年中行事(歳時記)(5)三月
年中行事(5)三月
三月の行事
「猪飼按」上巳の行事が重要である。この風習が、日本に伝わり今なお残存するのにくらべ、中国ではだんだんと廃れて晴明節の行事に吸収されていったことは興味深い。寒食の行事は介子推伝説によって中国全土に拡がっていった。火を改める改火の儀礼は、寒食との関係によって理解すべきものである。晴明節の上墓は、今日では中国全土に見られる風習になったがその起源はそう古くない。古代の儀礼では、墓では祭らないことが原則であった。
三月の歳事画像資料
三月の呼び方>『(新刻)事物異名』 二卷 明 余庭璧編 胡文煥校 延寶二年(1674)4月、前川茂右衞門刊本 小一冊 和刻本類書集成 第四輯 昭和五十二年三月
嘉月
@(ヘイ)月
「音丙」
沽洗月
「沽故也。洗者鮮也。萬物皆、去故就新、莫不鮮明也。」
花月
上巳(じょうし)『清俗紀聞』P22
上巳の日、菜薺花(なずな)>門戸竃床上に置く>蟻が防げる>蛾や蟻をさける >>春の七草>>ナズナを用いる>>南方の風物
>>『詩經』鄭風>三月上巳に蘭をとって不祥をはらう
>>水の精霊に対する祭り>>唐代の曲水の宴
>>魏以後三月三日に固定した>『宋書・禮志』
>>壮族は三月三日に「歌@(吁つちへん)」歌垣を開く
>>雛人形もみそぎばらい
上巳の風習と行事>『中國歳時史の研究』,"中村喬","","19930820","朋友書店",p211
「三月上巳は、今日においても桃の節句として我々にも親しみ深い。中国の六朝時代、この日に行われた曲水の宴はつとに我国にもつたわって、顕宗天皇元年(485)の上巳、後苑においてこの宴が催された『日本書紀』」>よもぎ餅は六朝梁の時代、鼠麹(ははこぐさ)の汁をまぜた作った龍舌@(米半)という餅に由来>桃花酒>中国では桃の関係は深くない。
漢の祓禊(フツケイ)と由来>『中國歳時史の研究』,"中村喬","","19930820","朋友書店",p213-216
「この月(三月)上巳、官民みな東流の水上に禊す。洗濯祓禊(ふつけい)と曰い、宿垢@(やまいだれ火)を去り、大@(潔さんずいなし)をなす」『後漢書礼儀志上』」>後漢時代、三月上巳には水辺における祓除行事が行われていた。>鄭地方では、春秋時代から上巳の節が行われていた。>上巳の行事は、漢以来水濱で行われる。>これを祓禊と呼びならわすように、その行事の原形は川禊(かわみそぎ)にあったとみられる。
六朝の曲水宴>『中國歳時史の研究』,"中村喬","","19930820","朋友書店",p216
>「曲水宴とは周知の如く、環曲した人工の流水に酒杯を浮かべて行なう宴で、主に宮中の主催で行われる。」>晋代が上限>『蘭亭集序』曲水の宴>南朝の風俗>北朝では馬射>唐の大射の禮へ>北朝では少ない>酒を地にぐ>棗あるいは素卵を浮かべる。
唐の曲江宴>『中國歳時史の研究』,"中村喬","","19930820","朋友書店",p221
玄宗以後のこと>開元年間に曲江池の改修された>そこで宴を賜う>中和・上巳・重陽に宴>初唐から盛唐の間に宮廷で盛んに行われた三月の上巳の行事は大射の礼である。
宋の行楽と道観行事>『中國歳時史の研究』,"中村喬","","19930820","朋友書店",p226
上巳の日に関して祓禊の語は用いられなくなる。>出遊も盛んでなくなる。清明に出游が盛んになる。>三月三日北極佑聖眞君の誕日(杭州のみ)>宋以後の祓除(フツジョ)==薺菜(なずな)花>『清俗紀聞』をみよ
上巳と三月三日>『中國歳時史の研究』,"中村喬","","19930820","朋友書店",p231
>三月三日と上巳は同義語であるが、本来は別>それが三日に固定されたのは、・・魏の時代である。>崔寔(さいしょく)『四民月令』「三月三日、瓜を種るによし」>農事上の一つの節とされていた
農桑と三月三日>『中國歳時史の研究』,"中村喬","","19930820","朋友書店",p2234
>「田鶏報」清の顧禄の『清嘉録』>「三日、農民蛙声を午の前後に聴き、以って豊年を卜う。これを田鶏報という」>三月三日の風俗の一つとして蛙声による作物の占いが南宋時代からあった>江南広東広西
>蚕と三月三日>北魏の賈思@(かしきょう)の『齊民要術』に引く『雜五行書』に
