
いんさいど世界(6)
「利他」へ進化した進化論
2004年の新年が明けました。ことしはわたしたちにとって――わたしにとって、あるいはわたしたち日本人にとって、はたまたわたしたち人類にとって、一体どんな年になるのでしょう。「元日」は、わたしたちを、そんな思いに誘ってくれます。
未来に思いを馳せる機会を提供してくれる元日の朝。自分自身のことだけでなく、人類の明日さえも考えさせてくれる元旦。今朝はちょっと、わたしたち人類に関する、ちょっとマジメな話をしてみたいと思います。
「進化論」――ご存知ですよね。1859年に発表されたダーウィンの『種の起源』で一気に広まった考え方です。自然淘汰・適者生存の、あの進化論です。このダーウインの進化論はこれまで、利己主義――つまり、エゴイズムの温床となってきました。
個体が個体として(淘汰されずに)生き残っていく。それが結果的に種の進化につながる。そういう議論が利己主義を正当化して来たのです。他人を救うという利他的な行為さえも、自己満足の利己的な行為とみなされて来た。こういう「利己主義の進化論」あるいは「進化論に名をかりた利己主義」に対して、「利他主義の進化論」あるいは「進化論に裏付けされた利他主義」が、新しいアカデミックな潮流となって来ているのだそうです。
昨年秋、ニューヨーク・タイムズ紙に連載された、「新しい科学の流れ」という特集
記事でのなかで教えられました。1999年にハーバード大学出版会から、ソーバーさんとウィルソンさんという2人の学者が書いた『他者のために Unto Others』という本が出て、それ以来、利他主義が進化の動因のひとつであることがアカデミック・レベルでは半ば常識と化しているそうです。
この『他者のために』によれば――読みかじっただけで、偉そうなことは言えないのですが――利他主義・・・・・・これを英語では(Altruism)と言いますが・・・・・・、これが1970年代以降、進化論(人類進化)や心理学(人間心理)の面で見直されて来ているのだそうです。
おれたちはみんなエゴなんだよ、エゴやってれば、それでいいんだ、自然淘汰だよ、適者生存だよ、何が「利他」だよ、キレイ事言うんじゃなにょ、ふざけんなよ、――といった、いわば「エゴイズム原理主義」に対して、とくに進化論の学問的研究のなかから批判が高まり、仲間のために、とか自分を犠牲にしてでも、といった「アルトゥルーイズム=利他主義」が、生物進化(人類を含む)の重要ファクターと評価されるようになって来ているそうです。
進化論の用語でいえば、個人レベルの自然淘汰(ナチュラル・セエレクション)が全てだというわけではなく、集団レベルの自然淘汰も重要であって、集団レベルにおいては「利他的な行為」が重要な役割を果たす――ということなのでそうです。もうひとつ、この「アルトゥルーイズム=利他主義」に重きをおくあたらしい学問的な潮流のおもしろいところは、「利他万能主義」ではないことです。「利己」もあれば「利他」もある。そのバランスのなかで、生物進化が続いていく――しているところです。「利己」を排除しない「利他」・・・・・・これって究極の利他主義なのかも知れませんね。
昨年は、保険金殺人事件とか、幼児虐待とか、とんでもないエゴイスティックな行為、犯罪が続発しました。ああいうのをみていますと、なにが人類の進化だ、退化じゃないか、って思いますね。自分のためじゃなく、他人のために何かをする、それが人類の進化につながっていく。まさに「情けは他人(ひと)のためならず」――ことしこそ、譲り合い、助け合いのよい年にしたいものですね。(2004・1・1)