午前2時の訪問者

 
 ドアノックの仕方から、父親であることはすぐに知れた。
「理絵子(りえこ)」
 夜半過ぎ。
 蛍光灯スタンドを点け、学校の体操ジャージにはんてんを羽織り、机に向かっていた彼女は振り向く。
「はい」
 振り返った彼女は文句なく美少女である。やや長めの黒い髪。真っ直ぐな瞳は黒曜石を思わせる輝きを蔵す。ふんわりとまるみを帯びた横顔は、中学生でも身を装飾してナンボの昨今では、古風というか、少し懐かしい感じと書けるか。幼子の面影と、シンプルさも手伝い、無垢のシルクを纏ったような透明感を漂わす。悪者には正視できない巫女のようだと評す者もいる。
「コーヒー、飲むか?」
 ドアを開け、長い背丈を折りたたむようにして、浅黒い肌の父親が言った。
「うん、母さんは?」
「静かに降りてこい」
 つまり就寝済み。
「判った」
 書きかけの方程式をどうにか最後まで解き、彼女はスタンドの明かりを消して席を立つ。
 父親が帰宅してかれこれ15〜6分というところであろうか。警察官であり、ドラマでおなじみの捜査一課でこそないが、事件を担当する分には変わりなく、勤務状態は不規則だ。午前1時であるが、この時間に家にいる方がむしろ珍しいほど。
 階下に降り、リビングのドアを開けると、コーヒーメーカーがゴボゴボと最後のラッシュ。
「期末試験か」
 父親は食器棚からカップを出しながら、言った。
「うん」
「どんなあんばいだ?」
「ダメだろうと思っていれば、思ったより良かったという結果になるかと」
「はっはっは。まぁ、無理することはない。だが、手は抜くな。ベストを尽くしての結果であれば、オレは何も言わん。いい点に越したことはないけどな」
「判ってるよ。あ、これいい?」
「おう、切ってくれ」
 理絵子は父親の土産であろうか、大阪難波、“りくろーおじさんのチーズケーキ”のパッケージを開いた。中には冷えて水分が抜け、しわしわになったチーズケーキ1ホール。
「あっためる?そのまま?」
「あっためようか」
 切り分けて電子レンジ。これで、出来たてふわふわチーズケーキの状態に戻る。
 湯気立つケーキをリビングのテーブルに置くと、程なく父親がカップにコーヒーを入れて持ってきてくれた。父親の入れたコーヒーはやや濃いので、ザラメ砂糖をスプーン一杯加えるのが、理絵子のパターン。
「あ、おいし」
「理絵子」
 父親が改まったように言い、コーヒーカップをテーブルに置いた。
「ん?」
「お前、オレが白昼幽霊を見たと言ったら、信じるか?」
 その時点で、理絵子は今夜のこの時間が、父親からの折り入っての相談、と理解した。
「ウソ言うためにわざわざ難波まで出る父さんだとは思ってないけど?どんな幽霊?」
「女の子、だ」
 言葉尻から幼いのかと思ったらそうではなかった。父親の言うには、気配がして振り向く、呼ばれた気がして振り向く、等すると、ミニスカートにブレザーという、学校の制服とおぼしき姿の髪の長い少女が見え
「…たかと思った瞬間、見えなくなるんだ」
「時間は?ひとりでいる時かそうでないかとか」
「時間はまちまち。夜勤の時もあれば朝。昼飯時にもあった。ひとりでいる時だけだな。トイレで手を洗って鏡を見た瞬間、残像だけある、みたいな」
「なるほどね」
「悪いな。試験時の忙しい時に。もちろん、最近寝不足気味だから、何か記憶が引き出されているとか、そういうのはあるかも知れん。実害はないし、急がないから、結論はテストが済んでからでいいよ。考えられるお前なりの見解だけ今は教えてくれると助かる。…お前しか、相談できないからな」
「判った」
 父親をじっと見る。“そっち系”なら、こう話しているだけで容易に判るという自信がある。
 しかし、今の父親からはそんな感じは受けない。
「疲れすぎると、単に思い浮かべたものと、現実と、ごっちゃになったりするよ。その彼女、以前捜査の関係で出会って、印象に残ってるんじゃないのかな?すっごい美人さんとか」
 急がないから。父親のその言葉もあっただろう。理絵子は特に疑いを持たず、軽い気持ちで言った。期末テストという物体が、頭に重くのしかかっていたせいもある。
「おいおいオレがまるで女に飢えてるみたいじゃないか。口から出任せは困るぞ」
「男性は疲労の度が過ぎると、生命の危機近しと本能的に思うらしく、子孫残さなくちゃと、昂進、なさるそうです」
「そういうもんかなぁ。なんか中学生の男の子みたいだぞ?」
「今すぐ私の出る幕とは感じないよ。でも冗談はともかく、父さんが凄い疲れてると感じるのは確か。私が関わるとすれば、父さんの疲労が解消されてもなお、の時。少しでもいいから身体を休めてね」
「う〜ん、わかった。ありがと。はぁ、そこだけは中学生のままなのかオレは…」
 苦笑する父親を残し、理絵子は自室に戻った。
 ドアを開け、しかし室内の明かりは点けずに机に向かう。
 イスに腰を下ろし、イスごとくるりと回転し、後ろを向く。
 普通の人間にはただの闇である。しかし、理絵子にとっては闇ではない。
 彼女にはそこだけ霧に包まれたような、ぼうっとした白い固まりが見えている。霧で作ったラグビーボール。そんな形状。
 超常感覚。父親が彼女に相談し、彼女が当然のように受け答えた理由もそれ。だから“容易に判る”のである。
「こっちいらっしゃい」
 理絵子はまるで、迷子の子でもあやすように、両の手をぼうっとしたものに向かって差し出す。この種の自分にしか見えない訪問者を、彼女は、良く現れる時刻から“午前2時の訪問者”と呼ぶ。
 今日は子ども、男の子。
 但しいわゆる“霊”ではない。誰か知らないが、男性の中にある“幼い気持ちの断片”が一人歩きし、人格に似た様相を呈しているもの。一つの感情だけの人格と表してもいいかもしれない。たいていの場合、当の本人は夢を見ており、夢の中の気持ち、夢の中の自分の年齢に応じて現れる。何か“判ってくれる”存在を探しており、夢の世界をさまよい歩いた挙げ句、自分の部屋にたどり着く。そんな案配。但し、理絵子自身は、彼らが自分を“判ってくれる存在”として見ているというより、自分になまじそれ系の能力があるので、それ系のアンテナに受信されやすいだけでは、と考えている。
