差出人不明
 
前編
 
 放課後の教室。
 がらんとした室内には、西陽が差し込み、あらゆるものがオレンジ色に染まっている。
 但し無人ではない。室内中ほど、セーラー服の少女が二人。
「そっかぁ。後々のことを考えるとねぇ」
「だよ。そりゃ妥協したくないってのは判るけどさ。それはそれでお母様なりの『最良の選択』だったんだよ。親ってさ、あたしたちがいくつになろうと、どう成長しようと、いつまで経っても『子供は子供』なわけ。秘めたる思いを消す必要まではないけどさ。ここは落ち着くまで低く構えておいて、その間に自分磨いておけばいいじゃない。そのほうが正々堂々と」
「後腐れがなくていいか」
「そゆこと」
「了解!あ〜私も頭ではそうと判っていたんだけどさ、やっぱりココロの中ではすっきりしなくて。でもりえぼーに言われてすっきりした。ありがと」
「いいえ。どういたしまして」
 “りえぼー”と呼ばれた少女は煌く瞳で小さく笑った。
 黒野理絵子。14歳。中学2年生。
 幼さを残した小づくりな顔立ちに、その煌く瞳が人目を引く、ハッとするほどの美少女である。
 背丈はどちらかというと小柄。陽光の中、少し紫を帯びて見える髪の毛を背中で束ねている。
 教室のドアが開いた。
「何してるの?早く帰りなさい」
 志村(しむら)という女先生。生徒たちの人気はすこぶる悪く、年齢、容姿、言葉遣い、その他彼らの評価を全て書き立てれば立派に名誉毀損が成立する。最も、平成の世に生を享けた生徒達にしてみれば、“高度成長期”など預かり知らぬ遠い過去。価値観の相違はいかんともしがたい。
「何時だと思ってるの」
 教室から出ようとする彼女達に、志村教諭はさらに言った。
 生徒たちが最も嫌う行動のひとつ“余計な一言”である。
「すいません。数学で判らないことがあって二人で唸ってました」
 理絵子は立ち止まって答えた。その一方で左手を小さく振り、もう一人に“行って行って”。
「じゃあお先に」
 もう一人の女子生徒がそそくさとその場を離れる。
「あ!…数学なら佐久間(さくま)先生にお尋ねになれば…」
 志村教諭は女生徒の姿を階段まで目で追いながら尋ねた。
「彼女塾です。…そうしたいのは山々ですけど聞いてしまっては頭に入りませんから。考えて答えを出さないと身につきません」
 理絵子は真顔で言った。
 すると、志村教諭は“負けました”と言わんばかりのちょっとあきれた顔。
 …理絵子が自分をうまく言いくるめたと自覚しているのだ。
「…なるほどね。あ、そうだ。あなたのクラスの桜井優子(さくらいゆうこ)、さっき屋上にいたわ。何が見舞いよ。ったくウソばっかり」
「でも私はそう聞きました。それに、彼女のお父様が病気なのは本当ですよ」
「それは判るけど…言っておいて。出席時間危ないって。このままじゃまた…」
「判りました」
 理絵子は答えると、志村教諭に一礼し、階段へ向かった。
 1階昇降口に下りると、その桜井優子がいる。
 年齢不相応に濃い化粧をした少女であり、セーラーは襟元を改造、スカートはひざの上までで、ぺちゃんこのかばんを背負い、靴はかかとを潰したスニーカー。
「よぉ」
 男のように喉をつぶした低い声で理絵子に話し掛け、ガム風船をぷかり。
「はろ〜」
 理絵子は立ち止まって笑顔で応じた。
「ババア何か言ってた?」
「出席が…」
「足りないか。しょーがねーな」
 二人は下駄箱へ歩く。
 部活上がりの同級生たちからの奇異の目。
 理絵子はそうした視線を受けるたびに、この少女が外見からは判らぬ傷を心にひとつずつ増やして行くのを良く知っている。
 同学年だが1つ年上。外見はいわゆる不良。でも少女は少女であり、薄いクリスタルガラスのような心の持ち主であることに何ら変わりはない。
「面倒ばっかり悪いな。ったく、ババァもこっちに直接言えばいいのによ。口ではえらそうなこと言って。オレってそんなに怖いか?」
