年中行事(3)
4、一年の行事
4-1,現代の祭日・・正式には9日というが、中国人に聞いてもはっきりしない。
1月1日新年節(元旦)
春節(旧暦の正月)一般に3日(廣州駅を一日10万人が過ぎてゆく、祭日では無いという説がある。)
3月8日国際婦女節(1909年アメリカシカゴの女工のストライキに起源)
5月1日国際労働節(1886年シカゴの二〇万人あまりの労働者が八時間労働を手に入れたことによる)
5月4日中國青年節(一九一九年の五四運動による)
6月1日児童節(1949年11月の国際婦女連合会の決議)
7月1日共産党記念日(1921年7月1日上海での中国共産党成立)
8月1日解放軍節(建軍節1927年の南昌起義による)
10月1日国慶節(1949年中華人民共和国成立)
その他の祭日(?)
3月12日植樹節
5月12日護士節(看護士の節日)
9月10日教師節
農暦9月9日敬老節
4-2,古代の祭日
元旦
周代
社日・・春と秋・・社祭・・25家(1里)ごと
春の社祭・・労働を始めるため@
秋の社祭・・労働の終えた慰労A
@(虫昔さ)祭・・臘祭(臘日)B
上元(正月15日)C
上巳(じょうし)(3月上旬)D
伏日E
冬至F
夏至G
8日間@からGまで
4-3,年中行事
4-3-1正月
4-3,年中行事
4-3-1正月
「猪飼按」農暦の正月は、今日では春節と呼ばれている。中国では、今なお正月というのはこの時期を指していて、太陽暦の正月は正月とは思われていない。正月の行事も近代化の波を受けて変化が激しく、本来は一家全員が一堂に会して新春を祝うということであったが、最近では春節休みに旅行に出かけるというようなスタイルの変化があらわれている。一人でも正月にかけると縁起が悪いという思想は、すでに稀薄になっているらしい。
正月の呼び方
正月>『(新刻)事物異名』 二卷 明 余庭璧編 胡文煥校 延寶二年(1674)4月
前川茂右衞門刊本 小一冊 和刻本類書集成 第四輯 昭和五十二年三月
端月
「秦の始皇、名は、政、諱を避けて、正を呼びて平聲と爲す。又、端月と曰ふ」
孟陽『纂要』
謹月
「下春、謹月○『春秋』書、春王、正月者、其の始めを謹むなり。」
一月『書』
孟陬月(もうすうつき)
「孟陬は、東北の方なり。寅月の候」
太蔟月(たいぞくつき)
「太蔟は正月の律なり。太は大なり。蔟は湊なり。言は萬物、陽に随って太湊にして生ずるなり。」
三陽月
「十一月、一陽生じ、十二月二陽、正月三陽生ず。」
寅孟月
『漢書』
人正月
「夏は、寅を以て人の正となす」
王正月
一日の呼び方>『(新刻)事物異名』 二卷 明 余庭璧編 胡文煥校 延寶二年(1674)4月
前川茂右衞門刊本 小一冊 和刻本類書集成 第四輯 昭和五十二年三月
正朝『玉燭寳典』
元日『書』
三朝
「歳の朝、月の朝、日の朝」
天臘『道書』
三元の日
「歳の元、時の元、日の元」
三始日
「すなわち三元」
天中節『道書』
元旦
「支那では元日を元旦といひ、また俗に過年といふ。尊重の意味を含めて大年とも、大年初一ともいっている。若し少し改まっていへば新年で、とにかく此の日は支那人の生活のうち最も大切なめでたい日の一つに數へられてゐるのである。」永尾龍造『支那民俗誌』p21
元日 趙丕杰『中国古代礼俗』1996年語文出版社、p154
「元日は、また元旦、元朔、元正、正日等という。元には開始の意味がある。元日は一年の第一日目である。隋代の『玉燭宝典』には「正月一日を元日とする。また三元という。歳の初め、時の始め、月の初めである。」ただ先秦時代においては、元日は必ずしも正月の第一日ではなかった。『尚書』の「堯典」には、「正月上日、文廟で受け終わる」(正月上日に、堯の太廟で禅譲の典礼を挙行する)とある。また「月正の元日、舜は文祖に格す」(正月の元日、舜は堯の太廟に到る。)馬融の注に上日は初一なりとあり、姚方興の注に元日は上日すなわち初一なりという。この解釈は不正確である。ここの元日は善日、吉日の意味であり。上日は毎月の上旬の吉日である。『禮記』の「王制」に、「元日、習射上功、習郷上歯」(元日の射的の試合において成績の高い低いで重きをなし、郷の飲酒の礼を学習するに年齢で重きをなす。)ここでの元日は吉日、良日の意味である。『禮記』の「月令」には孟春の月「天子は元日に上帝に穀物を祈る」とあり、鄭玄の注に「元日は上辛の日なり」といい、すなわちその月の第一の辛の日である。後代の帝王はずーと正月の第一の辛の日に祭天を行っている。また『禮記』の「月令」に仲春の月に「元日をえらびて、民に社を命ず」とあり、この元日は二月の第一の甲の日である。だから祀天、祀社の元日はすべて必ずしも初一ではなかった。
『史記』の「秦始皇本紀」の記載によれば秦始皇二十六年に、十月朔(十月初一)群臣朝賀するてを規定する。なぜなら秦代は十月を一年の第一の月として、だから十月の初一を一年の第一日としたのである。漢代の始め、叔孫通は朝儀を制定して、秦代の暦法を沿用し、十月初一に群臣の朝賀を接受し、正会と言って、また元会とも呼んでいた。漢の武帝は太初元年に夏暦の基礎の上に太初暦を制定し、正月を歳首と確定し、正月の初一を元日と固定したのである。
1,正月の行事
正月の行事は十二月二十三日の竈の神を祭る行事に始まる。>永尾龍造『支那民俗誌』p7
臘月の二十三日(ある地方は二十四日)の祭竈活動が春節の行事の幕開けである。>趙丕杰『中国古代礼俗』p156
元旦 趙丕杰『中国古代礼俗』、p155
後漢の崔寔(さいしょく)の『四民月令』の記載にこの日には「潔祀祖禰、進酒降神」する必要がある。
正月の絵草紙>羅信耀『北京風俗大全』平凡社、p380
中国人の部屋を飾る木版の絵草紙(画棚ホワポン)を売る行商人がいる。・・・旧来の正月の絵草紙は、なかなか好ましいものである。これは天津からほど遠くない水の町楊柳青(ヤンリウチン)というところの職人が独占的に大量生産していた。
