楠本利夫著『みんなの福祉入門』より 第1章 福祉は法によって守られている? 第2章 高齢者と高齢社会 |
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第1章 福祉は法によって守られている? |
第1節 憲法で保障される福祉 戦後制定された新憲法によって、国民に対する広義の『福祉』がようやく成文化されました。憲法第3章『国民の権利及び義務』における、第13条『個人の尊重・幸福追求権・公共の福祉』には、こう記されています。 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由および幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。 また、第10章『最高法規』における第97条『基本的人権の本質』では、 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。 広く知られるとおり、こうした民主憲法によって主権在民、つまり主権は私たち国民にあり、すべての国民は、法の下に平等であって、人種・信条・性別・社会的身分又は門地により、政治的・経済的又は社会的関係において差別されないことが定められたのです。 このように、法の下にすべての国民が平等に扱われるということは、人間として不可侵の『権利』であって、たとえ国家であっても、これに干渉することはできない自由権の規定であるとされています。特に社会生活の面で、生活力におとる病人や障害者、母子あるいは寡婦、また低所得者層や高齢者などが、その他の健常者と比較して、不当な差別を受けてはならないとの基本理念から、社会福祉や社会保障制度面で積極的に支援・援助しようとしうことに他なりません。 そうした憲法に準じて、国民のあり方や善悪など、より良く生きるための社会規範を定めたのが、いわゆる法律です。その法律には、犯罪など、人として犯してはならない行為を罰する規定などとともに、主権者である私たち国民によって選挙され、国権の最高機関である国会によって、憲法にのっとり、国民に対して『よかれ』と制定した様ざまな『決まり』が、刑法・民放など多岐にわたる法律です。 そのように、憲法によって保障され、法によって守られているはずの私たちの人権ですが、新憲法が発布されて以来50余年、はたしてその条文どおり万全なのでしょうか。 それを検証する前に、封建制度の江戸幕府を倒し、日本が近代化に踏み出した当時に制定された、あの明治時代からの『旧憲法』による根本理念を知る必要があるでしょう。 敗戦まで固守された明治憲法では、現在、日本国の『象徴』であるとされる天皇は、主権在民の現行憲法とはまったく違い、この日本の主権者――つまり統治者であって、私たち国民は、その天皇の統治の下に日々の生活を営んでいたのです。その一生を、ほとんど法に抵触することなく過ごす小市民にとって、あるいは不都合を感じなかったかもしれませんが、思想・信条はおろか言論の自由もなく、天皇に代表される国家に対して、少しでも反対する言動があれば、容赦なく逮捕・拘留されるという、きわめて厳しい法律が国民を縛っていたのです。 また、広く知られているとおり、現行憲法第9条では『戦争の全面放棄』が明確に規定されていますが、天皇が統治する明治憲法ではそうした定めは無く、国際紛争解決のために、明治以来、何度となく戦争が行われ、そのたびに尊い国民の生命が失われました。その戦地におもむく兵士たちも、天皇の名において招集された一般国民だったのです。 そのように、すべてが天皇に帰結し、富国強兵のために人命も軽く扱われた時代ですから、国民の福祉という理念は、まったくといっていいほどなかったのが実情です。人間が生きていく以上、当時にしても生活に困窮する人もありました。不幸にして障害をもった人も、当然ながらおりました。そうした人たちに対する公の救済措置はほとんどなく、あくまでも自助、親族などの扶助、あるいは細々とした民間団体による一時的な援助・救済しかありませんでした。そうした当時の世相は、映画になった『野麦峠』や『おしん』また、作家・林芙美子の『めし』などの小説にあるとおりで、自助の方法にしても、生産にかかわる1次・2次産業がその大部分を占めていた当時としては、野麦峠の少女達のように、安い賃金で、命を削るような人権無視の辛い労働を強いられるか、あるいは、まだ公認されていた、江戸時代の『吉原』のような花街へ、泣く泣く身売りされるかなど、ほとんど選択肢はなかったのです。 病気などで、いよいよ困った人のために、施療院といった施設や、老人のための養老院などが僅かながらもありましたが、明治憲法の主権者はあくまでも天皇であることから、とうてい国民のための理念に基づいた施設などではなく、『お上(国)からの施し』といった概念のものだったのです。しかも、そうした施設に収容されなければならなくなった人たちを、能力的欠陥・道徳的欠陥者として、一段と低い層であるかのように蔑視したものでした。そうした歴史がある以上、そこでは、もちろん人格をもった一人の人間としての扱いはとても望めませんでしたし、その世話にならなければならない境遇は、国民にとっては『恥』以外の何ものでもなかったのです。新憲法が制定されて半世紀が過ぎ、国民の権利としての『福祉』が充実した現在でも、老人のためのホームや、生活保護に対して「お上の世話にはならん」と、かたくなな老人が珍しくないのは、明治憲法当時の悪いイメージが脳裏に焼きついているからに他なりません。 第2節 福祉の種類と内容 広義の意味での社会福祉は、憲法に定められた生存権保障を軸に、国あるいは自治体による積極的な努力義務として『国民の生活を支える』ための全般の法を指すといえます。しかしここでは、高齢者福祉など一般にいわれる狭義の福祉――つまり対人的なサービス給付事業に関連する諸制度を、おおまかに紹介するのに止めましょう。 福祉という言葉に、私たちが直ちに反応するのは、まず、在宅や入所施設を通じての、援護を必要とする児童・母子(父子)、また身体障害者など何らかの障害がある人や高齢者・婦人・犯罪更生者あるいは低所得者に対するもの、などではないでしょうか。 たしかに、こうした人たちに対して、それぞれの援護・更生・育成あるいは社会復帰、扶養などについて専門的従事者による支援、また日常的な対人サービスを行うのが福祉の理念であるといえるでしょう。 