彼女は彼女を天使と呼んだ
1
「かも知れない」が「らしい」になり。
「らしい」が「なんだって」になり。
そして「そうなんだ」になる。
結果、誰かの想像が、事実として広がる。「ウワサ」の発生と伝搬に良くあるパターンである。
『4組の学級委員、黒野理絵子(くろのりえこ)は霊能者である』
このウワサは、12月になった時点で、学年で最早知らない者はないという事態になった。ただ、噂の真相を、当の理絵子に直接確認しようとする者はなかった。
もちろん、火のないところに……の倣い(?)の通り、ウワサが立った背景事象は幾らかある。端的には、猟奇的事件の犯人として彼女ら中学の教頭が逮捕という事態になり、その直前に犯人教頭と理絵子のやりとりが多くの生徒に目撃されていること。及び、猟奇事件がいわゆる学校の怪談≠ニして代々言い伝えられて来た内容であるためだ。すなわち、学校の怪談を彼女が最終解決した。その手段は何か?霊的な話だから霊能力だろう、というわけだ。
最も、そのくらいなら別に理絵子も気にするつもりは無かった。
事態が妙な方向に動き出したのは、期末テストももうすぐといった、霜の降りた朝のことだ。
「相談があるんだけど」
理絵子に声をかけた少女があった。同級生の北村由佳(きたむらゆか)。心配になるほど大人しい感じの眼鏡の娘で、声のトーンは高く、細く、まるで薄いガラスが震えているよう。
彼女が自分に相談を持ちかける、そのこと自体は珍しいことではない。成績の話から花の種類まで、むしろ困るほどバラエティ豊富に訊いてくれる。
ただ、今日はいつもと違う。理絵子はまずそう直感した。
そして放課後。
「噂に聞いたんだけど」
残照の教室で北村由佳は切り出した。噂の真相について、彼女は正面から訊いて来た。
「私が?」
理絵子は白々しく問い返し、自分の顔を指差す。彼女理絵子は、さざ波ひとつない高原の湖のような、静かで澄んだ印象を与える髪の長い娘だ。校則によれば長いのは三つ編みというのが指定であるが、似合う気がしないのでひとつにまとめて背中に流し、白いりぼんで緩く結んでいる。ただ、それで文句を言ってきた教員は(逮捕された教頭も含めて)過去にいない。
「うん」
北村由佳の目がきらきら光る。
対し理絵子が抱いたイメージは少し違った。
双つの眸。むしろ、暗闇から自分をじっと見張っているネコのような。
しかしそのイメージはすぐに消えた。見張る瞳は彼女の強い意志、事の真相を知りたいという思いの反映。そう理絵子は受け取った。
つまり霊能≠ノ頼りたい何かがあるわけだ。その気持ちは理解する。でも、理絵子はその有無を明らかにする気はない。明らかにするわけには行かない。
判ってしまう≠アとは、であるが故に、何の解決にもならない事の方が多いのだ。
「あの教頭と最後に口聞いた生徒は多分私。それは本当。でもそれとこれは全く別の話」
理絵子はそういう言い方をした。これなら肯定も否定もしないがウソにもならない。
「な〜んだ」
北村由佳は残念そうに言った。それは、霊能者などではない≠ニ受け取った、ということであろう。
「ごめんね。力になれそうもなくて」
理絵子は目を伏せてそう言った。
「ううん……」
北村由佳は短い髪をなびかせて首を左右に振り。
「でも、理絵ちゃんなら話してもいいかな……」
彼女の言葉と共に、様々な気持ちが理絵子を捉える。まるでラジオが不意に異国の電波を受信したかのようである。その息詰まるような熱さと揺らめき、戸惑いと希望。
「好きな男の子がいる……んだ。言っちゃった」
頬染めてはにかむ。
明確なイメージが脳裏に描かれているので誰だか容易に判る。隣のクラスの学級委員で、3年生が引退した夏過ぎからはサッカー部主将。身長は176で。
外見だけ≠ナ行くなら成る程と思わせる。ただ、彼には……いやいや悪口は言うまい。
北村由佳は、相手は誰かは明確にしなかった。ただ、理絵子が霊能を持つなら、彼と己れの行く末を占ってもらいたかった。そう言った。
……判ってしまう≠アとは、であるが故に何の解決にもならない事の方が多いのだ。
ただ、この場合それを持ち出すまでもないのだが。
そこで北村由佳が何か気付いたようにハッと目を見開く。
実際何か気付いたのである。それは発散される雰囲気の変化として観測され、色≠フイメージを理絵子に与えた。但し恋のたとえに多用されるピンクではなく、トマトの皮を思わせる赤。なぜそうなのかは判らない。打ち明けられたことはないし、自分自身恋をしたことはないし。
「委員長会議ってあるんだよね」
北村由佳は黒水晶の瞳で尋ねて来た。その会合の用途は教員から学年全体への連絡事項下知。及び学年共通と思われる生徒間問題の奏上。
「じゃぁ相手はどこかのクラス委員?」
それは流れから誰にでも判る話で、誰にでも言える言葉。
対して。
「え?あ、うん……」
北村由佳は目を伏せる。知って欲しくて知られたくなくて。
それでも、自分と彼≠ニにつながりがあることは希望の糸口なのだ。
恋って難しい。
「……あは、どうしよう」
真っ赤になって地団駄踏むように足をジタバタ。勢いに乗じて言ってしまおうか迷っているのだろう。いつも相談してる相手だしそれならいっそのこと……。でも霊能がないのに言っても仕方がない……。
以上、別にテレパシーを駆使せずとも、彼女の思惟の展開は想像が付く。ちなみに、委員長会議と言った時点でクラスは5つ。5人まで自動的に絞られているわけだ。
そしてこれは慎重に扱わなければならないと理絵子は思う。これだけ強く心理の状態が外部に溢れ出る程なのだ。裏返せば、支えるものを失えばぐしゃっと潰れるということ。
軽々な反応は許されない。判ってしまう≠アとは……
これは少々厄介かも。
「無理して言わなくてもいいと思うよ。知ってしまっても、私は何もできないしわけだし」
それは霊能が頼り、に対して選んだ言葉。
「……そうだよね」
一気に気持ちがしぼむのを感じる。文字通り夕方の朝顔のようだ。トマトどころかしおれたペンペン草。
「ごめん、忘れて。他を当たるよ」
北村由佳は言い、逃げるように立ち上がった。
「由佳」
その背中に理絵子は声をかける。自動的に呼ぶ声が出た。
「え?」
「大切に……」
「うん」
北村由佳は小さく、少し寂しげにも見える笑みを見せ、教室から走り去った。
不安の雲を理絵子は覚えた。自分は彼女を呼び止めるべきではなかったか?だから深層心理が彼女を呼んだのではないか?
それとも、彼女が自分を見限った、と感じたのが寂しかったのだろうか。
2
都立藤川(ふじかわ)高校は、川沿いに2棟の校舎を構える普通科で、全日・定時制併設である。
レンガの校門から出てくるブレザーの生徒たちが、セーラー服なびかせる自分をチラと見ては行き過ぎる。
「かわいい子!彼氏待ってんの?」
男子生徒3人組がからかうように声をかけて来た。
他に誰もいないので自分のことであろう。理絵子は首をすくめて苦笑し、手のひらを左右にパタパタ。
「じゃぁ俺の彼女になってよ」
「俺は?」
「やっぱ俺だよね」
めいめい己れを指さしながらその場で3人くるくる回る。さながらコントである。ただ、自分の方へ接近して来ないので、本気で言ってる訳ではない。
「いっそのこと俺たち共通でどうだい?」
ぶっ!
「お前、それ犯罪」
「あ、笑ってくれた」
「失礼しました〜」
笑っているうちにツッコミが入り、3人で敬礼して走り去る。本当にコントだったようだ。自分がよほど深刻な表情に見えたのだろうか。
来た……それはいきなりの認識。でも間違いない。
「理絵ちゃんホントにウチ来ること考えてるわけ?」
大人びた声がかかって顔を上げると長い髪の……お姉さん。
自分でも痺れるほどきれいな少女である。名は本橋美砂(もとはしみさ)。ここの1年生で16歳。間柄は端的に言えば能力つながり=B
「あんなのばっかだよ?委員長バッジが泣くよ」
「あーいう男の子いっぱいいたら面白いじゃないですか」
「騙されちゃだめだよ。で?歩きながらできる話?どこかで落ち着く方がいい?」
美砂の質問の故は、理絵子が彼女に相談を持ちかけたからである。中身は言うまでもなく、不安の雲≠ノついて。
「歩きながらで」
「オッケー」
経緯を説明。と言っても、一瞬で済む。
能力≠恣意的に行使するのは好きではない。ただ逆に言えば口にする必要がない。 今回の場合は心の秘密≠ノ関する話。ヘタに口にして、その様子を他人に見聞きされるわけには行かない。
積極的に能力≠駆使し、意図を伝える。
「恋、か」
美砂は、さも困ったという風に、ため息を漏らした。
夕暮れの川沿い堤防道。このまま図書館の裏まで歩いて駅へ、というのが、美砂の通学ルート。
「相手は理絵ちゃんに気があるわけだ」
「というか、私に恋心を抱いてるという表現自体、適切ではないような」
その委員長会議でちょっかい出してくるのは確かである。一緒に帰ろうとか、露骨に誘ってくる。
だが、彼の言動や放つ雰囲気は、日常千倍の勇気と共に投じられた下駄箱の手紙と質が異なる。それら男の子の決意≠ノは、いかに傷つけずお断りしようかという思慮が湧くが、彼の場合はそうではない。たとえて言うなら、古代の勇者が猛獣を狩ろうという意気込みに近いような印象を受ける。すなわち自分はトロフィーという存在意義である。
「モテモテの俺様の傍らに侍らせるに相応しいのは学内一級の美少女理絵子だと。俺様が彼女を落として≠ンせよう……美女と野獣のガストンだね」
「あそこまで野卑で不潔じゃないけど。積極的に彼女を後押しする気になれないのは確か」
「彼女が傷つく因子が3つあるわけだ。実態がイメージとかけ離れてる。彼は彼女に気がない。どころか目下のターゲットはあなた」
「私自身が憎まれるのは別にかまわない。ただ……」
「4つ目の因子」
美砂は理絵子の心理を先回りした。
彼女の気持ちが弄ばれるのではないか。
「彼女は夢中。夢中ゆえに一途さと怖さと同時に持ってる。他方相手は駆使する手練手管は幾らでも」
「怖くない、大丈夫だ。言われればもう周りなんかアウトオブ眼中。端から見ればハラハラドキドキ。で?私の経験談はありませんか、という訳か」
美砂は立ち止まり、理絵子を見、ため息をついた。
「だったら、ごめん」
やっぱりか。それが理絵子の感想。
これだけ綺麗な人なのだ。経験があるならこうやって話す前にサジェスチョンをくれている。
「生きることそのものに必死だったからね」
美砂は付け加えた。理絵子はそのことを思い出し、目を見開いた。
美砂の両親は命を絶っている。以降彼女は兄と二人暮らし。そして時を経て今、彼女は天涯孤独。
自分の恋どころじゃなかったに相違ない。ただ、現在は理絵子の知り合い宅にて住み込みバイト中。
「ごめんなさい変なこと」
「いいよ。あなたの気持ちは判る。……だって判っちゃうもんね。白馬の王子様か、はたまたビビッと来るか。経験と失敗を繰り返してっていう普通のプロセスは辿らないだろうね私たちは。
意図的に働かせるものじゃないと判っていても、意識していても、傷つきたくないって気持ちは、自動的に力を動かす」
美砂は言いながら、再び歩き出した。
それは経験に裏打ちされた発言と理絵子は理解した。
美砂自身恋心を抱いたことはないが、その逆、持たれたことはあるのだ。
「増えてくるだろうね、そういう話。理絵ちゃんも持ちかけられるわけだ、度々」
「……はぁ、まぁ、おかげさまで」
他者から改まって言い直されると照れるものだ。
「ってか判るよ。仮にも私はあなたを殺そうとしたんだよ。その相手を逆に心配して住み込み先まで世話焼く娘だよあなたは。好かれるし頼られないわけがない」
美砂は言った。経緯は略す。ただ、能力つながり≠フ裏には、そうした事情があった、とだけ書いておく。
「だから」
美砂は言葉をつないだ。
「協力できる範囲であなたには協力する。でも……恋が絡むとちょっとね。一緒に考えて行こう、としか言えない。ミスド寄る?」
そのドーナツショップが入っているのはエキナカ改札前。
「美砂姉(ねえ)のおごりなら」
「ちゃっかりさん」
ふたり腕組んで堤防脇の階段を下り、中央図書館裏の公園を横切って、甲州街道(国道20号)。信号を渡って100円ラーメン≠フ前を通れば駅前広場。銀色車体にオレンジのストライプをまとった電車が、踏切を加速しつつ東京都心へと出て行く。
「下っ品だよねあの電車」
美砂が結構歯に衣着せぬ物言いの持ち主だと気付いたのはこの辺りである。ただ恐らく、その源は一発で核心を見抜く能力の故であろう。
駅の改札は2階である。タクシー乗り場の脇から階段で上がって行く。
能力≠ェ察知してワンテンポ。
「おう!くろの〜」
うわっ。
その男がまたデカい声で。片手まで上げて。
改札前コンコースの衆目が、彼の声と目線の注がれた自分へと向けられる。皆前で何をやるかこの男は。
やっぱガストン?
気付かぬ振りを決め込んでミスドへ進路を振る。自分の気持ちは知っているので、美砂も同調してくれる。
すると、彼は人波を横切り、小走りで自分たちの前へ。
「なぁ黒野。黒野ってば」
進路をふさぐように立ちはだかる。そこでわざとらしくかそれとも本気か、彼は二人の絡んだ腕を見、背の高い少女に気付いた。
「綺麗な人だね〜」
「失礼だよ少年」
美砂は低い声でひとこと言った。
「怖いなぁ」
「尚失礼だよ。それじゃ理絵子の相手は100年経っても無理だね」
彼は目を剥いた。
「ちょ……」
「図星か」
「な、なんだよあんた」
「女同士に首突っ込んでくるデリカシーのない少年をたしなめてるんだ。主将が隣の駅で女の子ナンパ中なんて部員に示しが付かないと思うが?ホレ、あれは君んところのマネージャーじゃないのか?」
本橋美砂の物凄いウソ。
主将君が振り返っているスキに、二人は店内へ逃げ込む。
3
霊感がある≠ニ自称する者が、学年に一人や二人はいるものだ。
おしなべて女子の方が多いようである。古来より霊媒や巫女は女性が勤めたが、そうしたこととつながりがあるのだろうか。
「見込みがある、って」
翌朝、理絵子が登校するや、北村由佳が輝くような笑顔を伴って理絵子の机まで来、いきなりそう言った。
瞳煌めかせ、理絵子がカバンの中身を机に移す動きを捉えつつ、傍らにしゃがみ込む。
「へ……」
理絵子は意図するところを理解するのに少し要した。
北村由佳はそうした霊能女子に伺いを立てて来たのである。昨日彼女が口にしたセリフ『ごめん、忘れて。他を当たるよ』の「他を当たる」の意味を知る。
「占ってもらったんだけどね……」
理絵子は占いには否定的だ。
例えば新聞テレビの星占いをハシゴして今日は幸運≠ニ書かれたものをその日信じる……自分の心理をポジティブに保持するためならまだいいが、そこに依存するのは正直いただけない。なぜなら自分で動こう、切り開こうという心理ではないからだ。
断じてしまうが占い≠ヘ2タイプに分かれる。依頼者の期待する答えばかり言って気に入られて金をもらうか、逆にダメダメ光線を発射して不安にさせ、解消するためには金を出せというタイプか。前者でその気にさせて後者に移るというパターンもあるだろう。 3つ目の場合、ある種催眠商法といえる。
自身超能力を持つからこそ、占いの存在意義には疑義たっぷりなのだ。すべては決まっている、アカシックレコードに書いてある。というのが占いの論拠≠セが、だとしたら人間の自由意志の存在意義がなくなってしまう。自分に持たされた、この類い希な能力は何なのだ、となるのだ。最初から決まっているなら、判ってしまっても、そうでなくても、同じ事ではないか。
悩んだり悲しんだり、果ては戦争で殺し合い。神は人間を弄んでいるのか?そんな事はあるまい。『神は自らに似せて人間を作った』……それこそ霊能論の諸元であろう、聖書冒頭のこのフレーズに矛盾する。
もちろん、真剣に占いを行っている、という人もあるだろう。ただ、やり遂げようという意志は成功の礎となり、そのための知恵や工夫を生み出し、逆もまた真なり。占っていると言うより、人となりを見抜いて解決に向き不向きか助言している、という方が適切なのではないか。
「事態が変化したらまた来なさいって」
北村由佳はそう言うと、立ち上がった。
「その霊能者ってどんな人?」
理絵子は誰≠ニは言わずそれだけ尋ねた。自分が彼女をライバル視しているとは思われたくないし、昨日の美砂の言葉もあるからだ。『怖くない、大丈夫だ。言われればもう周りなんかアウトオブ眼中』……今は何を言っても雑音に相違あるまい。
「かわいらしい人。……天使みたいな」
北村由佳は言い、そよ風のように去った。
恋する乙女の代わりに、背後から香水の匂い。
「えらく変わったな、彼女」
フーセンガムをぱちん。桜井優子(さくらいゆうこ)という。同じ学年だが年齢は一つ上。昨年出席日数が足りなかったのだ。道行く人は彼女を見て不良≠ニいう目線を送るであろう。
「恋でもしたんか?」
鋭い。
「でも、あんな浮わついてちゃだめだな。信じられる核があるなら落ち着いていられるもんだ」
それは真実だろう。
「経験有り?」
理絵子は訊いた。
「ガッコ来るより一緒にいたかったわけ。しまった誘導尋問に引っかかった」
珍しく照れたような薄紅の頬。だから出席日数が足りなかったのか。
「あはは。でも正直、どう動いていいか判らない」
理絵子はため息。桜井優子は薄く笑い、
「りえぼーが悩むこっちゃないだろ。お前人のために悩むってパターン多すぎ。禿げるぞ。まぁ言っても無駄だから止めないけどな。ただ一つ言っておく。動き方が判らない時はジタバタするな。敵の方から焦れて動き出す。それまで待て。先に焦れた方が負けだ」
「敵って……」
理絵子は苦笑した。恋心って敵?
と、優子は傍らにしゃがみ込み、理絵子に囁く。
「時々気になるんだ。お前のそのお人好し、利用してるヤツがいやしないかって」
理絵子は自分自身驚くほど身体をびくりと震わせた。
不安の雲と、優子のセリフとが、同じものの表と裏、と合点が言ったからだ。
ただ、それは認めたくないことでもある。北村由佳が自分に相談を持ちかけるのは中学入学以来の話。おとなしさの故か、クラスに溶け込んで行けそうにない彼女に、クラス委員である理絵子が声をかけた。それが始まり。だんだん頼ってくれるようになり、というわけだ。そして今、自分を軸に、友達の友達≠ンたいな形で、クラスの他の子とも会話をするようになっている。明らかに入学当初と面持ちが違う。
そんな友達≠ニ、にこやかに喋っている北村由佳を見つめる。隠した内奥があるようには到底見えないが。
「おとなしいのは押し殺しているだけかも知れない。普段そう言ってるのはりえぼー自身だぜ」
「であれば、それこそ反応があるはず、か」
理絵子は半分自分自身に言い聞かせるように言った。自分に対し敵意があれば、自分の能力≠ェ反応するはずだ。それこそ『傷つきたくないって気持ちは、自動的に力を使わせる』の故に。
「だろな」
優子はガムのフーセンをいつにもまして大きく膨らませ、パチンと割った。
「だから、敵の方から焦れて動き出す、のさ」
包囲網。それがその時、理絵子が思い浮かべた言葉。
4
放課後は委員長会議である。
会議の冒頭、会議の担当教員にして学年主任の女性教諭が開口一番、頭の痛いことを言った。
各学校から学級委員男女1ペアずつ選出し、市の中心駅駅前にある東急スクエア≠ノ集まって、昨今増加しているインターネット絡みのいじめ問題について話し合おうみたいな企画があるというのだ。市内の中学は30あるからして、ざっと60人集まることになる。そして時節柄3年生を出させるわけに行かず、2年にお鉢が回ってきた、と。
生徒会長ネタじゃないかと思うのだが、クラスの動向を日々見ているのは学級委員だろうというのが、学級委員を集める理由だそうだ。
最も、それはそれで良い。みんなそういう社会状況は知ってるだろうから、それぞれに未然防止や対策を考えて来る(来ざるを得ない)だろう。そうした内容の意見交換は大いに参考になる。
頭の痛いのはこれだ。
「女子は黒野さんにお願いするとして」
なぜ決まっているのだ。ただまぁ、理由は知っている。この学年主任は、前述の教頭云々事件の全容を把握する課程で、自分のことをムズ痒くなるほど褒めちぎることになったからだ。
要するに気に入られたらしく、逆に言えば理絵子に任せれば万事OKという認識がこの学年主任にはあるようなのだ。ありがた迷惑な話で。
もちろん理絵子が出向くのに反対する者、やっかむ者はいなかった……そんな教員サイドお仕着せの面倒くさいイベントに出たいと思う者などない。むしろ自分に来なくて大歓迎、であろう。
「男子は誰にしましょうかね」
「あ、じゃぁ俺が行きます」
挙手して立候補、は書くまでもあるまい。
主将君。おー、という驚き半分の声が居並ぶ委員たちから少し。
「他に立候補は?」
いるわけがない。
私から指名しようか……いやいや。恨まれるか、あらぬ噂が立つだけだろう。
斯くて黒板にカルトゥーシュよろしく、マルで囲まれた名前が二つ。
日時は期末試験後土曜の午後一時、だそうな。
「楽しみだな」
主将君が肩をポンと叩いてくる……のを寸前でかわす。
「ただ出るだけじゃ意味ないからね。何か言えるように、学校側にも報告できるように」
理絵子はまっすぐ目を見て言った。
「その目がいいんだ」
「はぁ?」
脊髄反射的に返してから、それが彼のモーション≠ネのだと知る。手練手管ってヤツであろう。しかし、ハンフリー・ボガード辺りが言うならいざ知らず、所詮中学生の男の子だ。男性が身の程知らずというか、背伸びしてらしくない≠アとをするほど、滑稽なものはないのだが。
「じゃ、当日会場で」
くるりと背を向けると。
「待ってよ。イザという時の連絡先教えてよ。ケータイ持ってるんでしょ?」
とはいえ、番号、を教えたら何が起こるか目に見えている。
「……@docomo.ne.jp」
メアドなら後で変えられるし。
「TEL番は?」
「常時カバンに放り込んであるから鳴らされても気付かないんで。むしろメールの方が確実」
「でも……」
「心配になったらメールがないかチェックするから」
しょぼくれた顔。ここまでつっけんどんにされるとは思ってなかったと見える。
が、すぐに回復。理由は。
「判ったよ。俺の方は080……」
自分の番号を教えられるから。そこは普通の男の子か。
理絵子はメモらず、携帯に打ち込むこともせず、諳んじて返した。
「だね。了解」
「覚えたの?」
それは正直に驚いたという顔。
「うん。じゃぁね」
塾があるのだ。ウソではない。
5
塾が終わり、帰るメール≠家に送ろうと携帯電話をスライドさせたら、実にタイミング良く、主将君からメールが入った。
『塾終わった?相談したいことがあってさ。』
『Re:要点まとめて箇条書きで。パケ代フリーじゃないんで。分割メールお断り』
だから文末の「。」も付けない。しかし我ながら冷たい。
帰宅すると、テレビ桟敷の大振り座椅子に父親あり。酒飲んで寝るだけ、かと思ったが、酒の類は缶ビールひとつ。父親にしては控えめの部類。
「なぁ」
「あの」
父娘は同時に相手を呼び、互いに笑った。
「父に敬意を表して」
「レディファースト」
これも同じタイミング。
「私ご飯用意するから先に話してよ」
理絵子はキッチンに向かった。並んでいるのはトンカツとタマネギとタマゴと……すなわちカツ丼の続きを自分で作りなさい。という母親の無言の伝言。
電話脇で無線LANのランプがピカピカしている辺り、母親は自室にこもってパソコン叩き。自営業……ウェブサイトのデザイン追い込みというところか。
「お前の力≠ノ崇拝しているような子いるか?」
タマゴを溶く背中に父親は訊いてきた。
「霊感商法?」
「みたいなもんだ。まぁ本務じゃなくてウチの近所から受けた相談なんだがな」
そりゃ本務……警察官としての捜査なら、家族にすら内容は秘密であろう。ちなみに中身はというと、父親曰く、町内で怪しげな商品を次々購入している家があり、近所のケイサツということで黒野家に持ち込み。詐欺ではないか。
「5万円のブレスレットとか、何千円のシールとか。病気に効くと言われて買って」
「で、全然、効かないと。文句を付けると信心が足らないからだもっと買え」
「そういうことだ。虚偽の証明が出来て間違えた購入だと言えばなんとかなるけどな。それ以前に、そういうのを信じる心理ってのを知りたくてな」
「私のこと知ってるのは学校では優子ちゃんだけ」
……でもない、というフレーズが意識に付加される。そして再び、あの、目のイメージ。
監視?
