年中行事(歳時記)(4)二月


年中行事・二月
「猪飼按」二月は農事が始まり、行事もそう多くない。ここでは中和節の成立が、太陽信仰や土地神信仰の習俗と結びついて新しい意味を付加していくことに興味がある。情人節(セントバレンタインディー)の定着は、年中行事文化の伝播という視点で興味深いものである。振り返ってみると、日本が中国の年中行事を受け入れたときと比較してどうなのかという課題があるようである。

二月の歳時画像資料

二月の呼び方>『(新刻)事物異名』 二卷 明 余庭璧編 胡文煥校 延寶二年(1674)4月、前川茂右衞門刊本 小一冊  和刻本類書集成 第四輯 昭和五十二年三月

仲陽『纂要』
令月「歸田の賦」
如月
夾鐘月
「夾は孚甲なり。鐘は、動くなり。言は、萬物、孚甲にして種類分かるなり」
「猪飼按」孚甲は、殻のこと。米麦などの種子の外皮。


二月一日>『(新刻)事物異名』 二卷 明 余庭璧編 胡文煥校 延寶二年(1674)4月、前川茂右衞門刊本 小一冊  和刻本類書集成 第四輯 昭和五十二年三月
中和節
「唐の李泌が、二月の朔をもって中和節となすを請ふ。」
天正節
『道經』

二月二日>『(新刻)事物異名』 二卷 明 余庭璧編 胡文煥校 延寶二年(1674)4月、前川茂右衞門刊本 小一冊  和刻本類書集成 第四輯 昭和五十二年三月
花朝
「洛陽、云々」
桃菜節

二月二日>『首都志(十六卷・民國二十四年南京正中書局鉛印本)』『中國地方志民俗資料匯編・華東編(上)』P359
>訳>「二月二日、女子の新に嫁ぐものは歸寧(さとがえり)する。(《金陵雜志》には、二月初二日、“龍抬頭”と相い傳えている、女で出閣(結婚した)者があれば、均しくこの日、連絡して里帰りする。俗にこれを“二月二、龍抬頭、家家では女をむかえて冤仇(うらみつらみ)を訴える”という)。
 八日は、張王廟を祀る(《白下瑣言》には、夾岡門の張王廟、すなわち祠山大帝。神名は渤、本は前漢の烏程の横山人、かって陰兵に役して河涜(サンズイニ賣)を開鑿する。身が変化して豕形(ぶたのかたち)の異がおこった、《能改齋漫録》にみえる。だから今ではこれを祀るものは、猪肉(ぶたにく)を用いる。二月八日は王の誕辰である。前后には必ず風雨がある。俗に“請客風、送客風”とよんでいる、あらわれない年はない。《田家雜占》にこれは載っている)。
 十九日は大士香火である。城南の石觀音、城北の鶏鳴寺が最も盛である(《白下瑣言》には、大士香火、舊くは蟒蛇倉の石觀音が盛であった、六日の間、賽會する。喧@(門ノナカニ真)(さわがしくおしあいへしあいする)達旦(よあけになる)まで絶えない、倣佛(あたかも)三天竺の勝である。嘉慶の甲戌から、燒香するものは、皆鶏鳴山の觀音樓に赴き、ここは遂に冷落した。そのとき、城北では哄傳(さかんにいいふらされる)、白髮の老婦が蟒蛇倉より担って、鶏鳴寺にいたり香倏(せんこう)を進めて、たちまち見えなくなった、大士の化身であると言っている。そのこと近く誕れたことであるが、しかし興贊はおのずと定がある。《金陵歳時記》には、二月十九、六月十九、九月十九、均しくこれが擧行される。わたしの郷の善男善女、この三月は茹素(しょうじん)であり、これを“觀音齋”という)。

土地神誕日『清俗紀聞』P19 >>香燭と供物>神廟に参る
二月二日12-7,12-9>>『禮記月令』の社稷の祭り(二月元日)に関係がある
戲臺12-12>>廟前に舞台

