占いー総論・易経ー

占い総論

【学習の目的】占いは、迷信の一つと考えられている。しかし、中国では占いはどこまでも、現実のものとして考えられてきた。そこでは、現実世界の投影が占いに現れ、そしてそこに未来を見いだすという思考が、この文化の伝統であった。天文學は、現実の天体観察と運命予測をはかる両用のシステムであったことからもわかる。占いから言えば、観相は個人の未来予測であると同時に、人物評価の側面を持つ。ある時には、時代の命運をこのような占いよって決せられたことも多い。その中で『易經』のもつ位置は、大変大きい。陰陽學説の基礎を作っただけでなく、今日ではその二進論理論から、コンピュータの理論の根底にまで拡大解釈がされている。中国の占いを学ぶことは、現代の日本の占いの流行を考える基礎となるものである。占いの相互の矛盾を知ることにより、なぜ人々が占いを信じるのかを考えてみたい。


占いの種類

卜と易

吉田光邦「占い予言と人間の歴史」『占いのすべて予言の知識』P43
『史記天官書』中官東官南官西官北官
官僚モデルの投影・・地上社会に対応


天文学とは実は占星術
『漢書芸文志』「天文とは天の二十八宿のあり方や、五惑星、日、星、月の運動を観測し計算して吉凶の兆候を記録し、聖王が政治の参考とするものである。易経にも天文を観て時の変事を知るとある。」暦は「聖人が運命を知る術」である。
吉田光邦「占い予言と人間の歴史」『占いのすべて予言の知識』P43

陰陽家は神秘主義
『漢書芸文志』「陰陽家者流は天文暦術の官から出た。この官はつつしんで天象に従い、日月星辰の運行を記録して人民に四季の変化を教えしめしてきた。これはその長所であった。けれども禁忌や小数、人事に中心を置く考えが支配的になって、現実をすてて鬼神にすべてをゆだねる宿命論者たちが陰陽家となった」吉田光邦「占い予言と人間の歴史」『占いのすべて予言の知識』P44


予言の専門家・・巫である。
『周禮春官』「太卜」「卜師」「龜人」「占夢」「ていしん」「大祝」「小祝」「喪祝」「司巫」「男巫」「女巫」
吉田光邦「占い予言と人間の歴史」『占いのすべて予言の知識』P43


未来予測
観念よる未来予測
公羊家・・三科九旨・・その中に存三統の説・・易姓革命をもって歴史的必然とする。王朝は必ず革命によって新王朝に代られる。そのとき暦服色禮學はすべてかえられる。ただそのときも、新王朝に先立つ二王朝の後裔は、そのまま固有の伝統を伝えつつ存続することが認められるのである。これが存三統の立場である。
革命のうちに進歩・・張三世・・衰乱、升平、太平・・進歩主義
禮記禮運篇にも・・大同・小康・・衰世
吉田光邦「占い予言と人間の歴史」『占いのすべて予言の知識』p49

北宋の邵康節『皇極経世書』12巻・・時間の無限循環
辰・12辰=1日。30日=1月。12月=1年。30年=1世。12世=1運。
30運=1会。12会=1元。1元=129600年。
一元になるとまた1辰にもどる
吉田光邦「占い予言と人間の歴史」『占いのすべて予言の知識』p49


易経
孔子が哲学にまでたかめた。
周禮によると連山帰藏周易と三種の易があった。
鄭玄の説ーー連山・・殷以前の易 帰藏・・殷王朝の易 周易は周の易
吉田光邦「占い予言と人間の歴史」『占いのすべて予言の知識』p44


『易』
占筮と人生哲学の二面
鈴木由次郎「易経と中国思想」p58

ライプニッツがブーヴエから送られた易図(伏羲六十四卦方位図)をみて二進法の検証をするp61


陰陽五行説
陰陽
易の歴史
夏の帰藏
殷の連山>>確かめられた1978年12月吉林>張政ロウ>甲骨文字
変化に注目>>中国の文化の性質>グラネの説
ライプニッツ>二進法>ウイナーのサイバネックス
ノイマン型コンピューター
伏羲六十四図における二進法>邵雍の作
カプラと易
ユングと易
王船山の易学