追い払う。と言ってもそのように考える≠セけ。自分が気付いている≠ニいうシグナルを送る。
消えた。
「へぇ、でも桜井さんは知ってるわけだ」
父親は意外、というニュアンスのトーンで言った。
誰にも言うな、自分に使うな。幼い日、理絵子に発現した力を見抜いた、東京郊外、高尾山(たかおさん)に集う修験者からの助言である。
「彼女別格だから」
「そうか」
「ただ、すがる人の気持ちは判る気がする。心の問題であるが故に、心を超越的に扱おうとする言葉に吸い寄せられる」
思い出したのは言うまでもなく北村由佳である。迷う人に対し先が見えると言うならば。これほど甘美に聞こえるコトバはないだろう。
理絵子は続けて、
「いろいろ言い当てて信用させる。信用させてから牙を剥く。その言い当てた中身も、誰にでも通用する話だったりしてね。『あなたは優柔不断になることがありますね』……何か迷ってる、決めきれないから霊的な相談、と思ったところに、優柔不断、と来る。自明の内容なのにテレパシーで読んだ≠アう思って一気に信用」
「血液型性格診断と同じか」
「そう。でも逆に言うと、自分の力の限界を感じている、追いつめられている、という深刻な状態の表出。で、深刻ってのが得てして重い病気だったり、立ち行かなくなった商売だったり、本当に深刻な状態だから、縋った結果は回復不能。弱みにつけ込むとはまさにこのこと」
「気付いた時は手遅れか……」
「極端な話、死人に口なし」
「うーん……」
父親は腕組みして首をひねり、野球中継の終わったテレビを消した。
やめさせる算段を考えているが、思いつかない……そんなところか。
「で、桜井さんはどうしてお前の信者≠ノならないんだろう」
父親は話題を変えてきた。逆に信者≠ノならない心理に光明を、という所か。
「お前の力は頼るためのモノじゃない、と、彼女は言った」
理絵子はまず言った。桜井優子のコメントはそれだけだったが、それは、彼女がこの能力の本質に気付いていることを示唆する。と、理絵子は思っている。
すなわち。
「彼女は恐らく、私に現れているこの力の本質が、努力に報いるための存在。或いは命の確保のためのもの、と知っている」
すると驚いたことに、父親はびくりと身体を震わせ、手にした缶ビールの缶を取り落とした。
ホットカーペットに広がる黄金の海。
「おおいかん」
手近のティッシュを何枚も取り出す父親に対し、理絵子は洗い場から布巾を取ってくる。
ツンと酒の匂いが広がる。二人してゴシゴシ拭いてる有様は、古代エジプトのそれこそビール造りの女≠ニ名付けられた彫刻を思い出させる。
「すまんすまん。いやーお前の言葉に頭に電撃来た」
父親は照れくさそうに言い、
「そっくりそのまま、霊感商法の物言いだからだよ。霊能は努力に報いるため、命を救うため……でもこういうのって聖書とか仏典に書いてあるらしいな。おお、イイ匂いしてきた」
小鍋の中の一式頃合い。
どんぶりに移動すればカツ丼一丁上がり。
「コトバで明確なのはキリストさん。でも彼らの物言いは、その努力をお金で示せ、ってズレてくる。お賽銭みたいなモノだってね。そこが論理のすり替え。お釈迦様にせよイエス・キリストにせよ、対価の要求はしていない。むしろ良いことは人知れずが粋だ、っていう日本の美意識、能ある鷹は的な思想に近い。高天原の聖なる方々が現金必要ですかって。だから、霊感商法は、そのお金どこに行くの?この問いかけを発すれば結構。神仏はお金を求めていない。偉大な聖人は対価で奇蹟をもたらしたわけではない。確かに、寺社仏閣には大口の寄付者いるけど、それらはむしろ成功の還元、成功の因に神仏あったればこそ、と感じたからこその感謝の意味でしょ?そしてそういう気持ち、原初は犠牲になった動植物、八百万の神々へのお詫びと感謝、それがお賽銭の原点だったはず。つまり霊感商法のもの言いは因果が逆。お金を払うと神仏が霊能者を通じて奇蹟を示す。何か変じゃないですか?いただきま〜す」
言ってるセリフと食べてるもののギャップが我ながら。
「言われてみれば当然だな」
「そして、だからこそ、本当にそういう力があるなら、お金儲けなんかしちゃいけない。お金が儲かるように恣意的に力を使うようになる。結果ココロは濁り、湧いた思念は、本当の霊的示唆なのか自分の欲望なのか区別が付かなくなる」
「霊能を権力に置き換えると警察官の犯罪の解説になるな」
「仰る通りで父上」
「それで?理絵子の方は?」
父親は話題を変えた。本質に達したという判断であろう。
理絵子の相談はこれだ。そのネットいじめ問題。要はバレないように傷つけているわけで、犯罪そのもの。であるからして、その心理について父親の見解。
「なるほど」
父親は言い、ビール缶を卓上に戻し、身体を理絵子に向けた。
「犯罪ってのは何かのフラストレーション反応なんだよ。つまり、理由がある」
まず言って、
「だけどな。いじめはそれだけでは説明できない」
「理由がない?」
「きっかけ、自体はフラストレーションなんだろうとは言える。だが、繰り返す。エスカレートする。そして肝心なのはこれだ。罪だという認識はあるが意識はない」
理絵子は目を見開いた。
確かに、いじめという行為は、一般に隠れて行われる、隠される。露見は避けたいのである。
ただ、避ける理由は、罪の意識ではなく、
「バレると自分が不利になるから隠す」
「その通りだ。むしろ無差別殺人に近いのではないかとオレは考えている。後を考えて隠すのがいじめ、後なんか最早どうでもいいのが殺人だ。『誰でも良かった』……この点ではいじめもそうだろう。違うか。それこそネットいじめなんか何の関わりもないヤツが突然しゃしゃり出てきて罵詈雑言を並べ立てる。そんな類に思うが」
理絵子はため息をついた。言われると、ゾッとするほど類似点が多い。行動としての現れ方が違うだけ。どころか、実際に学校の中で児童生徒同士の殺し合いも生じている。
となれば、無差別……がそうであるように、いじめの背景もいろんな因子が複雑に絡み合い、思考がマイナスへマイナスへと進行して行くある種スパイラルに陥った挙げ句、とまとめられる。
対して。
「所詮学級委員が集まったところで……」
父親はうなずき、
「そこだ。アンナ・カレーニナって知ってるな。アレの冒頭なんて書いてある」
「『幸福な家庭は皆同じように似ているが、不幸な家庭の状況は様々だ』……あ」
「学級委員だけ集まってもな。オレには教育委員会サマのジサクジエン劇場にしか思えん」
もちろん、クラスメート状況様々なのは、学校行き始めて8年のプロ(?)としても容易に想像の付くところで。
「私のクラスでは積極的にみんなと話すようにしてます。と言っても……」
「所詮幸福なクラス。ただ気をつけろよ。傷ついた心は、それ以上傷つきたくないために平静を装う。傷ついていることを嘲笑の対象にされたくない。更に乗じて傷つけられたくないと思うからだ。方や隠し、こなた黙り込む。結果誰にも言えず追い込まれ、何も言わない普通の子がある日突然首を吊る」
「……なんか聞けば聞くほど言葉が出なくなるね。何かできるの?何を言えばいいの?って」
学級委員ってのはぶっちゃけ『エリート』だろう。午後のひとときそのエリート『幸福な』が集まって、社会情勢までを底辺に置く深刻な話題を扱って、何か見いだせるとは思わない。
せいぜい、酷いね可哀想だね。そして気をつけましょうというありきたりな結論で終わるのが関の山。
「建設的な話が出来ない気がしてきた」
「まぁめげるな。行けと言われたからにはブチ上げてこい。コーヒー立ててやるからそれ早く食ってしまえ。チョコも丁度頃合いだろうし」
「えっ?」
頃合いの必要なチョコ?……そこに注目が移ってしまう自分も所詮対岸の火事か。
6
ブルーマウンテンの湯気と共に出てきたのは、神戸
モンロワール≠フ生チョコレート。
要冷蔵、洋酒風味、とあるが。自分中学生だが。

「香り付けだけだ。警官の俺が言うんだから問題ない」
よくある必死で娘の気を引く父親≠ノ最近似てきた気がするが、とりあえず板をつまんで口に入れると、柔らかい歯ごたえと共に、微妙にコントロールされた甘みが広がって行く。
「これは……」
コメントするより柔らかい感触と味を楽しみたい。頃合い……父親はこの柔らかさを出すためにわざわざ溶かしたのだと知れた。
こういう一つ凝ったことを自分の娘にやってくるかこの父親は。
するとこの父親は自分もチョコを一枚口に含むと、手指に付いたココアの粉をティッシュで拭い、
「警官ってな、誰にも味方って思われてんだよ」
甘みが苦みを要求する。そこでブルマンを口に運ぶと、香しい濃密が、口の甘みと調和した。
「だから事が起こってからしか動いてくれない≠チてなるんだけどな。まぁそれはいいや。その展開でな、いじめ……よらず学校で生じる問題みんなそうだが、先生が万人の味方じゃなくなったってのを強く感じるんだ。弱きを助け、強きを制す。はずなのに、それどころか、教員が特定の子どもに余計なひと言でいじめのターゲット……良くある話だろ?そしてそれを報道が脚色してバッと広げる。すると、現在進行形のいじめ被害者は教員に対してどういう意識を持つ?」
「先生なんか……大人全体……親も含めて……」
この言い回しに若干捕捉する。理絵子の知る限り、虐げられた心はそれ以上≠避けるために最悪≠考えて行動する。傷ついた心にとって最悪の事態は、その心の傷を受け止めてもらえないこと。そこで大人が信用出来ないと感じるや、最悪の事態を避けるために、大人全てに対して口をつぐむのである。
「お前がクラスのみんなに声を掛けるのはその辺を踏まえてのことだろう?」
「……うん、まぁ」
その実、悩み苦しむ姿を見ていると、自分までも心痛くなるからなのだが。超感覚の故もあるだろう。傷つく心が敏感になるのと逆で、傷ついた心に対して敏感になる。傷ついた心の放つ救難信号≠ェ強くなるせいかもしれない。
ああ、と合点が行くものがある。自分ではクールなつもりでも優しい≠ニか言われることがあるのはそういう理由か。自分のそんな回避行動が優しさ≠ニ映るためか。
「それが実は有効な抑止力なんだよ。加害者と被害者、共通する人物が正義の味方。加害者は告げ口を恐れるわけだが、そういう関係があると、加害者は最悪リスクを考える。つまり被害者が告げ口し、その正義の味方がアクションを起こすのでは。ってことだ。この結果、最後の一歩は踏みとどまる。どころか、『あいつムカつくんだけど何とかならない?』と、まず正義の味方の利用を考えるようになる」
理絵子は頷いてコーヒーを口に含んだ。確かにそんな経緯でトラブルを回避できたことが何度かある。例えば授業中独り言を呟く少年があったが、彼は風の音を聞き、光の顔を見る¥ュ年であった。理絵子が理解を示したら独り言は収まった。
チョコをもう一枚。
「それ系を会議でブチ上げろと」
父親は小笑い。何か策があるのか。
「学級委員さんの人間性や普段の行動に依るけどな。大体がクラスって少人数のグループ幾つかと、一人が好きな子どもが数人、そんなパターンに別れるだろ?誰かとくっついてるようじゃダメだし、成績をハナに掛けてお高いのもまたダメだ。しかもそれで学級委員さんがピンチになったら先生が盤石のバックアップ。位のシステム構築が要る」
だとすれば『女は顔だ』と公言している(らしい)件の主将君などダメの急先鋒ではないか。
「……学級委員は平等か?」
「そこに行き着くな。……っても難しいか。やっぱり。自覚持って学級委員とか、超然とした立場を維持するとか、マンガじゃあるまいし、か。お前だってそもそもの理由はオレが警官だからだもんな」
で、それを繰り返すうちに黒野理絵子は学級委員……というコンセンサスが確立した。のが今の自分である。最もそれなりに声を掛ける際の工夫はしている。
『あたし全員と友達になりたいんだ』
大体、新しい顔同士の寄せ集めの新学年で、父親の言う小さなグループ≠ェ確立する前にこれを仕掛ける。『黒野はアイツとも付き合いがある』……それは警戒を呼び、いわゆる親友≠ノは発展しづらいかも知れない。それぞれにそれなり。ただ、それでも『黒野さんなら聞いてくれると思った』というパターンもままあり、善し悪しであろう。桜井優子とはもはや家族ぐるみだし、トータルプラスなら良いのではないかと思っている。
と、自己認識を整理していてハッと気付く。
認識の整理。
「要するに脳内で勝手に憶測が進行するんだ」
「ナニナニ何だって?」
会話的に飛躍した論理に父親が身を乗り出した。
「つまり……」
生の本人を知らないから、人から言われたことを真に受けて勝手に思いこむ=c…メール中心の付き合い方がもたらした弊害。もし生の付き合いがあり、本人の人となりを知るならば、華麗にスルー≠ナきるはず。
もう一つは、傷ついた心の動き。傷ついているが故に最悪の捉え方をする。勝手に思いこむ=B
更にそれらを見ている外野。同様に言葉尻だけ見て勝手に思いこむ=B
理絵子の言わんとするところは情報リテラシー≠ニいう言葉で表現出来ると父親は言った。
すなわち、有象無象の情報を認識し、整理し、正偽を見抜く能力。
「と、いうことか?」
父親は総括して訊いた。
「そう。話し言葉ならイントネーションなんかでニュアンスは伝わる。しかし文字はそこまでの能力は持たない。幾ら絵文字でデコったところで、軽さや真剣さ、本気か冗談か、までは伝わらない。些細なひと言が集中攻撃につながってもおかしくはない」
父親は首肯し。
「なるほどな。でも、だったらなぜ生身の付き合いをしないんだろう。目を合わすどころか、喋るどころか、メールという文字媒体だけでやりとりをする理由は?」
理絵子は3枚目のチョコを口に放り込んで、そのまま凝固してしまった。
そうだ。やれば良いではないか。済むではないか。
何故だろう。
「そこに本質が隠されているんじゃないか?。ネットはメールの延長線上だろ?お前達の世代は。さ、オレは寝るぞ」
父親は立ち上がり、ビールの空き缶を捨てに行った。
そこから先は自分で考えろということだろう。まぁ、コミュニケーションに対する意識も手段と自分たちは異なる。父親からはオトナな一般解しか出て来るまい。
脳内ペンディングとして自室に戻ると、机上で携帯電話の背面LEDがピカピカしている。
見ただけで主将君からメールが来たのだと判る。まぁ、用事があるならメールで寄越せと言ったのは自分だ。
受信ボックス。
『どんなタイプの男子が好き?』
それが相談≠ゥよ。
『Re:関係ないことメールで訊いてこない人』
7
判りすぎる≠ェ、得てして良くない結果につながるのは、よく自覚している話。
自分の能力を知った両親が、高尾山(たかおさん)に集う修験者を訪ねたのは、正しい判断だったと思うし、この能力が絶対権力に近いものだと即座に見抜き、ゆえに制する必要があると認識した父親は大したものだ、と後に感心した。
雄弁は銀、沈黙は金。力の扱いに関して、修験者の言葉をまとめればこうなる。この言葉の出自はケルト神話という説も聞いたが、どっちも形而上という点では共通しており、この辺り、で、あるがゆえ≠フ不思議な説得力がある。
『知りたいという気持ちを御するのは、人間ゆえに困難なことだ』
修験者は言った。人は根本的に知りたいと思う生き物。自然に生じる感情にそれを実現する能力が加わる。コントロールするのは通常以上に難しくなって当然。そこで理絵子は、この点を徹底的に鍛えることになった。
『女子(おなご)だから勝手に判ってしまう、ことはある。だがそれは女子のゆえとて気にするな』
いわゆる女の勘≠ノついての言及。要するに怖いのは恣意的な知りたい≠ナあり、ピンと来る≠アとは自体は仕方がない、ということ。ちなみになまじ念動力(サイコキネシス)なんか持ってしまうと、その力を使って変えたい≠ニいう欲望が更に出てきて尚難しいとか。……そんなインチキ行者をとっちめたことが以前あるが。
さておき、他人の言う自分のクール≠ネ部分が、この鍛錬の副作用であろうことは承知している。「えっ?ナニナニ?何の話?」……女の子に良くあるコレが自分にはないのだ。深入りしないし、当然ある意味公平な立場に収まる。そして、それは学級委員として必要かつ十分な条件。ただ前にも書いたが、その替わりぴったりくっつく′nの付き合いはない。なお、男子に言わせると、自分クールそうだが恋に落ちればラブ・イズ・ブラインド……いわゆるツンデレに見えるらしい。
「変わったよね」
隣のクラスから理絵子の机へ出張?してきている田島綾(たじまあや)が、そっちを見たまま呟いた。彼女はクラブ活動を通じての友人。先の本橋美砂は、綾の親戚筋が経営する民宿で住み込みアルバイト。
「おかげさんでこっちに降ってくる火の粉減ったけどね」
理絵子も目線を動かさず応じる。二人して見ている先は北村由佳。メガネをアニメキャラよろしく丸い物に変え、髪はいわゆる名古屋巻きのツインテール。おどおどしている、とさえ書けた最前の姿はどこへやら。輝くような笑顔で他の級友と喋る。
彼女は理絵子に声を掛けるどころか、目線すら向けなくなった。
その代わり。
「じゃあ…行ってみようかな」
「来て来て」
その喋っていた友人を伴い立ち上がり、目線を感じていたか理絵子をチラと見て背を向け、教室を出て行く。
その立ち居振る舞いは、セレブか勝ち組か。
「何今の……」
目線に含まれる見下した光≠ノ田島綾も感付いたと見られる。しかし、反射的に動こうとする彼女の肩に、理絵子は手をして制する。
「でも……行くんでしょあれ?彼女≠フところに。その天使≠ウんのところにさ」
田島綾が眉をひそめる。
その霊能女子≠ヘ北村由佳がそう呼ぶせいであろう、天使≠ナ定着しつつあるらしい。
3名が教室を去ったのを見てか、背後に駆け寄ってくる級友数名。
「りえぼーあんた知ってる?あんたの霊能は犬猫レベルだって言われてんの」
背後から声。少し心配気味に聞こえるのは自惚れ?
「で?」
理絵子は首を上へ向けて背後を見、言った級友の顔を天地逆に視界に収め、答えた。
「で……って」
「勝手に人を霊能者にして、今度は無い能者。ってだけでしょ?」
肯定してもないことをコキ下ろされたところで、否定する必要もない。
「それはそうなんだけどさ。その……うまく言えないけど、何か悔しいんだよ」
すると田島綾が、
「それは持ち上げる時は能力を捉えてスゴイ≠ネのに、コキ下ろす時は人格否定を伴っているからだよ。霊能者がダメ人間になって戻ってきた」
「そうそうそれだよ。何でウソツキ呼ばわりになるわけ?」
「さぁ……」
肯定も否定もしない。ただ、ウソツキのウソ≠ノ複数の意味が含まれているのは知っている。北村由佳の相談内容に対する答えについてのウソと、自分の能力に対するウソだ。つまり、見込みがある≠ニいう霊能女子の答えに対して、理絵子は何も言わなかった。これがウソだし、犬猫レベルの霊能とウワサの霊能とのレベル差のウソ。更に言えば犬猫レベルなので見込み≠見抜けなかった。そんな論理になっている。
「私が何も気にしなければ何も起こらない。と、思うんだけど、だめ?」
理絵子は頭の上の友人に言った。
「だめ」
言ったのは田島綾。
「あんたと付き合ってる私らまで否定された気持ちになってムカつく。てかさ、あんた本当に霊能者じゃないの?」
親しい友人からのその質問は、カクテルパーティ効果なのか、教室中に充分聞こえる音量となって広がり、全てのお喋りがピタリと止まって目線が理絵子らに集まった。
皆前で、正面からそれを訊いたのは彼女が初めてだ。
「ありがと」
理絵子は綾に顔を戻し、まずゆっくりとそう言い、
「だとしたら、嬉しい?」
と、逆に訊いた。
目を見開く田島綾。
「え……」
「全部判っちゃうんだよ。考えてること隠してること、とにかく全部。自分の考えを自分の知らない間に見透かされる。私は持たれるのも持つのもイヤだけどね。知りたくないことまで判っちゃうなんて、そのうち気が狂うと思う」
「でも……」
「真言(しんごん)を『っぽく』発するくらい高尾山に一日いれば出来るって。陰陽(おんみょう)とも共通点が多いから大して苦労しない。おん ぼうじしった ぼだはだやみ」
理絵子はその民宿でクラブの合宿を行った際、行きがかりで巫女の衣を纏って神事に参加したことがある。田島綾はその時から理絵子の本質≠ノついて疑いを持っている。
それを背景とした田島綾の『でも』、である。
「綾の気持ちはありがたくもらった。でもね、自分の知らないところで色々言われるのは誰でもあること。全部気にしてたらそれはそれで気が狂う」
理絵子は言い、自分のその言葉に大きな示唆が含まれていることに気が付き、目を円くした。
「どしたの?」
ビデオの静止画のように動きを止めた理絵子の顔を田島綾が覗き込む。
頭の上の友人も異変と気付いて正面に回った。
「託宣受けた巫女ぽくね?」
「巫女だよね」
「天使ヴァーサス巫女ですか」
8
示唆。
理絵子は机の中からノートを引っ張り出し、シャープペンシルの芯をカチカチ立てた。
「出た部長のネタ帳」
「何それ」
「我が文芸部の発表する話の大半は、このノートから始まる」
「それって要するにおんぶにだっこじゃ……」
「部外者はシャラップ」
「先に言ったのはあんた」
そんな頭の上の二人の会話。
その二人が覗き込んだノートに、理絵子が走らせた文言。
『今までは見ることも聞くこともなかった誰かのどこかの勝手な悪口が誰でも見られる状態になっている』
「何これ」
頭の二人は同時に訊いた。
「句読点ないから読みづらいし……」
「シャラップ。まじめに。ネットいじめの本質。ある意味テレパシーで全部判ってしまい、そして全部知らされる。それと同じじゃないかって」
「よく判りませんが」
「つまりね……」
校舎の隅で陰口、帰り道で誰かの悪口。
「その話し合う場所をネット上に移したために、関係のない人がそれを見て油を注ぎ、ひいては本人が見て傷つく。『あんただから言うんだけどさ、あいつムカつかね?』そんな、ここだけの話≠ェ、当の本人に聞こえてしまう。全バレ≠ノなる」
田島綾が目を見開いた。
「自分の知らないところで色々言われることが……」
「そう。それだけで済んだはずのことが全体に公開されている。残り続ける。それこそテレパシーで全部判ってしまうのと大差ない」
理絵子は言って、自らの言葉に身震いした。そもそも、テレビジョンというのは元々千里眼能力を指すその筋の用語である。テレ(tele)は『遠隔の』を意味する接頭辞だ。
手のひらの、机の上のテレパシー。
しかも多分に恣意的で利己的で。
偏向があり、
意図せず野放図。
「怖いよそれ」
クラス中が静まりかえる。
「しかも、自分で覗きに行くならまだしも、押しつけられることすらある。知りたくもないのに勝手に判ってしまう」
「やめてよ……りえぼーに言われるとゾッとするほどリアルに聞こえる」
誰かがどこかで自分のことを……そんな想像は、一旦始まってしまうと、止まる要素がない。どころか、自分はこんな風に思われているのでは?と想定される最悪≠考え始める。
そこに、脳内で勝手に憶測が進行する≠ェ結びつくと知る。父親世代のコミュニケーションは、まず生身があって、生身不可の代替手段が手紙。それが電話、ネットと進化し、リアルタイム性を徐々に備えた。
他方自分たちの世代。
1次元(文字だけ)、声アリ、2次元(画像メール)、3次元リアル。
後は俺様のジャスティス。
そこにこの年代特有の情動が加わる。目覚め始めた自我は、存在を認められたいと思うが故に、認められない事態を極度に怖がる。すなわち繊細で傷つきやすい。
その心は、想定される最悪の事態を考え、それが自分を傷つけるレベルかどうか、常に推し量ろうとする。
脳内で勝手に憶測が進行する
判断の座標軸原点は、自分が傷つくかどうか。
あくまで、自分が、自分の視点で。
恣意的で、利己的で、偏向がある。
「大丈夫私みんな好きだから」
理絵子は思わず言った。
立ち上がって、クラスを見渡し、声を出した。
「私このクラスみんな好きだから。女子だから男子だからとか問題ない。みんなのいいとこ私全部言えるから。誰が何を言おうが書こうが、そんなのうわべだけの勝手な憶測……そうだろ糸山!?」
理絵子はドア口に立っていた男子の学級委員、糸山秀一郎(いとやましゅういちろう)へ向かい、怒鳴るように言葉を投げかけた。
糸山は件の主将君とそこで何やらダベっていたのだ。糸山は主将でこそないが野球部。運動と地位を共通接点に二人の仲は良い。なお、この学校では野球部丸刈りというステレオタイプは当てはまらない。
理絵子は念ずる。ここで、男のお前が、ひとこと力強く付け加えろ。
しかし。
「あ、うん……こ、怖いよ黒野」
理絵子は思わず糸山の目を睨むように見てしまった。
そのせいだろう。主将君の自分への目線には気付いていない。
9
題名:例の会議のこと
本文:俺らの意見をまとめたい。帰り図書館はダメ?
