本の森通信 7月号

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7月31日(月)

そして、発売日。

著者の希望する方への献本、その合間の書店廻りで、忙しく過ごした。完成日には関係者の手に、その後二日間でも数人の手に渡ったが、今日から広く多くの人の手に渡るはずだ。そこからそれぞれの一冊が、それぞれの読者とともに、何かを生んでくれることを期待する。

今朝の毎日新聞にこんな記事が掲載されていた。刑事裁判で犯罪被害者が当事者席に座り、加害者に対して質問ができるようになるという。まさに曵地さん夫妻が求めてきた「加害者との対面」が、刑事裁判の公判で実現するようになるかもしれない。この手のニュースは「この日」という即時性を持つものではないかもしれないが、曵地正美さんの誕生日であり、『再会の日々』の発売日でもある今日の朝に新聞に掲載されたことは、私はどうしても偶然とは思えない。豊子さんは今日の日に向けて頑張ってこられたが、天国の正美さんも同じようにこの日に嬉しいニュースが流れるように頑張ってきたのではないかと考えてしまう。

今月18日から書き続けてきた『再会の日々』のカウントダウン。この欄で一つのテーマでこんなに長く書いたのは、初めてのことだったかもしれない。こんなインサイドの話を担当編集者が公けにするのは本当はタブーだろうし、この一年の全てを書き切ったとも言えない。そんなわけで、最終回をアップしたら早々に削除しようと考えていた。ところが、一人の友人から「それは絶対に駄目です」と言われて困っている。いずれは削除するだろうと思うが、とりあえずはこのままにする。もっとも、今後一番多くこの欄を読むのは、誰かさんかもしれないが。(小)
7月28日(金)

本が届いた。これから、豊子さんに届けに行く。

当初の予定では新聞記者二人と同行するはずだったのだが、お二人とも都合が合わず、結局一人で車で行くことになった。それならば、ちょっと自由にやろうと思う。曵地さん宅へ行く途中には、正美さんが入院していた病院がある。私がはじめて正美さんとあった場所で、何度も打ち合わせを繰り返した場所で、最後に正美さんと話をした場所でもある。時間に余裕を持って出発し、病院の敷地内に入って、正面入口のロータリーを一周しよう。何の意味もないかもしれないけど、そうしてみよう。

初版が出来上がって早々に?・・・と言われるかもしれないが、『再会の日々』は増刷が決定した。予想以上の注文数があり、既に現時点で初版だけでは間に合わない状況になっている。言い換えれば初版刷り部数の読みが甘かったということで、担当編集者としても恥ずかしいことなのだが、喜ばしいことなので良しとしている。そのことも、今日豊子さんに話すことができる。苦しいことや辛いことがたくさんあったはずなので、嬉しいことや楽しいことならできるだけたくさん持って行きたい。もちろん、何よりも先ず完成した本を手にして、喜んでほしい。

発行日・発売日はともに週明けの31日。そのため、取次店にも今日中の納品を指定している。先ほど取次店の担当者から、「例の本、何時に着くの?」と問い合わせがあった。午前中の予定だと答えると、「楽しみだね、早く届かないかって思ってるよ」という返事。取次店の方がこんな電話をよこすことは、あまり記憶にない。別の取次店に昨日行った際も、「お盆休みに、みんな買って読むんじゃない?」と言われた。この本に関わるすべての人にとって、今日はちょっと特別の日になっている。

完成した本を前にして改めて思うのは、これがゴールではなくスタートということだ。かつて正美さんに言ったように、この本から何かが始まればと思うし、始まらなければと思う。それが小さなことなのか大きなことなのかはわからないが、そのスタートをサポートするのも自分の役割だ。まずは一人でも多くの人に読んでもらえるように、知恵を絞ろうと思う。(小)


7月27日(木)

曵地豊子さんは、ここしばらくお墓参りに行っていない。掃除や供物の交換などには行っても、ゆっくりと手を合わせるようなことはしていない。里美さんを亡くした当時は、日に何度もお墓へ行っていろいろなことを語りかけたという。しかし、正美さんを亡くしてからは、お墓の前で手を合わせると、そのままそこから動けなくなってしまうのではないかという不安があり、どうしてもお墓に行く気持ちになれないらしい。
それ故、私は本の打ち合わせで豊子さんを訪ねる際、いつも一人で里美さんと正美さんのお墓参りをしている。お家に行く前に先にお墓へ行き、線香に火をつけ、供え、手を合わせる。そして、時間をかけて缶コーヒーを一本飲む。初めて正美さんとお会いした時、病院の食堂で一緒にコーヒーを飲んだ。だから、お墓の前で缶コーヒーを飲む。「曵地さん、桜が咲きましたね」「曵地さん、表紙のデザインが出来上がりましたたよ」「曵地さん、奥さん頑張ってらっしゃいますよ」そんなことを口に出しながら、山に囲まれた墓地で20分ほど時間を過ごす。家で打ち合わせを終えた後も、「ちょっと、ご挨拶して帰ります」と言ってお墓に寄る。豊子さんからは「今日は何を話してくるの?」「よろしく言っておいてね」などと言われる。お墓でもう一本缶コーヒーを飲み、帰る。
これまでの人生で、缶コーヒーにまつわる思い出や缶コーヒーで思い出す人というのは、記憶の中にない。それで言うとここ数ヶ月間は一番多く缶コーヒーを飲んだ時期だし、あのお墓の様子が缶コーヒーの味とともに思い出になるだろう。そして、缶コーヒーで思い出す人は、曵地正美さんと曵地豊子さんになるのだろう。

