血圧測定の歴史






血圧測定を初めて行ったスチブン・ヘーレズ          
 藤倉一郎
 はじめに
1628年 ウィリアム・ハーベイは血液循環の発見をしながら、血圧に関して何の興味も
示していないのは大変不思議なことです。
今日、高血圧が私たちの健康維持にきわめて重要な要因であることは周知のことですが、そのためには血圧測定が大切です。この血圧測定をはじめて行ったのがヘーレズですが、彼は医者でも生物学者でもない牧師だったのです。しかも1730年ころ満足な測定機器もないのに彼の著書をみると詳しい検査データが書き込まれております。
その足跡をたどってみるのは大変興味のあることです。
おいたち
ヘーレズは1677年9月17日英国ケント州ベッケスボーン村の名家に父トーマスと母メリーの六男として生まれた。カンタベリーに近い祖父トーマス・ヘーレズ卿のもとで育った。祖父も両親も彼が17歳になる前に死亡した。19歳で英国国教の牧師となるためにケンブリッヂのベネ大学に入学し神学を学んだ。だが彼はここで神学のほかに古典,哲学、数学,科学,哲学などを学び1699年22歳で文学士となった。この頃ニュートンはケンブリッヂの数学の教授を辞めてロンドンに赴任した。世界は数学や物理学,生物学、化学がはなばなしく登場してきた時代である。1703年ヘーレズはケンブリッヂにとどまり研究生となり、文学修士となった。またこの年26歳でバグデンの教会の補祭となった。
研究のきっかけ
1706年ケンブリッヂで医学生のスツクリーとニュートンが持っていた研究室を借りきり犬や蛙の解剖実験をしたり、化学の実験をしていた。研究室の壁には胃や腸や膀胱が無造作にかけられ、炉やガラス器具やあらゆる種類の道具があった。犬の解剖をした机の上で彼らは時々食事をしたものである。彼らは犬で気管支模型を作ろうとして、はじめ肺を乾燥して作ろうとしてうまく行かず、鉛を融かして気管支に注ぎ作成した。スツクリーは1708年学位を取るとケンブリッヂを去りリンカンシャーで開業医となった。
1709年ヘーレズはミドルセックスのテヂントンの教区牧師となった。ここはロンドンから15マイルほど離れた人口500人ほどの小さな村であった。ここに彼は動物飼育のための農場を確保した。はじめ彼は筋肉の収縮が血液にあるとする説を研究するつもりでいた。牧師の仕事は彼が研究をするのに十分に時間の余裕があった。
1712年には神学士となった。
動物実験
1714年3頭の馬、1頭の羊、1頭の山羊,20匹の犬を用いて25回にわたる実験をした。実験Vといわれる実験は、3頭の馬の最後の実験である。それは12月の寒い日だった。14歳になる年老いた雌馬を使って行った実験では、馬を右側臥位に寝せて固定した。はじめの2頭では背臥位にし鼠径動脈をつかったが、挿絵のように頚動脈を使った。この絵が間違っていると書いてある本があったがヘーレズの実験どうりに正しく想像して画いてあることを追加しておきたい。頚動脈に7分の1インチの銅管を挿入し、無麻酔の馬が暴れても大丈夫なようにアヒルの気管をつなぎとして12フィートのガラス管を垂直に立てた。頚動脈の血流遮断の紐をゆるめると9.5フィート(289cm)まで血液は上昇した。そして心臓の収縮と拡張によって規則的に上下した。前二回の実験では9.7, 8.2フィートの上昇だった。
動静脈圧を測定して心拍出量、末梢血管抵抗という概念を確立した。左室容積、動脈径なども測定し、動脈圧の最高は心拍出量に関係し、最低は血液循環系の残りで生じる血流抵抗によると考えた。ストレスや運動が心拍数にどのように影響するか研究した。鼻腔を閉鎖して呼吸を苦しくすると血圧が上昇すること、左心室の運動が血圧や心室表面積に影響し、末梢血管の収縮や拡張の程度を変えると考えた。動物の死亡後は毛細血管のトレースを膀胱の血管に色素を注入して作成した。そして毛細血管の径を測定した。
研究の結果
ヘーレズの実験は社会的に反応はあったが、解剖実験に対する抵抗などから、彼はやる気をなくし、それ以上の実験をしなかった。ヘーレズの知人で詩人のアレキサンダー・ポペはこう述べている。「彼は大変すばらしい男だが残念なことに、いつも手が血だらけだ。この野蛮な行為は好奇心だけで犬のような小動物を殺すことが本当に正しいのだろうか。」そしてこれらの実験は20年間も放置されていた。ヘーレズはその後、植物樹液の圧や流れに興味をむけた。葡萄の幹に取り付けた圧力計で樹液が43フィートも上昇し動物血圧のなんと五倍から8倍もあることを発見した。
