年中行事(歳時記)(7)五月
「猪飼按」五月は端午節の月として有名である。日本ではこどもの日となっているが、中国では女児節として女の子の日となっている。女児節の起源はそう古いものではない。明清にしか遡れない。端午節では、屈原の説話と粽が有名である。しかしその起源は屈原以前に遡るもので、龍の信仰に基づくものであるといわれている。曹娥や鍾馗も信仰の対象になっていて、伝説も付随している。また張天師も信仰の対象となり、その信仰は艾の人形に起源する。五毒を避ける風習も珍しい。近年では母親節の定着が興味ある。新しい行事がどのように定着してゆくかを考えるとき、このような現象は非常に注目すべきものである。
五月の歳時画像資料
年中行事(7)五月
五月の行事
五月の名称>『(新刻)事物異名』 二卷 明 余庭璧編 胡文煥校 延寶二年(1674)4月、前川茂右衞門刊本 小一冊 和刻本類書集成 第四輯 昭和五十二年三月
皐月
蒲月
暑月「事林」
@(艸/豕生)賓月「@者、下也。賓者、敬也。言、陽気上極、陰気始賓敬之也。」
五月>『古今類書簒要』十二卷 明 @(たまへん據)崑玉編 葉文懋校 寛文九年(1669)山形屋印本 和刻本類書集成 第五輯 昭和五十一年十二月
@(艸/豕生)賓「五月之律也。」
敦@(爿羊)「即午也。太歳、在午、曰敦@(爿羊)」
五月五日
端午節>李露露『中国民間傳統節日』,19920400,江西美術出版社,p96
端午節は端陽、重午、端五、重五、端節、蒲節、天中節、詩人節、女児節ともいう。
端午節の起源について、多くの説がある。過去に比較的流布していた説は、楚の国の屈原が五月五日に汨羅(べきら)江に身を投げて自殺をし、人々が彼を記念するために五月五日が端午節となった。ただ近代の学者は端午節の多くの行事は屈原以前に存在したことを証明していて、その起源はより早いと言っている。またある人は龍のトーテムの祭祀の節日であるとし、あるいは夏至に起源するとか、あるいは悪日に起源するとかと考えている。さらにまたあるものは伍子胥が錢塘江に身を投げたものを記念するものであると考えているし、当地にはまた曹娥が父を救った説もある。またある人は五月五日の端午節は介子推と関係があると主張している。伝説の五花八門に類似している。私たちは端午節の起源はたぶん水神あるいは龍神を祭祀するために、挙行された祀神の儀式であると考えている。後になって各地でそれぞれ自分たちの歴史文化によって、端午節の起源の自分たちの解釈を作ったのである。屈原を記念する説が比較的流行した。
端午節の祀神>李露露『中国民間傳統節日』,19920400,江西美術出版社,p97
端午節は諸神を祭祀する節日である。その中には屈原、曹娥、蚕神、農神、張天師と鍾馗などである。
曹娥>曹娥は浙江地区で五月五日に祭祀される神霊の一つである。『後漢書』の「列女傳」に「曹娥は、會稽上虞の人である。父は@(目于く)、弦と歌に巧みで、巫祝であった。漢の漢安二年(一四三)五月五日に県江の溯涛(そとう)婆婆とするなかで神を迎え、溺死するも亡骸が見つからなかった。娥は年が14歳、江に沿って号泣し、昼夜その泣き声が絶えなかった。十七日、ついに江に身を投げて死ぬ。元嘉元年になって、県長の度尚が娥を江南の道ばたに改葬して碑を立てた。」今に至るまで、民間にこれについての歴史伝説が流布している。彼女は親孝行娘のモデルである。