豊子さんの執筆・原稿チェックは、苦労の連続だったようだ。朝から午後までパートに出て、帰宅してからは炊事・洗濯などの家の仕事、それを終えて夜になってから執筆をされていた。生まれて初めてのことに加え、主人が残した原稿であること、そして内容が娘を殺された事件に関するものということは、こちらの想像の及ばない辛い作業であったと思われる。それでも、新たな出版の目標を「7月31日にします。主人の誕生日なんです」と自ら決め、それに向かって執筆を進め、ついにその目標を達成しようとしている。誤用なのかどうかはさておき、「お疲れさまでした」「ご苦労さまでした」と素直な気持ちで言いたい。

タイトルの『再会の日々』とは、事件以降の正美さんと豊子さんの活動をそのまま言葉にしたものだ。受刑者からの手紙の受け取り、民事裁判の本人訴訟、そして「異例中の異例」「仙台で奇跡が起きた」とまで言われた加害者との対面・・・それらの活動の全ては、天国の里美さんに墓前や仏壇の前で「お父さんとお母さんは、いまこんなことをしているよ」「次はこんなことに挑戦してみるよ」と語りかけるためのものだったと言う。そうやって語りかけることが、里美さんと再び会う「再会の日々」だった。豊子さんは、きっと執筆中にも二つの再会を繰り返していたと思う。一つは里美さんとの再会。そしてもう一つは、正美さんとの再会だ。読み方によっては、正美さんが豊子さんに残した遺言のようにとれる部分もある。そんなことを考えると、やはり正美さんは「一歩先を歩いている」に違いなかったと、ふと思ってしまう。ここにも再会がある。他にも、二人の娘さんやご親戚、里美さんと正美さんを知る全ての人たちは、この本を通して里美さんと正美さんに再会することになるだろう。どうか、たくさんの再会が実現しますように。

本が完成した時、「ありがとうございました」と周りの人に感謝の言葉を述べるのは、著者だけに許された特権である。献本という形で恩返しをしたり、さらにその感想を聞かせてもらえるのも著者の楽しみの一つだ。苦労された豊子さんには、その特権や楽しみを思う存分、これ以上ないほど味わってほしい。正美さんの分も、味わってほしい。著者になるということは、本当に素晴らしいことだ。煩わしいことも無いわけではないが、それを上回る喜びがあると信じている。そんな著者に対して担当編集者が言える一言は決まっている。私はいつも「おめでとうございます」と言っている。でもその中に、著者の特権であるがゆえに私は口に出せない言葉を込めている。明日、豊子さんにも同じように言うつもりだ。(小)
7月26日(水)

地元紙記者から電話がかかってきたのは、出社間もない時刻だった。

「曵地さんが、昨夜亡くなられましたそうです」

実を言うと、その日のことをあまりよく覚えていない。たしか、電話を切った後、出社して間もないというのにすぐに家に帰ったのだと思う。その日のうちに曵地さんのところへ行くなら、車で行かなければならない。ならば、家に帰らなくては・・・とでも考えたのだろう。たぶんバスの乗って帰ったのだと思うが、そのことはまるで覚えていない。

前の日の晩に人を亡くした家が、翌日の午前中にどのような状態にあるかはすぐにイメージできた。だから、たぶんお昼を過ぎてからご自宅に電話をかけた。はじめに娘さんが出て、その後奥さんの豊子さんが出た。当たり前のことだが、泣くばかりで話はできない。日取りのことだけ確認し、「5分だけでもいいからお話がしたい。いつお伺いしたらよいですか?」と訊くと、「通夜の日の午前中に来てください」と言われた。
当日は大雪。数日前に「もう一度乗せてもらいたい」と言ってもらった車で、曵地さん宅へ急いだ。行く道の途中には、曵地さんが入院していた病院がある。「まだここにいてくれたなら、もっとお話ができたのにな」と、悔しい思いでその建物を見上げた。家に着いて挨拶・焼香・お悔やみ・・・思い出したくない。数日前の握手が最後になったのかと思うと、「担当編集者として、もっとやれることがあったのではないか」「話しておくべきこと、訊いておくべきことが、もっとたくさんあったのではないか」そんな思いばかりが頭に浮かぶ。「何のお力にもなれず、申しわけございませんでした」豊子さんと二人の娘さんを前に、そんな言葉がはじめに出てきた。

三人から、曵地さんの最期について聞いた。なんだか信じられないような話だった。わたしも、最後の打ち合わせのときのことを話した。特に、急に娘さんのことを話し始めたことなどは、この場で伝えなくてはならないと思って漏らさず話した。豊子さんには、本をどうするかについて訊ねたかったが、こちらからは言いにくかった。すると豊子さんに「・・・それで、小林さん・・・。昨日の夜もみんなで話し合ったんですが、本のことは続けていきたいと思っています。でも、私に何が出来るかはまだ何もわかりません。落ち着いたら一度相談に乗ってもらっていいですか」と言われた。「もちろん、ご相談に乗ります。私は、まだに何も終わったとは思っていませんから。正美さんと、何の仕事も終えていないんです。ぜひ続けさせてください。お願いします」そう言って頭を下げた。