1718年には王立学会の会員に推挙された。
1720年ヘーレズは43歳のとき教区牧師の娘、メアリーと結婚したが、彼女は1年後死亡した。出産に関係していたようである。
1725年1708年から1714年までの血圧に関する動物実験をまとめて論文とし王立学会に提出した。
1727年植物学論考を初めて著書として出版
1733年先に王立学会に提出していた動物実験の論文を「静力学論考・血液力学を含む」として出版した。
その他の社会的寄与
これらの研究のほか、村の水道を安全なものとするためにテヂントンの教区での水道設備を設けた。また天然痘予防対策を叫び、天然痘による死亡は1990人から3236人に増えており、接種者は182人で死者はわずかに2名であると述べている。       
63歳の時、病院,船、刑務所などの健康管理として換気の研究をてがけ、換気なしに集団的に呼吸していると高い死亡率を生じることから換気扇の設計をした。これを王立学会に提出し、2年後出版した。アメリカの奴隷運搬船と監獄で応用され奴隷の死亡は4分の1から12分の1に減った。監獄の死亡も50人から1人に減った。またアルコール中毒対策に奔走した。ブランデーの飲みすぎに対して1734年匿名で警告書を出版したが、医学的、かつ倫理的である。医学的な合併症やアルコール中毒の肝障害,黄疸,急性中毒、子供への影響などを述べている。
また王立芸術院の設立に力を注ぎ、若い有望な芸術家の育成をした。
1732年ジョージア植民地の17名の委員の1人に選ばれ、ナチュラリストのエリスは彼の名誉をたたえてジョージアでもっとも美しいスノー・ドロップをヘレーシアと名づけた。
1733年オックスフォード大学より神学博士授与された。
1739年有名な尿路結石の研究者ヨハン・スチブンに興味を持って研究したが,後にこれとは別にダブル・カテーテルを使って継続的に大量の液体を流すことによって結石を融解しようというものであった。この腎結石融解実験研究によりコプレイ章を受賞した。
1753年フランス科学アカデミーより外国人は6人しかいない委員の1人に任命された。
このような要職にありながら彼は80歳まで植物の実験を続けた。
写真はロココ時代のトマス・ハドソンが1759年に画いた油彩画でナショナル・ポートレート・ギャラリーにある。ヘーレズ81歳のものである。
1761年1月4日死亡,83歳であった。
アメリカ植物学会はスチブン・ヘールズ賞を設立
ウェストミンスター寺院に記念碑がある。
おわりに
ヘーレズの研究は,当時としてはきわめて先端を行っていたので社会的な評価が得られるのは難しかったと思われるが,それでも彼は知的興味から研究をつづけ優れた業績をあげ、今日の医学における血行動態の基礎作りをした。ヘーレズのこの研究はハーベイの血液循環の原理と並んで突出した研究成果である。彼が社会的にも認められて、種々のポストに就き幸福な生涯を送ったことはまことに喜ばしいことである。
優れた業績をあげながら,不幸な末路をたどった研究者も多いからである。
参考文献
Hales,S.:Statical essays containing hemastatics.London,Innys and Manby,1733
.Lewis,O.:Stephen Hales and the measurement of blood pressure.J.Human Hypertension.8,865-871,1994
Hall,W.D.:StephenHales:Theologian,Botanist,Physiologist,Discoverer
of Hemodynamics.Clin.Cardiol.10,487-489,1987
Bloch,H.:Rev.Stephen Hales,D.D.,F.R.S.(1677-1761):J.Med.Soc. New Jersey.
75;625-627,1978
5.Kennedy,A.E.C.:Stephen Hales,DD,FRS.:British M J,2;1656-1658,1977


