試しに独鈷杵を手に取り、視線を感じた部屋の隅の方へ向けてみる。
ミシッ、という、大木が強風に吹かれたときのような軋み音。
オカルトのマンガでラップ音と書かれる音である。
そして、音と共に、注目していた連中は遠ざかった。
…これを恐れている。
「今の音それのせいか?」
優子が訊いた。
「ううん。ちょうど柱が軋んだだけ」
居間の方から声。ご飯だよ。
「は〜い」
優子が答え、理絵子は独鈷杵を片手に居間に向かう。これから祖母に不思議な経験の詳しい内容を聞くので、念のために持って行くのだ。
鉄アレイさながらにゴテっと卓上に置き、新鮮そのもののお刺身をいただく。終わってヒアリング開始。
「あのマンションにまつわるひどい話を聞いてからですね。変なものが見え始めたのは」
祖母はうつむき加減に言った。
「相当あくどいことして地上げしたらしいです。元々古い借家が数軒建っていたのですが…」
その借家は金儲けというより半分慈善事業的だったようである。金銭的に困難な人々に極めて安い値段で貸していたという。
しかし、ある日突然、大家がいなくなり、がらりと変わった。
「又聞きなんでどこまで本当か判らないんですがね。借家は壊されマンションに変わった。でもいつまで経っても誰も入居せず、やがてバブル崩壊ほったらかし、勿体ないと思っていたら売り出ししてるんで我々が」
祖父が補足する。
「で、売れない理由は判りました。いやだな怖いなと思ったんですよ。でも建物の手入れは怠るわけに行きません。設備の動作を確認しに行きました。その時ですね。最初は」
祖母は言った。部屋に入り、電灯類の動作を確認していたところ、上の部屋を子どもが走り回るような足音がしたという。
「子どもがいたずらで入り込んだのかと。でも、行ってみるといないんですよ」
「ありがちだよな」
優子が感想を述べる。確かに“心霊体験談”なんかで良くある展開。
問題は昼日中ということ。普通、そういうのは怖さ増幅を狙って夜に出る。
「夫とおかしいと話していたら、エレベータがチーンと。電源は入れてないんですよ。でも行ってみると、確かにエレベータがドアを開けている。さすがに怖くなって退散しました。
それからです。庭で子どもの声がしたと思うと誰もいなかったり、窓ガラスをノックするような音がして誰もいなかったり。そして」
思い出した恐怖に、祖母の体温が下がり始めるのを、理絵子は感じ取った。
すぐ手を握る。これで大丈夫。
「安心してください」
「あ、はい。夜中にどうしても眠れませんで手洗いに起きました。そしてドアを開けたら…いたんです。女の子が」
その、祖母が見たという女の子の映像が、理絵子の意識に浮かぶ。強い印象を伴っているので、記憶の映像を超感覚で感知したのである。
その子は小学校3年生くらいであろうか。赤いミニスカートをはき、髪の毛はゴムで留めている。顔はぼやぼやしていてよく判らない。
その子は隠れんぼで見つけられた時のように、逃げるように走り去った。
理絵子はその印象を祖母に伝えた。
「そうそんな感じですね。それからはもう頻繁です。女の子と男の子。男の子はもっと幼いです」
男の子は祖母の印象では5歳くらい。鼻水を垂らして手も顔も服も薄汚れている。
「男の子は動かず、ただ物欲しそうにじっと見てることの方が多かったですね。座敷童みたいに、ふり向くとそこにいる。でも、見えたと思った瞬間、見えなくなる。そんな感じです」
理絵子は頷いた。そして、子どもたちの目撃が繰り返されるにつれ、祖母の恐怖は増幅され、夜も電気をつけっぱなしにするようになり、やがて体調の変化が始まっていったのだと判った。
ただ、体調の変化が始まってからは、逆に子どもたちの目撃回数は減少していったようである。
「よく判りました。怖いことを思い出させてしまって申し訳ありませんでした」
理絵子は言った。
「いいえ。それで…何か判りました?」
「はい」
理絵子は解説した。まず根本的に子どもたちはいわゆる幽霊さんである。そして、マンション建設のゴタゴタに何か関係がある。
次に、子どもたちは恐らく何か伝えたいことがあり、祖母に接触を開始した。祖母は当然恐怖を憶えるものの、その恐怖が、人間が原始持っていた“危険を察知する本能”のスイッチをオンにした。その結果、精神で感じる能力が鋭敏化し、見えるようになった。
「でも、そのあとの体調の変化は子どもたちのせいではないと思います」
理絵子は言った。
折角認識してもらえるようになったのに、怖がらせては意味がない。
「と、いうと?」
「失礼な物言いですが、“怖がっている人がいる”と知って、その、昼も申しました憑きものたちが集まって来たんです。むしろ、そのせいで子どもたちはおばあさまに近づけなくなった、というのが実際のところではないかと思います」
「ハイエナかゴキブリかってところか」
優子が言った。
その感想は、そう言われた彼らにはしゃくに障ったようである。いらだちを含んだ怒りの感情の芽生え。
庭で犬がわんわん吠える。自分たちに対する攻撃の意志。そして犬が吠えたのは、この者たちの姿が見えたから。
犬には霊が見えるという。
「あなたコロが…」
