聞こえること見えること
 
 成績は良かったと記憶している。通知表を覗いたわけではないが、返ってきた答案の答え合わせで修正している様子はなかったし、授業中当てられると必ず答えた。英語の発音など流暢なものだ。でも、彼に対するクラスの評判は決して良くはなかった。
「おかしいんじゃない?」
 隣の席に座っている女子の一人は、理絵子に対して眉をゆがませてそう訴えた。
「授業中もぼーっと外見てるしさ、呪文みたいにぼそぼそ何か言うこともあるし、ずっととなりにいるとこっちの頭が変になる。なんとかならない?」
 それは、なんとか“ならない?”ではない。学級委員である理絵子になんとか“しろ”と言っているのだ。似た声は他の女子からもあり、放っておけばクラスに不協和音が生まれるのは必至の情勢。
 とはいえ一体どうしたものか。男子の委員の糸山にも言ってみたが『無視すりゃいいじゃん』の一言。この辺り男女の“気にする部分”の違いが出ているのか。でもだからって自分がいきなり『あんた変だよ』と言うわけにも行くまい。
 困る理絵子が担任に呼び止められたのはその日の帰宅前。
「ちょっと時間いいかしら?彼のことなんだけど」
 担任にも級友からの訴えは届いているという。しかし、成績もいいし、いわゆる非行もない。学校側として動かなくてはいけない理由はないとの話。
「繊細、なんじゃないかとは思うのよね。経験的に。だから、変とかそういう先入観で彼と接すると感づいて傷ついてしまうわ。その点で糸山では…」
 だから黒野さんあなたにお願いできないかしら?厚塗りファウンデーションのその顔には書いてある。自分の母親より年上で、教育のプロであるはずの存在が、自分を頼るのもどうかと思う。だが、いきなり“先生”が出てくるべき内容ではないという判断だろう。ちなみに、糸山はアミダくじで決まった委員である。
「あなた、勘がいいし、随分助かってるわ。それに、教員がこんなこと言っちゃいけないけど、あなたみたいに可愛い…」
「判りました。話を聞いてみましょう」
 理絵子は長々した説得の言を聞かされる前に承諾した。相手は大人。仮に断っても、家康の秀吉攻めみたいに外堀を埋めて、自分がやらざるを得ない状況を作るに決まっている。
「ありがとう。ごめんね」
 頭を下げる担任に作り笑顔で応じ、さっさと職員室を出る。まずは話を聞いてみるべし。
 マフラーを巻いて外へ。今日は風が強い。大寒という二十四節気の言葉の通り。
 突風に吹かれて思わず風に背を向ける。すると、目線の先、住宅街の道の真ん中で、その風に吹かれるまま立っている男子生徒が一人。
 彼だ。理絵子はゆっくり近づいて行った。しかし彼は何かに聞き耳を立てるかのように目を閉じて下を向いており、理絵子に気付く気配はない。
 なるほど変である。理絵子は納得した。教室でこの調子では確かに気味悪がられる。
 風が一息。彼が首を持ち上げて目を開く。理絵子を見つけて目を向ける。
「黒野…さん?」
 しかしさして驚いた風でなく、どころか事前に知っていたかのように、彼は言った。
「君も聞こえた?」
 その一言で、理絵子は、彼が普通の男の子とは違う感性を持っていると判じた。
「私は別に。何を聞いていたの?」
「風の声」
 彼が即答して程なく、再び風が吹いてくる。理絵子は彼がしたように目を閉じて耳を澄ましてみる。風が言う?風が語る?しかし、いわゆる風の息と呼ばれる揺らぎは感じるが、それ以上のものはない。
「僕、変かな」
 風の切れ目で、彼は言った。
「他にはどんな声を聞いてるの?」
 理絵子は彼の問いには答えず訊いた。こういう場合、必要なのは理解者がいること。但し一人で必要充分。
「聞いているのは風だけ。他には、光の顔を見たり」
「光の顔?どうやって?」
「どこでもいい。光の当たっているところを見るんだ。壁でも、地面でも、何でもいい」
 弾む声で彼は言う。理絵子は釈然としないまま、近場の家の壁を見つめた。顔すなわち表情。ということは表情が変わるのか、それとも意志あると考えて読み取ろうとするのか。
「!」
 そこで理絵子は気付いてハッとする。意志あると考えて読み取ろうとする…それは万物に精霊が宿ると考えていた古代日本の発想そのもの。
 思い出す言葉がある。それはいわゆる霊山と呼ばれる地で修験者が口にしたもの。
「草花は雨に歌い風に踊り、訪れる虫たちは時に会話し、木々は鳥たちに遠い異国の声を聞く。雲は天の移ろいを教え、天道の輝きは水を、月は心を温める」
 理絵子は言った。彼は瞠目を理絵子に向けた。
「受け売りだけどね。人は自分も自然の一部であることを忘れていると。自然自体から受け取ろうとする努力を怠っていると。そういうことと違う?」
 言いながら、理絵子は“風の気持ち”を判ろうと風と陽光に身を置いてみた。すると、風は確かに冷たいが、手や頬に感じる陽光は冬至の頃より確実に強くなっているのを感じる。そして、風自体もひと頃のような力任せに吹き付ける、というほどではない。言葉にしてみると。
「もう少し、あと少し。かな」
「え?」
「私の聞いた風の声」
 理絵子の言葉に彼は嬉しそうな笑みを見せた。
「黒野さん。その、変なこと言うかも知れないけど…僕、黒野さんって他の女子とちょっと違うって気がしてたんだ。その、何というか、巫女的というか、こういう話判ってくれそうなタイプというか。言ってること判る?」
 彼は少し頬を赤らめ、戸惑いながらそう言った。
 まるで小学生の可愛い弟である。理絵子は小さく笑って。
「そういう内容はあんまり学校で口にしない方がいいね。私は嫌いじゃないからいいけどね。それから、風や光の言葉をそのまま口にしないこと。たとえみんなに言いたくなってもね。理由は君が気にしている通り。学ラン着ている以上ランドセルの頃とは違うよ」
 その言葉に、彼はうつむき気味にはにかんだ。
「…わかった。気をつけるよ」
「了解。じゃね」
 理絵子は手を振って学校の方へ歩き出した。家はまるで逆の方向だ。
 現代社会では生きにくいタイプだろうなと思う。繊細な上に感受性が鋭すぎるのだ。わずかな、些細なことでも、強く大きく捉えてしまう。
 と、再び突風が来、マフラーが飛ばされた。
「あっ」
 振り向くと舞い上がるマフラー。反射的に言いたくなる。戻って、取って。
 見えた気がした。そして、こんな意志の動きを感じた。
 “任せて”
 期せずして彼が振り返る。そして手を伸ばし、舞い降りるマフラーをその手でつかむ。
 思わず彼と顔を見合わせてしまう。“何か”を、彼も感じたのは確かだ。そして彼も、自分が何かを感じたことに気付いている。意識の共有、シンパシーという奴である。それは“存在”というか“意識”というか。少なくとも空気の流れという無機な存在ではない。
「…ありがとう」
 理絵子は彼の所へ戻って言った。
「あの…」
 彼はマフラーを差し出しながら何か言いかけた。が、そのまま何も言わず、理絵子にマフラーを渡し、背を向けて走り出した。
  