 白い固まりのような男の子は、自分が呼ばれたと知るや、それこそ、“泣きながらしがみついてくる子ども”のような感じで、理絵子の元まですーっと動いて来た。強く感じるのは甘えの気持ち。ママに慰めてもらいたい。
 …失恋ショックによる退行、理絵子は判断した。人間は人格否定系の強いショックを受けると、より幼い段階に人格が戻ることがある。それは母に抱かれていた幸せな頃に戻ろうとするからだ、と読んだことがある。ちなみに、理絵子は最近、自分の感覚が拾ってくる感情を理解するため、心理学のテキストに目を通すようになった。
 子どもっぽい。それが男性を否定し、女性が去って行く際に放った言葉と、理絵子は知った。この、唐突にポンと判ってしまうのが、この手の能力の特徴。いきなり来ると面食らう事もままあるので、心理学に手を伸ばした次第。
 〈でも確かに、あなたのしたことは、頼りないという印象を与える内容かな〉
 理絵子はカーペットにぺたんとしゃがんだ。ぼうっとしたものと同じ目の高さで、言い聞かすように、言葉を思い浮かべる。
 〈好きという感情だけ押しつけられてもね。理解した、てのとはまた違うし、こっちは求めちゃいけないの?ってなるし〉
 固まりが小さくなり、放っていた白い光が弱くなる。
 委縮する気持ちの現れ。
 〈理解してくれないならいいや。っていうなら、それまでだと思うよ。14の私ですら感じるんだから、職持って自活している年齢の女性ならなおさらじゃない?〉
 時代がかったことを言うつもりはないが、リーダーシップとか、多少強引でもいい“強権”を感じない男性ってのはやはりどうかと思う。最もこの辺は、太古率先して男性が外へ出、一族郎党を養うために食い扶持を取って(獲って)帰ってきた。それが女性にとって理想だった時代の遺伝子の記憶、とか父親が言っていた。
 父親。
 そのキーワードに、固まりが強い反応を示した。
 彼我…父と己を比較しての引け目、負けの認識。
 父親は医者であるらしい。対し自分はニート状態。
 〈知り合いが友人に、友人が彼氏に、夫にそして父になる。意識的であれ、無意識であれ、女性はそこまで考えるんじゃないかな?。でも、その父ってのは誰かと比較して、ではなく、その人らしい父の姿であればよいはず。あなたの自己評価はいつも自分の父と比較して云々。あなたは決してお父様の劣化コピーじゃないと思うけど?〉
 核心を突いてやる。判っているが認識したくない己の姿。
 〈離れてみたら?ひとりで生活すれば、そう毎日毎日ヤイノヤイノと言われない。自分には不向きだ断るって宣言すればいいじゃない。オレはオレなりのやり方で行くからガタガタ吐かすなって。オヤジだってそうやって今の道に入ったんだろう?って。養ってもらってあわよくば継がせてもらおうなんて虫が良すぎるよ。あなたなりの道を歯食いしばって進む方が後々良いと思うけど〉
 逡巡。
 〈すねかじりの負け犬か、男になるか。選択はあなた次第〉
 突き放すように言ってみる。慰めてあげるには、肯定すべき内容がちょっと乏しい。
 〈内容の伴わない男には、どう外見取り繕っても、それ相応の相手しか見つからないよ。外車に乗って贅沢三昧でも、品性が低ければ単にケバいだけ。階段はね、上ってみないと上り方が身に付かないんだ〉
 白い固まりはラグビーボール状から小さな球形になった。なったがしかし、輝きはむしろ強まった。
 ラグビーボールはこの男性のそうした“中身はないのに、見てくれだけどうにかしよう”という“背伸び”に似た情動を象徴していたと理絵子は理解した。
 球形が苦笑する。男の子ではない。朴訥そうな黒縁メガネの男性の印象。
 本人である。心理に噛ましていた、骨なしの上げ底土台を理絵子に引き抜かれ、ありのままの自分に戻ったのだ。
 −そうだな。
 苦笑と諦念が理絵子に届いた。
 −オレはオレでしかない。オレなりのやり方を見付ける方がいいな。
 ふっきれた、という状態。
 〈その方がいいよ。道は一つじゃない〉
 白い玉を手に持つ。
 −ありがとう。君は…。
 〈それは秘密〉
 超感覚を切ってしまう。これでこの男性からは何も見えなくなる。
 次いで男性の“存在感”が部屋から消える。
 ひとり、“送り出す”。理絵子はホッとした。
  
 数日経過した。
 期末試験はそれなりの結果であった。
 学級委員だから学業もさぞや、と思われている節があるのは承知しているが、語学文系はさておき、理数はからっきしだ。「結構理屈っぽい」と言われるのだが、直感を裏付ける根拠を探し、口にしているに過ぎない。与えられた情報から論理立てて説明し、組み立てて行くという作業は実は好きではない。ただ、それでも、うらやましがられる点数ではあるらしい。従って、通知表にもそれなりの結果が反映される。
 終業式の日。クリスマスイブ。天文学的に正確な日付では既に25日。
 午前2時。
 父親は署に泊まり。仮眠して事件発生に備える。そんな案配。帰宅は朝の7時だかになるので、通知表をダイニングに置いて眠りにつこうか、としていたところ。
 直感の閃きにFAX一体電話の受話器に手を伸ばす。消灯していた液晶ディスプレイに明かりが入り、“着信”の文字が出てところで受話器を取る。
「はい」
 『え?あれ?』
 うろたえる若い男の声。あまりにも受話器を取るのが早すぎたか。
「どちら様ですか?」
 相手は警察署の人間だと名乗り、
 『夜分に恐れ入ります。黒野(くろの)警部の…』
「そうですが」
 父親が搬送されたという。仮眠室でうなされ、暴れ、起こそうにも近寄れないので救急車を呼んだという。
 大学の医療センターに搬送。足を骨折した由。
 理絵子はこの時点でピンと来ている。父親の見た“幽霊”と接点がある。
 ただ、うろたえる必要は感じない。父は今、恐らくクスリで眠っている。
「判りました。母に伝えて病院へ伺います。わざわざすいませんでした」
 受話器を戻し、階下寝室へ。
 ドアを開くと、フットライトのわずかな明かり。
