本の森通信 2006年9月号

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9月15日(金)

『再会の日々』を読んでくれた、尊敬する友人・Iさんより本の感想が届いた。この方は仙台市立宮城野図書館で館長を務められており、先日の毎日新聞の記事で紹介された“犯罪被害者本コーナー”を企画された方でもある。刊行より前から、新聞・テレビ等の報道で同書に注目してくれており、完成後にはすぐに読者になってくれた。本人の了解を得て、届いた感想の一部を以下に抜粋する。

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ご縁があり出来立てを読むこととなった『再会の日々』。それは正真正銘、忘れえぬ作品となりました。何ゆえか、ということについてはいくつもの理由があります。

その一つは、その主題となった事件が自分の住むまちを舞台としていて強い印象とリアリティがあったこと。最近、あまりにも信じられないような事件ばかりたくさん起きるため、テレビを見ても新聞を読んでも、正直言って「あー、まただね」と受け流しがちです。もし一つひとつをちゃんと心で受け止めていったとしたら、きっと身がもたないことでしょう。
でもこの事件については、その悲惨さと理解のし難さ、そして長期にわたって繰り返されたさまざまな報道ゆえ、このまちに住む人々の脳裏に特別な刻まれ方をしたようです。私もその一人であり、「このまちの、あの場所で・・・」という感覚が、不確かながらも心に引っかかっていたのです。

(中略)そしてさらにもう一つの忘れえぬ理由。それは、曵地さんご夫妻の人間としての姿にあります。もちろんお目にかかったこともないのだから、本を通して、ということになるのですが。そして、先に記した二つとは異なって、紛れもなく読ませていただいたゆえの理由ということになります。
この作品の主題は、まさしく犯罪被害というものの苦しみと、その個人的・社会的な克服ということに尽きるでしょう。ゆえに、読むことがこれほどつらい経験は比類ないものがありました。特に前半第四章までの「わかりうる範囲の事実経過」は、私を戦慄させるのには十分過ぎるほどでした。お書きになったのはノンフィクション作家ではないのです。愛する娘さんを突然訳もわからず失った当事者なのです。手にした後も、途中で何度も読み進めることができなくなりました。そんな経験は初めてでした。でも、目をそらしてはいけないと思いました。これを読みとおすことは、人間としての私の使命であり、義務のようにすら思えたのです。

第五章以下の「その後」の経過にも、今度は事件そのものの凄惨さではなく、ある意味でもっとつらい残酷さが潜んでいました。弱い私ならきっと乗り越えられないであろう深い悲しみと憤り、そして人間不信に陥りそうな日々を、ご遺族は乗り越えてこられたのだなあと思わずにはいられませんでした。
だからです。不条理極まりない事件に対する怒りのあまり、この本の出版を記念して小さな企画展の棚を用意したときに、

「何が奪われるのか」

という言葉をタイトルに添えたのは。

途中まで読み進みながら、「この事件、この本から、どうやって救いを求められるだろうか・・・」という大きな不安にかられました。本当は、真の悲しみや怒りをわがことのように共有しきれるはずもないのに、憎悪の念は増幅するばかりでした。
けれども、裁判がはじまり、受刑者との接点を求め、対面を果たし、さらに犯罪被害者としての活動にも携わってゆくシーンへと読み進むうちに、いつしかこの作品の読み方が変わってゆくのを覚えていました。曵地正美さんという一人の人間像に惹かれはじめたのです。

「これほどの悲しみと怒りに、人は耐えることができるのだろうか?」
「これほど他者を憎しみを感じねばならない自分に、我慢ができるのだろうか?」

私のその問いに、曵地さんはちゃんと答えてくださいました。想像するなら「顔も見たくない」であろう加害者たちから、目をそらすどころか、あふれる「負の感情」を抑えつつ彼らをきちんと見据え、言葉を交わす・・・。疑念の数々や整理しようもない気持ちを一つひとつ解いてゆき、行きつ戻りつ少しずつ少しずつ心の中に納めてゆく・・・。
 曵地さんは、そうやって亡き娘さんと語り合い、奥様と確かめ合い、自分と向き合って、何か途轍もなく大きな壁を乗り越えてこられたのですね。人は越えられないものをどうやって越えるものなのか、越えようとするものなのか、心の中の埋めようのない大きな空洞をどうやって埋めてゆくものなのか、そうしたことを自らの生き方で示してくださったのだなあと思いました。