コロ…犬が吠えた原因を、祖母は異変と感じ取ったようである。心に恐怖が、心霊現象と結びついた恐怖が、冬の結露のようにさっと広がる。
縮こまる心につけ込み、入り込んでこようとする意識の動き。
マジックミラーの向こうから見ているような視線。
理絵子は、祖母の背中に手のひらを乗せると同時に、そのミラー越しの視線の方向…部屋の隅の天井へ目を向けた。私には全部見えている。犬にわざと姿を見せたでしょう。でも思い通りにはさせないよ。
舌打ちといらだち。理絵子には判っている。連中は人の心に恐怖が生じない限り、マジックミラーのこちらには入っては来られない。
だから出てくるのは夜だし、普通の人が昼日中にどうにかなることもないのだ。
徐々に強まる、自分に対する、彼らの敵意。
「とにかく、まずはこの憑きものさんたちには帰ってもらわないと。このままじゃ真相が判らないし、その子どもたちもかわいそうです」
理絵子は言った。
7
夜11時。
4人は同じ部屋に布団を並べた。
照明は点けたままである。しかし、困難を任せた安心感と、これまでの精神的疲労もあろう、夫婦はすぐに眠りに落ちた。ちなみに、祖母の体調には、その後特に変化は現れていない。
「で、実際のところはどうなんだよ」
優子が訊いた。理絵子が夫婦を安心させるため、本当のことを言っていない。そう思っているのだ。
確かに、言っていないこともある。但し、安心してもらうためであって、欺すようなことはしていない。
「ものすごく嫌われてる私たち」
理絵子はまず言った。
「邪魔で邪魔で仕方がないみたい。どこか行け、排除してやるぞ。そういう意思表示をずっと受けてる。彼らも出てくる場所が欲しいからね」
理絵子は言った。こういった連中の行動エネルギー…動機は、憎悪と怒り、嗜虐性、そういった部類である。だから、相手の恐怖する様が好きであり、そこにつけ込む。
救われない連中だと思う。意図を果たしたところで得るものは何もないのだ。そして最後には結局、力任せに排除される。
排除されると、その悔しさも手伝って、また被害者を捜す。
堂々巡り。
「このハイエナゴキブリ連中の目的って何なんだ?」
優子が訊いた。
「楽しければそれでいい」
理絵子は感じるままを口にしてみる。
「恐らくそれだけ。刹那的で怠惰な享楽主義者。でも、欲しいと思っている方向が破壊のもたらす刺激でしょ。刺激のもたらす快楽は、刺激のレベルを徐々に上げて行かないと、刺激を強くして行かないとつまらなくなる。だから刺激では永遠に満たされない。行き着く先が刺激のためだけに破壊しつづける魔性の生命体」
理絵子は言い、以前出会ったそんな生命体を思い出した。
“死神”である。
「お前が踏切でやられそうになったあいつだな」
理絵子は頷いた。詳細は省くが、その時、理絵子の心を死神から現実に引き戻し、電車に轢かれる寸前だったところを助けたのが優子である。
それをきっかけに、理絵子は優子に自分の力のことを話した。
“動揺”がマジックミラーの向こうに生じているのを理絵子は感じた。彼らに取り、彼らと同類でより強い存在、死神と渡り合ったという事実は、攻撃を躊躇させる大きな理由になったようである。この小娘は強力だ。とても敵わない相手だ…。
…作戦を変えよう。
「あんたらを力任せになんとかしようだなんて思ってないよ」
理絵子はマジックミラーの向こうに対して言った。
「そんな力もないし。ウソだと思うなら調べてごらん」
「おいおい」
理絵子の発言を、優子も、マジックミラーの向こうの連中も、“挑発”と受け取ったようである。
でも理絵子にそんな意図はカケラもない。
「対決なんかする気ないよ。何も解決しないでしょ。敵だとも思ってないし」
そもそもはかわいそうな存在なのだ、それを行動が攻撃的だからと言って排除するのはおかしい。
むしろ必要なのは“慰謝・許容”ではないのか。
刃向かう気持ちを弱めてみる。
と、その時。
「出てくる」
「え?」
理絵子は感じたままを言った。マジックミラーの向こうから、こちらへ出てくる。
天井付近に陽炎のようなもやもや。
「あっ…」
優子が気付く。彼女にも見えている。
強い相手だ…理絵子は認識した。
狐だヘビだ…ではない。明確に幽霊、否、怨霊である。死して尚存在し続ける、意識だけの怨嗟の人。
蛍光灯の光が失われる。
但し暗闇に閉ざされたわけではない。わずかに、本当にわずかにではあるが、光が残る。天井の梁がうすぼんやり認識できる。
わざとだ。理絵子は知った。怖がらせるための演出。
梁が、それこそ陽炎越しにあるかのように、揺らめき、動く。
続いて、陽炎のようなもやもやが、何か形を作り始めた。
人の頭部であると判る。ドロで作られたかのような、グレーとも茶色とも付かぬ色をした、人の頭部。
頭部がろくろ首よろしく、天井からぬーっと首を伸ばし、二人の方へ降りてきた。
優子が絶句する。本物の幽霊である。驚愕が彼女の心を捉えている。
しかし、これは最早鉄則だが、その驚愕が恐怖に転じてはならない。
理絵子はタオルケットの下から優子の手を握った。
ろくろ首が接近する。
鼻先に触れるか位まで近づき、静止する。