「蚕の善悪を知らんと欲せば、常に三月三日を以ってす。天陰(くも)りて日無きが如く、雨を見ざれば、蚕は大善。」>三月三日の天気によって歳の蚕桑を占う俗説があった
寒食(かんしょく)の起源とその伝播>『中國歳時史の研究』,"中村喬","","19930820","朋友書店",p248
唐の時代詩人「寒食詩」一定時期火を用いない、その間は温食を断つ・・清明の前三日
>寒食の起源の伝説>漢代に介子推伝説>正しくない
>寒食の起源は山西>戦国末の分野説による>山西は参星(オリオン座の三つ星)を守護神とする参星信仰があった>夏の星座の火星(さそり座のアンタレス)と相容れない>漢暦の三月(今の四月)に現われる
改火と寒食>『中國歳時史の研究』,"中村喬","","19930820","朋友書店",p254
改火の俗>『周禮』司@(潅ひへん)「四時、國火を變う」>四時ではない>実際には年に一回であった>『論語陽貨篇』当時は年一度だった。>冬至に改火であろう
火は日常生活の中心として常に絶やすことなく守りつづけられる。>火もまた穢毒されて古びていくものと考えられた。ゆえに火の更新が必要であった。>火の更新は火の穢毒をたち新たな活力をこれに与える。>改火が日常生活の更新のための儀式
寒食の伝播と盛行>『中國歳時史の研究』,"中村喬","","19930820","朋友書店",p261
山西以外に伝わる>南朝梁の『荊楚歳時記』>「冬節をさること一百五日、すなわち疾風甚雨あり、これを寒食という。火を禁ずること三日、湯(食へん)(杏仁をもちいる)と大麦の粥を造る」>晉地方では寒食の禁火を犯せば雨雹が起こって田地を傷うという迷信があった。>改火説と介子推伝説との結合>寒食は唐にいたって重要な国家的節日となる>明代では、万暦ころ謝肇@(さんずい制)『五雜俎』に「今の俗、禁火を知らず」という
介子推信仰>『中國歳時史の研究』,"中村喬","","19930820","朋友書店",p267
介子推信仰は山西の介山県の介山を中心として起こったもので、介山信仰がその原形と思われる。
>>訳
三月
「“清明節”は墓そうじである、紙錢をかけ墓の標とする。“清明日”には、邑の@(がんだれに萬)壇を祭る。縣牒城隍神の壇に詣で、各の義冢の幽孤を賑濟する、名を“祭壇會”という。輿は駢集にしたがって、四五里にわたる(またの名を“三巡會”という、七月の望、十月の朔に、みなこれが挙行される)。
十五日には、龍華寺に進香する、市に集ることがにぎやかである、晩になって風雨が多い、名を“龍華暴”という。
二十三日は、“天后誕”である。東門の外搭に灯棚をつくる、遍く灯彩を懸ける。二十八日になって、城中に移し進める(俗に“城隍夫人誕”と稱している)。日夜や游觀する。前后に旬(十日)をえてことごとく罷める。この月には、桃花が盛に開き、觀には西城の大境に躡(のぼ)って眺望することが多い(西門内には、旧は酒樓が二つあった。名は東□□□、時人は聚ってここで飲む)。南門郭の外から塔橋の桃花を望むことも、また盛でる。人は“小西湖”と稱している。」
『上海縣誌(三十二巻・清同治十年刻本)』,『中國地方志民俗資料匯編・華東巻(上)』P7
三月
“清明”には、踏青と、風筝を放つ(《金陵歳時記》には、今の人の巧制は一ではない。龍、@(魚連)、蝶、蟹、蜈蚣、金魚、蜻蜒、蝉、鷹、燕、七星、八角、花籃、美人、明月、灯篭、鍾、板門、胡子老、雙人の諸名がある。@(アオ)は空際を翔ぶ。宛轉として生がごときである。また響弦をその上に加える。視ることと聴くことの娯しみを極めるに足るものである)。
掃墓をする(《白下瑣言》には、“清明”は墓そうじである。必ず紫紙の長い條にしたものを樹の液(腋?またのいみか)に挂けて、冢の上にさす。これを“挑錢”という。また古人の挂錢の遺された意味である。《金陵歳時記》には、わたしの郷の掃墓は、多くは“清明”にある。ただ新に葬ったものは、必ず“社日”にする、これを“@(走旱)社”という)、泰@(ガンダレニ萬)墳を祭る。三月賽會。
三日、婦女は蕭菜花を鬢に挿す(《金陵雜志》には、三月初三日を“蕭菜花生日”する。婦女は均しく蕭花を摘んで鬢邊に挿し、紀念とする。諺にいう、“三月三、蕭菜花は牡丹と賽(あらそ)う。女人が挿なければ錢を用いることがない、女人が一たび挿せば米が倉に滿つ”)。