「大人が気にするのはまず外見と世間体。あたしなんかその典型的被害者」
 理絵子は言うと、スタンダードなままのセーラー服を広げて見せた。
 もちろん、化粧はおろか装飾品の類は一切身につけていない。かばんも学生用の黒い革かばんそのままである。
「あたしだってミニにした方がかわいいかなぁと思うんだけど、親の仕事があれだからね、『示しが付かないことしてくれるな』って。外見だけそうしても燃えたぎる熱いハートは消せないよっての」
 理絵子のセリフに桜井優子はフッと笑った。
「お前ってホント面白いな。しかし警官の娘が不良のお守ってのもなんだかな」
「あたしがクラスで名前で呼ぶのは優子だけだよ」
 理絵子は笑って言った。
 楽しい。この少女とお喋りするのが本当に楽しいと思う。そして、恐らくはここまで通じ合えるのは、クラスの中で二人の立場が似たようなものだからだという気がする。
 この少女はその外見と“同学年だけど年上”であるが故にみんなから距離を置かれている。
 そして自分はそう、まじめぶった優等生でいつも先生に優遇され…
 まただ。理絵子は自分の下駄箱に手を触れる前にそれと判じた。
「またかよ」
 眉を曇らせる理絵子を見て桜井優子が言う。
「うん」
 理絵子は下駄箱のふたを開き、靴と共にそれを取り出した。
 封筒。有名な猫のキャラクターを使った可愛い封筒。“黒野理絵子様”…小さな字。
 …自分がこれのために妬まれていることは良く知っている。
 まじめで優等生な学級委員の美少女は特に同性から非常な反感を買うらしいのである。
 但しそれは理絵子の自意識ではない。周りがそう思っていると如実に判るのだ。
「はぁ」
 理絵子はため息をひとつつくと、靴を履きながら封筒をひっくり返した。さて今度は誰でしょう。
「ん?」
 彼女が動作を止めたのはその時である。
 差出人の名前がない。しかも…
「…なんだそれ。焦ってテメエの名前書くの忘れたんじゃねぇのか?」
 桜井優子が覗きこむ。
 理絵子は首をかしげる。違和感。この言い知れぬ違和感は何。
 何か違う。いつものこの手の手紙と違う。
 読まなきゃいけない。中を開かなきゃいけないという悲壮なまでの何かを感じる。
「おいおい開けちゃうのかよ」
 封を切り始めた理絵子に桜井優子が目を大きくする。
「気になることがあってね」
「お前得意の“勘”って奴かい。最もお前の場合、勘通り越して殆どエスパーだけどな」
 桜井優子の言葉に、理絵子は一瞬手を止めたが、開封を再開した。
 理絵子には、まだこのクラス唯一の友達に言っていない、秘密がひとつある。
 それは…
 封筒から手紙を取り出す。封筒とセットなのだろう、同じ猫のキャラクターを使った便箋。
 感じる。悲壮なまでの“会いたい”という気持ち。会いに来てという切望。文面も“伝えたいことがあるので会いに来て”という内容ではある。しかし文面以上にその気持ちが強いことが理絵子には判る。必死を通り越し、泣きながらの、命がけの、強い思い。そんな感じ。
 判ってしまう。理絵子には言葉を交わさずとも、文字にしなくても、心の中が直接判る不思議な能力が備わる。
 でも、誰にも言ったことがない。警戒されるに決まっているからである。そしてもちろん、恣意的にその能力を行使することはない。
 心の中を覗く趣味はない。
「…4丁目の踏切ってどこだっけ」
 理絵子は桜井優子に尋ねた。手紙の主は8時に、その踏切に来て欲しいと書いている。
「4丁目?…ああ、あれだろ。例の踏み切りだ」
「あそこ?」
 理絵子は眉をひそめた。
 その踏切を知らぬ者はこの町内に一人もいない。
 住宅街にあり、人通りが少なく、カーブ線路の終わりに位置する。
 周りに人目はなく、列車の運転士からも見づらい。
  
