12月7日(日) 第10回目 「西南戦争と八代について(1)」

洲口白島の標木   明治10年(1877年)、近代国家へと脱皮を図る日本を揺るがした国内最後の内戦「西南戦争」。明治新政府への士族の反発が引き金となり7ヶ月に及ぶ長い戦いが繰り広げられた西南戦争から今年はちょうど120年目に当たる。司馬遼太郎の小説「翔ぶが如く」にも八代のことが出てくるので、3週にかけて八代での西南戦争の史跡を訪ねてみたい。
二見洲口海岸   2月19日に熊本城が炎上し、3月になって政府軍と薩軍とが田原坂で大攻防戦を繰り返していた。そうしているとき、3月19日未明、軍艦を率いた政府軍が二見洲口町の海岸から八代制圧のために上陸した。現在、国道三号線沿いの白島(しらと)というバス停のすぐそばに「官軍上陸の地」と書いた標木が立っているが、この標木はかなり古く、標木の文字はほとんど読めない。
日奈久の記念碑   日奈久の観光案内所の裏手にも「官軍上陸の地」と書いた記念碑が立っていた。こちらは、昭和62年5月、まだ衆議院議員だった坂田道太さんの文字で建立された。そこには、穂多田正典さんが「西南の役と日奈久」と題した説明文を書いておられた。
「明治10月3月、西郷隆盛は1万5千の兵を率いて熊本城に迫ったが、当時日奈久は薩軍の勢力下にあり糧食基地であった。3月19日日奈久南方洲口に官軍数百の兵が上陸。その援護に日奈久に向かって艦砲射撃。これと前後して数隻のボートにより日奈久港に上陸を敢行したとき銃火が交えられた。その時の官軍の銃弾のあとが海岸に面していた八代屋二階の柱に痕跡をとどめている。」
柿本さん  この官軍の八代上陸について、今回は八代史談会会員で西南戦争研究会会長の柿本登美男さんにインタビューした。それによると、日奈久方面以外でも八代市内の今のYKKあたりに官軍が上陸したそうである。

※現在の洲口海岸は埋め立てられて、西南戦争当時とはかなり海岸線は変っているそうです。柿本さんの話は止めなければずっとしゃべっておられるようでした。西南戦争については柿本さんに聞きなさいと史談会の人に勧められたのですが、大正解でした。司馬遼太郎の小説にもこの柿本さんの意見がかなり入れられているようです。

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12月14日(日) 第11回目 「西南戦争と八代について(2)」

  西南戦争の八代での史跡は先週の官軍上陸地の他、次のようなところがあります。

出町光徳寺「明治10年西南戦争 官軍(衝背軍)本陣跡」

光徳寺   明治10年3月19日、高島鞆之助大佐(後少将)率いる別働第二旅団(のち別働第一旅団)の1部は洲口村(現・二見洲口町)に上陸し、鳩山に陣取る薩摩軍と戦った。これが 衝背軍の最初の戦いである。高島大佐らは海路八代に上陸し、ここ光徳寺を本陣とした。以後、衝背軍は日奈久、八代から数字に亘り上陸して、八代郡下に侵入した薩摩軍と戦いつつ北上した。この本陣は4月1日に松橋に移るまで存在したようである。
 衝背軍総指揮の黒田清隆参軍、大山巌別働第5旅団長、山県有朋参軍も滞在している。

塩屋町慈恩寺「明治10年西南戦争官軍(衝背軍)別働旅団本営跡」

慈恩寺   明治10年(1877年)3月、征討軍と薩摩軍は植木町田原坂で悪戦苦闘の最中であった。政府軍は別働3旅団を編成し、衝背軍として南方から攻撃することにした。3月19日別働第2旅団(のちの別働第1旅団)は須口村(現二見洲口町)と八代から上陸し、光徳寺を本営とした。同25日山田顕義少将率いる別働第2旅団と川路利良少将兼大警視の別働第3旅団と共に八代に到着。同日山田少将らはここ塩屋町慈恩寺に本営を置いた。この後衝背軍は鏡町、松橋、宇土へと進撃して熊本城に入ったが、この間坂本、古麓、宮地、宮の原、小川などで一進一退の激戦があった。4月17日に八代来襲の薩摩軍を壊滅させた。

宗覚寺と西南戦争(薩摩軍陣営の跡)〜県作成説明板より〜

宗覚寺山門 宗覚寺説明板   この寺とその一体は、明治10年の西南戦争で官薩両軍の激しい戦いがあったところである。 寺は薩摩軍の本陣となったために、山門を残して本堂と庫裡は焼失した。山門の柱にある傷は薩摩軍が敗走するとき、無念さからつけた刀傷であるという。 近くの谷地区は手漉和紙の産地であったが、このときの戦いで多くの住家が火をつけられ、僅かに3軒が焼失を免れたという。

宗覚寺山門の傷 ※これが薩摩軍が敗走するときに無念さからつけたと言われる山門の刀傷です。皆さんにはどのように見えますか?




