花と殺生・立原正秋 試論/近澤 有孝 朝霧のおぼに相見し人ゆゑに命死ぬべく恋ひわたるかも 笠 女郎 立原正秋の文学は絢爛華美であると同時に、ひどく儚げな表情をそなえている。たとえるならば一輪の藪椿の花である。幾重にも重なりひらいた肉厚の花弁の自己主張をわかばや、ほかの草木のなかにおしとどめて咲いている花のしずかなたたずまいが目のふかくに浮かんでくる。あるいは秋風に揺れる吾亦紅である。これは、なにものかに曝されているふうである。 「華がある」という古風な言い方があるが、「花である」とむしろきっぱりといいたい。その方が自然な感じがする。思いいれが強すぎるのかもしれないけれど、わたしは、立原正秋という小説家の作品に触れるたびに、風に曝されている花々と、闇に浮かぶ枯れ野を見る思いがするのである。 じっさい、生前の立原氏じしんも四季の花々や草木をこよなく愛し、時には野辺で手折ってきた梢を無造作に水差しに投げこんではそれをほめていたようである。藪椿や吾亦紅のほかにも、梅や山桜はいうまでもなく杏子、石榴、くろがねもち、白木蓮、躑躅、満点星、辛夷、と立原氏の作品がおおくの草木によってはなやかに彩られていることもじつに自然なことである。しかし立原氏は、これらの草木を愛でることはあっても、その色やかたち、あるいは香りに酔うことはなかった。けだものにも劣ると思われる人間の、死と愛欲をめぐる修羅を描こうとするとき、いっさいの無駄を排した四季折々の花々や枯れ野はおのずとたしかな借景となり、風に曝された風景の一部となった。立原正秋の、それは矜持であると同時にひとつの倫理であった。あらゆる意味での馴れあいを排し、この世に恃むものは自分じしんよりほかなしとする〈山水河原者〉の生きざまであったともいえる。 いまわたしは、立原正秋の文学は絢爛華美であるといい、ひどく儚げな表情をそなえているといったがこれは、死の世界が生の世界をしたがえている、といいかえてもよい。聖と俗、中世と現代、心と肉体ccつまり、立原氏の内部には〈明るい場所〉と〈くらい場所〉という性質をまったく異にする理念が同居しており、これらの理念は必然的に対立をする。しかし、どちらか一方でも欠けてはならない。相反する美と美のせめぎあいからは理念の撞着と倫理の荒廃、諦観にも似た静寂がうまれる。そして、それらの美醜、あるいは善悪の混沌を孕んだ情念こそが、立原正秋の〈滅び〉をめぐる美学の母胎となっているといるといってよい。 芥川賞候補となり、立原正秋の名前を世に知らしめた初期の秀作『薪能』は、ともに没落旧家の末裔である昌子とその従弟、俊太郎の実らぬ愛のすがたが、ふたりの錯綜する心理とともに描かれている。 のぞまれて和泉公三のもとに嫁して五年経っても子種に恵まれず、くわえて夫の不義に心を痛めている昌子は、幼い頃より心を寄せていた壬生俊太郎のもとに足を運ぶ。しかし、すぐれた能面を打っていた俊太郎のすがたはなく、退嬰の影をひいた従弟が〈拗ねた〉ように彼女を迎えた。母のようでも姉のようでもあった昌子が和泉のもとに嫁し、女になってしまってから面を打てなくなっていたのだった。「昌ちゃん、もう、ここにきてははだめだよ」血のつながりの濃い互いの思いを断つかのように、俊太郎は昌子にいう。しかし、神事能の終了とともに消えてゆくかがり火に「滅亡の美しさ」を視たふたりはともに能楽堂でたがいを確かめあったのち、両足首と膝を紐で結び、多量の睡眠薬を呑む、という方法で禁忌の愛の成就をみる。時おりしも鎌倉薪能の大鼓、太鼓、地謡が響きはじめる、といういかにもロマネスクなつくりになっている。物語のむすび「いやがる俊太郎を無理にさそったかたちになったが、願わくば二人とも生きかえらないように、と思った。もし、どちらか一人だけが死んだら、そのときの生き残った者のつらさが、いまから判るような気がした。」という昌子の悲痛な叫びから、三島由紀夫の名作『金閣寺』にも通じる〈滅びの美学〉をみることができる。 しかし、〈滅びの美学〉は残念なことに、立原正秋と三島由紀夫だけの専売特許ではなかった。 永井荷風、谷崎潤一郎、川端康成らのほかにも〈滅び〉に倒錯した永遠を見いだした小説家や詩人はけっして少なくない。第一、〈滅び〉という現象に目をむけない文学や表現というものは皆無であろうし、もしあったところでそれは人間という修羅を直視することをしない脆弱な表現態度にとどまっているといわざるをえまい。まあ、それはともかく、荷風、潤一郎、康成らの場合は、〈滅び〉ということ自体がひとつの美学として結実している、という点で共通項をもっていた。 川端康成は、立原正秋が生涯にわたり敬愛しつづけた数少ない小説家のひとりであることは、よく周知されている。恋愛という心理の生態を日本の風土と歴史に照射し、簡素かつ流麗な日本語によって描くことをよしとした立原正秋にとって、川端康成という小説家はまさにその美学の先達と呼ぶべきおおきな存在であったことにまちがいはない。『眠れる美女』や『片腕』などの掌編作品にちりばめられた清冽な死生観と退嬰的ともいえるエロティシズムを、立原氏は、川端文学をほめた文章のなかで「漂泊者の心情」をそなえたひとの「きたならしい美しさ」と呼んでいる。不思議な、しかし正鵠を得た評言である。 立原正秋という小説家の独自性は、〈滅び〉という現象から直截的に倫理、あるいは秩序なるものを導き出してくる点にある。描出した人物、あるいは風景に無駄な箇所はないかを問い、〈美しくないもの〉、〈無駄なもの〉は容赦なく切り捨てる、という世阿弥の唱えた美の理念を継承し、正しくそれを実践しているのである。前掲『薪能』のむすびからも、立原正秋の〈滅び〉をめぐる思念の健全であることをうかがい知ることができるだろう。 それでは、立原正秋の〈滅びの美学〉、あるいは秩序はどのようにして生成されたのであろうか。立原氏によると、以外にもそれはかつての大戦における〈日本と朝鮮の滅亡〉の願いにあったという。 「大戦末期、私は、硝煙の匂う高空を見あげ、日本が 滅び朝鮮が滅ぶことを切にねがった。それ以外に信じ られるものがなかった。私の戦後はそこから出発して いる。したがって、今日まで余生を生きてきた、とい う思いがつよい。初期の作品〈剣ヶ崎〉も〈薪能〉も この滅亡意識からうまれた。(中略)美の堅固と脆さ は常に紙一重のところで存在していたが、現世の無常 を視てきたものにとり、おのれを投影させられるのは そこしかなかった。」 昭和五五年に、遺稿エッセイ集『冬の花』に収められた「移ろわぬものと三十年」の一部である。昭和五三年十月二日づけ毎日新聞夕刊に寄稿されたものである。当時、本田秋五氏と江藤淳氏のあいだに交わされた「無条件降伏論争」が文壇、論壇をにぎわせていた。それに立原氏が過敏に反応をした、というかたちになっているが、ほんとうのところはどうなのだろう。 「朝鮮が滅ぶことを切にねがった」というのは、これは立原氏の複雑な出自に起因している。 立原正秋は、大正十五年(一九二六年)、韓国慶尚北道大邸市で生をうけている。父母ともに日韓混血で、父は李長貴族の末裔であり、天燈山鳳停寺の禅僧であった。その父は、立原氏が六歳の時に亡くなっている。すくなくとも立原氏自筆の年譜のうえではそのようになっている。死因については何も書かかれていないが、自伝的小説である『冬のかたみ』のなかでは、国東重行の父、闍初~俊は「青酸加里を燕んで自裁」したことになっている。むろんこれはフィクションであるのだが、立原氏がみずからの年譜を相当に事実をゆがめて記していることをみても、それが虚構であっても〈父の自裁〉は、立原氏の心をふかく蝕んでいたことが推察される。立原正秋の凄絶なほどに垂直な倫理と無常観は、おそらくはこれらのことを原体験として形成されている。 日本の美と伝統を追求しつづけた立原正秋が「日本が滅び朝鮮が滅ぶことを切にねがった。それ以外に信じられるものがなかった。」とまで断じているのには、わたしも少なからず驚いてしまったが、青年の日の立原氏にとってみれば、それは虚構としての〈父の自裁〉にの痛みにも重なるトラウマの、なまなましい証であったにちがいない。立原氏の切なるねがいに反して日本も朝鮮も滅ぶことはなかったが、戦後の荒廃した日々のなかで立原氏が精神的な救済を中世の美に求めたことはむしろ自然な展開であったと、わたしには思われる。 「現世の無常」についていえば、たとえばそれは西行や定家、あるいは鴨長明ら中世の隠者たちによる〈荒び〉の世界に似ていないこともない。立原正秋は中世に生きた小説家であった。とおい地での戦にまつわるいいかげんな噂と、歌謡の雅びに一喜一憂するばかりの無為な日々に倦みつかれ、ならば家を棄て仏心にすがり草庵を結ぼうと思う反面で贅沢な暮らしと知識人としての誇りにも執着をみせる。そうした撞着した心の行く手にあるのは現世における生の諦観、あるいは無常の領域であり、そこにこの世ならぬ美の永遠を認めたひとびとによって〈荒び〉あるいは〈幽玄〉と呼ばれる無常の美学がむすばれることになる。そして、物質的には充たされた日々のなかにあって欲得と愛欲に支配される現代人の肉と心に「現世の無常」をみつめた立原正秋は、戦後の〈荒び〉を描くことになるのである。立原正秋が、中世の美学の継承者といわれるゆえんである。 『夢は枯野を』は、昭和四九年(一九七四年)、中央公論社より上梓された長編小説である。 水江は、移転した家で「風流韻事を好む」夫が呼んだ作庭家、加瀬雄策と出逢う。正確にいえば十四年ぶりの再会をする。加瀬は「植木屋の兼爺さん」に連れられ本家に出入りをしていた造園科の学生であった。「取っ付きにくい感じがあったが、しかし、ぴんと張っているといったほどのものではなかった」横顔のかつての青年は、大小の石や植木の配置を指示してやがて去ってゆくことになるのだが、水江は露地の踏み石に男の〈殺生な視線〉を感じていた。漠然とした不安をみずからの肉に閉じこめてしばらくはすごしていたが加瀬の手によってもみほぐされた水江の肉は、志田ハムの重役である英治の妻の座を棄て、〈山水河原者〉として生きている加瀬との暮らしを望むようになる。加瀬には水江のほかにも離別した妻や同郷の民子とのかかわりもあり、なにやら〈昼メロ〉か〈情痴小説〉みたいな筋立てとなってはいるが、〈愛欲〉と〈作庭〉のはざまで揺れる男女のいのちのすさびゆくさまを繊細かつ大胆に描きあげた、立原正秋のもっとも円熟期にものされた作品のひとつである。現代における〈荒び〉のすがたを見るのに適した一作品でもある。 箱根の宿で逢ったとき、加瀬は、見せてください、 と言っていきなり胸に手をさしこんできたが、水江は そのとき肉の芯を殺がれたような情態になった。これ までになかったことだった。頭のなかが痴呆のように なったとき、あなたの躯は茶庭のようだ、と加瀬が言 った。 「どういう意味でしょうか」 水江は頭がすこしはっきりしてきたときにきいた。 「露地の踏石ですよ。右を踏み左を踏みしなければ石 を渡れない。しかし一本の線が通っている。