象數易と義理易

極まれば変化する
「陽至而陰、陰至而陽」『越語』

太極図
伏羲八卦次序

乾兌離震巽坎艮坤(けんだり、しんそん、かんごんこん)
老陽少陰少陽老陰
易繋辭傳上「易に太極あり、これ両儀を生ず。両儀は四象を生じ、四象は八卦を生ず」

乾(天)兌(沢)離(火)震(雷)巽(風)坎(水)艮(山)坤(地)
(てんたくからいふうすいさんち)>>シンボル

『易繋辭傳上』「天一地二、天三地四、天五地六、天七地八、天九地十。天の数五、地の数五。五位相得て各々合うことあり。天の数二十有五、地の数三十。およそ天地の数五十有五。これ変化を成し鬼神を行う所以なり。」
「太衍の数五十、その用四十有九。分かちて二となしもって両に象り、一を掛けてもって三に象り、これをかぞうるに四をもってし、もって四時に象り、奇をろく(手力)に帰してもって閏に象る。五歳にして再閏あり、ゆえに再ろくして後に掛く。乾の策二百一十有六、坤の策百四十有四、およそ三百有六十、期の日にあたる。二篇の策は万有千五百二十、万物の数にあたる。
このゆえに四営して易をなし、十有八変にして卦をなし、八卦にして小成す。引きてこれを伸べ、類に触れてこれを長くすれば、天下の能事畢る。」
1+3+5+7+9=25(陽の数)
2+4+6+8+10=30(陰の数)
25+30=55

50−1=49(太極に象る)
第一営
49を二分>左手天策>右手地策
第二営
右(地策)からI本>左の小指と薬指の間(人)へ>@(ロク手力)という
(天地人を象る)
第三営
天策を4本ずつ数える(四時に象る)>のこりは1・2・3・4策である>中指と無名指の間に挟む(閏に象る)
第四営
地策を4本ずつ数える>残りを中指と人差し指の間に挟む(五歳再閏に象る)

ろくの合計は必ず5か9である。(四営して一変)

つぎに49策から5か9を除いた数、44策か40策で四営をする(二変)
ろくの数の合計は4または8である。

さらに44策か40策から4または8を除いた数で四営をする(三変)
ろくの数の合計は4または8である。

三変帰ろくの策は必ず25・21・17・13のどれかになる。

これを49策から除けば、24・28・32・36になる。
すなわち4×6・4×7・4×8・4×9となる。
そして易の数は6を老陰・7を少陽・8を少陰・9を老陽という。
こうしてはじめて一爻が決定されるのである。

「四営をして一変となり、三変して一爻となり、一卦の六爻を得るまでには、三六、十有八変を経なければならない」岩波文庫『易経』p63
「このように得た卦は、遇卦または本卦というのであるが、易は窮まればすなわち変ずというように、老陰は少陽に、老陽は少陰に変ずる必然性を有するものであるから、この法則に従って遇卦のほかに、遇卦の老陰老陽を少陽少陰に変じた之卦(しか)というものがたてられる。」
ここで占筮者は吉凶の判断をする。


五行説
『道教事典』P165
「木火土金水という五物質の性質をもった五気。漢書芸文志によれば仁義礼智信の五徳(五常)が気となってあらわれたもの。世界の多様性の統一的解釈と変化の機序の説明のための原理として用いられた」