『首都志(十六卷・民國二十四年南京正中書局鉛印本)』『中國地方志民俗資料匯編・華東編(上)』P360
寒食清明の風習と行事>『中國歳時史の研究』,"中村喬","","19930820","朋友書店",p272
清明節>年に一度の墓参であり、人々は墓を掃除し紙銭を掛けて拝墓した。またこの日は春遊行楽の日として知られている。>今日、清明節は冬至から一百五日されている。しかし唐宋時代はそうではなく一百七日目が清明節とされていた>清明は漢代に出た二十四節気説に出たもの>一百五日は寒食の日、一百五日を挟む三日間の寒食が明けた一百七日を清明と称している。>唐時代では寒食の名、宋代では清明の名が好まれた。>金代では一百五日清明が広く定着している
清明と改火儀礼>『中國歳時史の研究』,"中村喬","","19930820","朋友書店",p278
二十四節気の清明は、農事の目安とされたが、年中行事としての性格は持っていなかった>冬至後一百五日であるべき清明の名が、南北朝末では寒食明けの一百七日に移されていた。それは寒食明けの開放感が清明の名にふさわしかった>隋初、王@(邵おおざとが力)の建義によって古の改火儀礼を復活させた>唐の宮中では清明の日に新火を鑽火の儀が行われた。>その新火は近臣戚里にも賜与された>明代では禁火が廃止されている
上墓と陵祭>『中國歳時史の研究』,"中村喬","","19930820","朋友書店",p280
後世、清明の日に行われる上墓も、もとは寒食の日の風習で唐代に起った>唐玄宗『許士庶寒食上墓詔』(開元二十年)>五礼に編入>上墓が習俗となっている>他郷に出ている官吏には五年に一度の上墓のための帰郷が許されるようになった。>陵祭>玄宗開元二十三年>清明にも行なう>五代には望祭(遠くより遥拝する)を行う>上墓は一百五日目>清明とも寒食ともいわれる
「掛紙銭」>『中國歳時史の研究』,"中村喬","","19930820","朋友書店",p288
明の江西省『正徳建昌府志』>「竹をもって紙銭を懸け、しこうしてこれを挿す。これを標墳という」紙銭は焼くことで冥界にとどくが、焼かないのは禁火のためである。
>婦女不参>上墓しない>清代乾隆のころ、江南独特の風習
「孤霊を官祭する」>孤霊・・たたりをなすのでなだめる>元末、明、清
春遊行楽>『中國歳時史の研究』,"中村喬","","19930820","朋友書店",p291
南朝梁の『荊楚歳時記』>打毬・鞦韆・施鈎の戲あり
打毬@サッカーAホッケーBけまり(蹴鞠)Cポロ
鞦韆>ぶらんこ
施鈎>船のひっぱりこ・・唐まで
けまりは宋まで
宋代はホッケー風
北方では上墓を主としていた。南方では上墓に借りて春遊を楽しんだ
清明に柳を挿す>『中國歳時史の研究』,"中村喬","","19930820","朋友書店",p291
>本は寒食の風習>柳は、諸樹に先立って緑の芽を吹く柳は生命力の強いもの、僻邪の呪物。>門戸に挿す・・髪に挿すへ(明以後)
清明『清俗紀聞』P23>柳を門戸に挿す>>虫が出ない>>北方の風物
掃墓>掃祭ともいう>同姓の墓に参る>
>三牲ならびに菓子果物をそなえ>香を焚き燭をともし酒を注ぎ奠する。
冥衣・大金を焼く>近くの野原で宴会
祀堂5-21>あるものはここで宴会
城隍廟12-5>轎子にのせて歩く
城隍神12-8>木像
行牌12-6>>二尺五寸ほどのもの>二対
祀孤>>子孫の弔う人が無い無縁の亡霊を祭る
陽官>>現実の知府知縣
陰官>>亡霊の知事>>府なれば知府、縣なれば知縣の格式
>>亡霊を祭るのは豊作を祈る予祝儀礼である。
趙玄壇誕日『清俗紀聞』P27
三月十五日>>五路財神のこと>>正月に祭ったのと同じ
天后誕日『清俗紀聞』P27 12-10,12-11>>3月23日
馬祖>>天后聖母という>>航海の神様>>海難の時祈れば必ず助かる
>>馬祖火・・セントエルモの火>>馬祖棍・・大魚水怪がくれば船端を叩く
福建の蒲邑の林氏の女・・海の上を飛んで人を救った
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