「小林さん、主人が残した原稿を、明日の朝までに送ってくれませんか? 棺に入れて、持たせてやりたいんです」
悲しい依頼だった。受けるのも断るのも、どちらも正しいようでどちらも間違っている気もした。持って行ったカバンに、毎度更新している原稿が入ったCDがあることに気づいた。そこから曵地さん愛用のノートPCにデータを移した。その日のうちにプリントアウトしてまた届けに来ることは簡単だったが、曵地さんが持って行くという書きかけ原稿を、自分で用意できる自信がなかった。途切れない弔問客に交じり、もう一度焼香し、豊子さんに「ご連絡、お待ちしております」と言って家を後にした。

豊子さんからの連絡は、気を長く持って待つしかないと思っていた。「一ヶ月経ったから」とか「ようやく周りも静かになったから」といって、心が落ち着くというものではない。時間が経ったからと言って、悲しみが癒されるわけでも、寂しさに打ち勝てるようになるわけでもないのだ。だから、待った。待つ一方で、正美さんから渡されていた新聞スクラップ・裁判文書・日記の一部などの資料を精読して過ごした。そして、四十九日が見えてきた頃、地元紙記者と一緒に焼香に行こうと、久しぶりに豊子さんに連絡をした。指定された日は、四十九日の前の土曜日。「二人で一緒に来てくれるなら、お客さんが少ないほうがゆっくり出来るでしょ」と言ってくれた。
「私、頑張ってみることにしました。主人があれだけ気持ちを込めてやっていたことだから・・・。なんだか、主人に宿題を出されたような気がするんです。小林さんが、まだ主人との仕事を終えていないって言ってくれるなら、この宿題をやるのは、私の仕事だと思うんです」涙ながらにそう言う豊子さんを見て、正美さんと同じ強い心を持っているように思えて心が揺さぶられた。曵地正美さんが持った「本を書く」という勇気と、曵地豊子さんが持った「執筆を引き継ぐ」という勇気。二つの勇気がつまった本が、いずれ完成することになる。「この本を出したい、この本をたくさんの人に読んでもらいたい」そんな気持ちが、心の中に湧き上がってきた。

正美さんが残した原稿を整理すると、非常に珍しいかたちになっていることに気づいた。はじめから終わりまで全体の下書きが緩やかに出来上がっていて、最後のまとめの章だけは完璧に書き終えていた。

「最後の章から書いてもいいでしょうか? 私が一番言いたいことは、最後の章に入れるつもりなんです。それを先に書いてしまえば、後で他の所を書いている時に何かに気づいて、その部分を書き足したり削除したりすることが出来る。どうでしょう?」

かつて正美さんがそう言っていたことを思い出した。正美さんにしか書けない部分は、きちんと正美さんによって書かれていた。豊子さんには、下書きに書き添えてあった「裁判の資料を」「取材が来たこと」「もう少し詳しく」といったメモ(おそらく、正美さんが自分で書き加える予定だったのだろう)に従い、正美さんがずっとつけていた日記を参考に加筆してもらうことにした。どんな活動も夫婦二人で二人三脚でやってきたことなので、豊子さんも正美さんと同じ思い・同じ感情を共有している。このことは、執筆を継続する上で大きなプラス材料になった。

豊子さんは、正美さんから「俺が書いた原稿を読んでみるか?」と言われても、「出来上がるのを楽しみにしているから」と断っていたという。目的の一つは「楽しみにしている」と励ますことだったと思うが、理由の一つは「原稿を読んだら、嫌なことを思い出して辛くなってしまうだろう」という不安があったからだろう。その不安を持ちながらも、原稿を読んで書き加える作業は、想像を絶する痛みを伴うことだったと思う。何度か、打ち合わせの中で口に出すこともあった。それでも、豊子さんの執筆姿勢は本当に素晴らしかった。一字一句について長く悩み、時には「ごめんなさい。もうちょっと考えたいので、ここは次回に持ち越していいですか」などと妥協を許さなかった。執筆から、絶対に逃げない。ただこなすのではなく、より良いものをつくろうという姿は、もう「著者」そのものであった。(小)
7月25日(火)

曵地正美さんと交わしたたくさんのメールを、いまだに消去できないでいる。文書でパソコンに保存しているほか、平成17年11月15日以降に受け取った携帯メールは、受信箱の中でずっと手付かずのままだ。本が完成する28日か、発行日である31日が、受信メールを消去するタイミングなのかなと昨日考えた。意外と簡単に消去できそうな気がするのは、またいつか曵地さんからメールが届きそうな感覚でいるからだろうか。ちょうどあの、何度もメールが来た日のように。

平成18年1月27日。この金曜日も午後から病院で打ち合わせの予定を入れていた。しかし、当日の昼頃母親から電話があり、身内に不幸があったことを知った。その関係で曵地さんとの打ち合わせ開始時刻を前倒ししなくてはならなくなった。「すみません、一時間ほど早めにおうかがいしてよろしいでしょうか」「構いません。何かありましたか?」「いえ、大丈夫です。ワガママを言って申し訳ありません」そんなやり取りをメールでしてしばらく後に、「小林さんが直前になって予定を変更するとは、何か不測の事態を心配してしまいますが」とのメール。「ご心配おかけしてすみません。 打ち合わせには支障ありません。大丈夫です」と返事。その後病院に向かう直前にも「打ち合わせ、明日にしましょうか?」というメールが届いた。病室についてから事情を説明し、いつも通りの時間を取って打ち合わせをした。

