいいと言われた。安心に似た心理が芽生えたのは確かである。
「ああ、そうさせてもらう」
雪車町は躊躇わずそう答え、超音波の肯定を発する。
「(来い)」
トカゲ人に言われて付いて行くと、案内役のその彼は、円筒形をなす壁面で立ち止まり。
唐突に壁面をよじ登るしぐさを見せ、少し登って、すぐに飛び降りた。
「(行け)」
来い、と同じ発音だが、指定された場所に行けという意味の語は全て同じなのであろう。
眠りたければ、この城の壁をよじ登れ?
雪車町は見上げたが、洞窟の中を覗くようで、暗闇に閉ざされ、何も見えない。
しかし既視感がある。雪車町は思い出し、ああ、と、思わず声に出す。
それは幼い記憶。窓のカーテンにくるまって、ぐるぐる回って身動き取れなくなり、見上げたその眺め。吸い込まれるような、入ってみたくなるような、渦の光景。
ただ、あの日の渦は、手指を伸ばせばそこで行き止まりであったが。
今、目の前にある渦は、伸ばした指先に何も触れず、そのまま奥へ差し込める。
まるでブラックホールの深奥にあると言われる抜け道、ワームホール≠思わせる。
手を伸ばして閉ざされたあの日の現実。
目の前、氷の大陸大深度地下で見ているたった今は、そこに穴が開いている。
両者の差は、それこそブラックホールがそうであるように、境界線があるか否か。
ワームホールへ進むことは、雪車町に勇気を要求した。そこで一つ明らかなのは、過去ここに来たらしいあ・お・お℃≠熬へ入ったのだろうということ。彼が歩んだ道であれば。
雪車町は円筒の内側を登り始めた。円筒内壁はキャンバス地のようだ、と書いたが、手触りもその印象を裏打ちした。ひんやりしていて、ゴワゴワ・ザラザラである。肋骨構造が体のいい梯子であるが、縄梯子的にゆらゆら動き、安定感はない。
雪車町は穴の中に思い切りよく腕を差し込み、手にした凸部を掴み、身を引き上げる。
穴の内側にも肋骨構造が存在し、手がかり足がかりに問題はない。少々、雪車町の体格に比して狭隘な印象だが、内壁に進展性があるためか、無理に身体をねじ込むほどではなかった。
肩の部分が通過すると、進展した壁が収縮力を発揮したか、身体がするりと、文字通り飲み込まれた。
ワームホールの向こう側。
漆黒の世界である。目を開いても閉じても、状況が変化しない。
「ライトオン」
雪車町は懐の核ガメに指示した。
防寒着の中が明るくなり、ジッパーを開いてカメを取り出す。
照らされた光景は、下水道の中に迷い込んだ映画の犯人の如し。巨大なパイプの中に自分があり、天井部には様々な配管が集中している。
この配管は人工物か。反町は手を伸ばして触れようとし、足下のそれに気付く。
人の顔、否、人の頭の骨。
人骨ひとそろい。
骨の配置に乱れは見られず、ボロボロになった布が覆い被さっている。衣服を着たままうつぶせの状態で死亡し、白骨化したと推定できる。
これはあ・お・お℃≠ナはないのか。
すぐに生じた戦慄はトカゲ人に捕食されたのではないかという推論だ。しかし、古代魚に対する彼らの食いっぷり≠見る限り、捕食されたのであればこの骨は散乱し、折れて傷付いたりなどし、衣服は跡形もないであろう。それに、そもそも自分が食われずにここにいる。如何に電子レンジ電波に弱いと言っても、あれだけの集団が全員遁走するとは思えない。すなわち、彼らに人間を捕食する気はない。転じて、この白骨氏も食われたわけではない。
しからば、氏は何故ここで死んだか。
別の捕食者がいるのか。
生け贄。雪車町が浮かべた概念はそれである。たらふく食わせて捧げ物。おとぎ話の世界ではある。しかし世界中に因習はあった。
反射的に雪車町は核ガメのレーダを起動する。くるりと身体を一回転させ、空間の前後左右を走査。無感。
されど横や背後のみとは限るまい。雪車町は核ガメを天井配管≠ヨ向ける。
視界を何かが横切る。
さながらフィルムの送り装置が壊れた映画である。フラッシュ状の映像が視界に割り込んでは消える。を繰り返す。
目の前を何かが行き来し横切っているのか。雪車町は姿勢を低くし、視線を変え、腕をかざして目を覆った。
しかし、それでも見える。
目を覆っても尚見える。
すなわち、この映像は脳の視覚中枢に直接送り込まれている。
言葉で書けば赤一色。陽光に向かい目を閉じた時の瞼の裏の有様に似て。
支離滅裂。
これを見続ければ気が狂うことは、考えるまでもない。この白骨氏はそうして狂乱に陥り、死に至ったのではあるまいか。
比して二十一世紀に生きる自分、この怪現象を止められるか。
脳に直接、であれば、電磁波によるアプローチであろう。核ガメのレーダが何か拾っているはずである。ディスプレイに波形を出させれば何か判る。
その時。
「あっ」
雪車町は思わず声を発した。
逃げまどう人々の姿を見たような気がしたのだ。
しかし一瞬で消える。そこで目を閉じて残像を追う。すると別の映像が視界に広がった。
それは斜面を流れ下り、山裾に広がる溶岩。
噴煙であろうか、分厚い雲が陽光を遮り空を覆い、その雲を森林火災が下から赤く照らす。
ただ、確信が持てない。ハッキリとそう見えたわけではないからだ。脳には類推で認識しようとする働きがある。記憶の中からイメージを拾い上げようとしただけかも知れない。
その合間合間に判ったこと。核ガメのディスプレイに波形有り。
どこから来ている。
変な表現だが、意図的にまばたきを繰り返しながら何らかの行動をするのは困難であろう。現在雪車町が行おうとしているのは、そのまばたきの都度都度に種々の画像を見せられながら、核ガメのレーダを捜査しようというものだ。
再度走査を行う。モードを切り替える。
しかしそこで画像は消え、波形の検出もされなくなった。