しかし、生活に困窮する人たちを対象とする生活保護法を除き、福祉におけるほとんどの対人サービス給付は、あくまでも非貨幣的――つまり直接には金銭を必要としない『サービス』が中心で、高齢者における老人ホームにせよ、身体障害者を支援する通所授産所あるいは入所援護施設にせよ、設備・施設などのハード部分とともに、専門的また技術的にサポートする専門従事者が必要とされるのは当然です。それが両者の場合では、端的にいって、理学療法士・作業療法士を含む社会福祉士、あるいは介護福祉士、そしてホームヘルパーなどという職種であるわけです。 多岐にわたる『社会福祉』である以上、これらばかりでないのは当然です。厚生省から委嘱される民生委員・民生児童委員などは、その担当地域における住民の中で、生活上、何らかの支障を来した人、あるいは児童問題について個々の相談を受けたり、その結果について、それぞれの行政窓口と諮りながら、憲法で保障される種々の生存権の確保に努めます。 また、犯罪更生者に対する保護司の職務も、再び犯行を犯さないためのケアワークとともに、それによって差別されない就職について奔走するなど、法に定められた権利としての『人権擁護・社会福祉』のために、ほとんど無に等しい報酬にもかかわらず、社会的弱者といわれる人たちのために、寝食を忘れてまで尽くしているのです。 それらが、職業としての専門でないのに比べ、母子健康法・老人健康法・精神保健法にかかわる職務は、おおむね保健師をはじめとする、それぞれのプロフェッショナルが担当します。それだけに職業としての責任が重くなるのは当然ですし、また、そのための資格も必要です。 その主な資格を挙げると、保健師の場合、看護師の専門学校を卒業後、さらに保健師試験にパスしなければなりません。その結果の勤務先は、主として保健所などであって、母子保健法に基づく指導・相談業務はもちろんのこと、よく知られるO-157などの食中毒予防をはじめとする、社会全般の保険業務について関わることになります。 昭和62年5月に制定された『社会福祉士及び介護福祉士法』によると、社会福祉士の定義として、『専門的知識があること、または環境上の理由により日常生活を営むのに支障があるものの福祉に関する相談に応じ、助言、指導その他の援助を行うことを業とする者』となっており、また、介護福祉士については、『専門的知識及び技術をもって、身体上または精神上の障害があることによって日常生活を営むのに支障があるものにつき入浴、排泄、食事その他の介護を行い、並びにその者及びその介護者に対して、介護に関する指導を行うことを業とする者』となっています。 これからも判るように、介護等を必要とする人と日常、直接かかわり合う理学・作業療法士などと違って、社会福祉士の主な職務は、むしろ『相談業務』ということになります。したがって、特別養護老人ホーム・身体障害者養護施設を初めとする『現場』より、むしろソーシャルワーカーとして、各種相談所・福祉事務所などを主たる職域とする人が多く、介護福祉士の場合とは違ってくるようです。 専門職としてのその資格取得には、まず社会福祉士の場合、厚生労働大臣が指定する『指定試験機関が実地する国家試験』に合格しなければなりません。その受験資格にはさまざまなケースがありますが、ここではその二、三にとどめましょう。 福祉系短大3年指定科目履修者については実務1年、2年の場合は実務2年で受験資格が得られます。一般系短大も同様ですが、この場合、各実務の後、さらに一般養成施設等での1年の研修が必要です。 介護福祉士の場合は、 1、 高卒以上で、一定の養成施設を卒業した者 2、 指定された介護業務に3年以上従事したもの 3、 高校専攻科で福祉に関する所定の教科目および単位を修めて卒業、また見込みの者 となっていますが、特別養護老人ホームなどの現場からは、学卒者は実務に弱く、実務上がりは組織になじみにくい、との悩みが聞こえているのも事実です。 |
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第1章 福祉は法によって守られている? |
第3節 児童福祉法はこう定めている 1・32――いま、この数字がわが国の将来を占う上で暗雲となっています。それは、すでに知られているとおり、『生涯出生率』つまり女性一人が生涯に産む子どもの数です。男女2人というカップルでありながら、その出生率が2人以下ということになれば、日本の人口がゼロになるという笑えない試算もあるほど深刻な問題になっているのです。 そのように、国の将来をも左右しかねない出生率低下を考えた場合、国として貴重な人的資産である児童をどのように守ろうとしているのでしょうか。 児童福祉法が定められたのは、戦前・戦時の反省を根本にした憲法25条をはじめ、それに関連する人権条項によるもので、昭和22年のことでした。 その理念は、あくまでも憲法11条に記されている基本的人権に基づいており、次のように表されています。 第1条 すべて国民は、児童が心身ともに健やかに生れ、且つ、育成されるよう努めなければならない 2 すべて児童は、ひとしくその生活を保障され、愛護されなければならない それを受けた第2、第3条では、義務条項が挙げられています。 第2条 国及び地方公共団体は、児童の保護者とともに、児童を心身ともに健やかに育成する責任を負う 第3条 前2条に規定するところは、児童の福祉を保障するための原理であり、この原理は、すべて児童に関する法令の施行にあたって、常に尊重されなければならない 次代を担うのが児童であり、その健全な育成こそ国力の源泉――それは戦前からあった理念ですが、現在のような基本的人権に根ざすものではなく、主として『教育』の問題として採りあげられており、僅かに福祉的な事項として、貧困・非行・虐待・妊産婦・母子家庭など、保護を必要とする児童に対してだけのものだったのです。そうした狭義の概念から脱し、児童に対する福祉を、保護を必要とする特別な児童のみならず、すべての児童に拡大され、その健全育成を福祉の大きな柱に据えたことに戦後の特徴があります。 児童の健全育成に包含される『児童福祉』には、次の第18条に規定されているように、 第18条 親、場合により法定保護者、児童の養育及び発達に関する第1次責任を有する と、家庭と親の責任をこう定めています。 それら当然の事項のほかに、児童福祉法では、児童すべての健全育成のために次のような施策を『福祉』の主体にしています。 