民俗学と観光開発>劉錫誠「民俗與旅游論談」『民俗研究』95-1,p11
1995、国家旅游局「95中国民俗風情游活動」を展開した。
旅游資源(観光資源)の欠乏している都市や地区に、当地や、或いは外から移植した民俗文化を利用して、ある人たちは旅游項目として作り出し、またある程度の成功を獲得した。この人たちの民俗旅游のための情景はだいたい三種類の同じでない状況に分けられる。
第一の情況;その土地が人を引きつける名勝の旅游資源が欠乏し、さらにその土地の民俗文化に頗る特徴があるとき。たとえば、山東省の@(さんずい維)坊市はほとんど観光資源のない都市あるいは地区であった。ただ彼らは1984年から当地の民芸品の風箏(たこ)を開発して、国際風箏節(国際たこ揚げ大会)を挙行して、一挙して大成功を得た。
第二の情況;各種の民俗博物館の設立
第三の情況;観光資源の乏しい都市に民俗村を建設する。この方面では、1991年10月1日、深@(土川)中国民俗村が建設開業したことが、一つの成功例であった。民俗学の角度から見ると、建設者と管理者たちは科学を尊重し、民俗文化の特性から出発して民俗文化を移植し、民俗文化を利用し、また民俗文化を発展させたのである。
民俗村の建設は、短時間の内に各地の同じでない民俗文化を閲覧できることにある。
都市でこの種の民俗村建設には、注意が必要である。
1,民族の風俗習慣、宗教信仰と民俗文化の特性を尊重すること。猟奇的目的や民俗文化の凡俗化を防止すること。
2,民族と地区の居住と建築のオリジナルによって移植すべきだけでなく、さらに総合的にこの民族と地区の生き生きとした民俗文化の生態があらわれるように充分なる注意が必要である。
3,一般性と典型性の関係の問題を上手に解決しなければならない。
沈受君「民俗旅游的現状與発展」『民俗研究』95-1,p12
アメリカ日本イギリスドイツ五カ国の中国への観光客の動機に対しての総合調査資料によると、第一位は人民の生活を理解すること(100%)、第二位は、歴史文化を理解すること(80%)、第三位は景色の遊覧(40%)と美味しいものを食べる(40%)であると明らかにしている。
80年代に入って海外の旅行者の興味と要求を満たすために、各地でまず豊富な民族特色と地方特色を有する民俗観光活動の項目が開発された。たとえば、江蘇省の無錫市の華西村では、江南の水郷の特色ある民俗観光を開発し、山東省の安邱県の石家庄村では、中国の北方の特色を持つ民俗観光を開発した。
その次に、豊富な特色をもつ民俗区と文化村が建設された。
第三に、江蘇南京秦淮の風致地区修復。
第四に、当地の民族特色を表す民俗博物館の設立。・・・山西省の丁村民俗博物館のようなものである。
第五に、豊富で多彩な民俗文化活動を展開する。除夜に蘇州寒山寺で鐘の音を聞くとか、雲南のシイサンパンナのタイ族の水掛け祭りの活動とか、新疆のトルファン賓館でウイグルの歌舞と楽器演奏である。
第六に、各地の工芸工場や研究所の工芸品のデザインや生産を参観するなどである。
これらの要求にこたえるために次のことが必要である
初めに、民俗旅游資源の開発と民俗旅游活動の開発の重要性の認識提唱され各部門の配置と共同作業が強められなければならない。
第二に、民俗旅游資源の調査研究を進め、経験をまとめなければならない。
第三に、調査研究の上で、計画、措置をして、重点的に独特の民俗旅游資源を開発する
第四に、民族特色と地方特色の伝統民間工芸品の組織と開発
第五に、同じでない国や地区の旅行者の興味と需要によって、いくつかの特別な民俗観光資源を組織し推進する。