 リヴァ・ロッチが血圧計を発明するまでの血圧測定の歴史             

1733年へーレズが動物の血圧を測定して後、凡そ100年後に
1828年仏の若い医学生ポアズイュが卒業論文のなかでヘーレズの実験を繰り返し,長いガラス管のかわりに水銀を入れたU字管を用いて血圧測定をした。この実験で呼吸により血圧は上下し,心収縮によって生じる血管の拡張の度合いを測定した。炭酸ソーダを用いて血液凝固を防ぎ長時間の実験を可能にした。
1847年マールブルグ大学生理学教授ルードヴィッヒはU字管の水銀の上にペンのついた
浮きをのせ、水銀の動きを回転するドラムに貼り付けた紙に記録した。これは天才的な発明で、キモグラフ波形を具体的に示し,生理学にグラフを適応したのである。これはその後生理学実験にしばしば用いられた。この装置は種々改良されたが臨床応用するにはなお時日を要した。
1856年ファイブレは始めて人の血圧を測定した。手術の際動脈を水銀血圧計につないで
股動脈で120ミリ、前腕動脈で115〜120ミとリ測定した。このほかにも同様の報告をしている。
アルバートも同様な方法で測定し血圧は
100-160とかなりな差異があることを発見した。血圧測定のために直接血管と血圧計をつなぐということは普及することはなかったし、この測定は臨床的には何の意味もなかった。しかしこれらの研究は簡単で臨床に使えるような方法の開発に強い刺激となった。
この問題の解決はほかの方法の開発に強い刺激となった。
1855年チュービンゲン大学生理学教授フィーアオルトは脈拍の記録をして、脈拍が閉鎖さ
れる圧力が血圧の間接的な測定値であるという原理を報告した。そして橈骨動脈の圧迫で
血圧測定を試みた.
1876年仏のマレーはこの方法を改良して,ガラス箱の中に腕をいれ、前腕全体を水圧で圧迫し圧を上昇していくと拍動がだんだん大きくなり収縮期圧より,少し高いところで拍動が消失する。これを記録計に接続した。しかしこの装置は巧妙であったが大きく複雑でさらにエラーも多かったが、臨床的には多く用いられ血圧計の開発に引き継がれた.
1876年フォン・バッシュは水で満たしたぺロッテ(小嚢)を血圧計につなぎ、このぺロッテで動脈を圧迫して脈が消えるまで圧迫して血圧測定するという方法を報告した。
1880年ゼデックはこれを少し改良して報告、二人は平均血圧は130ミリで、動脈硬化の人は180〜200もあると述べている.
フォン・バッシュの血圧計の臨床応用は臨床家に歓迎されなかった。ブリテッシュ・メジカルジャーナルでさえ血圧測定は医者の感を貧しくするし,臨床的なセンスを悪くすると否定的であった。
1890年ポタンによって開発された血圧計は、フォン・バッシュの器械を改良し,空
気の充満したぺロッテにアネロイド圧力計が接続したきわめて簡単なものであった。ぺロ
ッテを橈骨動脈にあてて圧迫し、その末梢で脈を触れていて、それが触れなくなった時を
動脈圧とする方法である。
1896年リヴア・ロッチはイタリア医学会で簡単な水銀血圧計を報告した。カフに包まれたゴム・バッグとゴム球でできていて,腕に巻いたカフを加圧して動脈を閉鎖し、これをゆっくり減圧して橈骨動脈が触れる時点を収縮期血圧とする方法を開発した。
これが今日の血圧計の原型である。しかしカフの巾は5cmと狭かったために実際の血圧より高めに測定された.
リヴア・ロッチは1863年トリノ市のアルメ―ゼに生まれた。父ピエトロも医師で、彼は
トリノ王立大学医学部を1888に卒業した。フォルラーニ教授の弟子となり、1896年12
月10日号に血圧計の発表後助手となった。1900年ヴァレーゼ病院の内科部長となった。
肺結核の治療に熱心で人工気胸の研究にすぐれ、また小児科に対しても熱心で、小児病理
学の権威と認められていた。
参考文献
1. Major,R.H.;The history of taking the blood pressure.Ann,Med.Hist.,2,47-55,1930,
2. Lewis,W.H.;The evolution of clinical sphygmomanometry,Bull.N.Y.Acad.Med.,
17,871-881,1941.
                                                                                                                                                                                             
#ニコライ・コロトコフの聴診による血圧測定の発見              

はじめに

現代医学の中で血圧測定は不可欠のものであり、医師も看護婦も学生ももちろんのこと、医学と関係の無い人々でさえ知っている方法である。この血圧測定には聴診法が用いられている。この聴診法がロシヤの若い外科医のニコライ・コロトコフによって、およそ100年前の1905年に発見されたのである。聴診器を上腕に巻いたカフの下部の前腕動脈に当てて、膨らませたカフをしだいに緩めていくと、突然ドキドキという音が聞こえ、やがて収縮期雑音となった後、低音となり、ついに消えるという現象をコロトコフが発見して、これを血圧測定に応用したのである。
31才の時この音を発見し収縮期血圧と拡張期血圧が測定できると報告したが、その時は無視され、彼は動物実験で確認して、もう一度報告した。やがて世界的にこの方法は認められた。今日でこそ血圧測定は重要な診察の手段であるが、100年前コロトコフが発見したころは血圧の意義もあまり高くなかった。当時は血圧による疾患よりもチフスやコレラや結核などの伝染病が全盛を極めていて、これらの疾患の治療がまず大事だったのである。コロトコフの息子のセルゲイ・コロトコフも医師になったが、彼は医師になってから14年目に始めて血圧測定の方法は父コロトコフが発見したことを知ったという。 このようにコロトコフに関する資料は乏しく、ロシヤにおいてもほとんど無いといわれる。 今回はコロトコフが聴診法による血圧測定の方法を発見した模様を追ってみよう。

出生から医師になるまで

1874年2月13日クルクス市ミレンスカヤ通り40番地に商人の子として生まれた。少年時代に一面氷の張った川に、自分の勇気と決断をみせるために飛びこんだという逸話がある。その後彼は肺炎になってひどくてこずったという。負けず嫌いな性格だったのだろう。
1893年クルクス・ギムナジウムを卒業、ハリコフ大学医学部に入学、後にモスクワ大学医学部に転学した。
1898年モスクワ大学医学部を抜群の成績で卒業した。この年モスクワ大学医学部病院のボブロフ教授の外科教室に入局した。
 コロトコフが生まれたころ、ロシヤでは急進的インテリゲンチアのナロードニキが革命運動を広げていた。ツルゲーネフ、ゴンチャロフ、チェルスイスキーらの文学作品はナロードニキを描いたものである。
 ペテルブルグ、モスクワ、キエフなど大都市から農村地帯へナロードニキ運動は広がり、これを弾圧するために二千人も逮捕された。ナロードニキは農民啓蒙に失敗すると、直接政府要人の暗殺を企て、県知事、大臣そしてついにアレクサンドル二世まで一八八一年三月凶弾に倒れた。 アレキサンドル三世のもとで反動化はさらに進み、ロシヤ資本主義は南進政策をとり、露土戦争が起こったが失敗して極東政策を積極化した。こうして一九〇〇年の義和団事件をきっかけに満州、朝鮮への進出をはじめた。