張天師>張天師もまた端午節祭祀の神霊の一つである。>『燕京歳時記』の「天師符」に「端陽に至ると街では尺幅の黄色い紙を用い朱印で、あるいは天師、鍾馗の像を描き、あるいは五毒の呪符の形を描き、掛けて売る。都の人は争って買い求め、これを中門に貼り、悪の祟りを避ける。」
鍾馗>端午節の僻邪の神の一つが鍾馗である。この日に各家ではみな鍾馗の圖を求め門の上に掛けて鬼を駆いはらう。各家家の間で鍾馗の像を送りあうのを光栄としている。
神農>浙江の衢州(くしゅう)地区では五月五日は藥王神農の誕生日だとされている、この日の晴雨によってその年の出来ぐわいと薬品の質を占う。端午の採藥の由来は久しい。
龍舟をこぐ>>李露露『中国民間傳統節日』,19920400,江西美術出版社,p99
龍舟をこぐことは端午節の重要活動である。中国の223の県市中で、214の県市で端午節の龍船レースがある。いわゆる龍舟は龍と舟の結合であり、龍をしるしとする競走の船である。『荊楚歳時記』に「五月五日は・・この日に渡を競う。」あって、これは比較的早い記載である。龍舟の特徴の表現は龍頭と龍尾にある。このほかに又各種の装飾がある。舟の上に神樓、神位、旗幟、彩燈、太鼓、銅鑼などある。毎端午節ごとに、まず龍舟を修理をして、こぎ手を訓練する。節日になれば龍舟のレースを行う。レース前には必ず龍を請うて龍を祭りそののちにレースが行われる。龍舟をこぐ目的は、一つは農業の豊収を祈ることである。>二つ目には@(やまいだれ温)疫を駆除することである。>ある地方では龍舟送鬼で、邪を駆い@(やまいだれ温)疫を避ける。広東の民間で流行っている紙の符に「天生火官除百害、八卦水御滅凶災」と書かれている。すなわち龍舟をこぐときに用い、目的は災いをさって吉を求める。
粽子を食べる>李露露『中国民間傳統節日』,19920400,江西美術出版社,p101
粽子(ちまき)はまた「角黍」と言われている。『風土記』に「仲夏端午、鶩(ぼく)角黍を烹る」とある。「角黍」の作り方は、粽の葉っぱすなわち大きな竹の皮を湿らして、糯米をひろげ、にく、あずきあん、棗などを餡にし三角形四角形に包んで蒸して食べる。>どうして端午節に粽を食べなければならないか>伝説では歴史上の人物である屈原のために、彼に捧げる供物である。呉均の『斉階記』の「五花絲粽」に「屈原は五月五日に汨羅(べきら)の水に身を投げ、楚の人は彼を哀れみ、この日に竹筒に米を入れて、水に投げて祭った。」その実、粽を食べて屈原を悼み忍ぶことはややおそく、これより前、粽は夏の食品であったと同時に水神あるいは龍を祭るのに用いられていた。後になって屈原を記念するために付会されて今日に伝わっている。
鶏卵>李露露『中国民間傳統節日』,19920400,江西美術出版社,p101
卵もまた端午節の重要な食品である。朝早く子供が起き出さぬ前に大人は卵を子供たちの口のあたりにおいておく。鶏卵は健身の効果があると考えられている。また卵生神話にも関係がある。
雄黄酒>李露露『中国民間傳統節日』,19920400,江西美術出版社,p101
雄黄酒、酒の中に雄黄を加えるー雄黄はその中に三硫化二砒素を含む。『清嘉録』卷五に雄黄を研(す)った末(こな)と、菖蒲の根の屑(こ)とを、酒に和(ま)ぜて飲む。これを雄黄酒という。またその余りの酒を小児の額、および手足や胸に塗り、さらに牆壁の間にも灑(そそ)いで、毒虫を祓う。」民間では雄黄酒を額や耳たぶの上に塗って虫を防ぎ健康になることができると考えられていた。