触れているかも知れぬ、しかし相手には実体はない。
祖母がガバッと上半身を起こしたのはその時。
「許してやるなどおこがましい。地上げ屋の手先が」
油の切れた機械装置のような、ギシギシした“錆びた”声。
それは最前までの祖母の姿ではなかった。眉間に縦皺を寄せ、目は怒りに燃え吊り上がり、噛み締められた歯は、今にもギリギリと音を立てそう。
声に祖父が目を覚ます。祖母の姿に目を円くする。
祖母の異様さが祖父の心理に恐怖を呼び込む。
インクのシミのようにさっと心理に広がって行く恐怖の観念。
「連中がおばあさまを借りて喋っているだけです」
理絵子はすぐ言った。
しかし祖父の恐怖をぬぐい去ることはできない。
仕方ない。
独鈷杵を手にする。それこそ挑発するようにろくろ首へと向ける。
「それでお前に何ができる。真言も知らぬくせに」
勝ち誇ったように言い、そんな風になるのかと思うほど、唇をVの字につり上げて嘲笑する。
「鬼…」
祖父がつぶやき、後ずさりした。
鬼、確かに今目の前にいる“老女”は鬼そのもののようである。古来語り継がれる怨恨と破壊の権化、般若の形相をしている。
しかし理絵子はあくまで攻撃をしようというのではない。
ろくろ首と化してしまった、鬼女となってしまったこの人の過去を探る。超心理学の用語でポストコグニション(過去認知)。
「やめろ何をする」
ろくろ首は拒否の反応を示した。
襲いかかる。浮かぶ般若の顔が突如巨大化し、部屋の半分をも占めるサイズとなり、狂気のガリバーのように、文字通り理絵子に食ってかかる。
巨大な顎が理絵子を捉える。パジャマの少女が口の中にすっぽりと隠される。
傍目には、理絵子は巨大な顎により、飲み込まれたように思われた。
しかし、理絵子には身体的な変化は何一つない。霊的存在と肉体は所属する次元が異なるからである。
彼らは心に働きかけることはできても、肉体に直接力を及ぼすことは容易ではない。
自分に対する優子たちの心配を強く感じながら、理絵子は自分を囲繞する環境のなんたるかを、心で捉えた。
“ここ”はろくろ首なる女性の内的世界。すなわち心の中。
“目”を開く。心の世界を眺める超感覚の目を開く。
理絵子はその人の止まった時空を概観した。
古い人、江戸時代の女の人である。夫婦となったが夫は他に女を作り、邪魔になった彼女を殺して、近くの古井戸から捨てた。
誰も彼女の死を知らない。遺体も放置。
裏切られた悲しさ。悔しさと憎悪。
自分は何も悪くない…そりゃそうだ。理絵子は同情を禁じ得ない。
「やめてくれ」
ろくろ首が弱気な声を出した。
理絵子はまぶたを開ける。そこには萎縮し、元の大きさに戻ったろくろ首の姿。
認識が二つ。一つは祖父の考え。自分がこのろくろ首から念力で脱出し、退治にかかっている。そして、そういう理解が恐怖を半減させている。
もう一つはろくろ首の意識。自分の同情に動揺している。
判ってくれる娘がいる。その認識が、自分に対する拒絶、攻撃の心理と抗っている。心を覆う鎧を外そうとしている。怒りと憎悪で、二百年の歳月で堅くなった、心の外壁を崩そうとしている。
受け止めてくれる存在を探していたのである。見つけてくれる存在を探していたのである。裏切られ悲しい自分を抱きしめてくれる腕と、わぁわぁ泣かせてくれる胸を探していたのである。
理絵子は抱きしめた。
祖母の身体を通じ、ろくろ首となった女性を抱きしめた。
探してあげる、きっと私が探してあげる。
つらかった。ずっとずっと、誰にも探してもらえず、判ってもらえず、とてもつらかったね…。
でももう、誰も待たなくていい、誰も苦しめなくていい、私が今、あなたを見つけた。
イメージ。雑木林。この近くの場所。女性はそこから古井戸へ突き落とされている。
「約束だよ」
祖母の口で、その女性は言った。
「地上げ屋だなんて悪かったね。でもこの子らを邪魔したわけじゃないんだ。可哀想なのに力任せに追い払おうとする、そんな奴らから守りたかったのさ。この子らも私と似たようなものだからね」
「行ってしまう」
理絵子は言った。
祖母の身体から、がくっと力が抜ける。
倒れ込む祖母を祖父が支える。
理絵子は天井を見上げる。ろくろ首と共に“マジックミラー”が姿を消し、存在を感じさせた、その向こうの世界が消滅している。
それは同時に、この家にあった“吸い寄せる”ものの感じ、マイナス成分の集合が消えたことを意味する。暗さや重さは既にこの家にない。
巨大な“磁石”たる悲しい女性がいなくなったことで、砂鉄のように貼り付いていた小さな愉快犯たちもいられなくなったのだ。
この家には。
8
時刻は午前三時を回った辺り。
理絵子は祖父に一部始終を説明した。
祖父は祖父で、“ろくろ首”が見えていた。一般に肉眼では感知できない現象であるが、元々は“思い”…すなわち、心の発揮するエネルギーの次元であるため、エネルギーが強烈であれば、心で直接見て取ることができるのだ。ちなみに、超感覚という能力は、心で捉える能力が格段に高感度になった状態といえる。
「本当にいるとは…」