医師になって

モスクワ大学医学部病院は1898年から1900年まで無給で、アルバイトで生活した。
1900年5月大学病院外科教室の正式スタッフとなった。無給生活が終わったと思ったら、
1900年6月 中国で北清事変が勃発、コロトコフは赤十字に所属し極東に派遣され、ハバロフスクで働いた。ここでチフスや外傷性動脈瘤など多岐にわたる治療に専念した。ここでの上司はボブロフ教授の弟子のアレキンスキーだった。
1900年末、任務が終わると、シベリヤ鉄道で極東からウラジオストーク、日本、シンガポール、セイロン、スエズ運河、黒海を経てモスクワへ戻った。
モスクワに戻ったコロトコフは負傷兵の治療に貢献したとして聖アンナ賞を授与された。その後学問に専念しエドワード・アルベルトの「外科診断学」を露訳した。
1903年フェドロフはペテルブルグの軍医病院の教授となり、前から一緒に仕事をしていたコルトコフを指導医として招いた。
1903年11月8日 コロトコフは学位授与のための申請をし、いくつかの試験をうけた。
1904年 日露戦争が始まり、コロトコフは赤十字から、上級医師として従軍した。
1904年6月4日 部隊は極東へ出発した。この時に看護婦として一緒に従軍していた妻となるエレーナとめぐりあい結婚した。ハルビンの病院でチフスや戦傷を治療した。この間コロトコフは35例の外傷後動脈瘤の手術をした。血管銃創はよく動静脈瘻
をつくった。コロトコフは四肢をそのまま残せるかどうかの決め手がないか探索した。そして動脈瘤はすべて聴診し、血圧を測定した。前モスクワ大学の有名なピゴロフ教授は腫瘤があったら動脈瘤かどうか必ず聴診するように教えていたが、直接講義を聴いてはいなかったがコロトコフはこれを実行したのである。そしてそれが血圧測定に聴診法を応用するきっかけとなったのである。
「手術の不愉快な結果は医者にとっても不愉快だが、患者にとってももっと不愉快だ」だから動脈結紮後患者が生きるか死ぬかを前もって知ることができるような徴候を探すべきだと考えた。
1905年4月1日 妻が妊娠したのでペテルブルグにシベリヤ鉄道で帰った。陸軍病院に戻ったコロトコフはフェドロフ教授に、側副血行の研究を続けたいと申請し認可された。
1904年ニコライ二世は極東政策で日本にたいし強行政策をとり、日本の朝鮮、大陸政策と衝突して日露戦争が起こったのである。
1905年1月日露戦争の最中、ペテルブルグでは神父と労働者の請願デモに政府が発砲し、騎兵隊が切り込んできたので、死者一〇〇〇人、負傷者二〇〇〇人をこえた。「血の日曜日」といわれた。
 さらに6月ボチョームキン号の反乱が起こり、軍隊にまで革命が波及した。工場は閉鎖され、鉄道はストライキに入り、路上に車は無く、街灯は消え、水道はとまり、電話は不通となってしまった。 日露戦争では大国ロシヤは結局日本に敗れた。
1905年5月10日 ロシヤ外科学会に「血管銃創46例の観察」を報告した。この学会の討議で、フェドロフ教授は「コロトコフが報告したように、血圧を測定することで四肢の温存を確実にすることができ、外科治療の正しい方法を選択できる」と述べている。
1905年11月 コロトコフはロシヤ外科学会の会員となった。
1905年11月8日 ペテルブルグの軍医学会で「聴診による血圧測定法」を報告した。
報告は簡単なものであったが、その論文の概要を述べると、「完全に閉塞された血管からは、どんな音も発生しない。この事実からわたしは人の血圧測定に音を聞く方法を提案する。リヴァ・ロッチ(Riva-Rocci)のカフは循環が完全に止まるまで、カフ内圧を急速に上昇させ、はじめそこには何の音も聞こえない。血圧計の水銀柱がある高さになると、最初に短い、かすかな音が聞こえる。この最初の音の出現時に血圧計の目盛を読めば最高血圧である。さらに血圧計の水銀柱を下げていくと、収縮期雑音が聞かれる。そして最終的にすべての音が消える。この音の消失は血流が正常であることを示し、音の消失時最低血圧はカフ内圧より高くなる。この時の水銀柱の読みが最低血圧ということになる。動物実験でも同じ結果を得た。最初に聞こえる音は橈骨動脈を触れるよりもほんのすこし早く一〇〜十二ミリ高いところで出現する。」これが報告のすべてである。これに対して会場からは厳しい意見が出て、コロトコフの報告を批判し、疑いの目で見られる有様だった。
1905年12月13日 同じ学会で、動物実験をして聴診法の正しいことを再び報告した。
1904年アメリカのジェーンウェイはその著「血圧の臨床的研究」の中で、拡張期圧は満足すべき測定方法がな           いと結論づけている。
ロシヤでは陸軍病院のヤノフスキーが拡張期血圧の研究をしており、コロトコフの方法を評価した。ヤノフスキー  は次のように述べている。「コルトコフの方法は実際により正しい血圧が測定できるとわたしは思う。方法は単純だし、鋭い観察で、自分の才能と機知を示している。多くの研究者が見過ごしていたことをよく気づいた。」
ロシヤの血圧研究家のヤノフスキー教授の賛辞を浴びて、ロシヤにおけるコロトコフの血圧測定法は受け入れられた。ヤノフスキー教授の教室ではこの方法をすぐ採用し、その正確さを立証した。それでこの方法はコロトコフ・ヤノフスキー法と呼ばれた。ヤノフスキー教授の弟子によって広められ、さらにヨーロッパやアメリカに伝えられた。
1910年にはコロトコフの血圧測定法は世界に広まったことがギッチングによって報告されている。
1905年末 コロトコフは病状悪化し陸軍病院に入院した。両肺尖部結核、左乾性肋膜炎という診断だった。
1907年中ごろまで母の家で休養し、回復しペテルブルグに帰った。
1907年10月 学位授与を請求し、すべての試験に合格したが、肺結核の病状が進み時間内にパス出来なかった。
1908年4月9日 最後の試験に合格したが、健康状態悪く、ペテルブルグの気候が湿度が高くよくないと思いタイガのきれいな乾燥した空気のオレミンスキー鉱山の医師として働くことにした。
1910年初め 健康状態はよくなってペテルブルグに戻った。
1910年5月15日 学位論文を書き上げ、「側副血行決定因子の研究」を提出した。論文は150ページで、血圧測定の新しい方法も短く述べている。フェロドフ教授、オペル教授らの審査で医学博士を授与された。
1910年夏  テラスキー地方にコレラが流行するとコロトコフはボランテイアとして診療に参加した。
1910年10月10日 コロトコフはペテルブルグに帰ったが、再び病状は悪化傾向となった。
1910年12月10日 再びシベリヤの気候がいいかもしれないと療養をかねてレナ金山に2年契約で就職することにした。
1911年 夏 妻とその妹と6歳の息子のセルゲイを連れてシベリヤに到着した。
1911年 秋 妻と妹はペテルブルグに戻った。セルゲイのギムナジウム入学試験の勉強をコロトコフが個人指導することになって、セルゲイは残った。
 金山の労働者はきわめて非人道的で、一日12時間労働でさらに時間外労働を強要された。夏休みはたったの2日で、冬は町にも出かけられず、労働管理はめちゃくちゃで、医学管理などはまったくなかった。
1912年2月29日 労働者はストライキに入った。警官との乱闘があり、ライフル銃が打ち込まれ270人の人々が殺害された。そして250人が怪我をした。レナ金山に起った労働者虐殺事件である。コロトコフは怪我人を助けるために、寝るひまもなく働いたが彼らは次々と死んでいった。その後数日彼は手術室から離れられなかった。多くの人々が手術を待っている間に死亡した。患者と家族が17ベッドしかない小さな病院に群がっていた。
コロトコフは戦争の悲惨なことは知っていたが無防備の人が虐殺されるのは始めてみたのですごいショックを受けた。ロシヤではこの事件以来革命ののろしがしだいに大きくなっていった。