 そしてダブルベッドの真ん中で母親は大いびき。自分の高校進学の学費を今から、とかで、内職でwebサイトのデザインをやっている。…と、書けばオシャレだが、実のところ結構しんどいようだ。見るからに起こすのは申し訳なさそうな寝入りっぷりであり、実際、ベッドサイドテーブルの電話子機は電池が抜かれている。要するに何があっても起きたくないということだろう。
 でも父親の一大事。
「お母さん」
 無反応。
 揺すりながら再度呼ぶ。
 変わらない。
 仕方ない。
 理絵子は母の額に手のひらを載せる。
 いびきが止まる。理絵子は手を離す。
「お母さん?」
 母親は天井を向いたまま、静かに目を開いた。
 首を傾けて理絵子を見る。こういう目覚め方は理絵子の仕業と判っているのだ。
「理絵子…何かあった?」
 母親は問うた。それは子を守る母の顔。
「父さんが病院に運ばれたって。悪夢でうなされて、暴れて、骨折したとか」
 しかし母親は特段慌てず。
「…判った。着替えなさい。行きましょう」
「うん」
 服を選んでいると時間が掛かりそうなのでジャージにはんてん。
 母親の小型車で出る。寝静まった住宅街の坂道を下り、コンクリート舗装の甲州街道を西方へ。街灯と、道路と、わずかな路上駐車。
 両脇の家々には人々が住まい、眠っているはずである。しかし今この時間、この場所で動いているのは、自分たち母子だけ。タイヤがコンクリートの継ぎ目を叩く、リズミカルな音が、唯一の鼓動のようにも思える。ちなみにコンクリートで舗装されているのは、旧日本軍が零戦の滑走路としても使えるように作った名残とか。
 “鼓動”のリズムが落ち、信号待ち。
「何か感じる?」
 じっと前を見ている理絵子に母親が問うた。理絵子の両親は、娘の能力のなんたるかを把握している。そしてその能力の持ち主としての心構えを学ばせるため、修験道の場でもある東京・高尾山(たかおさん)で密教の門を叩いた。従い、彼女はその流儀で能力をコントロールできる。
「今は何も。多分父さんは眠っている」
「そう」
 病院へ到着し、待っていた警察署の若者と挨拶。母子を当直の医師に引き合わすと、彼は帰った。
 医師の説明を受ける。当座の処置として鎮静剤を打ち、骨折の処置をしただけ。骨折したのは足首だという。数日動けず、着替えなど必要。
「悪夢については私からは何とも。心療内科へ連絡状を書いておきます」
 病室へ通される。父親はベッドにあり、足をギプスで固められワイヤで吊られ、人形のように動かない。
 理絵子が病室にとどまり、母親が着替えなど当面の生活品を取りに戻る。
 父親の寝息。窓からの月明かり。ゆるめの暖房。
 横顔を見る。もみあげに白髪が目立つ。年齢を意識するとともに、こうして父親をじっと見るなど何年ぶりかと思う。父親が“年頃の娘”を気にしてか、つとめて自分と距離を置こうとしていると知っている。母は母、父は父、そして自分。同じ屋根の下に寝起きしながら、“3人一緒”の時間が減っていることを意識する。子はいつしか親から離れて行くから、次第にそうなるのは当然といえば当然である。だけど、一緒にデパートで食事、なんてのが戻らない過去かと思うと少し寂しい。最も、今の年齢でその状態は子どもっぽくて小っ恥ずかしいという矛盾した感情が、自分の中に存在する。
 それでも、友は自分が親子仲良しだと半ば感心して言う。友人達にとって、親は過剰に干渉してくる疎ましい存在でしかないようだ。
 『勝手に部屋覗いてさ、グダグダ文句言うんだぜ。じゃぁテメエは私物漁られて文句言わねぇのかよって』
 プチ家出で自室に泊まった友は寝床の中でこう漏らした。親にとって子はいつまでも子であり、一方、子にとっては、自分のしたいことが親の許容範囲を超えると自覚した瞬間、干渉者に変化するのだ。他ならぬ親にぶら下がってないと生きて行けはしないのだが、都合のいいところだけ、親を排除したいのである。
 ちなみに、理絵子はその子に対し、ドアを閉めてあるから覗きたくなるんだ、とアドバイスした。部屋のドアは閉めずにおき、机の回りをピシッと整頓しておけば、『きちんとしている』という印象と認識を与え、親は安心するもの。
「隠すから見たがる。隠していない物には興味を持たない」
「そんなもん?」
「隠すと避けてるという印象を与えるから、火に油だよ」
 …ちなみに二人がこんな会話をしている頃、理絵子の母親が、泊まりに来た子の親に“安心しろ、帰宅しても叱るな”旨電話をしているのだが。
 母親の声が、理絵子を現実に引き戻した。
「理絵子」
「えっ」
 寝入っていたらしい。父親の布団の上から半身を起こすと、足元には付添用仮眠寝台があり、母親の手が自分の肩から毛布を取るところ。外はすっかり朝の気配。
 父親はまだ目覚めない。
「寒くない?」
「大丈夫」
「よく寝てるね。普段、何かあったら飛び起きるって状態で寝てるからね。ここまで深く寝ることはなかったんだろうね。睡眠が不足していただろうね」
 父親が起きたのは結局8時近く。
 目を覚まし、飛び起きようとし、すぐさま警察署ではないことに気付いたようだ。
「…俺は」
「うなされて暴れたそう。足は骨折」
「え?あいつつ…」
 遅い朝食を運んでもらい、うなされた時の記憶がないか尋ねる。
「追われた。包丁で刺されそうになった。それで必死に抵抗したんだ。ところが、殴ろうが蹴ろうが相手には掠りもしない。危険を感じて腰に手を伸ばしたところで、足を刺された」
 足を刺され…が、骨折に伴い映じたイメージであろう。ちなみに、腰に手、は言わずと知れた拳銃のことだ。
「相手の顔は?例の女の子?」
「だと思うんだが判らない。ぼやぼやっとして…その、ボカシが入ったみたいに。でも服は…あれ?藤川高校みたいな。チェックのミニスカートで」
 都立藤川高校は現時点で理絵子が漠然と考えている進学先である。共学の普通科だが、出自が女子校だったせいか、女子の制服が標準でミニスカートであり、かわいいのだ。白百合をデザインした校章バッジが、ブレザーの襟元で良いアクセントになっている。それになんと言っても自宅に近い。なお、都内の公立高校は都立か国立で、他県に存在する“市立”に相当するカテゴリはない。従い都立だからといって、それが即、他県の“県立”に相当するステイタスを意味するわけではない。