宋兆麟「切勿把民俗庸俗化」『民俗研究』95-1,p13
民俗旅游開発の問題点
1,民俗を再現するのに、民俗のことを考えない。
人工的にある景色を作るときには一つの原則があり、もともとの民俗の基本的な習慣を尊重しなければならない。
2,他の方法を無理に適用する。いわゆる新しい主張で異なった意見をいうことである。門前や広場に立てているトーテムポールの存在について、本来は北アメリカの東北インディアンの信仰である。中国ではトーテムの有無について論爭がある。
3,切符の価値と引き替えのために、低俗な猟奇のために、民俗文化が凡俗化している。大きな観音や豪華なお城など。
羅漢田「専項旅游必須重視民俗文化」『民俗研究』95-1,p18
突然出現した民俗村について。ある種の民俗村や風情園では、デザインする人も作る人も民俗文化をかえってあまり理解していない民俗文化を重視もしていない。
「猪飼按」民俗文化の凡庸化については、世界中に見られる。これはテーマパークのもとで、示される民俗文化の変形と言うことになる。中国の旅游開発の人々は民俗が金になると思っているようである。ところが民俗学者はそのために民俗の混乱や凡庸化が起こると危惧しているわけである。このことは民俗だけには拘わらない。たとえば京都を例として考えると、このような多くの文化財が民俗をともなって、観光資源として利用されている。京都らしさとはなにかと言うことを考えると、おおむね和風と言うことになる。この和風というものは雑誌や本で取り上げられ、テレビで放映される和風に他ならない。そこでは伝統的なという衣をかりながら本当の意味で古いものでないものが主流を占めている。民俗学のあらたな課題は、古い民俗がどのようにして変化して再構成されるかを学問として考えることにありそうである。さらに観光民俗学という分野や、民俗観光経済学という分野も登場しそうであるし、また現代には求められていそうである。
民俗学史資料
民俗学者、容肇祖。
容肇祖、広東東莞人、1987年生、1922年北京大学哲学系に入学、1926年卒業して、厦門大学、中山大学、嶺南大学、輔仁大学、北京大学などで教鞭をとる。
現在中國社会科学院哲学研究所研究員。容肇祖は1923年成立の北大の風俗調査会の会員である。2回、北京妙峰山の廟会の調査に参加した。他は、1926年厦門大学の風俗調査会の発起者の一人である。彼はまた、1927年中山大学の民俗学会の発起者の一人である。併せてその会の主席で、《民俗周刊》を主編、《迷信と伝説》などの民俗学研究の専門書を出版した。1979年、容肇祖と顧頡剛らの七人の教授は、《建立民俗学及び有關研究機構の倡議書》を発表した。彼は中国民俗学会の等建者の一。1983年、この会の成立の時、彼は副理事長に選ばれた。
容肇祖の主要な学術著作に《中国文学史大綱》、《韓非子考証》、《明代思想史》などがある。《民俗》P35−1989-1
民俗学史資料
民俗学者、楊成志。
楊成志は1901年5月に生まれ、広東海平人である。我国の著名な人類学家、民族学家と民俗学家で、現在は中央民族学院の教授、中国民俗学会副理事長、中国民間文芸協会顧問である。
1923年から1926年まで、楊成志は広東の嶺南大学で学んだ。1927年から1949年まで中山大学で教える。1927年顧頡剛、容肇祖、鍾敬文などと廣州中山大学民俗学会を成立した。
1928年から1930年まで、中央研究員の委託で川@の交界に到って、居住の大小凉山の彝族に対して研究した。1932年フランスに行き、パリ大学大学人類学院で二年深く研究し、博士の学位を取る。1935年中山大学研究院秘書長文研所と人類学部主任に任ぜられる。中大民俗学会に回復して、この会の主席に任ぜられる。
