本の森通信 2005年10月号

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10月14日(金)
昨日に続いて仙台文学館に関して一つ。明日15日の13時より「晩翠忌記念イベント」がある。内容は晩翠についての対談や、晩翠の詩の群読など(「群読」とは複数による朗読のことらしく、木下順二が中心となって創出されたものらしい)。事前申込不要・無料なので、気軽に行って参加できる。

晩翠の命日は10月19日。亡くなったのが昭和27(1952)年なので、没後五十三年経つことになる。今年の晩翠忌は同館による『天地有情』の復刊ということもあり、同書「解説」内の「晩翠の詩的想像力」を執筆された佐藤伸宏東北大学大学院教授の講義も聴ける。佐藤教授は「晩翠の〜」のなかで、「『天地有情』の作品配列には晩翠の明瞭な詩的編纂意識が認められ、巻頭の『希望』と末尾に置かれた『暮鐘』の両篇をとおして、『天地有情』の詩的世界総体を支える枠組みが呈示されていると言ってよい」と語っている。この「希望」と「暮鐘」は実に印象深く、また美しい作品である。「希望」の中にある「流るる川に言葉あり」からは広瀬川のせせらぎが感じられ、「暮鐘」で鳴り響く鐘の音は夕刻の瑞鳳殿のそれを思い起こさせる。

地元・仙台の文豪として名高い晩翠だが、「荒城の月」以外の作品に触れる機会は、あまり多くないと思われる。今回の復刊は、そこに一石を投じることにつながると期待が持てる。現実に、晩翠の詩に(ほとんど)初めて触れ、その魅力を(それなりに)理解し、より興味を持ち始めた者もここにいる。明日の晩翠忌、もちろん参加するつもりだ。(小)
10月13日(木)
「仙台文学館ニュース」第八号の巻頭に、館長の井上ひさしさんの文章がある。以下冒頭部の引用。

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ことばは実は民主主義です。どんな間違ったことばでも使う人が多くなるとそれが正しくなる。有名な例を挙げますと、芥川龍之介が大正末から昭和にかけて書いたエッセイのなかで、「とても」という副詞の使い方を気にしている。「とても」の下には否定が来る、という懸かり結びの約束があるのに、「とても」を独立させて、「とても素敵だ」「とてもおいしい」などと使うのに、芥川は嫌悪感を抱いていた。でも、芥川は嫌悪感を抱いていた。でも、芥川がいくら頑張っても、それがみんな便利だとなって使えば、正しいことになる。「ら抜き」もそうです。
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いやぁ知らなかった。「とても」の下には肯定も否定も来るものだと思い、自由に使っていた。というより、懸かり結びの約束など気づくこともなく、肯定も否定も意識することもなかった。「全然」の使い方でよく言われることと、全く同じことである。「全然」のあとには否定が来る、それゆえ「全然大丈夫」や「全然オッケー」(これはこれで別な違和感もあるが)は間違いだと。これについては、なんとなくその決まりを守っている、あるいは「全然いい」に違和感をおぼえるという方も多いだろう。しかし、「とても」は知らなかったし違和感もなかった。「アンアンアン、とっても大好き、ドラえもん」で育った者の一人として、あの主題歌のせいにしてよいものか。

このような“言葉もの”の文章を書くときにいつも感じるのが、「そう大っぴらに主張しておいて、自分も大きな間違いをしていないか?」という懸念である。この駄文の中にも、間違った用法を気づかずにつかっているものもあるだろう。「正しい言葉の使い方とそうでないものとをはっきりと区別はするが、言葉についてとやかく言わない、書かない」という立場が最も良いのかも知れない。

前述の井上ひさしさんの文章は、「ことばは民主主義的で、みんなで決めていくものだ。使えないことばは廃れていく。言葉の乱れや若者語を気にしてはいない。そんなことより大切なのは、私たちが日本語の力をつけていくことだ」と結んでいる。日本語の力をつけていくとは、果たしてどんなことなのだろうか。カタカナ語を漢字にするといった、短絡的なものではないだろう。とりあえずは、「“とても”のあとには否定」の約束を、厳密に守ってみようか。そんなところから、意外な日本語の姿が見えてくるのかもしれない。(小)
10月11日(火)
庭のキンモクセイが香るようになった。玄関を出て正面に一本、背の丈2メートルほどのものがある。外出するときにはその香りを身にまとえるような気がして、ちょっと得した気分になる。今朝、木の上の方がなにやらガサガサする。よく見てみると、雀が二羽、細い枝をしならせて止まっていた。花をついばんでいるらしい。そういう習性がもともとあるのかどうかはともかく、その気持ちもわかるような気がした。