曵地さんが書いておいたメモ原稿を見ながら私が質問し、それに曵地さんが答える。その日もテープ録音していたが、途中から別の話になり、テープを止めてほしいと言われた。曵地さんは、二人の娘さんのことについて話し始めた。頼りになるお姉さんを事件で失いながら、二女も三女もきちんと成長し、今年は三女が二十歳を迎えた。成人式には、長女が注文しておきながら着ることができなかった晴着を着て出席した。自分も一時退院して一緒に写真を撮った。やっと二人とも、お姉さんの年齢を追い越した。そんな話をした後、私の目を見てこう言った。

「時間が、ない」

そして、自分がいま受けている治療や薬の投与はすべて「抗」ではなく「緩和」であることを話した。私は黙って聞いていた。曵地さんは、黙っている私に何か言わせようと思ったのか、同じように黙った。私は、息を吸った。

「曵地さん、おうかがいしておきたいことがあります。曵地さんのお気持ちを害することかもしれませんが、どうしても訊いておかなければいけないことです。今、おうかがいしてよろしいですか?」

「小林さんがそう言うなら、きっと大事なことなのでしょう。言ってください」

「曵地さん、もし、曵地さんの身に何かが起きて、執筆を続けられなくなったとします。その時は、どうしますか」

「私が、全く原稿を書けなくなったらということですか。全く何も・・・ということですか」

「そうです」

「小林さんが直した原稿を見ることも、できなくなったらということですね」

「はい、そうです」

「・・・小林さん、続けてください。なんとか本にしてください。大きなご迷惑をおかけするのでしょうが、お願いします。私は自分を最後まで諦めませんが、この場でお願いしておきます」

「わかりました。お気持ちは、よくわかりました。では、もし本を作るにあたって奥様のお力が必要になったとき、私が奥様にお願いしたり、説得したりしてもよろしいですか?」

「はい。私からも、妻には言っておきます・・・。・・・小林さん。本が出たとき、著者というのはこの世にいないといけないものでしょうか?」

「そんなことはありません」

「私は、著者になれるのでしょうか?」

「もちろんです。いま書いている本の著者は曵地さんです。本が出たときにどこにいようと、曵地さんは著者です。私が約束します」

「そうですか。それは安心した・・・」

曵地さんの顔が、やっといつものように柔らかい表情になった。テープには録音されなかったこの会話を、そしてこの曵地さんの優しい目を、私は覚えておかなくてはならないと思った。
曵地さんは、一度うつむき、すぐに顔を上げて、私の目を見てこう言った。

「訊きにくいことを訊いてくれて、ありがとう。私も、言いにくいことが言えた」

その後は、少し世間話をした。今でも明確に覚えているのは、車の話をしたことだ。以前曵地さんの家に行った時に、ちょっと離れたお墓へ行く際に私の車に乗って行ったことがあった。曵地さんはその時のことを楽しそうに話し、私が近くその車を手放すつもりだと言うと「それは残念だ。また乗せてもらいたいのに」と笑った。そして、「気分が乗ってきたから、少し原稿を書いてみる。今日はこのくらいにしましょう」と言った。私は荷物を片付け、いつものように「では、頑張りましょう!」と右手を出した。いつものように、曵地さんはしっかりと握り返してくれた。毎回最後に繰り返してきた握手。最初の握手から数えれば何度目の握手だったのだろうか。その日の握手が、最後の握手になった。(小)
7月24日(月)

平成17年12月24日。当初出版予定日としていたこの日に合わせ、曵地さんは自宅に外泊した。私もその日にご自宅にお伺いし、お墓参りをさせてほしいと頼んでみた。しかし、曵地さんの住む地域では12月にはお墓参りをやらない風習があるらしく、事件以来24日は毎年家族で過ごしているという。「ご都合がよろしければ、別の日にお越しいただければ歓迎します」とお気遣いをいただき、数日前にご自宅にお伺いして進行中の原稿データが入ったCDを仏壇に上げた。曵地さんは「今年の命日は『本を書き始めた』という報告ができる」と、奥さんと嬉しそうに言っていた。

この時、本のタイトルのお話を少しした。ご夫妻の希望としては、やや抽象的なものが良いようだ。それならばサブタイトルで具体性を補充するとし、タイトルには想いを込めた言葉を大胆に使おうと話し合った。
「お二人にとって、これまでの活動はどんなものでしたか」
「苦しいことのほうがずっと多かった。でも、何か成果を得るたびに里美に報告できるのが嬉しかった。『加害者から手紙が届いたぞ』とか『今日、刑務所で加害者に会ってきたぞ』とか、そうやって天国の里美に何か新しいことを話しかけられることだけが、心の支えだった」
「五年間、ずっとそうしてきたんですか」
「どんな小さなことでも、里美に報告できることがあればお墓や仏壇の前で話しかけた。そうすることで、里美と会って話をしている気分になれた」
「その気持ちを言葉にすると、どんな一言になりますか」
「“もう一度会いたい” それだけです」
そんな話をしながら、いくつかの単語を頭に思い浮かべた。