1、 母子保健対策… 妊産婦と生まれてくる子供の健康を守るための諸施策で、妊産婦のための健康診断や、出生児に対する定期検診・育児相談などが行われているほか、経済的理由により入院助産を受けられない妊産婦については、安全な出産のための助産施設などがあり、低所得者層の妊産婦には栄養食品を配布する制度などもあります。 1、 保健対策… 新生児に対して行われる先天性代謝異常等の検査をはじめ、保健所で随時行れる乳幼児健康診査、1歳6ヶ月・3歳児の定期健康審査などによって、乳幼児の健全な育成を図るとともに、疾病・障害が疑われる場合は、身体面では専門医療機関、精神発達面では児童相談所などで対処され、必要とあれば、そのための専門施設によって治療等を受けることができます。また、健康な児童に対する保健所の設置なども、児童福祉法の範疇で、女性の就労形態の多様性から、夜間保育についての要望なども都市部において強くなっています。 1、 心身障害児対策… 乳児死亡率を低減させるため、大正年間にはじめられた乳幼児に対する健康診査でしたが、それだけでは万全とはいえず、心身障害の予防や早期発見のために、昭和36年から3歳児健康診査が行われるようになり、それに52年からの1歳6ヶ月検診などによって、早期発見・早期診療施策が飛躍的に増大しました。その結果、療育指導、また入所・通園療育訓練施設などが各地に設けられています。 1、 要保護児童対策… 要保護児、保護者のない児童又は保護児に監護させることが不適当であると認める児童と、法第25条で規定されています。たとえば、その保護者が配偶者のない女子またはこれに準ずる事情にある女子であって、その者の監護すべき児童の福祉に欠けるところがあると認められる場合の母子寮への入所を始め、心身に障害のある児童、非行を犯しやすかったり情緒不安定な児童など、必要と認められた場合、各種の児童福祉施設に入所することができます。乳児を対象とした乳児院をはじめ、これら施設の目的は、あくまでも児童の健全育成にあるのはもちろんです。 1、 母子・寡婦対策… 『すべて母子家庭には、児童が、そのおかれている環境にかかわらず、心身ともにすこやかに育成されるために必要な諸条件と、その母の健康で文化的な生活とが保障されるものとする』また寡婦にも母子家庭の母に準じた文言で『母子及び寡婦福祉法』が定められています。この母子福祉対策は、昭和24年に戦後の戦争未亡人の援護から始まったもので、その後、『母子福祉基金の貸付等に関する法律(昭和27年)』『国民年金法(同36年)』等の法制化によって充実され、昭和39年に母子福祉を総合的に推進する『母子福祉法』さらに56年には寡婦を含めて現在にいたっています。 これら、さまざまな相談所・施設などでも施設などでもソーシャルワーカー、またケースワーカーやヘルパーとして活躍している人が大勢おり、人権尊重を大前提とする福祉関係の職域、今後においてもますます広がるものと思われます。 第4節 障害者福祉について データと将来 終戦まで続いた明治憲法では、障害者についての独自の法制度というものはほとんどありませんでした。富国強兵を表看板にしていただけに、戦地で負傷した傷痍軍人や、盲人に対する特別な施策が行われていた程度だったのです。特に傷痍軍人については、多くの戦争を起こし、それが拡大していく中で、国の対策として重要な位置を占めていたのは当然のことでしょう。 それに反し、一般の障害者については『救護法』などによる救貧対策の一環として対処されていただけでした。それも、戦火が厳しくなるにつれて予算も切り詰められ、傷痍軍人以外の一般障害者は『非国民・穀つぶし』などと排斥されるようになったのです。 そして、昭和15年(1940)には、精神病者や知的障害者などの『不良な遺伝子』の除去を目的とする『国民優生法』が制定され、断種・隔離政策までが進められ、それら障害者はその生存までが否定されるようになったのです。 戦後、昭和24年になって『身体障害者福祉法』が制定されましたが、あくまでも傷痍軍人を中心とした性格のもので、当時、国会議員のあいだでも、障害者に予算を使うのは浪費である……との驚くべき主張すらあったほどで、国民にも、とても理解されているとはいえない状況でした。 というのも、この『身体障害者福祉法』については、すべての障害者の生活保障にあるのではなく、その第1条にあるとおり、 この法律は身体障害者の更生を援助し、その構成の為に必要な援助を…… という不備な内容だったのです。当然の結果として、この法律で保護の対象とされる障害の種類は、視覚・聴覚・言語機能の障害などに限られ、肢体不自由その他の内部障害者などは置き去りにされたのでした。 こうした福祉法は、あくまでも傷痍軍人対策の一環として、職業復帰のための施策でしかありませんでした。当時の障害者の問題・対策、あくまでも家族・親族内での解決が当然視されていたほど、貧困そのものだったのです。 それが曲がりなりにも改善され始めたのは、昭和35年に制定された『身体障害者雇用促進法』からでしょうか。その前年に発足した国民年金制度で、重度障害者を対象とする障害福祉年金が設けられました。法制定によって該当者には僅かながらも所得保証の道が開かれたものの、中・軽度の障害者に対する恩恵はありませんでした。その結果、身体障害者の職業更生に関する勧告に基づく『障害者雇用法』が先進諸国でも進められていたこともあって、ようやくわが国でも採りあげられることになったのです。 とはいえ、当時わが国は高度経済成長期にあったことから、その推進の為の労働力の確保・強化がなかったとはいいきれません。そのように、更生援助・国民年金による所得の援助、雇用促進法による就労援助という一本の体系が形作られたものの、知的障害者・精神障害者等については施策の対象外とされていたのは事実です。 そのような現状に対して、知的障害者の親たちである『精神障害者育成会』の運動が展開された結果、同35年に『精神薄弱者福祉法』が制定されました。これは、先に制定された福祉法が、中・軽度の障害者への更生援助を主体にしていたのに比べると、重度障害者に対する保護施策という点で進んでいるというものの、政府は知的障害者をあくまでも保護の対象としか捉えておらず、憲法に保障された『人権』とは認められていなかったのです。 昭和45年に唱え始められた『福祉なくして成長なし』のスローガンは、その3年後には『本年をもって福祉元年とする』と高らかに宣言されたものの、折からのオイルショックによって高度経済成長政策が破綻したことから、翌年には『福祉の見直し』とともに、北欧などでの『高負担・高福祉』か、アメリカでの『中負担・中福祉』論等の、二者択一というような問題が台頭してきたのでした。 