「私が言ったのが記憶にあって、それで…じゃないのかなぁ」
 理絵子はタマゴサンドをかじりながら言った。直近の記憶や、興味を持った内容が夢に反映されるのは良くある話。脳は就寝中に情報を整理し、大事なものを強く記録するが、この際に流れる情報が夢という形で現れる、というのが最もらしい説明。ただ、何かの連想でそうした直近・興味のあるファクターが呼び出された、という可能性は考えられる。幽霊が女の子でミニスカートの制服という話に、自分の言った藤川高校がくっついたか。
「夢は現実の印象が反映されることが多いんだ。最近何か強く印象に残る事件でも」
「こら理絵子」
 母親が制した。家族といえど、そこから先は捜査上の秘密であり、触れてはならぬ領域。
「…ごめん」
「いや。お前の気持ちは嬉しいよ。その辺も少し整理してみる必要がありそうだ」
 父親は、言った。
 そこへ看護師。心療内科の予約が取れたが、診察室に赴くか、病室へ出張してもらうか。
 スタンド使って足を吊っている状態で、診察室へというわけもあるまい。
 病室への出張を依頼し、その間に理絵子は一旦家へ戻る。入浴し、着替えて再度病院へ。
 診察に同席するためである。現時点、黒野家で一番詳しそうなのは理絵子だ。
 10時半過ぎ、予定より10分ほど遅れて心療内科の医師が到着。
 ベッド周りをカーテンで囲む。病室は6人部屋だが、他のベッドに人はなし。
 医師は夢の内容を聞き、直近の勤務状況と、悩みの有無を尋ねた。
 勤務はキツイが悩みはないと父親は答えた。ただ、強いて言うなら次々事件で休むヒマもない。一応幽霊のことも話す。夢に出る、で済まなくなると、シラフでも聞こえ、見えてくるからだ。幻覚幻聴白昼夢である。
「追われる夢というのが…」
 医師は無茶な期限や急かす上司の存在がそういう夢につながると話した。まぁ、医学的な診断としては、まっとうな結論と言える。
 不安障害。鬱傾向。病気と言うほどではないが、一旦ストップした方が良い。診断書を書くから、骨折直しがてら少し長く休め。それが結論。サイレース(睡眠導入剤)を処方してくれる由。家族の皆さんはなるべく、父親の好きにさせ、何もせず放っておけ。
「鬱病か」
 父親はベッドでうなだれた。
「そうじゃないって。忙しすぎて精神的に参ってるってこと。あれもこれもと思うと、意識がハイになってなかなか寝付けない。寝付けないから疲れる。そんな状態でたまに寝入ると、意識の中に置きっぱなしのあれもこれもが追いかけてくる。そんな状態じゃないのかな」
「幽霊は?」
「お父さん無理して私と距離取ってない?」
 父親は理絵子の瞳を見、目を見開いた。それは図星の反応。
「ウソはだめだよ。押さえ込むと夢に出るよ」
「鋭すぎる娘には何言っても無駄か」
 父親は苦笑して頭をポリポリ掻いた。
 お父さんお父さん…鬱陶しいほどべたべたくっついてきた幼い頃の理絵子が懐かしいと父親は言った。しかし多忙の末、ろくに話もしなくなった己に対し、理絵子が愛想を尽かしたのではないか。嫌われるよりは距離を取ろう、そんな風に考えていたと父親は語った。
 父親は寂しかったのだ。理絵子は理解した。自分と同じ、“あのころ”への想いを抱えていたのである。それが多忙という現実の圧力を受けた結果、戻りたいという思いとして幽霊を形成し立ち現れたのではないか。
 でも。
「父上殿」
 理絵子は少しふざけた調子で言った。
「ん?」
「もし私が男の子で、この年でお父さ〜んお父さ〜んって来たら、どう?ニキビだらけに無精ひげ、太い声でさ」
 すると父親はフッと笑って。
「いい年こいて大丈夫かコイツって思うわな」
「でしょ?そういうお年頃なのですよ私は。つまりはナチュラルなこと。決して私はお父さんと離れようとは思ってないし、よく言われるみたいに鬱陶しくも思ってない。責任感持ってまじめに仕事に取り組んでる立派な父さんだよ」
 そこで母親がため息がてら。
「真面目の副作用なんだろうね。考えすぎ。一応私も女なんだから、そういうことで悩んでいるなら訊いてくれればいいのに」
「そうだよ。一応女なんだし」
「そうだな。一応女だったな」
「…良く聞くと失礼だね」
 母親が膨れ、父子は笑った。
 鬱傾向。医学的には妥当な結論である。一方、形而上的な可能性はないだろうか。
「どう思う?」
 その晩深夜、理絵子は“午前2時の訪問者”に尋ねてみた。ちなみに、父親の心理情動はテレパシーでずっと追いかけているが、今はサイレースが作用しており、波一つ無い湖水のように穏やか。
 〈あんたの近辺に、オレらみたいのが近づけば、それと判るぜ〉
 “悪ガキ”の風体をイメージさせる、男の訪問者がそう言った。今夜の客層は“理絵子のそばにいると安心する”といった類の連中。
 …“優しさ”を知ること無いまま逝った子どもや少年たち。自分が優しいと言われるタイプかどうなのかはさておき、彼らは、自分の所に出てくる代わりに、形而上の攻撃から自分を守ると勇ましいことを言ってくれる。なお、セリフのこの書き方は意志だけよこした。つまりはテレパシーを表す。
「父さんに、だよ」
 〈跡が残る。雪の上を歩いたみたいにね。でも、今、あんたを通じてあんたの父さんの周囲の雪面を見ているが、そんな痕跡は見あたらない〉
 〈念、だったりして。呪い、恨み。あんたの父さん職業が職業だろう?犯罪者の逆恨みってありえないかい?〉
「その可能性は否定できないけど、面と向かって訊くのはルール違反」
 〈じゃぁ、訊かずに知るしかないな〉
「探れと?それじゃ盗聴と同じじゃん」
 イヤ違う。理絵子は可能性に気付いた。
 その包丁娘が、送り込まれた怨念の映像化であるなら、恐らくはまた来るはずである。今はクスリで意識が完全に遮断されているが、これがクスリによらない通常の睡眠であれば。
 問題は方法。遠隔で父親に悪夢を見せるくらいなら、自分がテレパシーで覗いていること位、容易に察知し、遮断を試みるだろう。“外から監視している”…監視カメラの存在に気付かれてはならない。
 監視カメラを使わず犯人が来るのを待つには?