「心の状態が姿の変化となって現れるんです。行き着く先は本当に鬼になったと思います。怒りと破壊の権化は世界中の伝説に存在しますが、恐らく皆実際にそういうのを見たのが元になっていると思います」
理絵子は言った。そして、破壊の権化たちは否定され放逐され、思い満たされぬまま永劫の時を彷徨う。
叱られるばかりで優しくしてもらえない子どもと同じ。
「これで解決ですか?」
祖父がちょっと笑みを作って訊いた。
「いえ、肝心なのはこれからです。今の女性やその取り巻きのために、子どもたちが出てこられなくなってしまった。今の女性はマンションとは無関係です。マンションの方は子どもたちと接触する必要があります」
理絵子は言った。子どもたちは今この家を離れている。
接触するにはマンションに行く必要がある。
子どもたちは待っている。
話を聞いてくれる誰かを。
「今から行きます」
理絵子は言った。行くなら早いほうがいい。さもないと、また今の女性のようなのが、子どもたちの行動に乗じて現れ、居座る。
それに、幽霊さん一般に言えることとして、接触は夜の方がたやすい。その理由は、理絵子の私見ではあるが、夜や闇に対する人間の本能的な嫌悪感、恐怖感が、“マイナス”の雰囲気を作るからである。
「オレも行くぞ。何も判らない方がかえっていいこともあるかも知れないしな」
優子が言い、布団から起き出した。
「今からかい?」
祖父の問いかけに娘たちは頷いた。その顔には“気が進まない”と書いてある。
理由は二つ。娘たちの身の危険、そして理絵子がいない間の怪奇現象への恐怖。
「これを置いて行きます」
理絵子は独鈷杵を祖父に渡した。
「大丈夫なのかね?」
理絵子は黙って頷いた。
「彼らは、これが何をするものか知っています。これがここにあるだけで近づこうとしません」
「そうか。ああ、そうだ」
祖父は頷くと、何か思い出したようにタンスの上に手を伸ばした。
携帯電話。
「じいちゃんいつの間に?」
「飯の呼び出しとか、電話のたびに畑から戻るとか、面倒だからな。さ、これを持って行きなさい。何かあったときには連絡を」
「ありがとう」
理絵子は電話を受け取った。
着替えて懐中電灯片手に家を出る。周辺は家がない上、月も沈んだので真っ暗。波の音もほとんど聞こえない。ただ、静かというわけではなく、ビーという耳障りな虫の声がずっと聞こえ続けている。
「これで行こう」
優子が倉庫から原付を引っ張り出してきた。
新聞や郵便配達用として多く使われ、マニアも多いと言われる著名なバイク“カブ”。
「え?だって…」
「無免許運転8年のベテランだぞオレは」
安心していいのか悪いのか判らない。
「それとも闇の中てくてく歩くか?」
「わかった」
理絵子は“カブ”の荷台にまたがった。
優子がペダルを蹴ってエンジンをかける。無免許ノーヘル二人乗り。ああお父さんごめんなさい。
「行くぞ」
言われて優子に抱きつく。スロットルが開かれ、深夜のツーリングスタート。
風がびゅうびゅうと音を立て、髪の毛がばたつく。風圧で後ろに引き倒されそうなのを優子にしがみついて耐える。
ただ、風を切って走るのは悪い気はしない。
国道へ出、坂をかけ下りて崖の下。左は海岸、右は草原。信号もなく交差点もない。
すれ違うクルマもバイクもない。
数分走り、あっさりマンションのエントランスに着いた。
コンクリートの構造物に反響するエンジン音。
バイクを降り、スタンドを出す。
エンジンを切ってライトを消す。
音と光がゼロとなる。
「不気味以外の何ものでもないな」
優子がマンションを見上げて言った。
夜闇の中、わずかな光にぼーっと浮かび上がる白い壁。
一般に、誰も住まない建造物は、ただ空虚というだけではなく、それ自身意志があり、何か訴えかけているような哀切さがある。言い古された表現を使うと、巨大な墓石の印象だ。
ただ、この建物の場合、それに加え、何かをはらんでいる。待っているようで拒んでいる。そんな雰囲気が備わっている。
要するに“姿無き住人”がいるのである。
「たくさんいるよ。たくさんね」
理絵子は言った。子どもたちだけではない。蛇だ狐だと呼ばれる連中が無数に集まっている。
その集まるメカニズムは、桜井家の雰囲気変化と同じ。
中に入ろう。理絵子がそういう意志を示しただけで、壁で押してくるような拒絶反応。
と、同時に、前方からゆるやかに吹いてくる、驚くほど冷たい気流。
理絵子は優子の手を握った。
それは拒絶反応が起こした風。
「幽霊出るときの風は拒否の意識なんだな」
「この場合はね」
「なるほど」
優子が頷きながら、玄関ホールの脇、管理人室のドアをカギで開けた。
暗闇に向かい、懐中電灯をスイッチオン。
が、ランプの明るさほど室内は明るくならない。かろうじて、室内に事務机があるのが判る程度。
中に入る。室内の什器は唯一その事務机。蛍光灯は灯具だけで蛍光管は入っていない。壁にも何もなく、がらんどう。
しかし。
「消してみて」
理絵子は言った。
「え?あ、うん」
優子がスイッチをオフにする。
理絵子は、自分が心で見ている光景を、そのまま優子に流した。
「すげ…」
優子が絶句する。それは部屋中の壁に床に天井に、隙間無くびっしりと張り付いた、人が嫌うとされる生き物の数々。