また《民俗》を復刊し、二巻八期を出版した。非常に高い学術水準を持っていた。
1949年北京に来て、中央民族事務委員会で工作した。1952年に中央民族学院で任教した。1956年潘光旦、呉文藻と《中国民俗学十二年遠景規画》を起草した。
1979年顧頡剛らは《建立民俗学及び有關研究機構の倡議書》を発表した。1983年成立の中国民俗学会の最も積極的な倡導者と発起者である。
彼は、英法美印度及びアフリカ、ラテンアメリカなどを訪問し、我国の雲南の貴州、湖南、湖北、広東、海南島などの地区の彝苗瑤黎壮タイ等の民族及び蛋民を考察した。
発表に《現代民俗学の内容と分類》《民俗学会の経過及びその出版物目録一覧》《中国民俗学運動概况》《民俗学の起源、発展と動態》《民俗学の三大学派の異同解釈》らの民俗学重要文章あり。出版訳著に《人類学と現代生活》《民俗学問題格》などがある。《民俗》P35−1989-2
民俗学史資料
顧頡剛(1853−1980)
江蘇蘇州人、我国の著名な歴史学家、民俗学家である。
1920年、顧頡剛先生は北京大学卒業後から、厦門大学、中山大学、中史研究院、燕京大学、雲南大学等の処で職を任じた。生前は中国社会科学院研究員であり、かつて中国民間文芸研究会副主席を任じた。
顧頡剛先生は中国民俗学運動の開拓者と奠基の人である。彼は1921年、呉歌を採集した。1926年に《呉歌甲集》を出版した。1921年には孟姜女の故事の材料に注意を始めた。その後《歌謡周刊》等の雑誌の上に、この一伝説の故事に対しての討論研究を引き起こした。1928−1929年、彼の編集した《孟姜女故事研究集》1〜3冊を出版した。1925年妙峰山廟会考察を進め、1928年その編集した《妙峰山》の一書を出版した。同年また劉万章と合作の《蘇粤的婚喪》を出版した。他は《歌謡周刊》の編輯に参加し、北京大学風俗調査会の工作に参加した。
1926年、彼は廈門で廈門大学風俗調査会を発起し組織した。1927年廣州にて中山大学民俗学会を発起成立した。まず先後に《民間文芸》と《民俗周刊》を創刊した。37種の民俗学叢書を出版した。
1936年、彼は北京大学風謡学会を発起成立した。先後して南京の《中央日報》は《民風周刊》が創刊され、北京では北京《民聲報》が《民俗周刊》を創刊した。北京《晨報》は《謡俗周刊》を創刊した。1943年、顧頡剛は重慶で婁子匡等と中国民俗学会を発起成立し、《風物志集刊》を出版した。
我国の民俗学の采風、考察、組織、指導、討論研究の方面で、顧頡剛はすべて突出の貢献を作りだした。《古史辨》は顧先生の史学の巨著である。《民俗》P35−1989-3
顧頡剛(1893.5.8-1980.1225)
字は銘堅、筆名は誦坤、誠吾、無悔、張久などがある。江蘇蘇州人、我国の著名な歴史学家、民俗学家である。一九〇八年蘇州公立第一中学堂で「五經」を読む。一九一二年卒業後上海神州大学にはいり、次の年北京大學予科に受かり入学する。一九一五年北京大學本科哲学門に受かり入学する。一九二〇年、卒業後学校に残り助教に任じられる。一九二一−一九二六年前後して『国学季刊』『歌謡週刊』の編輯に任じられる。一九二二年上海商務印書館編輯に任じ、一九二六−一九二七年厦門大学国学研究院教授に任じられ、一九二七−一九二九年廣州中山大學語言歴史系主任、教授に任じられ、一九二九−一九三七年燕京大學歴史系主任、教授に任じられる。