 自殺の名所。
  
「行くのかよ」
「これじゃ返事も出せないし…そういう場所ならなおのこと」
 理絵子は手紙をちょろっと見せた。
 本文にも差出人の名はない。
「ヒッカケじゃねぇのか?てゆーか一種の脅迫だろ。来ないと飛び込む、みたいな。ひょっとするとそういう脅迫に見せかけて別の目的」
「ならいいんだけど」
 理絵子はため息をついて手紙をしまった。
 そういう“作戦”ならそうであると手紙から感じるはずである。しかしそうではない。
「しょーがねーな。お人よしというか優しすぎるというか…」
 と言う桜井優子の声をさえぎるように大型バイクのエンジン音。
 校門から中へ入って来るバイクが一台。ライダーはノーヘルメットの茶髪男。
「優子」
 ボーイフレンドである。
「あ、じゃぁな」
 桜井優子は一言残して走り出した。
 ひらりとばかりにバイクの後席に身を乗せる。
 その間ボーイフレンドが理絵子に目を向ける。
「うっへーかわいー。なんだよお前のダチんこ?」
「うるせーな手ェだすんじゃねーよ。ちなみにこいつの親父“四課”だぜ」
 警察の捜査四課は暴力団や暴走族の担当。
「ウッソまじっすかぁ?ってなんでお前そんな奴と…」
「かんけーねーだろ。いいから行けよ」
「おう。じゃぁねかわいこちゃん」
 ボーイフレンドは理絵子に投げキッスをして見せ、桜井優子に後頭部をしこたま叩かれてから、バイクを発進させた。
  
後編
  
 理絵子は毎日5時半から7時半まで、学習塾に通っている。
 だから8時に待ち合わせを設定されても、別段親への弁解に頭をひねる必要はない。
 問題は彼女が少々方向音痴だということだ。
 4丁目の踏み切りはどこですか…誰かに聞けば恐らく簡単ではある。ただ、その場所に行くとなると、聞かれた側は警戒する。教える前にもう一度考え直しなさいと言われるのがオチである。
 散々迷った挙句、線路伝いに歩いて行けば良いと彼女が考えついた頃には、時計の針は殆ど8時を指す所だった。
 県道から線路へ出、カーブした線路に沿う細い道を、駅に向かって歩く。
 県道の踏み切りがカンカン鳴り出し、線路をタラコ色した通勤電車が轟音と共に駆け抜ける。クラスのマニア少年に言わすと、このタラコ色は“オレンジ・バーミリオン”というらしいが、理絵子はこの色を好きとは感じない。落ち着きがなく、むしろ何か心をざわつかせるようなものを感じる。この路線は自殺者が富に多いと聞くが、ひょっとするとそうした影響もあるのではあるまいか。
 電車が走り去る。
 その姿と走行音が消え、現れた状況に、理絵子はギョッとして立ち止まる。
 静かなのである。
 その通勤電車の終点近いとはいえ、都内であり、複線で本数も多い。周辺には家屋が隙間なく、軒を接するが如く並んでいる。しかし、どの家も塀が高く中は見えず、家屋内からの灯火も、外までは漏れてこない。生活空間があるはずだが、まるでどの家も息を潜めているかのように、声や物音は聞こえない。
 心細くなって思わず見回す。塀に挟まれた細い道。カバーが汚れて暗い街灯。