もしかし たら、これから僕がつくる庭は生臭くなるかもしれま せん」 「わたしを識ったからですか」 「そうです」 つかのまの交わりのさなかに男は女を「茶庭の露地」と呼び、「どういう意味でしょうか」とその真意を尋ねる女に対して「露地の踏み石ですよ」と冷静に応えている。このときの男の目には、女をいつくしむまなざしはなく、「肉の芯が殺がれたような情態」にある女のqAに、無造作に配置された露地の踏石を照射して視る一作庭家のさめた視線だけがいきている。「加瀬がこしらえた原形を残したまま、死ぬことも生きることも出来ない」と叫ぶ女の肉と心の現実を諒解したうえで、男は脳裏にひろがる庭のどこに女を佇ませようかと思いをめぐらし、はてない夢想郷に生きることをしているのである。 無為とも呼べるこの情態こそ、〈荒び〉のきわみにある情態ではないか。存在することの無常に打ちひしがれながら、なおもみずからの生死をそこに視るものの裡側にこそ〈荒び〉と呼ばれる精神の枯れ野はひろがっている、ということはできないだろうか。 たしかに、水江という人妻とかかわりをもつことによって、加瀬は、彼女の肉にひとときの慰めをあたえることにはなったであろうが、ものうい肉のつながりによってますます「生臭くなる」であろうと予測される情態が加瀬じしんにもたらすものは、必然的にみずからの肉に対する慰藉にすぎないものとなってしまう。それはつかのまの、文字どおりうたかたの慰藉にすぎない。しかもそこに「一本の線が通っている」という感覚を共謀するように識ることによって、希望の見えない愛欲に慰藉、あるいは救済を求めたふたりのいのちは、果てのない〈滅び〉にいたる道行きを免れなくなってしまうのである。 「一年のうち三つの柩を送り出した後、水江には暗さだけが残った。」とある。つづけざまに三人もの肉親を喪ったことからくる寂寥感と無常の思いは、いやおうなく水江の肉に渇きをもたらしている。「時々思いだして遣りきれなくなる日もあった」が、それは夫との性生活のなかで均され癒されているかにみえた。加瀬は、作庭を「俗習との闘い」と考えているのであるが、菱川師宣の描く庭に水江と民子のふたりをかけさせ、そこを往復している自分に「荒涼とした風景のなかを、荒涼とした内面の男が歩いている図」を見ている。「余生を生きている」情態がある。このふたりの〈あぶな絵〉のような関係が肉と情感のせめぎとして〈荒ぶ〉ことになるのはやむを得ないことだろう。妻、水江と加瀬の関係を知った志田英治は、加瀬の造った庭を「丹念といってもよいような毀しかた」で毀し、毎夜のように「単なる肉の塊」にすぎなくなった妻の肉を責めさいなむようになる。志田にしてみれば、そうすることでしか健全でいられるすべはなかったのである。そのような渇いた情態にある水江に対して、建設的なはなしをすることはなく、「過不足なく皮下脂肪がついてまるくなっている水江の躯」に「よく出来あがった露地をみて」歓をきわめる加瀬の生き方は、退嬰的というよりむしろ毀れた庭に吹きわたるひとすじの風、といった感がある。いかにも〈生臭い庭〉ではある。 あらゆる情念も、何らの希望を見いだせないときそれは〈殺生〉となり、うたかたの慰藉は〈滅び〉の様相を帯びてくるのではないだろうか。あえて〈滅び〉の成就に希望を託するというのであれば、それはむしろ『薪能』で壬生俊太郎と昌子によってむすばれた峻烈な「滅びの美しさ」にみることができるだろう。ここには情念の深さと肉欲の単純のみがふたりの生命を完全燃焼させた潔さがある。ここにはなにものにもたじろがぬ生と死がある。情念と肉欲ともに生命を完全燃焼させた経験は乏しいが、わたしは、そのように考えている。わたしも〈余生〉を生きているのかもしれない。 〈荒び〉は、〈遊び〉の精神に通じている。かさねてそれは無為の伝統である。 能や茶の道、あるいは作庭といった伝統に根づいた作法やその理念は、わたしたちの日々のなかにおいては無用の技くれにすぎない。平板な日々のなかにときに潤いをもたらすことはあっても、それ以上の機能をもつものではない。文学という、ことばと精神の夢幻をつむぐ技くれとて、有名無実の〈荒び〉、あるいは〈遊び〉の領域をけっして出るものではない。日々の安寧と秩序をうち棄てて、あってなきがごとき〈よしなしごと〉の世界に身を移す。そこで識る苦悩と愉楽のさきに自分じんんの修羅を視ることもあるだろうけれど、その無為をきわめた精神の領域を、ひとは〈荒び〉と呼ぶのである。わたしはそのように考え、うたがいをいれない。 こんなことばかり書いていると、世の風流韻事を愛される方々からきつくお叱りを受けそうであるが、しかし、伝統の技と美それじたいを非難するつもりはわたしには毛頭ないので、どうか誤解はしないでいただきたい。むしろ単調きわまりないわたしたちの暮らしのなかに非日常的な世界とやらが飛び込んでくることによって、あたらしい暮らしぶりとあたらしい悦楽を手に入れることができるとするならば、むげにこれを一蹴することはできまい、とひとまずいっておくとしよう。 それにしても、〈荒び〉、〈遊び〉の手すさびによってしかよどんだ空気の入れ換えのできないわたしたちの生の味気なさも中世から継承したものなのであろうか。皮肉な話ではある。 〈荒び〉の話はもうこの辺でよろしいだろう。立原文学をめぐるわたしの感想をもうひとつだけ記しておこう。大輪の花の影でひっそりと息づいている花の存在である。絢爛華美を誇る物語におもてだって登場することのない、しかしその静かな存在が物語全体の豊饒をになっている女人のすがたがある。たとえば『夢は枯野を』の民子であり、『鎌倉夫人』でいえば脇坂葉子である。 『夢は枯野を』における民子は、加瀬と同郷の女であるため「どうも女という感じがしなかった」それでも加瀬との逢瀬を重ねるうちに「これは男の重さではなく雄策さんの重さだろう」と、加瀬に肉の慰めを求めるようになるが、『鎌倉夫人』での葉子はまさに現世の責めをいっしんに堪え忍んで咲いている花である。葉子は、生駒千鶴子や野瀬広行の叔父、生駒宗平の次男である医師とのあいだに子供をもうけるが、身分が違うと生駒家から追われることになる。その後、料理屋の下働きをしたり、子供が赤痢にかかったときにはやむなく躯を売ったこともあったが、病弱な前夫の病態の悪化をみるとかれの介護や診療所の雑役に労する。二頭のライオンを引き連れ闊歩し、夫とその義母であり愛人である女を、「女主人としての矜り」を取り戻すため、ふたりを殺傷してしまう生駒千鶴子とは対照的にみずからの思いを胸中におしとどめて生きる無垢の女人である。立原正秋はその作中にしばしば、このような儚げな、ゆきくれた影をひく女のすがたを描いている。描かねばならない必然があった。 立原氏の小説の舞台となっているのは、没落旧家、人妻たちの集まるサロン、あるいはカトリック教会であったりと華麗にして荘厳な面もちの場であることがおおい。くわえて戦後から高度経済成長期にかけての日本文化と再生と荒廃がこれらの舞台のロマネスクな性格を濃くしていることはいうまでもない。あふれる物質と情報のただ中で男女の心と肉の修羅は変わることなくくりひろげられるのであるが、おそらく現代ほど愛の可能性の希薄な時代はないだろう。〈昼メロ〉や〈情痴小説〉のそれのような愛のかたちを、立原正秋はきらっていた。立原正秋の小説が〈情痴小説〉ととても近しいところでまったく相反する愛を探っていたということは、わたしには興味ぶかいことである。 矜りたかい、あるいは性の愉楽におぼれる生臭い女たちのろうたけたうつくしさの奥に、民子や葉子のような一輪挿しの花を置くことによって、性と情念の醜悪な一面が浄化されるという効果もあるだろう。広行は美しい従弟姉妹を相手にデカダンな暮らしをしながらも「生駒宗平一家の無視の重みを背負って歩いている」葉子に惹かれ、彼女をひそかに妻に迎える。広之の直截な求婚に「あなたは、いつも、わたしの生甲斐でした。これでよろしゅうございますか」とことばすくなに応じる葉子の姿は気高く、うつくしい。「秘すれば花なり、秘せずば花なるべからず」という世阿弥の言説のたしかさをみる思いがする。 矜りたかく美しい女の姿と、触れなば落ちんいのちの儚さを秘めた女の姿をともに佇ませることによって、立原正秋の花はあでやかな幽玄の美をむすぶ。その美がたとえむごい生死の修羅をしいられているとしても、花のうつくしさは、散りゆくさだめを前にした彼女らの覚悟と、その清冽な息づかいによってむすばれているのである。 くらい夢は覚めない 谷川雁・試論 最近、たぶん日朝国交正常化交渉条約が締結された昨年あたりからだと思うのだが、テレビや新聞などで、金正日朝鮮労働党総書記の顔を見ることがやたらに多くなったような気がする。権力者は常に謎のカーテンのむこうにいる、だからメディアはそのカーテンを剥がそうとやっきになってかれを追うのだ。しかしかれを追ってどうなるというのだ。金正日は、もはや実体ではあるまい。かれは北朝鮮における絶対的なイデオロギーそのものなのである。 さて件の金正日による独裁政権を国際社会に誇る北朝鮮の現在を想うとき、わたしなぜか、谷川雁の「帰館」という詩を想い出す。この詩は、詩人が「私のなかにあった『瞬間の王』は死んだ」と、詩との訣別を宣言した『谷川雁詩集』(一九六〇年・国文社)の冒頭にひっそりと置かれた一篇である。既刊の二冊の詩集の合本であるこの詩集には、かつての中国共産党党首の名を冠した「毛沢東」という作品もおさめられているのだが、どうしたものかわたしのおもいは、ふしぎな引力にあらがうことなく前者のほうに傾いてゆくのだ。最初にことわっておくけれど、わたしは、いかなる政治思想にも労働運動にも同調荷担するものではないし、これからも同調荷担することはないだろう。いま、わたしの興味をひくのは、それらの政治思想ではなく、《谷川雁》という政治的メタファーをつくりあげてきたかれの精神の《二重構造》であり、その理念の《原点》のありように尽きている。 おれの作った臭い旋律のまま待っていた 南の辺塞よ しずくを垂れている癩の都から 今夜おれは帰ってきた びろう樹の舌先割れた詩人どもの 木綿糸より弱い抽象を すみれの大地ぐるみ斬ってきた 優しい蛮刀で一片づつ 作品「帰館」の、第一・二連の部分である。 私見では、この箇所には詩的メタファーにおいても思想的表現においてもべつだん目新しいものはないようにおもわれる。おそらくは「しずくを垂れている癩の都」での革命の任務を了え、ほうほうの体で「南の変塞」に帰りついた「おれ」の姿が、抑制のきいた文体で描かれているにすぎない。文体といえば、谷川雁の作品の文体の多くがドイツ・ローマン派の影響を受けているということは、すでに鮎川信夫や北川透氏らによって指摘されていることではあるのだが。「びろう樹の舌先割れた詩人どもの/木綿糸より弱い抽象を/すみれの大地ぐるみ斬ってきた」みやげ噺とともに「帰館」を果たした「南の辺塞」は「おれの作った臭い旋律のまま」のすがたをたもって「おれ」の帰りを「待っていた」のである。このいかにも恣意的な設定によって、谷川雁はみずからの政治思想あるいは理念の不変であることを表明してるのであろう、この作品が社会的・政治的な発言であることをひかえめにではあるが明言している。