それとともに、ノーマライゼーションという障害者福祉理念が国連で次々に採択されたことから、わが国の政府・自治体、企業等も受け入れざるを得なくなっているのは事実です。 このノーマライゼーションというのは、障害者は何も特別な人ではなく、健常者と同様に、一人の人間、市民として当然のニーズをもった人というのが基本です。ただ、それに対して、当然のニーズを発露するために困難を抱えているだけであり、社会のほうがその困難を取り除くことによって、通常のノーマルな生活を送ることができるし、社会はまた、それを障害者の権利として保障しなければならないという考え方でした。 その結果、昭和39年に身体障害者福祉法が改定され、総則の第2条で、 すべて身体障害者は、社会を構成する一員として社会・経済・文化その他のあらゆる分野の活動に参加する機会を与えられるものとする という文言のほか、まだ、更生の援助あるいは更生のために必要な保護などという言葉が多用されており、完全参加と平等という趣旨にはほど遠いものでした。 昭和45年になって、ようやく今後の社会福祉のあり方についての提言が行われ、いわゆる福祉8法が改正されました。それは、 1. 位置づけが明らかでなかった各在宅福祉サービスを法的に明確化すること。 2. 実施サービスの権限を自治体に委任する事で在宅福祉と施設福祉の統合化を図る。 3. シルバーサービスなど、民間部門を含めた供給体制を多元化すること。 などで、これにより、ようやく更生援助という文言がなくなり、『障害者の自立』『社会生活への参加』を促進するという概念がつけ加えられたのです。そして、『市町村は、身体障害者が日常生活を営むのに支障が生じた場合においても、引き続き居宅において生活ができるよう……』という、障害者に対する地域での生活権を保障していく方向が明らかにされました。 それによって心身障害者に対する福祉は飛躍的に上昇したものの、まだ当時者のニーズを満たすことはできませんでした。現在、そうした保護・育成されなければならない心身障害者の現状は果たしてどのようなものなのか、その生涯の種類あるいは程度についての状況を、それぞれの年度における「表」で確認してみましょう。 (表略) しかし、これらの数値に対しては、障害そのもの、あるいはその程度について、プライバシーなどの問題もあって、必ずしも主官庁である厚労省・また自治体も把握できていないというのが実情です。この数値以上の実数が、果たしてどれほどあるのかは不明です。 それら障害者に対しての福祉は、施設・在宅を問わず、緊急かつ長期にわたる問題です。しかし、そのケアについては、高齢社会が進むにつれて高齢者福祉問題と同様になるはずです。というのも、遅ればせとはいいながら心身障害者福祉法が成立し、実行されているという現在、長い年月の間、それら実行者すでに高齢に達しているという事実を無視することができません。つまり、介護福祉士あるいはヘルパーなど、それら援助を必要とする障害者についての職域は、将来ともに施設介護・在宅介護に限らず、ますます高まっているというのが疑いもない事実でしょう。 |
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第1章 福祉は法によって守られている? |
第5節 高齢者福祉とは? 高齢者福祉法の制定もずい分遅れました。昭和38年にようやく閣議決定をみ、議会でのさまざまな付帯決議のあげく、7月になって始めて参院本会議で議決されたのです。 その老人福祉法では、目的として『……心身の健康の保持及び生活の安定のために必要な措置を……』ということになっています。このように、高齢者福祉に対する法制化が遅れたのは、当時までの平均年齢の低さにあったのは事実です。その間に幾多の戦争を経験したことで若い生命が失われたとはいえ、大正から昭和初期にかけての日本人の平均寿命は、おおむね45歳前後、現在の発展途上国と同様に低い数値だったのでした。それが飛躍的に上昇したのは、確かに戦争による無為な生命の損失がなくなったことがあるものの、戦後の一時期を除いての食生活の向上を、決して無視することはできないでしょう。 それを裏付けるのが下の「表」です。 (表略) 農耕民族である日本人は、江戸時代以前から粗衣粗食に甘んじてきました。一般庶民の家庭では、一汁一菜 が当然のこととして毎日の食卓に上がっていたのです。たまさかの魚類はあったものの、牛・豚肉を口にすることはおろか、昭和初期ですら、病院の見舞いに化粧箱に入れた鶏卵が珍重されたもので、そうした時代では、高齢者対策や今日の介護にまつわる諸問題も考えられなかったというのがほんとうでしょう。 年齢を考える上で『還暦』というのは、十二支の暦が元へ還るという意味で60歳を指します。当時は、赤いチャンチャンコなどを贈られ、仕事から身をひいた『ご隠居さま』として子や孫から盛大に祝われたものでした。そして70歳……杜甫の句から引用された『人生七十古希なり』というとおり、古希として前の「表」で見るように、極めて少ないながら元気な老人がいたのでした。 それが、高齢者福祉法を制定しなければならないほど平均寿命が高くなったのは、戦後の飛躍的な医学の進歩のみならず、衛生・栄養面を始め一般国民の知的向上心と、あくことのない購買力が大いに預かっていると思われます。 わが国の高度成長期に従って、平均寿命の高まりは次のとおりです。 こうしたグラフで見るとおり、多くの戦争があったとはいえ、戦前・戦後の平均寿命の数値にはこれほど大きな差があったのです。 老人福祉法の第1条には、 第1条 この法律は、老人の福祉に関する原理を明らかにするとともに、老人に対し、その心身の健康の保持及び生活の安定のために必要な措置を講じ、もって老人の福祉を図ることを目的とする。 と記されています。 その結果、『心身の健康の保持』のために必要な措置として、老人が自主的・積極的に参加できる事業……たとえばゲートボール大会などのスポーツ事業や老人クラブに対する援助などが各自治体で行われるようになったり、『生活の安定』に必要な措置としては、 1. 経済的理由または心身の理由により、居宅において生活が困難な老人を養護老人ホームまたは特別養護老人ホームに収容すること。 1. 養護を要する老人の養護を養護委託者に委託すること。 1. 心身の理由によって日常生活に支障がある老人の世話を老人家庭奉仕員(ホームヘルパー)の所属する団体に委託すること。 その他、敬老の日の設定や、各種老人福祉施設の設置などが行われてきました。