 その街灯から、蛍光灯の唸るジーという音さえ聞こえてくる。
 走って逃げたいような気持ち。
 理絵子は約束を思い出し、かばんを両手で胸に抱えて歩き出す。走って逃げたい気持ちと矛盾するが、物音を立ててはいけないような気がするのだ。
 待ち合わせの踏み切りがカーブの終わりに見えてくる。幅の狭い、歩行者専用の踏切である。
 そこは、下り線側は大きな家の裏側にあたると見え、人工の明かりは一切当たらない。
 一方上り線側は外壁モルタルのはがれた無人アパートであり、夜闇に沈んでいる。
 要するに踏み切りは全くの暗がりにあるのである。
 理絵子は月を求めて空を見上げる。しかし今日は三日月。とっくに沈んでしまった。
 なんで…理絵子は二つのことを同時に思い、ここに来たことを後悔する。
 ひとつは、これでは“自殺の名所”も当然だということ。余りにも寂しすぎる。余りにも暗すぎる。死ぬほどの思いを抱える人がここに来たなら、その思いを加速しこそすれ、逆はない。
 そしてもうひとつは、なんで自分はそんな場所なのに来てしまったのだろうということ。理由は判っている。それこそ差出人が自殺でもするのでは、という気配を感じたからだ。
 でもここに来て、それが間違いだったかも、と強く感じる。
 踏み切りに到着した。
 しんとしており、誰かいる気配はない。
「あの…黒野ですけど…」
 理絵子は小さな声で言った。最も大きな声は必要ない。街灯の蛍光灯の音が聞こえるほどなのだ。
 遅くなって帰ったか…時計を見る。
 8時10分。
 諦めるには早すぎはしないか。
 それとも相手が遅いのか。
 突然犬が吠える。
「!」
 理絵子はびくんと身体を震わせ、首をすくめる。なんでいきなりという、少し怒りに似た気持ちが自分の中に生じる。それは不条理という言葉が使えようか。“何でここはこうなの?”そんな風に誰かに言いたくて仕方がない。
 レールを伝うかすかな音。
 左方、駅を見ると電車が到着したと判る。まもなく、この踏切が作動し、電車が走って来よう。
 理絵子は少し線路から離れる。電車の運転士に見つけられて、自殺志願者にされてはたまらない。
 踏み切りが鳴り出した。
 理絵子はまた身体をびくつかせる。鳴り出すと判っていたのに、身体は“驚き”の反応を示したわけだ。
 もうやだ…理絵子はここから離れようと決意する。当人はいないわけだし、何か起きた形跡もないから、自殺したわけでもないだろう。ひょっとするとあの手紙自体、いたずらだったのかもしれない。
 電車が近づいてくる。
 踏み切りの表示が変わり、反対方向からも来ることを示す矢印ランプが点灯する。
 電車が行きすぎる。この時間の東京行きは車内ガラガラ。
 と、線路際で何かが動いた。
 花束。
 遮断機の機械の後ろにあったらしい。風圧で線路の中にバサっと倒れる。
 理絵子はそれを見てハッとしてギョッとする。
 まだ新しいのだ。
 いやな感じがする。そしてその感じに絆されるまま、慌ててかばんから手紙を出す。いきなりの手紙ごめんなさい…
 …18時に4丁目のJRの踏み切りで待っています。
  