一九二九−一九四九年中央研究院歴史語言研究所通信研究員に任じられ、一九三五−一九三七年北平研究院史学会歴史組主任、一九三八−一九三九年雲南大學歴史系教授に任じられ、一九三九−一九四一年齊魯大學国学研究所主任に任じられ、一九四一−一九四二年邊彊語文編譯委員会副主任委員に任じられ、一九四一−一九四三年中央大学歴史系教授、出版部主任に任じられる。一九四一−一九四九年文史雑誌社総編輯に任じられ、一九四三−一九四六年復旦大學教授に任じられ、一九四三−一九四八年社会教育学院教授に任じられ、一九四八年蘭州大學歴史系主任、教授に任じられ、一九四九−一九五一年誠明文學院主任、教授に任じられる。1949−一九五〇年震旦大學教授に任じられ、一九五〇年上海学院中文系教授に任じられ、一九五四年中国科学院歴史研究所研究員に任じられる。生前中国社会科学院歴史研究所一級研究員に任じられる。前後して中国民間文芸研究会副主席、顧問に任じられ、2から4届全国政協委員、第4・5届全国人大代表に選ばれる。
彼は中国の民俗学事業に傑出した貢献をした。
(1)調査。採集と研究(略)
(2)編輯出版(略)
(3)組織の指導と宣伝(略)
>王文寶『中国民俗学史』p319-322
民俗学史資料
常惠
常惠(1894−1985)
字は維釣、筆名は常悲、爲君。北京人。常惠は我国著名な歌謡学家で民俗学開拓者の一人である。1924年北京大学卒業、かつて北京大学、孔徳学校、北京研究院、北京故宮博物院などの処に職を任じた。1918年劉半農が歌謡運動を発起し、歌謡を徴収した。《北京大学日刊》で《歌謡選》を編集した。常惠はそこで歌謡についての討論に参加した。彼は北京大学国文教授会に手紙を書いて、1920年北京大学歌謡研究会の成立と、1922年《歌謡周刊》の出版と1923年北京大学風俗調査会の成立をうながした。
彼は周作人と《歌謡周刊》の編輯出版の責任を負っていた。(実際の主なところは常惠が学習の合間の余暇の時間を利用してこの仕事を完成したのである)
彼はまた自ら歌謡を採集して文章を書き、《歌謡周刊》の編輯と出版のため、血のにじむような努力をした、宝貴な貢献をしたのである。晩年は常惠は倦きることなく、連綿と民間文学と民俗学の研究をしている。彼は中国民間文芸研究会の顧問、中国民俗学会の顧問、魯迅博物館の顧問に招聘されている。《民俗》P35−1989-4
民俗学史資料
李家瑞(1895-1975)、
原名は輯五、雲南省剣川県白族人、民俗學家である。27歳のとき、北京大学預科に入学、「五四」新思潮と『歌謡周刊』の影響をうけて2年後に北京大学中文系に入る。1925年劉半農が欧州留学から帰ってから後、さらに李家瑞を指導して、民俗学研究の道に導く。1928年北京大学卒業後、劉半農の紹介を得て中央研究院歴史語言研究所の練習補助員に任じられる。しばらくして正式の補助員に任じられる。「七七事変」後雲南に帰り、前後して中学校の教師、雲南省文物保管委員會顧問、雲南省博物館副館長兼研究員などの職に任じられる。著述に『中國傀儡戯考略』『打花鼓』『説太鼓書的起源』『説弾詞』『十杯酒』などの数十編の民俗学およびその他の論文のほか、編著に『宋元以来俗字譜』(1930年、劉半農と合作)『中國俗曲総目稿』(1931年、劉半農と合作)『北平俗曲略』(1933年)『北平風俗類徴』(1937年)『大理白族自治州歴史文物調査資料』(1955年、周泳先と合作)がある。