しかし、高齢人口の増加とともにそれら器具・施設・人員の必要性はますます高まり、行政の範疇を超えて、介護ビジネスは、いまや大手メーカーまでが参入するほどの有望市場と目されるようになったのです。 第6節 危惧されるデータの数々 まず、日本における年齢区分別人口の推移をみてみましょう。次頁の「表(表略)」がそれで、昭和5年以降の『国勢調査』によるもので、生産人口といわれる15歳から65歳、さらにそれまでの児童層に比べると、65歳以上の高齢層といわれる年代になるにしたがって減ずるピラミッド型を呈しています。それが昭和60年には二ケタになり、平成12年の推定人口ではその比率が逆転し、高齢層が多くなることで、国家として安定的かつ長期的な発展そのものが危惧されるほどの構成になるばかりか、その25年後には国民の4人にひとりが高齢者ということになるのです。 平均年齢の伸張から先進諸国はもちろん、多くの国で高齢化は進んでいますが、高齢先進国としてわが国の老人福祉にも大きな影響を与えたスウェーデンの場合、平均的な7%というそれが、人口の14%に達するのに85年、フランスでは130年もかかったのに比べ、わが国では、僅か24年という短年月であったことが混乱に拍車をかけています。 高齢者のさまざまな問題については項を改めて詳述しますが、今後の高齢社会で少なからず支障になると思われるのが、戦後の民主憲法で崩壊した『家長制度』と、高度成長時代に定着した核家族化の進展ではないでしょうか。 旧憲法時代における制度では、財産に関して法的に一子相続と定めていました。いわゆる長子が家督を相続し、親の面倒もみるというのが当然の姿だったのです。それは、封建的な制度でしたが農耕民族として発展してきた日本の社会では、相続によって田地が細分化されるのを防ぐ意味もあっての生活の知恵だったと思われます。したがって、二、三男などそれ以下の子どもたちは、故郷を離れて都会で働くというケースが多かったのです。 江戸時代はもとより、長い歴史の間に定着したこの相続方法は、長子として親の面倒をみるのが当然でしたし、また当時の平均寿命の低さもあって、ほとんど問題なく経緯したのでした。 しかし、戦後の法改正によって財産相続がすべての子らに平等になった反面、親の扶養も平等に責任を負うことが法によって義務づけられるようになったのです。戦後50年あまりの民主主義は、残念ながら日本の場合、財産分与の権利は主張するものの、扶養の義務の方はおざなりにされがちという風潮が強くなり、各地で老親や財産をめぐる家族紛争は、裁判沙汰になるほど増えているのが事実です。 その第二の問題点は、核家族化の進展でしょう。高度成長期に飛躍的に伸びた産業構造によって、地方から都会へと多くの人が流入しました。当時は、それによる住宅問題も深刻化したものですが、団地に代表される公営住宅の建設や、また宅地の開発などでようやく都市住民として定着することができるようになったのでした。一方、地方に残って細々と農業を続ける両親と、産業戦士として都会生活を営む子供たち──それが次にあげる世帯構造別にみた世帯数の推移で、利を負うごとに高齢者世帯が増加しているのが判ります。 生活基盤を都会にもつ子ども世代には、農業の恒久的構造不振もあって、両親が年老いた場合でも、都会育ちの二世が育っていることもあって、帰農するという考えはまったくといっていいほど持ち合わせていません。というより、自分たち世代が、すでに中・高年と呼ばれる年代に達していることも決して無視できないでしょう。 高齢によって日常生活に事欠くようになった老夫婦あるいはひとりになった親はどうなるか。ということですが、都会に住む子に引き取られるケースが多いようです。しかし、核家族として長い年月を自由に暮してきた『嫁・姑』問題に発展したり、兄弟の間をたらい回しにされたり、あるいは、経費を親の資産や、兄弟相互で負担しながらの施設入所という事態が増えています。現在も問題になっている引取り手のない社会的入院や、転院の数々も、そうした家庭悲劇が招いた結果にほかなりません。 |
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第2章 高齢者と高齢社会 |
第1節 何歳からが高齢者なのか 生まれて間もない乳幼児にもその成育に歴然と差があるように、長い風雪に堪えて生き抜いてきた高齢者には、とくに個々それぞれの歴史がその心身に刻みこまれるのは当然です。年齢以上に見える人もいます。信じられないほど若く感じる老人もいます。元気な人、あるいは病気などのために、同じ年齢でも気力・体力の衰えた人もいることでしょう。ほとんどの高齢者が、『お年寄り』と呼ばれることに抵抗を感じ、認めようとしないのは、こうした個々の特殊性があるためで、18歳以下と規定されている少年法などとちがって、高齢者福祉法では、おおむね65歳以上としているものの、介護・施設入所などについては、60歳からをその対象年齢としている自治体等も多いのが事実です。 高負担・高福祉を実現し、高齢社会に万全の配慮がつくされている北欧諸国に比べると、わが国の場合は、高齢者自身による自己保全というか、ある程度の老齢資金を用意しておかなければならないとされ、その準備に40代からという声もあるほどです。それが直接老齢意識と結びつかないのは当然ですが、各国における老後生活の始期という表を紹介しましょう(表略)。老後資金の問題等は別として、老人であると自分自身が認める年齢として見れば、お国ぶりも窺えて、興味があるのではないでしょうか。 そうした個人差によるバラつきはあるものの、国連では、『個人の高齢化と人口の高齢化とは別の概念であり、個人の高齢化はそれぞれ個人の数だけ定義される』とし、『便宜上、もっとも便利な指標として、65歳以上を高齢者とする』と定義づけ、暦年齢に基づく年齢区分により、当該年齢以上の人口が老年人口と称され、この層が総人口の7%に達した場合を『高齢化社会』あるいは『超高齢社会』と表現するのが妥当かもしれません。 いずれにせよ、国連が定義した65歳というのが世界各国の共通概念となったわけですが、これについての疑念がまったくないとはいいきれません。というのも、この年齢区分は、前述したように老化は個々の心身問題であり、人によって違うのは明らかだからです。 もし国連の定義が共通認識として固定化されると、それ以前の年齢であっても、老化の顕著な人が、高齢者福祉の対象外となるおそれがあります。わが国の自治体でも、高齢者対象施設の利用が60歳からの所もあれば、70歳以上という規定もあったりして、全国的に統一されているわけではありません。