年が明けて平成18年。曵地さんとの最初のやり取りは1月12日と携帯電話の履歴に出る。1月20日に病室を訪ね、進行状況を確認。曵地さんは痩せもせず、顔色も悪くない。しかし、前にも増して声がかすれ気味で、会話の中でも聞き取れない部分が多くなってきた。執筆のペースも落ちている。本の執筆はただキーボードを叩くだけではない。一つの文章を作るのにいくつもの資料を開いて確認し、自分の言葉を表現できる言葉をひねり出し、さらにそれを紡いでやっと文章ができる。内容が内容であるだけに、相当なパワーを消費していることは明白だった。執筆を続けるために、何か別な方法を考えなくてはならない。でも、それで執筆への熱意を削いでしまってはいけない。だがやはり身体が心配だ・・・。考えた結果、録音テープによる口述筆記を試みることにした。曵地さんの身体にも負担がかからず、テープを持ち帰ればすぐに原稿ができる。次にその原稿を見てもらい、また先に進む。このサイクルで、執筆の負担軽減とスピードアップをはかった。

テープを録りたいと曵地さんに相談すると、快諾してくれた。声はかすれてしまったが、出てくる言葉には重みと力があるように感じた。その日の打ち合わせの終わりごろ、口述筆記は一時的なものとし、体調回復後にはまた自分で執筆したいと言う。やはり、自分で書かないことに充実感のなさや寂しさがあるのかもしれない。そこで、次回はタイトルを決めようと提案した。タイトルが決まれば良い目標にもなるし、その文字が入った本を思い浮かべることで完成への道が見えてくるものだ。メモ用紙の一枚をちぎり、「奥さんや娘さんのご意見と一緒に、この紙に候補を挙げておいてください。今度一緒に決めましょう」と手渡した。さらに、「曵地さん、本の完成がゴールだとは思わないでください。曵地さんは自分の本を持って、いろいろな所へ行って講演なり活動なりするべき人です。本はそのための道具です。いま曵地さんは、自分が使う道具を自分で作っているですよ」と言った。すると「わかった。その先が見えたことで、また力が沸いてきた。治療を優先しながら、体調が良い時は5分でも10分でも原稿を書いておく。次回はもっと進めよう」と力強く答えてくれた。そして、これからは私が毎週末病院に通い、録音を行なうことに決めた。

病室を出て廊下を歩いていると、奥さんの豊子さんが駆け寄ってきた。
「本、急げませんか?」
これまで豊子さんは打ち合わせに同席することも少なく(気を使って他の部屋で待っていてくれた)、私に直接話しかけてくることはほとんどなかった。「どうしました?」と言うと、「ちょっと電話してくるって、出てきたから・・・。少しだけいいですか?」と病室のほうを振り向き、そのまま階段の踊り場で話をした。豊子さんが言うには、時間がない。主治医からも言われたそうだ。「急ぐって言うか・・・、小林さん、主人に話さなきゃいけないことは話して下さい。そうしないと、小林さんにも迷惑をかけることになりそうで・・・」「・・・わかりました。では次回、ご主人にお話してみます。その前に、奥様の意思も確認したいのですが・・・。本の執筆を、引き継ぐお気持ちはありますか?」「今はまだ何とも言えません。でも、主人が始めたことですから、何とかしたいという気持ちはあります」「そうですか、その気持ちをご主人はご存知ですか」「いえ、私からは何も言ったことはありません。そ、それじゃ、また」あまり長くなってはまずいと思い出したのか、豊子さんはそこまで話して廊下を戻った。

病室からの帰りの車の中で、豊子さんからそんな話をされる時期がとうとう来てしまったのかと、焦りと悔しさの交じった嫌な心の重さを感じた。こちらが思っていたよりもずっと早いスピードで、事実という物語が次々に展開しているように思えた。しかし、そんな沈んだ気持ちを奮い立たせてくれたのは、他でもない曵地正美さんの姿だった。自分がやるべきことを徹底的にやり、それと同時に病気とも闘う。一言にやるべきことと言っても、決して楽しいことではない。一言に病気と言っても、これまで多くの命を奪ってきた難敵だ。それでも曵地さんは、前を向いて歩いていた。自分がこれだけこの人に惹かれるのは、たぶん、こんなに強い人に初めて会ったからだろうと思っていた。その力強い姿を目の当たりにすれば、マイナスなことなど考える気にもならなかった。いや、本当は考えなくてはならないのに、考えなくてもよかった。しかし、時期は来てしまった。次に曵地さんに会う時には、話をしなくてはならない。
曵地さんの強さを学び、自分も強くならねばならないのか。曵地さんの強さは自分を支えたが、果たして自分の強さは曵地さんを支えられるのだろうか。この因縁に感謝し、この因縁を憎んだ。(小)
7月21日(金)