 翌日、学校に来た理絵子の机に大振りな封筒一つ。開けると楽譜。
「おおっ!りえぼーがまたもらってるぞ!」
「誰から?誰から?え?…楽譜じゃん」
 集まってくる女子生徒達。そのうちの一人が楽譜のタイトルを読んだ。
「Josef Strauss、op.28 Sylphide - Polka-Francaise」
「わっかんないよ」
「ヨゼフ=シュトラウス、作品28。フランス風ポルカ、“シルフィード”」
「しるふぃーど?」
「風の妖精のこと」
「へー。妖精。…妖精と来たか」
「何かゴーヂャスだね。コクる手段としては斬新でないかい?」
「で、これどうしろって?妖精のようなあんたに妖精のように弾けと要請?」
「あたしバイエルも弾けませんが何か。それにそれ面白くないし」
 理絵子は彼女たちに言い、さっさと楽譜をしまった。
 差出人もその意図も判っている。少なくとも彼女たちが思っているようなことではない。ちなみに、コクるとは“想いを告白する”の意で、21世紀の初頭に流行った。
「返事するの?」
 そう言ったのは、良く理絵子に相談を持ちかけるメガネの彼女。心配なほど大人しい娘。
 理絵子はちょっと考えて。
「シューマン、作品15の7」
 とだけ言い、彼女たちを残して、名簿を取りに職員室へ向かった。この曲ならどこぞの少女マンガに出ていたので、こういう言い方が出来る。
「え?何それ?」
「子どもの情景?…ああ、トロイメライか」
「トロイメライ?」
「“夢”」
「うわ、きっつ〜」
 そういう意味じゃないって。
  
聞こえること見えること/終

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