『尚書・洪範』『国語・魯語』上などに見られる五行と由来を同じくする。

>『尚書・洪範』>子思の五行説『周易研究論文集(2)』p325
>五行説の古いもの>『左傳』文7、六府の説「水火金木土穀」、穀が含まれる

相勝>>『孫子・虚実』『墨子・経』上などにみえる土木金火水という相勝的次序である。

時令は四時の政令>>五行に合わないが>>四方に合わす>>中央をおく
五方を介して時令と結び付く>長夏の設定

仁義礼智信という倫理的属性は『荀子・非十二子』に見える子思・孟子の五行と、時令に組み込まれた五行とを、体系化したのが鄒衍と考えられる。

鄒衍(BC305-240)の大系化と前後して、生成的次序を獲得した>『逸周書・小開武』『尚書・洪範』にみられる>水火木金土

>鄒衍>儒家より出る思孟の一派>特徴>『周易研究論文集(2)』p328
○歴史哲學ー五徳終始説、五行相勝(克)を原理『呂氏春秋・應同』篇
>齊の威宣王の時に出る『史記・封禅書』
○地理學説ー大九州説ー禹貢九州を一州とし、赤県神州とする
>>『塩鐵論・論鄒』『論衡・談天』篇
>「所謂中國者、天下八十分之一、名曰赤縣神州而分爲九川(州)」『塩鐵論・論鄒』p74
>「鄒衍之書、言天下有九州、禹貢之上、所謂九州也。禹貢九州所謂一州也。若禹貢以上者、九焉。禹貢九州、方今天下九州也。在東南隅、名曰赤縣神州、復更有八州、毎一州者四海環之、名曰裨海。」『論衡・談天』篇p108

『中国方術大辞典』p14
「戦国・楚帛書」の四遇、四時の木あり。帛書の上に「青木・赤木・黄木・白木・墨木の精」の語あり。>>五色と五木、五行とあう

五行の方位
方位>>自然な方向感覚に発生する>前後左右それに中心>猪飼案
参考>上下>天地>間に人間>>天地人>三才

地平方位>『中國天文學史文集』第五集、王立興「方位制度考」p1
>『説文』、「十は數の具なり。一を東西にして、│を南北とす、すなわち四方と中央が備わる」>十字は子午線と卯酉線の交叉の図形である。
四至、四隣、四方、四海、の四は東南西北の四方位。
ある地点の周囲は「前後左右」に分けられる。中国古代の習慣では南方を前とし、北方を後ろとし、東方を左とし、西方を右とする。

四季と四方>『中國天文學史文集』第五集、王立興「方位制度考」p2
>『尸子』では東南西北の四方と春夏秋冬の四季をそれぞれ対応させている。
>『管子』には「春(東方)は左に生じ、秋(西方)は右に殺し、夏(南方)は前に長じ、冬(北方)は後ろに藏す」
>また春は生發を主どり、文事であり、秋は粛殺を主どり武事である。そこで、「文事は左にあり、武事は右にあり」と言っている。
後世すなわち「左文、右武」とある。>>故宮
『禮記』「左青竜、右白虎、前朱雀、後玄武」

人体と方位>『中國天文學史文集』第五集、王立興「方位制度考」p3
>壁に懸けられる人物像もまた、上下左右に分けられる
古代の人は南方を上としていて、北方を下としていた。圖を見る人の左を東とし、右側を西とした。壁にかける古代の地図もまたその様である。占い師達の人面の方位もこのように定められている。
>>     南
      東十西
       北
>この圖を180度まわすと今日の地図の図法となる。
>>ノーモンによる方位測定>>最初に話した。

陰陽家>>『中國天文學史文集』第五集、王立興「方位制度考」p6
>『漢書・藝文志』「陰陽家者流、蓋出於羲和之官」>>陰陽家と天文家は元は同じ。

二十四山>『中國天文學史文集』第五集、王立興「方位制度考」p7
古代の人は、方位を示すときに山の字で表示した。
>もっとも普通に見る方位の系統は「二十四山」である。すなわち八干(十干から戊己をのぞいたもの)四維(八掛の中で艮巽坤乾の四隅)と十二辰(十二支)の組み合わせである。「維辰」という。
>二十四を等分にした円弧>>孔挺が作った渾儀中に、その地平の圏環に「署以維辰」とあり、地平の二十四方位を表示している。>>孔挺の儀器は「古渾儀」によるとあり、古渾儀とは張衡の渾儀を指すから、すなわち二十四山は後漢にはすでに用いられていた。もし落下@(コウ)の渾儀を指すのであれば、すなわち二十四山は前漢時代にすでに用いられていた。
>八卦の方位から言えば「一卦管三山」という。
>>間違い>>猪飼説