植柳小学校内の「栽柳園」〜八代市教育委員会作成の説明板より〜

栽柳園   栽柳園は、「植柳お茶屋」と呼ばれ、細川家のお茶道役古市師の設計により、松井家お茶道方の徳永氏(古市師の高弟)の作庭で細川家古流の茶庭、書院庭として有名である。 この庭の池水はもと球磨川から引かれ、その池をへだてて眺められる築山は駿河湾から富士山を望んだ景色を模してあり、背景には九州連山の自然がとりこまれている。 第10代八代城主松井章之は、明治6年にここに隠居所をつくって移り住み、章之は能楽(金春流)を好み、邸内の能舞台で稽古を励み、その全盛をきわめた。 西南戦争には薩軍が一時陣営をおいた所で、明治41年に植柳小学校の校地になり、昭和43年以来、栽柳園保存会の手により保存されている。

※こんな立派な庭園が1小学校の中にあるのにはたいへん驚きました。

春光寺と西南戦争(官薩両軍の激戦地)〜県作成説明板より〜

春光寺 春光寺説明板 慰霊碑   春光寺は肥後細川公の筆頭家老松井家の菩提所で、本堂裏手の書院造り(御成りの間・御次の間)は江戸時代のままである。 明治10年の西南戦争では辺見十郎太の率いる薩摩軍がここに陣を置いた。4月は特に激しい戦いで、寺の古廟にある神道碑、御次の間の板襖、達磨像に弾痕がある。 寺域は初め薩軍の陣地となり、大砲2門を据えて発砲したが、官軍の猛攻で両軍とも多くの戦死者を出した。 近くの萩原堤では熊本協同隊参謀宮崎八郎が戦死し、桜馬場では薩軍の遺体が埋葬されたという。
  春光寺では両軍戦没者のため慰霊碑を建立している。

大楠と西南戦争〜県作成説明板より〜

妙見宮 大楠と西南戦争 妙見宮の大楠   明治10年の西南戦争で、この一帯(当時は宮地村)は官軍・薩軍の攻防が激しいところであった。戦禍は猫谷村・古麓村に拡がった。この大楠(市指定記念物)は、中世の歴史と明治の戦いを眺め、その幹には多くの銃弾が撃ち込まれているという。 境内の樹木が台風で倒れたので製材に出したところ、銃弾が入っていて鋸の歯がつぶれたという。
  江戸時代再建の妙見宮(八代神社)の社屋と共に、当時を偲ぶ数少い語り部である。

激しい攻防戦のあった桜馬場戦場跡

桜馬場   春光寺門前から球磨堤に通ずる道路を桜馬場という。古来八代城主松井氏が38本の桜を移植した場所で桜の名所として有名であった。西南戦争のとき薩軍・熊本城包囲をとくために政府の衝背軍が八代に上陸し塩屋町慈恩寺に本陣を置いて進撃した。4月初め薩軍の別府・辺見指揮軍は八代進撃で古麓一帯に陣を構え激しい攻防戦が展開された。4月6日には熊本協同隊の宮崎八郎が萩原堤で戦死した。4月11日より薩軍は再び八代攻撃のために球磨川沿いに進撃し、17日にかけて銃砲撃戦が激しさを増し、その戦場は植柳、高田、萩原、坂本村小川、桜馬場、宮地、猫谷と広がり、薩摩軍2千余人と官軍との攻防戦が展開された場所である。このため双方共にたくさんの死傷者が出た。この桜馬場の桜にも多数の弾があたり、今では僅かに数本残るだけである。

陸軍並びに警視隊員納骨堂〜県作成説明板より〜

官軍墓地   この地は元八代郡八代町字若宮(現塩屋町)西南の役陸軍墓地である。当時面積は2826坪(9326u)399名が埋葬されていた。元八代郡横手村字馬渡(現大手町)に警視隊墓地があり、面積は1993余坪(6577u)270名が埋葬されていた八代市都市計画道路工事のため両墓地を改葬しここに合葬されたものである。

官軍墓地説明板

明治の文豪の田山花袋の父ここに眠る

田山花袋の父田山鍋十郎(群馬県出身)は警視庁別働隊1等巡査として出征。明治10年4月14日の「御船の戦い」で戦死(享年40歳・花袋6歳の時)し、ここに葬られている。

明治10年西南戦争警視局員墓地参道跡

警視局員   この地は元八代郡高田郷横手村字馬渡にあった警視局員墓地に至る参道であった。参道の起点は薩摩街道松馬場通り(現在の市道)に接しており、そこに鳥居があった。参道の長さは190mあり、墓地は現在の大手町2丁目バス通り(県道)の南にあった。参道の左右は墓地の周りに通ずる堀川があり、その外側に松並木があった。現在地の歩道が西側の土手で東側の堀と土手はおおむねセンターラインと東側歩道の中間あたりであった。昭和24年(1949)、市の都市計画事業により、墓地は集骨整理され、薩摩墓地の遺骨と合葬し、現在の塩屋町納骨堂に墓標と共に移された。この時、参道も拡張された。墓地の埋葬者は陸軍少佐兼警視国分友諒以下軍夫まで270名で、田山花袋の父も埋葬されている。

※この他に宮崎八郎の戦没の碑などがありますが、それは来週やります。今週も柿本さんに熱く西南戦争の激戦の模様を語ってもらっています。

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