彼からのメールの持つ重み≠ェガラリ一変したことは明らかと言えた。
それが、彼がその場に居合わせたせいか、時期的に本格的に考える必要に迫られたせいか、は、判然としない。ただ、自分の「みんな好きだから」は、自分のクラスのみならず、その場に居合わせた別のクラスの生徒達を通じ、学年全体に衝撃波として広がったようである。5時限目の始め、隣のクラスの担任で社会担当の作二(さくじ:同教諭の姓名の名の部分。教諭自身がそう呼べと生徒達に言い、故にそう呼ばれている)が、開口一番、「俺もオマエラみんな好きだから」とブチかましたからだ。
放課後。
サッカー部は野球部に校庭を貸す日とかで活動がないらしく、無理に機会を作ったわけでもない、ということで、中央図書館で落ち合った。
閲覧室机に積み上げた教育学・心理学系の書物。なお、こういうスペースが少々ざわついている、と書くと、ある年代層より上には信じがたい描写かも知れないが。
要するに空調完備の無料休憩スペースと化しているのが昨今である。
「さてと」
理絵子は主将君の向かいに腰を下ろした。
主将君は困惑顔。
「こんな難しいの俺わかんねーよ」
「こういうので箔を付けないとセンコー共が納得しないんだってば」
作戦を説明する。思春期ならではの情動は、自分たちならありがちなパターン≠ナ片づく。しかしとうの昔にしおたれたおじさんおばさんには通じない。
「ましてネット。ウチらには手のひらの向こうだけど、特殊な世界なんだよ連中には。そこで、心理学的にこれこれこうだから、こういう行動を取る、と意味づけしてやる。口先だけじゃない重みが加わる。あんただって、練習で後輩にあれこれ言うのに、有名選手の物言いやレッスン本の記述引用するでしょ」
「ああ。なるほど」
彼はまず言い、次いで笑みを浮かべて、
「頭いいんだな、理絵ちゃんって」
ま〜たモーションか?理絵子は思いかけ、そのまま素直に受け止めた。
トーンが違う。これは彼の本音。
「必死なだけだよ。オトナって図に乗るから」
だから、自分も本音を口にする。
そして、スムーズに本題に繋げて行ける。
「ウチらの立場は、先生のお気に入りになっちゃいけないってこと」
「え……」
主将君は目を見開く。黒野理絵子が教員陣に可愛がられて≠「るのは周知の事実。
「肩書きは先生でも中身はオトナ≠セよ。世間一般ご覧遊ばせ。オトナって何してる?新聞めくればオトナの犯罪花盛り。自分勝手であくどいことやって人を騙してウソ付いて。私らがそんなのの味方と思われたら学級委員の意味なし。私はむしろ、だからこそ堂々と先生様一同に楯突いてる。このネタだって裏の目的見え見えじゃん。ネット禁止電話禁止そういうの見るのやめましょう。そーいう方向に誘導する気でしょ。
アホかって。家パソフィルタリングして下さいって触書出すわけ?市内のネカフェ漫喫(まんきつ)PTAがタスキ掛けて巡回するの?」
理絵子は思い浮かぶままストレートに言葉を紡ぎ出した。
それは別にまとまっていた思惟ではない。たった今話しながら自分自身洞察に至ったのだ。
そうだよ。降って湧いたようなネタに感じたが、それはそれでアチラさん側の作戦なのだ。仮にそんな結論出したら当然、非難囂々になるだろうが、この結論は生徒代表である委員達の自主的な判断による……なので、矛先は参加した委員達に向く。火の粉≠ヘ教員には降ってこない。
しかも、教員側の捉え方として、学級委員≠ヘそういう問題に巻き込まれない。ってのが一般的であろう。
大臣に踊らされた、世間知らずの代議士先生が、マヌケな法案を出す。
子は親の鏡。子ども世界は社会の縮図。なお、ネカフェは時間制でインターネット閲覧が可能な喫茶室インターネットカフェの意。漫喫は漫画喫茶の略。
「状況を整理するよ」
ノートに図で書き出す。まずネット世界の捉え方。先生共にとっては、基本的にテレビラジオと同じような情報供給源。コミュニケーションツールとしての意味づけは、手紙電話の電子化であって、パソコン・携帯電話というネットと共通の道具≠ナ、それを行っているに過ぎない。
他方、自分たちには、先にも書いたが、1次元からリアルまでの間の選択肢のひとつ。
その選択肢の使い分けは、用件さえ判ればいい。声が聞きたい。体温を感じたい。同じ時間を共有したい。
そう表現したら、最後の共有≠ナ、主将君はイヤそうな顔を示した。
「ヤなヤツと共有は……」
「ウザイ?」
「うん」
理絵子の問いに、彼は素直すぎるほど頷いて返した。この辺り、自分たちの世代ならでは、なのではあるまいか。
「だけど、イヤでも同じ時間を共有せざるを得ない状況で生きてきたのが、ウチらの親とか先生とか。そこがまず違う。ウチらイヤなら次元を下げられる。まず1次元から始まる」
すると彼はハッと目を見開いて理絵子を見た。
理絵子はそれは自分の発言の失敗と気づいた。
しかし既に遅い。
「理絵ちゃん。俺のこと嫌いか?」
10
「え……」
周囲のざわつきが静まって注目が集まる。
居合わせた制服は様々である。中学のみならず高校も混じる。ただ、逆に言えばその手の話は無関係でも気になる年齢帯。
「俺……」
「空気読め、少年」
藤川高校制服の腕が主将君の頭を文庫本でポンと叩いた。
「美砂姉……」
「痛ってぇ誰だおめ……あ、綺麗なひと」
主将君は頭を押さえて見上げるなりそう言った。
「君のオンナを見る目はそれだけか?」
本橋美砂である。ここは彼女の通学路内。話している限り本は好きそうだし、居合わせておかしくない。或いは理絵子を遙かに上回る(と、理絵子は認識している)、その超常感覚で察知しここへ来たのか。
まさか。
「TPOはわきまえような。まぁとりあえずこの辺読んで再度アプローチしてみたらどないや」
その文庫本を持たせる。夏目漱石こころ=B
「野菊の墓も持たせた方がいいかい?」
本橋美砂は理絵子に目を向けた。
「いや、ヒロイン死ぬから」
「こっちだと彼が死ぬよ」
主将君は表紙をじっと眺めている。
それは本橋美砂の助言を真に受け、対し正統派文学に対する拒否反応との葛藤。
……裏返せば理絵子にアプローチする意志明確。
理絵子がそう気付いて本橋美砂を見たら、彼女は小悪魔の笑みを浮かべた。
何か策あり?
「悩むな。難しくないから。現代仮名遣いだし。私(わたくし)はその人を常に先生と呼んでいた。だからここでもただ先生と書くだけで本名は打ち明けない」
本橋美砂は同作冒頭を諳んじてみせた。
自分を見る。え?そゆこと?
「これは世間を憚かる遠慮というよりも、その方が私にとって自然だからである。私はその人の記憶を呼び起すごとに、すぐ「先生」といいたくなる。筆を執っても心持は同じ事である。よそよそしい頭文字などはとても使う気にならない」
理絵子はバトンを受けて続けた。もちろん全部ではない。ただ、漱石の文章には明快なリズムがあるので自然と覚えてしまう。吾輩は猫である、子どもの頃からの無鉄砲で……然り、然り、三度然り。
対し主将君は驚いたように二人を交互に見つめた。まぁ確かに、小説を諳んじているというのは驚愕に値するかも知れぬ。最も、男の子でも例えば糸山は元素の周期律表を書き出せるというし、もっと砕けて鉄道駅名丸暗記とか、虫の名前とか、余り変わらない気はする。子どもって好きなものはあっという間に憶えるものだ。
……にしても、この冒頭、今の自分たちの話題遡上のネタに対し何と皮肉。いや漱石ならアイロニーか。
「先生」といいたくなる。コキ下ろしたばかり。
よそよそしい頭文字。それは自分が彼に打ったメールと同質。
「彼女は、そういう娘なんだよ」
本橋美砂は言った。それは、理絵子は本が好きだぞ。アプローチするならそういうこと考えろ、という意味だと思われるが。
端折りすぎ。美砂姉その言い方マズい。
「え……」
果たして主将君はびくりと肩を震わせ、本橋美砂を見上げた。
「なんで、なんであんたが、そんな……」
主将君は口元を戦慄かせ、次いで理絵子を見た。
キミ デハ、ツリアイ ガ トレナイ。
衝撃的な彼の認識。
ゆえに勝手に判ってしまった。ああ罪作りなこの感覚。
さておき、こういう場合に適切な反応と言葉って何だ。理絵子が解を見いだす前に、彼は周囲の視線から逃げるように立ち上がり、駆け出して行ってしまった。途中、返却本を台車に載せて書架に戻しに来た司書のお姉さんとぶつかり、本が散らばる。お姉さんは驚いて声を上げ、しかし、彼は持ち前の運動神経の良さ故だろう、自らは転ぶこともなく正面玄関から甲州街道へ出て行った。
「壮大な勘違いを?」
本橋美砂は彼の走り去った先を見ながら訊いた。そのまま、司書のお姉さんが本を拾うのを手伝いに行く。
「ウチの馬鹿が失礼しまして」
「あ、ありがとう」
お姉さんが頭を下げる。理絵子も手伝いに立つ。
「多分しっかり大誤解。ネコは尻尾踏まれると一生恨むよ」
理絵子は言った。これも多分、脳内で勝手に憶測が進行する、だろう。
最も。
以下テレパシー。
〈告白されたところで……でしょ〉
〈ごめんけどそういう相手じゃない〉
問題はだ。
彼がここに残していった、用具の入った巨大なバッグ。
「置いてけ」
「美砂姉ヒドス」
「でも持って行く?持って行くだけ持って行って……ごめんなさい?」
「とりあえず会議が終わるまでは仲間」
「理絵ちゃんヒドス。考える余地はなしなの?」
本橋美砂は理絵子の目をじっと見た。
「えっ?」
理絵子は、ハッ、とした。
確かに、彼の気持ちに対して防波堤を築くことに腐心していたが、彼の気持ちを斟酌したことはない。
オンナは顔だ……その発言にカチンと来て、ハナから決めつけていた、というのはある。
それは、私自身の勝手に進行した憶測?
「ウソだよ。手伝う。リアル二人がかりじゃないと持てないこれ」
11
二人がかりで荷物を持つという行動は、駅の自動改札に怒られたりして、少々どころではない苦労をした。
しかし、そのまま図書館に置きっぱなしにすれば、彼の勘違いはエスカレートしよう。それで今更会議降りられても困るし、ウワサのタネに水やることもない。
夕ラッシュの電車に頭下げて持ち込み、一駅乗って降りる。
エレベータで橋上へ上がって改札を抜ける。理絵子の家はここから西側の階段を下りるが、主将君の家は東側だ。
駅前のわずかな商店街を抜けると風景が寂しくなる。夕陽受けながら一本道を行き、畑と住宅が市松模様を描く中に建つ、鉄筋3階建てのアパート。
呼び鈴ピンポン。
『はい』
警戒に満ちた大人の女性の声。
同じ中学の黒野で忘れ物を届けに来た、と言うと、それでもドアチェーン越しの対応。
「あのこれ……」
バッグを見せると、まぁまぁ済みませんと女性はようやくドアを開けた。エプロン姿であり彼の母親と言った。
「ごめんねぇ、この辺物騒でぶっきらぼうな対応になってしまって」
「いえいえこちらこそお忙しいところ突然。図書館に忘れて行ったのを見たので」
「あらそう。帰ってくるなり布団に潜り込んで出てこないから。ちょっと健太(けんた)、出てきてお礼くらい言いなさいよ。女の子二人にこんな重いモノ持たせてどういうつもり?しかもこっちの彼女高校生じゃない」
無言。
「健太ッ!」
こっちが驚くような怒鳴り声。
「すいませんね、照れてるのかしらね。まぁ女の子がウチに訪ねてくるのは初めてだしね」
初めて。その違和感。
あんなモテモテ≠ネのに?
すると部屋奥から反応があった。「着替えくらいさせろよ」
「全裸かい?」
本橋美砂のひとことに母親は吹き出した。
「違うよっ!」
奥から全否定。
「ムキになって否定するなって。ねぇ理絵ちゃん」
「えー、ノーコメントということで」
「面白いお嬢さんだわ」
玄関三和土で待たせてもらうと、果たして彼はTシャツにジーンズにくしゃくしゃ頭に。
夜のとばりがもう間もなくという屋内で、何故かサングラスをして出てきた。
ちぐはぐ……しかし理絵子は笑いを奥歯でかみ殺す。笑ってはいけないと強く制する気持ちがある。
彼は必死なのだ。何かを隠したくて。
この事態に、まずは彼の母親が彼の後頭部をひっぱたく。
「いて!」
「この馬鹿息子が。全く呆れた……取りなさいよそんなもの。家の中でどーいうつもりよ。そもそも失礼でしょうが。ヤクザかあんたは」
「うっせぇな……あ、その、どうもありがとう黒野さん」
黒野と呼び捨て。次が理絵ちゃん。今度は黒野さん。
「私には?」
本橋美砂が自らを指差して要求。
「あ、もちろんあんたも」
「いい態度だねぇ」
ちなみに一連のセリフを本橋美砂は眉根ひとつ動かさず口にしている。
理絵子は苦笑い。
「あとこれ書きかけだった教員心理図解ね」
図書館で取ったコピーを取り出す。
「書いたけど多分こんなあんばいだから。謀(はかりごと)まかり成らんとブチ上げて連中の裏掻いてやろうよ」
勘違いと隠し事。その所在には知らん顔して、ただ用件のみ伝える。口調が自ずとソフトになっている。と、後で気付いた。
コピーを手渡す。
「あ……」
触れ合う手と手。電撃を食らったような彼の反応。
他方理絵子の感触。骨に直接というか、肉感的というか、その節くれ立ったようなゴツさと、肌のきめの粗さ≠ヘ、記憶にある父親の大きな掌を思わせる。
ただ。
少し、しっとりしていた。
「まぁ眺めてみて、明日意見を聞かせてよ」
「う、うん」
震えているのか、彼の手の中で、コピー紙がカサッ、カサッと音を立てる。
とまれ用は済んだ。
「じゃ」
「お邪魔しました」
二人は口々に言い、頭を下げ去ろうとする。引き留めたのは彼の母親。
「あ〜ちょっと待って。健太。あんたはレディに荷物持たせて。あまつさえはこの夜道を二人でトボトボ帰らせる気かい?」
いえ、二人でルンルン帰れますので、と、言おうとしたら、主将健太はしゃちほこばった。
「それは……」
サングラスをしていても判る逡巡。
母親は溜め息。
「じゃぁあたしがクルマでひとっ走り行ってくるかねぇ」
「判ってるって行く行く。オレが送ってくよ。でもちょっと待ってくれよ。砂が目に入って取れなくて涙目なんだよ。みっともねーんだよ」
「それって、病院行った方が良くない?」
理絵子は小首を傾げて提案し、サングラスの奥を覗き込むように見た。
それならそれで他意はない。目玉に傷が付いてその傷の中に砂粒が、というのは実際あり得る。
すると、主将健太は盛大にブンブンと首を左右に振り、
「あ、いやそれほどじゃない。ぜってぇそんなことねぇから。とにかくちょっと待ってくれよ。用意して来るから」
健太君はバタバタと自室に戻って行く。
その背を見送り母親は溜め息。
「何考えてんだか。この歳の男の子はワカラン。ちょっと待ってね。ウーロン茶でいい?玄関先で悪いけど」
「あ、いえ、お構いなく」
「レディに足労のお駄賃よ。この中想像を絶するモノが入ってるんだから」
すると部屋奥より抗議の大声。内部陳列開示厳禁。
「誰が見せますか。末代に渡る我が家の恥よ」
母親は言い、やっこらせっと声を出して、スポーツバッグを玄関脇の脱衣場へ投げ出した。
そこで本橋美砂が一撃。
「エッチなのはいけないと思います」
後で聞いたらゲームキャラクターの名台詞(?)だとか。
果たして彼。
「バカヤロー!クソおかん死ねっ!」
「あら図星かい。……私らンな本の入ったバッグ抱えて図書館から電車に乗って人混み歩いて。ンな本持ってだよ。花の乙女が二人して。如何?黒野理絵子さん」
理絵子は水を向けられ。どうコメントしたもんだか。
「乱暴な言葉もいけないと思います」
このくらいか。すると、泣き声が聞こえて来たのはウソかホントか。
ただ、どこかぎこちなかった自分たちの会話が和んだ、とは思った。
気付く。美砂姉がそうなるように動かした?
「彼は男性として機能正常と判断されます。お母様」
「あっはっは!」
12
冬の日暮れは早い。
関東山地を西側に控えるこの町では、都心より尚早く陽光が山陰に隠れる。
健太君は率先というより、ふてくされたように二人の先頭を?二人から離れて?駅へ向かう。
理絵子は美砂に持論を開いて意見を聞いた。
「携帯禁止の布石ねぇ」
「勘ぐりすぎ?」
「とは思わないけど、言い出したら図に乗るだろうね。私はむしろ、センコー共も手の打ちようが無くて、生徒側に縋ってるような印象を受ける。あなたの言う通りあの世代にはネット空間はリアルの代替。ウチらから見ればコミュニケーションの一選択肢。いわゆる裏系の存在自体も、そのカキコミを真に受けるという心理も理解出来ないと思う。まして感性みずみずしく繊細な十代のココロでもない。そういうココロの状態でこれだけ揃ってる、こういう時代を迎えたってのは私たちが最初のはずだから。ただ、テレパシーを持ったに等しい。知りたくもないことまで勝手に判っちゃう。その場で音波として消えていた『ここだけの話』が、カキコミという形となり、しかも残り続ける。それは知ってもらわなくちゃいけない考えだと思うし。それと、ひとつのきっかけで怖い考えが暴走的に進んでしまう。ってのは誰もが通ってきたはずで、思い出して欲しいと思うし。それこそこころ≠チて、そんな暴走の挙げ句、抜け駆けするわけでしょ?」
本橋美砂が話す途中で健太君が足を止め、妙にゆっくりした動きで後ろの二人の方を見た。
「二人いっぺんに送り狼?」
本橋美砂はさらりと凄いことを訊いた。
「あの……」
健太君は怖々、という面持ちで理絵子に目を向ける。
「そういや霊能者って」
会話中のテレパシーという語に反応したのだとすぐ判った。
「私ら二人ともそういう話が好きだから、その方が判りやすいんで使っただけ。あなたが同意ってなら採用して、聞く気の無かった怪しいラジオを勝手に受信って表現に換えるつもりでいるけど?」
「知られたくないことを勝手に知られてしまうのは怖いべや」
本橋美砂の言葉に、健太君は目を泳がせた。それこそ本当に隠し事を晒された男の子のようである。
本橋美砂は根本的に小悪魔なのだと理絵子はコッソリ確信した。ただ、その台詞によって、彼にも課題≠ノ対する当事者意識が芽生えた、とも同時に思った。
対岸の火事であったであろうネット世界で起きていること≠ェ、急に現実味を帯びて感じられたはずなのだ。
勝手にウソを言われ、書かれ、コピーされ増幅する。それを受けて脳内で憶測が進む。それがネット世界ドロドロの本質だからだ。
そして、それらをもたらすのは十代特有のココロ。なお、べや≠ヘこの地から神奈川県北部地域にかけての方言といって良い。
「自分が傷付けられるのはイヤだけど、自分の言動が人を傷付けているかどうかは考えていない。そのくせそもそも、傷つきやすい」
理絵子は言った。
「理絵ちゃんそういう託宣的な飛躍的結論がウワサの根源でないかい?」
本橋美砂は言い、時計を見てさっさと歩き出した。そして健太君を追い抜きざま。
「見ちゃいないよ。何入ってるか知らないし、興味もない。男の子の汗臭い部活のバッグなんか誰が見るかい。君が勝手にそう決めつけて勝手に狼狽えているだけ。でも、そういう気持ちこそが裏にカキコミをされた子の気持ちだ。理絵ちゃんは多分そう言いたい」
「ああ、うん……」
彼は夢から目覚めたようにワンテンポ置いてそう言った。
歩く順番が代わる。先頭が本橋美砂で、真ん中が健太君、しんがりが理絵子。
……これが仮に狼の群れなら、守られているのは彼ということになるのだが。
しかも、これからが人の多い商店街なのだが。都心に比し夕刻の気温低下が早いこの地方は、帰宅する人々の足も早い。閉店時間は気分次第という個人商店の中には、早々にシャッターを下ろすところも。
「女の子って大人だな」
彼は悟ったように言った。
「あんな会議、テキトーなこと言っときゃいいじゃん。って思ってた」
「男の子はがさつで大ざっぱくらいが丁度いいんだよ。繊細な男の子は扱いづらい」
本橋美砂が言って小笑い。
「中原中也」
パチンコ屋の小喧しい店先を歩きながら、理絵子はぼそっと言った。詩人といわぬが繊細な男の子がクラスにいる。否定はしないで。
「汚れっちまった悲しみに。か……」
「その中原なんとかって教科書にあった原爆の」
健太君が言う。彼が自分たちの会話に必死で付いて来ようとし始めていることを理絵子は理解する。
「それ原民喜とゴッチャになってる。帰ったら『汚れっちまった悲しみに』、でネットで検索してみな。著作権切れてるから多分ワラワラ出てくる」
「検索したらいっぱい出てきました。ありがとうございました、ってちゃんとメールすんだよ。じゃね」
本橋美砂が一人離れて足を早める。一行は既に駅舎近くまで来ており、踏切が作動し始めたところ。
彼女は都心からやってくるステンレス電車の終点から、更に中古の電車へ乗り換え、山間に分け入って行く。
中古の電車は40分に一本。逃せばホームの天狗像の前で待ちぼうけ。
「あ、あの待って」
彼は美砂を追いかけ、階段を上がって改札前でようやく彼女を捕まえた。
「その、ありがとう。これ、母親が途中で食べてって」
ラップにくるんだおにぎりひとつ。
「あそ。お母様によろしく」
本橋美砂はウィンクすると改札にカードをかざしてホームへ向かった。
理絵子はそこでようやく追いついた。
「二人とも速いよ」
本橋美砂の身長は163。そして彼はサッカー部。
「美砂姉は?」
「行ったよ。間に合ったと思う」
聞こえてくる出発チャイム。ちゃらぽらぴんぽん〜……そして代わりに、ホームから改札めがけて歩いてくる多くの下車客。
心配にOKが返ってくる。一安心。
「ならいいや。そういやその、汚れっちまった、も、よく読むとこの状況予言してるみたいで怖いよ。じゃ、ありがと送り狼さん。また明日」
理絵子は彼に手を振り、そのまま駅の反対側階段へ向かおうとした。
その手を掴む、骨と筋肉だけで出来た大きな掌。
熱い掌。
「理絵ちゃん」
「え……」
13
呼び止められ、手を引かれる。
超感覚の類を要するまでもなかった。これまでの全ての累積とシチュエーションが、一点への収斂を示唆していた。
何を言われるか、判っている。
首をすくめて下を向く。彼は、半ば強引なまでに、理絵子の手をぐいと引っ張った。
「あ……」
元々緩めの背中のりぼんが解けて落ちる。髪が広がり肩に流れ、うつむく理絵子の顔を衆目から覆い隠す。
鞄を持っていた反対側の手も取られ、両手を引かれ、
彼は、彼女の身体を、力ずく、と書けるか、自分に向けた。
しかし、彼女は、彼の顔が見れない。
見られない、ではなく、見れない。
「君が好きだ」
ああやっぱり。
それは判っていたこと。なのに、全身が感電したようにびくりと震える。
下車客の顔が自分たちへと向けられる。手と手を取り合う中学生の男女。それ故の好奇の目線。
言葉が出てこない。状況は判ってる。何が起きているか知っている。でも、考えるべきコトと、言うべきコトが見つからない。
彼が自分をどうにか、という意志を持っていたのは前述の通りである。だが軽々しさしか感じなかったその時と、今この瞬間とは意味が違う。
「本気だよ」
「判ってる」
彼女はどうにかそれだけ言った。絞り出した。雑踏に消えそうな掠れた声。
握る彼の手の力が強くなる。
「可愛いなってずっと思ってた。でも、それだけじゃなかった。会うたびに話すたびに君ばかりが輝いて君しか見えなくなって……」
「ちょ、ちょ、ちょっと待って」
熱さのままにか、速度を上げて迸る彼の声を、彼女はどうにか遮った。
家路へ向かう乗客を背にした彼には、自分しか見えていない。
他方、自分には自分たちを見る多くの目ばかり見えている。
「やっぱりオレのこと嫌いか?」
「そうじゃなくて」
早くこの場を逃れたい。
しかし。
「待って」
出せる限りの大きな声を出したつもり。
「今は待って」
自分の言葉に自分自身落ち着いてくる。彼が勇者のライオン狩り≠ゥら、本当の好意に移行したのは判った。それは尊重したい。手紙など間接手段ではなく、こんな皆前で真っ直ぐ口にするのも、それだけ気持ちが強い裏返しだろう。
だが、それに対してすぐ答えを出せと言うのは勘弁して欲しい。
どうしても、というのであれば、たった今の気持ちを答えろというのであれば。
例の会議が終わるまで最低限必要な仲間≠ニいう関係すら崩れてしまう。
言うべき言葉が見つかった。
だから、ようやく顔を上げられる。彼を見られる。
「イエスかノーかと言われると、どっちの答えも今は言えない。今まで、そういう風に君のこと考えたことなかったから」
即否定≠ナなかったせいか、彼の手の力は緩んだ。
そのタイミングで、掴まれた手を何となく自分の身元に引き戻す。
「だから、考えさせて、会議が終わるまで。まず、請け負ったことはちゃんとやろうよ。立候補したのは君自身なんだし」
自分の言葉に力が戻ってくるのを感じる。
彼はしょぼくれた。
だがしかし。気持ちを一方的に押しつけられても困るのだ。
「考えてもいなかったことをいきなり結論出せと言われても無理。だから、考えさせて」
「判った。ごめん……」
多分、彼の言葉を最後まで聞き取る前に、理絵子は走り出した。階段を駆け下り、駅前広場を回り、横断歩道を渡って住宅街の坂道へ。
一人になって、ようやく事態を反芻する余裕が出てくる。ぶっちゃけた話、好意を言われたのは初めてではない。靴箱の震える気持ちを幾つ持ち帰ったか。
ただ、それらには至極冷静に対処していたと自分でも思う。幼い、と言ってしまっては失礼だが、心動かされるような内容の物は正直言ってなかった。理想が高すぎるんじゃないか?と手紙の存在を知る級友は言うが、同情と妥協で付き合うなと桜井優子は言う。個人的には、恋愛は無理矢理しなくちゃいけないものでもない、そんな程度。
端的に比較すれば、彼の発言は文字という1次元に対し、目の前でリアルタイムという3次元であるコトが違うだけで、内容的には違わない。可愛い好きだ。端的にはそれだけだ。
なのに自分のココロのこの反応の違いは何なのだ。
崩したくない、という底意はある。会議が終わるまで仲間≠維持しておきたいだけという、底意地の悪さは自覚する。
1次元でなく3次元で来た、という彼の気持ちを斟酌したい、という気持ちも確かだろう。その背景には図書館での本橋美砂の一言がある。「考える余地は?」
問題は、彼とは向こうしばらく顔を合わせる必要があること。
そこへ考えたくない既成事実が問題を呈する。北村由佳の気持ちはどうするのだ。
今は先延ばしした。それはいいが、リミットが来た時、どう答える?