 〈留守を装って中にいればいいんだよ〉
「すごいこと言うね」
 理絵子は笑って言い、しかし下唇を噛んだ。
 方法が無くはない。後は自分の能力次第。
  
 正月。
 集中看護が不要な父親は大晦日に家に帰された。足は相変わらずギプスで固めているが、吊っておく必要はない。但しそういう状況であるから、外出は車椅子、宅内の移動は松葉杖。
「バリアフリーの必要性について真剣に考えさせられるな」
 父親は漏らした。些細な段差、隙間、往来の狭さ、…普通に歩いていると気にならない悉くが、こういう状況では難儀そのものと化す。
「赤い顔して言っても説得力ないし」
 理絵子はトイレから帰って来た父親に笑って言った。酔ったせいもあろう、父親はややふらつきながら、松葉杖でどうにかこうにかドアをくぐり抜ける。
「飲む以外することあるか。あ〜こんな正月何年ぶりだ」
 父親はリビングのテレビ桟敷、大振りな革のソファに身を預けると、ウィスキーの封を切った。確かに、仕事が仕事なので3が日全部家にいたことはないし、そうでなくても大きな事件があれば呼び出される。“非番”は“待機場所が自宅”、なだけに過ぎない。
「まだ飲むつもりだよちょっと」
「お父さんさすがに飲み過ぎじゃ…」
 病院は禁酒。心底嬉しそうな父親にはちょっと悪い気もするが。
「『家族は父親の好きにさせるように』…大丈夫大丈夫、限界は知ってるから」
 父親は医師のセリフを反復した。にしては呂律が回っていないが。
 この状態はあまり良くない、と理絵子は直感を得た。医学的に結論づけざるを得ないから鬱傾向なのであって、形而上的な調べは何もできていない。霊能者に分類される自分のセリフじゃないが、何でもかんでも“霊の仕業”とする風潮には疑念を呈したい。さりとて、科学的要因にこじつけるのも一方的な気がする。科学は科学の限界を知るべきだ。
 そんな理絵子の思考に対し、テレビでは霊能者と科学者の言い争い。
「あ〜眠い。寝るぞ俺わぁ。理絵子、何か掛けるモノ持ってきてくれ」
 父親はソファをリクライニングさせ、仰臥。
「単価高いよ私」
「1万でも2万でも母さんからもらってくれや」
「なんであたし」
 酔うとなまじ面白いから怒る気も失せてしまう。リビングから寝室に向かい、毛布と布団を持ってくる。
 廊下からリビングに入ると酒臭いったらありゃしない。
 そのはずで父親は既に大いびき。口で息をするからそうなるのである。
 布団をかぶせ、消臭スプレーを噴いたティッシュを布団の口元に置いてやる。この調子で寝られたら明朝この部屋どうなっているか。
「気持ちよさそうにまぁ。折角クスリなしで寝入ったし、放っておくか」
 母親が言った。何もしなくて良い、ひたすら酒飲み、咎められない、年越し。
 …これほど酔った父親を見たのは初めてだと理絵子は思った。対人関係、しかも扱うのが“犯罪”では、ストレスも尋常ではあるまい。ひょっとすると自分の与り知らぬところで、深酒を繰り返してるのかも知れない。横顔の白髪がひどく老けた雰囲気を与える。
「結婚前からぐでんぐでん?」
 理絵子は母親に訊いたが返事がない。
 見ればこちらはこちらでカウチにもたれて寝息を立てている。サイドテーブルには濃いめのお湯割り。
 父の寝顔に安心したのだと理絵子は理解した。母は母でずっと父親が心配だったのだ。
 二人とも起こすに忍びない。理絵子は母親の布団も持って来、カウチに横たえさせ、かぶせた。エアコンの暖房を控えめにセットし、テレビを消し、照明を落とし、部屋を去ろうとし、ハッと気が付く。
 父親はクスリなしで寝入った。すなわち“クスリに寄らない通常の睡眠”。
 理絵子は足を戻す。そして父親の傍らに膝を突き、幼子の熱を測るように、父親の額に、自分の額をあてがう。
 その目的…“留守を装って中にいればいい”の実行。
 目を閉じる。見よう、と思う。映画のように始まる映像。それは父親の心象。すなわち見ている夢。
 深夜の道路。甲州街道。国道20号。
 無音の映像である。前方で左右に大きく蛇行する改造車。
 対しそれを見ている視点…父親は、赤色灯が点滅している車輛であり、警察車輛であると知れる。
 前方改造車から何かが警察車輛へ投げつけられる。
 回転しながら接近してくる棒状の物体…鉄パイプ。
 パイプ先端が警察車輛フロントガラス右部に命中する。クモの巣状にひび割れるフロントガラス。
 警察車輛は加速する。前方改造車がその意を悟ったか猛然と加速。
 程なく町田街道との交差点。
 前方信号は赤だが、改造車はそのまま突っ込んだ。
 交差点左方、町田街道より進入してきた宅配便の大型トラック。町田街道
 衝突。改造車の左前部がトラックのバンパーに当たり、改造車は大きく、ぐるぐると、反時計回りに回転して、交差点右方の信号柱に右側面から衝突、中の人体を外へ放り出す。
 その際のがしゃっという衝突音だけが聞こえている。
 映像が飛ぶ。路上に投げ出され、血の海に仰向けになって横たわる人体。
 青年。丸刈りの男性。血の海は男性の頭部を中心に花弁のように周囲に飛び散っている。その目は人形のように開き動かず、首は不自然なほど長く伸びており、まるでろくろ首のよう。
 頭部を胴体から引き抜く方向に力が働き、頸椎が全部外れて引き延ばされたのだと理絵子は理解した。更に言えば青年はしたたかアスファルトに頭部を打ち付けたようで、“高度脳実質脱出”を呈している。
 すなわち社会死…医師を待たずとも、誰でも死んだと判る状態…だ。報道で死亡(医師の判定による)ではなく、“即死”“即死状態”と書かれるのは、こういう状態である。事故の遺体が眠っているように見えるのは、テレビドラマの中だけ。
