研究本(論文)(た〜わ)
・作者名、作品名、出版社、発行年、ジャンル、簡単な紹介文の順に記載。雑誌などに拠ったものは、各紹介文末に収録元を記した。
・紹介文を書くために参考にした本(またはHP)は、紹介文末に記載した。
・ネタバレはなるべく少なくするようにしているが、予備知識一切なしで読みたいという方は「関連資料(事務的羅列)」の方をどうぞ。
・著者名でアイウエオ順。同じ著者のものは年代順(初出の年代に合わせたものもある)。
・八犬伝以外の馬琴作品・馬琴自身に関する論文も一部(雑誌の項でついでに説明を加えたもの)載せている。
高木元『近世後期小説受容史試論−明治期の序文集抄文集をめぐって−』 論文
明治期に多く出版された近世小説の序文ばかりを集めた「序文集」の存在意義の検討と、実際の序文集を馬琴作品のものを中心に書誌学的に紹介。ほか、名場面のみ選出した「抄文集」なども紹介している。ラスト及び注で、『校訂略本八犬傳』を初めとする『八犬伝』の抄出本をとくに取り上げている。
国文学研究資料館『明治の出版文化』(臨川書店、2002年)
高木元『八犬伝もの銅版絵本二種−解題と翻刻−』 論文
明治頃刊行された、銅版で刷られた『八犬伝』の草双紙二種を、挿絵から表紙まで忠実に翻刻。ここでとりあげられている本は『明治新刻 繪本八犬傳』と『繪入小説 里見八犬傳 全』である。解題で当時の印刷技術や『八犬伝』ものの草双紙数種が紹介されているのが興味深い。
高木元『「八犬伝」を読む』 ラジオ番組
「放送大学」で「特別講義 人文科学11」平成16年度第一学期として放送したものの草稿(実際の放送内容とは若干の違いがあるそうだ)。現代と江戸期の『八犬伝』パロディ作品、江戸時代の出版のあり方、格調高い文体、勧善懲悪、挿絵に隠された謎など、初心者向けに『八犬伝』の持つさまざまな魅力をわかりやすく解説している。
高木元『出板文化史の中の八犬伝−「作家」の成立−』 講演
城西国際大学日本研究センター公開講座で2004年2月14日に行われた講座内容。『八犬伝』を初めとする江戸後期戯作を装丁などのハード面から観察、当時の出板システムなどをわかりやすく説明してくれる。勉強になります。
高木元〈座談会〉「『八犬伝』再読」・・・『文学 第5巻第3号 特集=曲亭馬琴の遺産』参照。
高木元『江戸読本の後摺本と活版本』 評論?
もっぱら初摺本ばかりが研究対象とされる傾向に対抗し、江戸期読者は後摺本を通して作品にふれることも多かったはずとの見解に基づき、無視されがちな後摺本について書誌学的考察を加える。『八犬伝』を例に引く箇所が多々あり。
高倉新一郎『滝沢馬琴翁と蝦夷』 論文
北大図書館所蔵の「蝦夷島奇観」中のアイヌ発祥神話の口絵と解説が富山の伏姫物語を彷彿とさせる事から、馬琴がアイヌ神話に伏姫物語のヒントを得た可能性を指摘、その傍証としてやはり北大図書館が蔵する馬琴の手控「風聞語」の写本(写したのは馬琴と交流の深かった屋代弘賢)の大略を紹介し、馬琴の蝦夷への関心の深さを示している。大変興味深い。
高倉新一郎著作集編集委員会編『高倉新一郎著作集 第二巻 北海道史(二)』(北海道出版企画センター、1995年)
高田衛(たかだまもる)『化政期の文学的原質をもとめて −世の中は地獄の上の花見かな(一茶『七番日記』)』 論文
「日本文学協会第32回大会 文学」で報告されたもの。少し前に発表された『幕末のアンドロギュヌスたち』『江戸形而上学と悪』がともに『八犬伝』や馬琴を下敷きに江戸文学の中の「悪」を扱っていることを枕に、自身の方法論で「悪」の視点から京伝読本の再評価を行う。『幕末の〜』の、両性具有者の神性という考え方の〈甘さ〉を指摘する中で『八犬伝』中の美少年の造型について「男性原理的なものの崩壊めいた、馬琴のなかの病的な心性」「『八犬伝』の美少年たちに共通するのが案外、いたって単純な男性ナルシシズムという贋造神学であるかもしれない。」との記述あり。
日本文学協会編『日本文学 1978年4月号』
高田衛「馬琴・その伝奇主題の一考察−『南総里見八犬伝』の場合−」・・・『國語と國文學』55−11参照(のち『江戸文学の虚構と形象』収録)。
高田衛『『八犬伝』異聞−七犬士から八犬士へ−』 論文
『秘板 八犬伝』が紹介した〈『里見七犬士伝』構想〉における「七」という数値の意味を、『宇津保物語』や『怪談とのゐ袋』の中の、犬や文殊菩薩に関するエピソードに求める。のちの『八犬伝の世界』の原型となった論文の一つ。
『文学 10 VOL.47』(岩波書店、1979年)
高田衛『馬琴−伝奇的宇宙の造型』 論文
里見家の滅亡を暗示し八犬士の老後と仙化を描くことで、虚しささえ感じさせる『八犬伝』のラストをあえて書ききった馬琴の情熱の源泉を、〈稗史敵伝奇幻想をもって地上世界を撃つ〉ことにあったと指摘。『八犬伝の世界』でおなじみの八字文殊八犬童子説や賎なるゆえの聖性の話も登場し、読みごたえあり。
『國文學 解釈と教材の研究 25−3』(學燈社、1980年)
高田衛『夢と山姫幻想の系譜−鏡花への私注−』 論文
泉鏡花の描く「他界」「山姫幻想」をとりあげ、そのイメージの震源をたどる。その中で、明治人の「山姫」のイメージモデルが伏姫にあること、その伏姫の「山姫」性が『怪談笈日記』の「やま姫の事」をモデルにしていることを指摘。
『文学 vol.51』(岩波書店、1983年)
高田衛『『八犬伝』札記』 論文
鈴ヶ森・五十子での七犬士会同ののち、いきなり説明される(しかもさして本筋に影響しない)義実が出家して突然居士と名乗ったエピソードの必然性はどこにあったのか、「突然居士」の名称にみられる『八犬伝』世界の「名詮自性」論など。また『『南総里見八犬伝』における八房≠フ出自について』が指摘する伏姫・八房譚のモデル―竹箆太郎説について好意的に言及かつ補足説明を加えている。
『国語通信 9 特集 近世文学の地平』(筑摩書房、1984年)
高田衛「馬琴の秘儀空間−ユートピア志向その他」・・・『國文學 61年2月号 馬琴と南北・異界へのワープ』参照(のち『江戸文学の虚構と形象』収録)。
高田衛「孤児小説としての『八犬伝』」・・・『読本研究 七輯上』参照。
高田衛『八犬士の終焉−江戸読本のシンクレティズム』 論文
八犬士の痣の由来について、『八犬伝の世界』で示した説をふまえてより詳細に解釈、ラスト間際でいきなり伏姫が観世音の化身と説明される不自然さの理由を仮名草紙『冨士山の本地』にからめて説く。さすがの面白さ。あと本題には直接関係ないが、注のところに信多純一氏の「馬琴『里見八犬伝』の一大秘鍵」が近々著作にまとめられるらしいとあって小躍り。ついに読めるか!→『馬琴の大夢 里見八犬伝の世界』参照。