『中央公論』の最新号で、「若者よ、本屋へ行こう」という特集が組まれている。鹿島茂・紀田順一郎両氏の対談、ライターの岡崎武志による「本の街・神保町、そぞろ歩きのすすめ」、若手書店員三名の座談会で構成されており、どれも興味深い内容になっている。特にはじめの対談は、タイトルの「活字恐怖症の若者は大人の生産物だ」という言葉以上に刺激的な内容になっている。できることなら、編集前のテープ起こし原稿、いやこの対談のテープそのものを聴いてみたい。本論から分かれた枝葉の部分でも、きっと面白い話がたくさん出ただろう。

鼎談は、いまの書店事情が所々に垣間見えて面白い。実情をちょっと知っている業界関係者、それも書店に近いところで仕事をしている版元の販売部の人などは、かなり興味深いのではないだろうか。「本屋大賞」がつくられた経緯について少し触れられているが、これがまた悲喜こもごもである。ただ、こういうことをお客の側が知ることもとても大事なことではないかと思う。

「〜そぞろ歩きのすすめ」は、神保町OBとしてはとても楽しい企画だ。JR御茶ノ水駅を降りて、男坂・女坂を経て神保町中心部に至るといういかにも「通」っぽいアプローチといい、古書街を一艘の船に見立てた位置説明といい、さすがは「神保町ライター」である。東京堂の平台、書肆アクセス、悠久堂、高山本店など思い出深い各書店と並んで、好みの珈琲を飲める店として「珈琲舎 蔵」が紹介されている。学生時代から通っている店で、今でも東京に行く際には必ず立ち寄り、ご主人自慢のブレンドを一杯いただく。その味と香りは、「あぁ、神保町に帰って来たなぁ」と心から思えるものだ。そんなことを考えながら掲載されている「蔵」の写真を見ていたら、一瞬だけあの香りが鼻の奥によみがえったように感じた。遠きにあって想うもの、決して現実ではない。上着についた玄関前の香りが、現実の香りだ。(小)
10月6日(木)
書店廻りの途中、某書店内のチケットカウンターでbjリーグ開幕戦「仙台89ers vs 埼玉ブロンコス」のチケットを購入する。店員さんに「bjリーグのチケットお願いします」と言うと、「メジャーリーグ・・・ですか?」と訊かれた。「いえ、 b j リーグです」とゆっくり言うと、「えっと、Jリーグ・・・じゃないんですよね?」と疑い深い表情。「すいません、11月5日の仙台市体育館です」と言って、やっと作業を始めてくれた。

いやぁ、まだまだ認知度が低い。低すぎる。Jリーグの開幕時には多くの人が「もうすぐサッカーのプロ・リーグがはじまる」と知っていただろう。あの注目度と比較する酷かもしれないが、せめてチームが生まれる6都市ではもっと認知度が高くてもいいと思う。Vリーグやトップリーグに比べてずっとずっと地域密着の理念の強いリーグだし、国内2大プロスポーツのシーズンオフに開催されるスポーツイベントなのだから。

バスケットの試合を観るのは、まったく初めてのことだ。かつてバスケットをしていた友人から、「バスケは、やってる方も面白いけど、観ている方もかなり楽しめるスポーツだと思うよ」という話を聴いた。たいていの競技者は「やってる方が絶対に楽しい」と信じ込んでいるものだが、競技者自身が「観ていても楽しい」というのは珍しい。しかも彼は「NBAじゃなく日本リーグを観るだけで十分」とまで言っていた。曰く、スピード感があって目で楽しめるし、戦術が分かれば頭でも楽しめるスポーツ、それがバスケットだと。なるほど、野球やサッカーに比べれば客席から極端に近い位置でボールと人が動く。またプレーするスペースが野球・サッカーに比べれば極端に狭く、それを有効に使うには戦術とプレーの精度が重要になる。想像すれば想像するほど、観て楽しいスポーツなのかもしれない。

