風花荘管理人レポート(Report)


風花荘管理人の疑問

                                                                       【8世紀の東アジア】

風花荘の管理人は『日本の犬、狆』に関する情報を、関連する書籍やサイトより取得して来ましたが、一般的事実として広く知られている事柄の中でも、何件か疑問に感じて来た項目があります。
この管理人レポートでは、すでに、『気まぐれ日記』・『気まぐれ情報』・『日本の犬、狆』の中でふれたことを拾い出しながら、私の感じた疑問を提示したいと思います。           


天平4年に新羅より渡来した蜀狗って、ほんとうに狆の祖先

『続日本記』の天平4年(732年)蜀狗1頭献上との一節は、多くの書籍に最初に日本に狆の祖先が渡来した最初の記述として触れられています。
蜀とは中国四川省のことで、チベット文化圏に接し、私も、蜀狗とはチベット系の犬だったと想像しています。
しかし、蜀狗という言葉だけで、容姿についての記述も挿絵なるものも存在しません。
この時代より後になりますが、中国は元の時代、ネストリウス派キリスト教の修道士オドリコが東洋旅行記の中で、杭州の寺院でチベット系の短吻犬を想像させる犬達が何種類も飼育されていたのを見たと記述しています。
唐の時代にも、何種類ものチベット系の犬が居たとすれば、蜀狗という言葉だけでは、どの様なチベット系の犬であったのかも判別できませんし、また狆の祖先犬だと断定することも無理があるかもしれません。
しかし、現在犬種として広く認められているチベタン・スパニエル、チベタン・テリア、ラサ・アプソ、パグ、ペキニーズ、シーズーそして狆などに関わりがあるチベット系の犬の祖先犬であった事は、大いに想像できます。



遣唐使が狆を持ち帰ったって、ほんとう

遣唐使が、狆を唐の国より持ち帰ったと書かれている書籍・サイトを見ることがありますが、想像の範囲ではありそうな話しですが、その当時の記述や目録等で確認できたことが有りません。
続日本後紀には、僧彗雲が3頭の犬を持ち帰ったの記述が出て来ますが、その犬が狆であったとは判別できません。
当時の遣唐使船の航海の難しさにも拘わらず、経典を鼠から守るために唐猫は結構渡来して、平安貴族のペットになっていた様ですが、狆となると はたして どうだったのでしょか。


1613年にサーリス提督が英国に狆を持ち帰ったって、ほんとう

サーリス提督が狆をイギリスに持ち帰ったとの記述は、色々なサイトで目にすることがありますが、手を尽くして文献を探しましたが、未だこの記述がどこから来たのか解りません。
外国の書物からなのでしょうか、掲載されている書籍名をご存知の方は、教えてください。


ペリー来航時に、江戸幕府より英国女王に狆が贈られたって、ほんとう

ほとんど全ての書籍・サイトで、米国のペリー提督が帰国時に、幕府より英国のヴィクトリア女王へ2頭の狆が贈られたと書かれていますが、はたして本当なのでしょうか。
その当時、日本は英国とは鎖国状態でしたし、米国のペリー提督に他国の女王への贈り物を託したとは考えにくいと思われます。

面白い記述が2件あります。

大正時代の児童雑誌『赤い鳥』で、鈴木三重吉氏がペリー提督来航記の中で
『アメリカ大統領へ、贈られたものの中に、狆3匹が居ました、その狆は無事アメリカは連れて帰られ、2匹は大分長く生きました。ペリーも2匹貰いましたが、1匹は航海の途中で死に、向こうに着いたのはたった1匹だけでした。』と書いています。

また、2004年8月7日の産経新聞のコラム『SUSI と ハンバーガー』の中に次の記述があります。
『(日米和親条約)締結当時、友好の証として、黒船のペリー提督とピアース大統領、英国のヴィクトリア女王へ、それぞれ狆のペアが贈られた。6年後、万延元年の遣米使節団一行は、ニューヨークで、ペリー邸を訪問し、狆と合っている。
「二匹の狆来て衣類を嗅ぎ、日本人なるを知りて、大いに悦ひ躍ることきわまりなし」【柳川当清 航海日記】
ところで、米国大統領と英国大統領に贈られたペアはどうなったのか?両国の公文書とも、狆が手元に届いたとの記録がなく、どうやら航海の途中で死んだらしい。』

上記の2件の記述から色々なことが想像されますが、幕府から贈られた狆は、米国大統領とペリー提督への贈答品として全部で5頭で、そのうち1頭が航海の途中で死に、柳川当清の航海日記から考えてペリーの手元には2頭の狆が残った。外交的な贈答品が、はたして他国の女王に渡ることなどあったのか不明ですが、もしかしたら米国の大統領へ贈られたはずの狆のうち1頭か2頭がヴィクトリア女王の元に渡った可能性もあったのかなと想像する次第です。