この作品の読み方は、人それぞれなのだろうと思いますが、そういう意味では、私にとってこの本は、図書館の書架の分類上「法律」でも「社会病理」でも「ノンフィクション文学」でもなく、哲学・思想コーナーの「人の生き方」のあたりに置いてみたくなるのです(そんなことを言いだす読者はあまりいないでしょうが・・・)。

最終章に近づくと、加害者たちの更生に関する思いや、法制度のあり方、そして今後の活動のことなどが語られていきます。もうそこには、<再会の日々>を重ねてゆくことによってなにものかを克服したひとゆえの、力強く、神々しいまでの美しい人間の姿が浮かび上がっていました。憎しみを越えて、許せないものを許し、願う気持ちにまで到達できる・・・「人間って、ほんとうに素晴らしい!」と感動を覚えました。

私にとっての『再会の日々』というたった一冊の本は、そういうことを感じさせてくれた作品でした。この本を世に送り出し、私に届けてくださった曵地さんご夫妻をはじめすべての方々に感謝の気持ちをささげたいと思います。そして、『再会の日々』を含むさまざまな本をたくさんの方々に提供するという私の仕事に喜びと誇りを感じつつ、これからも一冊一冊に期待や願いをこめていきたい・・・。読んでからけっこう日にちも経つのですが、いまだにそんな感慨に包まれています。

これもきっと、本のもつ力というものなのですね。

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あふれる想いをそのまま文字にあらわしてくれた、率直な感想であると思う。図書館人らしい意見もあり、これまで数多く寄せられた感想の中でも独特の視点からのものと言える。

この感想は、著者への全文転送も了解いただいている。何の本であれ、読者からの感想は著者にとってこの上なく嬉しいものの一つだ。出版後もまだ続く著者の活動に、勇気を与える一文となってくれることを願う。(小)
9月14日(木)

気仙沼の知人から生サンマが届いた。早速塩焼きで初物の味を楽しむ。旨い!
初水揚げ直後にしては身が厚く、食べ応えがある。脂は少なめかもしれないが、品のよいコクとでも言おうか、大根おろしに程よく消えるあっさりとした脂だ。最盛期のサンマの、焼いているうちに身を揚げるかのように溢れ出す脂もたしかに魅力だが、今の時期ならではの“乗りはじめ”の脂も良いものだ。新鮮だからか焼身は美しいほどで、骨を取っていくとどこまでもきれいに取れ、頭のあたりまでぎっしりと身がつまっている。はらわたにはまた別の旨味がある脂があり、それを箸で削ぎ落として身に乗せて口に入れると、これ以上ないバランスの秋味が舌の上に広がる。生サンマの塩焼き二本に、白飯を一杯。実に贅沢な昨夜の夕食であった。

まだ知らない美味しい食べものが、世界中にはゴマンとあるのだろう。それを求めて出向き、新しい味と出会うことに喜びを感じる気持ちはわかる。ただ、自分の知っている“美味しいもの”を、それを食べる時毎に喜びを感じるという食生活も悪くないと思っている。世間で美味しいと言われる食べものを100知っている人よりも、自分で美味しいと思える食べものを5つ知っている人に、私はなりたい。

原武史著の『大正天皇』が面白い。世間での評判が高いのは知っていたが、こんなに面白いとは予想していなかった。「序章 悲劇の天皇」においていきなり「遠眼鏡事件をめぐって」と大正天皇を語るエピソードとして最も有名なものをとりあげ、それを二つの貴重な回想文から検証する。これを導入にしてしまっては、それ以降の展開の「タマ」がなくなるのではないかと勝手な心配をしてしまうのだが、まったくの杞憂である。次から次へと興味深いエピソードが登場し、まるで飽きることはない。皇太子時代の巡啓については、さすが原武史氏、自身の“鉄っちゃん”ぶりを存分に活かし、地図入りの行程表を付記している。これを先に読んでいる読者は、この行程表とその文章でニ倍楽しめるだろう。所々に出てくる大正天皇の容態を言う資料や、写真・絵葉書などによって本テーマに引き戻されるが、全体に感じるのは「大正天皇像」と言うべきその人となりを、ページを進めながら読者とともに作っていこうとする著者の姿勢だ。冒頭において「三人の近代の天皇の中で、明治天皇、大正天皇、昭和天皇という三人の中で、大正天皇に対して、僕らは圧倒的に貧困なイメージしか持っていない」(『戦後の思想空間』大澤真幸 ちくま新書 一九九八年 111頁)という言葉を引き出しているが故、大正天皇に対して何かイメージを持つことを試みているのだろう。果たして、どんなイメージを持つことになるのか。それは読後の楽しみである。この本は、たぶん将来再読することになるだろう。そのくらい面白い。

