大学の未来
猪飼祥夫
龍谷大学『東洋史研究会報第23号』原稿
歴史を学ぶものは、時代の変化を正面から見つめなければならない気がする。新しい時代に新しい価値と創造が、この現実を突き動かさせているのだ。大学生にとってこの現実はどのように映っているのであろうか。インターネットにアジアの大学ランキングというページがある。このランキングによると龍谷大学は上位10校のなかに入っていない。また日本の大学ランキングのベスト26位にも入っていない。大学生の生の声を聞けるページでは、龍大生は他の大学の学生に比べて少し気後れしている。大学の中ででも、時には関関同立には入れなかったから龍大に来たとかと公言する人がいたりして驚いてしまう。はっきり言って、龍谷大学は凄い大学である。大学の図書、設備、教員、職員、どれをとっても一級品である。また環境も千年の文化財と世界に誇る最新のハイテク産業を併せ持つ古都の中にある。
我らの東洋史の分野を見ても、大谷文書をはじめとして他の大学にはない貴重な資料がごろごろとある。僕をのぞいて他の先生方は歴史の研究分野で第一人者とされる人ばかりである。このような環境でどうして学生は自信を持たないのか、なぜもっと勉強をしないのかと思ってしまう。これは大学だけの問題ではないのかもしれない。すでに現代の日本人全体が人生の目的を失っているのによるのだろうか。
「大学は真理を探究する場である」とまでは言わないにしろ、自分の知りたいことを自分で探すというそんな姿勢が大切ではないだろうか。自分で何かを知りたい、それは知的興味の最初である。どんな小さなことでも、自分で調べて手に入れた知識や事実は他の何者にも代え難い満足をもたらす。その自分だけの満足が卒論となると、少なくとも龍谷大学の中でこの事象について知っているのは自分一人であるということになる。これは自己実現という言葉に置き換えられる。修士論文や博士論文では、世界の中でその事象を論究できる五人のうちの一人というものになる。大学を四年で卒業する人にとっては、大学院で研究する以上の知識を社会から必要とされる。誰かに何かを教わるのでなく、自分であることを知ろうとするとき、大学で学んだ方法論が役に立つのである。
かつては、大学は知の最高峰であった。大学に来ないと学べないもの、大学でしか手に入れることのできない知識というものがあった。しかし今日では必ずしもそうではない。その変化の大きなきっかけは情報革命と呼ばれているインターネットの普及である。日本では1995年に一般利用が許されてから、爆発的にその情報量が増えた。その情報の99パーセントは過去の情報の移植でしかないが、デジタル情報として居ながらにして簡単に手にはいることは大きな意味を持つ。多くの図書情報や画像資料がデジタルアーカイブ(電子資料庫)として公開されている。龍谷大学の図書館には65万冊の蔵書があるということだが、インターネットの蔵書はすでにその数十倍になっている。とくに英語の文献では、電子図書館が一般的になっており、著作権の切れた文献が無料で公開されている。たとえばシェークスピアの著作はすでに全文公開されている。全著作の中で一字一句を調べることも不可能ではない。中国史では『二十五史』の全文検索も可能である。このようなとき、大学はどのような意味を持つのであろうか。私見だが、大学は将来インターネット中でしか存在しなくなるかもしれないと思うのである。
昨年の九月からアメリカの大学でインターネットによる大学教育というのが始まった。そこでは大学院も開設され、修士の学位も取れるという状況になっている。彼らの主張によると、今いちばん大学教育を求めている人々はアフリカやアジアの人々であるという。その人たちをすべてアメリカで教育するとなると大変なことになるので、それぞれの地域でパソコンの端末をおいてアメリカからインターネットを使って大学教育を行うということである。今年の二月の新聞に、イギリスの二大名門校オクスフォードとケンブリッジがインターネットで大学講義を始める記事が載っていた。それによると大学の経営戦略から十分ペイできるものであるとの論調であった。ちなみに、私たちもこの教育を受けることが可能となる。日本でも埼玉のある大学がインターネットだけの通信教育を始めるらしい。また大学教育だけでなく、自分の知的興味を満足させるために何かを論究するときにも、最高の資料と情報が最新の早さで手に入る。例を挙げれば考古学の新たな発見や政治的な事件では、図書館はもうすでにインターネットの早さにかなわない。
大学の未来はどうなるのだろうか。大学は知識を教えることより、知的興味を満足させる方法を教えるところに変化していくと思われる。どうしたら、自分の興味が見つけられるのか。その興味をどのようにしたら系統だった知識としてあとづけられるのかを教える場になると思う。またこの方法を身につけた人が大学卒業後にさらに発展していくために、新たな卒後教育という課題を担う必要がある。ただ単に知識を教える大学には存在意義はないし、また知識の習得をもって大学卒業とする人にも大学は必要ない。大学の変化は社会の変化であり、文化全体の変化である。歴史を学ぶものは、時代の変化を正面から見つめなければならない気がする。この変化は僕にとって非常に興味ある知的対象である。
2000.4.10三稿
2000.2.21改稿
2000.2.1 原稿
PS.東洋史おけるインターネット利用については、僕の「インターネットを使った東洋史研究のデザイン」を見てほしい。
龍谷大学
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