1912年12月1日 が金山との契約期限だったので、それまで金山ではたらいた。
 しかし息子と2人でシベリヤの厳しい冬を旅行するのは不可能だったので、春をまった。
1913年3月 コロトコフとセルゲイはシベリヤ鉄道でペテルブルグに戻った。二人は凍結した肉片とスープをたきぎで温めながら食べて旅を続けた。ついにペテルブルグに戻ったが陸軍病院には職場がなかった。選択の余地なく小さな州病院で働くことにした。
1914年2月18日 新しく建てられたペーテル大病院に上級医師として職を得た。
1914年5月1日 病院が開院しコロトコフは初めて人間らしい生活をすることができた。年俸2520ルーブルであった。コロトコフは酒も飲まず、タバコもすわなかった。読書が好きで、特にチェーホフをよく読んだ。ロシヤ医学は隆盛を極めていた。メーヨー・クリニックのウィリアム・メーヨーはフェドロフ教授をアメリカに迎えようと再三声をかけたが、フェロドフ教授はアメリカへ行こうとしなかった。
1914年 夏 海辺の別荘を借りて少し憩いの時間を過ごした。そこで水彩や油絵をかいた。絵画史や絵画技術の本も集めた。またロシヤ人作家の絵を集めたりした。病院の仕事にも熱心だったが、大学の医局に戻りたい気もしていた。
1914年10月28日 第一次世界大戦が始まると軍服をつけて、志願しツアルスコエ・セローにある傷痍軍人病院に配属された。ペテルブルグに住んでツアラスコエ・セローまで電車で通勤した。
ロシヤの国民生活は戦争の犠牲になり、都市ではパンや燃料が不足し農村では労働力が不足して厭戦気分が高まった。戦争の様相も一変し、潜水艦、戦車、飛行機、毒ガスなどが登場し史上空前の総力戦となった。
 農業は振るわず、産業は荒廃し、輸送は乱れ、兵士の士気は衰え労働者はストライキに参加し、軍隊も革命側に加わり、兵士も労働者も赤旗をなびかせて警察や兵器廠をおそった。
1917年2月 ロシヤ革命が起こり、鉄道網は乱れ、警察は破壊されコロトコフは線路を歩いて病院へ行った。ニコライ2世は3月王位を退き家族とツアラスコエ・セローの離宮に幽閉され7月にはシベリヤのエカテリンブルグに移され、革命軍に殺害された。
1917年10月7日 レーニン、トロッキーらにより、10月革命は成功しソビエート政府ができた。
1918年までコロトコフは傷痍軍人病院で働いた。
1919年 ペーテル大病院はメチニコフ病院と改称しコロトコフは復帰してチフス病棟で働いた。
 息子のセルゲイの証言によるとコロトコフの生活はきわめて貧しく、電気もなく、暖房器具もなく、ラジエーターは凍って破裂し小さな鉄のストーブに煙突をつけて一部屋だけ温めて過ごした。ほかの部屋は凍り付いていた。しかし、フェロドフ教授もオペル教授も同じように貧しかった。社会全体が混乱し伝染病が蔓延し人々は餓死するものも沢山いた。
1919年6月 右胸膜炎で2月間入院した。
1919年7月26日 病院に出勤したが咽頭痛、嚥下障害があり会話もうまくできなかった。喉頭結核でないかとコロトコフ自身思っていた。かなり重症だった。
1920年5月 就労と休養をくりかえしているうちに病状は一段と悪化した。
1920年5月13日 陸軍病院の友人が訪ねてきて、すぐ入院するように勧めた。
1920年5月14日 陸軍病院に入院、入院直後に大量喀血で死亡した。46歳だった。死後解剖はしなかった。