開幕戦まであと一ヶ月。チケットを見ると、試合開始が15時なのに開場は13時半になっている。リーグ発足にちなんだイベント等もたっぷりあるのだろうか。何から何まで楽しみなので、開場と同時に開場入りしようと思っている。
1993年5月16日、Jリーグ開幕戦(鹿島アントラーズvs名古屋グランパスエイト)でジーコのハットトリックを観た。2005年4月2日、東北楽天ゴールデンイーグルスの「本拠地初のデーゲーム」で「本拠地初のデーゲーム勝ち試合」を観た。Jリーグはその前日の川崎vs横浜Mのワン・マッチ興行が開幕試合と記憶され、イーグルスもその前日夜にナイト・ゲームで感動的な「本拠地初試合初勝利」を挙げている。どちらも一日の遅れをとっているのだが、一ヵ月後は正真正銘の開幕戦だ。仙台89ersの始動を、この目に焼き付けに行く。(小)
10月5日(水)
仕事で仙台文学館へ行き、開催中の「宮尾登美子の世界展 〜生きぬく情熱を見すえて〜」を鑑賞してきた。『宮尾本 平家物語』完結記念ということで、その直筆原稿や習作ノートなどの貴重な展示が見られる企画展である。平日の午後にもかかわらず、年配の女性方がたくさん訪れていた。

宮尾作品は、まだ一つも読んだことがない。唯一読んだことがあるのが『くらしのうた』という共著のエッセイだけだ。四季折々の言葉を題材に、5人の著者が文章を書く。共通して描かれているものは、美しき日本の風景だ。それは花鳥風月を高らかに讃えるものではなく、ごく普通の日常の中にある“生活の美しさ”である。目に見えるものの美しさだけでなく目に見えない心の美しさも、短い文章の中に端的に表現されている。

この本、一通り読んだ後にクルマのダッシュボードに入れていた。ちょっとした待ち時間に、パラリと開いてその項を読むような楽しみ方をしていた。同じクルマを使う母も、そのように読んでいたらしい。ある時どうしても思い出したい文章があり、それがこの本に出てくるものではと気づいて、「クルマの中の本、ちょっと借りますよ」と母に言うと、「借りるって、あれはあなたの本でしょ?」と言われた。私のほうは母が買ったものとばかり思っていたので、お互いに否定しあい、結局どちらの本でもない「クルマの本」として扱うことになった。

そのクルマも昨年末に他人に譲った。本はしばらく母の本棚で眠り、先日から今使っているクルマに引っ越した。本にはまだ前のクルマの匂いが残っていて、ちょっと居心地が悪そうだ。是非とも早く慣れてもらい。このクルマの中で長生きしてほしいと願っている。(小)
10月3日(月)
道端のコスモスが美しい季節になった。通勤途中の家々の塀越しにキンモクセイの香りも漂ってくる。衣替えの月曜日は、毎年気分が新たになると同時に秋の訪れを五感で感じる。今年も残りあと三ヶ月。改めて目標をもって生活していきたい。

新刊書『田舎弁護士の大衆法律学 保証の巻』の著者である千田實先生の事務所から、事務所便り「的外」が送られてきた。同書の感想や意見がたくさん事務所に届いているそうで、その中の一つが紹介されている。同じく弁護士さんからの感想で、現代は「法に賢い者、強い者が大勝し、法に暗い者は、善意の裡に犠牲者になる世の中」で、「民教育の必要性を痛感」する。そんななか同書は「良き社会教育の資」となり、「人間愛、正義感を感じる」という。同書の担当編集者としてこの意見はとても嬉しく、さらに「なるほど」と思うポイントもあった。

千田先生の著作は、どれも弱者の立場に立った視点から語られている。それを可能にするのは、長いキャリアの中で数多くの事件を手がけ、それらの中から得た本当の意味での「弱者の視点」を知るからに他ならないだろう。ただ、この「弱者の視点」というのは、別に珍しい見方でもなければ新しい切り口でもない。本のテーマとして考えれば、他にも多くの類似本が見つかりそうでもある。それでも千田先生の本が面白く、多くの支持を得るのは何故かというと「弱者であるからこそ、しっかりと法律知識を得るべき」との理念があり、徹底的に噛み砕いたわかりやすい表現でその手助けをしているからである。この理念や手助けの根本には何があるのかと言えば、おそらく前述の弁護士さんからの感想にある「人間愛、正義感」なのだろう。その一貫した執筆姿勢には、初見の原稿を読みながら毎回感動している。

千田先生の次回作は、その「的外れにて“予告編”的に執筆され続けている。時事性と普遍性がバランスよく整った、読み応え十分の内容になりそうだ。脱稿・刊行時期は未定だが、少しでも早く読者の皆さんにお届けし、「人間愛、正義感」に基づく法の知識を身につけていただきたいと思っている。(小)