松柏の枝>羅信耀『北京風俗大全』、p381
歳末に北京の門口に立ってみると、今の絵草紙売りの他にも沢山の物売りが売り声をあげながら家々をまわっているのを目にする。たとえば松柏の枝、胡麻の茎を売る者、正月お供えの紙飾り売り、「門神」の刷りもの売りといった連中である。
正月に行う主な四つの行事では、それぞれ神を祭る儀式が終わった後、院子(中庭)で紙に刷った神像を焼くのだが、そのとき緑の松柏の枝と胡麻の茎を用いる。胡麻の茎三束を互いにもたせかけてつくった台の上に、紙の神像や紙錢などをのせ、さらにその上に松柏ををおく。それから線香の火で火を点けて全部燃やしてしまうのである。
お供え用の紙飾り>羅信耀『北京風俗大全』、p382
供物に突き刺す紙の飾り
「門神」売り>羅信耀『北京風俗大全』、p383
中国語で「過年(クオネエン)」という正月期間中、たいていの中国人家庭の門口には、紙飾りを貼るのであるが、通りで売られる「門神」もその一つである。
開門爆竹>江蘇・蘇州>『新年風俗志』婁子匡 編著 上海文藝出版社 19890900 民俗民間文学影印資料之三十(原著19350000出版)p1
「歳朝、門を開けて、爆竹を三度ならす。「高陞三級」の意味である。またこれによって疫癘を除くことができる。」
拜喜神>江蘇・蘇州>『新年風俗志』婁子匡 編著 上海文藝出版社 19890900 民俗民間文学影印資料之三十(原著19350000出版)p1
「新年、どの家でもみんな祖先の遺像を掛け、お香とろうそく、茶と菓子、団子、年@(米羊/れっか)などの者を供える必要がある。衣冠をととのえ、妻子をしたがえて順番に拝謁する。上元の夜になるまでずっと祭り、片づける。親戚に行って互いに慶賀したり、あるいは親族の遺像を拝謁する。これを「拜喜神」と呼んでいる。」
拜年錢>江蘇・蘇州>『新年風俗志』婁子匡 編著 上海文藝出版社 19890900 民俗民間文学影印資料之三十(原著19350000出版)p1
「歳朝、子供たちは尊長者に叩頭して年を賀すと、尊長者は赤い紙で銀の硬貨を包み彼らにあげる。「拜年錢」という。また「壓歳錢」という。男子は結婚後、彼の妻子が受け取ることになる」
飛帖>江蘇・蘇州>『新年風俗志』婁子匡 編著 上海文藝出版社 19890900 民俗民間文学影印資料之三十(原著19350000出版)p1
「年賀に自ら行くことがなければ、奴僕を使わして賀刺をやや疎遠な友達に投げ込ます。答拜するものもこのようにする。これを「飛帖」という。現在は近隣では旧来の飛帖であるのを除いて外は多くは郵便で送る」
橄欖茶>江蘇・蘇州>『新年風俗志』婁子匡 編著 上海文藝出版社 19890900 民俗民間文学影印資料之三十(原著19350000出版)p1
「新年の間、各茶屋では茶壺の中に橄欖を二粒置く。「橄欖茶」という、また「元寳茶」ともいう。玄妙觀の三萬昌がもっとも有名である。これは街の真ん中で人出が多い関係である。蘇州の諺に「茶を三萬昌で飲む」という話がある。
看風雲>江蘇・蘇州>『新年風俗志』婁子匡 編著 上海文藝出版社 19890900 民俗民間文学影印資料之三十(原著19350000出版)p1
「農家では、歳朝の朝、風と雲を見て一年の田事の豊作不作を占う。占いに「歳朝東北風、五穀は大豊作、歳朝西北風、大水害で農作」という」
黄連頭和叫鷄>江蘇・蘇州>『新年風俗志』婁子匡 編著 上海文藝出版社 19890900 民俗民間文学影印資料之三十(原著19350000出版)p1
「献歳(歳を祝う)の近辺の農家は門口に大声で「黄連頭」を売りに来る、雄鳥がたいへん多い。黄連は村の中にどこにでもある。その根は食べることができ、特別の風味がある。近辺の農家は四五月にその柔らかい根をつみ取り、甘草の汁につけ込む。子供が食べれば内熱を解くことができるという」
「猪飼按」「黄連頭」とは、黄連でできた鶏の形の草人形であるらしい
歡喜團>江蘇・蘇州>『新年風俗志』婁子匡 編著 上海文藝出版社 19890900 民俗民間文学影印資料之三十(原著19350000出版)p1
「いろりの中で大きな炭団を燃やす。これを「歡喜團」という。元旦から元宵までつづく。
喜神方>江蘇・蘇州>『新年風俗志』婁子匡 編著 上海文藝出版社 19890900 民俗民間文学影印資料之三十(原著19350000出版)p1
「元旦の朝、時憲書の定める喜神方の方向をみて、門から出てその方向に揖をする。それからその方向に数百歩歩いて、このように一年如意でありますようにという。また「走財神方」「福神方」があり、また同一の考え方である。」
「猪飼按」恵方に詣るのと同じ。
焼十廟香>江蘇・蘇州>『新年風俗志』婁子匡 編著 上海文藝出版社 19890900 民俗民間文学影印資料之三十(原著19350000出版)p1
「十廟とは郡県の城隍廟と郷里の土地などの神祠、男女の修行する者は、いつも元旦の黎明に、みなそこにいってお詣りをする。そこで出発に前にはあらかじめ道筋を決めておく、これを焼十廟香と呼んでいる。説くところは、将來地獄に堕ちる苦しみから免れることができると。帰りには、また必ず東の台所の司命尊神の前で線香を立て祈らなければならない。これを「焼回頭香」という」
春酒>江蘇・蘇州>『新年風俗志』婁子匡 編著 上海文藝出版社 19890900 民俗民間文学影印資料之三十(原著19350000出版)p1
「元旦以後、親戚朋友が相互に招待して食事をする。ちょうど十五日でおわる。これを「春酒」という。また「年酒」と称する。またの名は「路頭酒」である。みな性質が同じでないことによって、名前が決まったものである。」
春聯>江蘇・無錫>『新年風俗志』婁子匡 編著 上海文藝出版社 19890900 民俗民間文学影印資料之三十(原著19350000出版)p6