核ガメの動作に関連があるのか。
レーダをもう一度起動してみる。映像、波形共に無し。
やはり勘違いか。
最前と同じ動作を繰り返してみる。走査モードにしてぐるりと回転。最後に頭の上へ。
入り乱れる数多の画像。
レーダをオフにすると画像は止まる。
今度こそ間違いなかった。カメを頭の上に向けると画像が送り込まれるのだ。
そして、画像情報は、人間の脳内と全く同じ規格≠フ信号。
それを脳に直接電波で飛ばす。
コンピュータが存在するというのが端的に理解しやすい推論。
ただ、ここの住人£Bは、コミュニケーションの手段として電磁波を常用する。この世界で電磁波は非生物を意味しない。
疑念が沸く。この白骨氏は本当に普通の$l間か。
雪車町は絆されるように氏のボロボロ衣服≠取り除いた。
現れたのは変哲のない人間の骨格……
のみにあらず。
剣。
骨盤の脇にあり、紐とおぼしき残骸によって結ばれてある。腰に携えていたのであろう。衣服ボロボロになるこの環境で、錆びることなく、白銀の輝きを保ち続けた剣。
超古代文明の、などというフレーズも頭に浮かんだが、手にとってオカルトの用はないと理解できた。雪の結晶を写し取ったような、亀甲状の幾何学模様が見えたからだ。
ウィドマン・ステッテン模様。すなわち鉄性隕石、隕鉄を鍛えた剣である。砂鉄精錬が始まる以前に作られた代物であると言え、天から降ってきた金属の剣は文字通り神からの賜り物。無論、それを持つ者は大きな使命を託された故。
白骨氏はそんな使命を負い、この剣を与えられ、ここへたどり着き、死んだ。
古代何処の地の人よ、何故に彼をここへ遣わした。
生命反応。
但し、核ガメの探知した存在位置は頭の上ではなく、この目の前の白骨氏。
骸骨戦士が活躍するのはギリシャ神話。
ぞくっと背中が震える。まさかあの神話。
雪車町はその時、彼が単なる骨であることを確認するつもりで手を伸ばした。
感触には弾力性があった。
カルシウム分が何らかの反応で軟化したのか。
否。指先は骨そのものに触れていない。骨の周辺をなぞっている。
透明な何かがそこにある。それはまるでクラゲのように、そう、皮膚から筋肉までの組織がクラゲのように透明化している。或いは、骨の上に新たに成長したのか。
どちらにせよこの状態で生きて≠「る。骨はクラゲ状の組織を通して見えているだけ。
隕鉄の剣持つ手に力が入る。
うなじに触れる冷たい物。
それこそクラゲの触手を思わせる。雪車町は電撃を喰らったように飛び退こうとし、同時に隕鉄の剣を振るおうとし、
気付いた。
ひとつ、ジャンプするのに、剣を振るのに、非常な抵抗を受けること。
まるでプールの中で級友と遊んだ夏の日のように。
そしてもうひとつ。うなじに触れたとおぼしき物はヘビかロープに形容される白い物体であり、それはぐるりと足元を巡って、その、クラゲ化人体の臀部から伸びていること。
白いロープが顔に絡みついた。膜組織の感触であり、内部は漿液で満たされ、僅かに震えている。
物体に視界を奪われる。万事休す……否。
あの映像が見える。逃げ惑う人々であり、振り返り振り返りする背後から赤い流体が追いかける。
人々の上方を赤い物体が次々煙を噴き飛んで行く。
大地が引き裂かれる。
人々が裂け目に落ちて行く。
さながら映画である。しかし、これは、実際には、地質年代の天変地異の記憶ではないのか。
雪車町の認識に答えるように、感情≠ェ雪車町の心理を捉えた。
8
悲しみの感情であった。惹起した事象の悲惨な結果に衝撃を受け、後悔している。
雪車町はそれをまるで我が事のように、自分が自体を惹起した当人であるかのような感慨を持って受け止めた。言葉に起こすならば『オレは何ということをしてしまったんだ』。
後悔の念がそこへ至った過去の記憶を呼びに行く。
赤い世界で暴竜と化し、身をくねらせ大きくのたうつ存在があった。形状の類似から竜と仮称する。赤い世界は前述の脳に勝手に飛び込んできた赤一色の世界≠ニ同一であるらしい。
この思考を紡ぐ存在が、竜であると同時に、竜の記憶をたぐる雪車町自身でもあることを雪車町は認識した。まるで自分の意志が即座に映画に作られ、それを自身で見ているかのようだ。
竜が一気に上昇の動きを見せた。
真っ赤な漏斗≠フ中に入り込むような感覚が雪車町を捉える。この地に落ちる時、ウォータースライダーのような感覚に囚われたが、今度は逆だ。ローラーコースターの上昇。但し超高速。
一気に明るくなる。視界前方の澄んだ青と、青にたなびく白と、
その周囲から覆い被さり青と白を消して行く灰色の濃密な煙。
誰が、何を見ているのか。
視界が巡る。それこそ上がりきったローラーコースターが落下に転ずるように。
流れ出て駆け下る赤いもの。
それはあふれ出て広がる血液の如くである。
但し、駆け下る血液の前方には逃げ惑うヒト。
ヒト、生物学的にそう分類されると書いた方が適切な表現になる。二足歩行の霊長類だが、ややサル的な姿勢であり、全身が体毛に覆われている。
原始人類を追い、山肌を駆け下る赤いもの。
記憶の映像だから過去のもの。
従って過去の生命。赤い暴竜の如き姿であり、山肌を下り原始人類を飲み込んで行く。
その時代に存在したそんな生命。
欧州の伝説に言う火を吐くドラゴン。
これは、その原型となった生命なのではないか。
業苦とパニックが雪車町の意識を通り過ぎて行く。それはこの竜が認識している他者の感情であって、言うまでもなく竜に飲み込まれている原始人類のものだ。
視点が変わる。
原始人類側の視点だと判るのに数瞬も要さなかった。
火山の頂部から煙と共に駆け下る高速の溶岩流。