 18時!
  
 8時じゃなくて18時。すなわち午後6時。
 いやな感じが意味するものを理絵子は悟る。そして、身体が震えだすような気持ちと共に、花束に、目を向ける。
 あの花束は…。
 理絵子は踏み切りに近づいた。
 と、カーブの向こうから反対方向の電車のライト。
 プァーンという警笛。
 理絵子は立ち止まる。電車の運転士が、踏み切りに向かう自分の姿に“それ”と受け取ったのだと感知する。
 電車を見送る。花束が至近を行く電車の風圧で舞い上げられ、車輪に巻き込まれ、散り散りに引き裂かれ、花びらが舞う。
 まるで、何かを象徴するように。
 電車が去った後も、理絵子はしばらくそこから動けなかった。
 恐らく花に触れさえすれば、自分に備わった超絶の感覚が、この花束の意味するところを知るであろう。しかし同時に、そうすれば何が判るかを、既に今の時点で知っている気がする。
 自分が多分、“彼”を見殺しにしたことを。
 彼に絶望と悲嘆を与え、この冷たい鉄路の上に立たせたことを。
 後悔しているのか、と意識の内に問う者がある。肯定せざるを得ない。理絵子はゆっくりと首を縦に振る。そう、私は人を死に追いやった。
 人を死なせた。
 まぶたを濡らす温かいものと共に、意識の内に溢れ出すものがある。なぜ、なぜ私は、人の気持ちを知ることが出来る稀有の知覚を持ちながら、彼の…死ぬほどの真剣さに応えてあげなかったのか。
 時間ミスなどという単純で大きな間違いを犯してしまったのか。
 それはお前が元より人の心を軽んじていたからだ…意識の内の声が言う。お前は自分が男子に好感を持たれる外見と知り思い上がり、挙句、傲慢にもそれを当然として男子を外見や所作で分けるようになった。その“力”を弄び、自分に都合のいい声ばかりを捉えるようになった。
 理絵子はギクッとした。
 否定…出来ないとはいえない。確かに、この手紙が入っていると知ったとき、ああ、またか、と思った。
 …断るのが面倒だと思わなかった、とは言えない。
 内なる者が続ける。お前はお前に言い寄る者たちの心の中が見えていない。なぜなら茶飯事で面倒くさいために、表面だけで応じようとしているからだ。その真意の一つ一つを汲み取ることをせず、適当にあしらっているのだ。実際、お前がここに来たのだって、相手が真剣だからとお前は表面上うそぶいているが、その実死なれては困るからだ。今動揺しているのだって死なれたからだ。彼が可哀想だなんてカケラも思っちゃいない。死なれちゃったどうしよう、だ。死という結末に困っているだけで彼にそれを選ばせたことに思いを馳せたわけじゃない。違うか。ごめんなさいではなく、なぜ死んだの?だ。違うか!
「やめて!」
 理絵子は声を上げ、耳をふさぎ、目を閉じてしゃがみ込んだ。
 聞きたくない。決してそんな風には思っていない。だけど聞きたくない。
 理絵子は首を左右に振った。しかし内なる者は容赦しない。
 …そんな風に思っていないと思い込みたいだけだ。お前は彼の気持ちなどカケラも考えちゃいない。
 そんなことない!理絵子は反論する。私には判る。彼がどんな思いで私を待ち、落胆し、ショックを受け、そして…
 理絵子は見た気がした。
 想像力のなせる技か、稀有の力が働いたのか、それは判らない。
 だが、その視点は紛れもなく彼のもの。
 高速で迫り来るオレンジ色の電車を見上げ、ついで一瞬にしてブラック・アウトする。
 そして、その先は何もない。
 死という名の消滅。
 その恐怖をすら上回る、自分に裏切られたショックとはいかほどのものだろう。
 謝りたい。理絵子は切に願った。叶うものなら彼と会い、全てを謝罪したい。
 時間に遅れたこと。
 そして、決して軽んじたわけではないが、真摯だったかといえばそうではないということ…。
 そこで内なる者が口を開く。楽にさせてやろうか。
 理絵子はハッとして意識をその者に傾ける。…お前の稀有の力は、既に身を持たぬ存在とも意識を交わすことが出来る。それは知っているな。
 理絵子は頷いた。いわゆる霊的存在…意識だけの生命と彼女はコミュニケートできる。
 気づいて顔を上げる。トンネルを思わせる暗闇の中に白い部分がある。それは“うごめくもや”と形容できようか。
 行け…促されるまま、理絵子は立ち上がり歩き出す。その白いもやに感じる自分への視線。
 対峙。
 理絵子が見つめる中、白い部分が生き物のように動き出し、変化を始める。
 次第に薄ぼんやりと浮かんでくる白い形。
 それは大きい。理絵子の身長をはるかにしのぎ、見上げるほどもある。
 顔だ、と理絵子は思う。そう、その白い形は人の顔の輪郭に似ている。
 白い形が更に変化する。顔で言うなら目の位置に、黒い丸い領域が二つ現れ、それこそ目のような形が浮かぶ。
 白い顔に二つの黒い目。
 いや、“目”じゃない。
 理絵子は慄然とした。
 “目”の下に現れる今度は鼻に似た黒い形。
 そして、鼻に似た部分の下に、ぞろりと並ぶ剥き出しの白い歯。
 唇も歯茎もなく、根元まで見える歯。
 鼻に見える黒い穴。目に見える黒い二つの穴。
 頭部には毛髪も皮膚もなく、ただ白い。
 その姿は。
  