「誰もが新しい衣服に着替え、正門はみな開かず、随所に鮮やかな紅色の春聯を見ることができる。まさに「爆竹一声、旧を除き、桃の符は万戸ともまた新なり」である。誰もが、顔を合わせれば「恭喜、發財」という。ほんとうに満面の喜びの気分、うれしくてたまらない。」
丐役(かいえき)>江蘇・無錫>『新年風俗志』婁子匡 編著 上海文藝出版社 19890900 民俗民間文学影印資料之三十(原著19350000出版)p6
「財神を貼る江北の人、あるいは乞丐(こつかい)はまた大変いそがしそうにそれぞれに門に来て縁起のいい話をする。そこで誰もが準備しておいた年@(米羊/れっか)や年団子を彼らに差し上げる。」
「猪飼按」乞丐(こつかい)は乞食をさす。
正月
爆竹>斉星『中国歳時記』、伊藤克訳、外文出版社(北京)、1988、1988、p18
王安石「元日」
爆竹声中一歳除(爆竹の声中に一歳を除し)
春風送暖入屠蘇(春風暖を送り屠蘇に入る)
千門万戸@@(日童・日童)日(千門万戸@@(日童・日童)の日)
総把新桃換旧符(総べて新桃を把りて旧符に換う)
「猪飼按」爆竹をならし、門神や春聯を換える。
爆竹>斉星『中国歳時記』、伊藤克訳、外文出版社(北京)、1988、p19
「邪を避け、鬼を払い、妖を鎮めて、福を迎える」
「伝説によるとその昔、深山に人間の形をした残忍な怪獣が潜んでいて、年末になると人里にあらわれて人畜に危害をあたえた。だがこの怪獣は光と音を恐れる弱点があり、爆竹の音を聞いただけで、びっくりして逃げ出す。このために毎年、怪獣が活躍する年末と年始に、人々はきそって爆竹をならして無事を祈ったのだという」
「猪飼按」この伝説の怪獣の名前が「年」という
春聯は門に満つ>斉星『中国歳時記』、伊藤克訳、外文出版社(北京)、1988、p20
「春節には、家々が軒並みに「桃符」という桃の木で作った二枚の板を門の両側にかけ、凛々しい門神やまっかな神の対聯を貼る。」
「猪飼按」桃の符には、魔力を防ぐ力があると信じられていた。
門神>斉星『中国歳時記』、伊藤克訳、外文出版社(北京)、1988、p20
「唐の太宗李世民が病気にかかったとき、夢で鬼の泣き叫ぶ声を聞いた。夜が明けてから家臣に伝えると、開国の将軍秦瓊と尉遅恭が、よろいかぶとに身を固め、剣と@(金簡)を手にして門のそばに侍立した。その夜、太宗は一晩中、鬼の夢を見なかった。かれは長期の安らぎ望んだが、二人の将軍を日夜侍立させるには忍びず、画匠に命じて二人の形象を描かせて御殿の門に貼り「門神」と称した。」
「猪飼按」門神は秦瓊(しんけい)尉遅恭(うっちきょう)である。『淮南子』の神荼欝塁(しんとうつるい)ともいう。>(しんじょ・うつりつ)と発音する
新年のご馳走>斉星『中国歳時記』、伊藤克訳、外文出版社(北京)、1988、p24
「陰暦の十二月三十日にギョーザをたべ、正月一日にもギョーザをたべて、「除夕の子の刻はすなわち新年である」ことを意味づける。ギョーザはまた「扁食」ともいった。」
「ギョーザの中に飴、銅貨、落花生、棗、栗などを入れた。飴のギョーザにあたったものは、甘い生活が送れるという意味、銅貨に当たったものは、この一年お金に不自由しない。落花生に当たったものは長寿、棗と栗は早く子宝に恵まれる。」
「猪飼按」餃子の意味、馬蹄銀に似ているのでめでたい。落花生はまたの名を長生果という。棗は早い意味、栗は立(たちどころに)の意味である。
万年糧>斉星『中国歳時記』、伊藤克訳、外文出版社(北京)、1988、p26
「南方では数日分のお米を水にひたしておいて「万年糧」と称し、毎年食糧に余裕があるように望む。」
「お餅は欠かされぬ新年の食べ物で、よくつけているほどよく「としごとにたかくなる年々高」(粘粘@(米羊/れっが)という縁起をかついだもの」
江蘇の淮安>斉星『中国歳時記』、伊藤克訳、外文出版社(北京)、1988、p26
「食膳にまず蓮の実の茶や、棗の茶をのみ、飴がし、西瓜の種、棗、もちなどをたべ」
浙江の紹興>斉星『中国歳時記』、伊藤克訳、外文出版社(北京)、1988、p27
「元旦のお茶に橄欖、きんかんなどを入れる。元旦の朝には「湯圓」(もち米のだんご)をたべて「団欒する」と言う縁起をかつぐ。年寄りは元旦には主に精進料理を食べ、肉類を忌んで口にしない。」
元旦>斉星『中国歳時記』、伊藤克訳、外文出版社(北京)、1988、p27
「夜中の子の時になると、新年を迎える。昔、「元旦」(一年のうちのいちばん目の朝という意味)のもっとも重要な行事は、爆竹を鳴らし、お香をたき、神々を迎え、先祖を祭る事だった。元旦には、老若男女みな新しい服を着て、親戚や友人の家に年賀に行った。」
銅鑼・太鼓・獅子舞>斉星『中国歳時記』、伊藤克訳、外文出版社(北京)、1988、p30
「ドラ・太鼓競いと獅子舞は、新年のにぎやかな遊びで、南方の農村で盛んである。」
廠甸(チャンデン)>斉星『中国歳時記』、伊藤克訳、外文出版社(北京)、1988、p30
「北京の廠甸は全国でも有名な縁日にの一つであった。毎年陰暦の正月一日から十五日のあいだに、瑠璃廠を中心として数華里にわたる長い通りに露天小屋が軒を並べる。」
花市>斉星『中国歳時記』、伊藤克訳、外文出版社(北京)、1988、p34
「広州の花市も、天下に名を馳せる春節の縁日である。」
明清宮廷の春節>斉星『中国歳時記』、伊藤克訳、外文出版社(北京)、1988、p35
「明の皇帝は正月一日に朝賀を行った」
「清の時代には、毎年徐夕に保和殿で祝宴を行った。主に少数民族の族長とか外藩(清の時代、蒙古チベット青海をさす)の使臣が参列し、これに一品と二品の大官が加わる。」
年始『清俗紀聞』P3
北京
拝賀>>文官は東、武官は西>>三跪九叩頭
全名帖1-1>>帖は全帖である、赤い紙の祝詞ならびに姓名を書いた名札である
・・名刺の起源
『北京年中行事記』p23
元旦・・大年初一という。子の刻以後には、香を焚いて接神をする。爆竹を燃やし恭敬の意をつくす。