竜≠フ正体は、溶岩流の姿をしているか、或いはその中に生きている生命か。
気が狂う。本能的な恐怖が雪車町を襲う。
ここから出せと言いたいが声にならない。ここから出ようともがくが身体が動かない。
いや、違う。
もがくと身体が動いた。
その、炎の竜がうごめき、のたうつ。
雪車町は今、竜自身と化していた。
転げ落ちる自分≠ゥら逃げる人々。
自分も彼らを回避したい。しかし我が身は自由にならずどうにもならない。
避けようと動けば逆に炎が彼らを襲い、巨石を動かす。
幾つもの人命を自分が奪ったはずである。しかし思考の主体となっているここに何らの感触も届かず、その実感は希薄と言うより皆無である。
そして振り返って自分の罪を省みようにもこの身たるものが全く意のままにならない。
正面すなわち山裾の向こうに白く煙る一帯が見え始めた。
転げ落ちていった巨石がその煙の中に突入し、やがてそこから水柱が吹き上がり、煙る一帯が水面であることを示唆する。
溶岩流の流入で沸騰しているのである。
そして、自分は、とりわけ巨大な溶岩状の生命体。
水面への陥入と同時に、水面から水蒸気爆発が生じ、大量の溶岩と土砂によって波濤が生じたことを認識する。
熱湯の津波である。
その発生を認識したところで溶岩は流動性を失い、今度は逆に硬直しながら水面下遙か深奥へと落ち込んで行く。溶岩の身体はのたうつことは出来ても斜面で止まることが出来なかった。それが今度は全身が硬直して動かせない。
溶岩が海水で急速に冷却されて固まったのだった。
落ちて行く。何らの光も届かぬ場所をいつまでも漂い落ちて行く。
その代わり初めての静寂にありついたような気もする。音も光も感覚すらもない時間の中で雪車町は眠りに落ちて行く。
急速に持ち上げられる感覚に気付く。しかしそれが寝て目覚めたのか、それとも連続しているのか判然としない。
確かめる手段が無い。今度は身体がない。
幽霊と呼ばれる存在になったのかと認識する。しかし持ち上げられる……重力に逆らっているという感覚自体はあるので不思議な物だ。加えてゆっくりとねじる動きもあるようだ。
光を感じる。
海原の青と空の青と、陽光であると気付くのにそう悩むことはなかった。海上を進む光景であった。
南極海ではないこともすぐに判った。氷山は見当たらず、そもそも太陽高度が南極のそれではない。
いや……それ以前に。
恐るべき速度、音速を超越して海上を進んでいると判断できる。また、身体無しで飛んでいる幽霊ではない。水の中、もっと言えば身体が海水そのものだ。
水の精とでも書くべき状態。そんな馬鹿な……雪車町は観念を追い払おうと首を左右に振る。
その通り身体が動かせる。但し応じて白波が立つ。
何かがブルドーザーにすくい上げられたように飛び上がり、跳ね上げられ、空中でもがくように身体を震わせ、
視界後方へと消え落ちて行く。
それは見たままから判断する限りクジラであった。スナメリのような小型種ではない。全地球規模で回遊するナガスクジラ系の大型種。
それを容易に跳ね上げる?
視界前方に白い糸のようなものが現れる。海と空の境界線を描くように横たわっている。
糸は急速に面積と凹凸を露わにする。他方自分の進行速度は低下し、その代わり視点が徐々に高まって行く。
自分が、極めて巨大な存在になっていることに雪車町は気付いた。
海岸集落を襲わんとする巨大津波。
クジラすら小魚に見える巨大な水の壁となって、原始的な家々が建つ海岸を飲み込もうとしている。
やめろ、止めてくれ。雪車町は叫んだ。叫んだつもりだった。
それは波によって押しのけられた空気が作る暴風となって原始的な家々を吹き飛ばした。
転げ出た人々の上にのしかかり崩れ落ちる自分の身体。
海岸段丘の段差に激突し、破壊して突き破り、内陸へと突き進む怒濤。
耕作地、集落、森林と棲息する動物たち。
何もかもをも飲み込み、破壊し、なぎ倒し、埋め尽くす。
そこまで到達して、今度は身体が散り散りになって消えて行く感覚に見舞われる。
それは水が次第に砂の中に吸い込まれる様に似ていた。大きな水たまりが時の経過と共に凹凸に応じて千々に別れ、消えて行く。
酷い心の病気を患うと人格がバラバラになると聞く。今の自分はまさにそれではないのか。
いや違う。バラバラではない。雪車町は気付く。自分は薄く、大きく、広がっている。食品に例えるのが適切かどうか判らない。ただその感覚はうどんをのし棒で引き延ばす様を思わせる。塊が平面に引き延ばされる。
うどん、というフレーズに食欲と懐かしさがこみ上げて苦笑したくなる。それこそ浦島太郎はこんな気持ちに苛まれたのではあるまいか。
誰かが、身体を横から押した。
いや、押したのではなかった。平面状の身体がめくれ上がったのであった。
風に吹かれて舞い上がったと気付くのに時間は要さなかった。
砂漠の上を漂っていた。その視点や移動感は、津波の状態と似ていた。再びそのような自然災害の何かに変わったという直感が雪車町を不快にした。
地球の丸みを確信させる雄大さを持って、視界奥手から水面と緑の一帯が出現した。
オアシスであり人がいることは考えるまでもなかった。やめてくれ。雪車町は誰にともなく叫んだが、声にならず聞く者もない。オレはこれ以上誰も巻き込みたくない。
誰かオレを止めろ。
すると。
請け負った。そんな声が聞こえた気がして、視点が変わった。
9
津波のように押し寄せる砂嵐を前に、手のひらをかざしている自分がいた。最前まで自分自身であった砂嵐を今度は迎える立場であった。
身体は人間のそれであった。ただ、雪車町明史の肉体ではない。
どころか。
「女?」
日本語で書けばそうなるが、実際口から出たのは異国の高い声であった。ただ、人語であった。