東京大学国語国文学会『国語と国文学 第八十巻第5号』(2003年)
高田衛『江戸小説のシンクレティズム−典拠の秘匿と『八犬伝』』 論文
70年代以降の、『八犬伝』を再評価した主だった論文を紹介。また、信多純一氏の口頭発表「馬琴『里見八犬伝』の一大秘鍵』(→『馬琴の大夢 里見八犬伝の世界』参照)が指摘した『八犬伝』の一典拠である仮名草紙『冨士山の本地』について独自の解釈をくわえ自説(八大童子説)を補強。基本的な主張は『八犬伝の世界』とほぼ同じ。最後の一文からすると続稿がありそうである。期待して待ちたい。
『岩波講座 文学8 超越性の文学』(岩波書店、2003年)
高田衛「回外随筆『八犬伝』−母子神の物語」・・・『文学 第5巻第3号 特集=曲亭馬琴の遺産』参照。
高田衛『『八犬伝』余話−大八の親兵衛』 論文
『里見八犬伝の世界』『『南総里見八犬伝』と聖徳太子伝』の研究成果および既発表の自説をふまえて、主として親兵衛のキャラクターについての元ネタ(〓〓(なた)太子、聖徳太子など)をさらに深くさぐる。京の虎退治譚の発端部の舞台・薬師院のモデルが毘沙門天をまつる信貴山朝護孫子寺であること、「大八」という名が意識させる「車」は〓〓太子や護法童子の駆る「車」の暗喩である、など相変わらず刺激的な指摘に富んでいる。
『文学 隔月刊 第六巻 第二号』(岩波文庫、2005年)
高田衛『京伝と馬琴−到達としての近世小説』 論文?
上野寛永寺の文殊楼を描いた『東都歳時記』中の「二月十五日涅槃会の日、東叡山文殊楼に登る図」を示し、そこに描かれた獅子に騎乗する八字文殊の像から、当時の江戸の人々にとって獅子文殊のイメージが決して特殊なものでなかったことを述べ、『八犬伝』ラストの「丶大を〓て親兵衛念戌富山に到る」の挿絵と比較、『八犬伝』の深層にある「〈江戸〉へのオマージュ」「〈江戸〉と〈古武士〉への思い」(原文は「思い」の上に傍点あり)を指摘する。京伝については馬琴と対極の、「筋の計画性を持たない、光と闇の交錯を書く」彼の小説の特性を述べている。
『國文學 解釈と教材の研究 第50巻6号』(學燈社、2005年)
高田衛『游戯三昧之筆−馬琴・虚構の工学』 論文
蟇田素藤の事跡について、モデルとして門付芸の四つ竹節「白藤源太」があること、馬琴自身が素藤物語のモデルとほのめかす『水滸伝』王慶討伐譚がどう取り入れられたか、「花咲か爺」をはじめとする童話のイメージが付加されてあることなどを検証。〈素藤譚が必要だった理由〉を述べる中で素藤・妙椿の「安房占拠」について述べているが、彼らは里見の御曹司義通を人質に里見を脅かしたものの、安房へ侵攻はしていないので、そこの部分の説明がちょっと弱いか。「白藤源太」については初めて知ったので目からウロコ。
『文学 第8巻第1号』(岩波書店、2007年)
高田衛『滝沢馬琴と福沢諭吉−三浦雅士の馬琴理解について−』 論文
三浦雅士『青春の終焉』を、その切り口を評価しつつも、事実誤認(「印税」という語の利用など)や明治維新の影響力軽視をたしなめ、三浦氏が馬琴を語るうえで引き合いに出した諭吉と馬琴の共通点・相違点に着目、馬琴にとっての「家」の意味や「近代と前近代を連続として捉える視点から、三浦よりも馬琴文学の巨大性をうたいあげた評論家」として坪内逍遥をあげ、『小説神髄』とほぼ同時期に「曲亭馬琴の評判」で馬琴を絶賛した逍遥の揺れに言及する。
日本文学協会編『日本文学 第五六巻第一〇号 特集〈近世〉江戸と明治のはざまに』(2007年)
高野稚子『『南総里見八犬伝』研究−犬士の中での主役と脇役の差異−』 論文
八犬士の中にもその活躍の仕方において主役・脇役があるとして、霊玉を手に入れた時期、玉の功徳を受けているか、出自、他犬士を積極的に訪ね歩いたか、悪退治の在り様などに基づいて犬士を分類する。その着眼点のいちいちや、〈大角の占める位置が微妙〉とするあたり、拙考と重なる部分が大で驚いたり嬉しかったり。
『玉藻 第33号』(フェリス女学院大学国文学会、1997年)
高橋京子『犬村角太郎における孝と礼の束縛』 論文
犬村家の財産は本来雛衣の所有に帰すものであることを江戸期の法律に照らして指摘、親による明らかに不当な財産横領にも諾々と従う角太郎の盲目的な孝心はかえって「正しい孝の筋道を見誤っている」ことを日中の古典にあらわれるエピソードと比較しつつ説く。着眼点が面白く読みごたえあり。
『国語国文論集』(安田女子大学日本文学会、2000年)
高橋京子『『仮名手本忠臣蔵』における勘平の切腹と『南総里見八犬伝』における犬山道節の仇討ち失敗の原因』 論文
道節の仇討ちが再三失敗するのは『忠臣蔵』の勘平同様不当に得た金や刀(村雨丸)によって復讐を行おうとする不義ゆえであることを指摘、忠よりも孝を重視し義をも不可欠とする馬琴の思想にせまる。実に面白い。またその読み込みの深さに『八犬伝』への愛を強く感じる。
『安田女子大学大学院文学研究科紀要 第5集 日本語学 日本文学専攻第5号』(安田女子大学大学院文学研究科、2000年)
高橋京子『『南総里見八犬伝』における智の性格』 論文
『論語』『謡曲二百五十番集』など和漢の名著を引きながら、〈水〉の性質をもつ毛野の流動性、智の合理性が合わせ持つ自己中心性などについて説く。示唆に富んで面白い。
解釈学会『解釈 九・十月号(第四十八巻)』(解釈学会、2002年)
高橋京子『『南総里見八犬伝』における完全ならざる人間性と仁』 論文
親兵衛の、不具ゆえの聖性を『御伽草子』中の「鉢かづき」を例にとって説き、素藤討伐のさいの素藤や義成への接し方にからめて、過ちを赦す器量としての〈仁〉を論じている。「里見義成に遠ざけられた親兵衛が前面岡の処刑場で同じく君主に疎まれた孝嗣と出会うのは、忠臣を遠ざける愚を犯す君主への警告を意味しているのではないのだろうか」との鋭い指摘にうなる。高橋氏の論文には一箇所は必ずうならされてるなあ。
『安田女子大学大学院文学研究科紀要 第8集 合冊』(安田女子大学大学院文学研究科、2003年)
高橋京子『『南総里見八犬伝』の小文吾の悌に隠された堪忍と親の愛情』 論文
小文吾の玉の文字「悌」は単に〈年長者によく仕える〉の意ではなく、素直さ、謙遜の精神を表していること、その性質ゆえに犬士たちの調整役たりえていること、文五兵衛との親子関係に馬琴自身の前半生が反映されていることなどを説く。目のつけどころがユニークで興味深く読んだ。「小文吾は親兵衛をのぞく七犬士の中で、唯一犬士間の争いが生まれなかった人物」という指摘に目からウロコ。