(接神>p26註2>陰暦十二月二十三日の竃の神が玉皇上帝[天帝]の善悪功罪を報告するために旅立ち、それから一週間の評定をおわり、大晦日の夜半に下界に降る。)
(爆竹>『荊楚歳時記』p7・・鞭炮、紙炮、炮仔と今はいう)
天子に拝賀
親戚友人に挨拶廻り・・「道新喜」という。親しい間は家に入るが、疎遠な間柄は名刺を差し出すだけ
餃子を作る・・煮@@(zhubobo)という。富家ではお金を餃子に入れる。
年始『清俗紀聞』P4
地方>今上皇帝の竜牌に詣でる
竜牌>(竜牌は木にてこしらえ荘厳にして、天子万歳万万歳とかき、寺廟ごとに仏前に安置する。)・・父などに公公万歳と今でもいう。
年始『清俗紀聞』P5
家庭
拝天地
家廟>神主を拝し、両親を拝す>香花、灯燭、年@(米羔こう)、菓子、茶、飯、酒ならびに、橘子(みかん)、菱子(ひし)、竜眼肉をもる。
喜神>>・・縁起の好い方向の神様に参る
年賀>親戚朋友には名帖
短名帖1-2>>赤い紙
屠蘇酒>>すでに知られていない>>『荊楚歳時記』p27>華佗の方>>『肘後方』・・唐代の風習
煖鍋(だんか)>>正月料理
小菜>>正月料理
元旦『清俗紀聞』P9
試毛(かきぞめ)>>吉利の文句を書く
吃素(しょうじん)>>元旦は精進料理のことが多い
春酒・・新年禧酒・・酒宴を開く
請帖1-4・・招待状のこと
年始『清俗紀聞』P10
商家>>元旦には招牌を引き入れる
開市>>暦の開市の日に招牌を掛ける
招牌1-6・・看板のこと
出行>>始めて船に乗り込む日
盤帳>>前年の棚卸し
年始『清俗紀聞』P10
医家>>神農の像へ年@(米羔)菓子、果物などをそなえ礼拝し、6日までに収 める。
神農>>『荘子』に名前がある。農業神。・・「神農嘗百草之滋味、一日而遇七 十毒」『淮南子』
>呉兆森の談
春節は三天である。春節の間、三日間は結婚できない。四日からできる。
新婚の家では、村中餅を配る。双喜という。喜びが重なる意味である。
二人が篭に入れて、担いでゆく。どんな家もはずすことは許されない。
十二月に結婚をすることが多い。
油燈を三天続ける。
>初五・・燈をつける
>十二・・燈をつける
>十五>小年>小春節
娘の家の村にも餅を配る。お金がいる。
>>おまけのはなし>>結婚・・拝公祖・・閙洞房>初夜
>>里帰りに婿はいじめられる
正月>訳>『中國地方志民俗資料匯編・華東巻(上・中・下)』","丁世良 等",,"書目文献出版社(北京)",1995
『上海縣誌(三十二巻・清同治十年刻本)』,『中國地方志民俗資料匯編・華東巻(上)』P7
「一日、鷄が初めて鳴なくと、ことごとく起きる、開門して爆竹をもやす。衣冠をただし、天地を拜し、家廟に、燭をともし香をたて、粉圓(だんご)、茶果をならべ、隣り近所と年賀をかわす。各の名刺を門にさしだすことを、“賀歳”という。一日から三日にいたる。室の中を掃除することを禁ずる。“立春”の前一日、仗をとって春を東郊に迎える。立春の候、芒神を祭り、土牛を鞭うち、春宴を設ける。
五日、財神を接する(まつる)。新鮮な鯉を用いて、魚を担って呼びかけ賣るように“送元寶魚”という。暮になって轟飲する、これを“財神酒”という。連日、親戚友人を招いて飲む、これを“年酒”という。
十三日、家人は竃(火土)について@(こうりゃん)穀を(或いは珍珠米(とうもろこし)で)これを爆(はじけ)さす、華々しいものは吉である。名を“卜流花”という。(俗名を“爆@婁”という)。
“元夕”は、灯市(鰲山、走馬外、有荷花、薺菜等を、戸に引っ掛けてこれらを懸ける。或は竹箔をめぐらせて紙をかぶせて龍灯をつくり、鱗甲を絵がき、布で聯(つらね)、柄でうけ、健兒に旋舞させる(・・蛇おどりか)。郷村ではかごを編んで大球をつくり、“滾灯”という。龍と相遇すれば必ず鬪う、これを“龍搶珠”という。浦泊の各船は多く@(木危)灯をともす。寺院では前に竿を掲げて塔のごとくする。これを“塔灯”という。郷田では“望田灯”といい、田の蚕をてらす)、烟火が尤も盛である。珍珠圓(にくだんごのもち米蒸し)で節食をする。竃(火土)の神をまつる。“接竃(火土)”という。女子は紫姑神を邀える間、休む。
二十四日に風あれば、名を“落灯風”という。
二十七日は“三官誕”である。香をすすめる。(七月、十月二十七日とも同じ、他の處は皆十五日である。南門の外、三官堂はすなわち此日である、郷人はともに集って木器を買って歸る。)」
正月>訳>『首都志(十六卷・民國二十四年南京正中書局鉛印本)』『中國地方志民俗資料匯編・華東編(上)』P358・・首都とは南京の事
“立春日”、春を東郊に迎える(今は此の事なし)。(《金陵歳時記》に:春を東郊に迎える、舊は通濟門の外に鬼神壇あり、後に神木庵に移す。この日、郡守以下、咸く往く、府署にいたりて止める。)
“元旦”やすみである、凡そ四日である、諺に言っている“冬三年四”。更に春聯を換える(《白下瑣言》には「新歳には人家、更に春聯をかえる、明の初めより始まる」)、門神、黄錢等をはる(《白下瑣言》には「門神、なお古の郁壘、神荼の意味である。紙で鐫錢(ほったおか)を諸の戸@(マド)、これ“黄錢”という。しかし色はみななお紅である。黄とは、惟れは喪禮があるものにこれを用いる。《金陵歳時記》に「金陵の人家では、大門の門神があるものは大概見ない、ただ后門に鍾馗を貼るだけである。内室の各門は、またその制度は同じでない。老人には、「推車進寶、四季平安」を用い、少年には「4麒麟送子、五子奪@(灰シタニ皿)(魁)、冠帯傳流等圖」を用いる。
単扉にはすなわち圓形の和合を貼る。名を「一團和氣」という。