そして。
ビルが倒れてくるようなその砂の壁を前にして、手のひらには質量、力感の掌握があった。それは極めて透明なガラス板を介して風を感じているような感覚であった。
判っていた。特定のタイミングでそのガラス板を押し返すと、砂嵐をやり過ごすことが出来る。
そして、特定のタイミングは、その時が来れば自ずとそれと判る。
今。
感覚のままに、その手をぐいと押し出すようにする。ガラス板の支える質量が、手のひらに感じるその質量より遙かに巨大な力積を発生し、砂嵐が上空へ向け軌道を変える。
盾で攻撃を遮るように、手のひらをかざし続ける。
手のひらには幾らかの反発と、その反発力の脈動を感じるが、砂嵐がこちらへ接近してくる気配はない。気配と書いたが確実にない。
砂嵐を追いやった、確信として知っている℃ゥ分がある。
「我らが女神に歓呼三声!(かんこさんせい)」
勇ましい男の声がして……もちろん実際は異国の言葉で発せられ、地鳴りにも似た集団の咆哮が三度。
自分はこの者達に言うべきことがある。
「まだ動くでない。去ったわけではない」
振り返るなり声を出す。全くの未知の言語だが、何の違和感も無く口から出る。
眼下は一人一人の顔すら判別付かぬほどのサイズで人間が埋め尽くす。自分が立っているのはピラミッドの頂点である。但しエジプトやマヤなど既知のそれとは異なるようだ。
むしろクフ王のそれより遙かに巨大である。その頂点に自分は立ち、眼下の大地遙かまで連なる人波に向かって指示命令を下せる立場。
女神≠ニ呼ばれた。
自分の声が到達したらしい。歓声が直下から次第に周囲に広がる。聞こえたら応じて声を出し片手を挙げるようで、波紋広がるようにその有様が伝搬して行く。
「指示する。今般の砂嵐による被害の有無を調査し、報告せよ。被害地域の復興に努めよ。被害は東南の方角で発生した」
見える≠フだった。
元は日干しレンガの建造物の並ぶ街であったようである。それが砂嵐に覆われ、屋根の一部のみ残して埋もれた様が見える。さながら記憶の映像を呼び出したようである。街には麦の繁茂地が隣接し、しかしその穂は折れ曲がり落ちて散り、葉は悉く高速の砂塵に撃ち抜かれ穴だらけ。
「直ちに着手せよ。国庫より食料を持ち出せ。二千人を一週間充分に賄えるよう配慮せよ」
自分の物とは思えぬ、威厳に満ちたピンと張ったような声が出た。
うおー、と、声の地鳴りで反応があり、充ち満ちた男達がピラミッドの下部へ押し寄せる。
今自分が頂点に立つこのピラミッドは食料保存庫なのであった。
なすべき事の示唆が訪れる。
「防衛隊に命ずる」
右手下方で、ひときわ声の低い一団が応じた。好戦的な偉丈夫に重い防具と長大な剣を持たせた最精鋭部隊。
「隣国より機に乗じて攻め込む気配を感ずる。直ちに西方へ急行し、嵐の背後に並び構えよ。対処の方法を命ずる」
敵は砂に埋もれて浅くなった国境の大河を徒歩で跋渉して攻め入ってくる。武装は軽いが足が速い。人海戦術に物を言わせる。
対し与えた戦術は追ってユリウス・カエサルがガリア戦役で投じた方法。
その時。
謀反人。
その言葉は突如浮かび、その者の所在を群衆の中に示した。
その者が隠し持っている手裏剣のような投擲用の小型刃物。
自分がなすべき事は、その者を指差すこと。
謀反人が指差された己れに気付き、凍り付いたような目を自分に向ける。
彼我の距離は二百メートル近くあるのではないか。しかし、指先には直接彼の額を指で押しているような感触があり、むくつけき口周りのヒゲの感触まで感じ取れた。
「愚か者」
「魔族!魔族!」
むくつけき謀反人が叫ぶ。
言いたいことは判っていた。自分が、悪魔の力を借りて支配している。
新約聖書にそんなやりとりがあるのを知っているが、恐らく近いのだと判じた。
自分に悪魔と契約した記憶は無い。しかも、この者の目的は自分を殺害しての権力奪取。
「こいつが魔物を追い出せるのは当たり前だ。魔族から力を借りているためだ」
「その力を奪って支配しようと企む貴様は何なのだ」
雪車町は男の首根っこを掴んだ。実際触れていなくても応じた手応えと反応があった。
万力のような握力を行使可能であると判る。が、殺してしまえばこの者の物言いの思うつぼ。
「その手の中の物と、脛当てに隠した物を捨て、共謀者に投降を呼びかけよ。全て判っている」
雪車町は見出した7名の額を指で小突く。
次々に男達が弾き飛ばされ集団の中でひっくり返る。
「命乞いをしろ。知らぬぞ」
雪車町は集団に生じた意識を察して言った。
対して。
「魔族に死を!」
首謀者は叫び、背後の飛び道具を投擲装置に据えようとした。それは釘抜き、或いは孫の手と形容すべきか、一端が短くL字に曲がった棒状のものだ。L字の部分に投擲物をセットし、腕の長さと棒の長さで円運動の半径を稼ぎ、高い線速度を与えて投擲する物だ。
しかし首謀者がそれらを手にした次の刹那、周囲の者達が手斧に近似の武器持て襲いかかる。
凄惨な事態が始まる。そう思った次の瞬間、雪車町はそこの女神ではなくなる。
10
囲繞する臭気。
得体の知れぬ四本脚の生物が目の前を漂うように歩いている。
肉で出来た襤褸をまとったような姿である。生きながら腐りつつあると表現して良さそうであった。
地球の生き物ではないのでは、とまず感じた。
対する自分は革の装束を身につけ、右手に銅剣を持っていた。五感と神経が寄越す認識は人間であった。しかも再び女性だ。
ああ、と納得に行くものがあった。
女神だが、別の時代、別の場所に降臨≠オたのだ。
飛びかかってくる化け物に銅の剣を振るう。
首を切り落とす。切れ味は鮮烈で何ら抵抗なく化け物は二分された。