『国語国文論集 第33号 安田壮先生 古希記念』(安田女子大学日本文学会、2003年)
高橋昌彦『依田学海の馬琴に関する言説について』 論文
依田学海による『八犬伝』評、『弓張月』評に基づいて、学海の馬琴への傾倒ぶりや、長く書きつぐうちに趣向のずれが生じた『八犬伝』より『弓張月』をより高く評価していたこと、学海がこの二作品に尊王のモチーフを見出していたことなどを説く。面白い。
『国文学 解釈と鑑賞 特集 変貌する近世文学研究』(至文堂、2009年)
高橋実(たかはしみのる)「馬琴と『越後雪譜』」・・・『國語と國文學』55−11参照。
高山宏「青い目のキョクテイ」・・・『文学 第5巻第3号 特集=曲亭馬琴の遺産』参照。
田川くに子『怪奇と道徳−馬琴と京伝』 論文
「京伝と馬琴の作品をめぐり、怪奇と道徳について論ぜよ」というお題を受けて、『八犬伝』の庚申山の化け猫の造型や、悪女と惨死する善女双方の描写に見られる女の性に対する嫌悪など、馬琴の描く「怪奇」は多分に即物的イメージなのに対し、京伝のそれは善悪どちらとも割り切れぬキャラクターも多く、「陰惨な生命の歪みをテーマにしているから、小説的場面を通さなければ、表現できないようなもの」であることを論ずる。なかなか面白い。
『国文学 解釈と教材の研究 17巻11号』(學燈社、1972年)
田川くに子『滝沢馬琴・醒めた戯作者』 論文
「醒めている」という言葉の定義からはじめ、戯作者とはたいてい醒めた意識を持っているものとして、十返舎一九、平賀源内、上田秋成などの特性を、日常と非日常の行き来の仕方から分析する。馬琴と秋成はその〈醒め方〉が似通ってるとして、自身の小説を「無用之書」という馬琴のニヒリズムを取り上げる。馬琴作品は存外日常的なディテールが描きこまれているが、『八犬伝』後半は怪奇性と日常感覚が共存する傾向が強いゆえに、それがとりわけ強まるラスト付近は退屈になってゆくと述べる。
『国文学 解釈と教材の研究 特集 戯作-笑いと反俗』(學燈社、1973年)
田中英道(たなかひでみち)「北斎と馬琴−その出会いと別れ」・・・『國文學 61年2月号 馬琴と南北・異界へのワープ』参照。
田中優子(たなかゆうこ)『東アジアにおける『水滸伝』の展開』 論文
『水滸伝』が東アジア、なかでも日本においてどのように受容されたかを、数ある翻案作品からさぐってゆく。『八犬伝』については、作品に流れる「暗いエネルギー」を評価している。
芳賀徹編『文明としての徳川日本』(中央公論社、1993年)
丹和浩(たんかずひろ)『知の共有と馬琴』 論文
「江戸時代の文化が、知の共有を前提とする傾向が強かったこと」、そうした予備知識を前提とする文化の中で、著作物を世に問い商売として成立させるために、馬琴が婦女幼童から知識人まで広い階層に作品を享受してもらえるよう工夫を凝らしていたことを、『八犬伝』中の「龍の講釈」や『雅俗要文』の記述から探る。先行研究も広く参照しており読みごたえ十分。
『文学 3・4月号 フォーミュラ 声と知を繋ぐもの』(岩波書店、2006年)
塚本泰造(つかもとたいぞう)『馬琴の文語に見られる「から(に)が意味するもの−「から」をめぐる言説とその影響−』 論文
馬琴の読本にあらわれる「から」「からに」「そがまま」「とそがまま」という表現を、『八犬伝』ほか主要な読本4作品にかぎって抜き出し、その用法とそこに表れる馬琴の用語に対する意識をさぐっている。
『国語国文学研究 第41号』(熊本大学文学部国語国文学会、2006年)
塚本泰造『馬琴の読本における「候」と「侍り」の使い分け ―「俗」の表現として― 』 論文
『八犬伝』ほか馬琴の代表的読本を対象に、補助動詞「候」「侍り」が発話者の性別によって使い分けられている(「候」は男、「侍り」は女)ことを実例を引いて示し、この使い分けが馬琴以外の読本ではほぼ見られないこと、それが実社会での男女の言葉使いに即しているらしいことを説く。「候」と「侍り」の使い分け・・・全然気づかなかった!いささかショック。例外についてもそのパターンをさぐり分類する。きめの細かい仕事ぶりに感心しきり。
『国語国文学研究 第43号』(熊本大学文学部国語国文学会、2008年)
邱嶺『中日古典小説の叙事法について―『水滸伝』と『南総里見八犬伝』の人物設定を例に―』 論文
『水滸伝』とそれに影響を受けた江戸文学、とくに『八犬伝』を比較対照させて、『八犬伝』創作に『水滸伝』がいかに大きな役割を果たしたかと、人物造型他の大きな相違点に両作品のみならず日中の稗史小説のスタンスの違いを探る。「『八犬伝』の人物造型は非人間的で、大失敗だといわざるを得ない。」など同意できない部分もあるが、〈中国の作品は理的、日本のものは情的〉という指摘には考えさせられた。
『中京國文学 第二十六号』(中京大学国文学会、2007年)
東郷克美『前田愛・私的断章』 論文
近世・近代文学の研究者、評論家である前田愛氏の華やかな業績について、氏の代表的論文をあげつつ、それについての著者の感想を記す。『『八犬伝』の世界−夜のアレゴリイ』について触れる中で、北村透谷の腕のザクロの刺青は八犬士の牡丹の痣を連想させるという前田氏の「仮説」を紹介している。
一柳廣孝・吉田司雄『ナイトメア叢書2 幻想文学 近代の魔界へ』(青弓社、2005年)
徳田武(とくだたけし)「『椿説弓張月』と『狄青演義』」・・・『國語と國文學』55−11参照(のち『日本近世小説と中国小説』に収録)。
徳田武「馬琴における〈中国〉−「隠微」の摂取」・・・『國文學 61年2月号 馬琴と南北・異界へのワープ』参照
徳田武「『八犬伝』と『梧窓漫筆』」・・・『近世文学論叢』参照。
徳田武「『続西遊記国字評』評−『八犬伝』の機変論に及ぶ−」・・・『新典社研究叢書60 江戸文学研究』参照。
徳田武「『八犬伝』の戦闘叙述−『三国演義』『水滸伝』の利用法」・・・『読本研究 七輯上』参照。
徳田武「南総里見八犬伝−因果律の発展」・・・『岩波講座 日本文学と仏教 第2巻 因果』参照。
得丸智子(とくまるさとこ)『『八犬伝』の「来路(こしかた)の報告」をめぐって』 論文
犬士が再会のたびに来路を報告しあうシーンの多さと描写のわずらわしさ、にもかかわらず報告するという行為がストーリーに何ら影響しないことから、作中人物が情報を共有することの意義を、他の馬琴読本と比較しつつ検討する。
『國語國文 第五十八巻 第八号 −六六〇号−』(中央図書出版、1989年)
得丸智子「勧懲ならざる」源氏−馬琴の『源氏物語』摂取について」・・・『読本研究 四輯上』参照。