また財神、仙官の形像にまねるものがある。その意味は吉祥を手に入れるということである。紙馬を供える(《金陵歳時記》には、紅の紙、長約五尺をとり、墨で財神、仙官或蓮座等状を印刷する、新年“立春”に廳堂そなえる。。木を削って牌坊の形ごとくする、高は一尺余り、これを紙馬架という)、庭で爆竹をする。賀客が至れば果盒をもうけ、泡歡喜團(糯米でつくっただんご)、茶泡、元寶蛋等を奉る(《金陵歳時記》には、鹽漬けの白芹の芽、松子仁と胡桃仁、@(艸/字)薺をまぜ茶をいれる、これを“茶泡”という。客至れば歡喜團及び果盒と同じに獻上する。果盒は山査@(米羔)に雙喜の字及び福壽の字など式を焼き付ける、最も精巧である。。余は随時の物をこれに備えるだけである。また、茶で卵をにて、點心とする、名づけて元寶蛋という。客至れば必ずあらそって數枚を献上する、俗に“進元寶”という)。
錢を僕役にあたえる、これを“恭喜包”という。卑幼にやるのを“答賀”という。(《金陵歳時記》には、賀客が紅紙に銅錢十枚、或いは八枚、六枚つつんで、主人の僕にあたえる、これを“恭喜包”という。制錢より易えて銅元とするときは、この包はない。凡そ尊長から卑幼に賀錢を賜うのを、“答賀”という。同光の間多くは紅紙の小票をもちい、一百文より二百文にいたりて止む、専ら新年の答賀の用いる。、裕寧の官錢局が成立より、私票を用いるを禁じる、この票はない)。賀ざるものは、賀柬をとばす(《白下瑣言》には、金陵の俗、新歳には紅で書名たばね相互に投げいれる、多くは門より罅(すきま)に入れるもの、これを“飛帖”という)。
二日>斉星『中国歳時記』、伊藤克訳、外文出版社(北京)、1988、p28
「朝食をすませてから、親戚や友人のあいだで相互に年賀に行く。行くときは、餅、みかん、ポンカン、「酥糖(スウタン)」などを土産に持参する。主人が客を接待する時には、まず茶と煙草をだす。客はしばらく話などしてからその家を去り、次の家に行く。」
『北京年中行事記』p23
正月2日>財神の祭り>>花火が夥しくあげられ昼夜休まない。
財神>武財神>>關帝のことが多い>>五顕財神(広安門外)というものがある。・・南方の五通神と同じものという説がある。
三日>『(新刻)事物異名』 二卷 明 余庭璧編 胡文煥校 延寶二年(1674)4月
前川茂右衞門刊本 小一冊 和刻本類書集成 第四輯 昭和五十二年三月
天慶節
「是の日、天書詔を降す。以て天慶節となす」
壽聖節
「宋の英宗生ず、此の名を取る」
小年朝>江蘇・蘇州>『新年風俗志』婁子匡 編著 上海文藝出版社 19890900 民俗民間文学影印資料之三十(原著19350000出版)p1
「正月の三日は「小年朝」である。地を掃かない。火を乞わない。歳朝と同じである。」
三日>斉星『中国歳時記』、伊藤克訳、外文出版社(北京)、1988、p29
「「貧乏払いの日」と称する。この日、親戚や友人のあいだでは行き来をせずに、家の中のごみや汚物、残肴などを全部ひとまとめにして野原に行って焼き捨てる。」
四日>斉星『中国歳時記』、伊藤克訳、外文出版社(北京)、1988、p29
「女たちの里帰りの日である。」
接路頭>江蘇・蘇州>『新年風俗志』婁子匡 編著 上海文藝出版社 19890900 民俗民間文学影印資料之三十(原著19350000出版)p1
「正月の五日は、五路神の生誕日である。銅鑼と爆竹、お供えを並べ、算盤、銀の錠、天下太平のこれらのものを机の上に並べ、一方には刀を置き、上に鹽を一つかみして、よく似た音で「現到手」(いま手に到れ)という。人々はみなわれさきにいいものをあさる。遅れればおそらくは他の人がもっていってしまっている。だから必ず早く起きて迎える必要があり、いまではさらに前夜から迎えようとしている。呉の人は「搶路頭」と呼んでいる。」
五日>斉星『中国歳時記』、伊藤克訳、外文出版社(北京)、1988、p29
「この日、天におわす神々が下界に降りて視察をする。」
『北京年中行事記』p28
破五>>五日まで米で炊事をしない。婦女子は外出できない。>>商売を始める
七日>『(新刻)事物異名』 二卷 明 余庭璧編 胡文煥校 延寶二年(1674)4月
前川茂右衞門刊本 小一冊 和刻本類書集成 第四輯 昭和五十二年三月
人日
「正月一日占鷄、二日狗、三日羊、四日猪、五日牛、六日馬、七日人、八日穀、晴明温和安太なり。陰寒なれば則病耗す」
靈辰
「人は、萬物の靈のためなり」
人日>『歳華紀麗』巻一、『和刻本類書集成』第一輯、p9
竹葉酒>酒の名前
梅花粧>武帝の女、壽陽公主、人日舎章の簷(エンひさし)の下に臥していると、梅花が公主の額上に落ち、五出の花をなして、これを拂へども去らなかった。皇后はこれを留めた。自後、梅花の粧があるのはこのためである。
狗の耳を捩る>鬼 車 鳥>『荊楚歳時記』に言っている。人日の夜、多くの鬼鳥が人家をよぎる、床を槌ち戸を打てば、狗の耳を捩り、灯燭を滅して、以ってこれを禳う。
人日節>斉星『中国歳時記』、伊藤克訳、外文出版社(北京)、1988、p44
「陰暦の正月七日を人日節という。」
「漢の博学者東方朔は『占書』という本に「自然と万物を支配する天の神は、正月の一日にニワトリを創造し地球に使わし、つづいて二日に犬、三日に豚、四日に羊、五日に牛、六日に馬、七日に人間、八日に穀物をつかわした」と記載し、また「もしその日が晴天ならばよく育ち、その日が曇りなら災いあり」と付記している。」
「人間は家畜や五穀より重要であるから、人々は七日の人日を祝って祭日にし、この日が晴天で、この一年、人々が無事に元気で暮らせるように祈った」
人日の風習>斉星『中国歳時記』、伊藤克訳、外文出版社(北京)、1988、p48
「人日の風習はところによって異なる。福建省の泉州では、この日に果物や野菜七種類で作ったどろとした汁物ー「七宝汁物」というものを食べる。」
「広東省では人日には七種の野菜を煮て食べ、寿を増すとと称し、御輿をかついで練り歩き、村々ではご馳走を供えてこれを迎え、一年の平安を願った。」
「浙江省では正月七日には、家々で砂糖団子を食べた。この俗称を「人日団子」を食べると、この一年、家族の人口が減らないといい、」
「安徽省では飴で炒った米をまぶして団子にし、「太平団子」と称し、これを食べると一年じゅう家族の人口が減らない。他人に食べさすことを、太平をご馳走するといい。一般に太平を願う意味があると言い伝えている。」