以下気が付いた時はベッドの中。記憶がごっそり無く、母親と二言三言交わしたなぁというのがまるで夢の中のよう。夕食や入浴は全く憶えがないが、パジャマ着ているのでやることやったんだろう。
目が閉じられず天井をじっと見る。すると天井付近に毛玉のような物体がふわふわ出現して漂う。但しそれらは肉眼で見えるモノではない。理絵子自身は午前2時の訪問者≠ニ呼ぶ。古い気持ちの断片や一人歩きしている夢、怨念などである。霊魂のように振る舞うが、人格とまでは言えない。普段なら彼らの話を聞いて慰めたりするのだが、ごめん今日はそんな気分じゃないと考えたら、蜘蛛の子散らすようにパッと消えた。
何か変わる訳じゃないが、大げさにため息付いてみる。自分の意志は決まっている。されど彼の心意気は買いたい気もする。そして明日も明後日も顔を合わせざるを得ない。
で、北村由佳は?
ちょっと待て。彼に対してとりつく島もない素振りだった自分が、今逆に彼に気を使っているのはナニユエ?
テレパシー能力にすがれるならすがりたい。しかしアレは今そこにあるものが判るだけであって、その先を予測するのはプレコグニションという別の能力。だがそのプレコグニション……予知予感にしたところで、因果律には従うわけで、起こしてもいない事象まで見えるわけではない。こんな言葉で彼を袖にしたらこんな反応が返る≠サこまでは示唆されない。言った瞬間に初めて判るのだ。予知と占いの違いはそこである。ウラナイはウラヅケガナイの略だと考えた方が実態には合っている。
でなくて。それ以前に自分は彼にどんな反応を期待しているのだろう。あきらめて手を引け?
自分の意に沿う反応を相手から引き出すのは思想コントロールとか洗脳とかいうのだ。黒野理絵子は嫌いだ≠ニいう意志を彼自身に紡がせるのである。言葉で誘導すれば籠絡、思いこませるのが催眠術。更にはテレパシーで暗示を掛ける。
それじゃオカルト小説に出てくる超能力戦争。ああ成る程、念動力を恣意的に使いたいという人の気持ちが判る。
思考の発散を自覚する。核心に目を向けると無関係なことを考え出すのだ。結論を出すことを無意識に避けているかのようである。結局、要するに、何を言えばいい?
眠れやしない。
14
「理絵子起きなさい!」
「わっ!」
「わーっ!」
以上一秒半の間に起こった出来事は次の通りである。理絵子の母親が理絵子を起こしに来、布団を被ってカメの如くであった理絵子が驚いて起床して声を出し。
その声に今度は母親の方が驚いたのである。
「ああびっくりした!」
「びっくりしたのはこっちよ!今日は音立てずに出てったと思ったら何時だと思ってるのよ!」
母親は飛び出したカメに心底驚いたようで、胸元を押さえながらドア上の時計を指差した。
8時。
始業は8時半である。大寝坊だ。
しかし何で?自分。
「ちょ。は?え?」
で、思い出す。夜更かししたこととその理由。
「いいから着替えて降りてきなさい」
セーラー服にメタモルフォーゼ。それはいいが、スカートの丈を縮める時間はないし、普段なら寝る間机上で携帯電話のお守りをしているりぼんがどうしても見つからない。
「あれ?」
後で思えばクローゼットに予備のスカーフと一緒に洗った在庫が、なのだが、母親が急かしたせいか思慮が及ばず。
「無しで行きなさい。りぼん一本で世界が変わる訳じゃない。ほらパン」
しかし、そこでそれこそ予知が動いた。マンガ気分はここまでだ。
学校方向よりこちらへ走ってくる、見慣れた着崩しセーラー。
桜井優子である。何かあったのだ。
「優子?」
「りえぼ?りえぼーか!」
いきなり抱きすくめられる。
痛いほどに。大柄な彼女に抱かれると自分は埋もれてしまうかのよう。
「良かった。……心配した……いないから……お前いないから……」
涙まで流されてしまう。
一体何が起こったのだ。桜井優子の心配ぶりからして、自分が関わることのようだが。
「何が……」
「あのな」
彼女は昨晩、夜通し彼氏と走り、そのまま学校に直送されたので教室へ向かおうとしたという。
「下駄箱にクラスのみんないてさ、しきりに訊いてくるんだよりえぼーどうしたって」
桜井優子は要は留年のツッパリ系である。そうした経緯と外見から、クラスメートで彼女に積極的に話しかける者は少ない。
それが突然質問責め。何かあったと直感し、詳細さておき自分を探して通学路を逆行して来たそうだ。
「あれ?りぼんしてないじゃん。どうした?」
「どこかで落としたみたいで……」
「ならいい。何かあったせいじゃないなら。学校までボディガードしてやる」
しかしそんな重要な内容なら家に電話があっても。……って、携帯電話どうした自分。
記憶は忽然と言っていいほど無いが、何やったかの想像は付く。彼≠ゥらの電話を恐れて電源を切ったのだ。
むろん固定電話もあり、桜井優子は番号を知るが、それはそれで、仕事の邪魔だと電話線を引っこ抜く母親が一人いる。
「今日は寝坊しちゃって」
「お前と一緒にいられるならその方がいい。遅刻でセンコーが何か言ったらぶっ飛ばす」
セーラー服の騎士に守られて理絵子が学校に到着すると、クラスのみんなとピンチヒッター担任の竹内(たけうち)という女先生と、なるほど下駄箱で勢揃い。
「桜井さんありがとう。黒野さん何ともないのね」
「ええ、私自身は単なる寝坊です……あの、聞いたけど、とりあえずみんなどうもありがとう」
心配してくれたことに対して頭を下げる。
対し誰からも言葉無し。その背後の躊躇。モノ言いたげで、しかし言う言葉が見つからない。
担任竹内含め、みんなのぎこちなさもどかしさ。
「教室に原因が?」
「まぁ……」
「行っても?」
「ええ……」
見せるのは気が進まない、なのは火を見るより明らか。
先立って歩く自分にみんなの方が距離を置いて付いてくる。対し桜井優子は常に傍ら。
そして、教室を覗くや絶句。
黒板の真ん中に大きな白い文字で黒野理絵子。
その周りを埋め尽くす同じく白文字死ね∞死ね∞死ね=c…
いやむしろ死ねの文字で黒板を埋め尽くし、最後にその上に黒野理絵子と書きくわえた。そんなイメージ。
対象はもちろん自分なのだが、誰が何のためにとか言う以前に、事態が余りに凄まじすぎて言葉がない。
その片隅、女子が二人、雑巾で一生懸命。足元には洗剤やらアルコールやら。
「あ、黒野さん」
「消えないよこれ……」
「ひどいよう……」
泣き出してしまう。理絵子は彼女達を抱きかかえに行った。
「そりゃ消えねーだろ、これペンキだもんよ」
桜井優子が文字を指先でなぞり、溜め息混じりに一言。
「どうやってこんなに……」
「簡単だよ。死ねってデカくパソでプリントして、文字のトコ切り抜くんだよ。後はスプレーだろ」
「型紙か……」
「センセこれ絶対(ぜってぇ)消えねーぜ。街中の落書きと一緒で塗りつぶすしかない」
桜井優子は拳で黒板をダンと叩いた。
対し担任竹内は腕組みして唇を噛んで聞いていたが、頷き、溜め息ひとつ。
「判りました。この教室を使うのはやめましょう。移動します。場所を探しますのでみんなは荷物をまとめて待ってて。黒野さんちょっとみんなを……ってああ、一番傷ついてるのはあなたなのに何頼んでんのかしらあたし」
「いえ、私大丈夫ですから。みんなありがとう。自分のために泣いてくれる友達がいるって一番幸せなことだよ」
15
結局、黒板は取り替えるより他に手段なし、と判明し、業者に工事を依頼する一方、その間の移動先仮教室に、生徒達は色めき立った。
多目的室。
「他に無いんです」
担任竹内は言ったが、しかし積極的に移動を始める生徒はいない。桜井優子が先にスタスタ歩き出した程度。
どころか、逆に、理絵子に視線が集まる。
その理由。
「大丈夫だってば」
理絵子は笑って言った。多目的室。それは少子化の進行で使われなくなった校舎4階≠フ3つの教室のひとつ。
件の幽霊話はその校舎4階の出来事、但し多目的室ではなく、第2音楽室のことだ。
とはいえ、その音楽室から飛び降り自殺した女生徒がいたのは確かである。
「その件は音楽室だし。それに済んだ話」
集まる目線に理絵子は今度は真面目に答えた。自信を持って過去形で言える。
解決を見届けた当人だからである。
ただ。
「でも……」
尚残る、クラス一杯分の躊躇。
ここで、幽霊さんならちゃんとあっちに行った。ウワサ通り私が霊能で確認した。とでも言えれば、尚良いのかも知れない。しかし、やはり出来れば秘密にしておきたい。それに、事実と知って興味本位で何かされると、もっと困った事態になる、そんな気がする。
四十九日≠ニいう風習はダテではないのだ。
仕方ない。逆手に取るか。
「私がお祓いするなら行きますか?」
「え?黒野さんやっぱり……」
「やり方一通り掌握してるってコト。オカルト作品も文芸部の売り物ですから。ちゃんと高尾山の修験者に真言聞いて印契(いんげい)も教わってきました」
ウソは言ってない。
「みんなが納得できる方法を選べばいいんじゃないの?」
担任竹内が口添え。こんなオカルトまがいな話題に対する教員の弁ではないが、この竹内教諭はその事件がきっかけでこのクラスのピンチヒッター担任を請け負った。従い、背景を知る一人ではある。
「私も黒野さんにやってもらったし」
この一言でクラスの流れは一気に傾いた。荷物持ってゾロゾロ移動し、普段誰も通らない階段を上がって、部屋に入ってもらう。禁断の4階≠ノ集団で向かう有様に気付き、ドアを開けて何事かと見る他のクラスもあり。
多目的室。普通の教室2個分のスペース。3人掛けの長い机と椅子がズラズラ並び、つるべ式に上下移動する2段の大きな黒板を備える。ビデオプロジェクタとスクリーンも設置されていたが、部屋の使用をやめたため、高価な機材であるプロジェクタは取り外された。天井に配線が一部ぶら下がり、クモの巣とホコリ。
理絵子はまず、窓を全部開いて冬の冷気を澱んだ室内に呼び込んだ。
「寒いよ」
「凛とするでしょ」
「御札とか貼る?」
「しないしない」
「巫女装束着ないの?」
「密教の流儀でやります」
「陰陽道と密教ってどこが違うの?」
「真言なんか多く共通。日本古来のシャーマニズムと形而上的な部分で親和性があったから融合したと見るべきじゃないかと。これに神仏習合と明治以降の廃仏毀釈がまざくりあって、例えば遠野物語あたりでも仏様のたたりを巫女を呼んで鎮めたなんて話があるよ」
理絵子は言いながら、りぼんの替わりにセーラーのスカーフを解いて外し、一旦口にくわえ、髪の毛をたくし上げてスカーフで結び、ポニーテールにした。
鮮烈な切れ味と書けるか、その素早く無駄のない所作に、男女の別なくクラス中が見入った。
使った言葉と、動きと、準備整ったその姿。
「始めていい?」
冬の陽光を背にクラス中に問う。
「あ、おう!」
糸山秀一郎の回答。
理絵子は頷くと一呼吸。どの真言を使うか考える。便宜的なものだし、不安を鎮めるためだけ。だったら不動明王か……九字を切るという言葉をご存じの方には、そのうちの臨≠ノ当たると言えば通じようか、その場に臨んでなお不動の心根を、そんな方向性だ。
「みんなも知ってる高幡不動(たかはたふどう)のお不動さんで」
両の手を組み合わせて印契。不動根本印。
「ノウマク サマンダ バザラダン。
センダ マカロシャダ ソハタヤ。
ウンタラタ カン マン。
ノウマク サマンダ バザラダン カン」
(帰命す、普遍の諸金剛に、暴悪大忿怒者よ、破壊せよ。帰命す、普遍の諸金剛に)
精神的な不安を取り除くためのもの。
実際には14の印契を切るので省略形もいいところである。ただ、手抜き自体はしなかった。
包んでいた殻のようなものが割れ砕けた。それが最初に抱いた感覚。
次いで得たのが、いつの間にか覆っていた霞、或いはベールのようなものが剥がれた、視界も聴覚もにわかに鮮度を増した。そんな感覚。
呼応してか、多目的室の柱と梁からビシッという音が生じた。
殻が割れるような。
「ラップ音!」
オカルト愛好の女の子の一人二人、クラスに必ずいるものだ。ただ、理絵子はあまり力の分類とか用語に興味はない。
「すげー。あんたやっぱ本物じゃない?」
回答するかはさておき、その言葉にクラスを染めていた不安の色が溶け消えて行く。
対し。
不安の雲
包囲網
先日思い浮かべたそれら言葉と、今得た感覚との類似性。
そしてこれは予知。動く。
「なぁりえぼー」
先に多目的室の隅に座って次第を見ていた桜井優子が、理絵子を呼んだ。理絵子の秘密を知る桜井優子にとって、この部屋は恐怖の対象ではなく、儀式も傍観者の立場。
動く。
「これお前じゃないよな」
16
小さいが鮮鋭な携帯電話の液晶画面を、優子は理絵子に向けて見せた。
454:理絵子(sage)
健太君ゲッツσ^▽^)σ
455:けんた(age)
俺ららぶらぶ〜
456:名無し(sage)
>>454 逝って良し
周りから級友と担任竹内が覗き込む。
「桜井さん、これって本校の『裏』」
「そう。何か手がかりないかと思って。お前のカキコじゃないよな。って、裏見るなんてお前のキャラじゃねーし」
桜井優子の言に理絵子は頷く。
「健太は確かに黒野を好きだと言ってはいた」
糸山の発言。それは一般に物議を醸し、ひゅーひゅー冷やかされそうな類であるが。
先にも書いたが彼はあちこちでその旨公言しており、他方理絵子は歯牙にも掛けていないことになっている。冷やかすには無理がある。
「ヤツからは、黒野とその後どうこうとは聞いてない。先走ってウソ言えば嫌われるコトくらい判っているはずだ」
理絵子は頷いた。昨日、確かに、待ってと言ったのだ。
しかもこころ≠読んだはずである。自分で言うのも何だが、好きと言われた女の子に読めと言われたら、真剣に読むのが普通の反応ではないのか。しからば、こんな下品な真似をするだろうか。
「黒野さん自身じゃないのね」
「ええ、違います」
「でも、落書きとリンクしてるなら、辻褄は合うぜ」
優子は携帯を閉じた。確かに、知ってる者がやっかんでリアルに展開、実力行使、なら、説明は付く。
ただ、誰が。そういえば黒板のあれを見ても超感覚は何も言って寄越さなかった。様相に絶句して思考が止まったから、というのはある。あるが。
物にはその人がその時込めた思いが残る。残留思念とか石ノ森正太郎の古いマンガにあった。それは自分も感じられるし、それこそ幽霊事件ではそうやって記憶の断片を探した。あんな死ねで埋め尽くす憎悪なら、それはいっそう強いはず。
でも、何もなかった。
それは超常能力で消した≠ゥ。さもなくば例えば、催眠術というか一種のトランス状態で意識無く取った行動か。
どちらにせよ心への働きかけ……それこそ思想コントロールではないか。
気配。
次いで足音がし、皆の目がそちらに向いた。
多目的室の戸口に立つのは北村由佳。
理絵子は気付く。さっき教室に彼女がいなかったこと。
及び、彼女の手に握られ、入り放題の北風に揺れる白いりぼん。
理絵子は判った。
糸山が、彼女に、声を掛ける。
「おい北村。黒野が大変なんだ。心当たりないか?」
それは余りにストレートだ。理絵子は思った。
思った通りであったようで、北村由佳は驚かされた猫のように、身を翻して走り出す。
その行動はクラスの皆には唐突であろう。今、理由を理解できるのは自分だけだ。
事実はひとつである。そして、差し示す方向も明らかである。
ただ、まだ、僅かに余裕がある。彼女がこのまま何もせずそうするとは思わない。
理絵子は言った。
「みんなごめん、あれは由佳だ。自殺する可能性がある。体操マット持って2班に分かれて校舎の表と裏へ」
どよめきと目線。
「お願い。彼女自身は私が」
理絵子は言う。由佳のりぼんは自分のものだ。
彼女は昨日、駅で見たのだ。
あの場面を。
糸山が動いた。
「おう!じゃあ男子10人ずつ」
「女子も体力自慢は加わろうぜ。先生さぁ。出来れば他のクラスにも声を」
桜井優子が声を発し、担任竹内を真っ直ぐに見る。
「わ、判った」
クラス全体が動き出す。階段を下りて行く級友達。
理絵子は彼らを見届け、彼らの背中に願いを託し、北村由佳が向かったであろう方向へ走り出す。事件の現場になった4階最奥……第2音楽室。
ささやかな献花台で入り口引き戸は塞がれているが、その台は置いてあるだけ。
今、台は倒され、花束の幾らかが床に落ち、引き戸は開いている。
躊躇無く、しかし慎重に理絵子は中へ入る。音楽室としての機能停止後、10年以上放置状態だった部屋だが、事件の痕跡隠しもあろう、ピアノなど持ち出されて完全にがらんどうになった上、床天井張り替えてリニューアルした。
その新しさが無機質な無人空間。視線が捕らえたのは、北風に翻るカーテンと太陽の中の少女。
「けだもの」
少女は接近する理絵子に対しそう罵った。両の手の間を渡るりぼんは、引きちぎられるかの如く。
「見たわけだ」
対し自分の声の酷薄なこと。
でも何故だろう。別に彼女に対し怒っているつもりはないのだが。
「ウソ付いて……手握られて嬉しそうに……」
それは彼女の立場に基づいて勝手に進行して♂釈した誤解。反射的に「違うよ」と言いたくなるが、この状態では自分が否定するだけ、何を言ったところで、無駄だろう。
「彼からそう聞いたの?それとも……」
言い終わらぬうち、反射的な動きで彼女は窓枠に向かって小走りし、アルミサッシを手で掴み、体重を掛け、足をかけた。
窓の下方を覗き込んだに相違ない。下からの皆の声。きたむら〜。ゆか〜。やめて〜。
待ち伏せがいると知るや、北村由佳は今度は反対側の窓へ走った。
しかし、窓に顔を付けただけでその先の行動を躊躇する。当然だがそっちにも皆に回ってもらっている。その姿が見えたのだろう。
北村由佳は音楽室を彷徨う。日向の窓を見、日陰の窓を見、
理絵子をチラチラ見ながら歩き。
どのタイミングで彼女に接近しようか、理絵子は考える。誤解であること、場面の正確な説明と、自分にその気はないことと……
されどこの状態から。
「なんで……」
北村由佳はついに立ち止まりそう呟き、理絵子を睨み、そのまま涙を流した。
「私、行き場がないじゃん……」
りぼん持ったままぺたりと座り込み、屈辱に堪えるように歯を噛み鳴らす。
その時背後に気配。強い気配。
理絵子は振り返った。
17
赤。それがまず得たイメージ。
激しい怒り、及び嫉妬心。
突き刺して来るビームのような目線。
真っ直ぐに自分を見る髪の長い少女がそこにあった。
美人だが近寄りがたい……但し、それは本人自身が振るまいで醸す演出。
演出がもたらす気位は確かに天使と表現して良いかも知れぬ。でも、理絵子は、同じ天使なら、きたのじゅんこが描くようなタイプの方が好きだ。
「まぁご挨拶なこと、黒野理絵子さん」
その言葉、つまり自分の意志を読んだわけだ。なるほどそれなりに使う≠轤オい。
「クラスが総出でマット持って待機。ってのは想定外だったですか?天使さん」
理絵子はそう応じた。思惟を読まれぬようロックも出来るが、自分を勝手に霊能者に祭り上げたのは彼女であって、思い通りに行動してやる理由はどこにもない。
「汚い娘」
天使≠ヘ短く罵詈を寄越した。
「普通のフリして、隠れて霊能使って、自分だけいい目見ようとして」
それが北村由佳に対するこれ見よがしの発言であることは論をまたないであろう。
意図するところがあるならテレパシーで放り込んでくれれば一瞬で事足りるのだから。
私が霊能者だと思うなら。
「事件解決した程度で霊能者気取りとはおめでたい」
天使≠ヘ言って寄越し、自らのセーラーの胸元に手を入れると、首から下げているロザリオを引きちぎり、その十字架の先端を理絵子に向けた。
神の道を知る読者よ。この扱いに心痛めるを作者は理絵子と共に理解する。
「でも、あんたの野望は私が抑えたよ。クラスメートの恋心を手玉にとってカラスのように掠め取る。私にはお見通し」
天使≠ェ自分に対して何か仕掛けようとしている。
いや、仕掛けようとして、ではない。そういう未然形ではなく、何か事の次第に則って仕掛けている真っ最中と理絵子は知った。
ロザリオ持つ天使≠フ手が震え出す。冬の北風が入って来るというのに、額に汗が玉をなす。それは必死で自分に念力噛まそうとしたニセ行者を思い出させる。
つまりそういうことらしい。……とりあえず何も感じない。
「あんたが気に食わない」
堪えた物あふれ出すように天使≠ヘ言葉の毒を吐いた。
いきなり結論を言って寄越す。託宣的な物言いは……本橋美砂が言っていたのを思い出させる。
対し、理絵子は、まばたきを返すだけ。
ようやく全容を理解する。ただ、天使≠ヘ自分の理解に気付いていない。
「なんで……なんで力のある私が……力なんか無いあんたが……ましてや……」
強い怒りが渦巻き、言語中枢の機能に干渉し、まともな言葉にならない。
ただ気持ちは充分すぎるほど届いているので言葉で組み立て直すことが出来る。彼女に取り、霊能者である己れがクラスで疎外される一方、対し理絵子はちやほやされ、あまつさえは霊能者だと自然発生的に噂が立った。
しかも自分は変≠ナ。理絵子は凄い≠ナ。
それが気に食わないのだ。
特別な存在は自分であるべき。だから天使の気位≠ネのだ。が、事実はそうした彼女の思惑とはほぼ真逆。
「何とか言いなさいよっ!」
天使≠フ唐突なその声は、背後で北村由佳が驚いて震えるのが判るほど。
しかし、驚き見つめる北村由佳を、天使の娘は一顧だにしない。
つまり現時点、天使の娘にとって北村由佳の存在はどうでも良いのだ。
誰の目にも最早明らか、と書いていいだろう。理絵子にのみ向けられた私怨。そのためにこの機会を作った。それこそ、超感覚など無くても、女の勘≠ナすら必要ない。
で、あるなら。
「どうでもいいけどさぁ」
理絵子は呆れた表情を作って返した。
「とりあえず、由佳を中に入れてもいい?私に対する個人的な話なら彼女関係ないでしょ。万が一に備えて外で待たせるみんなだって可哀相だし」
果たして天使の娘は眉根を鋭く屹立させた。
「バカにしてんの!?」
彼女にとってはそうかも知れぬ。しかし理絵子にとっては、クラスのみんなが蔑ろにされていることを意味した。
つまり、今度は、こっちが大きな声を出す番だ。
「たった今いっちばん傷ついてるのは由佳で、そう仕向けたのは他ならぬアンタってのが私の認識なんだけど天使さん。おかげさまでクラス全員振り回して下さいやがりましてありがとさん。ええあなた中心に世の中回ったよ。ガッコの中だけね。でもココロ読めることとココロ判るのは違うんですよ天使さん」
理絵子はそこで一呼吸置いた。
自分に向けられたロザリオの十字架が揺れ動く。聖なるエンブレム台無しじゃんと理絵子は思う。ケルティッククロスだと文芸部ネタ用に仕込んだ知識が言って寄越す。十字架のクロス部分に円環を重ねたデザインであり、その円環は取り外して別のデザインの円環に交換できる。装飾は凝った意匠であり、表面加工の細工も手が込んでいる。細工師が一つ一つ彫金したとオカルト雑誌で広告されたレーザ光線加工量産品。
凝った意匠……文様を読んで気がつく。これはケルト十字じゃない。
円環の部分刻まれているのはヘブライ文字である。結論これは魔法円だ。お門違いだが話のネタ程度の知識は有する。ソロモンの秘法。用途に応じてデザインの違う魔法円を嵌め込んで使うのだ。
彼女の小道具。お守りにして拠り所、最高の聖具。天使がイエスの象徴に頼るのもどうかと思うが。
そして、今現在セットされている円環魔法円。
サトゥルヌス・セスト。
呪詛。
そうかい。
以上自分が読み取ったことを天使≠ヘ驚愕と共に知った。
理絵子は悪魔のように¥ホって見せた。
「相手してやる。だから少し黙れ。由佳、あなたは戻りな。見た通り下でみんなあなたを心配してる。取るべき行動は判るよね。その後で、あなたが昨日見たことをちゃんと説明する」
理絵子は振り向いて笑って見せた。
けだもの、と罵った相手が返したのは笑顔。
その展開に北村由佳は戸惑い、少なからず驚いたようである。理絵子は背中に突き刺さる赤い視線を意識しながら、北村由佳に手を伸ばした。
「黒野さん……あの私……」
「何も言わなくていいから。あんなところ見たらそう思っちゃうって。でも、そのことと、この女の言いがかりは別」
言いがかり、というそのフレーズ。
赤≠ェ瞬間、炎のように燃え上がる。
天使≠ヘ手にしたロザリオ十字架をナイフか短剣のごとく振りかざした。
が、そこで動作を止める。
なぜなら。
「汚い私の血で十字架汚れていいのかな?」
理絵子は自らの胸元に手をして、肩越しに天使を見、ケダモノの笑みで問いかけた。
憎悪のみの少女。
それは今、彼女の心の重い蓋が開いた証、と理絵子は知った。
同時に、その尋常ならざる表情と雰囲気が、北村由佳に恐怖と忌避を与えたことも知った。
「じゃぁ、あの私……」
北村由佳がそそくさとばかり退室する。調子良すぎる娘だとは誰もが思うであろう。桜井優子の見立ては正しかったのだ。自分はそれを認めたくなかっただけだ。
超感覚が勝手にあれこれ情報を集め出していることを意識する。共鳴するように感度が上がっている。まぁ目の前で感度全開で疾駆されればこっちの回路も影響を受けるのだろう。振動が隣へ隣へ移動して行く振り子のオモチャと同じである。
それは、本橋美砂との間で生じる分には楽しいシンパシーなのだが。
ともあれ一般人≠ヘいなくなった、と理絵子は送ってやった。
アンタは特別な存在だ。私がたった今確認した。
全部理解してやるから言いたいこと言え。
理解を得るための衝突。要するにケンカである。
この霊能少女は一度爆発させてやる必要があるのだ。彼女の求める方法で。すなわち、常人の理解の及ばない世界観と言語で。受け止めるのに特別な能力を要する方法で。
それなら、私の担当上等。
「十字架突き立てて解決すると思うなら。やんな。でも肉体傷付けても精神は傷つかない。知ってると思うけど」
「うるさいっ!」
とはいえ感情的に煽るのは解決へ導かないようだ。
「私が憎いと」
話題を変える。本当にケンカかこれ。
「何であんたばっかり、何であんたばっかり。私だって……」
「みんなに色々アドバイスして上げてたんでしょ?」
「お前は何で……」
「仮に私があなたに相談を持ちかけたら、あなた何て言ってくれる?」
その時、少しメタボ入った男性教員が音楽室入り口に姿を見せた。