得丸智子『『八犬伝』と『平妖伝』』 論文
馬琴が念願の『三遂平妖伝』を読むまでのいきさつと、『平妖伝』を翻案して島原の乱の物語を書こうとするも断念したこと、『平妖伝』の趣向が天草四郎(島原の乱のリーダー)に名前の酷似した天津九三四郎にまつわるエピソードや親兵衛の上総館山城攻めに利用されたのではないか、などを考察。なかなか興味深い。
『國語國文 第六十巻第十号』(京都大学文学部国語学国文学研究室、1991年)
得丸智子『曲亭馬琴の稗史法則−重複から照応へ−』 論文
稗史七法則のうち「照応」と「反対」に着目、それらの定義について『八犬伝』を初めとする作品や、殿村篠斎ら愛読者の評に対する応答からさぐってゆく。篠斎らの批評とそれへの答評についても詳しく知ることができる。
『國語國文 第六十一巻第五号(通号六九三号)』(京都大学文学部国語学国文学研究室、1992年)
中川由美子「『南房里見八犬伝』の構想−稗史家馬琴の終焉」・・・『読本研究 七輯上』参照。
中沢弥「ユートピアと神聖受胎」・・・『文芸と批評 6巻9号』参照。
中嶋隆『「読本」としての西鶴本−『八犬伝』表現構造への影響をめぐって』 論文
馬琴の小説観「虚誕」「通俗」「勧善懲悪」のうち「通俗」を取り上げ、馬琴の会話文、心中語にみられる「描出力」を第十三回の金碗大輔が伏姫を誤射し自害しようとするシーンを例に説明する。作中人物の視点や心情を風景描写に投影する手法が西鶴に影響を受けた可能性を示唆している。興味深い。
『江戸文学40 〈よみほん様式〉考』(ぺりかん社、2009年)
中野三敏『「小説神髄」再読−所謂馬琴批判とされる文脈を主として−』 論文
『小説神髄』の「勧懲小説」作者批判は馬琴や種彦ではなく、その亜流の人々に向けられたものであったこと、直接馬琴を批判する意図はなかったことを指摘する。そうだったら嬉しいところだが、『十六人集』のことを考えると・・・。
中村裕「シンポジウムによせて」・・・『文芸と批評 6巻9号』参照。
中村良衛「『八犬伝』論序説−列伝を中心に−」・・・『文芸と批評 6巻9号』参照。
萩原義雄『「牡丹」考−『南総里見八犬伝』における注釈事項をもとに−』 論文
『八犬伝』中の一般の字義や固有名詞に対する注釈を具体的にあげて馬琴の注釈の法則をさぐったうえで、牡丹に関する注釈事項の典拠を古典籍を走査し追跡する。細かくかつ膨大な作業量に感服。
『駒澤大學北海道教養部研究紀要 渡部賢宗教授退職記念号(第27号)』(駒澤大學北海道教養部、1992年)
服部仁(はっとりひとし)『馬琴の〈隠微〉という理念』 論文
馬琴の小説作法の一つ〈隠微〉が具体的に何を指すのか、作中でどのように使われているかを『八犬伝』を中心として検証。その中で浜田啓介「八犬伝の構想に於ける対管領戦の意義」を受けて、親兵衛上洛以降のエピソードは当初の予定になかったことをも主張している。
『近世文藝 25・26合併号』(日本近世文学会、1976年)
服部仁「曲亭馬琴、その文体の確立−初期の戯曲性より−」・・・『國語と國文學』55−11参照。
服部仁「『南総里見八犬伝』登場人物等一覧稿」・・・『読本研究 七輯下』参照。
『日本近代文学 第65集』(日本近代文学会、2001年)
服部仁「寂寞道人肩柳(犬山道節)の出自」・・・読本研究の会『読本研究新集第四集』参照。
服部仁「馬琴の流行、『八犬伝』の流行」・・・『文学 第5巻第3号 特集=曲亭馬琴の遺産』参照。
服部仁『『南総里見八犬伝』第四輯初印本と後印本の挿絵―文渓堂後印本の薄墨図は誰が指示したのか―』 論文
信多純一『里見八犬伝の世界』が、『曲亭馬琴の文学域』所収の「馬琴における読本の口画・挿画の位相」での服部氏の論を表層的なものと一蹴したのを受けて、信多氏と信多氏が参考にした朝倉留美子『『南総里見八犬伝』諸本考』の〈『八犬伝』の後印本での挿絵に薄墨をほどこしたり、逆に薄墨を取り払ったりしたのは馬琴の指示〉という説を否定し、それが文渓堂の指図によることを論証する。
『日本文学 第九巻第四号』(岩波書店、2008年)
浜田一宇(はまだかずいえ)『日英比較文学にみられる母性』 論文
ヴァージニア・ウルフと紫式部がともに早く母を亡くした共通点から両者の描く母性のあり方を論じ、そこから母性描写に類似性のある日英の作品二つを具体的に比較し、母性描写の普遍性を見る。『八犬伝』は〈美徳を代表する勇士数名の活躍〉〈彼らを冒険へ送り出す守護母神〉、悪人の顛末などの共通点を持つ『妖精の女王』と比較されている。
『共立女子短期大学文科紀要 第三十八号』(共立女子短期大学文科、1995年)
浜田啓介(はまだけいすけ)「寛政享和期の曲亭馬琴に関する諸問題」・・・『國語と國文學』55−11参照。
浜田啓介『里見八犬伝と里見軍記』 論文
『八犬伝』執筆に利用された里見氏関連の文献のうち「里見記」「里見軍記」が具体的にどの本を指しているのか、『八犬伝』中の引用個所と比較し、晩年盲目となり自ら資料にあたれなくなった馬琴の誤りまで考慮に入れつつ考証。
日本近世文學會『近世文藝 42』(日本近世文学会、1985年)
浜田啓介「八犬伝依拠小攷」・・・『読本研究 初輯』参照。
浜田啓介「八犬伝依拠二攷」・・・『読本研究 七輯上』参照。
浜田啓介「読本研究五十年の歩みと展望」・・・『読本研究 九輯』参照。
浜田啓介『読本における恋愛譚(ロマンス)の構造(下)−読本文学様式論のために−』 論文
江戸読本における恋愛シチュエーション数種(「救出者ヒーロー」「隣家の恋と合奏」など)をとりあげ、そのパターンを用いている作品の該当箇所を詳しく説明するシリーズの最終回。「二人の情人」の「生れ替り」パターンとして『八犬伝』の浜路の例が取り上げられている。『上機嫌な私』第十六回は、こういう研究はとっくにあるべきものでありながらこれまで無かったこと、「恋愛」が日本に輸入されたのは明治以後という説は当らないことがこの論文によって証明される形となったことを指摘している。
『文学 11・12月号』(岩波書店、2005年)
浜田啓介『読本に関わる文体論試論−言表提示の周辺』 論文
近世文学の主だった作品を中世文学と比較しつつ、言表提示部、具体的にはカギカッコを受けての〈と〉や言表動詞につく〈けり〉がどの作品でどの程度使われているかを具体的に割り出す。『八犬伝』では〈と〉はあっても〈とぞ〉がなく、〈けり〉を使わず〈つつ〉を大げさでない身体の動きに用いることが多いなどの特徴を探り当てている。
『江戸文学40 〈よみほん様式〉考』(ぺりかん社、2009年)
林大『八犬傳と萬葉集』 論文?