ワニかトカゲのような爬虫類。クモやムカデを思わせる節足動物。
「わざわざ、こういう姿でいるわけ。怖がらせるために」
理絵子は言うと、事務机の脇を通って、マンション内部へと通じるドアへと歩いた。
生き物たちが、カサコソ耳で聞こえる音を立て、ドアへ集まる。
「不気味な音の仕組みはこういうことか」
「そう、多分にわざとね」
理絵子はドアノブに手をかけた。
と、上からぬっと降りてくる顔より大きな黒いクモ。
不自然に細長く伸びた8本の脚には、見て判るほど太い毛がびっしりと生えている。
醜悪そのものの外観。
クモが顔をもたげる。金色に光る8個の目。むき出された2本の牙。
曰く、ここより先に行くな。
「案内してよ」
理絵子はクモの意識と全く逆のことを言った。
「ムダだと判ってるでしょ。どうせ私は見つけるよ。別に君のことどうにかしようとは思っていない」
理絵子は言うと、クモの背中に触れた。
過去が見える。大切なものを守ろうとして果たせなかった“無念”の残骸。
「大丈夫、ここで私を行かせても君の失態にはならないし、君が思うような裏切りにも当たらない」
理絵子は言った。14歳の女の子が、自分の顔より大きな毛むくじゃらのクモを撫でている。それは、見える者には不気味な光景であるし、見えなければ、暗闇でドアに向かって独り言を言っているわけで、それもまた異様な光景である。
クモからとげとげしさ、攻撃的な意識が消えた。
と、同時に、異様な太い体毛が消え、巨大な姿もみるみる縮んで行く。
「点けてみて」
理絵子は言った。懐中電灯が照らし出したのは、ドアに巣を張る小さなクモ。
「ごめんねありがとう」
理絵子は言うと、クモを指先に載せ、巣を払った。
ドアを開ける。油切れのギイという音がエントランスホールに響く。
その響き方から相当広い空間だと判じる。ただ、奥行きはさほどでもないので、高さ方向に広いのだろう。案の定、懐中電灯を上に向けると、最上階まで吹き抜け。
何か落ちてくる。
光の届かない高い位置から何か落ちてくる。
さほど大きくはない。手のひらから少しはみ出す程度。
形が見えてくる。小さな人のような感じ。
人形。
バタッと床に落ちる。赤いスカートを穿いているので、女の子の人形と判る。
但し首はない。
「悪趣味極まりないな」
優子が言う。理絵子の指先でクモが小さな脚を振る。
何か訴えている。
後ろ?
振り返る。
「消して」
優子が懐中電灯を消した。
大蛇。
「すげー」
優子が言う。この吹き抜けホールにまるで合わせたように、下から上までくねくねと身を立ち上らせ、壁に張り付いている大蛇。
二人に姿を見られるや、大蛇はコブラよろしく口を開き、牙を剥いて飛びかかってきた。本当は理絵子たちが人形に気を取られているうちに襲う計画だったようだ。見抜かれた悔しさを強く感じる。
しかし理絵子は動くことも、防御することもなかった。
大蛇が言うようには、自分たちを“殺す”ことなどできはしないから。
死が虚無そのものではなく、肉体を失うだけの現象に過ぎないことは、他ならぬこの者たちの存在が証明している。
それで死を意識させ、怖がらせることなど無意味。
それに、殺せるほどの力があるなら、昼日中でもできること。
大蛇の牙が理絵子の顔をかすめ、行き過ぎる。
一瞬の風。翻る髪。鋭い痛み。
滴が頬を伝う感触。見ずとも判る。自分の血である。
「りえぼー…」
「かまいたちの実例ってわけ」
理絵子はハンカチを頬に当て、後ろを向いた。床にとぐろし、首の部分を立ち上げて見下ろす巨蛇。
妖怪変化そのものであると知る。ろくろ首なる女性にはまだ人の部分が残っていた。
しかしこれは違う。もう、人であった部分はどこにも残っていない。怨念の権化。
しばし対峙する。お互い相手を力任せにどうにかする能力はない。しかし引き下がる気もまたない。
大蛇の意識を読む。
守護者としての目的意識。裏切り者に対する怒りの意識。
どうもこの者は、誰かの、“子供たちを守りたい”という意識に応じて出現し、接近する者を排除する守護者として、ここに居着いているようである。そして、手先として、このクモをはじめ、多くの魑魅魍魎たちをここに引き寄せた。
幽霊マンションの幽霊たるゆえんである。
…その裏切り者をこっちへ引き渡せ。大蛇の意識が怒りを帯びる。
指先のクモが再び脚を振る。
理絵子は気付く。誰かがいる。
−こっちを見るな襲われる…鋭い制止の意志。
その意志で、理絵子はその人が誰か知った。
それこそろくろ首なる女性である。生前の名は「はな」。
−それを呼び寄せたのは私だよ。ごめんね…はなさんの意志は語った。
「おはなさん!」
理絵子は蛇を見たまま思わず声を出した。
蛇が注目をわずかに理絵子から離す。
その瞬間。
理絵子の指先からクモが跳躍する。
見る間に、蛇を捕らえるに充分な巨大グモへと変化し、蛇に挑みかかる。
蛇が牙を剥く。
その牙めがけ、クモが尾部から糸を吹き付ける。
巨大な妖怪同士の格闘。巨体がのたうち、長い脚が入り乱れ、白い糸が乱舞する。但し音はなく、能力のないものには風を感じるだけで見えることはない。
−今のうちに。