『北平風俗類徴』は北京の各種民俗を紹介する資料の書物である。編者は北京の民俗に関係のある書籍や新聞に載せてある材料を広範に採集し、広く集めて書物としている。その性質から分けて「歳時」「婚喪」「職業」「飲食」「衣飾」以上は上冊、「器用」「語言」「習尚」「宴集」「游楽」「市肆」「祠祀および禁忌」「雜綴」(以上は下冊)の13部門に分かれている。各部は年代の先後によって時代順に配列されている。引用書は477種にのぼる。王文寶『中国民俗学史』p282-285
民俗学史資料
瞿宣頴
瞿宣頴(くせんえい)(1892-?)、別名は益@(階かねへん)、字は総之、湖南省長沙の人である。上海復旦大学を卒業、文學学士の学位をとる。北京政府国務院秘書、国史編纂処処長、暫署印鋳局局長、河北省政府秘書長、國民政府内政部秘書などの職、天津南開大学、国立北平師範大学、燕京大学、輔仁大学教授を歴任する。後に古学院常務理事などに任じられる。
著作に『汪輝祖傳述』『方志考稿』『長沙瞿氏家乘十巻』『中國駢文概論』『北平史表長編』『北京歴史風土叢書』『中國社会史料叢鈔』(甲編)などがある。『叢鈔』の正文の前に、顧頡剛の「序」と瞿宣頴「題語」と「例言」がある。名前は『社会史料』であるが、実は『民俗史料』である。
1936年にかかれた「題語」にはその輯録材料の内容の性質について説明している。
輯録された民俗材料はすこぶる豊富である。
學術價値が高い。王文寶『中国民俗学史』p279-282
民俗学史資料
胡樸安、安徽省@(經さんずい)県の人、1878年に生まれ、1946年に卒する。南社の前輩の一人である。民国初年、かって前後して福建巡按使と交通総長となった許世英のところの幕僚となった。また葉楚倫のまねきによって蘇民政廳長になった。
ただその一生の主に精力を注いだのは、父の胡愛亭の家學の淵源をひきつぎ、彼の書物を嗜むことは,運命のようであり、著述は甚だ豊かである。晩年は脳溢血を患ったことにより,半身不随となる。幸い右手に不自由がなかったので、筆耕に攷攷とする。
その著述に、『太古政法考』『墨子解詁』『荀子學説』『離騒補釋』『周秦諸子學略』『歴代文章論略』『俗語曲』『中國訓詁學史』など20餘種である。また編輯した本に『國學彙編』『樸學斎叢書』など種々、『中華全國風俗志』はその中のひとつである。
彼の名前は@(韋に温さんずいなし)玉、字は樸安である。
上海人民出版社の胡道靜先生は、1985年に筆者に手紙を下さって彼を紹介している。そこでいっていることは
「先伯父の樸安先生は、古文字學訓詁學の専門家である。彼の著わした『中國文字學史』および『中國訓詁學史』は去年北京の中国書店から翻印された」
『中華全國風俗志』と『俗語典』は彼の「内容がはなはだ豊かで充実した民俗学の著作である」
『中華全國風俗志』は上下の両編にわかれて66万餘字である。
内容はきわめて豊富で上編は各省の民俗資料、各市県の名前で分別して選び記録している。下篇は、各省の民俗資料が、民俗の各類で分別され選録されている。
許世英が封面に署名し、内には于右任の題迹がある。正文の前に、許世英・張@(職ひへん)、徐珂、葉某、湯寳榮の序と胡樸安の自序がある。
上編の正文の前に蒙古駱駝がものを載せている図など9つの写真があり、下編の正文の前にチベットの喇嘛の仏事をする状況などの写真がある。書後に胡懐@(深ぎょくへん)の『跋』がある。王文寶『中国民俗学史』p274-279
民俗学史資料
林惠祥(1901−1958)
我国の著名な人類学家。民俗学家。又の名を聖麟、石仁、淡墨。林惠祥の原籍は、福建晋江県、旧泉州府に生まれる。
林惠祥は、1926年廈門大学文科社会学系を卒業し、1928年フィリピン大学研究院人類学系を卒業した。彼はかつて中央研究院研究員、廈門大学教授、廈門大学人類博物館館長などの職に任じられた。林惠祥は、多年人類学と民俗学の考察と研究に従事、とりわけ台湾の高山族調査、南洋民族研究と福建考古方面の成果は更に突出している。