「さきごろ馬琴の南総里見八犬伝を走り読みした」(原文旧字)著者が『万葉集』を出典とする文中の和歌を「何の必要があるわけでもないが、一見のしるしに」抜き書きし、若干のコメントをつけたもの。
『心の花 第五十四巻第九号』(竹柏會、1950年)
原口裕(はらぐちゆたか)『『南総里見八犬伝』の漢語サ変動詞』 論文
明治以降の漢語の普及の度合を調べるにあたって、比較対象として江戸後期文学でも「作品としての影響力が多大で、また、語彙の量も厖大な」『八犬伝』の漢語サ変動詞を調査したもの。作中の漢語を一字のもの、二字のもの、四字のものに分類し呈示する方式。まったく『八犬伝』の使用用語についての論考を行う諸氏の作業の細かさと集中力には頭が下がる。
『大阪青山短期大学研究紀要第25号(開学30周年記念号)』(青山短期大学、1999年)
播本眞一(はりもとしんいち)「『南総里見八犬伝』と馬琴合巻」・・・『新典社研究叢書60 江戸文学研究』参照。
播本眞一『『八犬伝』の古代』 論文
犬士具足以降の京物語と対管領戦は「『八犬伝』の総体をささえる重要な部分」であること、小千谷で小文吾が暴牛をとりおさえるエピソードや丶大の水怪退治に、旧来の神々の秩序を取り戻すという共通のモチーフを見出し、親兵衛の虎退治と対管領戦も神の末裔たる天皇の秩序を回復する戦いであったことを指摘する。非常に興味深い。
早稲田大学国文学会『国文学研究 第百十集』(早稲田大学国文学会、1993年)
播本眞一「『南総里見八犬伝』と『孟子』」・・・『江戸小説と漢文学』参照。
播本眞一「曲亭馬琴旧蔵『房総志料』について−『南総里見八犬伝』との関連を中心に」・・・『読本研究 十輯下』参照。
播本眞一『『故事部類抄』について−『南総里見八犬伝』との関連を中心に−』 論文
馬琴の蔵書であった『故事部類抄』の書誌紹介と、その内容が『八犬伝』ほか馬琴作品に与えた影響について具体的に検証。とりわけ『日本書紀』の引用が多いことと馬琴の神話への関心の高さに着目している点、『『八犬伝』の古代』の延長線上にある論文といえる。
『日本文学研究 第三十五号』(大東文化大学日本文学会、1996年)
播本眞一『馬琴著作登場人物名小攷−『南総里見八犬伝』を中心に−』 論文
馬琴作品に登場する人物名の典拠を『八犬伝』中心にさぐる。小千谷の「亀石屋」(のちに「石亀屋」)「鯛聟源八」という一度しか出てこなかった名前が、鈴木牧之への遠慮にもとづくものだったとの指摘が面白い。ほか「鮫守磯九郎」「鮹船貝六郎」などの名の考証も。
『近世文藝 研究と評論 第五十八号』(近世文藝研究と評論の会、2000年)
播本眞一「馬琴の立場−儒・仏・老・神をめぐって」・・・『文学 第5巻第3号 特集=曲亭馬琴の遺産』参照。
播本眞一『馬琴と異国』 論文
馬琴の外国知識、外国の捉え方を、新井白石の著作(および馬琴が白石作だと思っていた作品)をはじめとする馬琴の蔵書とそこに残る書き込みからさぐる。最後の方で、淀屋新太郎、木村黙老といった愛読者が『八犬伝』に〈見た〉外国観についてふれている。
『江戸文学32 特集 江戸文学と異国情報』(ぺりかん社、2005年)
播本眞一『馬琴と性』 論文
黄表紙をはじめとする馬琴作品の、性や結婚にまつわる描写をとりあげる。『八犬伝』については司馬浜の船虫、関帝籤がらみで荘助の誕生、八犬士の結婚(赤縄引き)にふれている。
『国文学 解釈と鑑賞 第70巻8号』(至文堂、2005年)
播本眞一『『南総里見八犬伝』の風景』 論文
馬琴が『八犬伝』九十八回で述べている「但見情景の必写すべき処」という考え方を踏まえて、「但見」と前置いた上で、初登場時の道節、巨田助友などの人物の容貌や装束を詳しく描写する手法、五十六回の小文吾や百九回の素藤が墨田河を眺める場面などに表れる風景を描写しつつそれを見る人の心の有様をも描く手法について紹介する。とても面白い。今度「但見」と風景描写に留意して『八犬伝』を読み返してみよう。
『江戸文学 37 江戸の文体−その生成と文彩』(ぺりかん社、2007年)
菱岡憲司(ひしおかけんじ)『馬琴の「水滸伝」観の形成と読本執筆』 論文
馬琴の『水滸伝』観の形成が、彼の読本執筆活動といかに影響を与えあったかを(具体的には馬琴読本に多く登場する〈もどり〉が、宋江ら百八魔星がやがて「本然の善に帰す」水滸観に影響を受けていることを)、先行研究と「詰金聖歎」(『玄同放言』第二集)をはじめとする馬琴の『水滸伝』への言及をふまえて詳しく論じる。
『語文研究 第百六号』(九州大学国語国文学会、2008年)
日沼滉治『露伴〈天うつ浪〉考』 論文
幸田露伴の未完の小説『天うつ浪』の描写・構成に、『八犬伝』とニーチェの『ツァラトァストラ』の影響を読み解く。『八犬伝』については、四つ木に篭って法華経普門品に彩られる(本人が唱えるわけではない)病気の女・五十子(いそこ)の記述が伏姫とその母・五十子(いさらご)を意識したものであること、狗の遠吠えのシーンも八房を連想させることを述べている。初期に主人公ら七人の同志が集結する場面があるが、これも八犬士を意識したもので、追って登場する五十子の弟である少年・松之助を加えて八人とする構想があったのではないかとの指摘には、なるほどと頷かされた。ちなみに同じく露伴の『落語 真美人』にも〈富山の幼女〉が出るそうな。確認したが本当に一瞬だけの登場だった。
『北海道武蔵女子短期大学紀要 第28号』(北海道武蔵女子短期大学、1996年)
日野龍夫『近世文学史論』 論文
近世の文学史について「外国」「遊里」という二つのモチーフを通して、前・中・後期それぞれの特色を述べる。いわく前期は「現実を描こうとした文学」、中期は「非現実の世界に遊ぼうとした文学」、後期は「非現実の世界を喪失し、現実を突きつけられた文学」。そのうえで、時代を簡単に色分けできるはずはないと、自らの説への反証をあげる中に、「『南総里見八犬伝』のどこに九世紀日本の現実が見出せるのか」というくだりがある。一方で「現実を突きつけられた文学」の例として、あの馬琴が翻案とはいえ複数の男に身をまかせるヒロインを描いた『風俗金魚伝』をあげている。