ついごうまんな断言になってしまうけれど、しかし、これらのメタファーは、おそらくは一般的な《思想詩》にみられる常套的なそれの範疇にとどまっている。革新的な思想と表現をみとめるものではない。わたしが驚き、想わず唸ってしまうのは、この作品の最終部をなす次のようなメタファーである。 今はほほえみながらきっとして 冷えた杯をひそかな核にささげよう それから、党と呼んでみる 村の娘をよぶように 形容詞もなく静かにためらって 《党》というものを内側から観察した経験のないおまえの観察なぞ、まさにとるに足らないものじゃないか、ご託を並べておらずにとっとと観念の彼方に引っこんでいろ、と谷川氏のくらい声が聞こえてきそうだが、しかしこの箇所にこそ、谷川雁の革命の美学と思想の核をわたしは認めるのである。 ここでとつぜん詩における《喩法》のはなしになるけれど、比喩、とりわけ隠喩(メタファー)というのは、とりあえず、任意のことばのもつ意味あるいはイメージを、未知の意味あるいはイメージを持つ別のことばに直接結びつけて表現する方法と考えてよいとおもわれるのであるが、その認識をわたしは根元から修正しなければならないのかもしれない。谷川雁が作品「帰郷」のなかでしるした《党》ということば、いったいどんなことばの意味あるいはイメージによって喚起されたものなのか。「村の娘をよぶように/形容詞もなく静かにためらって」というこのうえもなく美しい詩句は《党》ということばからいったいどんな意味と思想を傍受し、《形容》されたというのか。これまで読んだ《思想詩》のなかでこれらの詩句ほどいたましく、わたしのくらい魂に激しく揺さぶりをかけてきた数行をわたしは知らない。 谷川雁の政治的な履歴について、わたしの知識はくらいのだけれど、一九四九年に日本共産党に入党したのち、一九六〇年六月、安保闘争を契機に同党を脱党、除名される(『谷川雁詩集』が発刊されたのは同年一月のことである)までの間、九州地方委員の任に就き、各地でのコミューンづくりや、福岡県中間市において上野英信、森崎和江氏らと雑誌『サークル村』の刊行にあたったりと、いわゆる《工作員》としての働きをしている。さらに、《党》から離れたのちにも『大正行動隊』を組織して、炭鉱労働者のための『手を握る家』の建設運動やパンフづくりにもかかわっている。ひとつのイデオロギーと共に生き挫折したこの詩人は、《党》との関わりについての考えを、エッセイ『農村と詩』において次のように述べている。 「《部落民》という言葉はいまだに僕の胸に感情の暴風を起す。彼等ははこべ咲く浜辺の都で外国軍人から職を追われ、孤立し、倒れていた僕に輸血をし薪炭から食物までを運んでくれたばかりでなく、優しさというものの極致を教えてくれた。毎日一椀の牛血をすすらせ、犬の肉で快活な冬の宴をひらいた。僕を封じこめていた党内闘争の凄惨な竜巻きで氷った胸を溶かし、その下に僕の故郷が眠っていることを告げた。圧制と貧苦をなめさせられてきた彼等は複雑な血縁と異様な熱狂をもち、時にはそれが無原則な放逸とつながっていた。」 「優しさに帰ろう。部落民と農民とに共通するこの破格な寛容と平静、それは幾時代をくぐりぬけてきた前プロレタリアートの感情であることを僕は理解した。この素焼の肌が放つ光を日本の労働者の前衛が充分に受けついでいないばかりか、むしろそれから背反しようとする傾向が強いというのが僕の意見だった。変革の中心であればなおさらのこと、労働者階級の意識高い部隊が失っているもの、奪われたもの、人間性の欠損の部分を見落すべきではない。」 鮮烈な、しかしさびしい革命の宣言である。失業と不毛な党内闘争に疲れ果てていた谷川雁は、《部落民》の厚意によって「毎日一椀の牛血」と「犬の肉で快活な冬の宴」を供され救済される。「圧制と貧苦をなめさせられてきた」かれらの「優しさというものの極致」と「破格な寛容と平静」は詩人の凍りついた胸に人間らしいあたたかさを呼び戻し、かれはそこに「幾時代かをくぐりぬけてきた前プロレタリアートの感情」の《原点》を見いだしたのである。谷川雁はそして、くらく宣言する。「『だんだん降りてゆく』よりほかないのだ。主観は飛躍的には生まれない。下部へ、下部へ、根へ根へ、花咲かぬ処へ、暗黒のみちるところへ、そこに万有の母がある。存在の原点がある。」(『原点が存在する』・一九五四年)。谷川雁の革命と詩の《原点》とはつまり、これら《部落民》あるいは《農民》における寛容と共存のエトスをさしているものと解釈されよう。まるでふるい民話のそれのような理念の帰結であるが、谷川雁はその稀有な体験のなかでほんとうに「前プロレタリアートの感情」を体感したのであろうか。「優しさに帰ろう」ということばははたしてかれの真意なのであろうか。疑いだしたらきりがないということぐらいは解っているが、前掲の発言がかれの真意であるとは、わたしはにわかには信じがたいのである。 たとえばムラあるいはコミューンを内部から構成している人間関係および労働の機会から排斥されたひとびとを《部落民》あるいは《農民》と呼ぶとき、かれらにとってかつてのムラ、コミューンとはどのような《場》であるだろうか。生きていくために衆人の厭う労働につき、なおかつ「圧制と貧苦をなめさせられてきた」かれらの傷ついた心情がそれほどやすやすと他者の接近、あるいは同化を許すことをするだろうか。革命家・谷川雁は、かれらの「破格な寛容と平静」によって救済され「仲間としての待遇を受け」たという体験から生まれた感慨なのであろう「われは部落の民なり」と宣言をするにいたっているのであるが、疎外され「圧制と貧苦」にあえぐひとびとにふたたび人間らしい生活を取り戻そうとすることこそが、かれとかれの属する《党》の思想ではなかったのか。感傷という美酒に酔いしれていては革命どころではないだろう。これは、どう考えても禁句である。わたしが思うに、谷川雁という詩人は《革命》というくらい夢のなかにさまよいつづけているひとのようである。金正日が北朝鮮における絶対的なイデオロギーであるように、谷川雁じしんもまたひとつの《党》であったのである。だからこそ「それから、党と呼んでみる/村の娘をよぶように/形容詞もなく静かにためらって」と無邪気にうたうことができたのである。 さらにいえば、谷川雁の詩やエッセイの多くは《圧制者》、少なくとも社会的に上位の階級(?)の立場で書かれているように、わたしにはおもわれる。このことはすでに多くの詩人や批評家によって指摘されていることである。たとえば「《部落民》という言葉はいまだに僕の胸に感情の暴風を起す。」というせつない一章を注意ぶかく見てみると、《部落民》とは異なる立場で語られたことばであることが解るだろう。観察者の冷徹な目でみずからの《感情の暴風》をながめている感がある。かれが革命の《原点》と呼んだ「前プロレタリアートの感情」を「部落民と農民に共通する」理念であると認めながらも、「日本の労働者の前衛」「労働者階級の意識高い部隊」においては必ずしもその理念の必然を説いているようには思われないのである。そもそも「労働者」という一群の社会階級を「前衛」とか「意識高い部隊」とかいう類別をすること、これこそが支配者階級に身を置くものの差別的な態度ではないだろうか。この絶対的なヒエラルキッシュな認識の溝を埋めることなく、詩人は「優しさに帰ろう」なぞと薄っぺらなことばを口にしてはならないのである。 しかし、谷川雁の詩には、はしなくもこうした論理の撞着に苦しんでいる詩人の姿が投影されているものがいくつかある。 おれは村を知り 道を知り 灰色の時を知った 明るくもなく 暗くもない ふりつむ雪の宵のような光のなかで おのれを断罪し 処刑することを知った 焔のなかに炎を構成する もえない一本の糸があるように おれはさまざまな心をあつめて 自ら終ろうとする本能のまわりで焚いた (「或る光栄」) われわれは暗いところから飛んできた 符号にすぎぬ あわれな偶然が片隅でもえる世界の 無数の柱のうちのひとつにすぎぬ そしていまおれが待っているものは 「薄明の力学」にすぎぬというのか (「人間A」) その前衛的な革命思想と美学によって谷川雁と並ぶ詩人・黒田喜郎氏が、佐々木幹郎氏との対談のなかで語ったひとことを最後にひいてみよう。 「つまり、一つの詩と世界が拮抗することを彼は少なくとも信じようとして詩を書いていたろうし、それができなくなったとき詩は終わったと彼は自分で説明しているわけだけど、(中略)「原点」という理念へのイエスの断言のうちで、その理念に含まれる対象の像化、喩化を完璧に彼はなしたと思うんです。しかし、それが完璧になればなるほど変移し解体する、あるいはその範囲外の対象は、捨象するほかはなくなったと思うんですね。」(「日本近代の知的分立=谷川雁における自己超絶の軌跡」『現代詩手帖』・一九七六年七月) 谷川雁の苦悩がいかにアンビバレンツな様相を呈していようと、わたしたちがことさらに心いためる必要はないだろう。なぜなら、「下部へ、下部へ、根へ根へ『だんだん降りてゆく』よりほかない」「前プロレタリアートの感情」への潜行と、近代日本の否定による肯定、という奇妙な課題をふたつして止揚することによって、谷川雁は「薄明の力学」と美学を手に入れたのだし、またそのことによってこそかれは《瞬間の王》たりえたのであるから。ふたたびいおう、谷川雁という詩人はやはり《革命》というくらい夢のなかにさまよいつづけているひとのようである。そして夢はいつまでも覚めることがない。 伝統と解釈 安東次男試論 〈詩の解釈〉ということばに、ふいにわたしはつまづく。わたしはひとりの詩人のことを想い出す。この夏、突然逝去した安東次男氏のことである。 安東次男の詩に出逢った当初、十数年前のことになるが、じつはわたしは、この詩人とそのことばがめざしている方位、あるいは指向性がさっぱり解らずに頭を抱え込んだことがある。というより、安東次男という詩人がわたしたちに示した多彩な方法論とその時代認識のもつ意味あいを解することができずに、いたずらに活字ばかりを追っていた、といったほうが正しいだろう。わたしはいったい何度、思潮社刊の『現代詩文庫36・安東次男詩集』に収められた詩集『六月のみどりの夜わ』(一九五〇年)をくり返し読んだことか、詩人の手によって幾度も改訂を重ねられた詩集『CALENDRIER』(一九六〇年)の作品の一篇いっぺんを陶然と味わったことであろう。しかし当然のことながら、詩の解釈というものは、表現されたことばの奥に潜んでいるひとりの人間の歴史を全的に確信する体験の謂いであって、何度その作品をくり返し読んだかなぞといった半端な、数量的なことなぞで決定されるものではけっしてない。いわんやすぐれて審美的に組織された言語世界と、世界の存在理由をとことん問いつめようとする思想の垂直性によって戦後詩人のなかでひときわ異彩を放っている安東次男の作品が、思いつきめいたなまなかな思索にその解釈と鑑賞をたやすく許すことはあり得ない、と断言してよい。 