1組。すなわち天使の担任。しかし当の天使は意識と超絶感覚の全てを理絵子に向けているせいか、感覚とは裏腹に全く気付いていない様子。
頼りすぎると全てが霊的≠ノなってしまい、目と耳が捉える肝心な事実が判らなくなる。良くあることだと行者達は教えてくれた。だから役立てるため以外に使うべきにあらずと。
「その気もないのに答える義理はないね」
天使≠ヘまず言い、次いで挑戦的な笑みを浮かべ、
「まず、その全部知ってますな物言いはやめてから、またおいで」
挑発するように顎をしゃくる。意図はさておき、彼女にとって、このケンカ先に売ったのは彼女であるらしい。で、自分が買ったことになっている。
理絵子は小首を傾げる。
「優等生ぶってるって?」
「癪に障るんだよ!」
恫喝的に怒鳴り、再び十字架先端を向けて来る。その言動には自分をどうにかして、或いはなりふり構わず天使様には降参です≠ニ言わせたい、そんな意図を伺わせる。
自分の凄さをアピールしたい。
ケンカ先に売った……理絵子の挑戦受けて立ってやるという心理のなせる自己解釈。
そういうことにしときましょう。結構なこと。
その調子で全部言え。
「何で……何でお前は違うんだ?私だって全部判ってる。でもみんなにはお前はイヤだって言われる」
この娘は力と自我を制御できていない。その台詞から判ったのはそれ。
『しかも、自分で覗きに行くならまだしも、押しつけられることすらある。知りたくもないのに勝手に判ってしまう』
これは超感覚に対する理絵子の認識であり以前に書いた。
立場を逆転する。
『しかも、自分から教えたならまだしも、引き抜かれることすらある。教えたくもないのに勝手に知られている』
……何で教えてもいないのに知ってるの?私の全てを覗いてるの?やられた側の認識は当然そうなる。
「なのに、お前は何もないのにいつもみんなとニコニコ。この部屋の事件だって本当は私が解決するはずだったんだ。ここに居ることも判ってたんだ。霊を何度も呼び出したよ。でも出てこなかった。なのにもうここに彼女はいなくて、お前が解決したことになってる。お前本当に彼女と話したのか?何で彼女はお前とは話しをしたんだ?」
天使≠ヘ一気に喋った。要するにそれが本音らしい。ただ、気持ちが入り組んでいるので文章がややこしい。
テレパシーで放り込んでくれればいい物を。まとめるとこうだ。
天使の能力は理絵子より高い(高いはず。或いは高くあるべき)。
従って好意と尊敬を集め、幽霊事件を解決するのも本来自分の役目。
なのに何でお前?ただ、薄々感づいている事実が一つあり、それは彼女にとって最も認めたくないことで、認識するのが怖い。
「高千穂(たかちほ)、いい加減にしないか」
良いのか悪いのか、そのタイミングでメタボ教師が制止の言を発した。
確かにこの天使……高千穂という名らしい……の台詞は、常人には理解不能であろう。メタボ氏はそれを正常限界と見、自分に迷惑と考え、動いてくれたのだ。
天使高千穂は振り返った。まるでねじられたバネが跳ね返るような唐突さだ。
対し腕組みしていたメタボ氏は、呆れたように溜め息。
またか、いい加減にしろ。そんな氏の意志。彼女のことをほとほと扱いあぐねているらしい。
それは当然、天使高千穂の真意、自分の特別性を認めて欲しいとは逆の認識。
「先生は何も知らない……」
諦念と共に天使高千穂は呟く。彼女にとって一般人<<^ボ担任の介入は歓迎ではなかったらしい。
天使高千穂が強い排除の意志を発し。
それが、メタボ担任の意志、いい加減にしろと衝突する。
波と波の衝突。生じた衝撃波を通じ、理絵子はメタボ氏の意志をキャッチしてしまう。それはクラスで折々生じていた彼女にまつわるトラブル。
彼女は自分の特別性を知らしめたかった。その意志余りに強いが故に、相手の気持ちを考えず、知っていること、判っていることを全部口にしてしまった……。
理絵子は自分の得たその認識を、意図して天使高千穂の意識に送り込んでみた。
アンタのやり方は人を傷つける。
「あーっ!」
電撃を食らったような天使高千穂の尾を引く声と胴震い。
しまった切れる。理絵子は自分の失敗を認識した。
例えるなら放り込む電波と、その内容……あんたの認識は間違い……の衝撃が強すぎたのだ。
自分が唐突に頭の中で大声を出して否定した。それが天使高千穂の認識。
神経回路が保護でヒューズを飛ばす。
すなわち。
ロザリオが天使高千穂の手から落ちる。
そして糸を切られたマリオネットのように、天使の少女は崩れ、床に潰えた。
18
天使が失神したところで、1組担任メタボ氏が音楽室へ入ってきた。
「高千穂はいったい?えー黒野さん、だよね。4組の」
この天使さんはフルネームを高千穂登与(とよ)と言うそうだ。
で、美少女の霊能者。まるで邪馬台国だ。
「ライブコンサートなんかで興奮の余り失神するのと同じメカニズムです。少し休めば大丈夫。保健室へ」
理絵子はそう答えた。実際には念力噛まそうとして空回り、精神神経回路がオーバーヒート。なんて説明しても仕方がない。
半分過去認知になるが、どうやら彼女の発した力≠ヘ、自分には届かず、全部そのまま彼女に跳ね返ったようだ。
レーザで金の鏡を撃ったように。
ついでながら、理絵子自身の超感覚の感度が上昇したのはそのせいである。跳ね返されたその筋のエネルギが行き場を失い、短時間音楽室に充満したのだ。
以上理絵子の理解。
「じゃぁオレが抱いて行くよ。困った生徒で申し訳ないね」
メタボ氏は高千穂登与を抱え上げ、お姫様抱っこ=Bなお、北村由佳は精神的に不安定になっており、保健室で養護教諭が様子見の由。まぁ何より彼≠フ気持ちが未確認である上、頼りにしていた天使さんは理解不能の言動、あまつさえは自分の言動をどう感じたか。不安定にもなるだろう。少なくとも彼女は「自分の行き場がない」と自ら口走ったのだ。
誰かそばにいた方が絶対にいい。有象無象はその後の話……で、多分自分が、彼女を傷つけることになるわけだが。
「実際やってみると結構大変だなこれ。腰に来る」
メタボ氏は呟きながら、足下階段を一段ずつ目視確認しながら下りて行く。更に氏によれば、4組は担任竹内がついて臨時学級会。そして、高千穂はむしろ理絵子に任せた方が良いのでは?と竹内に言われたとか。
ならば。
「彼女は特殊な能力があるようです」
理絵子はまず言った。本人が公言してるんだから問題はあるまい。
「やっぱりそうなのかね。オレには信じられないのだが」
「そうやって首を傾げると、言い当てをしたり、捜し物をヒョイと見つけたりして、能力を証明しようとする、違いますか?」
「ああ、うん。でも信じると言うよりは気持ちが悪い」
やはりそうか。求めもしないのに先回りして待ち伏せされたら誰だって不気味だろう。リアルで行うそういう行動を現代はストーキングというのだ。
で、不気味がられて悩んだ人物……のひとりが、実は世界で最も有名な人物の一人。但し2千年前。
「その反応こそは、イエス・キリストが周囲から受けた誤解そのものです。と、言ったらどう思われます?彼は挙げ句死を受け入れる」
するとメタボ氏は立ち止まって理絵子を振り仰いだ。
「彼女は自殺する気……まさかこれクスリか何かかい!?」
高千穂登与は薬物で自死を図り、その過程における失神ではないか。
「そうではありません。とにかく何でも判ってしまう、出来てしまう。誰かのココロが間違った道を選んだ。すると、その瞬間それと判ってしまう。先は見えないはずなのに、それは間違い、といきなり自明。でも、良かれと思ってそのことを口にすると、何だコイツ、と思われる。要するにそれで『オレはこの世じゃ認めてもらえんな』と思ったのがキリストです。ぶっちゃけ」
「およそ2年生のセリフじゃないな」
メタボ氏は苦笑した。それは、理絵子の物言いがメタボ氏の理解を超えたことを意味した。オトナは子どもに負けていると自覚すると話題のすり替えを図る……なのであるが、構わず理絵子は続けた。
あんたには、あんたにだけは、彼女を理解して欲しいから。
「同じ悩み。理解されない。どころか悪し様に言われる……その悪し様陰口すらもお見通し、ってが彼女の状態だと思うんです。ところがそこで、そうじゃないんだ、事実なんだと彼女は更なる証明を見せようとする。証明レベルを高めれば高めるほど常識レベルからは離れて行き、尚誤解を招く。何で判ってくれないの?彼女は悩み、更にレベルを高める」
つまり、思考のスパイラル。
メタボ氏の相づちを得て理絵子は続ける。
「彼女にとって、自分のコトバに従わない周りは、何も見えない危なっかしい幼子のように思えるのでしょう。親御さんが子どもに手取り足取りするように、つい口出ししたくなる。先生ですらも。過去いませんでした?オトナのクセにこんなことも知らないのかって感じの子」
理絵子は言い、それが、ネットいじめの炎上≠ニ同じメカニズムであると気付いた。つまり、掲示板なりに悪口を書き込まれ、書き込まれた本人がムキになって否定。そこを揚げ足取られ、因縁付けられ、なおさらに攻撃される。攻撃は増殖し、掲示板は罵詈雑言で埋め尽くされ見るに堪えず。その有様火が付いて燃え広がるが如く、故に炎上≠ニ呼ばれる。
「……ああ、そういう子と同じか。恐竜とか電車の駅とかお前辞典かって思うくらい知ってる子な」
「同じです。彼女の場合ココロが判ってしまうんですよ。気持ち悪いほどに。先生は過去、そういうタイプの子達にどんな対処されてました?」
「お前スゴイな、オレにも教えてくれよ。……ああ、判った」
19
保健室。
毛布を羽織ってお茶を手にした北村由佳が、ベッドに腰を下ろしている。
傍らに養護担当の女性教諭の姿があり、ドアが開くと二人してそちらに目をやる。
捉えた状況にハッと目を見開き、小さくびくりと震える北村由佳。養護教諭はちょっと待ってと手のひらで彼女を制し、立ち上がる。
この手の事態は教諭間で話が回るのが普通であり、特に養護教諭は優先順位が高い。
「黒野さ……」
「黒野さんね。一緒と思った」
北村由佳と養護教諭が同時に声を出し、教諭の声が北村由佳を上回った。
理絵子は北村由佳に目を向けてみた。ベッドに座る彼女の身体が目に見えて萎縮し、その目線が下を向く。セーラーの上からでも一回り小さくなるのが見て取れる。
人は恐怖に対すると防衛本能から筋肉を硬くして縮こまる。ただ、彼女は、理絵子自身を恐れているのではない。
聞かなくてはいけないが、聞きたくない。
その、聞くのが怖い。
理絵子もそれは重々承知。もちろん言ってしまえば彼女が楽になる内容。ただ、お気楽に、しかも額面通り受け取ってもらう必要があり、それには準備がいる。
理絵子は取り敢えずはメタボ氏を手伝い、高千穂登与をベッドへ横たえた。
「後、任せて頂いていいですか?」
理絵子は教諭二人を見て言った。
生徒が教諭に『私に任せろ』と言うのも滑稽ではあるが、これは超心理学(パラサイコロジー)≠フ範疇であり、教員採用試験には出て来ない。
メタボ氏は不服そうな顔をしたが。
「花井(はない)さん。女の子同士ですから」
養護教諭はあっさり言った。
「そ、そうですか……」
メタボ担任花井は、仕方ないとばかりに言い、養護教諭に背中を押されて退室した。
さて。
理絵子はまずベッドに仰臥の高千穂登与の様子を伺う。その表情は苦悶に歪み、引き続き汗の粒を額に浮かべている。小刻みに震えているので高熱かと触れてみたら、恐ろしいほど歯を食いしばっている。
抑圧していた感情の表出だろう。そして睡眠前の記憶の反芻と同じく、失神前の出来事が夢という名で蘇り、彼女の意識で織りなされている。
それは悪夢に相違あるまい。干渉して抑止することは可能である。ただ、抑圧を解放するためには、止めてはならない。
人間、間違いを認識し、受け入れることは心の傷だろう。だが、それを避けてばかりでは、恐らく心は歪む。傷付かないと傷の直し方も判らない。
理絵子は備品棚から勝手にタオルを出し、高千穂登与の汗を拭うと、北村由佳のベッドの傍ら、養護教諭が座っていた椅子に腰を下ろした。
「北村さん」
改まって呼ぶと、北村由佳はワンテンポあって。
「うん……」
返事のようでもあり、拒絶的でもあり、無理にセリフの形に書けばこうなる。
「あなたが昨日見たのは、彼が私に気持ちを伝えたところ」
ズバリ本質を端的に述べる。遠回しに言って、後は悟って下さいね、って類でもない。
それに、彼女が泣くような結果ではないのだし。
対し北村由佳は、まずは顔をうつむかせた。その膝の上で拳がギュッと握られ、相当力が入ったか、手の甲から血の気が引いて真っ白になる。
彼女の破裂しそうな心臓の音が聞こえて来そう。
「でも私にその気はないから」
理絵子は声のトーンを変えず、再度端的に述べた。
「え……」
北村由佳はうつむいていた顔を上げ、目を丸くして寄越した。
彼を袖にするとは思っていなかったようである。
自分にとって至上の存在。だから恐らく他者にも同様の……良くある思い込み。類例は軽いところで音楽ジャンルなど他にも多数。
「タイプ違うから」
それはたった今思い浮かんだ理由=B
彼女に対する細々した理由付け≠ヘあれこれ考えてはいた。だが、アレはねコレはね、とピックアップして言うよりも、単にこれだけの方が、逆に理解を得られる気がしたのだ。
端的に、端的に、ならば三度端的に。
北村由佳に僅かな笑顔。
「だから」
理絵子は語気を強めた。
言ってから思う。さっきもそうだが、なぜか北村由佳に対して優しい声が出せない。笑顔を見ると、反射的にそれを曇らせる語が口を突く。
厳しく当たりすぎだと自覚があるのだが、勝手にそうなってしまう。
その都度、おどおどする彼女を見るのは、辛いのだが。
彼女は確かに自分を利用しようとしたのだろう。で、そうと判って怒っているのか、自分。
利とすれば笑顔。逆であれば手のひらを返し罵る。
確かに、それはそれでケンカに発展して一般に不思議ではない。
ともあれ。
「高千穂さんの見立ては間違い」
理絵子は言った。天使≠ェ、どう判断して何をアドバイスしたのか知らぬ。知りたいとも思わぬ。だが、北村由佳の誤解と彼女の物言いを聞く限り、真実は捉えていなかったと言い切れる。
歪曲したのだと知る。そのままでは霊能≠ナ北村由佳に応えることが出来ないから。
「高千穂さんは……」
北村由佳は弱々しい声で言った。元通りの消え入りそうな、自信のなさげな。
そこで理絵子は一つ得心がいった。誰も彼も己れ自身に自信がないのだ。要するに。
だから、芯が細い。傷つきやすい。
傷付きやすいから傷付きたくない。だから些細なことに敏感になり、勝ち組と思われる方に与したがる。
メールでネットで様子を探りの。猫をかぶりの、キャラを演じの。
妥協点を探りの。
息が詰まる。
「黒野さんが、私から彼を奪おうとして嘘をついた、って。だからあなたのことを何とかするって。だから私……ごめんなさい。疑って」
北村由佳は、言い、涙を浮かべた。
「それが彼女の嘘」
理絵子が言った。その時。
スイッチ入ったように高千穂登与が目を開き、バネ仕掛けのように上半身を起こす。
「あ、登与さんあのね」
北村由佳が半身をひねって言いかけ、異変≠ノ気付いた。
高千穂登与はまばたきすらしない。
どころか、その目は昼日中だというのに黒々と瞳孔を開き、どこに焦点が合っているかすら定かではない。
超感覚が警告、入った=B
「彼女を見ないで」
理絵子は言った。
「下を向いて。声を出さないで。何があっても。あなたが狙われる」
20
高千穂登与は要するに霊媒体質なのだと理絵子はまず判断した。
だから形而上的な質・グレードはさておき、種々の霊体と交感し、彼らから情報を得、場合により走狗として周辺操作をも試みるのである。その結果……自分は何でも判るし何でも出来る。そう持ち上げられ仕向けられ、そう思いこんだ。
そして今、彼女の霊媒能力は、自分に対する元よりの憎悪に、自分の一言嘘≠ノよって火が付き、憎悪に呼応する何か≠この場に呼び込んだようである。
充満し、意志が加わり、動き出す。養護教諭の机の引き出しが勝手に開き、治療用具や薬品の入った棚のガラス戸が勝手に開き。
中の物がすうっと浮いて宙を漂い始める。その中にはガラスの容器、机の中のカッターナイフ、ハサミやピンセットといった類の鋭利物も含まれる。
それらが吸い出されるように所定の位置から浮かび上がり集まり、ゆっくりと渦を巻くように動く。
超常現象である。念動力と言ってしまえば手っ取り早いが、彼女本人に備わった力の所作ではない。
渦を巻くそれらが止まる。念力ではない≠ニいう理絵子の看破に反応したように。
……動く。
超感覚の囁きに、理絵子は北村由佳を抱きしめた。
中空の有象無象が一斉に理絵子達めがけて投げつけられる。それは見えざる手が無数中空にあり、命令に応じて一斉に理絵子達にぶつけられた。そんな感じか。
その形容はあながち間違いではないようである。漂う一つ一つに担当が割り当てられ、投擲行為に及ぶ。まるでサルの群れが悪戯で石を投げて寄越すように。
そのサルこそは走狗としている個々の霊体である。様態としては前述の午前2時の訪問者£Bと同様である。ただ、慰謝を求めてやって来る彼らと違い、攻撃的であり多分に質が悪い。
質が悪い悪戯サルだ。そう見破ったよ。理絵子はその旨意志持ってサルどもに目を向ける。一つ一つの霊的生命体に、目を向け、意志を開示する。
使い魔。その言葉がしっくり来る。
包囲感、及び当初感じた目線の正体を今知る。高千穂登与は自分を知ろう≠ニ意識した。すなわち、本人の認識としては霊感を働かせた≠フだ。これに呼応して彼らが自分の周りに馳せ参じ、じろじろ見つめて報告した。高千穂登与はそれを霊感によって得たと解した。
彼女の発揮する霊能≠フ全ては、こいつらの入れ知恵であり悪戯である。彼女は確かに霊媒体質だが、自ら超能力を擁し御する精神力までは有していない。こいつらはそこにつけ込み、彼女を最終的にどうにかしようという底意を持つ。ただその底意の正体までは判らぬ。知ろうとするのは危険という認識がある。
ちなみに、この手の霊的生命を守護霊∞守護天使≠ニ思いこんでいる手合いは時折見知る。
以上、理絵子の認知の全て。時間にして一秒もない。
対し、使い魔どもからは驚愕と忌避が返った。逃亡の意識を感じた。理絵子と目≠フ合った使い魔は、次々試合放棄に近いような状態で担当物を中途半端に投擲し、この世ならざる世界に去って行く。言葉にするなら『バレちまっては仕方がない』。
結果、物理的には以下のようになった。中空に渦巻いた有象無象は一旦動きを止めると、唐突に弾丸のように連続発射され、次々シュッシュッと空気切り裂いて投げつけられた。
それらのあるものは壁に当たって割れ砕け、あるものは壁に突き刺さり、あるものは壁に弾かれて回転しながら宙へ返され、或いは床に叩きつけられた。
機銃掃射を食らったように、壁面の右から左へ向かい、有象無象がダダダダッと音を立てて衝撃して行く。
但し、理絵子達には掠りもしない。
一連の衝撃音が収まったところで、理絵子の腕の中から北村由佳が顔を上げた。
彼女が見たのは、高千穂登与の頭の上に浮かぶノートパソコン。
北村由佳は声を上げた。
パソコンを支える力が失われた。
理絵子はとっさに北村由佳のベッドから枕を掴んで投げつけた。
高千穂登与の頭の上でパソコンと枕が衝突し、双方ベッドの向こうへ落ちる。
パソコンが落下し、がしゃんと音を立てて破損し、部品が散らばる音。
同時に、大きな音と共に保健室ドアがくの字に曲がって破壊された。
ドアと共に倒れ込んで来たのは、メタボ教諭氏と学ランの男子生徒。
健太君。
「理絵ちゃん、大丈夫かっ!」
切れた。理絵子の超感覚はそう言って寄越した。
怨嗟の炎。
21
彼が理絵子を名前を呼ぶこと。
それは、彼女にとって、具象化した悪夢そのものであった。
身を起こしていた高千穂登与が、……それこそ霊的なマリオネットであったのだが……元の通りに仰臥に戻り。
対し傍らの北村由佳が、突如身を翻してベッドに立ち上がり、壁に突き刺さった有象無象からハサミを手にし、理絵子に向ける。
移った。理絵子は知った。
感情の爆発である。但し多分に霊的な。
理絵子は椅子から立って身構え、次いで首を傾げる。おかしいのだ。事態が形而上的に形而上的に少しずつ引きずられている気がする。そっちの世界が顕在化しやすくなっている。
よく考えたら教諭自らお祓いしてもらって≠ニ言うのもおかしいのである。ちなみに理絵子自身は教諭を祓っていない。つまり、方便。
あまりに的確で効果的な。
「嘘つき」
吐き捨てるように北村由佳は言った。
それは自信なさそうな細い娘ではなく、恋に身を焦がす少女ではなく。
憎悪むき出しの般若。
その言葉は理絵子の説明など信じていないことを示した。
嫉妬の塊。
消え入りそうな細い娘の変貌。それは廊下の数名教員達の虚を突き、手足を凝固させた。
「北村さ……」
「うるさい!」
北村由佳は手近の壁から刺さり物を抜き、教員へ投げつけた。
もちろん彼女本来の力のなすものではない。高千穂登与の走狗たちがこちらへ移ったのだ。そしてむしろ彼らが北村由佳を動かしている。憑依と呼ばれる状態である。
ただ、霊媒たる高千穂登与は失神状態。北村由佳はオカルト世界を信じているとは言えるが、能力者ではない。
それは、彼女を通じずとも、そういう連中があの世≠ゥら出入り出来る穴≠ェどこかにあることを示唆した。
そっちの世界が顕在化しやすくなっている
この状態で超感覚を遠慮する必要はあるまい。答えはすぐにもたらされた。
マジックサークル……魔法円のイメージ。
合点が行く。高千穂登与は自分に何か術を掛けようとして破れた。ケンカに負けた。
その術の具体的中身。このロザリオ。
十字架の中心に刻まれた魔法円。
近いどこかに現物が存在し、術式を履行したのだ。だがその場所は不明確。
術式サトゥルヌス・セスト。ソロモン王の系統。その秘匿性の故に超常感覚に対するガードは強い。
だったらば。
「みんなに頼みがある!」
理絵子は般若の娘と対峙したまま、後ろを見ず声を発した。
「お、おう!」
声で答えたのは健太君。いるのは他に糸山以下クラスの男子数名、桜井優子に田島綾。
私の仲間達。
「この校舎……この4階のどこかに、オカルトな儀式の場がある。そこにこの……」
理絵子はロザリオを見せようと一瞬後ろを向いた。
「理絵ちゃん危ない!」
健太君が叫ぶ。彼のいわゆる動体視力は、運動系キャプテン相応に群を抜いており、そして、攻撃を察知する能力は、野性的なレベルにまで高められていると判断出来るだろう。
彼の意図するところを、理絵子は言葉より先にイメージで感知した。
突き出されたハサミに理絵子は手のひらのロザリオ十字架で応じた。
ハサミの先端が十字架の中心に突き当たる。金属同士の衝突音が鋭く耳をえぐり、ハサミは十字架に軌道を変えられ、辛うじて理絵子の顔を逸れて通過し、ポニーテールを結んでいたスカーフを切った。
理絵子の髪が花開くように広がり、幾らかの切れた毛髪がさぁっと驟雨のように舞い、はじき飛ばされたロザリオが床面を滑り健太君らの元へ。
「綾!」
彼女がそれを手にしたことは見ずとも判った。
「あいよ!」
「お願い!この階のどこかにそれと同じ模様の魔法円がセットされている。探して場所を教えて!」
「判った!で?これは?」
「あなた達が持つには危険すぎる」
理絵子が手のひらを向けると、ロザリオは綾から糸山の手に渡った。
糸山は野球のアンダースローでコントロール良くロザリオを投げて返した。
理絵子の手のひらにロザリオが戻る。
「信心深くない奴ら手を貸して……」
友人達が声をかけ合い走り出す。
残ったのは、自分達の対峙を見ている教員二人。
「この場は私にお任せ頂きたく」
理絵子は教員陣に言った。まぁ最も、この状態で手の出し方を知っている教員がいるとも思えないが。
自分についての噂が彼らの中で確信に変わると知る。だが、故に自分に任せようという意識が生じていることも知る。
能力を隠しておくべき期間は去ったのだ。それがどんな変化を意味するかは判らない。
ただ、今はみんなを守るのみ。
理絵子はハサミを持った級友と向かい合った。
「やっぱりデキてるじゃないか!」
級友は糾弾した。その目から、後から後から溢れ出す涙。
薄紅に染まった涙。血の涙。
「嘘つき……上っ面だけの言葉を並べ立ててみんなを惑わす。先生達に気に入られようとしやがって汚い女。それがお前の正体だよ!」
「ありがとう」
次第にボリュームの上がる級友に理絵子はそう応じた。
無論、出鼻をくじいた。
「なに……」
「私に面と向かって悪口言った人いないから。これでいいのかなってずっと疑問だった」
級友の眉根が吊り上がる。
「その物言いが気に入らねんだよっ!優等生ですって顔しやがって!」
高千穂と同じだ、と理絵子は知る。すなわちそれが彼女の隠していた本音。だったら。
理絵子はスッと息を吸う。
「カマトトぶって近づいて、友達ヅラして利用しようと企むよりナンボかマシだろが違うかっ!」
言葉のナイフを突き刺した。それが理絵子の印象。
「霊能使って何とかしてもらおうなんて、調子いいのはどっちだよ」
付け加える。すると級友は一転泣き出す。
「黒野さんひどい……」
強い示唆。同情するな。
「悲劇のヒロインって顔はもううんざりだよ」
瞬間、
「……!」
ぎゃぁ、とも、わぁ、とも付かぬ、狂気を孕んだ悲鳴が北村由佳の口から発せられた。
彼女の口がサメか火山の噴火口かと思うほど赤く大きく開かれ、ハサミを携えラグビーのタックルよろしく身体ごと理絵子にぶつかってきた。
……後先考えないのが無差別殺人。そんな父親の言葉を思い出す。
あの手の事件がコンプレックスに基づくものであるなら、北村由佳のコンプレックスは、対比の対象は、まさしく自分。
自惚れではない。そういう視点が彼女の裡にあったに相違ない。『理科凄かったね。訊きたいんだけどさ』『数学のこの答え、先生の解説じゃどうしても判らなくてさ』……単純に訊いてくれればいいのに、それこそアイロニー的に何か一言付け加えるのだ。
その真意。ニコニコしながら心の底ではお前気に食わない。
でも自分に利するならまぁいいか。
ひょっとして、クラス全員が果たして自分の味方と言い切れるか?