『岩波講座 日本文学史 第8巻 一七・一八世紀の文学』(岩波書店、1996年)
平井修成『認識の文学・運動の文学 −秋成・馬琴、そして近代』 論文
秋成も馬琴もともに自己の内なる「個我の存在に気付」いていたが、秋成がその個我を作中人物の造型に反映させたのに馬琴はそうでなかったこと、「稗史七法則」など書き方(how to)については雄弁な馬琴が、何を書くべきか(what to)については「勧懲」しか述べていないことなどを指摘する。馬琴が作品のテーマ性よりも読者を楽しませるためのテクニックを重視していたという視点は、個人的に斬新だった。
『国学院雑誌 第八十四巻第十一号』(1983年)←実際はタイトルはすべて旧漢字。
藤沢毅『『絵本更科草紙』論(一)−前編内の歪み−』 論文
栗杖亭鬼卵の読本『絵本更科草紙』(前編・文化八年、後編・同九年刊行)について、先行研究(『読本の研究−江戸と上方と−』)を踏まえつつ、続き物化にともない構想に大幅な変更のあったこと、後編が尼子十勇士を中心の展開となったのはまだ未刊ながら文化五年から近刊予告が出ていた『里見八犬士異伝』(のちの『八犬伝』(文化十一年刊行開始)の影響である可能性を指摘している。
『文教國文學 第46号』(広島文教女史大学国文学会、2002年)←第48号(2003年)に『『絵本更科草紙』論(二)』が載るが、こちらは『八犬伝』への言及はなし(馬琴読本では『石言遺響』に触れている)
堀内美香「「牡丹の痣子(あざ)」と「八箇の霊玉(くしたま)」−『南総里見八犬伝』小論」 論文
犬士の痣は、『八犬伝の世界』が説く「聖痕」というよりむしろ、犬を父とする〈呪われた出自の証〉であること、痣に象徴される玉梓の呪いから犬士を守る「守り神」としての霊玉の機能についての考察。
『同朋国文 22号』(同朋大学国文学会、1990年)
前田愛(まえだあい)『『八犬伝』の世界−夜のアレゴリイ−』 研究本
「名詮自性」などの『八犬伝』世界の呪術性を指摘、原作の精緻な読みに基づいて、前半の〈夜の世界〉を形づくる「光と闇の交錯」のイメージを浮かびあがらせる。「幕末のアンドロギュヌスたち」とともに馬琴再評価の先鞭をつけた。目の前に映像が立ち現れてくるかのような文章それ自体が、すでに文学的美しさに満ちている。
『前田愛著作集第一巻 幕末・維新期の文学 成島柳北』(筑摩書房、1989年)
前田愛「馬琴、幻想と伝奇の物語」・・・川村二郎氏との対談。『國文學 61年2月号 馬琴と南北・異界へのワープ』参照。
松田修(まつだおさむ)「異界の神話学」・・・『國文學 61年2月号 馬琴と南北・異界へのワープ』参照。
松原秀江『馬琴と宗伯 −戯作者馬琴における父と子と家−』 論文
馬琴にとって一人息子宗伯の死は、親子の情愛以上に「先祖の祀り」が絶える点において大事態であったことを『八犬伝』中での〈この世での善悪の行いが家と子孫の繁栄を左右する〉描写を踏まえて説く。また宗伯が著作活動の得がたい助手でもあったことも述べている。『八犬伝』の大好評についての知人への書簡を引く箇所もあり。
『天理図書館報 ビブリア 第七十六号』(天理図書館出版部、1981年4月)
的場美帆『八犬士の成立について』 論文
『秘板・八犬伝』が指摘する〈八犬伝は一時七犬士傳になる予定だった〉説について、『七犬士傳』のほかに『尼子九牛一毛傳』『七馬(士)傳』の名も当時の近刊予告にたびたびあがっていること、馬琴が篠斎あての手紙で『九牛伝』構想を為永春水らにゆずったと書いていること(これがのちの『尼子九牛七国士伝』となった)を検討し、『七馬士伝』の名称を一時考えたことが、『八犬伝』が槃瓠説話以上に「馬頭娘」を下敷きにしていることの証左ではないかとする。なかなかに面白い。
『叙説 33 井口教授退休記念』(奈良女子大学国語国文学会、2006年)
三宅宏幸『犬江親兵衛の初陣』 論文
先に『江戸文学と中国文学』が指摘した〈素藤の出世譚に『三国志演義』序盤の「黄巾の乱」の張角の事跡が反映している〉点を掘り下げ、それが素藤退治を初陣とする親兵衛に「黄巾の乱」を初陣とする「仁君」劉備のイメージを付与するために成された工夫であること、『『南総里見八犬伝』と聖徳太子伝』『里見八犬伝の世界』の〈親兵衛の造形に聖徳太子の「黒駒伝承」が反映している〉という指摘を踏まえて、親兵衛の馬が白いこと、事件当時の年齢の近さ、ともに初陣、不殺といった共通点から、同じ聖徳太子の伝承でもむしろ「夷合戦」伝承の方が直接のモデルではないかと説く。かなり面白い。
『同志社国文学 第六十七号』(同志社大学国文学会、2007年)
宮田登(みやたのぼる)「妹の力−馬琴における女性原理」・・・『國文學 61年2月号 馬琴と南北・異界へのワープ』参照。
向井信夫「嘉永五年「里見八犬伝」上演の周辺」・・・『國語と國文學』55−11参照。
孟然『坪内逍遥の〈揺らぎ〉−『小説神髄』における『南総里見八犬伝』の言及を中心に』 論文
馬琴作品の「名詮自性」−言霊信仰的世界からの脱却をはかろうとした逍遥が、馬琴を批判する一方で言い訳めいた擁護をも見せていた一貫性のなさ=「揺らぎ」を、「人情が描かれていない」八犬士への評価、「引用のモザイク」、「隠微」のとらえ方などに読みとり、その根底にある馬琴への愛を指摘する。いたって興味深い。
『アジア文化研究』編集委員会『アジア文化研究 12 特集 歴史と文学』(国際アジア文化学会、2005)
望月真理子『『南総里見八犬伝』と名詮自性−一角仙人説話と庚申山の世界−』 論文