はなさんは言い、理絵子に行き先を示した。
このホールの海岸方向、廊下の先端、ドアを抜けて前庭。
理恵子が優子の手を引き、二人して廊下を走る。はなさんの姿は見えないが、確かにそこにいる。
ガラスのドアに行き着く。石でもぶつけられたか割れているが、こぶし大であり、人は通れない。
カギを出すため懐中電灯をつける。
その瞬間。
「うわっ!」
夥しい数の小さく跳ねるものが、天井からバラバラ落ちてくる。
黒くて硬いとげのようなものが無数に生えた異形の生物。
首筋に背中にそれが止まる。ちくちくしたものが動き回り、やがて襟首から中に入り込むおぞまし…。
「違う!便所コオロギ!」
理絵子の認識を優子が否定した。
ハッと目覚めたように意識がすっきりする。

カマドウマ。翅のないコオロギの仲間。暗がりに集まる性質を持つ。
それだけである。判ってしまえば慌てることはない。
「ありがとう」
理絵子は言った。危うく欺されるところ。また優子に助けられた。
“何も判らない方がかえっていいこともあるかも知れない”まさにその通り。
二人は頭や背中にはい回る感触を感じつつ、ガラスのドアを、開けた。
9
波の音が聞こえている。
マンション前庭には遊具が少しあり、小さな子どもたちが遊べるようになっている。
だが。
海岸近くであり、無人のまま使われることのなかった遊具類は、錆を吹いてみんなぼろぼろ。
滑り台、ブランコ、鉄棒、ジャングルジム。
ブランコがキイと動いた。
「消して」
理絵子は優子に言った。
ここからはテレパシーが必要になる。
〈何しに来たの?〉
とげのある、若い女の“声”がした。
〈おばあちゃん、この子、何?〉
おばあちゃん…はなさんのことである。
そして、この若い女こそ、桜井家で目撃された子どものうちのひとりだ。
ついにたどりついた。
だが、“声”だけで、超感覚で見ても姿が見えない。
〈この子はりえちゃん。お前たちを見つけてもらうために来てもらったの〉
〈嘘〉
女の“声”が言った。
〈こんな、のほほんとした娘に何も判らないよ。どうせまたここを売ってひと儲けしようとする人間の手先でしょ〉
女の“目線”を理絵子は感じた。
その拒否と反発は、自分の過去を見られたくない意識の表れ。
〈探るなよ〉
トーンが低く、堂に入った、恫喝という表現が使える“声”で、彼女は言った。
〈邪魔するんじゃねぇよ。俺たちはここで金儲けしようとする奴らを永遠に苦しめてやるんだ〉
〈嘘〉
今度は理絵子が言った。
〈だったらなぜ、桜井の祖母の前にずっと現れたの?私をここから追い出そうとしないの?しかも小学生くらいの姿だったでしょう?。苦しめるなら…〉
〈うるせぇんだよ!〉
彼女…ゆきえと判じた…は、理絵子の意志をかき消すように、声にたとえるなら怒鳴るように、強い意識を発した。
が、次の刹那。
〈判るかよ。お前みたいな幸せ一杯の奴に判るかよ。家があって両親がいて友達がいて…お前なんかに判るかよ!〉
理絵子は見た。
闇の中から浮かび上がってくる少女を、汚れたジャージを着、土の上に泣き崩れる少女の姿を。
年齢は自分とそう離れておるまい。突っ張って突っ張って生きてきて、そしてついに力尽きた少女の姿を。
ブランコから飛び降りる足音。
こちらへ走ってくる。
〈お前、姉ちゃんに何やった!〉
パッと目の前に現れる、鋭く糾弾する幼い男の子。
こちらは桜井家に現れたそのままの姿である。やはり汚れた服を着た男の子。
理絵子はしゃがみ込み、男の子の目をじっと見つめた。
〈ごめんね。…ようへい君か。あなたのお姉ちゃんに判ってもらいたくって〉
〈お姉ちゃんいじめる奴はオレが許さないぞ〉
男の子…ようへい君は理絵子を殴ろうとした。
しかし、小さな拳はすりぬけてしまう。
〈あれ?〉
少女…ゆきえが、理絵子に向け意志を発したのはその時。
〈その子に真実を教えないで!〉
イコール、ようへい君は。
自分が死んだことを知らない。
ずきっ…言葉で書けばそんな痛みが、理絵子の胸を襲い、身体をぐらつかせた。
抱きしめる。ただ何も考えず目の前の少年を抱きしめる。
手のひらに、頬に触れるものは何もない。
でも理絵子には判る。ここに男の子がいる。形はなくても彼はここにいる。
理絵子は見た。
男の子の楽しかった日々。父はいない。母と姉弟と、ここに元々あった家は古かったが、住むには充分だった。姉弟は、草原を海岸を庭に楽しく暮らした。
そこへ悲劇が訪れる。仕事先の工場へ自転車で向かった母が事故で亡くなった。
収入源を失う二人。しかし、大家さんは優しかった。二人を養子としてひきとり、そのまま暮らして良いと言ってくれたのだ。
だが、程なく大家さんはいなくなった。
連日、黒い背広の男が現れるようになり、二人に立ち退きを迫った。ここは元の大家さんから借金のカタとして自分に渡ったと説明された。
そしてある日、学校から帰るとそこには何も無かった。
取り壊されていたのだ。
〈お姉ちゃん、こいつ泣いた〉
ようへい君はゆきえに報告した。
ゆきえがゆっくり“身体”を起こす。
〈もういいよようへい〉
〈うん。ザマ見ろ〉
ようへい君は理絵子に向かってベッと舌を出すと、ゆきえの元へ走り寄った。