刹那。
眼前に飛び込んできた北村由佳の脇腹に、人体がどーんとぶつかってくる。
彼である。健太君がサッカーのディフェンス故意のファール≠フ流儀で身体をぶつけてきたのである。
学ランとセーラー服が保健室ベッドの上でヘビと竜の如く絡み合い、そのままベッドの向こうへ落ちる。
ハサミが北村由佳の手を離れ、床の上を転がっていったのは音で判った。
それは、ハサミが己れの身に刺さるリスクを承知で彼が飛び込んできたことを意味した。
果たして、少女を抱いて立ち上がった制服の男があった。
こめかみから血を一筋。やはり怪我をしたようだ。荒い息をし、肩を上下。
「大丈夫?」
理絵子は訊いた。
即座に養護教諭が入って来たので、彼女と彼の傷は任せる。北村由佳はもう良いだろう。
感情は爆発させたからだ。後は目の前の事実を彼女が受け入れるだけの話。
彼が彼女をベッドに横たえる。スカートの裾をきちんと揃えて。
「昨日……変な電話がかかってきたんだ。一言、『見たよ』って切れた」
養護教諭が彼をベッドの上に座らせる。壁の突き刺さった用具を引き抜き、オキシフルとガーゼで傷の手当て。
「理絵ちゃんにコクった後……」
彼は理絵子に告白した後の昨夜の出来事を話した。徹夜でこころ≠読みにかかった。そこで友達からメールが来て裏掲示板の情報を知ったという。
「理絵ちゃんのやることじゃないなと思った。で、今朝ガッコ来て、糸山に訊かれて、これヤバいなって。……いたよ。そういやこいつ。あん時。『そのりぼん、理絵ちゃんに返しておくね』って持ってった」
健太君は倒置で言い、失神状態の北村由佳を顎で示した。
「こいつなんて言わないで」
理絵子は言い、北村由佳の手にあったりぼんを抜き取った。
「こころ%ヌんだんだよね。同じ。一生懸命さ故の彼女の勘違いだよ」
「え?それって……」
こういう悟ってな言い回しに男子諸君は鈍感だと聞く。
でも、今はそれでいい。
そして北村由佳が自分に期待したことは要するにこういうことだろう。
だったら、これで果たした。
今はそれよりも優先してやることがある。恋に恋する乙女より、開けっ放しの秘密の裏口。
「高千穂登与」
理絵子は呼んだ。
「天使さん起きなさい。全てはあんたの蒔いた種。後片付けしに行くよ。言ってること判るよね」
理絵子は今度は自分のりぼんで髪を結わえた。
「力がなくなった……」
弱々しい声がもう一つのベッドから上がった。
まるで老いさらばえた老婆。
「逃げたからね。全部。ただ、まだこの辺をウロウロしてる。あんたが召還したんだから、責任取ってあんたが返しな。私はカバラはお門違いでね」
理絵子はロザリオを高千穂登与へ投げ返した。健太君がここへ戻って来たということは、儀式の場所が判ったと言うことだ。
「魔法円はどこに?」
「第2理科室の準備室。なんだあれ。気持ち悪い」
健太君の吐き捨てるような言葉は、魔法円の事情が彼の耳に入った時、北村由佳の想いは成就しないことを示した。
「なんで……」
高千穂登与が驚愕を口にする。なぜ儀式の場所が判ったのか?
「あなたの力は、あなた自身の物ではなかった。有象無象が、あなたの物と思わせるように、仕向けただけ。そして、あなたは、あなた自身の物と思いこんだ」
「そんな!」
「あなたは霊媒体質ではあるのでしょう。でも御せない。連中は依り代として使えると思ってこれ幸いとあなたに近づき、あなたを調子づかせた。結果、あなたが負けたと自覚した瞬間、使えないってさっさと逃げた。それにそもそも、あなた超常感覚に対するガードは堅くしたようだけど、まさか普通に足と目で探すとは思わなかったかな?頭隠して尻隠さずってね。そういやさっきも、みんなが外で待機するまで読めなかったみたいだし。ところで今、私の意識が読めますか?」
理絵子は知見を全部喋った。
「お前一体……」
目を剥くその姿は、理絵子に対する認識が己れを上回る≠ナあることを示した。
「思ってる通りだよ。いいから来な。無制御のあの世への出入り口そのままにしておくつもりかい。それがどれだけ危険か位承知してるでしょう。しかも……あの音楽室の隣に。言っておくけど幽霊の彼女が作った場の歪み自体はまだ残ってるんだからね。それ利用したいからそこに円切ったんだろうけどさ。だから四十九日ってのがあるんだよ」
理絵子は顎をしゃくった。
22
第2理科室の準備室。
備品の日焼けを防止するためだったのだろう、暗幕カーテンが引かれたままで、昼であっても暗渠の中。
廊下側の引き戸を開き、差し込んだ光に照らされたその部屋の有様は悪趣味≠フ極北と言えた。
床面には赤黒く凝固した血液で魔法円が描かれ、際し生け贄にされたのだろう、黒い鶏が首を切られ、遺骸と血液が腐敗臭を放っている。
円の中にはその鶏の頭部と、骨格模型か、はたまたデッサン用市販品か、人間の頭蓋骨。
部屋の隅には何枚ものコピー紙が乱雑に積み上がる。黒板落書きと同様、パソコンで魔法円の図面を印刷し、切り抜き、血を塗って描いたのだ。
「行って閉じなさい」
理絵子は腕引っ張って連れて来た高千穂登与に入るよう促した。
「いや……」
「あんたが開いて固定したんでしょう。開いた本人が閉じないで誰が閉じるのさ。カギはあんたの心の中だ。私にはどうにも出来ない」
「いや……私にはできない。もう力がない」
「私は犬畜生憑きであんた天使じゃないのかい?」
高千穂登与は嫌がり、腕を振り、切り逃げようとした。理絵子は彼女をいっそう上回る力で捉え、引き寄せ、理科準備室へ引っ張り込んだ。
すると即座に反応があった。準備室のドアが爆発的勢いと音を持って閉じられた。
念動、ポルターガイスト……どっちも違うが、どっちも正しい。
あからさまな超常現象に高千穂登与は悲鳴を上げた。
理絵子は気付く。……この事態は彼女の予想外。
強い示唆と危険のシグナル。まず状況を把握せよ。
高千穂登与は怒鳴り散らす。
「いやだと言ったんだ!だからいやだと言ったじゃないか。殺される。悪魔が取り立てに来る……」
高千穂登与は閉まったドアに貼り付き、開けようとした。
しかし開かない。廊下側からも激しくノックし、開けようとしているようだが、微動だにしない。
保健室のように人力で破れるレベルでは最早ない。確認するまでもなく暗幕カーテンも固定されており、陽光を呼び込むことも出来ない。
一つ判る。ここは自分たち……いや違う。
自分。黒野理絵子が入った瞬間に閉ざされるように用意された檻。
超常の罠。級友に容易に見つけさせ……ええ引っかかりましたよ。理絵子は認識し、下手をしたら級友らが虜にされたかも知れぬと判ってゾクッとした。
示唆が降り、その生じた戦慄を抑える。
曰く恐怖するな。
理絵子は先達の言葉を思い、歯を食い縛った。それは何度も言われたこと。恐怖と萎縮こそは魔の者達がまず使う作戦。すなわち、立ち向かう気力を萎えさせようとする。
ハッタリ。高千穂登与を見よ。然り。
その手には乗らないよ。理絵子は薄笑みを浮かべる。こうなったらジタバタしても仕方がないであろう。
魔法円から目を逸らし、魔界の出入り口に一旦背を向け、高千穂登与を見る。
「高千穂さん、逃げるな。全部あんたのしたことだ」
「嫌だ!お前のせいだ!お前がここに連れ込んだから悪魔が動いたんだ」
高千穂登与は自分から、魔法円から目を背け、顔をドアパネルに押しつけた。
怯懦そのもの。しかし、それは何の解決にもならず、何も導かない。
怖がっても、逃げても、来る者は来る。
「言うなっ!」
高千穂登与は声を上げ、両手で耳を塞ぎ、座り込む。
しかし、ここは最早、彼らのルールが適用される世界。
「人に呪いを掛けておいて。弾いたら私のせい……ムチャクチャ言ってることくらい自覚してるでしょ?」
「だって……だって……」
まるで幼児の反応である。退行現象を起こしていると理絵子は判じた。もうボロボロである。心に施したガードが外れ、今理絵子には彼女の全部が見える。記憶も気持ちも文字通り全て。
恐怖の極限。それは相手の魔物にとってしてやったりの結果。もっと言えば狂≠ワで追い込めば不戦勝。
でも、私は違う。
理絵子はその意志持て魔法円に身を返す。密教の流儀に倣った理絵子にとって、魔法は基本的にお門違いである。ただ、善悪両方の使い方があって、とりわけ呪う″s為は何かを対価に悪魔に力を借りることだ、という程度の認識はある。
そしてこの彼女の場合、その心を見るに、何と自分自身全て≠対価にして、自分に術を投じたらしい。
自分には天使の力≠ェある。だから実際悪魔が現れても何とかなる……それが彼女の認識。つまり軽い気持ちでの試み。だが、実際は天使の力≠フ正体はその悪魔の小手先そのもの。
無論、それは魔の方の掌握範疇。
だから、今、出てこようとしている。
頼まれた仕事を、キッチリやろうとしている。高千穂登与が一気に恐怖の極限へ達した理由はそれ。この魔法円から魔≠ェ出現し、黒野理絵子をどうにかし、そして高千穂登与を対価としてあっちの世界≠ヨ奪い去って行く。
一般にオカルト好きの軽い気持ち≠ノ、本物≠ヘ出てこないことが多いが。
今回ばかりは、どうやら違うようだ。
魔法円の中に炎が立つ。
外周に沿った円形の炎である。無数の蝋燭の炎が繋がったように、ゆらゆらと赤く揺らめく。
炎が囲う円の中心に何か生じる。
いや、まだ生じたわけではない。正確には生じる気配、予兆。
それら感覚が強まるに合わせ、置いてあった頭骨模型が動きだし、円の中心へと床面を移動して行く。それが中心まで達した時、事象が具体化する、と、理絵子は理解する。
今度こそ生じる。第一印象は毛布。人が毛布を頭から被っている姿に似た、もやもやとした、何か。床の下から生えて≠ュるように立ち上がり、すーっと所定の高さまで伸びて行く。
それが白く色を帯びる。実体化である。炎の色を映して赤くなる。しかし、向こうが透けるほどの状態は保持し、揺らめき漂う。この世とあの世の中間的存在を表す。
毛布をかぶった人=B
「霊魂」
理絵子は呟いた。人の体をなしていない。無論生きている人ではない。
天使などではもちろん無い。
ただ、人格≠ヘある。
そこまで読み取ったら件の髑髏が顔≠フ部分にスッと座した。その唐突さは念動と言うより瞬間移動、テレポーテーションの様相。
毛布纏った髑髏。
その眼窩、すなわち眼球が収まる穴の内奥が、赤く炎を照り返す。
それはグロテスクな死の現実化そのものであり、高千穂登与から恐怖の絶叫を引き出した。
対し理絵子はその燃える眼窩を正面から見返す。彼女は良く似た存在と過去に対峙したことがある。
そいつは自らを死神と称した。目の前のこれは同じか、異か、
或いは同族の別種か。それとも、死神と名乗る者は複数存在するのか。
判らぬ。ただ、自分に死を与えるため魔が寄越した存在、であるなら辻褄は合う。以下この存在をとりあえず霊魂と記述する。霊魂は様子見であろうか、理絵子にまず意志を伝えて寄越した。むろん意志と意志との直接接触、テレパシーそのものであるが、相手は意志のみの存在であり、テレパシーと書くのが適切かどうか定かではない。
意志:理絵子が隠している力の存在をこの少女に知らしめることになるが良いか?
「それがどうした。あんたみたいなのにうろつかれるよりはマシだ。私を殺しに来たかい。御免被る。帰りな。住んでるお城にさ」
意志を理絵子に寄越すこと。それは同時に、理絵子が相手を知ること。
この霊魂は元は人≠ナあった。高千穂登与の儀式に基づいて召還され、理絵子を倒すために遣わされた古い時代の戦士だ。
その過去は勝つことを願い、しかしついに適わなかった戦士の亡霊。
怨念の故に怨霊となり、魔に与しその軍門に降ったのである。使命は生きる者に業苦と屈辱を与えること。発狂の醜態をもたらすこと。
理絵子は背後、高千穂登与を振り返る。
「高千穂登与。縛りなさい。こんなものがこの世に出てきていいの?封印して閉じなさい」
「いやだ。いやだ!私には出来ない」
意志:お前をもらい受ける。
高千穂登与は髪の毛逆立てて絶叫した。更にもう一つ何か加われば、彼女は発狂すると明らかであった。
対して高千穂登与の行動は、さながらケンカに負けてヤケになった子供であった。手にしたロザリオを霊魂へ投げつけた。
高千穂登与の手から十字架が離れる。以下時間にしてコンマ3秒。
まず、霊魂が円の中でふわりと浮き上がり、毛布の如きモノを左右に広げる。今からこの魔法円を脱し、襲いかかるぞ。
魔法円を形成する、ということ。
略して円を切る。この行為は結界≠形成することに他ならない。あの世の介入を制限付きで許可し、その範囲を定義するのである。それは通常円の形に沿い、円柱状に形成される。
その円柱から魔性の者は出られない、のであるが。
結界を維持するのは円を切った当人の精神力である。
と、理絵子は理解した。魔術はお門違いであって詳細までは知らない。但し今、高千穂登与の精神力は萎縮する一方。
選択肢はないのであった。
匙を投げるの言葉のままに投擲されたロザリオを、理絵子は手を出しその軌道を遮り、手中とした。
以上コンマ3秒。理絵子は鎖を手首に巻き付け、十字架を霊魂へ向ける。
これに、霊魂の戦士は少々の驚きと興味を示した。
意志:私と戦うつもりか?
霊魂の戦士。浮かんだイメージは、トドメ刺さんと腰の剣抜く古代の戦士。麻薬の煙で鼓舞され、血まみれの呪術で戦場へ送り出された殺戮人間。
意志:魔術など何も知らない小娘が
「悪いけど能書き垂れる趣味は無くてね」
理絵子はそれだけ言った。こっちはこっちの流儀で行くだけ。
手にしているのは十字架だが、形而上の世界に宗教紛争は存在するまい。
十字架を手にした手を左上。
そして真言と共に空を切る。
「臨、兵、闘、者、皆、陳、列、在、前(りん・びょう・とう・しゃ・かい・ちん・れつ・ざい・ぜん)」
空中にチェック模様を描くように、横・縦交互に直線を描く。横に五本、縦に四本。文字の発声と同期して線を描く。
凛と響く声で理絵子は九字を切った。
十字架で九字を切った。手指で印契を結ぶか、さもなくば独鈷杵(とっこしょ)を使うのが密教の流儀であるが、理絵子は今、十字架を使った。
聖なる道具に違いはないから。
意志:それが何の意味がある。オレはこの通り何ともないが?
ニヤリと笑った戦士のその顔は、泥と垢と食べ残しにまみれ、無精髭が野放図。
野卑で粗暴で不潔そのもの。それこそガストンをむくつけき男に移植したイメージ。
「その代わり何もできないでしょ。柔よく剛を制すってね」
理絵子が返すと、驚愕が戻ってきた。
彼は束縛されていた。やはり高天原に宗教紛争はないようだ。そして、因果は不明であるが、霊魂と記述した姿が、今は実像を有して眼前にいた。
それは、剣を振り上げたまま硬直した、神話世界のグラディエーター。
チャンスである。
「高千穂さん!」
「嫌だっ!」
「魔法円を消しなさい。そのくらいやりなさい」
「嫌だ。嫌だっ!」
この娘は。
理絵子は高千穂登与の意識に露骨に入り込み、泥棒よろしく意志の手を突っ込んで知識を漁った。魔法円が血染めの場合は純白の布で拭き取れ?汚れをそちらに移して後、火で焼け?