 髑髏。
  
 巨大な髑髏。
 暗闇に忽然と浮かび、自分を“見据える”巨大な髑髏。
 理絵子は声も出ない。同時に、その髑髏が“彼”などではないことは容易に知れた。
 激しい毒念。憎悪と殺意。
 だまされた。その思惟は自然に意識に浮かんだ。
 と、その思惟に呼応するように、髑髏の顎(あぎと)が開く。
 ニンマリと笑うかのように、Vの字に裂け開く髑髏の口。
 髑髏が動く。髑髏が自分に向かって接近を開始する。口を開き、自分を食らうかのごとく、ゆっくりと、しかし確実に自分に接近する。
 理絵子は気づいた。
 これは。
 この存在は。
 太古より髑髏の姿を持って描かれる、破滅の象徴。
  
 死神。
  
 今ごろ気づいても遅い。死神が嘲笑したように思えた次の瞬間。
 状況が変化したことに理絵子が気づくまで、刹那の時を要した。
 迫り来る白く明るい二つの光。
 カンカンという踏み切りの音。
 続いてファーンという電車の警笛。
 それは、踏み切りの真っ只中に立っている自分に向かい、2つのヘッドライトを灯した電車が接近してくるという現実。
 その時、理絵子は死神の嘲笑を本当に声として聞いたような気がした。
 そしてその“声”が、罠に落ちた彼女を、悔恨を抱く彼女の心理をあざ笑う、死神の意志表示であると気づく。曰く、“ざまぁみろ”。
 だめだ。理絵子は思った。
 電車の押す空気が、風として理絵子の髪を流した。
 その次の刹那。
「りえぼー!」
 良く知る低い声が掛かった。
 女の声。強い声。
 声の出現と共に、死神の嘲笑も、そのイメージの残像も、電源を抜かれたテレビのように、忽然と掻き消えた。
 次いで彼女の心理を温かく包み込むものがあり、
 同時に彼女の小柄な身体が、強い腕にしっかりとホールドされた。
 電車のライトが視界から大きく逸れる。
 その瞬間、電車から発せられたバシャーッという空気の吐出音と、ひときわ長い警笛。
 非常ブレーキである。車輪とレールが擦れてキーと音を立て、火花が散る。
 理絵子は目の前を電車の機器が行き過ぎてゆく様を見ている。
 金属の焼けるような臭い。
 10両編成の7両ほど行きすぎて、ガクン、と電車が止まった。
 車内の乗客が窓越しにこちらを見ている。
「こらっ!」
 電車の後尾、乗務員室から声がした。
「やべっ」
 低い声の女が短く言い、理絵子の手を引いて走り出す。
「あっ。待てっ!」
 線路に下り、砂利の上を走ってくる音。
 理絵子は手を引かれるまま走る。
 住宅街を右に折れ左に折れ、細い路地に入り、小さな神社の境内へ。
 壊れかけた祠の裏へ回り込み、しゃがむ。
「ここまでは来ないだろう」
 低い声が、息を弾ませながら言った。
 理絵子はそこで初めて顔を上げ、声の主を見た。
 とはいえ誰だかは知っている。桜井優子である。
 ジャージ姿で肩で息をし、理絵子を見るその目はまるでお姉さん。
「まだ何も言うな」
 桜井優子は言うと、あたりの様子を探ってから理絵子の腕を解いた。
「あの手紙騙しだったらヤバいなと思って来てみたんだ。どうしたよ」
 桜井優子はそれこそ妹に問い掛ける姉のように言った。
 理絵子はその目を見た途端、自分の涙腺が開放され、温かいものがまぶたを乗り越えとめどなく溢れ出してくるのを感じた。
「怖かった。怖かったの…」
 理絵子は言うと、続けて一気に、迸るように全てを話した。
 自分の能力のこと、そして出会ったものの正体。
 桜井優子なら判ってくれる、そう思って全てを隠さず話した。
 そして。
「死神か…」
 理絵子の話が終わった後、少しの間を持って、桜井優子がつぶやいた。
「およそバカバカしいことでしょ。笑ってくれていい」
「そんなことねーよ。お前の勘というか鋭さはハンパじゃないと思ってた。お前がそういう力の持ち主だと聞いて、ああなるほどなと納得してるところだよ。やっぱりお前はエスパーだったんだ」
 理絵子は頷いた。
 何度も何度も涙と共に頷いた。
 やっと判ってくれる人が現れた。その思いに満足しながら、安心しながら。