エピローグ
1941年 妻エレーナはレニングラードの包囲戦のとき死亡した。
セルゲイ・コロトコフはレンングラードに学び、医師となった。血圧を日常測定しながら、父がコロトコフ音を発見したことを知らなかった。大学卒後14年目ではじめて知った。
1970年10月31日ポポフ教授はセルゲイが父の写真もないのにびっくりしてコロトコフの写真をセルゲイに贈った。
1977年  セルゲイ・コロトコフ死亡
1996年  ポポフ教授 コロトコフ伝を発刊
ペテルブルグのボゴスロクスカヤ共同墓地に埋葬されたが、現在墓は不明だといわれている。

おわりに
モスクワ大学医学部を優秀な成績で卒業し、26歳で「外科診断学」を露訳して出版し、31歳で聴診による血圧測定法を発見し、前途洋洋とした道が開けたかに見えたコロトコフであったが彼の生涯はず業績は世界中に広まりながらも、認められることも無く病身で戦争と革命の混乱の中貧しく、惨めに終わった。偉大な医学の発見者の生涯はあまりに悲しい人生だった。従来コロトコフがなぜアカデミックな道を順調に歩まなかったかが、いろいろと議論されているが、時代と彼の健康状態が大きく関係していよう。
40年前カナダのセガールはレニングラードを訪れてコロトコフに関する調査をしたが、何の知見も得られなかった。英国のオブライエンも医学的に広く知れ渡っているのにコロトコフは歴史家から無視されていると述べている。ロシヤにおいても同様でコロトコフのいたペテルブルグの病院の人々でさえ彼のことを何も知らない。
1995年心臓学会が開かれた時、コロトコフの90年祭を行い、ポポフ教授がコロトコフの天才的発見を称えた。
1998年ポポフ教授を中心に陸軍医科大学にコロトコフ記念委員会が作られ、2年に一度、国際賞と金メダルが授与されることになった。第一回はペテルブルグ300年祭にあわせて2003年に、第二回は2005年に世界心臓学会とコロトコフ法発見100年と合わせて授与される。

参考文献
1.Segall,H.N.;How Korotkoff,the surgeon,discovered the auscultatory method of measuring arterial pressure;Ann.Intern.Med.83;561-562,1975
2.Laher,M, O`Brien,E.;In Search of Korotkoff:Brit.Med J.285;1796-1798,1982
3.Konstantinov I.E.;Nikolai S. Korotkov;a story of an unknown surgeon with an
immorte name. Surgery;123;371-381,1998
4.Shevchenko,Y.L.,Tsithk,J.E.;90th anniversary of the development by Nikolai Korotkoff of the auscultatory method of measuring of Blood Pressure.
Circulation;94;116-118,1996