胴体の部分が青い血を噴き出し、パニックを起こしたクモのように四肢をデタラメに動かしてのたうち暴れる。
一方首から上は一旦落ちたが、顎をカクカク動かし、そのままで自分に食ってかかろうとする。首を狩られた為政者の最後のあがきに使われるシーンさながらである。ただ、首だけの動きは昆虫や爬虫類では実態として時折見られる。
顎だけでそいつは跳ね上がった。
咄嗟にバットスイングの要領で打ち飛ばす。自分は雪車町であると認識を新たにする。
交錯とか混交とかいう言葉が頭に浮かんだ。何か、混ざり合った世界。
過去、否ひょっとすると未来であるかも知れぬ。空は全面的にほの白く、永遠の曇り空であるかのようだ。
硫黄の匂い。温泉か火山か。
地面が鳴動する。地震である。温泉や火山があるなら地震の発生も理解できなくない。
「(まただ。また土が波を打つ)」
全くの異言語であったが、日本語に直せばそんな意味であると判じた。
振り返ると腰の周りを覆う僅かな毛皮を身につけた男達が地面にひれ伏し、或いは膝立ちになっている。ホモサピエンスの範疇であるようだ。だが、最前ピラミッド周囲を埋め尽くした男達とは様相を異にした。
地震に腰を抜かしているのである。失禁していたり恐怖の余り発狂した様子の者も見られる。
対して自分は日本人としての慣れがあった。
「狼狽えるな。翻弄されるほどの振動ではない。時間は長いが耐えることは不可能ではない。私を見ろ」
化け物切った血の付いた青銅の太刀を地面に突き立てる。
ゆっさゆっさという長周期の揺れは海溝型巨大地震を思わせた。
……ならば津波が来るのか。
「海に近いか?」
男達は質問の意図を解さないようである。であれば自分で確認するだけ。巨人の手に振り回されるが如くバサバサと音を立てて揺れる近場のソテツの木に登る。現生の物に比べて遙かに巨大である。自分の服装が獣皮に首を通しただけの物であるらしいことからしても、かなり温暖な気候であることは間違いない。
振動は収まらない。かれこれ3分は超えるか。
木に登って湾奥であることを知る。身を翻して背後は原生林の険しい山。
「生き延びたければ走れ。私と共に山に登れ」
雪車町は叫び、走り出す。震源に近ければ揺れが収まる前にでも津波は来る。
走り出すが、誰か付いてくる気配はない。
代わりに件の得体の知れぬ生き物が死にものぐるいという有様で傍らを走り抜けて行く。
何か、囲繞するほど巨大なスケールの何かが、耳に聞こえぬ音を轟かせて接近してくる。だから逃げている。そういう理解。
戻って男達を助けるべきか、それは恐らく現代……もはや現実か幻かの区別すら付かないが……日本に生きていた者の価値観。
しかし生物の原理本質に基づくならまず自分が生き延びろ。誰かが生き延びろ。
雪車町は振り向かない。剣を振るい、走り行く得体の知れぬ生き物の背中に突き立てる。
生き物は一旦止まり、口を開け叫んだが、そのまま再び走り出す。雪車町は剣を頼りに生き物の背中に乗る。
臭気がひどくて吐く。生き物が背中越しに視線を送る。それはあの恐竜人間の知性ある目を思わせた。
「こっち見るな!走らないとぶっ殺すぞ!」
怒鳴る自分の声を低い地響きがかき消す。
津波が接近してきたに相違なかった。雪車町は剣をねじるなどして痛みを増長して生き物を煽り、登坂を急がせた。目測数十から百頭規模で走っていたが、いつの間にか先頭に立っていた。
剣を舵の如く操り、生き物を意のままに走らせる。高いところへ高いところへ。
行く手の森林が途切れている。
裏山の最頂部まで登ったのだと知れた。
生き物の背中から剣を抜き、飛び降りる。
生き物はそのままどうっと音を立てて倒れた。死んだわけではない。体力を消耗したのだ。
見下ろすと夥しい数の巨大ソテツを浮かべた土色の渦が出来ている。
押し波と、打ち寄せて反射する波とが交錯し、コリオリ力を得て渦をなしているのである。渦には多くの人体が捕らわれているがどうにもならぬ。ピラミッドの女王を真似て手のひらを向けてみるが、こうすれば良いという示唆はない。
傍らで化け物が叫び声を上げて口を開く。怒鳴り掛かってくるような印象であり、雪車町はやかましいとばかり握り拳で殴りつける。
化け物は身体を返して腹を向け、背中を土にこすりつけた。背中の嘔吐物が不快でどうにかしようと思ったのであろう。
電気ガメが手元にあれば会話が出来たかも知れぬ。
寄せ返す津波を見ながら、生存者がいればとしばらく待ったが、登ってくる者はないようだ。
周りは水没しまるで絶海の孤島である。
余震。
生えている木の根元で地割れがパクパクと口のように動き、震度に置き換えれば5か6と思わせる。が、建物の中でなく、倒れてくるものなく、地鳴り以外の音が無いせいか、さほどの恐怖感は無い。
比して化け物の狼狽えぶりは凶暴そのものの二重歯列が滑稽に映るほど。
「まぁ落ち着け、逃げ場は無い」
優しくしたのはそれこそ地震に怯えるペットに似たか。
肉食であろうに自分に食ってかからないのは刀剣でこねくり回されるのを嫌ったためか。
化け物が脚を屈めて地面に座る。周囲の葉っぱがヨモギに似ていることに気が付き、ちぎって噛んで苦みを感じる程度汁を出して化け物の傷口に押し込む。
ヨモギ近縁なら効くだろうし、死んでもそれだけの話。
傷口に指突っ込まれて化け物はギャアギャア叫んだが、それも程なくすると大人しくなった。
引き波の間を捉えて斜面に引っ掛かった有象無象に食物を探す。
魚が多く打ち上げられている。現生種……雪車町の時代21世紀とかなり異なると見られるが、この場所に人類がいて食していないとは考えにくく、問題はあるまい。
後は男共の死体から小刀など補助武器、夜の寒さに備えて身にまとっている布や毛皮。
