平野啓一郎【日蝕】を讀む。 文藝春秋七五頁の所謂「二百七十枚の大作」にして二日費かりで通讀。
先づは佛伊地名漢字表記が氣に入り『
巴黎は通常「巴里」と記し、
偖て、『
『
『
尤も muslim にとっては「罅」は啓典の「
同じく第二水準でも「懼」は今週の週刊新潮で「憲法九條改正を懼れるな」として使はれてゐるが、これを『
『
『ケミする』(檢のキヘンに代はってテヘン)に到っては完全に「水準外字」である。『淙サウ』(王ヘンに爭)も水準外字であるが
この文字を承知してゐて遣ひこなせたのは賛嘆に價する。
極めつけは『妖ゲツ』(蘖の木に代はって子)である。
出典は中庸「國まさに亡びんとすれば 必ず妖ゲツあり」。
太平記にも「妖ゲツ天に
亦、米國で稿を起こし臺灣で上梓された黄仁宇著「蒋介石正傳」(蒋はクサカンムリに將)にも言及があるが
著者がどこから引用したかは詳でない。
本然漢字の「ゲツ」(蘖の木に代はって子)は俗字の「ゲツ」(蘖の木に代はって子にクサカンムリなし)に置き換はってゐる。
しかし「妖ゲツ」の用法は正鵠妥當にして 且つ熟れてゐる。
文字遣ひの借用が漱石であるに 文體はずばり鴎外調(鴎は區に鳥)である。
題材(motif)は中世前期南佛にをける「魔女狩」(witch-hunt)で錬金術(alchemy)と両性具有(androgynous)を伏線としてゐる。
事實考證時代考證(text-criticise)に就いては筆者自身が半歳を費やしたと證言してゐるので淺學が敢へて詮索するに及ぶまゐ。
ここらで淺學の直木賞芥川賞への無關心、否、積極的無視の理由を述べよう。
嘗て新人登龍門としての役割を果たした両賞も 今や出版社の淺薄な劣惡商業主義の尖兵と化してゐる。
在日の突っ張り姐ちゃんをして「たちまち再々重版五十萬部」なぞと囃したてる。 その爲に それに迎合する選考委員を擇ぶ。だから結果として受賞作品一作のみで後は奇妙奇天烈な恰好してT V の低俗番組の常聨に堕してしまう様な輩を選んだりしてしまふ。 まあ<日本の大衆藝能の華>紅白歌合戰の文壇版だと思ってゐれば肚もたたぬのだらうが。
毎年前期、後期と二回も撰ぶのも重商主義の顕れだ。
それにしては併し、今回の選考委員九氏の選評の難解なる事。文學なるものを論じるには衒學的言辭を弄し、およそ門外漢には咀嚼不可能な難解な議論をしなければならないと謂ふ事か。淺薄商業主義とは両立しまひ。
昨日の夕刊「一語一会」で加賀乙彦が「急性疾患は治りやすい」なる一文を寄して韜晦してゐる。 全文を引用しないと意は盡せないが長文なのでさわりの部分だけを引用する。
今回の選考委員で名前を承知しているのは河野多恵子氏と石原愼太郎氏の二氏のみ。 而して御両氏の作品は全く承知しない。
河野多恵子氏は「難解漢語、難讀漢字に宛てるに新仮名遣に意義あり」と謂ふ。
That's good point !, but different opinion.
本然の歴史的送り假名を使ってゐれば鴎外ばりの名文になっていたであらう。
女史は「さうすれば、貧相な氣配が否めない」と宣ふ。
價値觀の相異と謂ってしまへば簡單ではあるが「志賀直哉全集」を こともあらふに岩波書店が新假名遣に改竄して出版する時代であるから これも出版業界への迎合であらうか。
石原愼太郎氏は「衒學趣味的擬古文」だと酷評し「受賞作品としては 選考作品以上のルビを符らせるな」と注文を付けている。 これ以上ルビを振るところはない筈だが。 そのくせ 氏の評文は甚だ難解で讀づらい。
選者の一人は選考會議で辭書を持ち出したさうだが なにを檢したのか その程度の人が選考していると謂ふ事である。
平野氏は そのあたり編集者とのINTERVIEWで美事に切り返している。 曰く、「モチーフに最も相應しい文體を。」「鴎外を讀むのに知らない言葉の爲に
その受容の本質的妨げになったか?」と。
然り。 日本語は 讀む事に加へて「視る」ことの意味のある事を忘れてはなるまひ。
編集者は盛んに三島由紀夫と對比している。
馴染みの薄い難讀文字が多用されている事以外類似性はない。 文字遣ひで強いて擧げれば『鞦韆』(ぶらんこ)くらゐのものであるが「鞦韆」(しゅうせん)は俳諧で頻用されてをり三島からの借用ではありますまゐ。 そこには三島の匂ひは全く感じられない。
未だ稚と生硬さの若干殘る人工的造形美ではあるが 題材の選擇は遠藤周作、文字遣は漱石、文體は鴎外バリと謂ふのが私の結論である。
(2005/10/01 改訂復刻)
電網上では「標準外字」(JIS第一水準ならびに第二水準 以外の漢字)を表記出來ないのが残念です。