純白の布。
ならばこれがある。理絵子は髪のりぼんを手にした。
戦士が察知した。己れは退路を断たれ、強制的に別の世界に送り込まれる。
ただ、理絵子は彼を魔界へ戻すつもりはない。なぜなら彼は元々人≠セからだ。ならば彷徨い来る訪問者£Bと同じで、本当に必要なのは慰謝と救いであるはず。
彼らと同様、救う道はないのか。
だが、魔戦士と化した彼に取り、助けられる、というのは屈辱であるらしい。
魔の軍門に下った故には、そうした虜囚の屈辱感もあるらしい。
そこを解除しないと彼は納得しない。
その方法は。力任せではなく。
意志:やめろ
「悪いけど返すわけには行かない。あなたが行くべきは魔界ではなくヴァルハラのはず」
理絵子は戦士の持つ神話的、欧州的イメージから、戦士が死して赴く場所としてニーベルングの指輪≠ノ出てくる聖地を引いた。
すると思いも寄らなかった反応を得た。以下会話の形式を用いる。
〈ヴァルハラ?なぜその地を知る異郷の娘よ〉
その時。
〈遠き狼と鴉の声による、ラグナロクにはまだ早い〉
理絵子は突如思い浮かんだその言葉をまず告げた。自分自身何を言っているのか意味不明だが、聖句に属し、言って良いとは判った。
続いて示唆が訪れる。異国の娘よ、まず言葉だけ先に送った。次に使い手が到着する。
今しばらく待て。
理絵子は知った。誰かがここへ来ようとしている。無論味方である。
程なく、背後から灰色の毛で覆われた獣が現れ、傍らに座した。
こちらを見て一回尻尾を振る。大きな狼である。もちろん霊的な存在、神格化された犬神=大神≠ナある。なお、狼の扱いに関するこの点は洋の東西を問わず不思議と共通。
この狼こそ先んじて到着したその使者。
狼は顔を魔戦士に向け、対し理絵子に尻尾を一回振った。
OK≠フサインである。狼は自分の命令を待っている、と理絵子は知った。その命令とは。
引き続き示唆が来たので言葉にする。
〈戦士エインヘリヤル。汝オーディンの裾に額を付けるを欲するか〉
〈そなたヴァルキューレ〉
驚愕を含んだ戦士の言葉を受け、狼は理絵子を見た。理解の有無を問うようであった。
十字架で九字切って、開いた世界がどこに繋がったか、理絵子はようやく理解した。
ルーン文字の世界。であればこの狼はケニング(暗喩)に言うヴァルキューレの馬。
以上自分の理解を待ち、自分の中に誰かが入る。狼に続いてたった今到着し、自分を霊媒に、顕れる霊的存在。
自分と同時にここにいるそのひと。
それは。
〈さよう。我が身に降りしはアルヴィト。我が言葉に従い、この者にその身任せるならば、汝オーディンの傍らに座することになろう。或いは永遠に封じられるか。選択せよ誇り高き戦士エインヘリヤル〉
〈おお、おお、ヴァルキューレのアルヴィト。いにしえのエッダに名を連ねるアルヴィト。やっと、やっと我が元に……〉
古代の戦士エインヘリヤルは歓喜の涙を流した。
太古の戦場。
それは破壊された人体片が累々と横たわる凄惨な状況であり、それら遺骸にはやがて狼が群がる。
潰えた戦士が狼に屠られる。それを、主神オーディンが天の戦へ召還する儀式と捉え、神聖化する。
ニーベルングの更に源流、北欧神話である。対して魔戦士の彼は敗残として晒し者にされ、放置され、故にその魂は行き場無く流離ったのだ。
単に助けて@~しくはない。戦士としてまっとうな最期を遂げたい。当然の反応であろう。
彼を救うのは誇り高き死だ。
「時は来た。選択せよ戦士エインヘリヤル」
理絵子は同時存在の意志を肉声で発した。彼が人間の戦士であったことへの敬意として。
〈オーディンの元へ〉
彼は間髪を入れず答えた。
「よろしい。屠れ狼」
理絵子は傍らの使者に命じた。
狼は応じると、牙を剥き駆け出し、魔法円へ突入した。
そして、二本の後脚で立ち上がると、見上げるような大きさで流浪の戦士へ躍りかかった。
巨大な灰色の身体が舞い飛び、首を振って戦士の四肢を食いちぎり、内蔵をえぐり出す。
血にまみれた戦士の昇天。
〈おおこの痛み我が喜び。喜んでこの身捧げようぞ〉
凄惨そのものの状況を呈して、戦士エインヘリヤルは血肉の塊となり、噛み砕かれ、人としての形象を失い、四散し、狼の餌となり、飲み込まれ、消えた。
身につけていた鎖の鎧がガシャンと音を立てて落ち、錆の付いた剣が横たわる。その中に偉躯の狼が四本の脚で立ってあり、血に染まった顔をこちらに向け、口の周りを舌なめずり。
儀式の終わりである。対し墓標を組めと指示する声があった。理絵子は魔法円へ手を伸ばし。
その必要はなかった。そういう意志を持つだけで良かった。
狼が剣を口にした。首をひねって器用にその場に突き立て、同様に鎧を咥えて再度二本脚で立ち、剣の柄へ引っ掛けた。
剣と鎧の墓標。これで彼を送った≠アとになるようだ。
すると、その時を待っていたように、狼と理絵子との間に、燦然たる白さの馬が蹄の音と共に降り立った。
馬の背には手綱持つ女性の姿があった。金色の髪をなびかせ、理絵子達を真っ直ぐに見ている。
古エッダのヴァルキューレ、アルヴィト。
全知という名の聖戦女。
〈異国の娘よ。汝の対応見事であった〉
碧眼の女戦士は理絵子を見て言った。
〈畏れ多きこと〉
理絵子は胸に手をして思わず跪く。霊的にとてつもなく高みの存在であることは、それを推し量ることすら失礼と感じるほどであった。
〈そちらの娘へ取り次いでもらえぬか〉
高千穂登与のこと。
〈彼女は恐れております。心開きますかどうか〉
〈手にあるそれで触れてくれればよい〉
ロザリオ。この場で唯一の聖具。円を切った動機。現在、霊界通信機。
〈承知しました〉
理絵子は答えると振り返った。部屋の隅、物理的に逃げられる限界の位置で小さく縮こまり、胎児のように丸くなり、両耳を押さえ臥している娘。
理絵子は彼女の傍らに膝立ちとなり、身を屈め、側頭部に十字架を触れさせる。高千穂登与は一瞬、身体をびくりと震わす。
しかしすぐに真実に気付いたようである。伴い彼女は縮めていた身体を夜明けの花のように少しずつ解き始める。
呼応して光が登与の身を照らし始める。その明滅し踊るような蛍光は、オーロラを思わせる。
オーロラは天翔るヴァルキューレの鎧煌めく姿という。
〈シャーマンの娘よ。恐れることはない。面(おもて)を上げなさい〉
怜悧にして穏和なトーンで、馬上の聖女は高千穂登与を呼んだ。シャーマン……一瞥で見抜くのは当然か。
「は、はい」
絞り出すような声。ただ、女神に近い存在であり恐怖の対象ではないとは、高千穂登与も認識したようである。
恐る恐る、顔を上げる。血の気が引いたのだろう、その顔の白いことは紙を思わせる。
次いで理絵子の背後に気がつき、ハッとしたように目を見開き、その場に正座の姿勢を取る。
彼女が反射的にその姿勢を取った。すなわち和≠フ礼儀をそれなりに仕込まれた娘なのだと理絵子は理解した。
和の誠意を携え、高千穂登与は惹き付けられるようにヴァルキューレアルヴィトを瞳に収める。白き聖女が彼女の瞳に結像する。
高位霊的存在との邂逅。
彼女がそもそも意識したキリスト教的天使≠ナはない。但し、真にして聖なる天の使いであり、同位比肩する。
聖女アルヴィトは小さく笑った。
〈礼儀ありがたく受け取る。シャーマンの娘よ。そなたは強い。但し聞け。そなたに忠告がある。力を安易に用いるな。そなたの力は安売りするものではない。力は救うため、伝えるために備わったものだ。そもそもが特別なのだ。それはそなたさえ判っていればよい。あまつさえはこの凜たる娘はそなたを知った。凜たる娘は理解した。それ以上何か必要か。蓋然性を吟味せよ。
特別を認めさせるために利用するではない。本質を掌握せよ。奥深くへ格納せよ。なぜなら今後も有象無象がそなたを誘惑し利用しようとする。それはそなたが強いからだ。そなたは真か偽か見極め、都度選択をする必然に遭遇する。されば最初から隠しておけ〉
アルヴィトの言葉は文字に起こすと難しく、語彙は中学生が操るものではない。ただ、意図は伝わったはずである。
超常感覚の故に。
〈不安か〉
登与の動揺を見抜いて聖女アルヴィトは尋ねた。
ごっそり無くなった彼女の力=B彼女はここに来て、その実質が魔性による心の蹂躙であったと理解した。
この聖女アルヴィトと対極をなすが故に。
そして当然訪れるのは、再度同じ事態へ陥る恐怖。
〈……はい〉
登与は素直なまでに頷いた。すなわち、三度書くであろうか、自信がない=B
超能力を持っていても、心の堅牢さを証(あかし)しない。
力は決して堅牢な心を築かない。
堅牢な心を築くのは力ではない。
ただ、堅牢な心は強い。
聖女アルヴィトは登与の答えに頷き、理解を示した。
〈よろしい。ならば、これを持て〉
聖女アルヴィトは腰の大剣を抜いた。鮮烈な銀色に輝く剣。
次いで豊穣なる黄金の髪をたくし上げ、その中程を太刀で断ち切る。
肩の下でばっさりと切り落とした髪の毛。理絵子が思い出したのはギリシャ神話、かみのけ座≠フ話。
聖女アルヴィトは、理絵子に唇の端で笑って寄越した。
〈ならば話が早い〉
剣を元通り腰の鞘に収め、切った髪の毛を二つに分ける。
〈シャーマンの娘。これを〉
髪の毛はアルヴィトが手にすると魔法の手際を持って黄金の糸で束ねられた。アルヴィトは馬から下り、登与の眼前に腰を下ろし、髪の毛をその手に持たせた。
戦女の手が殊の外温かいことに登与が驚いている。
〈怖くなったらこれを見て私を思え。それでも尚怖いのであれば私の名を呼べ。私はそなたに加勢しよう。必要とあれば仲間を伴い馳せ参じる。我が名はアルヴィト〉
すなわち、お守りであり、彼女の味方であることの証。
それは彼女的表現を使うならば、守護霊=B
守護霊がヴァルキューレ。
その強靱な支持と理解は、心に大きな根を生やすであろう。
〈は、はい〉
登与は畏まって髪の毛を受け取り、胸に抱いた。
アルヴィトは次いで理絵子を見、同様に髪の毛を一束託した。
無論、お守り用途ではない。むしろ思い浮かべたギリシャ神話。
〈いつでも良い。いつか汝が戦の地を訪れた時、無名戦士の墓に供えて欲しい。我らは誰一人とも見捨てたりはしない。それは諸部族伝承に我らの名の有無を問わず。ヴァルハラは全ての戦士のために約束された地。それと、凜たる娘よ〉
アルヴィトは理絵子に大剣の隣、短剣を抜いて差し出した。
〈この円はゴルディオンと化している。これを用いて解放せよ。汝の無垢の花びらを汚す必要はない〉
アルヴィトは理絵子が手にしているりぼん……無垢の花びらを手に取ると、両の手で引っ張って、パン、と言わせた。
〈初見。その剣の代わりに我にくれぬか?〉
意外な言葉に理絵子はちょっと驚いた。ただ、断る理由はどこにもない。
むしろもらってくれるなら誇り高い。
〈髪結いにして飾りとするのがポピュラーです……高千穂さん手伝って〉
〈え?〉
〈この方の髪の毛バサバサでお帰り頂くわけには行かない〉
〈あ、うん〉
二人して、聖なる女性の髪に触れる。手を櫛にして少し梳き、残り髪を丁寧にまとめて結わえ、小さくポニーテールとする。
黄金の髪の毛を結ぶ白いりぼんの神々しさ。
〈凛々しくてございます〉
〈うむ。気に入った。先の者が霊界に達したようだ。後は任せて良いか〉
〈この剣に誓って〉
理絵子は剣に聖女の霊光(オーラ)を閃かす。
〈オーディンに伝え置く〉
理絵子が頭を下げると、ヴァルキューレ・アルヴィトは手綱を引き、円の彼方へと馬を駆って去った。
小さいがずっしり重い聖戦士の剣。全体がプラチナ。
十字架が今度は聖剣に変わった。それは剣そのもののように重い意味があるのであろう。が、だからって何か変えてはならないという認識がある。
ともあれまずは円の解放。二重の力場が掛かっているので、先に自分の封印を解く。
「オン キリ キャラ ハラ ハラ フタラン バソツ ソワカ」
理絵子はこれを3回唱え。
「オン バサラ ドシャコ」
最後にこう付け足し、指先で小石を弾くように、中指で中空を弾いた。
円柱結界と直交軸をなす密教力場が消失する。
次に魔法円。
こっちは何も要らぬ。それこそゴルディオンのようにただ単にぶった切ればよい。
すると、高千穂登与が興味を示した。剣という頼れる存在のなせる技か、だったら処理≠オたい。自分でケリを付けたい。そんな気持ちが少し。
「一緒にやる?」
問うたら、高千穂登与は頷いた。
二人手を合わせて剣を持つ。ゴルディオンの結び目……要するに通常の儀式次第では最早解きほぐせないほどグチャグチャだから剣で断ち切れ。
アレキサンダー大王の逸話。
床面に剣先を立て、血塗られた円を上から下まで一気に切り裂く。
軌跡に沿って流星が走る。そして。
爆発。と現象的には言って良かった。ガラスが割れ砕け、超常的にロックされていたであろう廊下ドアがへし折れて吹き飛ぶ。
凄絶な砂嵐が吹き込む。
さながらハルマッタン。但し勿論、近場に砂丘の類があるわけではない。
超常の少女二人は思わず目を閉じる。閉じつつも、剣を共に持ち、各々に託された黄金の髪の毛を胸に抱き、風から守る。
自分の胸の谷間が何かを守る……女神性と交信した影響もあろうか、理絵子は自分の女≠強く激しく意識した。
砂嵐はひとしきり吹いて、去った。
上履きのゴムが床をこする音。
「これは一体何があったんだ?」
健太君である。人の肉声が懐かしい。
二人は全身を覆う砂を払い落としながら立ち上がる。キラキラと金色に跳ねながら砂が床に散る。
手のひらの髪の毛。対し、砂が削り取っていったのだろう。魔法円やおどろおどろしい一切はその場に跡形もない。備品類も棚ごと吹き飛び、壁にその跡が影となって残っているだけ。
空っぽの部屋に自分たちだけ。
ただ、剣が消えている。
「え?吹き飛んだ?」
高千穂登与がうろたえた。
理絵子は彼女にゆっくり首を横に振って見せた。
「判るでしょう。心を澄ませて……」
ある。霊的な剣である。故に次元が高くて肉眼で見えず、手で触れることも出来ない。今さっき触れられたのは、アルヴィトの力。
そして剣は恐らく、本当に必要となった時取り出すことが許可される。
この処置はアルヴィトの封じであると理絵子は知った。容易なことでは剣を持てない。不用意に霊能を発揮するならば、悪意ある者にこの剣の存在を察知されることになる。それがどれほど危険なことかを自分たちは知っている。
秘密にせざるを得ないように仕向けたのである。
それは安易な行動への戒めであろうし、一般化して自分たちが特殊能力≠ノ頼りすぎることへの戒めを意味しよう。
しかも、二人共通の秘密。
理絵子は気付く。ヒミツの共有が意味するもの。
「言っちゃだめ」
聖なる名を口にしようとした高千穂登与を、理絵子は唇に指当て制した。
代わりに、ただ二人見つめ合い頷き合う。光発するかのような瞳が自分を見つめる。
それは認められ、自信を得た瞳。
彼女は脱した。
人々の足音。健太君が自分たちと彼らを交互に見ている。
「おーいりえぼー」
「これは……何があった?」
様相一変の部屋を見てメタボ氏が問うた。健太君と同じセリフなのは、他に言う言葉が無いとも言えた。
「高千穂……黒野……おい……」
「女の秘密」
理絵子はひとことそう言った。
「右に同じく」
高千穂登与が言葉を繋ぎ、
微笑を浮かべる。元々整った顔立ちの娘である。微笑んだらそれこそ天使。
「秘密って……おい、あの……それだけか?」
メタボ氏は返す言葉無く、少女二人と空き家になった準備室を交互に見るのみ。
理絵子は登与と手を繋ぎ、メタボ氏の脇をすり抜け、部屋から出る。
廊下には担任竹内と、クラスメート達に付き添われた北村由佳。
かしこまったような顔をしていたが、二人が出てきたと知り顔を上げ、二人が手を繋いでいると知りハッと目を見開く。
彼女を襲った衝撃が見て取れる。対立していた霊能者二人が手を取り合うことの意味。
取り残された自分、仲間はずれ。
孤独、孤立。
表情の曇る北村由佳に、高千穂登与は微笑んで見せた。
「ごめんなさい。力になれなくて」
彼女はまず言った。
「あなたの願いは、人の心を変えること。でもね、人の心が判ることと、人の心が変わることは違うんだ。『か』の字と『わ』の字が入れ替わっただけなんだけどね。私はその辺思い上がってた。あなたや、みんなを振り回した。ごめんなさい」
高千穂登与の告白に、北村由佳はそこでまず理絵子を見た。彼女の関心が再び、理絵子と健太の関係≠ノ向いたことを、理絵子……
と、高千穂登与は知った。
彼女の関心は何があろうとそこへ帰着する。文字通りラブいずブラインド。
理絵子は音もなくため息。
判った。同様に振り回したことを詫びろとは言わない。アナタにはまず、その必要性を知る機会が必要だ。
「健太君いろいろとありがとう」
理絵子は斜め後ろの彼に向かってさらりと言った。
顔を見ての改まった、ではなく。
「いや。オマエラが何事もなくて良かったよ」
彼はさらりと返してのけた。それは期待通りの反応。
男の反応。
彼は自分たちを救うことにより、自信を得、結果、男になった。
このやりとりがいろんな意味で皮肉と事実の幕の内弁当になることは必定だった。
登与が洞察したと判る。
「人間関係ってまずは知ることから始まると思うのね。相手も、自分自身も」
登与は言いながら、理絵子と繋いだ手を離し、北村由佳に近づき、その足下に膝を突いた。
「北村さん」
登与は改まって呼び、顔を見上げた。
「お守りをあげる」
登与は手のひらから聖女の髪の毛を一本引っ張り出そうとする。すると引っかかり出てこず、尚も引っ張ったら、くるくる丸まって複雑に絡み合った。
それこそゴルディオンの結び目。
「これを解きなさい」
登与は丸く絡んだ髪の毛一本を北村由佳に渡した。
絡みを必然と解したのだ。
「解いたその時、あなたの望みは叶えられる。但し掟が一つ。あなたがそれを解くまでは、あなたはあなたの気持ちを誰にも明かしてはならない。あなたの秘密にしておかねばならない。但し、見つめることのみは許される」
登与はそれこそ魔術の手ほどきのように、北村由佳に告げた。
「え?」
唐突の成り行きに北村由佳は問い返した。しかし高千穂登与は何も言わず、絡んだ髪の毛を彼女にしっかりと握らせた。
「うん……わかった」
北村由佳は手のひらの髪の毛を見、作ったような笑みを見せる。
理絵子は判ってしまう。それさえ確実ならどうでもいい。そんな彼女の心理。
すなわち彼女もまた自信がないのだ。だから自分から動かず、自分を出さず、確実な何か≠待ち、その何かにやってもらう≠フだ。頼むフリで頼るのである。
ある意味魔を召還し命じるのと同じである。ただ、そんな彼女を否定はしないし、間違いとも今は言わない。自分を少しでも有利に……動機はただそれだけだからだ。そして、自分に自信があれば、そんな心理は生じない。
だから、今後も自分は、彼女にとってクラス委員であり続ける。
だから、今後彼女は、絡んだ髪の毛を本気で解こうとする。彼女は手のひらの細く絡んだ黄金を、あるべき姿に戻そうとする。それは途方もなく時間を要し、要求された魔法の抑制は、事態と自己を冷静に見つめ直す時間を与える。
結果、彼女は解けるのであろうか?占いは嫌いだが。
ニーベルングは歌う。水底の黄金を指輪に出来る者は。
登与がその先を知り、目を見開いて自分を見た。
「それは……」
「ケニング。じゃ、由佳ちゃん頑張って。今、バトンを持っているのはあなただから。私の手には何もないよ」
理絵子は言った。これで同じコトを再三言った。信じるかどうかは最早彼女次第だ。テレパシーは希有の能力。しかし、判る力ではあっても、変わる力にはなり得ない。不定なことは不定≠ニしか判らない。
ただ、ここに少なくとも確定した事実一つある。友達がまた一人増えた。
能力繋がりの。いや、正しくは二人か。
23
要するに。
本来、人間同士のコミュニケーションというのは、自我すらあやふやな幼い時代から始まる。それはエゴとエゴとの壮絶な正面衝突であって、傷付くとかそんなコト関係ないから、本音でモノを言い合う。力任せに弱点コンプレックスを容赦なく突きえぐる。結果傷付けられる。或いは、相手を傷付けたと親から激しく叱責される。
そうした繰り返しから、次第にココロの距離の取り方やアプローチ、禁忌を覚えて行く。引き替えに、コドモ社会における自分の地位・着地点を発見すると共に、自分について他にないオンリーワン≠見出すこととなり、それが自信と自己確立の礎となる。
切磋琢磨というヤツだ。糸は切れて補修を繰り返すうちに太くなる。ケガを繰り返した身体の部位は皮膚が分厚くなる。ココロも同じ。
対し現代はどうか。
まず根本的に子供が少ない。いたとして、外で遊ぶより家でゲーム。否、外でもゲーム。
或いは週に7日習い事とか。
どっちにせよ、勝ち負け≠セけのコミュニケーション。
なまじケンカにでもなろうものなら、勝ち負け&tけるために取り返しの付かないレベルまで行ってしまったり、或いは一足飛びに親が介入し、逆に謝罪の一つもない。
で、思春期を迎える。
自己確立。それはオトナ社会の中で、自分の居場所を発見すること。
ただ、幼児期の切磋琢磨と違うのは、自分の望みに制約が加わって葛藤を伴うこと。すなわち、認めて欲しいことと、実際の周囲の認識に、すべからくズレがあること。
しかも、望みは一つではない。結果、十重二十重のトレードオフに悩み、苦しみ、努力と妥協を繰り返し、心の傷と傷跡を増やしながら、次第に落ちついて行く。振り返る立場の人はその過程を青春と呼ぶ。
その過程の中で。
傷付けられる、という事態に遭遇した時を考える。容易に判るのは、取っ組み合いを繰り返し、何度も引っかかれた面の皮と、白い柔肌では、反応が相当異なるということ。傷が生じる感度、出来る傷の深さ、そして傷の復旧速度。
全てが異なる。
そこで、このラジオは壊れやすいからと、毒電波を拾ってはならないと、毒電波がすぐ見つかるように感度を極端に上げた結果、遠くから入感した僅かな毒電波でその通り壊れてしまう。
明らかに矛盾である。だが、それが実態ではないのか。傷つきやすい世代が尚のこと傷つきやすくなった。対し情報は過多に過ぎる。傷つける針は見えないほど小さく、しかしその先端は細く鋭く尖って奥深くへ突き刺さり、量も多い。なのに、オトナの世代はその情報とは少し離れた距離にあり、更には目立つナイフばかりを気にして針の鋭さに気付かない。
となると、極めて超高感度の心のラジオ、黒野理絵子。修験者の声を聞き、意図を解したのは物心ついてから。
その前はどうしていたのか。
母親に尋ねたら。
「お前の役目は泣いている子に力を与えることだ。泣いてる子を見つけたら、でも君はこんだけ凄いんだよって言ってあげなさいって。お前の力はそれを見つけるためのものだって。そう教えた。そうか、さすがに憶えてないか。幼稚園に入る時の話だからねぇ」
それは、今でもしていること。つまりは以来の習い性か。
無論、その動きを学校に展開するのは問題解決の一つの道だろう。でも『あの子の良いところを、みんなで一つ一つ紙に書いてください』……中学生のやることだろうか。それはむしろ今の自分のやり方で活かすべきであろう。自分じゃ見えない背中の翼を、オフライン(!)で教えるのだ。
それよりこの時代有効なのは、多分、超然性。裏オンライン(!)で何書かれようと超然としていられる心のタフネス。すなわち自信……何言われようとオレはオレだ……を与える方法。これは結局、幼時体験の必要性を示唆する。
しかし現代、その必要は確率の支配下にある。すると、幼時体験の無い心は、自分に自信を持ちたい時、英雄が猛獣を狩るように、誰かを傷付けて優位性を確認する。幼時に終わっているべき衝突がなされていないため、思春期にまずそこから出てくるのである。ただ、10年育ったなりの知恵≠ェ働き、その手段は巧妙となる。結果が裏であり、働く力学が勝ち負けだ。勝ちと断じた方に与して、誰かを負けにする。しかも露見しないように。
いじめ≠フ構図である。この際、露見を防ぐ知恵は、逆転しないスパイラルを形成する。そのスパイラルはゴルディオンの結び目そのものであり、解くより断ち切る剣が求められる。
「本当に素敵だと思うのは、弱きに味方して強くすることだ。『弱きを助け強きをくじく』ってな。最近じゃ……」
父親はプロ野球阪神球団を再生させた野球人の名を挙げ、
「その引き受けた理由のセリフが有名だけどな。オレが警察官を選んだ理由も要するに同じだ」
父親は少し熱っぽくそう言った。
それは男性原理の一つであろう。顕在化した英雄願望の一側面だ。だが、父の言葉に理絵子が真っ先に思い浮かべたのは、正義のヒーローではなく、自分のりぼんを髪にした遙かなる聖戦女。
あの方は敗者を魂の戦士としてオーディンの元へ導く。逆に言うと、勝利者にオーディンの元へ参じる権利はない。
その点で自分たち学級委員は一般に勝ち組≠ニ見られる。父親の言う通りアンナ・カレーニナの冒頭組だ。
だったらば?