「猪飼按」『清嘉録』の訳は中村喬による
避五毒>李露露『中国民間傳統節日』,19920400,江西美術出版社,p101
民間の信仰では五月を毒月と考えている。五毒すなわち蛇・蜈蚣(むうで)・蝎(さそり)・蜥蝪(とかげ)・蝦蟇である。この月は災難が多く生まれた子供はみな夭折する。だから必ず各種の方法で予防しなければならない。服薬と宗教的手段によって五毒の害を避けるのである。五毒に対処するために端午節には必ず扇をもらい、子供には五毒の腹掛けと香袋をおびさす。蝦蟇を捕まえて午の時に符に貼ったり、沐浴闌湯などする。
まず避邪の植物を佩びる。初めは菖蒲と艾虎を挿す。『燕京歳時記』「菖蒲・艾子」「端午の日には菖蒲と艾子を用いて門の榜に挿す。不祥をはらう。また古には艾虎蒲剣の意味が残されている」後には、柘榴、蒜頭、龍船花、が増えて、合わせて「天中五端」と称して五毒に勝つことができるとされた。『清嘉録』卷五に「菖蒲の葉を截って剣となし、蓬を割いて鞭となし、桃梗と蒜頭(にんにく)を副えて、牀や戸口に掛ける。これらは皆な、鬼をしりぞけるものである。」
その次に端午節には五虎の花を買って護身の霊物をおびるのである。『清嘉録』卷五には「街の人々は、金糸銀糸で繁(おび)纓(ひも)鐘(かね)鈴(すず)などの諸形や、人が虎に騎った形を、きわめて精巧細密につくり、これらを小さな釵に貫き連ねる。あるいは銅線や金箔でつくったものもある。婦女が鬢に挿し、まや贈答に用いるもので、名づけて「健人」という。これらの飾りものはまた香包と称している。ある地域では雄黄酒で子供の額に王の字を画いて避邪の意味に取っている。このほかに永安符や、ひょうたんを逆さまにしたもの、ひょうたんの符を貼ったりする。鍾馗の会を催す。
「猪飼按」『清嘉録』は中村喬の訳
午時水>「台南年中行事記」中、『台湾民俗』
この日の正午より水を汲取り、瓶に詰めて置くと永久に腐らず、後日解熱剤として効があると云ふ。これを午時水と云ふ
>端午節における飾物の系譜>『中國歳時史の研究』,"中村喬","","19930820","朋友書店",p315
龍舟競渡>水神の祭りの神迎えを起源とする長江流域以南の風習である。
祓禳辟邪>全国的にこの日を見れば、祓禳辟邪の日である。>端午の祓(フツ)禳辟邪には家宅と身体のものがある。>家宅には門戸と室内に分けられる
身体では簪と佩帯とがある>たとえば北京>菖蒲と艾葉を門傍に挿し、虎や蠍・蝦蟇の図を門@(木眉び)に貼り、張天師(道陵)などの図を楹間(かべ)に掛け、婦女はひょうたんなどにつくった飾りを釵につけて髪にさし、小児はこれを背にかけた。
>蘇州ではこのほかに鍾馗図を堂中に掛け、長壽線と称する五色の糸を小児の臂に繋桁利した。
艾人>『中國歳時史の研究』,"中村喬","","19930820","朋友書店",p316
>『荊楚歳時記』五月五日「艾を採りて以て人につくり、門戸に懸けて以て毒気を祓う」
>南朝陵の時代に門戸飾りとしてみられる「艾人」は、身体の毒氣を去るという薬用(灸用)としての艾の効力を呪物化し、さらに神格化して人(神)の形としたもので、身体を害する毒氣の侵入を禦ぐものであった。
天師像>宋代になると艾人は、人の形をとるがゆえに道教の張天師(道陵)に擬せられて、天師と呼ばれるようになった>>天師符>>門戸や室内飾り
五綵糸>>身体飾り>>續命縷と呼ばれていた>>人命をます>辟兵>温疫を避ける
五綵@(糸曽)
艾虎>>天師と結び付いて、天師騎虎となった