まだ知らない面白い本が、世界中にはゴマンとあるのだろう。それを求めて出向き、新しい本と出会うことに喜びを感じる気持ちはわかる。ただ、自分で面白いと思える本を、将来再読する自分のために記憶しておくという読書生活も悪くないと思っている。世間で面白いと言われる本を100知っていて、さらにその中で将来の自分に薦められる本を5つ挙げられる人に、私はなりたい。(小)


9月13日(水)

午前中、地元テレビ局の記者Oさんが遊びに来てくれた。前にこちらで紹介したネタが先日放送になり、そのことを話題に取材の裏話等を聞いた。ネタのもとになったのは、小社刊行のこの本。放送ではその特集の時間帯だけ視聴率が上がったそうだ。やはり、関心が高いジャンルなのかもしれない。

しばらくお話ししていたら、「実は、来月から東京に異動なんです」と言う。急なことでびっくりした。Oさんは以前4年間東京支社にいて、次に本社で6年間報道の仕事をし、そしてまた今度支社に行くという。これからも色々なネタを相談してみようと思っていただけに、何とも残念である。

Oさんと知り合ったのは、『再会の日々』の著者・曵地豊子さんの取材を通してだ。もともと小社は地元マスコミの方々がよく出入りしており、新聞・雑誌関係の方は頻繁にいらっしゃる。しかしテレビ局となるとほんの1〜2人くらいで、そう多くはない。Oさんは取材のあとも丁寧なメールをくれたり、小社に遊びに来てくれたりして、特に親しみを感じていた。

タイミングが悪く、かえって失礼かもしれないと思いつつ、来月1日のネタを紹介してみた。大いに興味を持ってくれたので、そのネタの資料を渡した。それに目を通したあと、「あぁ、こういうのが見られなくなると思うと、淋しいなぁ」とOさんが言った。こちらも、興味を持ってくれたOさんに取材してもらえないのは淋しいものだ。でも、またいずれ一緒に仕事が出来る日が来るかもしれない。その日を楽しみに待つことにしよう。Oさん、東京に行ってもがんばれ! (小)
9月12日(火)

今朝の毎日新聞宮城県版にこんな記事が掲載された。実に興味深い内容で、朝からじっくりと熟読してしまった。学校での昔話の授業。なんとも魅力的である。しかも、佐藤玲子さんは、小社刊行の佐々木徳夫氏の昔話本に数多く登場する一線級の語り手である。記事には昔話を語っている佐藤さんの様子と、それを笑顔で聴いている生徒の姿の写真が添えられている。これまで名前しか知らなかった佐藤さんのお顔、そして地元でその語りを聴く贅沢を得ている中学生を見て、なんだか心が温かくなった。語りを聴いた中学生は、きっとそのことを忘れないでいるだろう。たとえ普段は意識していなくても、何かの時に「あぁ、そういえば中学校で地元の人の語りを聴いた」と思い出すかもしれない。そういう記憶が、これから先五十年は宮城県出身者に残るということだ。大げさかもしれないが、昔話の将来に明るいものを感じずにはいられない。

取次店へ行って打ち合わせをし、『文藝春秋』十月号を購入。大学の先輩で同誌編集部にいるTさんが、取材で仙台にいらした。その時の記事が載っていたので、真っ先にそこから読む(普段は「蓋棺録」から読むことにしている。このページの文体がたまらなく好きで、あらゆる意味で勉強させてもらっている)。企画タイトルは「呆けないための脳の鍛え方」。このテーマで仙台取材となれば、当然執筆者は東北大学の川島隆太教授だ。読み終えるとN社の携帯ゲーム機がほしくなることうけあい。感想はメールで送ろう。

今月号の同誌の特集は、「紀子妃ご出産と皇室の運命」。月刊誌の締め切りから言って、当然誕生前の企画立案・取材・編集である。当然新宮様の性別も悠仁(ひさひと)様の名前は当然出てこないが、読み応えのあるラインナップのようだ。皇室が話題になっている今、これを機会に読んでみようと思い出した本がある。原武史著の『大正天皇』。原氏の名前を広く知らしめた作品であり、各方面で様々な議論を呼んだ本だ(ちなみに原氏が“鉄っちゃん”であることを広く知らしめたのはこれ)。現代史ゼミにいた学生の頃を思い出し、じっくりと読んでみよう。