否、毛皮にあらず。毛の生えた植物の皮。
雪車町は魚を剣に幾つも突き刺し、化け物の傍らへ持ち帰った。
口先に放り投げると食いついた。
鯛に似た魚がいたので小刀でウロコを剥ぎ、刺身にして口にする。
考えたらイルカの姫君のもてなし以来の食事である。何時間過ぎたかなど不明だが、食物を口にしたことはにわかに空腹を呼び覚ましたのでそれなりだろう。その認識は逆に言うと外見はさておき肉体≠ヘ共通して雪車町自身のものが変化していると考えられるか。
化け物が何か吠えた。気弱な訴えに聞こえた。
「食い物ならもう無いぞ。殺しゃしないから寝てしまえ。どのみち丸一日動けない」
余震が訪れる。揺れのわりに大きな音がして土煙。目をやると斜面が崩れて海中に没している。
されど逃げ場はない。周辺は全部水であり、渡れる程引いていない。
やけくそ状態で横になり目を閉じる。氷から下に落ち、謎の海中国から次々に異国異世界を行脚。誰の意志かどこへ行くのか。
戻れないという絶望半分、どうせなら成り行きの全てを見届けようという野心半分。
それこそ、浦島太郎はこんな気分で竜宮城の時を過ごしたのか。
11
化け物のわめく声で目が醒めた。
こんな異境異世界で眠りこけるなど油断も甚だしいが、疲労が蓄積していたのも確かであろう。
ゆるり、という感覚で身を起こすと化け物が尻尾を振り回している。
そして、鬼のような黒とオレンジの顔が空中にあり、ブザーのような音を立てている。
雪車町は一瞬で完全に覚醒した。
それは昆虫……ハチであった。人体サイズのスズメバチがぶんぶんと音を立てて宙を舞い、横たわる自分に襲いかかろうとし、件の化け物が尾を振って追い払おうとしているのであった。
「ご苦労」
雪車町は言うと、近隣を見まわし、手ごろな枝を見つけ、野球のバットの要領でハチの頭に叩き込んだ。
ハチの頭がもげて飛ばされる。会心のホームランといった所か。
その後のハチの挙動は、単に形状がハチに似ているのみならず、体の構造も近似であることを示した。すなわち、昆虫とは頭部、体幹、各脚の根元に小型の脳が分散配置されている。このため、首だけ、あるいは首が無くても動いたりする。カマキリ等を捕獲して相応の経験をした向きもあろう。
果たして、ハチの顔は、顔だけでワイヤカッタのような鋭い歯をカチカチ鳴らし、残った体は羽ばたきながらその尾部より毒針を出したり入れたり。
しかし、視覚を失った体が飛行状態を保てるわけがなく、程なく化け物の尾にはたき落とされる。
即座に食いつこうとする化け物を雪車町は大声で制した。小刀を見せ、反抗すれば刺す旨意思表示。化け物は不平不満そうながらも動きを止めた。
「意地悪してるわけじゃねぇ。こんなもの食ったら死ぬぞお前」
注意を促し、このぶっ壊したハチの体が武器になると思いつく。墜落して尚翅をバタつかせる身体に石つぶてをこれでもかとばかりぶつけて弱らせ、更にその石を積み上げて翅の動きを拘束し、小刀で足をそぎ、腹を裂いて毒針と毒腺一式を取り出す。
毒組織をバット代わりの枝に巻き、植物のつるで縛って固定し、更に神話のメドゥーサの首よろしく、未だアゴをカチカチ動かす首を先端に挿して掲げた。我ながら古代の女戦史だ。
「さて、生きようぜ」
雪車町は言い、化け物の背中にまたがった。
立たせて周囲を見回す。津波はすっかり引き、堆積物が埋め尽くし、一方で地面は相当な隆起を見たようで、モーゼの海割よろしくこの小山から遠浅の砂浜が続いている。
「この肉食ハチが飛んで来られる範囲に何かあるわけだ。行くぞ」
化け物の傷口を蹴飛ばし、進むよう促す。ギャーと喚いて化け物が歩く。
小山を降りて行く。周辺には人体や化け物の死体がごろついているはずだが見当たらない。但し、無数のウロコ、血痕、人間の身に付けていた布地などが散乱し、スズメバチに食われたらしいという予測は立った。
隆起した砂浜の海岸線に到達し、堆積物に埋もれた瀕死のイルカを発見し、化けものに食わせる。
生肉は多少抵抗があったが、タンパク質は補充しておくべきだろう。雪車町は化け物のの傍らでイルカの肉を小刀で切り取って食った。
血液滴るわけだが、この血がなければ水分の補給もままならぬと気づきぞっとする。海生哺乳類を食うことに対して欧米から非難があったことを遠い過去のように思い出す。だが、それがどれだけ上っ面で意味のないものか、こういう状況だと失笑しか出てこない。
前進する。肩に担いだ枝棒の先でハチの顔がカチカチ言う。威嚇とも仲間を呼ぶとも言われるが、とりあえず集まってくる様子はない。
砂浜のうち、隆起で生じたと思われる部分を跋渉した。多数の貝殻や海草類で水底だったことが判る。
遠く続く湿原のような場所に出る。水をかぶってビショビショになっているのだが、草むらが津波によって一面冠水が正しいのかも知れぬ。
見渡す限り草ばかり、天涯孤独とはこういうことか。
化け物から一声あり、余震。
「これが津波ならまたかぶる恐れがある。海と真逆の方へ行くぞ」
化け物を促して冠水した水辺をパシャパシャ歩く。太陽は出ているが暑くはない。むしろ夜は冷えると見るべきか。
不自然な波立ち。
化け物がおびえたように声を挙げ、足をバタつかせる。
波立ちがこちらに接近してくる。
水中を何かが高速で向かってくる。
サメ……ワニか。
ざぁっと水しぶきを上げて、それは水中から空中に身を躍らせた。
大蛇であった。
水棲の大蛇としてはアナコンダが知られるが、比べ物にならぬ大物。
驚きも怖がりもしない自分自身に驚きながら、雪車町はスズメバチの首を据えた枝棒を突きだした。
大蛇が先んじて伸ばしてきた二股の舌をスズメバチの顎が噛んだ。