安東の作品がわたしを悩ませたのは、それはなにも詩集『六月のみどりの夜わ』で詩人が用いた独特の表音式かなづかいや、たとえば「花々」や「緩衝地帯」などの初期詩篇にうかがえる語り口のもどかしさに閉口させられたためという理由ばかりではなかった。独裁的な権力に呑みこまれることでしか生きていくことのできない民衆の生き様を鋭く撃つ政治的な発言や、発表される作品ごとに古典文学への親炙を深めてゆく詩人の美意識にたいしてはそれでもなんとか共鳴できていたように思うのだが、それまでわたしが親しんできたいくつかの戦後詩からは感じることのできなかった視線のふかさ(?)に、わたしはとまどった。あらためて後で記すことにしたいが、『荒地』の詩人や、『列島』の詩人らの提唱したプロレタリア・レアリズムの方法論の域からもひとりはぐれて、無手勝流でひたすら自分の作品を書きつづけた、というようないわば「もの狂い」「風狂」のおももちすら感じられたのである。「目の終つたところから視線は始まる」(「氷柱」)という安東の作品はながくわたしの解釈と鑑賞を拒否しつづけた。より正確にいうならば〈詩の解釈〉ということの意味と残酷な愉しみを、わたしはまだ知らずにいたのである。 きみらわやるだろう すこしばかりの慈善事業を。 公園の朝の手品師がやるように 金貨の手品をやるだろう。 血色のわるい寝不足の顔に うす黄いろい歯をむきだして 鼻の穴から押しこんで ぽいと口からとりだしてみせたり 腕のなかえもみこんで 耳の穴からとりだしてみせたりするだろう。 そして正真正銘の 金貨であることを證明するために 擴げた掌のひらのうえにそれをのせて ゆつくりとうらおもてを見せてまわり 最後に一歩退つて 用心ぶかくうたぐりぶかい目で ゆくところまでわとまらぬ 民衆の狂気のまえで そいつをひらひらさせてみせるだろう。(「黄金風景」) 強烈なイメージが次から次へと間断なく繰り広げられて一幅の絵を、あるいは一篇のものがたりを構成してゆく。そして、そこに詩人の見つめる社会と人間の姿が立ち現れてくる。それが当初の安東次男の詩の生態であった。無惨なイメージの剣を小手に構えて、それで読者の側に詰め寄ってくるような観があった。うかうかしているとばっさりとやられてしまう。「きみらわやるだろう/すこしばかりの慈善事業を。」詩人は「公園の朝の手品師がやる」ような「金貨の手品」めいた資本主義経済機構の鞭をふるう資本家と、「用心ぶかくうたぐりぶかい目で」それをみつめる「民衆」の、「ゆくところまでわとまらぬ」「狂気」の光景をいくぶん離れたところに身を置いて眺め、わずかばかりの感傷も同情もいっさい棄て、荒削りのことばを残酷なイメージの端に乗せ、これを描くことをしている。 「この詩のもつドーミエ風の冷笑的なユーモアは、むろん当時のこの詩人の社会観照に根ざすものではあるが云々」と『現代詩文庫』巻末のエッセイのなかで安藤元雄氏は記しているが、じつにうまい喩えだと思う。しかしここで目をとめるべきは「ドーミエ風の冷笑的なユーモア」の質でも、決定的な社会的階級の矛盾を衝く「社会観照」の鋭さでもなく、その発語にさいしての詩人の決然とした態度でなければならない。安東次男の詩にはそのもどかしげな発語の様子に反して、その内側には、なにやら生体解剖でもするさいのメスの動きを思わせるような冷徹な、あるいは決然とした身構えと立ち居ふるまいをよしとする詩人の姿が潜んでいる。 安東次男の代表的な評伝のひとつである『芭蕉』(一九六五年)のなかに、詩のことばの本質についてふれた次のような文章がある。 「詩と詩でないもの、本質と本質でないものと言ってもいいが、はたしかに存在していて、それがなければ生きていることが第一無意味になってくるが、何が詩であって何が詩でないかを、言うことはきわめてむつかしい。いうより、ほとんど不可能にちかいだろう。古人はその辺のことがよくわかっていたらしく、およそ道芸の書と呼ばれるものを読んで気のつくことは、その点に触れたものを見ないことである。不毛の論には、けっして決して近づこうとしない。そのかわり、どういう状況でなら、どういう工夫をすれば、詩、つまりものの本質が見えてくるかということは、きわめて的確かつ実際的に説いている。道芸の道芸たるゆえんである。」(『秘すれば花』) ここでいう「古人」とは能楽を芸術の域にまで高めた中世の能楽師、世阿弥のことであり、「道芸の書」とはすなわちその能楽論書『風姿花伝』のことに他ならない。安東が、芭蕉の俳諧と、あるいは無常かたちのようなものを論じていくうちにたどり着いたのところがこの能楽者の説いた孤高の美学であったようである。 わたしが面白いと思ったのは、安東が、詩を「ものの本質」としながらも、それを「道芸」と呼んでいることである。そして「ことばによる詩心の表現というものは、本質的に未練なものである」と、まさに表現者としての苦悩と覚悟のせめぎあうところまで告白していることである。わたしもさいきんの詩が「意味論」とか「機能論」とかの枠のなかでのみ語られることへの疑問といらだちを感じている。詩は、しんじつあらたな意味を構成する〈装置〉として存在するのか。詩のことばとは、断とうにも断ち切れぬ愛憎や孤独といった情感、繰り返される生死の営みや、あらゆる禁忌へのあこがれと未練といったものをこそ詩としてその本質を見せつけるべきものではないのか、と。安東次男は言う、わたしに告げる。能楽や俳句や和歌がそうであるように、詩もまた「未練な」「道芸」のひとつでり、「道芸」であるがゆえに「それがなければ生きていることが第一無意味になってくる」「ものの本質」たりえるのである、と。 安東次男がわたしたちに示した論は、凡百の詩論、文学論にも見られない「きわめて的確かつ実際的」な、美の本質論となりえている。安東次男の詩にみることばと思想の豊饒の原点には、単なる政治的な志向や文学的意匠なぞは存在しない。そこにはひろく西欧文学のみならず、芭蕉や蕪村の世界をさらに遡り、西行や定家、『古今・新古今和歌集』や『万葉集』、記紀にまでたどり着くわが国の言語世界への、もの狂いめいた執着と格闘があった。ことばに対する未練があった。あらゆることばの歴史をひたすら吟味してきたもののみにあらたな言語世界の解釈と創造が許されていた、ということができる。 地上にとどくまえに 予感の 折返し点があつて そこから ふらんした時間たちがはじまる 風がそこにあまがわを張ると 太陽はこの擬卵をあたためる 空のなかへ逃げてゆく水と その水からこぼれおちる魚たち はぼくの神経痛だ 通行どめの柵をやぶつた魚たちは 収拾のつかない白骨となつて 世界に散らばる そのときひとは 漁 泊 滑 泪にちかい字を無数におもいだすが けつして泪にはならない。 (「みぞれ」全行) 詩集『CALENDRIER』連作の作品のひとつであるこの作品は、語彙の用い方やそのメタファーの特殊性によってシュルレアリスト・安東次男の最高位に位置する。またなにもシュルレアリズムの作品と限定せずとも、ここには安東次男の世界観とその歴史観、まさに「目が終わったところから始まる視線」がおだやかなことばづかいでうたいあげられていて、詩人の放つ「視線」のあざやかさと確かさをわたしたちに伺わせるものとなっている。 「地上にとどくまえに/予感の/折返し点があつて」という繊細かつ緊張感をはらんだこのうえなくうつくしい詩語が暗示しているものは何であるのか。なぜ「予感」は「折返さ」なければならなくなったのか。作品を読み込んでいるうちに素朴な疑問がつぎつぎに湧いてきて、わたしをいよいよ混乱させる。こんなところでわたしじしんの無知を披露してもしかたがないのだが、この「みぞれ」という作品もまた、詩人がその脳髄におさめた古典文学のどこからかその断片を牽いてきているのではないか。わたしじしんは作中にちりばめられた「目」「泪」といった語彙の関連性とどちらも晩春歌(詩「みぞれ」は三月に寄せられた作品である)であることなどから、これは芭蕉の「行春や鳥啼魚の目は泪」の句からいくつかのヒントを得たものではないかと考えているのであるが、いかんせんそれを立証するべく自信がない。鴻学の教えを請いたい。 いや、わたしの疑問のことなぞどうでもよろしい。肝心なのは、「みぞれ」は喪失の唄である、ということである。いや安東次男のすべての詩作品は二十世紀というくらい歴史と世界にたいしてどもりながらも発せられた弔歌であったということができるのである。 安東次男の詩的出発は、多くの戦後詩人がそうであったように、愚劣な戦争と敗北、終戦後の混乱した日々にあった。戦争によって壊滅したのは市街や、うつくしい野原だけではなかった。強大な軍事力と帝国主義的政策によって〈アジアの列強〉たらんとした日本人の誇りと希望そのものがまさに「灰燼の中に」燃え尽きてしまったのである。日本がその歴史において、おそらく始めて体験した実質的な挫折の痕から再び立ちあがろうとするとき、若い精神は「日本には中途半端なところから始めてよいものなど一つもないのである。すべてのものを第一歩から築いてゆかなければならない。焼け残ったものは焼き払うべきである。すべて灰燼の中から始めるべきだ。」(鮎川信夫)という悲壮な決意を必要としたのである。戦後、詩人が断絶された精神と情感を声低くうたうためにはじつに様々なことばの実験を繰りかえさなければならなかった。鮎川のこのことばは、エコールを越えて、あらゆる戦後詩を懐胎するためのマニュフェェストであったといえる。 安東は岡山県の出身であるが、原子爆弾によって壊滅したという広島の地へも足を運んだのであろう。「おれたちの腹は孕み女のそれのようにふくれかえり、/臍からじゆくじゆくと油を垂らす。/その量がやれ多いの少ないのと騒々しいこと。/ひとの拭いたところをまた汚したといつて喧嘩すること。/それがおかしいといつて/あばら骨がすいて見えるほど苦しげに笑いこけること。/もうおれたちには恥部なぞかくす必要はない。/それにかかずらわつている余裕もない。」(「死者の書」)と直視に耐えない光景を記録している。しかし安東のとった記録の姿勢は関根弘や浜田知章ら『列島』グループの提唱したいわゆるプロレタリア・レアリズムの方法論とは現実認識の政治的な差異によっておおきく異なっていた。すなわち関根、浜田らが描くべき対象の断片を批判的に把握し、それをあたかも一枚のモンタージュを作りあげていくような尖鋭な方法論に立っていたのにたいし、安東はむしろみずからの五感によって得られた感覚のみを現実とみなし、本能的な語感によって作品が作りあげられていく、吉本隆明が「見えない思想」(『戦後詩史論』)と呼ぶ無意識的な方法論によっていたといえる。政治的主張は描かれたことばの奥底からしだいに浮かびあがってくるものとしてあった。 倫理的あるいは歴史的な解釈の揺れはあるにせよ、凄惨をきわめた「現実」はそこにあったわけであり、それは有無をいわさぬ「日常」としてかれらの前にあったことは確かである。それこそが安東ら戦中世代に課せられた「日常風景」だったのであり、そこに異常とか狂気といったものを感じとる以前に、生きていくためにその状況に適応していく必要があった。