午後に地元紙で論説委員を務めるTさんが来社。ネット社会の恐さ(面白さ)や、先日頂戴した著作『シビック・ジャーナリズムの挑戦』の話などをする。Tさんが試みようとしている報道の姿勢は興味深く、そこには“地方紙”の新しい形(=正しい形 かもしれない)が垣間見える。今週土曜日(16日)には、Tさんが講師をされるこんな催しが開かれる。当日は『再会の日々』についても言及してもらえるとか。ご興味のある方は、リンク先の詳細をご覧いただきたい。もちろん、私は参加するつもりだ。(小)
9月11日(月)

遅ればせながら、昨日『半落ち』を読了。映画公開時から「素晴らしい」「絶対に観るべき」などの評判を聞いていたが、いずれ本で読もうと思って映画は観ずにいた。『影の季節』『動機』『第三の時効』と、横山秀夫氏の警察ものを三冊読んだ後に、「さて、いよいよ・・・」と買ってきた。

一言で言って、読ませる作品である。読み手の読むスピードを上げさせず、当然読み飛ばしもさせない。書き手が作ったストーリーを、書き手の思い通りのスピードで読ませる・・・そんな不思議な力を持つ空気が行間から漂ってきているような感覚だった。物語で重要な役割を果たす5人の男それぞれに章を割き、きちんと時系列に展開する。この構成の読み易さも大きな評価ポイントだろう。さらに、主人公の人間性が魅力的だ。この主人公については、素性についての少ない情報が繰り返し語られるだけで、展開を追いながら人物像が変わっていくことはない。しかし、読み手は、他の登場人物がこの主人公に興味を持っていくのと歩みを同じくして、だんだん惹かれていく。そしてこの作品の最大のポイントであり、主人公が決して語ろうとしない「空白の二日間」が気になっていく。

読後感は、ミステリーや推理小説には珍しく清々しい。もっとも、この作品はミステリーでも推理小説でもないのかもしれない。この清々しさを説明するには作品の最後を紹介せねばならないのだが、それは未読の方に申しわけない。この作品を読む楽しみを奪うなんてことは、とても出来ない。是非ともご一読いただき、ここでは「清々しさ」と表現した読後の味わいを楽しんでもらいたい。

清々しさといえば、先週全国紙の県内面に書評が掲載された『北に吹く風』も清々しい“人間の物語”だった。その書評は、同作品の執筆の動機が、著者のある一つの疑問から始まったことに触れ、「疑問を解き明かそうと資料に当たった。しかし、疑問は膨らんでくるばかりだ。そこで著者は小説で答えを出すことにし、本書を著した」と締めている(抜粋)。あまり見ない形式の書評だが、なかなか面白い切り口だ。中身を知っている担当編集者でさえも、「ならば、その答えとやらを読んでみよう」と思ってしまう。こんな書評文もあるものだ。短文ながら、勉強になる一文だった。(小)
9月6日(水)

昨日は午後からお休みを頂戴し、クルマに乗って少々遠出をしてきた。まず向かったのは仙台市宮城野区にある仙台市立宮城野図書館。ここで興味深い企画展示があるとのことで、見学に行った。同館一階カウンター近くにある小さな展示コーナー。そこには犯罪被害関連の本が集められている。企画タイトルには「犯罪被害 何が奪われるのか」とあり、その脇には「『再会の日々』刊行記念」の文字もある。犯罪被害に遭った方の手記や被害者救済に関する法律書・研究書、またライターによるルポや記録など、あらゆる切り口から犯罪被害を取り上げた本が揃っている。この企画展示は、先日毎日新聞の記事でもカラー写真入りで紹介され、同館には反響が続々届いているという。この展示を始めるにあたって同館館長のI氏から打診があったのは、『再会の日々』の刊行直前くらいだったと思う。意義のある企画なので協力を約束し、著者にもそういう動きがあることを伝えると、「一冊の本からそんな広がりが出るのは本当にありがたい」と喜んでいらした。この企画展示は今月10日頃までということなので、まだご覧になっていない方は是非一度足をお運びいただきたい。

その後クルマで松島を過ぎ、遠田郡美里町へ。今度は同町の小牛田図書館(美里町近代文学館)へ行った。一階が普通の図書館で、二階は町民ギャラリーと同地にゆかりのあるジャーナリスト・千葉亀雄の生涯が紹介された展示室になっている。恥ずかしながら千葉亀雄についてはほとんど知らなかったので、室内のビデオを見ながらしっかり勉強させてもらった。その後近くの回転寿司店で食事し、美里町文化会館へと向かった。