 それで思い出す。“警察深追いか?少年事故死”…それは夏の日の新聞の見出し。暴走族の少年が追跡から逃れるためにトラックと衝突して即死。なお、警察が一般にアメリカ式に暴走族・珍走団を力で抑えないのは、事故に一般市民が巻き込まれるのを恐れるが故である。
 この事故について、父親は自分ではないと否定した。確かに記憶の映像では父親は運転者ではない。だが、父親の目の前で展開された事件には相違ない。
 オレが止めていればという悔恨の存在を理絵子は知る。挑発にトサカに来た同僚を止められなかった、その責を己れに帰す父親。
 これはPTSD(心的外傷後ストレス障害)だ。理絵子は断じた。鬱とは少し違う。心が追い込まれているのは同じではある。しかし、鬱の原因に多い“仕事に追われて”なら、誰かに肩代わりしてもらえばよい。しかしこの手の“心の傷”は肩代わりのしようがない。“仕方なかった・不可避だった。或いは、出来る範囲で全力を尽くした”と本人が納得しない限り、どうにもしょうがない。
 『その通りあんたのせいだ』
 声が聞こえた。
 大ホールで発したような、いつまでも余韻を持って響くような、女の声。
 映像は事故の道路ではない。左右に並ぶ二棟の校舎と、双方を結ぶ渡り廊下、そしてレンガが敷き詰められた中庭。
 見たことがある…藤川高校敷地内と知る。
 夜の校内といった案配である。しかし夜空に相当する部分は暗黒であり、星は見えない。
 気が付くと眼前に少女がいる。ライトグレー地のチェックのミニスカート、紺のブレザー。高校生であり藤川高校の生徒でありその制服を着ている。
 激しい憎悪と敵意を受ける。名は本橋美砂(もとはしみさ)というようだ。
 その、父が見ていた幽霊さんだと理絵子は知った。
 『ようやくつかんだと思ったら』
 声と共に意図するところが伝わってくる。しばらくの間、父親の意識を見失い、“保護されている”のを知った。ようやく意識を再発見したところが、今度は自分がいた。なお、“保護”は、自分が父親の意識情動をテレパシーで見ていたことを意味した。すなわち、理絵子が“監視”しているのでアクセス不可能だったというわけだ。
 明らかに超常能力者の認識であり言動である。自分を睥睨するその姿は、氷のような…と形容詞を付けたくなる、大人びた印象の美少女というより既に女。髪が長く、スラッとしている。背は自分よりかなり高い。
 無言で見つめ合う。相互に相手を探っている。
 すごい相手だと理絵子は思う。普通、超感覚で探られるとそれと判るものだが、一切関知させない。心から情報を抜かれないようロックしたところで無駄であろう。圧倒的に自分より高い能力の持ち主である。
 ただその代わり、理絵子の側も相手の情報を幾らか見た。
 …その即死した若者の妹だ。
 そして、父を憎むに至った経緯は次の通り。
 両親が連帯保証人となり、借金を背負わされる。兄はグレて家庭は崩壊。両親は借金苦で自殺(自殺は生命保険金が支払われない)。兄妹だけが残された。この事態に兄は兄なりの方法…グレた仲間との集団窃盗で妹を養い、高校へ進学させた。そこに起こったのがこの事件である。妹は間もなく住んでいるアパートを追い出され、高校も授業料が払えず退学の方向。
 同情すべき余地はあるが甘い、と理絵子は冷静に捉えた。児童相談所や役所など、保護の申し込みは可能なはずだし、奨学金や、藤川高校なら都立だから公的助成があるだろうし、併設の定時制へ移って夜働くなど、幾らでも手はあるはずだ。
 それにそもそも、窃盗は犯罪。
 犯罪。
 その行動否定語は本橋美砂を激怒させた。
 まるでマンガさながら、本橋美砂の髪の毛が吸い上げられるように浮かび始め、情念という言葉を想起させる、青いオーラが彼女の周囲でめらめらと燃え上がる。
 かなう相手ではない…理絵子は思わず後ずさりした。
 合わせ接近してくる本橋美砂。
 言葉はない。ただ黙って近づいてくる。だがその発散する雰囲気は如実な殺意を物語る。
 手品のように本橋美砂の手に現れる包丁。
 本橋美砂が包丁を振り上げる。
 後ずさりする理絵子の背中が壁の感触を捉える。
 更に背後へ行こうとするも、それ以上進む先はない。
 念動力で自分を拘束しているのだと理絵子は判断した。
 本橋美砂が包丁片手に微笑む。眼光が緑色を帯び、口が鬼女のそれのように大きく裂ける。
 逃げても無駄。
「その通り…」
 本橋美砂が頭上で包丁を両手に持った。
 呼ぶ声があった。
 理絵子。その声は確かに理絵子を呼んでいた。
 理絵子。
 聞き覚えのある女の声。
 母親。
 理絵子。自分を呼んでいるのだろう。
 理絵子。起きなさい。
 理絵子。起きて。
 起きて?私はここに…ここは…。
「理絵子!目を覚ましなさい!」
 目を覚ませ。そのフレーズは理絵子に、理絵子自身が今どこにいるかを思い出させた。
 父親の夢の中。
 すなわちここは現実ではない。
 虚構だ!と意識が叫ぶ。現実と思わされていただけ、高校の敷地ではないし、念動力による拘束でもない。
 拘束できるほどなら包丁など要らぬ。
 がちゃん、と頭の中で切り替わる感覚。
 まぶたが操れると気付く。
 理絵子は目を開く。開くと眼前に父の顔。
 背後の気配に理絵子は振り返る。
 思わずハッと息を呑む。
  
 包丁を振り上げたブレザーの少女。
  
 幻ではない。今の今まで夢の中で対峙していた制服姿の少女が、暗闇の中、炎のような色の目を自分に向けてそこに在り、その目線同様、包丁で今まさに自分を突き刺さんとしている。
 そして。
 その、振り上げた少女の腕を、背後から手を伸ばし、必死の形相で掴んでいる自分の母親。
 自分を殺そうとする少女と、それを止めようとする自分の母親。
 母が危ない!