こうした点については、あくまでも目安であって、本人の心身状態いかんではそのニーズに即応し、必要なサービスを暦年を超えて提供できる体制が整えられなければならないのが、世界でも例のない超高齢社会を迎えた、福祉国家としての日本の責務であり、極めて近い将来の姿ではないでしょうか。 第2節 平均寿命=日本の場合・世界の場合 前にも述べたとおり、平均寿命はその国の医療技術なり設備・人員の高低度によって左右されます。乳幼児の死亡率、あるいは流行性疾患などをおおむね克服し、国民の栄養面だとか衛生面などが向上することによって高くなるのは当然です。 わが国の場合、遠く平安の昔から、権力層による農作物の収奪で粗衣粗食に甘んじなければならなかった農民、あるいは一般庶民の平均寿命が僅か35歳だった当時、武家のそれは50歳に近く、さらに殺生を戒め、魚介を口にしなかった僧侶階級が、驚くべきことに70余歳だったと記録されていることです。 その理由として、当時では知識層の代表格とされていた僧侶たちの、生命全般に対する知恵が進んでいたこと、とくに、食生活では、あの精進料理に見られるとおり、魚介に代わる植物性蛋白質の摂取が多かったことや、長年にわたる規則正しい生活様式が、そうした平均寿命となって現れたのでしょう。 (平均寿命の国際比較・表略) 明治以降に多発した忌まわしい戦火、また当時の医療技術では克服できなかったさまざまな疫病などもありました。しかし、階層的に平均寿命に大きな差があったのは、現代でいう『運動』以上の農民たちの苛酷な日々の労働と、栄養摂取のアンバランスだったに違いありません。 現代では若い世代にまで敬遠される『米』ですが、その米すら年に数度の祭礼の日にしか食べられなかったというのが、大正時代にいたるまで、それを作る農家をはじめとする一般庶民の実情でした。いまだに、地方出身の高齢者のみならず、貧しかった当時と比較して、贅沢になった現代を嘆く風潮があるのはそのためです。 そのような時代は別として、食も潤沢になり、世界的にも医療技術が発達した現代、各国とも平均寿命が高くなっているのは事実です。その中でも驚異的なのが日本の場合で、戦争などによる人為的な生命損失がなくなったとはいえ、僅か半世紀の間に世界一を記録するまでになったのは、人類史上でも初めてのことといえるでしょう。 これら表で見るように、何度となく飢饉に見舞われたり、内戦などで多くの生命が失われたナイジェリアや、いまだにカースト制度によって超貧民が存在し、衛生面でも大きな問題を抱えるインドなど、いかにそれらの事象が国民の平均寿命に影響を与えているかは明らかです。 明治新政府の富国強兵策から、世界に追いつけ追い越せをモットーにして、中進国の道を歩んできた我が国は、皮肉にも敗戦によって先進国の仲間入りをすることになりました。戦争等による人命の損失がなくなり、食生活の改善、衛生環境・医療技術などの目覚しい発展から獲得された現在の状況について、警鐘を鳴らす研究者がいないでもありません。というのは、食生活に関して、あまりにも欧米化されすぎた結果、先進国病といわれる糖尿病をはじめ、これまでの日本人には珍しい直腸がんなどの諸疾患が多発するようになったことと、若者に多いインスタント食品・スナック系食品などの多用による食生活の乱れを指摘するのです。アメリカでも、ヘルシーメニューとして日本食が愛好されるようになった現在にもかかわらず、この状態が続くかぎり、わが国の平均寿命は、近い将来において、ナイジェリア以下になるのではないかとの危惧があるのも忘れてはならない説でしょう。 第3節 データでみる日本の現状 かつて長寿の村として知られていた山梨県上野原町棡原地区は、研究者にとって格好の対象でした。町へ出るのにも、車も通れない長い山坂を歩いて越えなければならず、山中の耕地で採れる作物といえばアワ・ヒエなどの雑穀と、根菜類がほとんどという土地柄でしたが、村人たちは健康なばかりか、代々に渡って80、90の高齢を謳歌していたのです。 ところが、開発の波がここにも押し寄せ、村へも自動車道がつけられて以来、往来が便利になったばかりか物品の流通も盛んになって、村の生活も一変した結果、高齢の親よりも、その子息たちの方が早く亡くなり、子の葬儀を親が出すという悲劇が起こりはじめたことから、やがて研究の対象からも外れてしまったという事実があります。 現代日本の場合はどうでしょうか。 次の表1(表略・主要分類別にみた受療率)のとおり高齢化にますます拍車がかかりそうなわが国の現状ですが、身近な例にも見られるように,何らかの疾患があって病院通いをしている老人は多く、国家予算に占める医療費、とくに老人医療費の伸び率が、表2(表略・年齢階級別一般診療医療費の推移)のように、ここ数年で急伸していることが判ります。元気に高齢時代を過ごすことこそ理想であるはずなのに、この現状はどうしたことなのでしょうか。 人間の身体機能の限界は、150歳とも180歳ともいわれています。しかし、加齢とともに退化していくのもまた厳粛な事実です。われわれの場合でも、あの当時はあれだけ走れたのに……といった風に、過去と比較して現状を嘆くケースが少なくありません。しかし、それが年齢をとるということであり、生きている以上、誰もが否応なく認めなければならないことではないでしょうか。『子ども叱るな来た道だから、年寄り嗤うな行く道だから』とは、とりも直さず、こうした人間の生涯にわたる心身経過を表した真実にほかならないはずです。 しかし、加齢とともに能力的に低下するという事実を、なかなか認めたがらないのが人間です。いえ、認めたくないというのが本音でしょうか。それがために、医学的には年齢相応であったり、それまで生きてきた日々の集積であるはずの今日を、そんなはずはないと否定したい当然の心理から、医療に頼るというケースも少なくはないのが、それら『表』の数値にも表れているといえそうです。 人類史上初めてという急速な高齢化と、ハード面、ソフト面ともそれへの対応策が整わないまま迎えたわが国の高齢対策は、次章で述べるように、国民の意識を積み残したままスタートしなければならなかったのです。 |
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楠本利夫著『みんなの福祉入門』より 第2章 高齢者と高齢社会 |