そしてその状況下においてこそ、まさに皮膚感覚にそくした同時代観、歴史観が決定されたはずである。 建てられたこんな塔ほど 死者たちは偉大ではない ぼくは死にたくなんぞないから ぼくにはそれがわかる ところでなぜぼくは こんなところに汗を垂らしてうつむいて いるのだ一篇の詩がのこしたいためか 似たりよつたりの連中のなかで 生れまれもつかぬ片輪の子を生んで俺の 子ではないとなすりつけ あいたいためかぼくにはそれがわかる 建てられたこんな塔ほど 死者たちは偉大ではない。 (「碑銘」全行) 「みぞれ」とおなじく詩集『CALENDRIER』連作の作品のひとつである。これは詩人みずからがどこかで述べていたことなのだが、この作品は一九六〇年六月一五日の安保改訂阻止国民会議全国統一行動にともなっておこなわれた全学連のデモのさいに東大生樺美智子が圧死した事件を記念して書かかれたものであるという。「政治嫌い」の詩人の発したアンチ・テーゼというべきか。事件は六月であり、作品は八月に寄せられているのだが、これにはどのような趣意があるのであろうか。重ねて鴻学の教えを請いたいところである。 安東次男は最初から最後まで「もの狂い」「風狂」の詩人であった。最初期の表音式かなづかいともどかしげな語り口から後期のつつましやかで端整な語り口へのすみやかな移行は、感覚の詩人である安東の追いつづけた「目の終つたところから始まる視線」の現れではなかったかと、わたしには思える。戦争と敗戦と、その後に営々と続く「日常」を生きていかねばならない人間の悲喜劇のうちに安東次男が見たものは〈存在〉ということの痛みとその不安の影ではなかったか。〈建てられたこんな塔ほど/死者たちは偉大ではない〉と死者をたてまつることをしないのは詩人がその生の重さを知っているからであるし、つづいて〈ぼくは死にたくなんぞないから/ぼくにはそれがわかる〉と死の非情であることをじつにあっさりと歌いあげることをしているのもこの詩人の「視線」のふかさをうかがうにたるものである。 過ぎ去ってゆく日々のなかでわたしたちはいったい何を掴みとっているであろうか。あるいは何を喪っているのであろうか。それは愛であり、思想であり、あるいは生命であるだろう。いずれにせよそれらのものが時間の流れのなかで喪われ再生産される循環を、わたしはとりあえず伝統と呼ぶだろう。安東次男がそのくらい視線で見つめていたのは戦後の荒廃した日本の精神と断絶したその言語世界の伝統であった。安東次男は古典文学の「痛み」と「不安」の伝統の継承をその詩のうえにおいて実践していた数少ない戦後詩人であったが、そのすぐれた仕事をふたたび見られなくなったのはほんとうに残念なことである。 〈生死の証〉をうたった詩人たち 大野新試論 高見順による『死の淵より』などの詩集におさめられた詩編には、その表題が示すとおりの病と死の淵にある男の激しく動揺する心の動きそのものが生々しく描かれている。不治の病にみまわれた我が身の不運を嘆き、音もなく間近まで忍び寄ってくる死の足音におびえあてどもない怒りに駆られる心のうごめきが何の気負いもてらいもなく、ときには一流のユーモアさえたたえてうたわれている。高見順は食道を癌に侵されていた。 たえず何かを 望んでばかりいた私だが もう何も望まない 望むのが私の生きがいだった このごろは若い時分とちがって 望めないものを望むのはやめて 望めそうなものを望んでいた だが今はその望みもすてた もう何も望まない すなわち死も望まない (「望まない」全行) 「もう何も望まない」という生への諦念と最終行「すなわち死も望まない」という生への妄執、この相反する〈望み〉をかかえて揺れる高見順の心の痛みが、わたしにはよくわかる。 よくわかる、などと言い切ってしまうといかにも傲慢な感じするが、生まれながらに抱えこんだやっかいな病気のために、それこそ〈死の淵〉とこの世との間を何度も往復してきたわたしじしんがつと漏らす感慨でも、これはあるのだ。「望めないものを望むのはやめて/望めそうなものを望んでいた」という妥協めいた諦観は、やけっぱちのように思われる向きもあろうが、すべての物事を諦めたというわけではなく、絶望の淵にいたって限りなくささやかな可能性に一縷の望みをかけたいと思う人間の、これは切なる生へのまなざしである、といっておこう。 大野新氏の詩についてわたしなりの考えを書こうとしていきなり高見順の話になってしまったが、もちろんこれは理由のないことではない。先日大野氏の作品をまとめて読んでいたら、ふいに高見順の詩を思いだし、あわてて書架の奥底から講談社刊の『詩集死の淵より』を引きずり出してきて読み返してみた。それからしばらく茫洋ともの思いに、わたしは耽った。そして、はたと気がつき、くらい驚きにちいさくからだを震わせた。このふたりの詩人には、いくつかの共通するくらい符号が認められるのである。 ひとつには、それぞれの病によって生命を脅かされた極限の体験と、そしてそのことを根拠としてあるいは契機としてことばに立ち向かうことになっていったというやはり共通の経過がある。むろん高見順の場合は、戦前における『故旧忘れ得べき』、『如何なる星の下に』、あるいは戦後の『いやな感じ』などの小説により、すでに「昭和という時代の前半を一身にシムボライズした作家」(久野収)あるいは「最後の文士」と呼ばれるまでの文学的成功をおさめていたが、それらの評価は小説家としての高見順に附されたものにほかならない。かれが詩を書くようになったのは食道癌にかかってからのちのことである。 また、大野新氏も、戦後のおびただしい朝鮮からの引揚者のひとりとして貧窮をきわめた生活のなかで結核に冒され、およそ七年間におよぶ療養所での生活を余儀なくされている。このことが大野氏をことばに立ち向かわせるようになった、いわば原体験となったであろうことはいうまでもない。そしてこのふたりの詩人の生と死にたいする過酷なまなざし、諦念という概念を通り越した強靱かつしなやかな精神の息づかいのありように、奇妙な共通点をわたしは感じずにはいられないのである。 肺葉を水びたしにし ちっそくして かげのうすい男は死んだ かすかな鼻翼で生をつまみあげたのだ むらさきがかった顔のうちがわに 蜘蛛の糸のしたたりがみえる それをつたっていけばこの男の行ったさきはわかる そこでも埃がふきあがっているだろうし そこでも冥加のうすい男はひくい軒先からあるきだす だろう そこでもすれちがう気配で 例の目をそらした挨拶をするだろう 生と死との見さかいのつかなかったあいつは やはりまぎらわしい死にかたをする (「かげのうすい男」) この作品には〈肺水腫で死んだTよ〉という副題が附されている。すなおに読んですなおに解釈をするならば、くらい青春をともにした同病者の死にさいしてしるされた一編のレクイエムということになるのであろうが、しかし、冷静にこの作品を読んでみれば、大野氏はけっして「肺葉を水びたしにし ちっそくして」死んだ「かげのうすい男」Tの非望の死を嘆き、亡き友を偲んでいるのではないことがわかる。大野氏の、存在にくたびれた感傷はTの死という現象にたいしてではなく、「生と死との見さかいのつかなかった」生涯をたどらざるをえなかったかれの悲劇にたいして、ぎこちなく向けられている。あざといほどにいたましく、滑稽なほどにひたむきな生のとばしりとあらゆる非在としての死が峻別されぬままに「まぎらわしい死にかた」を強いられている人間の不幸に、大野新はふかく絶望しているのである。 「死について」という作品を見てみよう。 Tの死はちがった。ふっくらとした頬は、いまや、骨にそってかたいくぼみかたをしていた。眼窩のかげ。それにこめかみの部分の凸凹。顔全体が紫にみえた。私は平手うちのような拒絶をくらっただけだった。悼みというのは生から死を連続的に考えることから生じる想いである。悼みではなかった。私は後方へはじけとんだだけだった。それでいて、私のどこから嗚咽がはじまったのか、私は知らない。学生時代をのぞいて、私はこの時以外に泣いた記憶をもっていないが、この激しい嗚咽はとめどなかった。息をおさめる間のない波におそわれて、私は両掌を畳につけたまま、からだをゆさぶってくる激動に耐えていた。そう、じゃけんな手で倒されて大声あげて泣く幼児のようなものだ。何を考えていたわけでもない。そのしゃくりあげる頻度が規則的になって、はじめて、私は周囲の人に気がつくありさまだった。皆、もずもずして、居心地悪そうであった。彼等にとって、Tの死は、単なる事件にちがいなかった。そして、私にとってそれはどういう証であったろう。 Tの死は、大野氏にとってよほど激しい衝撃をともなった事件であったようである。「Tの死はちがった」。ひくくうめくような声で大野氏は語っている。 療養所のなかでなかば日常的なものになっていたであろう病者の死にふれて、「平手うちのような拒絶をくらっただけ」「それでいて、私のどこから嗚咽がはじまったのか、私は知らない。」とかれはいっている。この奇妙な、それこそ病的といえるほどの反応を大野氏が示したTの死とはいったいどのような〈証〉であったのだろうか。 大野氏はこの作品の冒頭において「死について語ることほど至難にみえて、その実安逸な精神はない。」と記し、ついで幸田文の『終焉』という作品から、父露伴が仰臥したまま文に「おまえはいいかい」と問いかける部分を引用している。文は「はい、よろしゅうございます」と答え、「じゃあおれはもう死んじゃうよ」という父の声によって父の死を了解するのであるが、大野氏はこの場面について「今読みなおしてみると、どこかに『いい気なものだ』という思いがある」と告白している。「死んでいく人は、石ころのように遠ざかるだけだ。残されたものは厖大な記憶が記憶として固定されてしまったことに気づき、あわてて生者の目として記憶を再構成するのである。」と大野氏はいう。 抑制の利いた日本語で語られたこの詩句はめっぽう面白く、わたしの歓心を惹きつける。とりわけ「残されたものは厖大な記憶が記憶として固定されてしまったことに気づき、あわてて生者の目として記憶を再構成するのである。」というくだりは、わたしたちがふだんいかに死という概念からぼんやりと遠ざかり、「厖大な記憶」を無意識のうちに積み重ねることによって日常さえをも「再構成」してしまっていることを気づかせてくれる。極限の状態にいたってなおあらゆる真実を韜晦しようとする冷静無比な男の語り口がここにある。しかし再構成しようにもしきれず、ついに「悼み」にもならなかったTの死を前に、大野氏はいかにも「もずもずして、居心地悪そう」である。 「異常さをだれもがもてあます環境にはちがいなかったが、その翌晩、看護婦が私のベッドにしのんできたものだ。そして、私は、死からはじきだされたそのままの勢いで、生の猥雑さのなかにころげおちていった。」 「死について」という作品はこのような印象的な詩句で閉じられている。韜晦の詩法でもって知られる大野新の認識とレトリックの妙を見ることができる文脈の一部である。 