二十四至>『中國天文學史文集』第五集、王立興「方位制度考」p8
沈括は二十四山を称して、「二十四至」としている。地理先生(あるいは堪輿家、地師などと称す)と舵師(羅針盤を用いる責任者、夥長と称す)はまた山を針とよんでいる。羅盤の磁石の針が方向を指すことから来た述語である。

240格>『中國天文學史文集』第五集、王立興「方位制度考」p8
円周を二十四等分するのでは、粗略である。やや詳しい宋代の羅經の分格は、相隣り合う山の正中点の間を、さらに細かく10の小格に分ける。全円周を240の小格に分ける。もし海面に船のマストが出現が、「子正」の西2の小格、「壬正」の東8の小格のところであれば「子8壬2」方位とよぶ。
現存の明代傍製の郭守敬の渾儀にもある。

六十分龍>『中國天文學史文集』第五集、王立興「方位制度考」p12
全周を240格法と、神秘化した「60花甲子」干支の周との關係は少ない
そこで唐代の術士たちは「六十分龍」の方位制を創立した。全周をただ十二辰で分けたもので、八干と四維を除いた。さらに毎一辰をさらに五の小格に分け、およそ陽の支「子寅辰午申戌」の5の小格には、順次「甲丙戊庚壬」の五の陽の干を小格の上に加える。おなじく陰の支「丑卯巳未酉亥」には、「乙丁己辛癸」の5の陰の干を小格のうえに加える。
たとえば「子山」は「甲子丙子戊子庚子壬子」の五個の方位に別れる。「丑山」は「乙丑・丁丑・己丑・辛丑・癸丑」の5つの方位に分けられる。正しい名前は「胎骨六十龍」あるいは「透地六十龍」である。毎龍の角度は6度である。
穿山七十二龍>ただ「二十四山」は「六十龍」と整合性がない。そこで別の一派の術士たちは「穿山七十二龍」の方位制を創立した。一名を「穿山虎」、すなわち六十龍に再び新たに八干と四維をくわえて毎龍の角度を五度の合わせた。このようになって「二十四山」を用いて「七十二龍」と整合するようになった。いわゆる「一山は三龍を管する」というのはこの事である
この「六十龍」あるいは「七十二龍」はただ葬地をさがすときに「来龍去脈」の時にだけ有用であり、天文と関係なく、術数と関係がある。
分金>古人は納音五行をとって「甲子乙丑は海中金」よりはじまり、これによって「分龍」はまた「分金」と呼ぶ。「六十分金」「七十二金」あり、甚だしきに至っては「一百二十金」もある。、すなわち「六十龍」を再分して両とする。

北のこと>『中國天文學史文集』第五集、王立興「方位制度考」p14
正針ーー天盤格龍
縫針ーー地盤立向
磁針の正南とノーモンの正南ーー「磁偏角」
唐代の楊@(竹/均)松・宋代の張子微・蔡師成および『徐氏三昧論』などの家は磁針の指す所を正針とする。ノーモンの測る所を縫針とする。その正針と縫針の間の差は今の7.5度にあわせる。
宋代の廖金精・頼文俊および『管氏指蒙篇』らの家はノーモンの測る所を正針とし、磁針の指す所を縫針とする。「透地六十龍」のその正針と縫針の間の差は今の6度に合わせる。「穿山七十二龍」では今の五度の合わせる。明代の朱載@(土育イク)は北京の磁偏角は今の4.8度であると測定した
近人の宋の沈括が磁偏角の発見者としているが、楊@(竹/均)松は唐代の黄巣の乱のころの人、沈括の『夢溪筆談』より200年早い。
元になる地上の事物は磁針によって子午を定め、天空の事物は天文の子午によって定めた。明清もそうであった。




龍谷大学
龍谷大学の受講生はE−MAILを!!