二月二日の風習と行事>『中國歳時史の研究』,"中村喬","","19930820","朋友書店",p157
「清代、華北地方では二月二日を「龍抬頭」の日とし、江南では同じ日を「土地神誕日」とした。しかしこれらの称が見えはじめるのは明代からである。」

二月二日は「春遊」の日>『中國歳時史の研究』,"中村喬","","19930820","朋友書店",p158-160
>中唐のころになると郊外に出て遊ぶ「春遊」が二月二日に見られる>踏青とは春遊のことである。>「採菜」とあるように菜摘みが行われた。>宋代・・挑菜節と称していた。>春遊は春の菜を摘む「採草」の俗と、春の青草を踏む「踏青」の俗から起こった風習>四川では「踏青節」といった


中和節(2月1日)の制定>『中國歳時史の研究』,"中村喬","","19930820","朋友書店",p163
>唐の徳宗の貞元5年(789)に仲春に節日がないことから決められた。>臣下に曲江の宴を賜う・・長安の東南隅のあった曲江池・・江蘇省江都県の曲江に似ている>正月晦日・・祓禊(ふつけい)の意味をもつもの>郷村では中和節に春神勾芒を祭る行事が定められていた


明清時代の二月二日>『中國歳時史の研究』,"中村喬","","19930820","朋友書店",p167
>春遊の風は衰退し、これに代わって「龍抬頭」や「土地神誕」の風習
>「龍抬頭」>華北地方・・明の萬暦の『宛署雜記』「宛の人、二月二日を呼びて龍抬頭となす」「郷民、灰を用いて門外より委蜿として布して宅厨にいり、水缸を旋@(饒しんにゅう)す。呼びて引龍回となす」
>灰や糠で線を引いて龍をよぶ、水に不自由しない。農事の水も祈る
>龍抬頭は雨期に入る前の祈雨の風習と水神である龍とが結びついたもので、龍神廟の祭りとこれに準ずる引龍回は龍抬頭の根本的風習といえる
>「薫虫」とは油で焼いた餅@(米羔)によって害虫を辟けようとする辟虫行為である
>「囲倉」>辟虫行為
>「停針線」・・河北・・『燕京歳時記』・・抬頭する龍の目を傷つける怖れがある

「土地神誕日」>『中國歳時史の研究』,"中村喬","","19930820","朋友書店",p171-173
>江南地方ではこの日を土地神誕日とした。>萬暦末の李一楫の『月令採奇』「初二日は土地神生日なり。」>道光時の『清嘉録』、土地公公という。>土地神誕日には「土地会」を催すところもあった。>有髯の人を生き土地神とする


社日>『中國歳時史の研究』,"中村喬","","19930820","朋友書店",p174
>四川省黔江県志「二月二日を、俗に社公生という」>社公とは社神であり、社神を祭る日が社日である。>漢代では土地の神>下って唐宋の間には「社公・社母」あるいは「社翁・社婆」と呼ばれる対偶神となった>社は萬物を生じる地の神であるから、当然農事を祈る対象>清代では社神を土神と称している。>土地廟は社とは別に存在していた。>社での飲食

中和節>李露露『中国民間傳統節日』,19920400,江西美術出版社,p53
「中和節、または二月二日の『龍抬頭』と名づけられる。本来二月一日である。のちに土地神の生誕日をその中に入れたので、二月二日に改められた。
『唐書』の「李泌伝」の記載によれば唐の中頃以前には、春には三個の節日だけがあり、正月(?)の九日、正月の晦日(三十日)と三月の上巳節だけであり、二月には節日がなかった。唐の徳宗の時、李泌は正月の晦を廃して、二月一日を中和節とし、本務につとめる事を示すように上書した。徳宗は十分賛同し、便ち会を下して正月初九、二月朔と三月上巳を、“三会節”と合称す。汪啓淑の『水曹清暇録』「二月初一を俗に中和節と称するのは、唐の李泌に起るという、市中に太陽@(米羔)を貨(う)る、以て太陽星君を祀る。」
これらの記載は中和節は唐徳宗の時から確認できる。ただ中和節のある活動の内容はけっして唐代から始まったものではない。
周代に春分には東郊に行って日を祭り、秋分には西郊に行って月を祭る。太陽@(米羔)の来源はまたやや早く、ずっと隋唐にいたるまで用いられる。唐徳宗の時、春分活動の中に日を祭る内容を吸収し、中和節に充てて、そして中和節と春分が混じって分け難くなってしまった。