なるほど死という概念ほど猥雑な要素をはらんだ概念はないであろうし、またわたしたちの生の猥雑さのとなりにはつねに死の陰がひっそりと寄り添っている。Tの死という「異常さをだれもがもてあます環境」にあって「私」は、「猥セツな看護婦」とともに「生の猥雑さのなかにころげおち」ていく。そして、「死からはじきだされたそのままの勢い」でたがいの性をむさぼりあう男女のくらい姿には、まさに〈死の淵〉をかいま見てしまった人間の生への不安がある。不安という名の生の充足があると言い換えてもいいだろう。わたしたちの存在そのものがすでに「猥雑さ」を極めているのである、わたしはいつもそのように考えている。「異常さをもてあます」状況を織りあげているかれらのあらぶる性のいぶきは「生から死を連続的に考えることから生じる想い」を絶ちきるものであり、ついにそれは「悼み」とはなりえなかったのである。 大野新のことばはしかし、存在の不安、その猥雑さを韜晦することはない。看護婦と患者のくらい交歓によって、Tという人間が存在していたということ自体を忘れ去ろうとしているのである。前掲「かげのない男」の終盤では、「おれはあいつ」の「蜘蛛の糸のびらびらをとって/足も背ももたないマンホールのなかへ/つきおとしてやれる」と続き、さらに「あいつとはそれっきりになりたいことだ」といいきっている。いかにも酷薄なことばのようであるが、これは生者から死者に向けられるあらゆることばの裡で、もっとも深い慈愛を含んだ訣別のことばではないか。死者を「厖大な記憶」の裡にひきとどめておくのではなく、記憶の彼方へと「つきおとし」解放してやることによってひとつの「悼み」とする。韜晦ではなく、ここに大野新のゆるぎない生死の〈証〉を見る思いが、わたしにはある。 さらにもう一点、大野新氏と高見順の詩の共通点をあげるとすれば、かれらのことばのほの白さをはらんだような平明さにある。そのことばと思いの無垢にある、といってもいいだろう。 そうだろう なんの約束も報いられないのが本当だろう。 運転中の事故で死んだ息子の財布には スキンがはいっていた。 これはどんな約束のあかしだったのだろう。 私は三日間息子の頬をなでた。 父親だからだと思っていた。 私は私の父の死に顔を撫でなかったから。 火にいれるまえに 私は息子の頬を小さく撲った (「約束」全行) 「大野新の比喩は、肉体の疾病と強く結びつき、それはほとんど肉体そのものとなっている感がある。たとえば、私を驚倒させた一句。(中略)そしてそれは、ときに、表現の豊饒より、表現の過剰を感じさせることがある。なぜなら、詩の読者の多くは疾病を知らず、生のこちら側に立っているからである。ところが、無防備の、彼のもっとも柔らかな部分を襲われるとき、彼の比喩は疾病を解除され、生のこちら側に身をよせるのだ。そのとき、ゆえなく発語が無垢を、平明さをよぶのである。」 詩人・杉本春生氏は、「隧道の思想・家系の断絶」と題した大野新論のなかで、大野氏のことばの平明さの理由についてこのように推理している。「詩の読者の多くは疾病を知らず、云々」というくだりについては、詩は生死を追体験する文学である、と考えているわたしとは意見がすれ違っているが、それは仕方がないことだろう。しかし、生死の狭間に立つことによってあらゆることばが痛ましいほどの柔らかさを帯びてくるという化学反応(?)にたいする杉本氏の言は、わたしも頷くところのものである。 私たちの生には、いかに多くの痛みと別れに充ちていることだろう。病や、肉親や愛する人の死を通して、わたしたちはくらい「死の淵」に生き残る。そしてかれらとともに生きた日々の証をつれづれにことばに託そうとするとき、あらゆることばは無垢の輝きをしずかに放つのである。生命と魂のありようを賭したことばたちは、高見順や大野新氏らがそうであったように、まさに「死の淵より」湧きいずるのである。そしてそこに、わたしたちはきらめく〈生死の証〉を見ることができるである。 血と土俗のパラダイス 清水昶試論 なぜか、〈叙情〉ということばが嫌いである。いや、このことばになじめない、といったほうがわたしの裡にある感覚により近い。キャンディーを舐めたあとに口の中に残るあのべたべたし感じ、というのか、時雨が降るか降らないのかわからない梅雨時のぐずついた天気のような鬱陶しさというのか、とにかく詩を書き始めるいぜんからわたしは、この〈叙情〉ということばに対してかすかな敵意さえ感じていた。 ちなみに〈叙情〉ということばを三省堂刊『公辞林』(第五版)で牽いてみると「自分の感情を言い表すこと」とあり、続いて「〜詩」として「詩の三大分類のひとつ。対象によって呼び起こされた、純粋な感情や気分を主観的に表現した詩。云々」とあり、思わずわたしはげんなりとしてしまう。「詩の三大分類」のあとの二つは、どうやら叙事詩と劇詩であるらしい。たしかにわたしも、それが純粋であるかどうかはともかくとして「感情や気分」をことばに託することをしている人間ではあるが、わたしの書いたものがはたして〈叙情詩〉であるかどうかとなると、人の心の機微にくらいわたしとしては、これは相当に怪しい。情けないけれど、自信がもてない。 とにかく〈叙情〉なぞという訳の分からない概念からはできるだけ離れていたいと思うわたしの脳細胞は、かなり不幸にできあがっているらしい。 しかし、この偏屈なわたしをあまやかで残酷な〈叙情〉の異境に導いていってくれるいくつかの〈叙情詩〉がある。清水昶氏の詩作品もそのひとつである。 どこへ行こうとしていたわけでもない なにを信じていたわけでもない 冷ややかな口づけは花やいだ世界を封じ たゆたう血潮を閉じこめるひとつの夜に 息をひそめて忍んでいくとき 初潮のように朝が来る! 生活の髭を剃り落とすたしかな朝 きれいなタオルを持った少年は わたしの背後にひっそりとたち 決してふりむくこともなく老いるわたしを いつまでも 待ちつづける (「少年」) ここには紛れもない「対象によって呼び起こされた、純粋な感情や気分を主観的に表現した詩」の世界がある。 「対象」は「どこへ行こうとしていたわけでもない/なにを信じていたわけでもない」まま「たゆたう血潮を閉じこめるひとつの夜」にゆきくれている「きれいなタオルを持った少年」であり、「純粋な感情や気分」とは、ここでは「決してふりむくことなもなく老いるわたしを/いつまでも/待ちつづけ」ている「少年」の、古武士のそれのような慄然とした決意である、と読み込むのはいささか強引にすぎるだろうか。そして「少年」は「老いるわたし」の影であり、詩人はこのふたりによる〈二重話法〉によって、みずからの出自と「たゆたう血潮」、すなわち血縁と土俗をめぐる苦悩をみずからの生に「閉じこめ」てゆこうとする苦い決意を巧みに、そしてすぐれて「主観的」に歌いあげることをしている、とわたしは読んだ。より正確にいうならば「主観的」ではなく、「即自的」にというべきであろう。思うがままにうたうというのではなく、無自覚な、あるいは開拓されていない自我を客観的な視座から照射することによって、まさに未明の少年の姿、すなわちみずからの姿が立ち現れてくるのである。これが、〈叙情〉の方法論である。はじめてこの作品を読んだ、かつての「少年」だったわたしが浴びた夢心地みたいな感動は、今も忘れることができない。 清水昶の詩を険しく彩っている〈叙情〉は、おおかた〈叙情〉ということばのもつたおやかで憂いに充ちたイメージからかけ離れた昏さと重さに充ちている。そしてそれはじつにくっきりとした傾向をもってかれの作品のうえに現れている。ひとつはみずからの出自と来歴を問いただす問題、すなわち血縁と土俗にまつわる問題であり、その背景には、清水氏の、少年時代にあとにした故郷への郷愁と、国家と時代に翻弄された父親に対する畏敬と憐憫の念のないまぜになった愛憎劇がある。今ひとつは故郷を棄て今は首府の喧噪の中に漂うように生きている清水氏の〈故郷喪失者〉としての屈折した心理である。 「東京の中野に生まれたわたしがまだ小学校に入学する以前、陸軍将校であった父が公職を追われ、やむなく山口県の萩に近い村落に一家は移住した。もしわたしにふるさとと呼びうるものがあるとしたら、幼くして体験したこの村落がそれにあたる。この村落の特徴は山と峡谷にいくえにもとりかこまれていて米作りが主な現金収入であったが土地は痩せていて、富農の数件をのぞいてみなどの家も一様に貧しかった。特に、よそ者として棲みついたわが一家に良い土地など残っているはずがなく両親は荒地をひらいて畑にしたり、山間のほとんど陽のあたらぬ土地を買って水田にしてかろうじて生計をたてていた」 エッセイ「倒立したユーモア」の一部である。清水昶は他のエッセイや詩の中でもくりかえし、もっとも苦しかったであろう〈山口県阿武郡むつみ村〉での生活のありさまを告白している。粗末な棲み家と貧しい食事、不気味な風土病、沈黙に等しくおおきく見えた父親の背中とその影に見え隠れしていた母親の細い影、それら郷愁と憎悪の同時に伴う幼少年時代の記憶そのものによって清水昶の未明の〈ふるさと〉は形成、あるいは補完されつづけているのではないか。喪失感と生の痛みを伴って想起される幼少年期の体験は、すでに壮年期をも過ぎ越そうとしている清水氏の内側に烙印のごとき原体験――〈トラウマ〉とでも呼ぶべきであろう――を形成し、かれの描く郷愁と〈叙情〉の世界をより暗く土臭いものとして見せつけることをしている。 全身の封鎖をほどくため 世のながれにさからって逆上する 男は ねじまがる指を組織して 明滅する瞳の領土をよろめいてゆく 妹が産卵する不安な卵を踏み潰し 土に埋もれた父たちの 悲鳴でそよぐ林に迷い 神の性器を釘づけにして 一夜のうちに何日も消息を絶ちながら 細胞のように生き変わる夜明けを信じて 不信にひえる裸の夜を歩いてゆく それからだ いつものわたしがはじまるのは (「遠い血のために」) 〈家〉の構造をめぐる原初的な問いがめくるめくイメージの連鎖によって巧みにうたいあげられている。〈家〉は、人間が構成する社会の裡でもっとも小さな形態のひとつであり、構成員同士の絆は固いが、それ故にそこから逸脱しようとするものの存在を許さない堅固な掟がその形態になじまないものをとことんまで苦しめることになる。世界と血縁に対する「不信に冷える裸の夜に」、「ねじまがる指を組織して」、「妹が産卵する不安な卵を踏み潰し」、「土に埋もれた父たちの/悲鳴でそよぐ林」で「神の性器を釘づけ」にする。この「世のながれにさからって逆上する/男」(これはまさしく清水氏じしんであろう)の一連のシチュエーションは、かつて人間と神の境目がさだかでなかった神話時代のそれであり、ここに描かれている情景はたとえていえば〈血と土俗のパラダイス〉となっている。それは、限りなく陰惨かつ晴れやかな情動であり、ひとつひとつの行為が非日常的であることによって日常性を帯びてゆくもっとも原初的な精神の広野である。〈家〉にまつわる酷薄な意識によって組織された「ねじまがる指」であり、「不信に冷える裸の夜」である。