第4節 高齢社会をめぐる諸問題 高齢社会後進国のわが国は、問題に対するノウハウも施設もほとんどなかったというのがほんとうです。しかも、平均寿命の低さや『向こう三軒両隣り』といった厚い人情が支配していた長い歴史から、その必要性も、ましてや欧米諸国のように、宗教心に根ざした広いボランティア精神も育つ土壌ではなかったのです。 高齢者の増加が顕在化し、それが焦眉の急になり始めた時点で、ようやくスウエーデンなど先進諸国に学びはじめたのでした。しかし、国の根本にもかかわる重大施設が、そうした短期間で確立されるはずもなく、現在にいたっても、介護保険をはじめ、その対策など高齢社会についての問題が山積みしているのは、日々のマスコミが伝えるとおりです。 そうした中で、もっとも重要視されなくてはならないのが、いわゆるソフト面である介護ではないでしょうか。高齢者のみならず障害者もふくめて、介護するのも、されるのも人間です。確かに介護関連機器については、ここ数年、目ざましい発展をとげているのは事実でしょう。しかし、それらはただ、介護者の負担を軽減するための『補助器具』でしかなく、介護の本質はあくまでも『人間』でなくてはならないはずです。介護機器等のハード面については項を改めるとして、ここでは主としてソフト、つまり人間性から見た時代の変遷を考えてみましょう。 いま、老親扶養をめぐってさまざまな問題が起こっています。その多くは悲劇なのですが、自分を育ててくれた親であり、愛する夫の、また妻の親でありながらどうしたことなのでしょう。 戦前の大家族制度と違って、夫婦全体に核家族化したわが国では、3世代がともに暮す世帯が激減しました。ということは、田舎に限らず祖父・祖母の家は別であって、そこは遊びに行く所でしかなくなったのです。年寄りとの生活経験がなくなったのです。年寄りとの生活経験がなく育った子どもたちに、その様態や心理が理解できるはずはありません。高齢化が問題になり始めた当時、仕方なく同居することになった祖父母に、その孫たちが、きたない、臭いなどと悪態をつくようになったのも、それまでの『お客さま』といううわべだけの関係から、知らなかったその表裏・実態まで見てしまった結果として、あるいは無理もないことだったかもしれません。 また、家族制度が改められ、財産相続とともに老親の扶養義務も平等とされました。民主的な改革ですが、残念なことに社会的に大きな問題が生じているのは周知のとおりです。つまり、かつての長子相続・扶養責任の時代と違って、扶養義務の分配・平等化は、もっとも肝心な責任の所在までなくしてしまったのです。 そうした時代でも、まだ長男・長女意識が僅かながらも残っている年齢層はあるものの、ほとんどの世代にわたって、義務であるはずの老親扶養をめぐる兄弟間の確執が、権利として財産相続とともに、各地で社会問題化しているのはすでに承知のことでしょう。 さらに古くからの嫁・姑の問題があります。かつて日本の『嫁』は好むと好まざるにかかわらず、嫁いだときから姑と暮してきました。それが当然でしたし、長い年月にはさまざまな軋轢もあったでしょうが、そこでは、ともに暮す『家族』という強い絆で結ばれていたことも事実です。 それに比べて、核家族時代では夫婦が中心です。結婚以来の年月で、それなりの家風も出来ている筈です。生活習慣や、嗜好・味覚についても夫婦・・・・・この場合、多くは妻の主導によってでしょうが、一家として確立されているのは当然です。そこへ人生経験のまったくちがう老親を迎えるということは、異分子とまではいわないまでも、家族という意識のをもてないばかりか、これまでの嫁・姑以上の問題をはらむことにはならないでしょうか。 その結果による老親の『タライ回し』、あるいは施設入所・入院などという悲劇は、すでにお枚挙にいとまがありません。そうした嫁・姑のみならず、実の親子の場合でも同様です。むしろ、自分を育ててくれた当時には想像もしえなかった親の老残が信じられない・・・・・そんな思いに加えて、血のつながりからくる無意識の甘えもあるかもしれません。老親に対する仕打ちが時としてニュースになるのは、それまで高齢社会に未経験だったわが国の悲しい側面です。 そうした社会状況や、帰る場所のない高齢者の社会的入院が増加したことなどから各地で老人ホームが建設されましたが、急激にすすむ高齢化には追いつけず、痴ほう症など介護を必要とする特別養護老人ホームは、各地で何年待ちという憂うべき状態です。 さいわい入院もせず、子どもの住む都会で同居したとしましょう。恵まれたかに見えるこの老人たちにしても、まだ100パーセント幸せだとは言えないのです。 まず、生活環境の激変です。これまで慣れ親しんできた周囲の風景や友人から離れての新しい毎日は、高齢者にとって私たちの想像以上のストレスになります。それに加えて、マンションなどの住居の狭さ-たとえ1室を与えられたにしても、育ち盛りの孫を含めた家族の犠牲のうえの1室です。それも老親の肩身を狭くするでしょうし、冒頭での孫の暴言にに結びつくようにさえなってしまうのは、想像できるのではないでしょうか。 さらに女性の社会進出があります。都会へ引き取られた老親は、家族がそれぞれ出勤や進学したあとは、ひとり取り残されてしいまうのです。友人もいない知らない土地で、しかも言葉も交わさない一日は、高齢者にとってどれほど長いことでしょう。 ようやく口が利ける夜の時間も、家族への気兼ねから早々に自室へ引きこもるなどで、その孤独は強まるばかり・・・・ある施設関係者が、『年齢によるものの、都会へ引き取られた高齢者の寿命は3年』と語ったことがありますが、たとえ極論にしろ、高齢者にとっての環境変化は、それを新鮮に感じる若い時代とはちがって、その対応能力の衰えから、生きる力にまで影響する大きなストレスになるのです。 第5節 対応策・先進国では? わが国でも、『住み慣れた町で老後を暮らす』をモットーに、高齢者対策を方向づけようとしています。確かに高齢者にとってそれほど望ましいことはありません。そして、それに向けての基本施策が、在宅介護を柱とする介護保険の創設です。ひとり暮らしができなくなった老親が、見知らぬ都会へ引き取られることなく、生まれ育った町で静かにその生涯を終えることができれば……というのが創設の一つの柱なのですが、現状は、あまりにも理想から遠いという他はありません。 というのも、東京と始めとする大都会の場合、介護を必要とする高齢者のための施設が、財政的その他の制約から、その多くが他府県の山中に作られているという事実です。それら関係者によると、老人は自然を好むもの――という固定観念と、究極には財政問題があったため、と解釈していますが、都会の喧騒の中で生まれ育った人が、高齢になったからといって、にわかに山中の静寂に囲まれて暮せるものでしょうか。