〈お前みたいな奴初めてだよ〉
ゆきえは言った。
〈見つけるって、本当か?〉
理絵子は頷いた。
“排除”しに来たのでは、決してない。
〈こっちだよ。おばあちゃん、ようへいとちょっと遊んでいて〉
ゆきえは言うと、海岸へ向かって歩き出した。
10
マンションのプライベートビーチを左方へ向かう。
そちらには先ほどバイクでかけ下った崖が伸びてきており、そのまま海へ落ちている。
従って、砂浜はゴツゴツした岩場で終点。
「ここならオレしょっちゅう来てたぞ」
と優子。
〈今は引き潮だから大丈夫だな。気をつけて〉
ゆきえが言った。
岩場へ足を踏み入れる。二人はゆきえを追い、居並ぶ岩と岩の間に飛び降りる。
そこは、足下には波で運ばれたのであろう砂が堆積し、回りの岩には、理絵子の肩の高さくらいまでフジツボがついている。
つまり、潮が満ちるとそこまで水につかる。
〈そこだよ〉
ゆきえの意志に基づき、顔を崖のほぼ直下、岩がごちゃごちゃと入り組んだ部分の下方に向ける。そこには入り組んだ岩に隠れるように、人が四つんばいでやっと通れる程度の穴。
懐中電灯片手に中を覗く。
すると、そこから上方へ向かって続く広い空間。
「こんな穴知ってた?」
理絵子は言うと、中へ入った。
「知らねーよ」
優子が答え、後から続く。
「へえ…」
優子は感心したように声を上げた。中は立てるほど広いのだ。
下から上へ向かう穴。その入り口は引き潮にならないと出てこない。
「ここに住んでいたの?」
理絵子の問いにゆきえは頷いた。
理絵子はそこから進むことを躊躇した。
懐中電灯で中を照らす。足下に古びたノート。名前はひらがなで“ようへい”と読み取れる。
そして奥の方にぼろぼろのズックと。
そのそばに、棒状の白いもの。
生きていた証。
「りえぼーその靴の…」
優子が言いかけ、やめた。
わざわざ口にすることではない。
〈何とか仕返ししてやろうとして必死だった。何でもやったよ〉
ゆきえは言った。弟を食べさせるため、夜な夜な町へ出ては、強盗や盗みを働いてその日その日を生きてきたという。
しかし、ある日大雨でこの洞窟は水没し、二人は息絶えた。
「生活保護とか…」
〈知ってたよ!でも自分だけで何とかしたかったんだよ!お前みたいなカッコだけ不良と違うんだ!〉
優子の言葉にゆきえは強く反応した。
〈お前はただ学校がかったるくてそんな格好してるだけだろう?帰れば飯も寝るところもあって、親も友達もいるじゃないか。何もしなくても生きていけるのをいいことに甘えてるだけじゃないか。違うか!こっちは…〉
「悪かったよ」
優子は言った。
「そんなつもりはなかったよ。ただ、あんたにも、近くに相談できる人がいれば…」
優子は口をつぐんだ。
理絵子は携帯電話のアンテナを伸ばした。ここから先の話は父親に任すべきだ。
「じいちゃん呼ぶのか?」
「ううん、父親」
「警察か」
「私たちの手に負えるレベルじゃないし…」
「それで黒背広つかまるのか?」
「確か同意無く追い出したりはできないはず。前の大家は登記簿とか見れば判ると思うし、ゆきえさんたちが住んでいたかどうかは学校の名簿にあるでしょう」
理絵子は言うと、携帯電話の発信ボタンを押した。
「…黒野竜一さんの携帯はこちら…ああお父さんあたし。優子ちゃんのおじいさまから借りたの。…うん、そう。悲しい出来事。住所言うから手配を」
理絵子はマンションの住所と名前を告げ、電話を切った。
〈ありがとう〉
と、ゆきえ。
〈このくらいしかできないけどね。出てもいいかな。警察案内しないと〉
〈うん〉
再び穴から外へ出る。
夜明け間近を示す群青の空。
立ち並ぶ岩と岩の間に海水が少し。潮が満ち始めたのだ。
「危なく閉じこめられるところだったぜ」
〈それなら大丈夫〉
言ったのははなさん。
ようへい君も一緒。
〈ごめんね。ようへい君がお姉ちゃんどこと言うもんだから。この穴はね、反対側は古井戸さ。元々ここには水が流れていてね。水汲みすぎて降ったときしか流れない枯れ川になっちまったのさ。最も、そっちから出ようとすると、私もいるわけだけど〉
はなさんは言った。はなさんがここで亡くなって200年。彷徨う彼女の前に現れた姉弟に対し、孫を持ったようなかわいさと共に、身の上に同情し、怒りを覚えた。以来、ここに共に住まい、ここを金儲けの道具に…地上げする者たちを攻撃してきた。同時に、いつか怒りに報いてくれる人を、と待っていたのである。
拒否の気持ちと、待っている気持ちが、ない交ぜになっていたのはそのせい。
〈警察には奥の方まで探すように言います〉
理絵子は言った。今自分にできることはそれだけ。
マンション前の公園に戻る。
〈さ、ようへい、帰ろう〉
〈うん〉
姉弟がマンションへ入って行き、すぅっと姿を消す。
そして多分、二度と出てこない。
思いを遂げた姉弟の行くところは、当然、先に行った母のところ。
〈迷惑かけたね〉
はなさんが言った。
〈いいえ〉
理絵子は目を伏せた。自分がいかに幸せに暮らしているか、痛切に思い知った。
家も、食事も、抱きしめてくれる腕も、泣かせてくれる胸もある。