馬琴が標榜する名詮自性を取り上げ、庚申山編に登場する大角の父・一角はその名からして一角仙人をモデルとすること、偽一角について当初狸とイコールの「野猫」と表記されていたのが「またたびの刀」登場以降「山猫」という単なる猫を意味する表記に変わった理由、鹿(獣)と仙人(人)の同衾によって生まれた一角仙人のイメージが牙二郎に反映していること、一角仙人説話の善の部分と悪の部分を一角・角太郎・雛衣、偽一角・牙二郎の二種に分けて表現していることなどを追及。とても面白い。
『玉藻 第35号』(フェリス女学院大学国文学会、1999年)
百川敬仁「〈江戸周辺〉曲亭馬琴『南総里見八犬伝』」・・・『國文學 解釈と教材の研究 35−9』参照。
百川敬仁『八犬伝と二律背反』 論文
5か月ほど前に出版された小谷野敦氏の『八犬伝綺想』を、近代的な「精神分析的一般論」を「近世という歴史的に現在とは異質な世界」に対して用いることで誤読をおかしていると批判しつつ、『八犬伝』前半の核となったものは「二律背反」のテーマであり、後半の変容は「作者馬琴にも思いがけない奥が深い主題」=〈天皇の問題〉につきあたったためだと論じる。小谷野氏はこの批判を部分的に受け入れ、部分的に反駁している。
『江戸文学4』(ぺりかん社、1990年)
参考:小谷野敦『江戸幻想批判』(新曜社、1999年)
小谷野敦『新編八犬伝綺想』(ちくま学芸文庫、2000年)
小谷野敦『軟弱者の言い分』(晶文社、2001年)
森田喜郎『『南総里見八犬伝』序説−伏姫を中心に−』 論文
玉梓処刑から伏姫自害に到るおよその筋を紹介した上で、馬琴が伏姫の懐妊を気の相感の結果と設定することで、八犬士が「人と犬の合いの子」ではなく「聖なる八犬士」たりえるよう工夫したこと、義実夫婦・伏姫間の情と玉梓の呪いの双方を重ねて描く二重の構成法、「『八犬伝』には人間が描かれていない」との逍遥の批判への反論などを綴る
『文学研究』(日本文学研究会、2006年)
森田喜郎『伏姫・八犬士の意義−『南総里見八犬伝』試論』 論文
伏姫の自害・昇天は、身の潔白を証明するための割腹という表の意味の他に死して神となることで八犬士や里見家を背後から守り活躍させるための裏の意味があったこと、十二敗将らへの里見家の処置や親兵衛が神薬で敵の命をも救うシーンにみられる「《敵を殺さずに仁義を尽くす》という理念」を訴えることが『八犬伝』執筆の第一の狙いであったことなどを指摘する。
『弘学大語文 vol.33』(弘前学院大学国語国文学会、2007年)
安永立子『『花柳春話』の「人情」と新たな物語の成立』 論文
明治期の翻訳作品が「原著の表現に対して、誇張、歪曲、削除といった改変を行」ったのは、読本など既存ジャンルの表現法にのっとって用語や文体、文の構造の選択がなされた結果であるとして、丹羽純一郎訳『花柳春話』を題材に、それを具体的に検証する。「原著が登場人物の心的状態に即した自然描写を行っている部分であっても、それが賞嘆すべき風景であるならばそこには漢文脈の典型的な表現が選択される」として、マルツラバースがベンタドアと初めて会った夜の場面の描写を、『八犬伝』第一回の義実が見た「絶景佳境」と比較するくだりがある。
『國語國文研究 第110号』(北海道大学国語国文学会、1998年)
山川一安『馬琴の読本と水滸傳』 論文
馬琴読本のうち、未だ(論文発表時の段階で)『水滸伝』の影響が指摘されていない作品、指摘されているものの新たに気づくところがあった作品をとりあげ具体的な影響箇所を検討する。『八犬伝』については伏姫に受胎告知する童子が『水滸伝』一回の山中の仙童であること、小文吾が粘華庵で大石を持ち上げたのは、第二十八回で武松が巨石を持ち上げる場の翻案であることをあげる。馬琴が単に『水滸伝』を模倣したのではなく、独自の思想のもと応用したことを評価している。
『立命館文学 第118号』(立命館大学人文科学研究所、1955年)←文字は全て旧字
山川一安『馬琴の読本に描かれた悪人について』 論文
人間の機微を描きこむよりも、自身の社会に対する理想を反映させる方を優先させた結果、馬琴の善人キャラは道徳の化身のごとく人間性に乏しいとしたうえで、善人よりも生き生きしている不善人の代表として船虫と『美少年録』の朱之介の事跡を解説する。『小説神髄』の馬琴観を受け継いだ論の一つ。個人的には八犬士が「欠点を全く持た」ぬ「理想的人物」にはとても思えないんだが・・・(「ピカレスク・ロマンとしての『八犬伝』」一応参照)。
『論究日本文学 第3号』(立命館大学日本文学会、1955年)←論文タイトルも含め全て旧字。
山崎芙紗子(やまざきふさこ)「『八犬伝』の典拠と説話−犬塚と花咲爺」・・・『説話論集 第四集 近世の説話』参照。
山田俊治「『南総里見八犬伝』という鏡−坪内逍遥・模写説の成立−」・・・『文芸と批評 6巻9号』参照。
山田俊治〈座談会〉「『八犬伝』再読」・・・『文学 第5巻第3号 特集=曲亭馬琴の遺産』参照。
山田有策(やまだゆうさく)『逍遥の小説放棄の真の理由はなにか−馬琴の死霊』 論文
『小説神髄』で示した「体系的文学理論の構築」と『八犬伝』的・馬琴的世界への愛着のせめぎ合いが、逍遥が小説を断念する理由となったことを、逍遥の作品(小説)のテーマの変遷を追ってゆくことで裏付ける。なんかだんだん逍遥に親しみがわいてきたな・・・。
『國文学 解釈と教材の研究 53年9月号 第23巻第11号』(學燈社、1978年)
山田芳実『小学校において古典に親しませる学習の試み−『南総里見八犬伝』を現代文で読む活動を中心として−』 論文
千葉県習志野市の小学校で子供たちを古典に親しませる教育の入り口として『青い鳥文庫 八犬伝』と『新八犬伝』映画版のDVDを用いたこと、伏姫と八房の結婚や玉の四散などの展開、当時の千葉県の様子などに子供たちが驚きひきつけられていたとの効果を述べている。古典の授業で用いられるのは『源氏物語』『平家物語』などが主で『八犬伝』がてんで無視されてるのが不満というか不思議だったので、これは嬉しい試み。