それなりの痛撃であったらしい。大蛇が感電したように身を縮める。応じてハチの頭が枝棒からすっぽ抜ける。
蛇の注意が逸れたと直感し、雪車町は今だとばかり化け物を叱咤してその場から逃げだす。
地鳴り。
また余震か。雪車町は足元水面を見つめたが、地面からであれば波立つであろうそこには、化け物の歩行以外の波はない。
化け物が立ち止まって声を上げた。何かおびえている。
行く手に黒雲……地を這うような高度。雷か。
違う。
スズメバチの大群である。大きさと数のゆえに黒雲のようであり、羽ばたきの多さのゆえに重低音を伴う唸り……地鳴りの如し。
「水に潜れ。判るか?水の中に体を浸して動くな」
雪車町は化け物から飛び降り、化け物の首を掴んで引き倒し、その身を水中に引っ張り込み、自分自身水中に潜って顔を付けた。
スズメバチはフェロモンで集まると言い、黒く動くものを攻撃するという。
前者からいえば先ほどの攻防で自分達がフェロモンを浴びた可能性があり、後者に従えば対処の鉄則は姿勢を低くして動くな。双方含めて水中で動かないのが最良であろう。この巨大種に鉄則が通用するか判らぬが、それ以上の策を知らぬ。
その有様は風を起こして通過するバイクの集団暴走であった。最も、基本的に彼らの獲物は先ほどの大蛇であることは予想できた。ならば、こっちが余計なことをしなければいい。
黒雲が頭の上を通過して行く。やや苦しくなってくるがもう少し。
されど、傍らの化け物が我慢できなくなったようだ。雪車町の拘束を振り払って水面から顔を上げてしまった。
「馬鹿野郎!」
化け物の行いはその集団暴走に自ら飛び込んで行く行為に似ていた。
早速、ハチの一匹が化け物の背中に乗る。
生存本能に従うならば、化け物を食われるに任せ、自分だけ水中を泳いで行けば良かったのだろう。
だが、雪車町はそうしなかった。
化け物の背中で剣を抜くが如く尻から突き出され、刺し込まれんとするその毒針を両手で掴んだ。
掴んだならば、一瞬の躊躇も迷いも許されないことは明白であった。ハチに自由に行動させてはならない。
力任せである。ハンマー投げの要領で闇雲に振り回す。寄り集まる他のハチとぶつかり、岩同士が衝突するようなゴツゴツという音を生じる。衝突したハチは落ちる、逃げる、首がちぎれる、等々。
巨大スズメバチは、応じて筋力も人体のそれを上回っていると見られる。まともに組み合えば食われる。
しかし、言わば動かせない尻尾を捕縛され、なおかつ自重による遠心力が加わった状態では、身体動かして雪車町に危害を加えるまでには至らなかった。
毒針先端から霧噴くように毒液が出る。一方遠心力によってハチの体節は壊れたアコーディオンのように伸展し、
ついには腰のくびれた部分で引きちぎれた。
ハチの体が飛んで行く。ハチは羽ばたくが腹部をおおよそ失った状態であり、バランスが取れないらしく、デタラメに回転しながらヘビのもがき暴れる方向へ飛んで行く。
ハチは攻撃時に発するフェロモンに反応し集まると書いた。その通りになったようで残りのハチたちも半死のハチを追って飛んで行く。そのまま大蛇に襲い掛かるであろう。
再度にして最後の逃亡のチャンスである。雪車町は化け物を叱咤し疾駆し、止まらずに走り続けた。
「川だ、川を探すぞ」
化け物は知らぬが、自分は真水がないと生きて行けぬ。
視界に山を探す。山と海があれば応じて川があるはず。
化け物が立ち止まる。
弱々しく一声鳴き、背中の雪車町を振り仰ぐ。
「どうした」
雪車町は訊いたが、刃物突き立ててまで急かそうとは思わなかった。悲しげな目が何か訴えているような気がした。
何か感づいて立ち止まったと考えた方が、状況の説明に適切な気がした。
「地震か?」
地面から、否、地下から音。
目の前の地面が、蓋開くように持ち上がった。
それは地殻変動ではなく、文字通りの蓋であった。蓋開いたその部位から、毛むくじゃらの何かが、高速で伸び出てきた。
雪車町は化け物の横腹を蹴り、向きを変えるよう促した。
化け物は例の屈強な尻尾を大きく振り、その遠心力をトルクに方向転換を図ったようだ。
振り回した尾が毛むくじゃらを殴打した。
毛むくじゃらは穴から引きずり出されて横に跳んだ。“だるま落とし”の要領で引き抜かれたと書けば適切か。
大きな物体が飛び、穴の中から銀色の糸を引く。
雪車町は化け物の背中で小刀を構えた。大きすぎる敵と承知してはいるが、恐怖よりも防衛本能。
黒い毛玉。
「(人間か)」
与り知らぬ言語。
しかし意図は判じた。言語体系自体はここに来る前、ピラミッドで自分を伏し拝んでいたあの国のもの。言語の伝達方法は脳に直接。
ただ、それは意識と意識の直接感応、いわゆるテレパシーという感じではない。むしろ、雷や大流星などで強い電磁波を異音と感じる、その感覚を思い起こさせる。地球生命の神経信号伝達は電気信号そのものであり、テレパシーと異なり理論的な可能性を否定するものではない。
および。
その黒毛玉はクモの形状をしていた。糸を引くさまと言い、そう断じて間違いあるまい。億年単位の太古、巨大クモがいた旨はどこかで読んだ。
以下日本語への変換を意味するカッコ書きを略す。
「クモ……と呼ぶかどうか知らんがね。オレの元いた所にも同じ姿の生き物がいるよ」
雪車町は生来のごとく備わっていたピラミッドの国の言語で問いかけた。
「ほう、喋れるか、こいつは驚いた。そいつは引っ込めてくれ。食う気はない」
クモはむしろ自分は捕食される方だと諦念を込めて言った。
「その図体で?ここの人間にか?あんたの言うことが正しければ、ここの人間は組織的に狩りができる知性は獲得していないようだが」
「お前は異国の者のようだな」