太陽神>李露露『中国民間傳統節日』,19920400,江西美術出版社,p53
「太陽神はまた日神ともいう。これは最も古い自然崇拝の一つである。内蒙古の陰山の岩画と雲南の滄源岩画の中に拝日神の図像がある。道教が興って後、多くは太陽星君、日神を祭るという。
中国の古代に太陽神を祭るのに、三つの時期があった。二月初一、三月十九日と十一月十九日である。
太陽についての伝説は非常に多い。最も早いものは十個の太陽である、後に@(羽/廾)が日を射つことをへて、一個の太陽と変化した。大モン(さんずいに文)口の陶器の尊の上にすでに日月の図像がある。
また伝説の太陽は一人の男で、月は一人の女子である。漢代画像石の上から見ると、太陽の中には雄鶏が居住し、それは烏鴉である。後に太陽の神の人格化によって男の人の図像に変化した。さらに妻がいるようにまでなる。これらの伝説は、遠い古代の時代の人々の偉大な創造であるけれども、その中にまた彼らの実際的な感受性を反映している。
人々は日が出れば仕事ができ、温暖があり、種を植え稼りとることができる。夜になれば暗くなり太陽はまた消失する。これらの変化は必然的に人々に聯想を生み、ついに太陽神を創造する。太陽の中の玉鶏伝説は、たぶん日出と鶏鳴との関係から来たもので、太陽と鶏は伴侶であり、本当の鶏ー金鶏あるいは玉鶏は太陽の中に居住している。
朝、鶏鳴すれば人々は起きて、一日の耕運を開始する。
太陽を祭る時には必ず太陽@(米羔)を供える。『燕京雑記』には「二月初、街には太陽@(米羔)を売る。年に一回これを買って日を祀る。」この@(米羔)は江米の粉でつくる。上に太陽と鴉の図案を印す。ある@(米羔)にはひよこをひねってのせる。民間ではまた太陽@(米羔)を美味しいとしている。
宮廷でもまた太陽@(米羔)は流行した。『天咫偶聞』巻十「二月初一、太陽宮で進香する。人家では米@(米羔)で日を祀る。@(米羔)の上に鶏の形を彩色する」同時に「中和酒」をのむ。


土地神の生誕日>李露露『中国民間傳統節日』,19920400,江西美術出版社,p53
中和節にはまた土地神を祭る。土地神は古代の社神であり、自然崇拝の一つである。『公羊傳』「荘公二十五年」に「鼓して、牲を社に用ふ」何休の註に「社なるものは土地の主なり」とある。
土地神、あるいは社神の生辰は、各地で同じでない。ある地方では二月二日で、あるところでは六月一日に定められていて、あるところでは七月七日にきめられている。ただ二月二日のところが多い。道教では太陽神を太社神、大稷神、土地神、土母神と称している。民間では土地爺と称している。
伝説での最も早い人格化された土地神は、勾龍である。『左傳・昭公二十九年』「共工氏の子勾龍は、能く水土を平げる。これを祀りて社神となす」
土地神を祭るのは二月二日であるが、古い中和節と較べて一日おそい。『春明歳時瑣記』の二月に「二日を土地真君の生辰、地内外の土地神廟、香火絶えず。遊人また衆(おお)し。また放花(花火をあげる)して、香を供え神にいのるものあり。俗にこの日を「龍抬頭」という。この日の食べ物には、皆龍の名前が付いている。たとえば餅には龍餅、飯は龍子という。麺は龍鬚面、扁食(ぎょうざ)は龍牙の類である。」
民間流行の「土地聚婦」はまた一種の社祭の礼である。『水滸傳』の中に「土地@(ころもへん去)水怪」の一章に、土地神が起義軍の徴戦を助ける状況を描写している。これは土地神が民間に深く根ざしていることを説明している。民間では立春のあと第五の戊の日を春分としている。そして通常は春分は社日と見られている。その間必ず土地神と五穀神にお供えをする。
群集して社飯を食べ、社酒を呑む、これは古代の村社の人々が、土地神を祀る時に共食する遺風である。
土地神を祭るころに、歴代の朝廷もすべて神農を祭っている。皇帝は躬耕(きゅうこう)の儀式をおこなう必要がある。
「猪飼按」躬耕(きゅうこう)とは皇帝自ら農耕をすることを言う。日本の天皇陛下も同様である。