それこそ人間性を無視した机上の空論であり、極論すれば、古くからの『姥捨て』思想につながるものだと思われます。 しかもわが国の場合、老人ホームのほとんどは、2人あるいは4人部屋が普通で、それぞれのベッドを区分するカーテンはあるものの、介護の効率性を考えてのことか、たくし上げられているのが普通で、プライバシーはほとんど無視されているのが哀しい現実です。 そうした貧しい環境からも推察できるように、入所者が持ちこめる私物は衣料などの身の回り品以外、ほとんど認められていないのが実情です。病院などと同じで、それまでの生活から隔絶された非日常環境の中で暮らすことになるのです。 たとえ高齢のために身体動作が不自由になったとはいえ、人には、それまで生きてきた長い人生があります。さまざまな経験をし、楽しかった思い出も数多くあるのは当然です。それらが1冊のアルバムだけでカバーできるものでしょうか。思い出にまつわる家具や調度品はなかったでしょうか。未来を夢見て生きるのが若者なら、老人は静かに過去を見つめて生きるものです。そうした思い出いっぱいの品々から隔絶され、見知らぬ土地・環境での毎日が、孤独な老人にとってほんとうにしあわせだとはいえないはずです。 わが国のそれに比べて、高齢先進国といわれる北欧各国では、病院を連想させるような大規模な養護ホームはほとんどありません。人は、生まれた土地で、育った環境で人生の終焉を迎えたいはず……というよりは、デンマークなどでは高齢者福祉政策の三原則として「暮らしの継続性・自己決定の尊重・残存能力の活用」を打ちだしており、介護の選択に際しても、施設か在宅かを決めるのは、あくまでも高齢者自身です。痴ほう老人の場合でも、家族は助言こそすれ、本人が嫌がれば施設へ入ることはないのです。 そうした理念を基に作られているのが、各地に設けられた小規模なグループホームです。そこでは、痴ほう症をはじめ全的介護が必要とされる老人に対して、それまでの生活の延長としての環境が整備されているのです。 つまり、グループホームといわれるとおり、そこでは対象高齢者がヘルパーなどに支えられながら共に生活するわけですが、日本とちがって、それぞれ個室が用意されていることがもっとも大きな特徴です。しかも、室内の家具・調度もそれまで本人が暮していたように再現され、そこにいる限りは、施設という感じはまったくない、平穏な環境が用意されているのです。 痴ほう症や車イス生活の老人にとって、施設とその周辺だけが全世界であり、そのほとんどを過ごす室内こそ安らぎの場であるはずです。そこを入所前の状況と同様に設定することで、たとえ痴ほう症であっても、当人にとっては心の安らぎ、精神の安定につながるものと思われます。事実、そこで生活する高齢者たちは、おぼつかないながらも、それぞれ自分でできる家事や炊事などを分担しながらアットホームに暮らしているといいます。それが、高齢社会を迎えるまでに約一世紀ほどもかかって築き上げられた高齢先進国と、対策を立てる間もなく急速に高齢化を迎えてしまったわが国との根本的なちがいといえるでしょう。 第6節 日本の問題点はなにか あまりにも急速な高齢化に、政策的に立ち遅れたというのは確かですし、今日の混乱を招いているのも事実です。しかし、為政者だけにその責任があるのでしょうか。 欧米先進国の場合をみると、自他ともの人権意識の高さ、そうした政策を生み出す契機になったと思われます。社会的弱者とされる障害者、また高齢者の人権を社会全体で守らなければならないという意識です。加えて、他人に愛を施せという強い宗教の教えもあったでしょう。幼い頃から培ってきたそれら精神的な土壌が、他人に奉仕するボランティアスピリットとして広く確立されていることは見逃せない事実です。 ひるがえって、わが国の場合をみてみましょう。 江戸時代の農村、あるいは町屋にも『五人組』という組織が作られました。しかしそれは、為政者から押しつけられた末端組織であって、助け合うというよりは、課せられた責任を全員で担うという性質のものでした。農村の場合、もし何らかの支障があって年貢を納められない1軒が出たとすれば、他の4軒でカバーをしなければならないという決まりだったのです。自分のミスでもない事柄についてまで共同責任を負わなければならない……それらの矛盾については、幕末に多発した百姓一揆などの歴史書に詳しいはずです。 しかし、それは何を意味するのでしょうか。欧米先進国における『愛』、つまり神の教えによる自発的な奉仕と、わが国の『お上』から押しつけられた強制的な相互扶助――その根本理念はまったく正反対です。下町のこまやかな人情といわれた日本の古きよき美風も、せいぜい向こう3軒にしか及ばなかったのに比べ、欧米の相互扶助の心が、やがて市民運動・社会運動にまで発展したのは、そうした出発点の相違にあることは疑いもない事実であって、『奉仕』こそ人間の規範の一つとされる社会風土が形成されたのです。 一方、戦後の歴史の間に日本的な義理・人情の気風も薄れてしまったことが、欧米との格差をますます広げる結果になっています。さらに、権利と表裏一体である義務を教えなかった戦後民主主義がそれに拍車をかけ、個人の権利――多くの場合それは利害、つまり『損得勘定』ですが、それを主張しこそすれ、社会的弱者である障害者や高齢者に対する人間としての配慮は、ますます薄れてしまったのが現状といえるでしょう。 そうした自己中心社会とはまったく対極にあるのが、欧米的な相互扶助の社会です。人は一人で生きるものに非ず、といった精神規範の乏しい日本人に、今もっとも必要なのは、自分を愛するように人も愛そう……という心の生き方ではないでしょうか。たしかに、小さな芽であれ各地でボランティアグループがそれぞれの活動をはじめています。また、参加したいと思っている人もあるでしょう。しかし、自分は何もできないからとボランティア活動参加を逡巡する人が多いように、それが特殊な行為であるかのように思い、思わせる社会であってはならないのです。たとえ小さなことでも、自分にできることを他人にもする――それが自然に行動になって表れる社会こそ、われわれ日本人が目指されなければならない第一段階といえるのではないでしょうか。問題の多い昨今の『してあげている』ボランティアではなく、人と人との心の結びつきが生まれるものと思われます。 |
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