曵地さんが再入院したと聞き、病状・進行状況をメールでやり取りしながら逡巡した。かなり前倒しになった再入院は、どう贔屓目に見ても好転とは考えられない。治療最優先という原則から言えば、お見舞いに行ったとしてもそのまま本の打ち合わせになってしまい、負担をかけることになるだろう。ただ、この時期に執筆が止まってしまうということは、12月24日の刊行を諦めることに等しい。取るべき道はどっちだ。「曵地様 今は何より治療を優先してください」「小林様 治療専念の毎日で、体調が回復してきました」そんなメールのやり取りを繰り返しながら、お互いに執筆の遅れを話題に出来ない。曵地さんからのメールにある検査名を、悪いと思いながら検索にかける。「進行した症例の場合に・・・」「末期の検査法として・・・」「転移の疑いがある場合・・・」嫌な文章ばかりが表示される。そうこうしているうちに再入院から一ヶ月が経った頃、「だいぶ回復したので、打ち合わせをしたい」という待ち望んだメールが来た。

久々にお会いする曵地さん。体調はどの程度なのか。会えずにいた一ヶ月の間、私は曵地さんの活動をずっと追っている地元紙記者と何度も会い情報を交換していた。それを踏まえて目次案を再考し、なるべく執筆しやすい道順をつけた「執筆アドバイス」や、大胆に内容をカットした修正案を用意し、それを持って病院を訪れた。病室で待っていた曵地さんは、一ヶ月前とほぼ変わらない姿だった。顔色もよく、痩せてもいない。同行した地元紙記者も「覚悟してきた割には・・・」と驚いているほどだった。声はかすれていたものの、話すことが苦しかったり痛みがあるわけではないという。食堂のテーブルで、滞っていた原稿のチェックをお互いに前のめりになって進め、最後にスケジュールの話をした。「もう、間に合わないですよね」「ええ、間に合わせる方法はないと思います」「わかりました。では目標を立て直しましょう。来年の4月11日でいかがですか?」「来年の4月ですか。ペースを立て直せば、もっと早く完成できると思いますよ」「その日は娘の誕生日なんです。できればそれに合わせたい」「そうですか。それなら治療と並行しても負担にならない、ゆったりとしたスケジュールを組み直しましょう。刊行は4月11日で了解です」ここからが再スタートだ。初めのプランは頓挫してしまったが、スタートなど何度もやり直せばいい。どうせゴールは一つだけなのだから。記者はそのやり取りを聞きながら、曵地さんの写真を撮っていた。

次に病院に呼ばれた時には、曵地さんは完全に執筆モードに入っていた。ノートパソコンの持ち込みを許可してもらい、精力的に原稿を進めていたようだ。「打ち合わせするのに、いい場所を見つけたんですよ」と言われて後をついて行くと、病院内の図書室だった。「ここ、これがあるんです」と指差した先には電源コンセント。そこでノートパソコンを開き、二人で推敲しながら直し作業を進めた。曵地さんの体調の心配、他の患者さんが来たら迷惑になるという心配、電気の無断利用の心配・・・そんないくつもの心配があったはずなのに、その時のことを振り返って思い出すのは、曵地さんの生き生きとした姿と前向きな姿勢だ。療養中の人に相応しくない表現かもしれないが、あの時の曵地さんからは、生きてやることがある人だけが持つ強い生命力を感じた。曵地さんとの仕事を進める際は、決して後ろ向きにはならない、少々間抜けなほど元気で前向きな人間でいようと自分に言い聞かせていた。しかし、相手はこちらをはるかに超えて元気で前向きだった。私が引っ張っているのではない、曵地さんが引っ張ってくれている。曵地さんの方が一歩先を歩いてくれているんだ。あの時、そして今も、そう思っている。

12月も半ばを過ぎた頃、「娘失った悲しみ 一冊に」「仙台・女性リンチ死事件」「曵地正美さん、病床で心境『被害者問題知って』」「来春、里美さんの誕生日目標に出版」そんな見出しが躍る記事が地元紙に掲載された。中央には、病院の食堂で原稿を手に語る曵地さんの写真がある。記事は「正美さんは『遺族の思いや刑事訴訟制度の問題点を本にし、被害者問題を多くの人に考えてもらうきっかけにしたい』と意気込んでいる」という一文で締めている。「意気込んでいる」という表現、見事だった。あの時の曵地さんの意気込みはすごかった。記事が新聞に載ったことで、曵地さんの病室には、「頑張ってください!」「応援しています!」「本が出来たら必ず買います!」と激励に訪れる同じ病院の入院患者が絶えなかったという。この記事、優れているのは内容だけではない。掲載日付は平成17年12月19日。そのちょうど5年前、曵地里美さんは事件に巻きまれた。忘れられない日に、天国の里美さんにお父さんの頑張っている姿を報告するかのような記事の掲載。地元紙記者の無言の激励に、曵地さんは奥さんと一緒に涙を流したという。(小)
7月20日(木)