廈門大学人類博物館は、他が1953年に創立した我国第一の人類博物館である。
林惠祥先生の仕事と著述には、大くは開拓の性質を持っている。生前に撰述した論文数十篇がある。専著に《台湾番族の原始文化》(1930)《羅羅標本図説》(1931)《世界人種志》(1931)《民俗学》(1932)《神話論》(1934)など。《民俗》P35-1989-5
民俗学史資料
劉半農(1981−1934)
原名は寿彭、後に改名して復、号は曲庵、字は半農。江蘇江陰の人である。
彼は中国新文化運動中の杰出の人物で、我国の民俗学、俗文学、歌謡学運動の発起者と組織者である。
劉半農は、1907年常州府に入って読書する。1912年上海《中華新報》の特約の編訳員に任じられた。1913から1916年まで上海中華書局の編輯員に任じられる。1917年北京大学預科教員に任じられた。当時また《新青年》雑誌の編集委員の一人である。1920年英国、法国で学び博士の学位を得た。1925年帰国。北京大学中国文学系教授と研究所国学門導師に任じられる。1926年中法大学国文系主任兼師範大学講師、1928年南京政府特約著述員となり、中央研究院歴史語言研究所特約研究員となる。1929年北京大学国文系教授、後に輔仁大学の教務長を兼任する。1930年北平大学女子学院院長をまた兼任する。
劉半農は1918年初、北京大学歌謡徴集処を発起并びに組織した。彼は1918年2月1日の《北京大学日刊》の上に、《北京大学徴集近世歌謡簡章》を発表した。并せて《北京大学日刊》に“歌謡選”148首を編集した。後にまた自ら故郷で《江陰船歌》を捜集した。
劉半農の著書に《中国文法通論》《四声実験録》《宋元以来俗字譜》(與李家瑞合作)《楊鞭集》《瓦釜集》《半農雜文》《半農雜文二集》などあり、点校に《何典》《西游神》などあり、編輯に《敦煌テツ瑣》(3本)《中国俗曲總目録》(與李家瑞合作)《中小字典》《賽金花本事》など。翻訳に《茶花女》の戯本《法国短篇小説集》《国外民歌訳》など。
劉復(1891.5.27-1934.7.4)
原名は寿彭、後に改名して復、字は半農、号は曲庵。江蘇江陰の人である。清の光緒十七年四月二十日に生まれる。(訳注、農暦に由るか)四歳、家で父に従って字を学ぶ。六歳で私塾に入る。一九〇四年江陰墨林小学に入り勉強する。一九〇七年常州府に入って読書する。辛亥革命勃発。故郷に帰る。(略)
一九一二年上海に到り《中華新報》の特約の編訳員に任じられた。一九一三から一九一六年まで上海中華書局の編輯員に任じられる。(略)
一九一七年北京大学預科教員に招聘された。《新青年》雑誌の編集委員の一人となる。(略)一九二〇年教育部から派遣されて出国する。英国ロンドン大学、フランスパリ大学で学び、実験言語学を専攻し、博士の学位を得た。一九二五年帰国後、北京大学中国文学系教授と研究所国学門導師に任じられる。一九二六年中法大学国文系主任、兼師範大学講師、六月『世界日報』副刊の主編となる。一九二七年国立の各学校の講義を辞職する。一九二八年国民党南京政府特約著述員となり、中央研究院歴史語言研究所特約研究員となる。一九二九年春、再び北京大学国文系教授、後に輔仁大学の教務長を兼任する。一九三〇年五月北平大学女子学院院長をまた兼任する。
一九三一年夏、北大文學院研究教授に専任され、兼職を辞める。一九三四年西北の方言調査に行き、七月一五日病没する
(略)>王文寶『中国民俗学史』p316-319