『龍抬頭』>李露露『中国民間傳統節日』,19920400,江西美術出版社,p53
中和節はまた龍抬頭と称せられる。『宛暑雑記』の上「民風」に「都の人は二月二日を龍抬頭と呼んでいる。郷民は灰を用いて、門の外から蜿蜒として家の厨房まで布く。水缸(みずかめ)をめぐりて引龍回と呼んでいる。
『帝京景物略』の巻二には「二月二日は龍抬頭という、元日で祭った余った餅を煎り、床@(火へんの坑)(オンドル)の上で薫らす。「薫虫兒」という。引龍虫がでないという。」
上述の記載からみれば、中和節のあと春が来て草木はまた生し、各種の虫もまた復活する。この時、人々は引龍回をする。中国では5000年前に龍に対する信仰が生まれ、当時のものに王龍や龍盤がある。商周の時期の龍の形はさらに多い。唐宋以後また龍王が出現した。学術界は龍についての性質に種々解釈がある。ただ、龍は雨水を主どることは認められている。
引龍回に二つの目的がある。一つは龍がかえってきて、雲を興し雨を降らすことを請うて、農業の豊收を祈求する。二つめは龍は百虫の精であるとして、龍が来れば百虫もまた体を起こし、人体の健康や農作物の生長にすべて有益である。同時に人々はまた農業の豊收のために、充分な陽光、肥沃な土地、同時にまた雨水がそそぐことが必要であるとみている。
中和節は少数民族地区にもまたたいへん影響がある。@(にんべんに同)族もまた二月二日を「龍抬頭」と称している。節日の間、家ごとに親友をさそって野外で会食し、豊年をのぞむ。この族では接龍を接牛と称して、犀牛を龍の象徴としている。この節の時、人々は村外に小牛を引いて、小牛をえさとして龍を村に引き入れる。そのあと牛を殺して龍を祭り牛肉を分けて、各家で酒をのんでまた食べながら「五龍帰位」とさけぶ。「五龍帰位歌」を唱いながら最後には牛の角を犀牛池の下に埋める。犀牛の帰宅は龍の帰位をあらわし、村は五穀豊穣となる。貴州苗族の招龍の儀式はまた龍を祭る活動でもある。



釋菜(せきさい)『清俗紀聞』P20
二月上の丁日(ひのとのひ)孔子をまつる>>庶民は関係無い


二月八日>『(新刻)事物異名』 二卷 明 余庭璧編 胡文煥校 延寶二年(1674)4月、前川茂右衞門刊本 小一冊  和刻本類書集成 第四輯 昭和五十二年三月
芳春節
「玉晨、大道君、登玉、霄琳房、天下に四盻(しけい)して、芳春節となす。」
「猪飼按」四盻は四方をにらむ意味か。玉晨、大道君、登玉、霄琳房は神さまの名前か。


花朝『清俗紀聞』P20>>百花の生日
花神廟二月十二日(二月十五日か?)>>詣でる
>>花神は手に花をもつ>>月ごとに違う
正月梅花・二月杏花・三月桃花・四月薔薇花・五月榴花・六月荷花・七月秋海棠 ・八月桂花・九月菊花・十月芙蓉・十一月山茶花・十二月臘梅