ペリー提督の帰国の航路をたどると、香港で旗艦より降り、副官と共にイギリスの定期汽船に乗り換え、インド経由でエジプトのスエズまで行きますが、その当時スエズ運河は出来ていなかったので、陸路カイロ・地中海沿岸のアレキサンドリアと鉄道で、地中海を海路イタリア【当時オーストリア領】のトリエステ、そして陸路ウイーン・ドレスレン・ベルリン・ハーグとヨーロッパを縦断しイギリスのリバプール港に到着、表敬訪問した後アメリカへ帰還しています。
もし、ペリーが英国のヴィクトリア女王に狆を贈ったとすれば、その時だと思います。
日本から贈られた狆もペリーとともに、こんな長い旅をしたのかと思うと、さぞ苦難な旅であったと思われます。
ヴィクトリア女王は、狆の存在を知っていたことは、事実のようで、ペリーから少し遅れて、英国も日英和親条約締結のために1854年9月にスターリング提督を差し向けましたが、その時、ヴィクトリア女王への献上品として2頭の狆を所望しています。


なぜ、欧米には茶狆が多いの

私は以前から不思議に思っていたことがあります。
なぜ、日本では、茶狆が、稀にしか生まれないのに、欧米では、茶狆が結構多く存在するのか。
これは、趣向のみの問題ではなさそうです。現実に茶狆が生まれなければ、茶狆の数が多くなる訳がないからです。
以前は、海外のサイトや雑誌で茶狆の写真を見ると白黒狆より口吻が出ている様な狆が多かった様な気がしましたが、最近は口吻の詰まった茶狆も良く見かける様になりました。
キャバリア・キング・チャールズ・スパニエルと言う犬がいます。その作出過程で随分狆などの東洋の短吻犬が交配に使われたそうです。
その作出過程で、基礎犬のスパニエル系の犬の特徴を濃く備わっている犬が残されたものがキャバリアだとも聞いたことがあります。
異論がある方も多いと思いますが、その辺のことを、もう少し詳しく調べればヒントが得られるかもしれませんね。



江戸時代の狆って、どのくらいの大きさだったの

昔の狆は、大きかったとほとんどの人が言います。
私の子供の頃の狆も、今より大きかった様に記憶しています。
しかし、江戸時代はどうだったかと言いますと、1860年と1861年に来日したイギリスの植物学者ロバート・フォーチュンは、『江戸と北京』の中で、身の丈9〜10インチ【体高22.8cm〜25cm】以下のものも居ると書いています。
1873年来日したイギリスの日本学者バジル・ホール・チェンバレンは『日本事物誌』の中で重さは子猫ほどにすぎないと書いています。
また日本ではありませんが、1921年ニューヨークで発行された『Dog of China&Japan in Natture and Art』V.W.F. Collier著の中には、チベットより清朝皇帝に贈られた狆そっくりの犬の大きさが書かれています。
1頭は体長1フィート5インチ(43cm)体高8インチ(20cm)もう1頭は体長1フィート5インチ(43cm)体高8.5インチ(21cm)と書かれています。
余談になりますが、上記の本の絵を見て、日本の白黒狆の原種とも言うべき狆そっくりな犬が、所謂 宮廷犬の一種としてチベット・中国に存在したことは事実のようです。


鎖国の時代も狆は輸入されていた

江戸時代、鎖国の中で公に交易を許されていたのが長崎でのオランダ・清(中国)との交易、対馬藩を通しての李氏朝鮮との交易、薩摩藩を通しての琉球との交易、松前藩を通してのアイヌとの交易でした。
中でも、日清貿易は、日蘭貿易をはるかに上回る取引きが行なわれていました。

狆が、鎖国時代にも日本に入って来たことを物語る、面白い記述が2件あります。

『承寛集録』には、1735年(享保20年)長崎奉行窪田肥前守は、清(中国)産の狆を幕府に送ったことが書かれています。

また、『華蛮交易コウ聞記』には、1756年(宝暦6年)頃の禽類・獣類の原価について触れていますが、その中で狆犬65匁と書かれています。

宝暦6年(1756年)の65匁が、どの位の金額だったのかを知るのには明和2年(1765年)に発行された5匁銀と比較すると良いでしょう。
5匁銀貨12枚(60匁)で、金貨1両と交換できましたので、当時の狆犬は金1両と銀5匁が輸入価格だったのでしょう。
また、江戸中期の1両が現在の金額に換算するとどの位になるかと言いますと、比較するのは難しい物があります。
参考に上げてみますと、コメの値段に換算すると1両=4万円、賃金に換算すると1両=30〜40万円、一杯のそば代金に換算すると1両=12〜13万円と言ったところです。
そばの代金は、江戸時代を通じて比較的値段が安定していました。

上記の2件の記録は、江戸時代の享保〜宝暦年間頃には清(中国)より狆が輸入されていたことを示すものだと思われます。

他に、オランダ船が狆を持って来た記録やオランダ商館長が江戸参府の時に狆を献上した記録もありますが、これらの狆は、東洋の短吻犬ではなく、西洋の小型犬であったと思われます。当時、洋犬の小型犬も狆と呼んでいました。







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