曵地さんとの二度目の出版相談。この日も病院の食堂だった。「曵地さんの本、ぜひ小社で出版させていただきたいと思います。ただ、一つだけ約束してほしいことがあります。執筆よりも体調管理を優先してください。本を一冊書くのにはかなりのエネルギーが必要です。初めてでしたらなおさらです。執筆するのは体調の良いときと約束してください」。病気療養中の著者と仕事をするのは、これが初めての経験だ。無理をすれば身体に悪いだろうし、ご家族だって心配する。出版する気持ちに水を差すような話だとは思ったが、その点だけはどうしても言っておきたかった。「わかりました。自分の判断だけではなく、主治医の意見も聞いて決めます。近々二ヶ月ほど一時退院の予定がありますので、その時に家で書こうと考えています」。前向きながらも冷静な答えに、心から安心した。「それでは早速〜」と、執筆を始める上での注意点、章立ての仕方などを説明した。本格的な執筆は退院後とし、それまでは資料の整理に徹するとのこと。ある程度まとまったら会社に郵送してくれるとのことで、こちらも資料読みを同時進められる。最後に出版スケジュールを話し、完成をいつ頃と考えておくかと訊ねると、「今年の12月24日でお願いします。そうすることで本を出す意味が増しますから」と言われた。長女・里美さんの命日である。「日にちを決めてしまうと、焦りや切迫感が悪い方に出る可能性もあります。その一方で、目標がパワーにつながることもあります。その辺りはどうお考えになりますか?」「私は、悔しさとか困難をパワーにしてきました。具体的な目標があったほうがいいです」「わかりました。ではその日に本を持って一緒にお墓参りをしましょう。確かに約束しました」。そう言って、曵地さんと最初の握手をした。お互いのコーヒーは手付かずで冷めていた。

それからは、しばらく時間が空いた。病院に頻繁に顔を出してしまっては焦らせてしまうかもしれないし、かといって病院に電話をかけて呼び出してもらうのも迷惑がかかる。いろいろ考えて、絵葉書を出すことにした。病室は殺風景だから、少しでも気持ちが晴れればと美術館で買った花の絵の絵葉書を選んだ。葉書のやり取りで近況報告ができれば、気持ちが楽だ。返事は体調の良いときに書いてくれれば良いと思っていたら、すぐに電話が来た。「ありがとうございます。感激しました。体調は悪くなく、主治医も許可してくれています。つきましては、次の打ち合わせをお願いしたいのですが・・・」「曵地さん、病院のお電話からですか?」「いえ、携帯電話です。病院も容認してくれました」。その後は電話・メールでのやり取りが中心となり、結局曵地さん宛てに書いた絵葉書は最初の一枚だけだった

三度目の相談。ここからが出版の具体的な話で、「最初の打ち合わせ」と言ってもよい回だった。「これが、私の書きたいことです」。出された紙を見ると、驚くほど丁寧にまとめられていた。前回のアドバイスの細かい点まで守り、きちんと章立てが出来ていた。いくつかの質問をした後、「ここまできれいに章立て出来たら、もう1〜2割は完成したと言ってもいいですよ」と正直に言うと、曵地さんは「本当ですか? それは嬉しいなぁ」と恥ずかしそうにコーヒーを飲んだ。予定していた一時退院後には、すぐに執筆にかかるという。ちょっと急ぎのペースになるだろうが、この章立て通りに進めれば11月中旬〜下旬の原稿アップは可能だ。だとすると、12月24日の完成もより現実味を帯びてくる。章ごとにさらに細かく区切り、一時退院後の執筆スケジュールを立てようとすると、「これ、やっぱり第一章から書かなきゃいけないものですか?」と訊ねられた。「そんな決まりはありませんが、何かご希望がありますか?」「最後の章から書いてもいいでしょうか? 私が一番言いたいことは、最後の章に入れるつもりなんです。それを先に書いてしまえば、後で他の所を書いている時に何かに気づいて、その部分を書き足したり削除したりすることが出来る。どうでしょう?」執筆の順序としては少々変わった形式かもしれないが、著者が書きやすく書くのが一番である。「わかりました。では最後の章にいくつか柱を立てて、そこを先に書いてください。私は全体の章立てを見て、下書きの設計図を作っておきます」。分業同時進行・・・後にこの本の進行の基本形になる執筆スタイルが、このときに出来上がった。

予定どおり一時退院。その後は電話やメールで連絡を取る。一度ご自宅を訪ね、曵地さんと奥様の豊子さんと三人でお墓参りをした。ノートパソコンを使い、順調に執筆していた。そんな中、ある夕方に電話がかかってきた。内容は執筆状況の報告で、どうやらだいぶ遅れているようだ。しかし、それよりも気になることがあった。どうも声の調子がおかしい。その時は移動中のクルマの中だったので、はじめは電波が悪いのかと思った。しかし、クルマを停めて話を続けてもおかしい。おまけに、咳が多い。「曵地さん、喉の調子が悪いのですか?」「そうなんです。風邪を引いてしまい、こんなガラガラ声なんです」「これから寒くなりますから、こじらせないでくださいよ」そう言って、電話を切った。

「曵地は今日入院 柴田町の曵地です。本日再入院しました。咳が止まらず声もかすれぎみ。主治医と相談し、しばらくは治療に専念します」そんなメールが携帯電話に届いたのが、それから数日後の11月15日だった。(小)
7月19日(水)

曵地さんからの電話を受け、しばらく話をし、お会いする日を決めた。「わかりました。ではその日におうかがいします。それまでに図書館で昔の新聞を調べておきますので、事件があった日を教えてもらえますか?」こちらがそう言うと、「事件が起きて以降の全ての新聞スクラップがあります。それをコピーして、会社に郵送します」とという返事。「申しわけありません。よろしくお願いします」とお礼を言いながら、資料の整理はずいぶんマメにやっているんだなと思った。それと同じように情報の取捨選択やテーマ設定なども済んでいるなら、意外とテンポ良く執筆が進むかもしれない。そんな予感を少しだけ感じながら、資料が届くのを待った。