「そうなるな。自分でも何が何だかよく判らない。時間も場所も判らない幾つかの場所を通ってここへ来た。まともに会話するのがえらく久しぶりな気がするぜ」
化け物が声を上げる。情けなさそうなその声色は捕食される恐怖か仲間外れの寂しさか。
「安心しろ、食う気はないとさ」
「そいつは手なずけたのか」
クモは歩脚の一本を指振るようにかざし、化け物のことを問うた。
「力任せにボカスカひっぱたいてな。しかしこのサイズの爬虫類っぽいのがポピュラーで、お前さんたち節足動物がでかいってのはな」
「お前の世界では逆か」
「でかいのはクジラってやつで、体を支えきれないから水中にいる。爬虫類も大きくてワニか。ただ、人間を食う話は聞くけどな。クモはせいぜい手のひらサイズ。ハチはでかくても指の長さ程」
「あべこべ、だな」
クモは感想を述べ、同時に雪車町はおおよそ察した。
ここで人間は小さく野蛮な被捕食者なのだ。哺乳類の始祖そのもののように物陰から物陰へおびえながらこそこそしている。
ただ、一部言語を持って文明を育てている一族もある。
「ここで一番強いのは、何だ?やっぱりハチか?」
「違う。そいつは素早く走り空も飛ぶ、何でも食い繁殖力がすごい。ただ、お前たちの世界で何というのかオレは知らない」
オレ……という一人称からはそのクモがオスであることを示した。一般に昆虫や“虫”と称される節足動物はメスの方が遥かに大きな体躯を有するが。
すると。
「さっき向こうの方で大きな音がする騒ぎがあってハチが飛んで行った。お前そこにいたか?」
クモは雪車町に問うた。指代わりの歩脚が示すその先は、先ほどハチ等に襲われた方向を示した。
「ああ、ハチに襲われて逃げてきて、あんたに会った」
「そうか。戻る勇気はあるか?“最強”はそこに来ているはずだ」
「試される勇者みたいだな」
雪車町は苦笑した。その生き物が何なのか、確かめたい気持ちが少し、恐怖も少し。
しかしすぐに思い直す。なぜなら、それがこの世界の“覇者”であれば、いつか必ず出くわすことになる。
敵となるであろうそれを知っておくのは損ではない。
「怖いか。心配するな。何かあればオレに乗ればいい。逃げられるからこうして生きてる」
クモはそう提案した。黙って考えている雪車町が怯えているように見えての提案らしい。
「ありがたい話だね。オレがいた国はニッポンてんだ。クモは屈強の生き物として神話に出てくるよ」
「でかいのかそれは」
縄文人が手足の長さ故にクモと蔑まれてヤマト王権に追われた話は知識の片隅。
「まぁ、大昔はいたのかもな」
二つの反応が二つの生き物から生じる。歩脚の先を立て緊張感漲らせる大グモと、干からびそうな情けない声を上げる化け物。
「来たぞ。動かずそうっと見ろ。アレだ」
クモは言って歩脚を振り上げて雪車町の背後上空の方向を指し示した。
ゴキブリである。
ああ、と合点が行くものが雪車町の裡にあった。動き素早く、何でも食い、繁殖力旺盛。3億年前に既に現在の姿であったとされる害虫の代表格。
この弱肉強食の世界でその能力は最大限に発揮されておかしくない。
バタバタと無様な飛び方を知っているが、比してこの巨大ゴキブリはどうだ。
巨大な図体と翅を駆使して舞い、さながらコンドルである。
群れて先の大蛇の元へ降下して行く。
程なく断末魔の七転八倒、及び振り飛ばされたゴキブリが舞い飛ぶ有様が視界に映ずる。
しかし彼らは何らダメージを受けた様子なく、再度翅を広げて滑空し、大蛇の上へ舞い降りる。
巨躯を有し屈強なゴキブリが“獲物にたかる”という有様はそれこそハゲワシ、否、恐竜の集団補食を想起させた。
(承前)
化け物から声。
否、声では無い。音で書けばピーとかチーとか高周波の印象。
脳に直接送り込んでいるのだと雪車町は理解した。最早手元にはないが、あの機械ガメを使ってイルカ姫と交流を図った時と同じである。声を出すことを禁じられ、代わりにそういう手段を選んだか。
振り返り雪車町は驚いた。人間がいる。
複数。おしなべて裸身である。第四次世界大戦は石と棒きれ……と言ったのはアインシュタインであるが、それを彷彿させる原始回帰の印象。
気配を殺しつつ近づいてくる。
「人間、お前、名前は」
当然、8つの目を持つクモは気付いた。
「あきふみ、だ。……クモ型類に名前という概念があるとは恐れ入ったぜ」
「では明史。気をつけろ、あんたは狙われている」
雪車町は接近してくる人間達を睥睨した。男が6名。手にした武器は二股の棒先に小岩をくくりつけたもので粗末そのもの。陰部には角状に尖った貝のケースをかぶせ、先端を紐で腰部に固定している。貞操観念というよりプラプラして邪魔なのでそうして押さえている、という印象。
雪車町は思いだした。自分は今、外見上、女ではないか。
そういうことか。
「クモ殿、我が背後へ」
「よかろう」
クモは音を立てずに雪車町の背後に移動した。
男達の動揺が陰部の貝に見て取れる。要するに好色満タンだったが、クモを擁した雪車町の姿に恐れをなして萎えたというところか。
「人間が最も弱いわけだぜ」
この不思議な移動冒険で覚えた言葉の幾つかを駆使して告げてみる『武器を捨てろ』。
怒気を孕んだ声であり、何らかの脅し警告の意図は伝わったようである。ただいかんせん意味は解さないようだ。
男の一人が突如大声を上げる。気でも触れたかと書けば丁度いいようである。露骨に失禁し、伸び放題のヒゲに覆われた口を洞穴のように開いて叫び声をひねり出す。
羽音の集団。
(つづく)
★次回更新は6月中を予定
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