花朝節について>『中國歳時史の研究』,"中村喬","","19930820","朋友書店",p194
>「清代、江南地方において二月十二日を花朝節と称して、百花の生日とて花園や花神廟で花神を祭り、綵帛の小切を樹に結ぶ風習があった」
>二月十五日がただしい。三春の正中の日。晩唐にはじまる。
>魏晋のころは、山水の自然美を愛することはあっても、未だ花木を鑑賞することは盛んでない。>花木鑑賞すなわち看花の風潮が盛んとなるのは、南北朝末から唐代かけてである。>唐代にすでにあった>宋の開封ではこの日に「撲蝶会」が催された。>撲蝶会とは花に集まる蝶を扇で撲(う)ってとる戯で、看花にともなう遊戯である>「百花掛花」「賞紅」>花木の枝に綵帛を結びつける風習

花節>李露露『中国民間傳統節日』,19920400,江西美術出版社,p62
花節はまた花朝節と称している。具体的な時は定まっていない。一説には二月初二日、一説に二月十二日、一説には二月十五日である。
伝説によれば、この日は花の生日である。明人の田汝成『西湖游覧志余』の巻二十に「この日は宋代に撲蝶の戯があった。今は挙行されないが、寺院で涅槃会がひらかれて孔雀經が談ぜられて、香をつまむ者が塵のようにたくさん至るのはその遺俗である。」
この時各地の花神廟に参拝し、花神の生誕を慶賀するのである。それにともなって野外の花を見て花木を植え、蝶を捕らえたり、あるいは花を観賞する会を挙行する。
このほか、二月初三日は文昌(功名、禄位を主催する神)の生誕の日である。この日文人雅士は必ず文昌を敬神して科挙にうかることを求めるのである。
二月二日をすぎて後、広く農村では耕地が始まり、南方では桑の樹が植えられ、山では春の猟が進行する。

二月>『中國地方志民俗資料匯編・華東巻(上・中・下)』","丁世良 等",,"書目文献出版社(北京)",1995
『上海縣誌(三十二巻・清同治十年刻本)』,『中國地方志民俗資料匯編・華東巻(上)』P7
>訳>「二月十二日は“花朝”である。彩を剪り、紅を賞でて、花を張った神灯(俗に“凉傘灯”とよぶ。紙を剪って傘とする、人物、花鳥を鏤刻して、繭絲より細くする。灯を出すに十番の鑼鼓を用いる。また紙扎と花枝、花籃があり、細腰の鼓を撃つ。扮採の茶女、雜沓して歌う、後には台閣に装う、小兒が彩服で乘りて坐る)。
十九日は、“觀音大士生日”と相い傳えている。皆、沈香閣や同善堂に詣でて、香を進める(六月九月の十九日も同じである)。この月、童子は風鳶を放ち、筝弦をあらそう、夜は則ち@(草かんむりに熱)火や飛爆をあげる。」

情人節(セントバレンタインディー)の定着>友人談
二月十四日(西暦)>上海では五・六年前から盛んに成りだした。学生の間に流行している。
「猪飼按」十八年前(1984)の中国では、誰もこの言葉を知らなかった。香港では一部流行りだしていた。


二月十五日>『(新刻)事物異名』 二卷 明 余庭璧編 胡文煥校 延寶二年(1674)4月、前川茂右衞門刊本 小一冊  和刻本類書集成 第四輯 昭和五十二年三月
眞元節
「太上老君の生日」

二月十六日>『(新刻)事物異名』 二卷 明 余庭璧編 胡文煥校 延寶二年(1674)4月、前川茂右衞門刊本 小一冊  和刻本類書集成 第四輯 昭和五十二年三月
長春節
「宋の太祖の生日」

二月二十二日>『(新刻)事物異名』 二卷 明 余庭璧編 胡文煥校 延寶二年(1674)4月、前川茂右衞門刊本 小一冊  和刻本類書集成 第四輯 昭和五十二年三月
嘉會節
「唐の昭宗、生ず」

二月二十八日>『(新刻)事物異名』 二卷 明 余庭璧編 胡文煥校 延寶二年(1674)4月、前川茂右衞門刊本 小一冊  和刻本類書集成 第四輯 昭和五十二年三月
天保節
「五代の晉の高祖、生ず」

観音誕日『清俗紀聞』P21
二月十九日>誕生日>>六月十九日を成道の日


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