コロトコフの血圧測定法の報告:第二法
コロトコフがはじめて聴診法について報告したのは一九〇五年十一月八日で、このとき彼の口演に対して沢山の質疑がだされ会議は十一時半までつづき、座長のとりなしで次回を約して終了した。かれの第二報は十二月十三日陸軍軍医学会で報告された。
コロトコフの演説概要
「リヴァ・ロッチのカフを用いて音の局所的発生を証明するために犬を用いて実験した。犬の腸骨動脈と大腿動脈を分離し大腿動脈はクランプで止めた。そして犬の身体と分離する意味で大腿動脈に生理的食塩水を注入した。心臓の影響を除くためにTチュウブを大腿動脈に挿入し、Tチュウブの垂直部分にゴム・チュウブを接続し、これを生理的食塩水で満たした。リヴァ・ロッチのカフで動脈を圧迫すると、液体は40mmHg以下で流出した。圧を100mmHgまで上昇させると血管の内圧は上昇し、動脈波で血管が緊満しているのが見えた。最初に音が聞こえ、ついで雑音が聞こえ、そして消えた。この実験で血管壁の緊張によって音が発生すると結論づけた。」
会場には疑義をもった会員から沢山の質問が出された。
シャポヴァレンコ;二番目の音は血流が中断していないのだから血管の緊張では説明できないのではないですか。君の方法では最低血圧は測定できないのではないですか。
コロトコフ;第二音も血管の緊張でおこるのです。血管の周囲には外圧がかかっています。しかも外圧は血管内圧を上回ります。そこで血管壁は緊張し音が発生するのです。
シャポヴァレンコ;外圧で血管壁が突然狭くなるということがあるでしょうか。
コロトコフ;血管は全周からの圧力に抵抗する力は何もないのです。
イグナトフスキー助教授;音の発生源は何処ですか。
コロトコフ;心臓の影響を除外した局所的なものです。
ボゾフスキー;君の実験では心臓の影響は血管を用いていることで除外できていません。
コロトコフ;概要をここに表示しますが、心臓のある全体像が少し間違っています。しかし大動脈弁の閉鎖音の影響は除外しています。
シャポヴァレンコ;第二音を聞いている時、血管内圧のほうが血管外圧より高いのに壁の緊張でどうして音が発生するのですか。
イワノフ助教授;君の第二音の発生の説明は明解でありません。リヴァ・ロッチのカフが減圧していく時動脈の外圧も内圧も等圧です。このとき動脈壁が弛緩したり、振動したりして音を発生できるでしょうか。
コロトコフ;私は第一音も第二音も同じ原因で発生すると思います。もう少し実験を続行できるなら第二音が聞こえている間血流は連続的であることを証明できるとおもいます。
ボゾフスキー;第二音の発生について全面的にイワノフ助教授に賛成です。第一音の発生に関しても君の意見に同意できません。ついでこれらの討議を聞いていたヤノフスキー教授が結論的に発言した。
ヤノフスキー教授;「これらの音の現象は血管壁の緊張によって説明するのはなかなか難しい。たとえば肺胞は拡張した時に音がおこる。しかし、この場合には空気がある。血管には空気がない。最初の音は血管が血流を通過させないときに生じ、末梢の血管は弛んでいる。血流が来て血管壁が緊張した時に音が発生する。
わたしはあなたの結論に賛同します。最初の音は狭い隙間を血流がながれはじめた時の噴出音です。最高血圧です。第二の音は最低血圧とカフ内圧が近づくにつれて聞こえます。
私はこの方法を用いて臨床的に正確な測定値を得られると思います。ザーリイやウスコフが報告した方法よりもはるかに簡単です。
あなたの観察はこのテーマを研究していた多くの人々が気づかなかった事実に注目した才能と機知によるものであるといわなければなりません。」
血圧測定の第一人者であるヤノフスキー教授によって、このように評価されたことは重大なことであった。聴診による血圧測定の発見を完成させたコロトコフは完全に認められたことを意味した。(藤倉病院)


コロトコフ音の発生理論
一九〇五年コロトコフによって聴診による血圧測定が発見されて一〇〇年を経過したが、
コロトコフ音の発生の理論は議論が多く決定的なものがない。したがってコロトコフ音に
ついての研究は今日でも多い。
コロトコフは血圧測定に際して上腕に巻いたカフの下部の前腕動脈に聴診器をあてて、血
圧計のカフを緩めていくと、はじめに叩打音が聞こえ、ついで収縮期雑音、最後にくすん
だような音がして、消失すると報告した。 コロトコフの最初の報告のときに、この音の
発生については会場から沢山の意見が出され心音の伝播ではないか、コロトコフの動脈壁
の振動というのは正しいのかと激しい議論があったのであるが、今日なおこの音の発生に
ついてはさまざまな理論が出ている。
発泡説、動脈壁説、乱流説、心音伝導説、ウォター・ハンマー説、その他さまざまな理論
が出されているがコロトコフ音の発生を十分説明できるものがない。
そのいくつかについてのべる。
一、 発泡説
 Malcolm によって一九五七年にはじめて述べられたものであるが、血圧測定の際、突
然のカフ圧の下降により血液内にとけていたガスが発泡する。この気泡が壊れる際に音が
発生するというものである。発泡は実際には三五〇mmHgでは発生するが人体では起こり
えないという論文が報告されていて否定的である。
しかしVenetは二〇〇〇年にドップラー法により発泡説を支持する論文を報告している。
二、 動脈壁説
 血圧計のカフが膨らまされると血管は虚脱状態になるが、カフが緩められると動脈は血
液で満たされ動脈壁は伸展される。この時音を発生する。マイクロホンでこの音を記録し
て証明した報告がある。しかしこの動脈をガラス管にかえて実験しても音が発生したとい
う報告もあり、決定的ではない。
三、 乱流説
 Lauge,Hecht が一九五八年にはじめて報告したものでカフを膨らませると血管は加
圧され、カフの心臓よりではかなりのポテンシャル・エネルギーが生じる。カフを緩める
と、カフで圧迫されていた血管に血液が流れこむ、そして突然の圧の変化で血流に乱流を
生じる。この過程でエネルギーは音に変換される。しかしこれに対し、乱流が音を発生す
るというのであるが、もしそうだとしたら最初から最後まで音の周波数が同一でなければ
ならないという反論がある。しかし、乱流説は今日最も有力な説である。
四、 その他
心音伝導説、ウォター・ハンマー説などいくつかの説があるが、それらは次代の研究者に
よって否定されているものが多い。Ur, Gordon らは動脈壁説と乱流説の複合
理論でコロトコフ音の変化を実験的に説明しているが、なお定説がないのである。
このようにコロトコフ音は臨床的には収縮期圧、拡張期圧の測定に応用されているが、そ
の理論は解明されておらず、議論のあるところであり、研究のまたれるところである。
              