「臨兵闘者皆陳列在前!(りん・びょう・とう・しゃ・かい・ちん・れつ・ざい・ぜん)」
 反射的に、理絵子は密教の手法でそう唱え、中空に手指で碁盤の目状の幾何学模様を描いた。
 スイッチが切れたように、ブレザーの少女から力が抜け、目玉が上を向き、手足がぐにゃぐにゃになって崩れるように倒れ込む。
 その手からポロリと滑り落ちる包丁。
 理絵子は、自分に向け閃光を発し落下してくる包丁の柄を、空中でつかみ取った。
 バチン!という、電気のショートに似た鋭い音が突如響き、鼓膜を撃つ。
 “力界”が去った音だと理絵子は理解した。
 どさっと音を立て、失神した制服の少女がくずおれ、横たわる。
 理絵子は包丁を父親のベッドの下へ。
 一安心。母親が激しく息をしながら座り込む。ネグリジェにガウン姿で汗びっしょり。
 午前2時。
「この子は、この子は一体…」
 母が問い、同様に時計を見やる。
 午前2時。それは夢に誘引された魍魎が跋扈する、闇の支配下。
「生霊。つまり彼女は超能力を持ってる」
 理絵子は言った。その年上の少女、本橋美砂の横顔を見る。“霊的な”彼女と裏腹に頬がこけ、肌は青白く、まるで幽鬼のよう。恐らくそれこそ“全身全霊”を込めて父を呪い、自分を排除していたためだろう。でも、切れ長の目元など見るに及び、健康を取り戻せば、霊の姿そのままの美しい少女なのではあるまいか。
「この子が?」
 母親が目を剥く。
「うん。私が同じような能力者、と知ったからでしょう。見抜かれると判断して、私の注意を自分に向けつつ、自らの手で、父もろとも私も葬り去ろうとした、だと思う」
「それって、理絵子より…」
「何倍も大きな超能力だよ」
 とはいえ超能力現象を扱う超心理学の用語に適切なものはない。
 本橋美砂の額に手をする。彼女はどうやら署内の警察官全員の意識をレーダのように探り、事故時の運転者が異動したこと、及び、兄に対する記憶を持つ父親の存在を知った。そして自責する父を“その通りお前のせいだ”と責めるうち、生き恥…すなわち気狂いとなす復讐を思い立った。そこで、意識に直接働きかけ、白昼の幽霊を見せるようになった。人間の脳は強い電磁波を送り込むと幻影を見るが、形而上的手法で同じことをしたのである。だが、理絵子が乗りだし、本橋美砂にとって父親の意識は霧に包まれたように見えなくなってしまった。ようやく霧が晴れたと訪れたところ、父親の意識の中に理絵子が入り込んでいるのを発見した。後は理絵子の部屋に訪れる“訪問者”と同様、自分自身の身体でこの家を捜し辿り着き、一切合切抹殺を謀った。概略、そんなところになるらしい。
 とんでもない能力だと理絵子は思う。人の思い・考えを操って幻を見せるのだ。SF小説そのものである。しかもそれ以上に凄いのは、自分自身は深夜の道を自分の家へ歩きながら、ということ。…いや、玄関が施錠されていたことからして、歩いてきたのではないのかも知れない。
 部屋に来る連中は、霊的なものがうろつけば、痕跡が残るので気付くと言った。しかし、この方法では痕跡は残らない。
 同じく理絵子も異変とは気付かないであろう。父親にとって幽霊は現実そのものであり、意識を操作されたとは思わないからだ。父親が“違和感”を抱かないならば、父の意識を見ている理絵子にも、違和感は感じ取れない。
「テレパシー使ってマインドコントロールしていたと言うこと?」
「有り体に言えばね。でも、危ない子、なんて思わないで」
 理絵子は母親の意識を読んで制した。
「どうして?」
「だからこそ。穏やかな心でなくちゃならない。彼女はそもそも、身勝手な親の犠牲者。今、私を助けてくれた母さんの力は、包丁に立ち向かう力を与えたのは、私を助けようとしてくれた母さんの思い。それと全く逆の作用で、強い怒りや憎しみが、彼女の強大な力を解き放った」
 理絵子は羽織っていたジャージを丸めて彼女の頭の下に敷き、次いで母親にガウンを脱いでもらい、肩に着せた。
 そして。
「彼女の、父さんが原因だという思いは拭い去ることは出来ないでしょう。だったら、ウチは彼女を突き放すことはできない。しちゃいけない。出来れば、ウチで今後の保証をしてあげたい。そうすれば、後は、時間に任せられる」
「保証って簡単に言うけどどうやって?養子にでもしろ?」
「ううん。綾(あや)のおじさんおばさんが経営してる民宿で、バイト欲しいって言ってたの。住み込みでお願いできるかなぁって」
 綾とは、学校で理絵子と同じクラブに所属している娘、田島(たじま)綾のことである。
「それは無茶じゃない?」
「…彼女に必要なのは、両親という存在」
 理絵子の言葉に、母親は頷いた。
「判った。でもそうなると、この子と、田島さんとこと、大人同士の話だ。預からせてもらうよ」
「うん」
 夜が明けた。
 本橋美砂が非常な高熱を発したこともあり、そのまま数日、彼女の身柄は黒野家で預かった。その間に田島家とは一通りやりとりし、理絵子はその特異能力を持って、本橋美砂との和解を得た。
 そして、主旨を本橋美砂に説明。
「民宿の仕事は主に朝と夜だから、日中は普通に藤川高校に通いなさい。県境越えるから片道2時間だけどそれは勘弁。学費は田島さんところが保護者として奨学金を申請した。認められて支給されるまでしばらく掛かると思うけど、それまではウチが持つ」
 理絵子の母親はそう言い、預金通帳と印鑑、キャッシュカードを本橋美砂の前に出した。
 本橋美砂は仰天の面持ちで母親を見た。
 何と言っていいのか判らないのである。幼くして両親に先立たれ、兄が泥棒行脚では、期待通りの返事など来ようはずもない。
「ありがとうって受けとりゃいいんだよ」
 母親は笑って言った。