それ故に土俗の苦さを夜毎確かめたのちに首府をさまよい歩く「いつものわたし」に戻ってゆく、という、儀式めいた秩序さえ用意されているのである。 いずれにしてもうんざりするほど前近代的かつアジア的なテーマを清水昶は選んで(選ばれて)いるようである。さらに清水氏の詩の揺籃期ともいえる京都での生活が一九六〇年代後半から七〇年代にわたる数年間にあたっていて、この戦後日本の資本主義経済の地盤に激しく揺さぶりをかけていた政治的運動の激しいうねりのただ中にあった清水氏の若い感性もまた昏い時代の揺さぶりにかけられていたであろうことは想像に及ばない。 血縁だの土俗だのといったいかにもアジア的な思考のモードは、じつをいえば、わたしじしんはにがてなのであるが、近年はずいぶんぼやけてきたものの家父長制度や〈ムラ〉に代表される共同体意識といった古来からの文化、風習を持つわが国において、それはむしろごく自然に発生する問題としてわたしたちを取り囲み、無視することはできないものとして遍在している。ドストエーフスキーやフォークナーの沈鬱な世界を深く愛し、古事記、日本書紀の世界から柳田国男や中上健次らの土俗にまつわる思想と文学をはぐくんできたわが国の精神文化のあり方をかんがみてみれば、あえて疑問を差し挟む余地はあるまい。おおかたの読者の裡にも普遍的に存在するであろうそんなアジア的あるいは原初的な心性を清水氏がどれほど計算に入れていたか知るすべはないが、しかしかれのことばはいがいなほどに都市的なムードに覆われている。これはどういうことなのか。 瀬尾育生氏は『「戦後詩の路上」についての素描』というエッセイのなかで、みずかららの詩的感性キャンバスとなるべき「白紙」の状態を現実の地理のなかのどこに投影するかということ、つまり「大地」をみずからの「白紙」とするか、「路面」をそれにするかということは、そのひとの詩的感性にまったく異なった倫理的骨組みをあたえることである、としながら、 『失われつつある世界規定である「大地」を自らの白紙とする詩人たちは、たとえば黒田喜夫が典型的にそうであるように、それだけですでに世界の現在の動勢にたいして極度に否定的で倫理的な感性の秩序を作品のなかに組み立てることを強いられた。清水昶の詩の鮮烈な出現と衰退もこのことにかかわりがある』 と述べている。さらに瀬尾氏は 『高度成長期は農村のエートスのもともとのかたちをすでに解体していたから、ムラの倫理はもはや農村よりも、消え去ろうとする農村からの強迫観念を受け取って、大地や自然を根拠として聖化しつつ都市のなかで語られる言説のなかにもっとも純粋に、強迫的に保存されていたといえる。清水の詩のなかで農村的な情念は、イメージのきわめて都市的な重量と増殖の形式のなかで語られたのだが、都市とムラとの間のこの揺動を離れて、彼の詩が失われつつあるムラのほうへ一方的に荷担するにつれ、その詩のなかで大地や血が単相で強迫的な像をむすびはじめる』 と、清水の詩の〈都市対ムラ〉という二元論的思考のもろさを指摘している。 たとえば「だれがいったいわたしを起こした/辺境からさらに辺境へ星を追って流れた老父の笛か/息をひそめた村の廃屋で/笛のように荒涼と狂っていた少年の声か/火吹き竹であたためた臓腑の飢えの/刺し込むような痛い記憶か/ラ・メール海よ恋人よ」(「夏のほとりで」)といったメタファーに見られるモダニズム的傾向は否定しがたく、清水昶をしてすでに戦後詩のエポックのひとつにしてしまっているのかも知れない。 しかし、その「放埒な隠喩的イメージの氾濫」(北川透)によって清水昶は一九七〇年代の、〈ムラ〉の解体と否定性によって立つ詩的状況を象徴するに至ったことは記憶しておいてよい。皮膚感覚に富んだ個々のことばをランダムに連鎖させることにより、共通認識としての世界とことばの意味を解体させることをしてきた清水昶の詩句はいっそう濃密なアジア的な幻想のイメージを獲得していくことになるのである。 ※ さてここで、清水氏と並行するように幼少年期の記憶にこだわり、〈縁と土俗のパラダイス〉を描いてきた、もうひとりの詩人についてひとこと書いておこう。米村敏人のことである。米村は、清水昶をはじめ、佐々木幹郎、藤井貞和、倉橋健一らが刊行していた詩誌『白鯨』に遅れて参加した詩人であり、その作品は、一九七一年に詩集『鶏劇』としてまとめられている。「The Blue Father 1」という作品の一部をひいてみる。 父親よ 再び云うまいが あの青いサラブレッドにも似た あなたの秘められた強さは もうどこかへ行ってしまったのだ いつかの日の肩車 悲しい程しなやかだった肩の上は 世界のどこよりも高かった (中略) 父親よ あなたはどうしてそんなに青く美しいのだ 私とあなたとの ひきちぎれぬ肉の中で 怨みの子守歌を待つこともなく 黒田喜夫氏は米村詩集の跋文に次のように書いている。 「いわば敗戦とともに生まれ、一九六〇年代に二十歳をこえる青春をもったような詩人たちが面したものは、すでに帝国主義構造として再建された社会現実と戦後の時間をかけてなみなみならぬ形式の完成、思想詩の極みといわれるべきものを登りつめた一群の戦後詩人の世界であったと思う。(中略)つまり、彼らはそれらの申し子以外の何者でもなかったが、それ故に彼らは、即ち、解体を体現し、あるいは解体をめざしたことは当然だったといえる。それは彼らの生得の、充分に理由をもった一般的な顔付きをなすといえる在りようだったが、その解体の一般性は、即時的に例えば日本の地方、村、家、血といったものから切れているところにあると見えるのだ。ところが、何故かその一般性のなかで、異種な変種の、時を生まれ違えたかと思われるような、解体のある地方としての〈世界〉、われわれの村、家、血に、偏執した顔付きをみせている少数の〈時代の青春〉があり、云々」 いわゆる戦後詩人にあたえられたさいしょで最大の仕事は、「谷川(雁)、吉岡、吉本、長谷川、岩田、田村、鮎川、関根等」によって確立された戦後詩の形式と思想を克服しそれを解体していくことであった。先代の形式と思想の解体と再建の絶え間ない繰り返しによって、戦後詩の歴史はある。その解体の機軸となる思想、あるいは姿勢の持ち方の差異を「日本の地方、家、血といったもの」から「切れている」か否かによって見極めようとする黒田氏の見識にはいささかの疑問を感じないでもないのだが、そうしたアジア的な価値観あるいは思想を機軸に戦後詩の解体と継承を画した詩人はたしかに多くはいなかったようだし、黒田氏の史観を一蹴することはできないようである。そして米村敏人の詩は〈異種な変種」のきわだちとしてたかく評価されているのであるが、「われわれの村、家、血に、偏執した顔付きをみせている少数の〈時代の青春〉」という点において、これはそのまま清水昶に向けられた評価ということもできるであろう。 清水昶も米村敏人も前掲の瀬尾氏の発言に見られるとおり、『失われつつある世界規定である「大地』」に詩的「白紙」を求め「世界の現在の動勢にたいして極度に否定的で倫理的な感性の秩序」を組み立てることをした黒田喜夫、石原吉郎らの思想を踏襲しているのであるが、このアジア的な感性と思想の系譜はなにも清水、米村をもって立ち消えてしまったわけではない。 わたしたちの詩のなかにアジアはある。わたしたちの詩はどんなパラダイスを描いているのか、夜、うつろな目を開いて考えてみるのもいい。 詩は廃墟の中から 佐々木幹郎試論 詩は、書いたのちにいちど消された一行から始まる。 その一行が美しければ美しいほど、詩人の憤怒やあらゆる情感と思想とが凝縮されたものであればあるほど、その一行は詩人みずからの意志によって葬り去らなければならない。そして、青いインクの滲みの下に埋もれたことばの廃墟から、ふたたび光と闇に、それがどれほど惨めな光であろうとも、詩のさいしょの一行はみずからのことばの屍のうえに立ちあげられなければならない。・・・とかなんとかテイサイのいい理屈を並べたててはみたものの、こんな悲壮な決意表明は、いかにも今のわたしには似合わない。失うべきなにものもなく、ことばの復活劇にもあまり目を留めなくなったわたしなんぞがいうべきことではないだろう。けれどもやはり、詩は廃墟の中から生まれてくるべきものである、という信念のカケラだけはまだ残っているらしく、毎朝、目覚めのたびにあげる獣じみた自分の叫び声に、まだ見たことのないわたしじしんの影を見て、にやりとほくそえんだりしている今日この頃のわたしである。 さて、本題にはいろう。 一九六〇年代後半から七〇年代にかけて、血生臭い政治の香りといかにもアジア的な原風景への郷愁を曳きずりながら駆けぬけていった詩人のひとりに佐々木幹郎がいる。佐々木は、藤井貞和、倉橋健一、鈴村和成、米村敏人、清水昶各氏らと共に同人詩誌『白鯨』に参加していた若い詩人だったと、これはずいぶんのちになってから知ったことである。 ナロードの祈りに似た ねばい朝のミルクの 垂れてくる安堵の色つやをながめ 冴えわたる胸線一杯に 死の行為は重く 耳朶は光をおおい 噛み切られた一筋の黒糸のような黙祷のなかで 単眼は精神の円卓を巡る (「死者の鞭」) 荒れて闇! 刃にふれひといきに切れる血の ぬるい指をなめ 神経の畝を追う首がのびる ・・・コノ不運ナ市、コノ兎タチ おお 深い時代などあるものか 駆け過ぎる声 眼底におち ゆがむ土をのみこみ わたしの咽喉は いま 葡萄に似てくる凍原に暮れる (「荒れて闇!」) いくぶんアブストラクトなシチュエーシュンと、やはり重層的に(?)屈折したメタファー(修辞)のおかげで、描かれた詩のことばの〈意味〉を純粋に理解することはなかなか難しいが、詩は読者に理解を強いる文学ではないし、それぞれの読者が様々なイリュージョンの世界に遊んでくれていいのだから、問題はない。そんなことよりも、ほとんど暴力的ともいえる佐々木のことばの圧力と、その下で膨らみつづける昏い思想の相にこそ、わたしは目を留めたい。 詩編「死者の鞭」は全三章からなる長編詩である。六九年十月八日、『当時のベトナム戦争に反対する全学連のデモ隊の一員として、羽田弁天橋にいた高校時代の友人山崎博昭(当時京大生)が死亡。彼の残した「日記」のことばにショックを受け』(「過去についての断片」)、闘争の一週間後に書かれたものである。どんなことばが「日記」に記されていたのかわからないのが残念だが、佐々木氏や小説家・三田誠広氏らとともに〈マルクスの読書会〉に参加していた友人の熱い思いに充ちたことばに撃たれ、一気に描かれたほぼ二百行におよぶ作品である。佐々木氏は「この作品以後、もう詩は書かないつもりだった」と当時の心境を淡々と語っていて、「死者の鞭」はいわば亡き友へのレクイエムとして捧げられたものであることを明らかにしているが、むしろこの事件と作品が佐々木幹郎をいやおうなく詩の世界へと追いやり、やがて時代を象徴する詩人として活躍するようになるとは、人の世のさだめはわからないものである。 しかし、時代は流れ、詩人もまた変容を迫られることになる。 