「人日には広州や香港一帯では、「及第粥」を好んで食べ、現在でも流行っている。いわゆる及第とは、昔の国家試験に及第して宰相になることで、人日にこれを食べて、良い運を迎えるという意味である。及第粥とは、豚のレバー、豚の胃、豚の腸、肉団子と鶏卵をいっしょに煮て粥にしたもので、とても香ばしい味がする。」
「人日の風習のうちで、いちばん広く伝わっているのは、「綵(さい)を切って人をつくり、金箔をちりばめて人をつくり、もって屏風に貼り、またこれを頭髪にいただく」『荊楚歳時記』ことで、いろいろな色の織物を人形に切ったり、金箔や銀箔を刻んで人形につくり、屏風やベット・カーテンに貼ったりする。女性はこのような人形を髪にさす。」
じん‐じつ【人日】>『広辞苑』
[荊楚歳時記]五節句の一。陰暦正月7日の節句。七種ななくさの粥を祝う。ななくさ。人の日。〓〓新年〓
人日『清俗紀聞』P11・・正月七日>人が始めて生まれた日
穀日 正月八日
豆日 正月九日
綿日 正月十日>>78910の4日が天気晴朗なれば豊作という
秤人>淅江辺では人の生まれた日であるから体重を測る
>>宋の高承の『事物起源』巻1参照
『北京年中行事記』p29
七日>>この日、天気が良ければ出産が多い
八日>>星祭り百八の灯明>>順星という
看參星>江蘇・蘇州>『新年風俗志』婁子匡 編著 上海文藝出版社 19890900 民俗民間文学影印資料之三十(原著19350000出版)p1
「正月の八日の黄昏に三ツ星(参星)を看て一年のひでりを占う。諺に「参星が三つ月の背の上にあり、鯉魚は跳ねてなべの蓋の上、参星三つ月の口の中にあり、種田の種は石臼の内」という。またこの日の参星の見え隠れによって上元の日の晴雨を占う。諺に「上八参星見えず、月午華燈見えず」という。
「猪飼按」参星はオリオンの三ツ星。三ツ星が月の上に見えれば豊作、月の口の中にあれば種もみも食べることになる不作。蓋の上とは、上弦の月であるので蓋に見える。口の中とは、上弦の月が口に見える。上八とは八日のこと、月午とは月の真ん中で十五日のこと、華燈みえずとは、雨のために提灯がかけられないことをいう。
天生日>江蘇・蘇州>『新年風俗志』婁子匡 編著 上海文藝出版社 19890900 民俗民間文学影印資料之三十(原著19350000出版)p1
「正月の九日は、玉皇の生誕日、玄妙觀の道士は三清殿に道場を設ける。名を「齎天」(せいてん)という。果報を願う人が群集する。また穹窿山(きゅうりゅうさん)の上眞觀に行ってお詣りをする。「焼天香」という。」
星宿香>江蘇・蘇州>『新年風俗志』婁子匡 編著 上海文藝出版社 19890900 民俗民間文学影印資料之三十(原著19350000出版)p1
「元旦からどの家も、玄妙觀の三清殿の中に奉ってある六十星宿の像にお詣りをする。下には六十花甲の干支が書かれている。お詣りには彼の家の人々の生年干支にしたがって、関連の星座のもとで跪拜する。これを「焼星宿香」という」
十五>『(新刻)事物異名』 二卷 明 余庭璧編 胡文煥校 延寶二年(1674)4月
前川茂右衞門刊本 小一冊 和刻本類書集成 第四輯 昭和五十二年三月
上元『道藏經』
點竈燈>江蘇・蘇州>『新年風俗志』婁子匡 編著 上海文藝出版社 19890900 民俗民間文学影印資料之三十(原著19350000出版)p1
「正月の十三日の晩、台所に燈をかける。十八日の夜でおわる。火をつけるのは五夜、十三日は試燈、十八日は落燈である。これを燈節と呼ぶ。」
鬧元宵(どうげんしょう)>江蘇・蘇州>『新年風俗志』婁子匡 編著 上海文藝出版社 19890900 民俗民間文学影印資料之三十(原著19350000出版)p1
「元宵の前後はどの家でも銅鑼、太鼓、鐃(にょう)、ハツ、を打ちならして「鬧元宵」と叫けびたたく。「七五三」「跳加官」「兩夾雪」「急急風」「水底翻」・・の楽調がある。人々は三四人で群をなしてそれぞれに一つずつ楽器を持ち子供たちに囲まれて練り歩く。横っちょにゆき、横っちょから打って街中大変なにぎわいとなる。俗に「走馬鑼鼓」」という。
「猪飼按」音楽の調子はわからない。
迎紫姑>江蘇・蘇州>『新年風俗志』婁子匡 編著 上海文藝出版社 19890900 民俗民間文学影印資料之三十(原著19350000出版)p1
「満月の夜中に、紫姑を迎える。俗に紫姑は「抗三姑娘」とよばれ、一年の禍福を問うのである。これは女性の遊びである。また@(竹/召)箒姑、針姑、葦姑を迎え一年の吉凶を卜問する。またの名前は「百草靈」である」
廿二>『(新刻)事物異名』 二卷 明 余庭璧編 胡文煥校 延寶二年(1674)4月
前川茂右衞門刊本 小一冊 和刻本類書集成 第四輯 昭和五十二年三月
千秋節
「五代の清太帝生ず」
立春の行事
迎春『清俗紀聞』P69>>立春の前日>>太歳と春牛をつくる>>豊年をいのる
太歳>>芒神>>小児ようの人形
春牛>>紙でつくる>>子牛を入れておく
迎春1-37>>春をむかえる
春花>>花を携える
行春>>しばらく郊外をめぐり城市にはいる
太歳廟>>太歳は木星
打牛1-38>>大豆で打つ>>疱瘡が軽い
『北京年中行事記』p30
打春>>立春のこと>>立春前一日に春を迎える>>春牛図>>春牛を引き出して打つ
春餅を食べ、婦女子は大根を食べる>>咬春という>>春の睡気をしりぞける
勾芒神を土牛と祭る>>勸農のいみ>>勾芒神は孟春の神
春餅>江蘇・蘇州>『新年風俗志』婁子匡 編著 上海文藝出版社 19890900 民俗民間文学影印資料之三十(原著19350000出版)p1
「春の前一月、市場ではすでに「賣春餅」と表示されている。人々は互いの贈答品に買ってくる。」
上元>『歳華紀麗』巻一、『和刻本類書集成』第一輯、p9
祭戸遺風>『荊楚歳時記』にいう、今の州里の風俗、望日、門戸を祠る。先ず柳の條を以て左右の門上に挿し、酒脯、飲食及び豆粥、@(食羊れっか)糜をもってこれを祭る。