『月刊 国語教育研究 No.416 特集 古典の世界にふれる』(日本国語教育学会、2006年)
山本和明『近代〈批評〉における漢文体の位置−馬琴受容をめぐっての一試論−』 論文
明治期の漢文体、とくに漢文体批評の衰えた理由を、当時の著名な漢学者・依田学海の『八犬伝』評とそこに表れる学海の〈批評とは作者の思惑を越えて作品の妙を見出すべきもの〉という理念を取り上げつつ、漢文体批評の特徴である(と思われている)勧善懲悪主義や、(「明治に至って、人々の作品に向かい合う時間は急速に短くなっていった」ために)一作品の批評を何ヶ月も連載するスタイルが時流にあわなかったためではないかと述べる。興味深い内容。
『国文論叢 第18号』(神戸大学文学部国語国文学会、1991年)
彌吉光長(やよしみつなが)『馬琴晩年の文芸社会学試論−その日記と書翰を通じて−』 論文
『八犬伝』ほかの作品を書くうえでのベースとなった馬琴の読書歴、出板にまつわるもろもろの事情(稿料、出板予定日など)、貸本屋の商売のあり方など、作家としての馬琴周辺のさまざまを紹介している。なかなか興味深い。
『國學院雑誌 第八十四巻第十一號』(國學院大学、1983年)
湯浅佳子(ゆあさよしこ)『『南総里見八犬伝』と聖徳太子伝』 論文
仁の犬士たる親兵衛の人物造型、八房の梅のエピソード、伏姫が観世音の化身であり天照大神的性格を持っていること、与四郎犬と走帆(親兵衛の馬)が四白であること――などが、『大成経』『聖徳太子伝暦』『聖徳太子伝』ほかに記された聖徳太子の伝承をモデルとしていることを指摘。興味深い。
日本近世文學會『近世文藝 71巻』(日本近世文学会、2000年)
湯浅佳子『『旬殿実実記』と『南総里見八犬伝』』 論文
『旬殿実実記』のお筍と阿旬の設定が『八犬伝』の浜路、伏姫の物語によく似ていることを、双方の該当部分を引用しつつ指摘する。
『近世部会誌 第1号』(日本文学協会近世部会、2007年)
由井英夫『八犬伝の小説機構』 論文
成城大学近世ゼミ生の卒業論文(下記の冊子で読むことができたのは一部の抄録のみ)。『八犬伝』は対管領戦をひきおこす伏線が第二部の犬士の活躍中に周到に設定されていること、親兵衛と大角の特殊性に注目し、大角はその出自(もともと安房にも管領方にも繋がりを持たぬただの郷士)からして影が薄いことを指摘、赤岩百中として彼に見せ場を作ろうとの意図があまり上手くいってないのが〈八犬士会同以降のストーリーは後から付け足されたもの〉説の証左となりうる可能性を示す。とくに後半の着眼点が面白い。
『近世文学ゼミナール会報 近世レポート 第5号』(近世文学ゼミナールOB会、1987年)
横山邦治(よこやまくにはる)「春水の読本観と馬琴−「増補外題鑑」を通して−」・・・『國語と國文學』55−11参照。
横山邦治『『南総里見八犬伝』における“八房”の出自について』 論文
八房そして伏姫物語のモデルが、「犬聟入と猿神退治の民話における白犬」および「犬聟入と猿神退治の両型兼備の民話」である『犬猫怪話 竹箆太郎』であること、(馬琴は)直接的典拠は秘匿する通例であったためにあえて『八犬伝』中で『竹箆太郎』にふれなかったことを説く。『竹箆太郎』モデル説はのちの『白狗幻想』でもくりかえし触れている。
日本近世文學會『近世文藝 39』(日本近世文学会、1983年)
横山邦治『白狗幻想』 論文
『八犬伝』の八房やそのモデル(かもしれない)栗杖亭鬼卵の読本『犬猫怪話 竹箆太郎』との比較から、日本古来からの〈善なる白犬〉のイメージと、それが読本に与えた影響を考察する。
『江戸文学 12』(ぺりかん社、1994年)
吉田清香『『南総里見八犬伝』論−八犬伝における善と悪について−』 論文
『八犬伝』のキャラクターが単純に善人悪人に分けられないことの証左として、八犬士ら善側のキャラがしばしば過ちを犯していることや玉梓の後身である八房が伏姫と一体になったことなどをあげる。八房・伏姫が〈伏姫神〉となってのち挿絵上の名前が消えることの意味、犬士たちの受難は伏姫が受けた穢れの禊という意味合いがあること、道節が登場時〈悪〉のイメージを担っていた理由についての指摘など実に興味深い。これがプロの研究者でなく学部生の卒論だというのに驚いた。すごいな。
『玉藻 第42号』(フェリス女学院大学国文学会、2007年)
李樹果「『八犬伝』と『水滸伝』」・・・『読本研究新集第一集』参照。
林承柱『島崎藤村の『春』における「懐剣」の象徴性について』 論文
藤村の自伝的小説『春』で「恋愛(ラブ)」の象徴として懐剣が用いられることについて、北村透谷が『処女の純潔を論ず』『宿魂鏡』で示した恋愛観や『八犬伝』における伏姫の処女性の反映を見る。
『言葉と文化 第3号』(名古屋大学大学院・国際言語文化研究科日本言語文化専攻、2002年)
渡辺直己(わたなべなおき)『「偸聞(たちきゝ)」小説の群れ−馬琴「稗史七則」と逍遥・紅葉』 論文
「日本小説技術史」シリーズの第一回。従来の『八犬伝』研究でなぜか言及されることのなかった、作中に頻出する「偸聞」の手法が読者にもたらす「呪縛力」と「強迫意識」、坪内逍遥が作家として行き詰まったのは『小説神髄』で葬ったはずの馬琴流の「立聴」を踏襲せずにいられないジレンマによることを論じ、また尾崎紅葉の『金色夜叉』の立ち聞きシーンにも言及しつつ川村湊氏の研究などを引いて『金色夜叉』の構造に表れる作者の苦心を述べる。〈親兵衛の再登場によって後暗いイメージのある「偸聞」や「闕窺(かいまみ)」が作中から消えてゆく〉という指摘には大いに刺激を受けた。
『新潮 第百四巻十二号』(新潮社、2007年)
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