到着した新聞スクラップは、きちんと日付ごとに各紙がまとめられていた。量も予想以上に多い。最初の一枚から読み進め、疑問に感じた箇所には付箋を貼って質問を書いたり、新聞社によって違っている表現を書き並べたりした。事件の概要、曵地さんの活動を大まかに把握し、頭の中で本のイメージを膨らませることが出来た。このスクラップは、今日に至るまでずっとデスクの脇に置き、編集作業中にも何度も読み返している。初見の際の付箋やメモがまだ残っており、ちょっと懐かしくもなる。実は、届いた際の封筒もとってある。こちらは家の机の引き出しに、大事にしまっている。

初めて曵地さんにお会いしたのは、郊外の病院の食堂だった。病気療養中だと電話で知ってはいたものの、さすがに会うまでは心配だった。ナースステーションで病室を確かめ、開いているドアをノックしてから入ると、深夜のドキュメント番組と新聞記事の写真で知っていた曵地正美さんがいた。「どうも、曵地です」最初の印象は、ちょっと恐かった。自分が品定めされているのかもしれないとも感じた。当然だろう。自分と家族の生の経験を本にするというのに、担当者がいい加減では困る。今日は誠心誠意お話を聞こうと、会話のないまま上るエレベーターの中で考えた。食堂の4人掛け席に座り、コーヒーを注文し、話を始める。5年前の事件のこと、それ以降の活動のこと、そして入院している現在の心境・・・話は尽きなかった。身体のことを考えて、長くても一時間程度で辞しようと思っていたのだが、結局二時間以上話をした。次第に眉が下がり、雄弁になっていく曵地さんを見て、だんだんと気持ちが楽になっていったことも長居した理由だ。最初ということでお互いの考え方をまとめ、返事は次回改めてということで事案は持ち帰らせてもらった。

食堂を出てエレベーターの前で止まり、こう言われた。「どうですか? 私のことをわかってもらえましたか? 曵地正美像はできましたか?」。この時の笑顔が、今も目に焼きついている。初対面の相手に対して「わかってもらおう」と積極的に自分を開いたのは、私ではなく曵地さんのほうだった。曵地さんからの問いかけでそのことに気づき、自分を恥じた。相談される側の自分がこれでは駄目じゃないかと。帰りに車を運転しながら後悔した。そして、この人の著作を読みたい、この人を著者にしたい、自分が担当編集者になりたいと、強く思った。自分を開くことは先を越されてしまったが、執筆や編集作業ではしっかりリードして、良い本を作ろうとも。しかし、「こちらの一歩先を曵地さんが歩いている」という関係は、その後もずっと続くことになった。(小)
7月18日(火)

カレンダーの日付を見て、一瞬ドキッとする。下一桁の「8」が、連休明けの頭を混乱させたのだ。改めてスケジュールを確認する。今日は何も予定がない一日だ。しかし、次に下一桁が「8」になる日、つまり10日後の28日は、おそらく万感の思いで迎えることになるだろう。平成18年7月28日は、ほぼ一年がかりで担当してきた本の完成・納品日なのである。

はじまりは一本の電話だった。去年の八月、お盆の少し前くらいだったと思う。声はやや緊張気味で、「そちらから本を出したいんだが・・・」という話だった。出版希望者との最初の会話は、たいがい緊張に満ちたものになる。その後著者と担当編集者の関係になって、「いやぁ、最初の電話では・・・」と振り返ったときには笑い話になるくらい、ぎこちない会話になるものだ。しかし、その八月の電話からは別な緊張感を感じた。それは本を出したいと切り出すことの躊躇いではなく、その本の内容をこちらに伝える勇気が理由だったのかもしれない。「あの、私、実は・・・」受話器から聞こえる本の内容は、まるで予想しないものだった。さらに空気は緊張感を増した。気づいてみれば、相手の声はそれほど緊張していない。緊張しているのは自分の心の方だった。出版希望の電話であれほどまで緊張したのは初めてだった。

電話の主は、自分が何者かを語り始めた。順序立った自己紹介ではなく、あれもこれもと矢継ぎ早に言葉が飛び出してきた。それを聞いていると、おぼろげな記憶が頭の中で濃くなったり薄くなったりする。そして一つのハッキリとした映像が浮かんだ。数ヶ月前に観た、深夜のドキュメンタリー番組。電話の主はその主人公だった。「わかります、私、その番組を観ました」「あっ! そう、そうですか! あぁ、よかった・・・。そうです、あの番組で・・・」それからは話が早かった。相手の声の緊張感も、こちらの心の中の緊張感も、人肌で溶ける氷のように静かに水になった。後にこの電話のことを、電話の主の直筆の日記で振り返ることになる。「○○氏は○月○日放送の○○を観ていたとのこと。話が早い。本当によかった」と書いてあった。

10日後の平成18年7月28日に、自身最初の、そしておそらく最後の著作が出来上がるその人の名は、曵地正美さん。あの電話から曵地さんは著者となり、私は担当編集者になった。本が完成するまでの、最後の10日間。この欄をその想い出を書き綴る場にしたい。(小)

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