観燈故事>涅槃経いう、「如來、闍維(じゃゆい)訖りて舍利を罌(かめ)に収め、金床の上に置く、天人散華して楽を奏して城をめぐる。歩歩燈を燃やし、十三里を満たす」
「猪飼按」闍維(じゃゆい)は荼毘のこと。
燈節>訳>『首都志(十六卷・民國二十四年南京正中書局鉛印本)』『中國地方志民俗資料匯編・華東編(上)』P357・・首都とは南京の事
[正月]の八日、十三日、十五日は“灯節”である。寺宇の上に灯す(《金陵賦》の注に、燹(せん)前(センゼンは戦争で焼かれる前)、“元宵”にあたって、凡ての庵祠や廟宇は皆、上灯する。そして府署の西のあたりの白衣庵はもっとも一郡のなかで一番である。婦人の跡継ぎ祈るものは、おおむねこのとき香をすすめ、油壁の香車、游人は蟻のようである。杭州天竺につがず、蘇門上方の勝。近きは則すなわち寺宇の間に上灯するものがるが、ただ昔のように盛んではない。《金陵歳時記》には、俗に正月八日、十三日、十五日をもって“灯節”となすが、洪楊の未だ亂れない前、すべての庵廟は皆、上灯する。同光の間、ただ天青街の白衣庵だけが最盛である。評事街の江西會館の門の東の天喜長生祠、堂子巷の財帛司もまた同じである。相い傳うるに初八は“閻羅誕”である。だから漢西門の都城隍廟、府が前に治めていた郡の城隍廟、倉頂の蕭公廟、香火が絶えなかった。從前にまた上灯の事があった。今は見は罕になった)。
好事は、“龍灯會”をする。(《金陵賦》の注には、舊俗に龍灯の會あった、兵燹(戦火で焼かれ)て後、湘營の士卒がこれをおこなった。灯は後に増して高@(足堯)會となる、脂を塗り粉を抹り、往來すること飛がごときである。按ずるに、高@(足堯)とは、すなわち《列子》にいうところの雙枝屬脛の戰である。今はただ俳優の面目ますだけである。《金陵歳時記》には、洪楊の亂の後、上新河の徽州の木商の灯會が最も盛である、“徽州灯”といっている。四月の初旬には賽都天會にも、またこの灯を出す。光緒中年におよんで、湘軍の灯會は翹燃として特出する。丁未の年におよんで、わずかに水西門の木商の灯會、ただひとつだけである。その灯、なかに紙紮の戰台あり、相生人物を安置する、運動をもうけることが、最も特色であるといっている)、灯市をなす。
灯市は@(竹カンムリニ旦)橋、評事街、夫子廟等の處で盛である。(《白下瑣言》には、@(竹カンムリニ旦)橋の灯市、由來はすでに久しい。正月の初、魚龍の雜沓、銀花火樹の觀あり、そうして皆、剪紙でこれをおこなうのである。彩帛灯のごときは、評事街@(施ヒダリガシンニュウ)の南の一帯にあり、五色十光、もっともすばらしいものである。《金陵歳時記》には、府県學の前、評事街、みな灯市である。洪楊の未だ亂れない以前、盛であり料絲灯といって、まえもって見ことができないものである。ただ明角の制、三星、八仙、聚寶盆、皮球、西瓜、草虫、金魚の類がある。樓船は、すなわち碎玻璃条でもってこれをつくる、それは絹制の灯のようであり、花鳥虫魚、また妙で肖である。壁灯の中に人物各種あり、ただ走馬灯が最極も靈巧である。光緒年間、財帛司の供神、棉絮で元宵形を制成する。また紙で、四角いケーキや、饅頭をつり、紙のさらに盛る、亂が眞になることを願う)。文士は灯謎をうつ(《金陵歳時記》には、同光年間、この風がなほ盛であった、これを“春灯”という、またこれを“灯虎”という)。
閏閣で厠姑をむかえる(《金陵歳時記》には、正月の望、厠姑を迎える。人家の閏秀、香楮をもって迎厠の上にゆきて、はたして糞窖中に聲あるを聞いて、神降の徴であるとして、内室に迎え入れ、槃に米をしいて、兩人がむかいあって小糞の箕をとって、一箸を中に立て、その箸が自ら動いて、よく槃の上から米に画く。もし事を問いただして吉兆があれば、すなわち書いて字となり、あるいは画が意ごとくなる、雙錢や種種の吉祥形式になる、凶なればすなわちだめである)。
十六日、士女は均しく城頭にあがる、これを“走百病”という(《白下瑣言》には:歳正月の既望には、城頭の游人は蟻ごときである、簫鼓爆竹の聲、遠近に相聞える、これを“走百病”という、また“踏太平”という。聚寶、三山、石城、通濟の四門が尤も盛である。按ずるに、《五雜俎》記載によれば、齊魯の人、正月十六日に寺觀にあそぶことがおおい、また“走百病”という。これはその風俗が、古からこれがあるようであるが、わたしの郷はそうではない。《金陵賦》の注には、今はこの風はただ聚寶門が盛であり、ただ簫鼓だけあって、爆竹がない。兼て洋畫をならべて游人に觀せるものがいる。また、豆を煮て絳に染め、蜀黎を焙して綻(タンほころば)して、これらを棘刺の上で綴って、梅枝とする。そもそもあるいは飴を吹いて榴實等をつくり其上で綴り、沿道で賣る。游人は必ず一枝を携え歸る。“走百病”の名はなお舊のようである。とくにまれに“@太平”というものがある。光緒の癸巳、劉が軍を制して新の修城を禁止したことによって、この風がだんだん廢れてきた)。
新歳の宴客、これを“請春酒”という。(《金陵歳時記》には、新年には賓朋を邀集して宴飲する。これを“請春酒”という。正月の半前が盛である。諺にいっている、“過了正月半、大家尋事干。(正月十五日すんだら、みんな年賀はおわる)”このことばは、節があるということである。洪楊の亂の後でも、民風はなほ素朴で、多くは燒酒、白花を用いていた。光緒の季、踵事が増華して、宴飲は必ず紹酒、及び汾酒をもちいる)。
げん‐しょう【元宵】‥セウ>『広辞苑』
陰暦正月15日の夜。元夕。
げんしょう‐せつ【元宵節】‥セウ‥
中国で元宵に行われる祭。その夜美しく飾った灯籠を見物し、だんごを食べる。
じょう‐げん【上元】ジヤウ‥
正月15日の称。三元の一。この日小豆粥を食した
あずき‐がゆ【小豆粥】アヅキ‥
小豆を米にまぜて炊いた粥。多く餅(粥柱)を入れる。邪気を除くとして、正月15日にこれを食し、またその炊きあがり方で豊凶を占う(粥占)。冬至や大師講、引越しの時にも炊いた。桜粥。〓〓新年〓。土佐日記「十五日。けふ―煮ず」