それが当たり前だと、それがどんなに素晴らしいことか気付かない。
〈物の怪どもは消えちまったよ。あいつらはあいつらで、私らを守ってくれようという気持ちがあったのか、守るフリして何かしようとしたのか。私らも利用してたからお互い様かな?ああ、長かったなと思ったら消えたよ。さぁ。私も行くよ。もう今生に用はないさ〉
はなさんは言うと、朝日の最初の光と共に、すうっとそこから姿を消した。
「さよなら」
パトカーのサイレンが、遠くから聞こえてきた。
11
捜査の結果、二人は3年前に行方不明となった13歳と7歳の姉弟であると判った。
同級生のクラス名簿から住所が明らかとなり、黒背広の男は典型的な地上げ屋で、各地で強引に住民の追い出しをしていることが判明した。但し別の詐欺で服役中であり、獄中で再逮捕となったようだ。
一方、はなさんの方は、鑑定で200年以上経過していると判明したため、亡骸は警察から大学の研究機関へ移された。その上で、民族博物館で保管されている村の捕物帖と照らし合わせた結果、7代将軍家継の時代である1715年(正徳5年)に不明となった、大工伊平の妻「はな」さんである可能性が高いことが判った。
スーツ姿の男性係員がマイクロフィルムの投影装置を操作する。画面に映し出される達筆で読めない本文。
「これによると『伊平は自ら妻の捜索を依頼しておきながら日夜…まぁ風俗通いですな。これにうつつを抜かしていた。まるで妻がいなくなって好都合と言わんばかりの有様で、一番怪しいが何せ仏があがらない』とあります。当局は夫が怪しいと踏んでいたようですね。また村人たちの証言録があって『祝言を挙げてしばらくは仲むつまじくしていたが、子どもができて口げんかが絶えなくなった』と。まぁ子ども生まれるとそればっかりですし、子どもってうるさいですからね。最近でもほら、虐待とかあるでしょう。あれに通じるものですね。まぁこういうの見てると、男って“女が好き”なのであって、それ以外はどうでもいいって感じがして同じ男として恥ずかしい限りですわ。ひょっとすると、同じ結婚でも、単に女とくっつきたいのと、家族を持つというのと、2通りあるのかも知れませんね。お嬢さんたちも…まぁずいぶん先でしょうが、男を見る目を磨いてください」
「はぁ…」
およそ現実的でない話に二人は生返事。
「これコピー取れますけどいります?」
「あ、ください」
コピーをもらい、博物館付属の喫茶室で昼食を取り、午後からは桜井家近くのお寺に。
姉弟の埋葬である。調査した結果、お母さんがこのお寺に葬られていることが判ったのだ。そこで桜井家の方で二人を引き取り、お寺に永代供養を依頼したのである。大きな寺で、かれこれ300年になるという。
「これも一緒に」
理絵子は住職に独鈷杵を差し出した。
「ほう。お若いのに珍しいのをお持ちですね」
50過ぎと思われる眼鏡の住職は、少し感心したように言った。
「しかしどうしてこれを?」
「お守りです。二人の」
「なるほど。承知致しました」
「それと…過去帳って保管されていますか?」
「檀家さんの方ですか?最近はプライバシーの問題があって…」
「いえそういう最近のものではありません。例の事件で同時に見つかった古い女性について、こちらに記録がないかと」
理絵子は博物館でもらったコピーを住職に見せた。
「…なるほど。200年前でしたっけ」
「正徳5年ですね」
「探してみましょう」
住職は言うと、その場を去り、本尊の奥へと向かった。
出されたお茶とお菓子を頂く。
「お前といると何時代か判らなくなるよ」
と優子。
「まぁ、古いままだからねぇ」
待つこと5分。
「お待たせしました」
住職はすっかり茶色くなった過去帳を持ってきた。
「夫が大工の伊平、妻がはなというんですけど…」
「待ってくださいね…」
住職は手に白手袋をはめ、過去帳をめくった。
「伊平伊平…あ、ありますね。えー、はなは行方不明。夫伊平は落下事故で翌年に死んでいますね」
「え…」
二人は顔を見合わせた。
妻を古井戸に突き落とした夫が落下事故。
因果応報とはこのことか。
「それで、このはなさんのことはこちらに書き加えますか?」
「いえ」
理絵子は目を伏せた。
「むしろ、この子たちと一緒にしてあげてください。一緒に見つかったわけですし」
「わかりました」
住職は言うと、立ち上がり、受付窓口そばの机に向かった。
パソコンを叩く。
「本当、何時代なのやら」
言ってる間にプリンタが動き、1枚印刷。
「これでよろしいですか?」
鬼籍に並ぶ三つの名前、ようへい、ゆきえ、そして、はな。
「ありがとうございます」
二人は頭を下げた。
壺を納め、お経を上げ、住職の車でマンションへ向かう。
予定の2時に少し遅れて到着すると、既に祖父母、そして不動産屋の男性が待っている。
お経を上げて供養。
その間に二人は海岸へ降りる。
姉弟と、はなさんの“住んで”いた場所。
満ち潮なので中へ入れない。そばの岩場に三人へ贈り物。
ミニカー、ピアス、そして簪。
「ようへい君はいっぱい遊んで。ゆきえさんとはなさんはおしゃれを楽しんで」
手を合わせ、冥福を祈る二人を巡るように、夏の到来を告げる潮風が吹き抜ける。