「あ、ありが…とう」
「澄んだ声してるじゃない」
「え…」
  
 冬休み最終日。
 黒野家のクルマには、家族3人および本橋美砂、ぽっちゃり体型でメガネを掛けた田島綾。最近そばかすが出てきたとかで、三重苦だと悩んでいる。
 舗装のひび割れた細い道を通り、民宿“旅荘塙(はなわ)”へ。
「お待ちしてました」
 出迎えたのは女将である割烹着の女性と、主人である作務衣姿の男性。
「おじちゃんおばちゃん!」
「綾ちゃん久しぶり。で?どこ?その超美少女は」
 女将さんが興味津々。
「目の前に」
 田島綾は自分を指さした…彼女はギャグマンガが大好きである。
「あらまぁ確かに美少・女だわ」
 女将さんが大げさなアクションで応じる。
「…どうしてそこで区切るの?ひどいわひどいわぷんぷん。はい。じゃぁ大公開、超美少女なお姉さん。本橋美砂さん」
 理絵子は綾を連れてきて正解だったと今更思った。そもそも付いてくると言い出したの自体は綾本人ではある。“仲介役だから”。確かに、この宿との付き合い始めは、クラブの夏合宿の場所に困っていた彼女たちに、綾が掛け合ってくれたことによる。
 今回は大人同士の契約事ではあるが、理絵子が来て綾が来ないは不公平だろう。
 でも、彼女の徹底的なボケっぷりは、初めての顔合わせや本橋美砂の心境、それらがもたらすであろう“気まずさ”を回避するのに極めて都合がよい。
 本橋美砂がクルマから降り立つ。すらりと背が高く、小造りな顔立ちに切れ長の目。“純粋培養”とでも表現したくなるほど肌の色は白い。かなり長めの黒髪が、降車に伴い屈んだ背中で陽光を弾いて弧を描く。手足がほっそりしていて長いせいか、立ち居振る舞いは演出しなくてもエレガントだ。ただ、薄幸そうに見えるのは、本人の心理状態もあり、仕方がないか。
 果たして宿主夫婦は目を剥いた。
「うわ〜本当に美人さんだわ。息が詰まりそう」
「透き通るみたいだなぁ。天使じゃあるまいね」
「こんな子いるんだねぇ。いや参った。あんた本当に美人だよ。売り上げ伸びるわこりゃ」
「お…恐れ入ります」
 夫婦の破格の誉め言葉にさすがに照れたか、本橋美砂は頬を赤らめてぺこり。
 と、さらりと肩から流れ落ちる黒髪。
「おおすげぇついぞ見たこと無いぞこんな黒髪」
「理絵子ちゃんも伸ばしてたよねぇ」
「え?ええ、まぁ」
 急に話を振られて、今度は理絵子の方が照れながらくるりと後ろを向いた。
 同様に伸ばしているが、校則の関係と、実際問題ダラ伸ばしではいろいろ面倒な場合があり、軽くまとめて白いりぼんで止めている。
「この子巫女装束着るとすっごいよ。凛として」
 女将さんが手のひらをパタパタさせて本橋美砂に話しかける。まるで井戸端会議の『ねぇちょっと奥さん聞いた?』を思わせる仕草だ。
 本橋美砂があっけにとられているのを理絵子は感じる。見知らぬ娘の歓迎会が漫才というのはそう無い。
「おばさまそんな大昔の…」
 理絵子は合宿時の出来事…詳細略…を思い出して赤くなった。本橋美砂の心が、極地を離れた氷のように、次第に溶けてゆくのを意識する。
「凛と…かもね」
 本橋美砂は、微笑みを浮かべて理絵子を見、自らの髪の毛を指でなぞった。
 女の子同士髪の毛談義…それは恐らく、この年上の薄幸の少女には存在しなかった過去。
「何この疎外感。えーえーどうせ私はくせっ毛のデブですよ」
 田島綾が口をとがらせ、二人の間に割って入り、同様に後ろを向いて、シャンプーのCMよろしく気取って頭を振るが…
 彼女の髪はいわゆる“おかっぱ”であり、しかも巻き毛なので、黒髪サラリ…には、原理的にならない。
 大人達がクスクス笑う。
「いやいや綾ちゃん。女の子は変わるぞ。コイツだって」
 と、主人氏、女将さんを指差すが。
「ひど。それって『今はひどいから変われ』って言ってるのと同じじゃん」
 このセリフに本橋美砂はついに吹き出した。
「あはは…」
「うわー、花咲くみたいに笑うね。あんた」
「いい笑顔だ。黒野さん。この子もらった」
「さぁさぁいらっしゃい。今日からここがあんたの家。まぁ最初のウチは色々あると思うから、遠慮無く言って」
「そうそう。オレも屁たれたり鼻ほじったりパンツ一丁でうろつくかもワカランがまぁ気にするな」
「いやそりゃあんたレディの前で失礼」
「娘に気を使う親父があるもんか。あ、荷物は2階に入れてあるから好きに散らかしな」
 夫婦は本橋美砂の背中に手を回すと、漫才を続けながら、半ば強引なくらいに黒髪の少女を宿の中に案内した。
 本橋美砂がおっかなびっくりと言った調子で、漫才夫婦を交互に見やる。マシンガントークのせいで、余計なことを考えるヒマがないのである。
 そのスキに女将さんがちらりと振り返り、ぺこりと頭を下げる。
 後はお任せ下さい。の意であると理絵子は判断し、会釈を返した。こういうのはグダグダ別れを惜しむものでもない。
「こちらのご夫婦に任せましょう」
「お前のそういう表情、ドキッとする」
 田島綾のコメント。
「え?」
「ここという場所がそうさせるのかも知れないけど、本当に巫女さんみたいなんだよ」
 澄んだ水と冷涼な山間の空気。気が引き締まるような感じを覚えるのは確かだが。
 父親がクルマのドアを開ける。
「じゃぁ、あとは塙さんにお任せして。田島さん、もう少しいるかい?」
「あ、いえ、かまいません。行きましょう」
 父親がクルマをスタートさせる。
 理絵子は後席で振り返り、同様に宿の2階窓からこちらを見ている本橋美砂と顔を合わせる。
 この出会いは、きっと何かの始まり。
  
午前2時の訪問者/終
  
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