元宵と湯元>永尾龍造『支那民俗誌』巻2、19410331、P502
>元宵は俗に佛道日といひ、いえ毎に神壇に「元宵」というものを供える習慣である。
>団子のようなもの>南方の各省では「湯圓」とも「湯元」ともいう
>製造法>まず糯米粉を十分に水をまぜ、よくねり、これを小さくちぎり、薄い円形にして、これを湯元の皮とする。そして別に作っておいた餡にするものを、その皮の上に載せ、周囲からおし包んで球形の団子に作る。
>餡はサンザシ、青梅、コウカイ、瓜子児の仁、松の実、桂圓肉、乾葡萄などの果実をよく搗き砕いて粉にし、それを白砂糖にまぜたもの
>かくして作った湯元の方は主として湯煮にして食べ、元宵の方は湯にして食べるのと、油で揚げるのと二つの方法がある。
>上海では「糖團」ともよぶ
燈夜『清俗紀聞』P12>>家々の門前に灯篭をともす
上燈>正月十三日より
元燈>十五日
落燈>十八日
燈篭1-8
綵燈1-7
做戯>戯台(ぶたい)を作って戯曲をする
燈棚1-9>>軒渡しの灯篭
行燈1-9>>灯篭をもって歩く>龍燈・馬燈・獅子燈など>>どら太鼓ではやす
放夜>>諸衙門(ショガモン官庁)に入ることを許す
『北京年中行事記』p30
十三日から十六日>>家の奥から正門まで>>灯明をともす>>不祥を避ける
『北京年中行事記』p36
十三日から十七日まで>>燈節という>>十五日は正燈という>>花火>>灯篭を吊るす薄ぎぬガラスさらし膠でつくる>物語に材をとる>花火>元宵とはだんご
祖像『清俗紀聞』P14>>先祖の画像を除夜より堂の上にかけ、元旦から三日は供物をそなえ、十五日にもそなえ落燈の日にとりこむ
紫姑神>『歳華紀麗』巻一、『和刻本類書集成』第一輯、p9
卜於紫姑>異苑にいう、その夕、紫姑神を迎え、これに卜する。もと人家の妾であった。大婦(本妻)の妬くところによって、正月の十五日に感激して死ぬ。故に世の人その形を作りてこれを厠に迎える。「子胥あらず、曹姑已に行く。小姑出ずべし。」子胥は婿であり、曹姑は姑である。
「猪飼按」『荊楚歳時記』の記事と少し違う。
紫姑神に由る占い>永尾龍造『支那民俗誌』巻2、19410331、P519
>六朝以降はやくも文献にその記録が見られる。>六朝末劉敬叔『異苑』、梁の『荊楚歳時記』、『玉燭寶典』
>婦女子の間で元宵の佳節を楽しむ行事。
>異名>滿洲「皀籬姑姑」、山東鄒県「激厠姑」、杭州では「召厠姑」「召帚姑」、「@(竹/肖)箕姑」、蘇州・紹興では「坑三姑娘」、紹興の一部では「灰接姑娘」、蘇州「門角姑娘」、海寧「@(竹/羅)頭娘子」、江西「瓜瓢姑娘」、湖北監利「迎紫姑」、陝西鳳翔「召紫姑」、広東「請厠姑娘」という
>紫姑は厠の神>「厠姑」などと呼ぶ
元宵節の風習
新嫁を打つ風習>永尾龍造『支那民俗誌』巻2、19410331、P548
福建@(門/虫)縣>妊娠していない新婦を打つ>昔は一種の妊娠を催す意味の行事
正月十六日
女児節>永尾龍造『支那民俗誌』巻2、19410331、P558
>嫁入りした娘の一日の歸寧(里帰り)を迎える日
>手土産は総じて単数を忌み、二種類のもあれば四種類或は八種類のもあり、各々その家の貧富によって違う。
走百病>永尾龍造『支那民俗誌』巻2、19410331、P563
>走百病とは、百病を走脱する意味で、禳病のことである。屋外を歩いてそれによって病を脱する風習である。
>主として十五夜と十六夜とに行われる>もっぱら十六夜に行われる
>帝京景物略には「元夕婦女白綾の衫を着、相率ゐて宵行すれば、腰、腿の疾病無し。これを走百病といひ、走橋ともいふ」
>月令廣義に「凡そ橋のあるところ、三五相率ゐてこれを過ぎると、厄を渡ったことになって終歳病気にかからない」とある
走百病の方法>永尾龍造『支那民俗誌』巻2、19410331、P
○訪問による走百病>俗に「串門」という。>奉天・天津
史・王とかの姓は避ける>史は「死」に、王は「亡」に通じる>結婚式も避ける
錢、劉、柴、安などの姓は喜ばれる>劉は「留」に、柴は「財」に通じるから。
童養@(女息)>二人して娘の里を訪れる>これも走百病
○外出遊歩による走百病
この夜外出して病を去る風習である。>十四日から十六日までの夜。
>『宛署雜記』「燕城十六夜(中略)、婦女羣遊して、災咎を免れんことを祈る。その前の一人香を持して人を辟く。名づけて走百病といふ。」とあり、また『言鯖』によるとこの線香を「辟人香」といふとある。
>「脱晦氣」吉林省寧古塔地方>「轂轆氷」瀋陽年中行事談>「@(火考)百病」滿洲の田舎また「焼焼@(やまいだれ温)神という」>「」
朔望『清俗紀聞』P14>>朔望には拝賀する
皇帝聖誕日『清俗紀聞』P14
三大節禮(元日、冬至、聖誕)>>拝賀する
國忌『清俗紀聞』P15>>代々の皇帝の忌辰>>衙門は休み。庶民も鳴りものを禁ずる。
忌辰牌1-10>>歴代皇帝の位牌
祖祭『清俗紀聞』P15>>毎月朔望には先祖の神主(いはい)への香燭・菓子を供え、禮 拝する。開祖考妣(初代夫婦)祖考妣(亡祖父母)顕考妣(亡父母)の生誕日に は庁堂に画像をかけ、香燭三牲などを供える
三牲>>鶏羊猪である。略して鶏魚猪を用いる
三官『清俗紀聞』P16
三官菩薩1-11(正月十五日天官、七月十五日地官、十月十五日水官)>>誕日
天官>福を賜う。地官>罪をゆるす。水官>火災を除く
ガ(牙シンニョウ)福『清俗紀聞』P16
五路財神1-12>趙玄壇を本尊、招財・招宝・利市・納珍>>『封神演義』による
春の遊び『清俗紀聞』P18>正月二月三月
紙鳶1-13>>凧のこと
風箏1-16>>凧で音が出るもの
箏琴1-14
見(足易てき)1-15,1-16>>鶏毛を銭にさして布で包む。足で蹴る。
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