この日の同会館の催し物「大地の詩ASIA」は、説明し始めるといろいろなことに触れなくてはならなくなり長くなる。誤解を恐れずに簡単に説明すると、毎年六月にインドネシア・バリ島で開催される音楽・舞踊・演劇などの「バリ・アート・フェスティバル」に、今年は美里町のイベント制作会社に所属する和太鼓・津軽三味線奏者たちが招待され、現地で演奏し地元アーティストとのコラボレーションも行なってきた。昨日はその「お返し」とでも言おうか、今度はバリのアーティストたちが美里町を訪れ、同じように演奏とコラボレーションをするというものだ。来日したアーティストたちはトップレベルの実力派ばかりで、現地に観光旅行で行ってもまずお目にかかれない大御所ばかりだという。実は先週末に仙台での講演もあったのだが、やはり「ご当地・ふるさと」のステージのほうが日本の奏者もバリのアーティストも気持ちが乗るだろうと思い、あえて“密航”したのだ。

バリの演奏・舞踊は思った以上に惹き込まれるものだった。太鼓が刻むリズム、笛が作るメロディだけならさほどでもないのだが、鉄琴に似た打楽器が奏でる独特のハーモニーが加わると完全に異国の音になる。「バリの香りまでも感じたい」と前から三列目に座ったのだが、香りはおろか熱気まで感じるほどの臨場感を楽しめた。舞踊家の指先の演技、まばたきをしない顔の演技、そして足腰を相当に鍛錬しているであろうステップには、時間を忘れて目を奪われてしまった。続く日本の奏者「エムズ・ジャパン・オーケストラ」は、各種和太鼓・津軽三味線・横笛など、日本古来の伝統楽器を扱う。若い彼らの演奏はここ数年何度か見る機会に恵まれているのだが、その成長や充実のあとがわかるステージで大いに満足した。彼らは本当にすごい。美里や仙台を拠点に活動し、その次の舞台が東京(国内)ではなくバリ島(アジア)だというのも心強いではないか。最後のコラボレーション・ステージも、実験的なニュアンスを持つ「コラボ」を超え、「競演」「協演」と言えるほど完成度の高いものだった。

終演後に感想を伝えようと、このステージのプロデューサーであり友人のS氏を待ったが、楽日の現場で野暮なこともできないと早々に駐車場へ。お土産に持って行った宮城の地酒、打ち上げの席でバリのアーティストたち飲んでもらえただろうか。そんなことを考えつつ街道を走ると、真夜中で交通量が少なかったせいか一時間半ほどで自宅に着いた。バリ島は意外と近かった。(小)
9月4日(月)

九月に入った。暑さも落ち着き、湿気も少ない。朝夕には爽やかな風が吹き、気持ちのいい時季となった。今日は午後に著者宅へ。つい先日まではいくらペダルを回してもジットリとした空気がへばりついてきたが、今日は心地良く軽い空気が肌に触れる。なんとも快適な移動で、疲れすらあまり感じないくらいだった。

途中、二つの高校の前を通ると、なんだか賑やかである。文化祭をやっているらしい。昼過ぎなのに制服姿の女子高生や自転車で隊列を組む男子高生がやたらに多いと思っていたのだが、他校の文化祭を廻っているのだろう。バス停にも高校生の長い列ができていた。

十数年前を思い出してみても、他校の文化祭に行った記憶がない。自校の文化祭で精一杯で、廻る時間も気力もなかったのだと思う。まぁ今になって振り返ってみても楽しい思い出ばかりで、前日の準備を含めた三日間は忘れられない。おそらく、あんなに楽しい三日間を過ごすことは、今後の人生においてもう無いのではないかと思うほどだ。たしかに、02年に地元開催のW杯を観に行った時もすばらしい一日を過ごした。でも、連続三日間の楽しみとなると、ビートルズが再結成してそのライヴを3DAYSで観るとか、ツール・ド・フランスの最後の三日間をマイヨ・ジョーヌを着て走るとか、会いたいけど会えない何人かの人と三日間ゆっくりと話をするとか、そんなことでも実現しない限りあの三日間を越えることはないような気がする。

そう言いつつも、本の納品(完成)前後の三日間は、いつも「プチ文化祭」的な感覚を自分自身の中だけで楽しんでいる。早い話がモノづくりの楽しみで、頭の中だけの達成感や満足感とはひと味違うものだ。時間に追われながら、精一杯のことをして入稿する瞬間、完成品の包みを開いて、一番上の一冊を手に取る瞬間。この喜びは他に代え難く、「作った」「終わった」の達成感・満足感がある。月刊誌の編集部にいた頃は、毎月の校了日と納品日がそうだった。考えてみれば、この仕事を長く続けているのは、案外あの十数年前の三日間が大きな理由なのかもしれない。(小)