五毒形>>唐末五代のころからの呪物辟蟲の一環>>明代五種
女兒節>『中國歳時史の研究』,"中村喬","","19930820","朋友書店",p337
>明清時代、北京地方ではこの日小女をことに飾りたて、嫁した女も帰寧(さとがえり)する風習があったので、「端午」を「女児節」と呼んだ。
>五月
「朔日には、門符をはる、親戚は角黍(ちまき)、枇杷で相いに饗宴する。店舗の往來、この節にいたって始めて結帳し催促して收める、“收帳”という(“中秋”“除夕”もならび同じ。郷店(いなかのみせ)は、すなわち秋收のあとで借金をかえす)。
五日の午時、艾人を縛って、藥物を採り、角黍(ちまき)を食べ、菖蒲を浮べ、雄黄を酒む。小兒は雄黄を額に抹つける、百索を臂にかける。婦人は彩をつくって人形にして髻にさす、“健人”という。
浦中では龍舟で競走する、丹風樓で觀る(龍船が曽て、その一が沈み、竟渡がたけなわなとき、觀る者に、毎度、現形をあらわす)。
“夏至日”には、祖先を祀る。
十三日は、“關帝生日”と相い傳えている。祭をする、家では賽社(とりいれのまつり)が多い。雨があれば、“磨刀雨”という。(竹で弓矢する。紙で@(韋蜀)(ゆみぶくろ)をつくる、これを神座に懸ける。小兒のために将軍の箭を解くという。)」
『上海縣誌(三十二巻・清同治十年刻本)』,『中國地方志民俗資料匯編・華東巻(上)』P8
>五月
“端午”には、角黎(ちまき)を造る。五毒菜を炒める。雄黄の豆(《金陵歳時記》には、“端午”には、人家では銀魚、蝦米、@(艸交)菜、韭菜、黒干を取って雜炒する、名を“炒五毒”という。この日に、必ず@(艸見)菜を啖う、腹痛を免れることができるという。また蚕豆と雄黄とこれを炒める。雄黄豆という)。
>>五毒>>蛇・蟾蜍(ひきがえる)・蜈蚣(むうで)・蝎・蜥蝪(とかげ)の毒
雄黄で目を洗う、これを“破火眼”という(《金陵歳時記》に、雄黄を水に浸し、これを日中に曝す、闔家、目を洗う、“破火眼”という、目疾を免れることをねがう)。
蚊烟香を焼く、門に菖蒲と艾と、五毒の牌を懸ける、廳堂の上に鍾馗の圖を懸ける。小兒に老虎被を着せる、五色の縷かける、額に王字を畫く(《金陵歳時記》には、五色の絹布で、飾って天から歸ってくる騎虎形にする、小兒の背後にかける、“老虎被”という。五色綫を結んで文様として、圏いて臂釧(うでわ)とする、これを長命縷という)。
龍舟で秦淮を競渡する。次日は“拗節”である(《金陵歳時記》には、“端午”、“中秋”の次日、わが郷の女子で嫁にいった者は、おおむね拗節に歸寧(さとがえり)する)。
十三日には、“關帝會”を擧行する(《金陵雜志》には、五月十三日は、關王の磨刀の期であると相い傳えている、人家では相いに刀砧を動かさないように戒しめている。)。十五日は、天地が交泰する、房事を忌む。二十日は“分龍節”である(《金陵歳時記》には、俗に五月二十日は“分龍節”である、二十五は“回龍節”である。。この數日は必ず大雨がある。だからわが郷では、諺に“二十四五、小龍が母を望む。”といい、また“分龍は下回せず。”という。按に、江陰や、烏程などの県では、また五月二十日を“大分龍”)とする。
“夏至”には李を食べる。軽重を權(はか)る(《金陵歳時記》には、“夏至日”より時を起して、十五日を、三の時に分け、五日を一の時とする。あるいは三日を頭時として、五日を二の時とし、七日を三の時とする、田家は雨を望ことが最も切実である。この日には、人家では必ず老幼身体の軽重を權量する)。