「あのさ……」
理絵子は健太君に発呼した。
24
ホワイトボードには、大文字がマルで囲まれカルトゥーシュ。
ケータイは 見ない書かない 持って行かない
既に標語。
アホか。
「えーでは、教育委員会からの提案を生徒諸君が了承したものとし、携帯電話やパソコンからのこうした掲示板の閲覧と書き込みを禁止し……」
市教委から派遣の司会役、白髪老眼鏡の男性が言いかけたところで、理絵子は噤んでいた口を開いた。
「異議があります」
挙手して返ってきたのは、白髪老眼鏡氏のきつい目線。
「どういうことかね?多数決にて論は決した。これを君たちの総意として……」
「失礼ですが、教育委員会の皆様は、それで本当に解決するとお考えで、この提案をなされたのでしょうか?」
扉閉じられる前に核心を口にする。
すると、白髪老眼鏡氏は露骨に嫌悪感。
「何だって?」
「効果があると思えません」
「随分と失礼な物言いじゃないか」
だから失礼だと言ったじゃないか。
しかし、あんたも失礼だ。
「私たち年代の特有の心理、私たち世代の情報環境、それらを踏まえた有効な結論であるとは到底思えない」
敬語を略す。これで言葉が強くなる。
居並ぶ他校の委員達がざわつき始める。自分の言動は、傍目には、学校通り越して教育委員会に楯突く行為そのもの。
すると老眼鏡氏は、鼻の上の老眼鏡を下方にずらし、上目遣いでじろりと理絵子を睨んで寄越した。
「無知だと言わんばかりに聞こえるが」
「そう言ってます」
これもケンカだ。理絵子は思った。
ざわつきが一瞬にして氷のような沈黙に変わる。それはもしかして、みんなの拒絶か。
白髪老眼鏡氏は苦笑混じりに咳払いを一つ。
「ずいぶんと小馬鹿にされたもんだな」
「情報武装くらい中学生でも出来ます。それこそネットで幾らでも手に入りますから。不都合だから遮断できるってメディアじゃないですからね。良い子には良いものだけを。そんな操作ができる時代じゃないんですよ。対して頂戴したレジュメには『由々しき事態となっている。このままではインターネット接続そのものを校則で規制することになりかねない』と、まず書いてある。とてもネットの双方向性を背景にした資料とは思えませんし、それが議論の結論とまず決めてあるようにも読み取れる」
理絵子はホワイトボードのカルトゥーシュをボールペンの先で指し示した。
「何が言いたいのかね」
白髪老眼鏡氏は理絵子の言葉を遮り、語尾を荒げた。その口調、表情に見せる苛立ちは、故意にも取れる。すなわち、力をちらつかせた脅し。
こんな資料メールでばらまけ。
「何か言ったかね?」
ではなくて。
「ググりゃ出てくるってことです」
白髪老眼鏡氏。きょとん。
意味が判っていない。
これに生徒達はそこここでクスクス笑い。
対し白髪老眼鏡氏は、今、理解できていないのは自分だけ。という雰囲気を把握……
したのだろうか。
もう少し具体的にしてみる。
「自分の本名、そして死ね=B二つ並べてネットで検索。ワラワラ出てくる自分の悪口。その状態でも見るな、それで済むことでしょうか」
「そうやって相手にするからつけあがるんだ」
「そうでしょうか?」
「だから、君は、さっきから、一体、何を言いたいのかね?」
細かく千切り、強く言う言葉に感じる、二重の苛立ち。
せっかく終わりにこぎ着けたのに。
及び、自分の発言が本当に理解不能。
でも今、主導権を与えてはならない。
「それが世界中に公開されているとしても、相手にするな放っておけということですか。それと、腹立つ相手に恥をかかせてやろうと思う心理は異常でしょうか。心理自体は当然で、子どもの頃から誰もがやること。ただ、この歳になったからにはもういけない。そう理解することこそ重要と考えますが」
生徒達がざわつき始める。明らかに会話が噛み合っていない。世界観について大きな認識のズレがあると誰にでも判る。
ネット社会への理解。思春期と白髪期(!)との乖離。
もっと言えば、ネットイコール悪、および、にじみ出る学生は黙って従え=B
固定観念、既成概念、先入観。
理絵子が把握した認識の段丘は2段だ。しかも、どっちも海溝型大地震で作られた第1級の高さ。
「君はどこの学校かね」
眉間にしわを寄せて訊いてくる。突然の話題変更には当然底意を感じるが、根本的に判ってないのは相手であるからして、論破できる自信はある。そして、論破しないと、この作戦≠フ実証にならない。
理絵子は、自分の机に置かれた、三角アクリル板の名札を、氏に向けてやった。
どこの誰、まで言う必要はあるまい。女の子が教頭一人警察送りにした話、この辺の連中が知らないはずがない。最も、この街の中学30校中、女子の制服がセーラーなのは2校だけであって、わざわざ名札を見ないと名前ワカランというのも失礼な話と思うが。
「君の学校は長髪の場合三つ編みにするんじゃないのかね?」
そっち突っ込んだか。てか、そういうことは知っているのか。
「義務果たさず権利主張するのは感心せんな」
勝ち誇ったように。
それ、私に恥掻かせようとしてるんじゃないの?
すると、
「似合ってればいいんじゃないすか?女の子だし」
シレッと言って味方してくれたのは健太君。
加えて、夕暮れ早い冬の西日がブラインドの隙間から差し込み、ポニーテールを結ぶ黄色いりぼんの黄金きらり。
織り込んだ髪の毛は、お守りではなく。
この手の事件で命を絶った仲間のために。
こんな、こんなおざなりでテキトーな臭い物に蓋≠ナ片付けられてたまるか。
「何という学校だ!」
健太君の台詞に、白髪老眼鏡氏は大げさなアクションで驚いてみせる。そっちから糾弾してウヤムヤという作戦ですか?
そうは行かない。
「オトナの皆さんは楽ですね。聞きたくないことには耳をふさげばいい。聞かなかったことにすればいい。……学者の本によれば脳がそういうフィルタこさえるんですってね。でも、だからお前もそうしろと言われた生徒達が過去何人、更に深い傷を負って命を絶ったか。あまつさえは心が弱いとまで言われた。そんなの、いい大人が子ども傷つけてる以外の何物でもない。大人って子ども守ってナンボじゃないんですか」
かなりきついこと言った、つもり。
しかし。
「それが何の関係が?」
それこそフィルタが働いてる発言。自分の台詞の内容などどうでもいいのだ。もうあからさまに苛立っている。
教育委員会のお偉い提案を学生如きに否定抵抗されるのが気に入らないのである。お仕着せ結論早く飲んでシャンシャン終われ。
それって、子どもの心理、そのもの、じゃないのか?
「聞きたくないことが耳に入って傷つくのが思春期なんです。だから、些細なことも聞き漏らすまいとしてしまうのが思春期。そして、傷付くと、傷を補おうと別の傷を付けに行くのが思春期。そこにネットがある」
「だから、見に行くからいけないのだろうが」
どうにもそこに帰着させたいか。
「そうでしょうか。世界中から自分の悪口が丸見えって判ってるんですよ?学校帰りのひそひそ話とワケが違う。でも、やってる側は同じフィーリングで全世界に向かって誰々のバカ死ねって書くわけです。受け取った側は深刻ですよ。下手すると低俗雑誌の記事みたいにあることないこと書いてある。ウチの学校もいろいろ書かれましたよ。事件の内容が内容ですからね。でも教育委員会サマ何してくれました?記者会見で遺憾ですと言うだけ。私たちがどれだけ心細い気持ちになったか」
「君は教育委員会を糾弾しに来たのかね?」
「私の髪型が何の関係が?」
義務と権利、という論点ではこれで両成敗だと思うが。
「出て行きたまえ」
白髪老眼鏡氏はいきなり言った。
その高圧的かつ強制終了≠フ反応は、臭い物に蓋、そのもの。
教育委員会ってこんなもの?
校長会の上の組織ってこんなレベル?
先生の親玉集団が?
……いや、だから、さもありなん、と言うべきなのか。
さておき、激高させて感情先行では言いたいことも伝わらぬ。
それでは、この仕掛けの意味がない。
「お断りします。だってネット相手にする結論じゃありませんもん。一旦上がったら最後、誰かがそれに反応する限り、面白がっていつまでもコピーされ貼り付けられる。どころか、強制的にメールで送りつけられる世界ですよ。いつまでもいつまでも言われ続ける。残り続ける。見たくもないのに見せられる。ラジオを使った洗脳プロパガンダと一緒ですよ。子供のケンカの類似品とは訳が違う」
自分で言葉にしながら、理絵子はだんだん腹が立ってきた。
大体ネットなんて旬のオモチャ相手にするのに、こんなネット無知が出してくること自体そもそもおかしいのだ。父親の言う通り教育委員会が自作自演したいだけにしか見えない。
でも、現実は、そんな小手先で済むような軽い話ではないのだ。実際命に関わる事例が、報道されているだけでも年に十指を下らない。
対しお為ごかしとはまさにこのイベントのこと。
座する仲間たちに目を走らせると、目が合う直前に察知して逸らす。同意を求めるな、声を掛けるな。
まぁそんなとこだろう。そしてそれは、いじめられる子(この場合理絵子自身)が孤立するメカニズムそのもの。
そりゃそうだ。こんな教育委員会のお偉いさんに楯突く奴に味方しても、得るものは何もない。どころか、内申書に影響が出たら。
学級委員の加点がパーになったら。
最も、そこまで考慮済みでこの標語押しつけに来たならば、教育委員会殿あまりにあくどいが。
対して、自分この黄色いりぼん、ダテに黄色にした訳じゃない。
「ケータイ取り上げて見れなくなっても、書かれた悪口グーグルのキャッシュとかログ残ってるんですけどね。中の人にメールして誰か消してくれるんですかね。それに、禁止と言っても、手のひらの窓取り上げても、ネット接続手段だって十指余るほどあります。ネット経由の対戦機能を備えたゲームやネットにつないだデジタルテレビ。フィルタリングのソフト作って撒きますか?家庭訪問してブックマークチェックしますか。でもその最中にアホ死ねって死体写真付きのメール叩き込まれるのがオチです。本人が見なくても裏では動き続けて広がるんです。光あれば影。光がダメならダイヤルアップ。再三失礼ですが、ネット接続されてますか?」
もう、全部言ってやった。
「会は終わりだ」
白髪老眼鏡氏の声が会議室に響く。早口で上ずったトーンには投げやりすら感じる。ただ、誰が見ても白髪老眼鏡氏の職権乱用であり、かつ、結論は明らかに無意味だ。
それが証拠に、オブザーバとして参加した校長代表という3人は、司会に加勢して自分に何か言うわけでなく。ノートパソコン広げた議事録担当のお姉さんも、書くべきかどうか、困った表情。
そして何より、他の生徒達が立とうとしない。理絵子から目を背けていた彼らが、この会の本質≠ノ気づき、自分の味方になりつつあると肌で感じる。
対し氏は電源スイッチの長押し≠知らないようだ。
或いはデスクトップに爆弾でも出たか。リンゴかじったら血が出そうだが。
そこで矢面に立ったのは健太君。
「まぁそう脊髄反射すんなや。俺らアンタらの思惑通りにならなくて悪かったよ。でも俺ら携帯取られたら激しく困る。だから想定問答通りのイルカにはならない。そんだけさ」
その台詞に、彼は成長した、と理絵子はまず感じた。彼には自分を救ったという自負と自信がある。今彼を動かしているのは、その自信を礎とするナイト精神。
男子三日会わずんば、とはこのことか。
理絵子は努めて穏やかな口調で、
「私の髪の違反は学校側自体、百も承知です。でもこれは先ほどの、遺憾です、が元になっています。あの事件で私たちは生徒教員問わずみんな傷付きました。あの学校の生徒だ、というだけで白い目で見られ、教員というだけで罪人と思われたんです。でも教育委員会様は何もサポートしていただけない。
私たちは結束するより他ありませんでした。教師が上で生徒が下って構図でなくて、良い学校一緒に作るにはどうすればいいかって模索を始めたんです。家は親、学校は教員、通学途中がPTA。それがシンプルでしょって。その上で、言いたいことぜんぶ言えと言ってもらってます。お互い意見をぶつけ合って落としどころ探そうって。一般論ですが、家族が互いに言いたいこと言えなくなったらその家族終わりですよね。発展で学校も同じだろうって。クラスが家族のように居心地のいい空間であったら」
希望を持たせるように言ってみる。
しかし白髪老眼鏡氏のフィルタ≠ヘ次の行動を既に決めていたようであった。
「バカバカしい。学校は仲良しクラブじゃない。何度も言わせるな、会はお開きだ。君は学生の本分というものを……」
その顔は権力者の余裕≠ニいうか、説教モードというか。
でも、手綱を渡す気はない。
「学生が何より鬱陶しいのは唯々諾々と先生の言う通り、です。上っ面だけのいい子のカタチ≠押しつけられるより、耳の穴かっぽじって意見聞いてもらった方が余程嬉しいですよ。打てば響く。判ってくれてんじゃんって実感が持てるんです。自分たちの学校だって意識と愛着が沸くってもんです。この手の事件で私たちの仲間が命を絶ったのは、言い出せるような環境じゃなかった、ってのが背景にあったのはご存じの通り」
多少、いや相当に嫌みな物言い。漱石じゃない、誰の流儀だっけか。
再び白髪老眼鏡の頬が朱色。
「失敬!き、君は失敬だ!」
理絵子を指さし吠える。そこまで言わないと判らないくせに、判った瞬間火が付く。
真ん中がないから冷静な議論にならない。
要するに我慢の限度を超えるか、私論崩壊の危機を感知すると、一足飛びに力ずくで幕引きに走るのだ。
人はそれをキレると言うのでは?
「何様のつもりだ全く!」
でもそれは本音だろう。
言葉にするなら。
「子どもは特定の型枠に収まってろ。言うこと聞いて黙ってろ。波風を立てるな。余計なことしたら権力物言わすぞ」
「出て行け!こ、校長に、そうだお前たちの校長に連絡する!かわいい顔してとんでもない輩だ」
で、実際このように言われるから困る。その実全く人間的な感情的反射なのだろうが、それが生徒の立場からすると、権力背景にした脅迫に聞こえるという配慮が足りない。最も今の台詞の場合、露骨にセクハラでパワハラと思うが。
「そういう大人の皆さんの思惑、無言の子どもの大量生産。それが諸悪の根源。押さえられて動きが取れず、鬱憤の行き先がないからネットに吐き出す。ブラックホールの始まりはそこでしょう。それ抜きにして一足飛びに携帯禁止はそりゃぁ大人の皆さんおいし過ぎます。ってか、因果が逆じゃないんですか?」
「何だと!黙って聞いてりゃ図に乗りおって子どものくせに!」
白髪老眼鏡は理絵子を指さし、糾弾の構え。
対し理絵子はポニーテールの黄色いりぼんを外し。
机の上に真っ直ぐに置き。髪を流し、手を櫛にして少し梳き。
ポケットから、くるくる巻かれた黒いりぼんを取り出し。
黒いりぼんをくるくるほどく。
中身は純白携帯電話。黒いりぼんは黄色の隣に真っ直ぐに伸ばして並べ、電話をスライド。
「電話ならお貸ししますのでどうぞ。このまま発呼で校長のポケットに直結です。でも、ああそうですかって言うだけでしょうけどね。校長とはこの会に参加するに辺り、充分に意見交換をしてきました。私がどのような意見をここで述べるか先刻ご承知です。対して再三再四失礼ですが、私たちの物言いに感情的で一方的な押しつけは如何なものでしょう。見ようとしない聞こうとしない。私たちの世代敏感ですからね。おざなりされると感覚的に判っちゃうんですよ。ええこの会の趣旨は理解してます。ネットいじめ問題に対して、生徒が、どうあるべきか。……というわけで集まってくれた皆さん、やってみました。私たちが自ら率先して攻撃の盾となる。それを先生方が理解して味方してバックアップ」
種明かし。
暴露の言に58人がどよもし、避けていたみんなの目が、逆に自分たちに集まる。
校長了承済み。その説得力の強さは良く心得ている。
「担任校長どころか教育委員会なんかに目をつけられたらお先真っ暗。それは判るよ。でも、それにビクついて携帯全面禁止に渋々賛成。したが最後、後々あいつらのせいだ伝説みたいに言われる。でもそれならまだいいよ。通り越して、携帯がなかった為に緊急連絡もできないなんて事故が起きたら責任が取れない。自分たちのために同じ制服着た誰かが危険な目に。そんなの冗談じゃない。臭い物に蓋の論理で携帯禁止なんて私は断固反対。紫外線は危険だからって太陽禁止?それと同じこと。まずは正確に知って、自分自身の判断基準を持つのがあるべき姿。ただ、私たちだけじゃ無理で、経験豊富な大人の皆さんのサジェスチョンがいただければ。何か間違ったこと言ってますか私」
理絵子は喋りながら髪の毛をツインテールに変え、片方を黄色の、片方を黒のりぼんで結んだ。
すると隣席、市立一中のブレザーの娘が席を立った。
「ずれてるよ」
りぼんを直してくれる。
「ありがとう」
「りぼんの色で主張するのって伝わらなく無くない?」
逆に言えば、この彼女は気付いたということ。
そして、白髪老眼鏡氏のボルテージが下がってきたと理絵子は感じた。
失礼な物言いが単なる噛みつきではなく、真意があったと伝わり始めたのだ。
段丘を越えた。
だったらもう少し。
「21世紀の今は勝ちか負けか≠ェ判断基準の時代です。誰のせいか知りませんが。だからこそ……橘(たちばな)さん、ご記憶にあるでしょう、昭和の学生みたいに共通の価値観持てる時代じゃない。心をトゲで鎧って、そのトゲでお互い削り合って、ギザギザになった心でさらに削り合う。もうみんなボロボロなんです。そんな時代に必要なのは、守る力ではないでしょうか。橘さんの世代の言葉で言うならネットのガキ大将ですよ」
「ガキ大……」
白髪老眼鏡橘氏の声から、トゲが消えた。
ガキ大将。理絵子はその概念を父親から言葉で聞き、マンガのキャラクターに見た。
それは、遊び道具がゲームで、コミュニケーションがネット空間、では育たない、子ども社会の地位。
なぜならリアル人間同士コミュニケーションを経て生まれる存在だから。強弱関係の中で求められる、弱い子の味方であり、大人の強圧にすら立ち向かう義。
ガキ大将がなぜそのように振る舞えるか。そんな己れを支持する多くの子どもがあり、その義の故に大人も一目置くから。
恐らくは父性の早熟な発露。
父が言った、警察官を選んだ理由が、そこでシンクロした。
「なるほど」
ガキ大将。その言葉の持つノスタルジーと真意は、橘氏の目尻を下げた。
仕掛けた意図が伝わった。
なら、あと一押し。
その地位に立候補する。とした時、お願いが一つあるのだ。
「我が校の主張をまとめます。我々学級委員は全員の味方を出来る立場にあるということです。どのくらいの力があるかは今示しました通り、教育委員会さんもたじたじ。だったら、そんな日陰でコソコソやってるようなゴキブリ同然の悪意からクラスメート守るくらいできるはず。ただ、本校校長は了解いただけましたが、同様な、イザというときの私たちの盾を、教員の皆さんにお願いできればってことです」
理絵子はそこで傍ら健太君の肩先を指で突いて促した。
男決めろ。
「何かあったらオレに言ってこい。どうにかしてやる」
「かっこいいじゃん」
理絵子は言った。少し野望的な響きを含むかも知れないが、黄色いりぼんや、或いは、かたどったバッジやネクタイピン。それがこの街の学生を象徴するアイテムになれば。
自分自身が後々何を言われようと。
「以上です」
理絵子は目を閉じて言い、着席した。
25
お開きの後も残った理絵子達に、橘氏は露骨にいやな顔をしたが。
理絵子がひとこと非礼を詫びたら一転笑顔になって、ビルの9階レストラン街で夕食をご馳走してくれた。
「骨のある子は少なくなったな。おちおち叱ることもできん」
述懐、と書くに相応しい口調で、橘氏は言った。聞けば、夜の街をPTAのタスキ掛けて巡回してるとか。
「ケンカしませんからね。初めてのケンカが殺人になったり。負けたくないですからね。絶対の武器を手にしたがる。で、手近な刃物でとりあえず斬りつける」
「コペルニクス的転回が必要ってわけか」
「それって地動説が天動説とかいう……」
健太君のセリフに、理絵子は逆、と言いかけ。
「周りが動いてやらなくちゃいけないってことでは、彼の言った通りかも知れませんね」
「教員の鬱が増えるわけだ」
「だからこそ、みんなで一緒に力を合わせる必要があるんですよ。犯人捜しと責任のなすり合いでは何の解決にもならない。何もかも先生先生では先生がすり切れてしまいます。みんなで何とかしなくっちゃ。こうなっちまったと後悔しても、現実が変わる訳じゃない」
「そうだな。動こう。で、無知で申し訳ないんだが、その黄色いりぼんに込めた意味は?」
「ぐぐれ……ウソです。ティーンエイジャーの自殺防止」
終わって橘氏と別れ、駅前広場の天蓋をなすペデストリアン・デッキの上。
冬至間近いこともあり、見上げる空はキラ星の宝石箱。都下だが山裾に位置する分、見える星の数は都心より多いと理絵子は思う。
「ふたご座流星群ってさ」
健太君が駅ビル上方を見上げて言う。
「過ぎたよ」
理絵子は言った。活動のピークは月の半ば、といつぞや調べたことがある。
彼が自分を振り返る。
その表情の悲しそうな。
気づく。今まで自分は、彼の言動のことごとくを、先回りし否定してきたかも。
いや、きたかも、ではない、確実にしてきた。そしてそれは、小さいが尖った針となり、都度少しずつ、彼を傷つけてきたに違いない。
無意識に。
なぜなら自分が同じ立場なら、傷つくだろうと思うから。
特定の気持ちの介在の故に。
されど。
「あのね健太君」
「黒野さんあのさ」
二人は同時に声を出した。
「先に」
「レディファースト」
これも同時。理絵子は父親とのやりとりを思い出し、小さく笑った。
「前言撤回」
しかし、理絵子が譲るより先に、彼の方が言った。
「え?」
「この間の件。君が好きだって話」
どき、っと、心臓が文字通り音を立てた。
鞄を握る手に、自然に強く力が入り、固くなる。
それは、言わなくちゃだけど。
だから、言おうとしたのだけれど。
「一旦、撤回させてくれ。でも、嫌いになったんじゃない。ますます好きだ。だけど」
理絵子は彼を見返した。
予想外の展開。
ひょっとして、これも、あなたの手練手管の一つ?
しかし、彼の目は自分を見ていない。そのふたご座をバックに、街のクリスマスイルミネーションを瞳に映して。
理由を待っていると。
「思ったんだ。もし万が一、君にイエスと言ってもらったところで、オレって君を楽しませるネタ何もないんだなって。ちやほやしてくれる女子いるけど、オレってそれだけなんだなって」
彼に関して、ずっと心に引っかかっていた事実がひとつ。
彼の母親がつぶやいた一言……部屋に女の子が来たことがない。
その理由が判る。かっこいいと言われ、それを本人も把握している。でもカノジョがいるわけではない。
自室というのは、自分の中身の反映という側面もあろう。カバンも然りだ。
女の子にモテること。それが彼のレゾンデートル。
しかし中身を見せるには抵抗。
つまり、彼も、自分に自信がなかった。
「だから」
彼は沈黙を嫌うように言葉をつないだ。
「男を磨いて再挑戦する。その権利を僕に与えて欲しい」
理絵子を見る。
理絵子は彼を見返し、小さく笑った。
「それって2回目の告白そのものに聞こえるけど」
多分手練手管。だがしかし。
「ちっ。バレたか」
彼が歯を見せる。言ったことは、恐らく、ウソではない。
実際問題、イエスと言ったところで、それ以上進まず、止まる気がする。
今のままでは。
「いいでしょう。あなたの言葉を一旦ログから消します」
理絵子は自分の頭を指さして言い、次いで、まさにツンデレよろしくお高くとまると。
「権利与えます。学年イチの美少女と誉れ高いわたくしを落としてご覧なさい」
スカーレット・オハラの流儀。
……誰も、見て、ないよね。
「ありがとう」
彼はまず言い、
「この背中に翼生やして必ず追いつくから。その時まで、君は僕の憧れの天使」
彼女は彼女を天使と呼んだ/終
あとがき
彼女も14ですから恋≠ノ真剣に向き合うというネタが出てきておかしくないわけで。
あまり時代を背景にした流行の話題≠ネタにすると、後世陳腐化して痛々しくなるので、私としては「じゃ、それで行こう」としたわけですが。
恋という光に対して、ネットいじめという影が付いてきた。
ネットいじめは21世紀になって、誰も彼も手のひらからインターネット、に伴う副産物で現れた様態で、時代のあだ花という意味では流行≠ニ同義。従って後世陳腐化の可能性は多分にあるわけですが。
切り口を変えると、新しいメディアが出現すると、それを使ったいじめが開発≠ウれる一つの事例と捉えることも出来る。対し理絵子が示した解≠ヘ、人と人のつながりという原点に基づくモノであって、後世似たような開発が行われても多分通用する。ええ、命に関わる内容はそのくらいの信念持って書いてます。
重くなりました。視点を変えましょう。
理絵ちゃん美少女です。成績いいし人当たりも良い。当然モテましてラブレターが定期的に来る。そしてついに真正面から好きといわれた。
しかし悲しいかなこのくらいの女の子にとって男の子は幼く見える。制服着て顔だち幼くても心理的には完全な女≠ナあって、年齢上仕方がないとか妥協はしない。世間一般男≠ンんな対等ガチンコ勝負に晒される。
当然、外見だけのメッキだけじゃダメなんです。見抜かれる。
男は女に磨かれると言います。すなわち、男にとって失恋は必要悪。斯くて健太君はリベンジを申し出ました。成就するのかな?さぁどうでしょう。
さて、更に視点を移して「理絵子の夜話シリーズ」全体として概観しますと、これで超能力娘が三人揃ったことになります。この点に関しては、3人で力を合わせてナンボの話が出てくると既に示唆を受けてます。振り返れば彼女は徐々により強い魔と対峙するようになってきている。この点で本作では何と自らをヴァルキューレと称する高位存在とコンタクトを持ちました。必殺アイテム取り出して一撃解決は、超能力を持つからこそやっちゃあかんやろと個人的には思っていますが、託された霊的な剣はどんな意味を持つのか。隠せというからには安易に取り出すと副作用の方が大きいということでしょう。
一つ言えるのは、超能力とは、実は「心の力」そのものだということ。
そういやずっと彼女を中学2年で書いてるけど、この調子だと自ずと3学期になるなぁ。少し成長してる節もあるし、どうなるんだろう。永遠の14歳。それとも進級するのかしらん?
何も把握してない作者。それじゃだめじゃん。
20081130@木枯らしの名古屋でユーロビート聞きながら
彼女は彼女を天使と呼んだ
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Special Thanks to TAC'S DDDD(Dreamin' Dreamy Dreamer's DEPARTMENT)
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