 桜井優子はしばらくの間、片腕で理絵子を抱き、頭をなでてくれた。
 そして、随分と時間が経った頃、桜井優子がゆっくり訊いた。
「それで?死神が?」
「私を、殺そうとしていた」
 理絵子は、ようやく収まった目の下の洪水を拭き取りながら、答えた。
 今にして思えば、あの“意識の内なる声”、「後悔しているのか」と意識の内に問うた者こそ、死神の意識そのものだったのだと判る。誰にでも起こりうる心理的動作…自問する自我…に似せて理絵子の意識に忍び込み、巧みに誘導し、線路に立たせたのである。
 そして、そうしたことが出来るくらいだ。他の人の心にしのび込んでウソ手紙書かせるくらい造作もないだろう。従って当然、“彼”などここに来てもいないし、ましてや自殺などもしていない。
 差出人が不明なはずである。
「いつのまにか心を操作されるわけか。おいおい冗談じゃねーな」
 桜井優子は語気を強めた。
 理絵子は頷く。さもあろう。自分の“考え”のつもりが、いつの間にか何者かに好き放題“誘導”され、本来の自分ならあり得ない結論を導き出される。
 自分が自分でなくなるのである。
「よぉ、ひょっとして通り魔とか、よくあるなんとか法で無罪になっちゃうひどい事件って…」
「かも、知れない。あれは死を望む存在だから。何か隙間があればそこに入り込む。たとえばあの踏み切りだったら、傷ついた心持つ人が近づくと現れ、その心の傷口から忍び込み、更に追い込み、攻め立て、線路の上に立たせている。そんな気がする。だから…」
「だから自殺が多い」
「恐らく」
 理絵子は言った。
 そして、自分は、その死神に狙われた。
 心に隙間…それこそ思い上がりがあったためか、それとも別の理由か。
 どっちにせよあんなのに目を付けられているなんてぞっとしない。
「まだあれに見られている気がする」
「かもな。俺が死神だったらやっぱりお前殺そうと思うもん。だってお前いたら悪巧み全部バレバレじゃん」
 理絵子はハッとして桜井優子の顔を見た。
「どうしたよ。俺何か変なこと言ったか?」
「ううん、そうじゃなくて…」
 理絵子は自分の力が何物であるか判った時のことを桜井優子に話した。小学校2年、それこそ赤い電車の終点にある国定公園、高尾山(たかおさん)に遠足で訪れた際、滝行の修験者にそれと言われたのである。
「その時言われたのは、決して人に喋るな。なぜなら人は不気味がるから。その力を意図して使うな。なぜならそれは自分のために使うものじゃないから。そして…何のためにその力が備わっているのか、それはその時になれば必ず判る。だから、その時まで言われたことを守りぬけ」
 理絵子は話した。そして今、彼女は思い至ったのである。
 なぜ、この力が自分に備わっているのか。
 そういう存在に引き込まれ、命を失う人が出るのを阻止するためだ。
 合点が行く。奴は、自分のこの自覚を阻止するために、今夜のこの瞬間を私に与えないために、私を亡き者にしようとした。
 理絵子は自覚を言葉にする。と、それに呼応するかのように風が吹き渡り、神社の中の森がざわめき、何かの鳥が不気味な声を出す。
「悔しがってる」
 理絵子は呟いた。それはそう、言うなれば奴の歯軋り。
 しかし今はもう怖くはない。奴が接近を図るならすぐにそれと判ると自信を持って言える。
「線路に立つ子を無くす…それが私のなすべきこと」
 理絵子は言った。
 それは私なら出来ること。
 私しか出来ないこと。
「そうだな。それがお前の力の使い道として最も高貴な使い方じゃないかな。誰にもない力なら、一番高度な使い方をすべきだ。すなわち、愛と命だ」
 桜井優子が言い、そして続けて。
「なんてな」
 理絵子は思わずぶっと吹き出し、次いで少女たちはあははと笑った。
 木立の間から覗くキラキラと輝く星々。
 理絵子は遠く、そして長い時間が始まった気がした。
   
 その踏切が廃止され、陸橋が設置されたのは、この事件から3ヶ月ほど後のこと。
 ただ、陸橋の下に花束が絶えることはない。