『首都志(十六卷・民國二十四年南京正中書局鉛印本)』『中國地方志民俗資料匯編・華東編(上)』P360
節季『清俗紀聞』P35(決算の日)
五月朔日より五日>>決算をする
八月十一日より十五日>>同様
十二月十五日ごろより晦日>>同様
送帳>>書き付けを遣わす
端午『清俗紀聞』P36
粽子1-20>>粽をこしらえる(角黍ともいう)>>もち米を灰汁にひたし、
>>芦葉でもって、三角に包む麻ひもで結ぶ、これを煮る。
雄黄>>天然の二硫化砒素(鶏冠石)
菖蒲根>>雄黄と細末し酒にいれ、午の時にのむ
大黄・大蒜>>菖蒲根を少しずつ糸で貫き身元に提げる
面に雄黄を塗る>>僻邪>>王の字を額にかく
口で堂の隅に吹く>>虫を防ぐ
健符1-21>>婦人は人形虎蜈蚣(むうで)蛇などをつくりかんざしにする
關帝>>堂上にかける>>鐘キ(九首)も>>菖蒲・艾葉を花瓶に
門戸にも>>挿す
邪氣払いの句>>を貼る
薬草>>薬草をとる蓄える
三節禮(8月・12月にも)親類の贈り物>>粽魚類猪肉塩蛋枇杷梅など
>>奇数を忌む>>偶数に限る
竜船(五月朔日から六日)1-22>>ペーロン>>船の形、龍に似せる
關刀>>舵のこと>>青竜刀に似ている
福建競渡船1-23>>屈原を弔うため
>>屈原>>ベキラの淵に身を投げた死を弔う説
>端陽
「京師では、端陽を五月節といい、五日を五月単五という。けだし、単は端の字の轉音である。毎年、端陽にいたる以前の貴権豪富の家々では皆粽子を相互に贈答し、ならびに桜桃(ゆすらうめ)、桑のみ、くろくわい、桃、杏および五毒餅・@(王文王鬼)(ハマナス)餅などのものを添える。仏にそなえ先祖をまつるのには、すなわち粽子および桜桃・桑のみをば正式の供物とする。これは時節の食べ物を薦めるという意味だ。『續齊諧記』(梁の呉均)をみるに屈原は五月五日、汨羅江に身を投じた。楚の人はこれを哀れみ、この日に至ると竹筒の米を入れ、水中に投げて彼をまつる。そのさい、あふちの葉で筒の上を塞ぎ、色糸でそれをまとうのは蛟龍のぬすまれぬためだ。とある。これが粽子の起源だ。」
『北京年中行事記』,清の敦崇,小野勝年訳,19871105(第3刷),岩波文庫,19410903原刊" ,P106
母親節(母の日)五月の第二週(西暦)
「猪飼按」母の日はまだ普及していない。北京の大学生で10%ぐらいの人しか知らない。しかし近年盛んに成りつつある。情人節と聖誕節が西洋文化の年中行事として定着して過程は興味深いものである。母親節も定着してゆく過程は興味深いものである。とくに中国の親孝行の観念と贈り物好きがどのように働くか。父の日はどのような形で定着するのか、研究のテーマになりそうである。
關帝歸天(12-15)五月十三日『清俗紀聞』P47>>關帝歸天の日
竹酔日>>竹を植えるとよく根つき栄える
>>5月13日と9月13日の二日に降る雨は、關羽が刀を砥ぐ水が降る
梅雨『清俗紀聞』P48
梅雨>>『@(土卑)雅』>>江蘇湖南浙江4・5月梅が黄熟して落ちる頃
>>黄梅雨という>>入黴(ばい)は芒種のあとの壬(みずのえ)>黴(かび) >>がはえる>>小暑を斷黴といい、梅雨明けとする
蒼朮(おけら)>>を焚く>>虫除け
芸香(うんこう)>>芸とは草の名前>>焚く>>本の紙魚除け
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