コロトコフ法による血圧測定の普及            藤倉一郎

YanovskyはKorotkovの聴診法による血圧測定を高く評価し、教室員のKrylov,Vestervik,
Manvetova,Levedev らに臨床的な研究テーマとして与えた。とりわけKrylovはもっとも熱心に粘り強く研究した。
Krylovは1897年ドン・コサックの家族にうまれ陸軍軍医大学を卒業後ノボシェルスカヤの病院でインターンを終えて1903年Yanovskyの教室に入った。日露戦争から帰還すると心臓病を主に研究した。9年間にわたって触診法、聴診法、振動法で動脈圧測定の比較研究をした。Korotkov音の現象を調べ、その発生機構を研究し1906年「Korotkovの聴診による血圧決定について」の論文を発表した。また1935年には「Korotkov音の歴史と重要性について」を出版した。Korotkov法の臨床的な重要性をKrylovは次のように書いている。「全身の動脈のたった一か所の測定により、血液循環の動態がKorotkov法により再現される。この方法を用いることにより循環系の全体像がえられ、Korotkov音は診断的にも予後の判断にもきわめて有効であり、血流の変化についての正しい判断を下すことが
できる。」
Yanovskyの教室のKrylov,Lang その他の研究者はKorotkovの発見した音が4相からなることを示した。
第1相 初期音
第2相 雑音
第3相 最終音
第4相 軟音
第4相は Krylovによって詳細に研究され1912年第4回ロシヤ治療学会においてKorotkov音とは違った観点から報告された。KrylovはYanovskyの弟子たちとともにKorotkovの発見の進展にかなり寄与した。しかし、このことは聴診法による血圧の測定を
Korotkov-Yanovsky-Krylov法と呼ぼうという理由にはならない。
1906年後半Korotkov法は陸軍病院外に広まり、ヨーロッパにまでおよんだ。特にワルシャワのVE Yanovsky の教室で盛んだった。
1907年4月ウィスバーデンで第24回国際内科学会が開かれた。フランセンバードのB Felllner は「収縮期圧と拡張期圧の進歩」を報告した。そして聴診法による血圧測定が彼自身の発見であると主張した。「ロシヤの医師がわたしの方法と同じ聴診法で血圧を測定したと言われているが詳細については知らない。Riva Rocciの血圧計を用いて聴診法により血圧を測定したという論文は見当たらない。」
Fellnerの報告に対してV Yanovskyは次のように発言した。「Fellner氏の報告した聴診による血圧測定は1年以上前から、わたくしは知っています。1905年末にペテルブルグのKorotkovによって研究され、実施されたものです。ペテルブルグのKrylovがこれをさらに追加研究しました。Korotkovの聴診法は聴診器を用いています。ワルシャワのわたしの教室でも、この研究が進められEttinger によって8か月前から使われています。」
こうしてロシヤのプライオリテーは確立されたのです。
Korotkov法はLang,Mansvetvaの研究報告、1908年「血圧測定の臨床的方法の問題について」により海外に普及しました。高血圧や循環不全の患者で血圧測定に他の方法を使おうとした著者らは次のように書いています。「私たちの体験に基づいて、私たちはKorotkov法に完全な賛意を表すものです。」
Korotkovの発見は新しい研究の動機にもなりました。
1907年仏のAmbard, Beaujerdは聴診法を用いて、高血圧と食塩の過剰摂取の関係を見出した。
1910年米国のGittingsは「Korotkovは聴診法による血圧測定を開発した。彼の方法はヨーロッパで徹底的に研究され現在一般に認められている。この研究はまだ終わっていない、しかしこの方法を循環器系の研究に用いるなら、十分な知識と目標をあたえるだろう」と述べている。
Korotkovの国際的な評価は1916年ErlangerのAmerican Physiological Journalに方法についての賛意が書かれ、1923年にAbderhaldenによって一般向けの「生物学的研究の参考書」の中に取り上げられてから、急速に高まった。
1939年米国心臓学会と英国心臓学会がKorotkov法を血圧測定の標準法に決定した。
1941年LewisはKorotkovの論文を英訳して出版した。  



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