第一詩集『死者の鞭』(一九七〇年)以降、『水中火災』、『百年戦争』、『気狂いフルート』と、重い思想とときに艶やかなメタファーで彩られたことばを駆使した作品群と鋭い論評によって佐々木幹郎は時代の波をかいくぐっていくが、八四年に上梓した第五詩集『音みな光り』を最後に、〈七〇年代の風景〉に別れを告げる。八六年の第六詩集『風の生活』、歌人岡井隆との『組詩・天使の羅衣(ネグリジェ)』などの作品群ではいくぶんノンシャランスな響きをもった作品への変容がはかられ、九二年の第七詩集『蜂蜜採り』では肉色のエロスと生命への賛歌が端正な日本語で彩られ、繰りひろげられる。とりわけミシガンやネパールの自然と暮らしに魅せられた佐々木氏の熱い声が響くのである。 夏が垂れ下がる 軒先の アシナガバチの巣に沿って 廊下に転がされた粗悪なガラス瓶の中で 金魚と金魚藻は膨れ続ける 座敷に横たわる白髪の少女は 永遠に背を向けたまま 思い出は 遠景の風 円形の水の渦巻き それらの中心に 雨漏りとともに滲み出してくる 夏の庭 母よ それがどこにあったのか 今ではもう わからないのです (「夏の庭」) 失われてゆく夏の風景と「永遠に背を向けたまま」「座敷に横たわる」母への思慕が抑揚の利いた表現の中にひっそりと描き出された、佳作である。ここには政治への怒りに充ちたアジテーションの轟きや、逆巻く性の恍惚はなく、かつて与謝野蕪村を愛し、中原中也の研究に携わった佐々木幹郎氏の、今を生きる息づかいがある。大自然と交感をし、その永遠の美をゆったりとした呼吸で歌い上げる現代の吟遊詩人、それが詩人・佐々木幹郎が選択したあらたな生き方であるらしい。しかし、これら新しい作品群による成果と評価に、わが国の近代以降の詩歌の歩みをさかのぼり見るような、転倒した感想をわたしは抱いている。表題作「蜂蜜採り」や、「ギリシャ悲劇風に」と副題を附された「朝顔」などの作品に吉岡実氏の「サフラン摘み」などの残影を見ることができるような気もするのである。ひとつの思想から遠ざかることは、かくも詩人の行き場所を奪ってしまうものなのだろうかと、少なからず憐れみの思いを禁じえない。 さて、佐々木幹郎の作品と思想が〈七〇年代の風景〉から急速に遠ざかり、自然賛歌に変わらなければなかったかのはなぜか。なにが佐々木の生き方を変えたのか。疑問の鍵は、おそらくかれの初期の作品に探ることができる。 「佐々木幹郎が読者の私にまず与えるのは、その時こんな風に感じたものだというような感性の同時代感である。〈ふきこぼれ散る早朝の歯みがき粉が開示する/うすみどりの思想に立ち枯れている〉と続く必然はどこにもないが、詩句はまず感性の語句選択運動として素直に考えた方が佐々木幹郎という詩人を納得させる。(中略)この感性運動そのものが佐々木幹郎をして時代に対峙させ問いかける詩を成さしめている」 これは、佐々木氏と親交のあった小説家の亡・中上健次氏による「時代とむきあう感性運動」と題された詩人論の一部である。前掲「死者の鞭」などの初期の作品に見られることばを間断なく掃射していくような詩法を〈感性の語句選択運動〉と呼び、いっけん不規則な発語の根拠を捉えている。そして、幾重にも繰り広げられる〈光と色彩の感性運動〉によって次々とあらたなイメージと詩語の揺籃が加速度的に喚起される。この感性とことばによる永久運動そのものがまさに詩人をして「時代に対峙させ問いかける詩を成さしめる」のだという中上氏の解釈は佐々木詩の鑑賞に留まることのないすぐれた詩論として、いまもわたしたちの前にある。 独楽は回転をすることによって、地面に立っている。うがった見方をすれば七〇年代の佐々木幹郎は、みずからに急速な回転を強いることによってかれじしんの時代に険しく向き合うことを可能にしてきたのである。髪を振り乱し、爆発さえしそうな怒りの思想と哀しみをあらゆることばに焼き付けていく行為だけが、佐々木幹郎を、羽田弁天橋を、友人山崎博昭の死を、淀川の堰堤での〈水守り〉の暮らしを、そして詩集『音みな光り』の舞台となった中野刑務所を抱え込んで流れていった時代の証人としたのである。しかし社会がいっていの達成を遂げ、時代がその飽和点に達するとき、政治や思想の闘いはその対象を失いあらゆる表現は方向を見失う。独楽の回転はいっきに失速し、地に倒れる。 佐々木幹郎は、みずからがつねに失速の危機にさらされている独楽であることを知りぬいていた詩人であると、わたしは思う。時代のなかで闘うことの意味をみずからに問い、つねに壊れたもの、あるいは廃墟となった場所からあらたな闘いの思想を立ちあげる。怒りの詩から自然賛歌への移行は、そういう意味ではきわめて自然な現象であるといえる。 「水面」を見よ、ととり残された水鳥が言う どこから「水面」を見るのか 橋の上からか、堤の上からか、あるいは波打ち際か、 舟の上からか、それとも泳ぎながらか、沈んでか ふりかえれば、あるときわれわれは 風によって乱された「水面」であった ふりかえれば、あるときわれわれは 木によって組まれた「舟」であった ふりかえれば、あるときわれわれは 口達者な専制君主として、水の中に沈んでゆく「汚物」 であったどこから「水面」を見るのか (「ふりかえれば」) 近年の、詩集『風の生活』以降の佐々木幹郎の作品を、じつはわたしはあまり高く評価していない。とうぜん好みの問題も深くかかわってくるのだが、初期の作品群に見られたような険しいメタファーと思想の垂直性があまり感じられなかったからである。口笛のような詩だと思ったことがある。しかし今回、佐々木幹郎の作品を繰り返し読んでいるうちに、こんなおもしろい詩があることに気がついた。 どこから「水面」を見るのか。おだやかな声で、鋭い問いがわたしたちに突きつけられている。「橋の上からか、堤の上からか、あるいは波打ち際か」。ふりかえれば、「水面」であり「舟」であり「汚物」であった「われわれ」は、みずからの視点を定めなければならない。みずからの視点をもつことで、わたしたちは時代の闘いに組みすることになるのである。ふりかえる必要はない。時代の廃墟の上に立ち、佐々木幹郎の闘いはいまも繰り広げられている。 〈六月〉の理由は 渡辺武信試論 わたしたちの日常は、おおまかにいえば労働と休暇というふたつの要素でできている。それが緊張したものであるか弛緩しているものであるかにかかわらず、それはいっていのパターンを形づくり、わたしたちの意識とは無関係に繰りかえされ、それは延々とつづく。この不自然な〈日常〉に異常と畏れを感じとったF・カフカは、ある朝、突然巨大な毒虫になってしまった青年グレゴール・ザムザの日々を『変身』に描いた。わたしの記憶に誤りがなければ、〈昨日までとまったく異なる日常〉を生きることを余儀なくされたグレゴール青年は激しく動揺し混乱するが、周囲のひとびとのうちにかれの〈変身〉に気がつくものはひとりもいない。周囲と自分がいる世界の乖離にぼんやりとした不安を感じ取りながら、かろうじてみすぼらしい〈日常〉を過ごしたのちに、かれはたしかアパートの住人たちにトマトを投げつけられて死んでいった。果てもなく繰りかえされる日常の狂気と、そこからはぐれていったもののみが味わう灰色の疎外感。一編の小説によって描き出されたこれらの不安はけっしてグレゴール青年のみが知る体験ではない。二一世紀というあたらしい時代を生きているわたしたちの日常も、メカニカルな社会機構のただ中で、常に歪曲され、歴史から引き剥がされてはいないだろうか。なけなしの自我は裏返りとおく狂気のふちへと追いやられてはいないだろうか。これらのおびただしい不安は、むしろきわめて現代的な社会病理と呼ばれるべきものであるだろう。 ※ 歴史から引き剥がされ、こぼれ落ちてゆくもののあえぎ声を赤裸に描いた現代の詩人のひとりとして、わたしは渡辺武信の名前を挙げよう。 渡辺武信という詩人の名前は、一九六〇年代、みずみずしいひろがりをもつことばの内側に、その時代を生きるものの苦悩と焦りを閉じこめた作品群とともに知られている。天澤退二郎氏らとともに詩誌『バッテン』や『凶区』などといった表現の場の生成と解体を繰り返し、みずからのことばの刃を研ぐことに余念のなかった渡辺は、当時、それぞれの思想をそれぞれのことばに託すことをしていた北川透、清水哲男、長田弘、さらに岡田隆彦、吉増剛増らの各氏とともに、のちに〈六〇年代詩人〉として総称される、堅実な仕事をなしている。時代が、歴史がその飽和点を目指してかれらの仕事を要請していたのだ、ということにここではしておこう。しかし、最近はあまり詩を書かなくなったこの詩人の作品を読むとき、云いようのない不安にとらわれることがわたしにはある。さびしい弾力をもつことばの遊びや、その行間から絶えずこぼれ落ちる政治的な自我などにたいするアレルギーなどとは異なる、もっと生理的な、たとえば、手を伸ばし、なにかをつかまえようとすればするほどそれとの距離がおおきくなっていくようなもどかしさと喪失感のようなものが、渡辺武信のことばにはあるように思われるのである。 あらゆる記憶が 告発の形してかがやくぼくたちの街で ひとつの小さな死の重さを測ることは ほとんど無意味だ だから ぼくたち測るまい 記憶の中のきみのまなざしの重さを (「つめたい朝」) あけてくる朝のかくしている さけられない希望 それが ぼくたちの不幸のはじまりだ ぼくたちの呼吸は ありったけの長さを繰り出し 地平をよぎって行く めざめの光が最初に落ちる丘に さわやかに湧く風の下で 街は 癌のようにひろがりはじめる (「名づける」) 渡辺武信には、「朝」あるいは「目覚め」を描いた作品がすくなくない。なぜ「朝」なのか、その理由をわたしたちは知らないし、ついには知ることのないことであるのかもしれない。けれども「朝」「まぶた」「陽射し」、あるいは「傷口」や「たたかい」といったことばは、そのイメージのふくらみをひとつの必然的な問いに導く装置として、じつに意図的に使われている。詩がことばによって描かれたものであるとき、渡辺のこの精妙な装置は、ことばと意味、あるいはことばと世界の関係のあざとさを証明するものとして、正確に機能している。そして渡辺武信がめざした必然的な問いは、〈一九六〇年六月の記憶〉というきわめて政治的な地平にあった。あるいはきわめて個人的な関心に、それはあった。 「ぼくたちが想い出すことのできる個々の記憶は、しだいに日付と序列を失いながら、けっして想い出すことのできない記憶へ、無意識の領域へとつながっていくように思われる。この思い出せない記憶こそ、死に侵された時間性がぼくたちから隠している領域ではないか。そこには、世界と分離しない広大な感情の渦につつまれて、いまだぼくたちが見すかすことのできない核が、時間から疎外されたぼくたちの快楽の原点が、記憶の原点と一致して存在する。そこに至ってはじめてぼくたちは死に出会いそれに真に対抗する力を得ることができるのだ」(「六月の記憶の彼方へ」)。 詩集『夜をくぐる声』(一九六五年)に収められたこのエッセイは、渡辺武信の思想の方位とその矛盾点もともにはらんでいて、なかなかおもしろい。渡辺はここで、まるでなにかに憑かれたように「快楽の原点」と「記憶の原点」の一致の必然性を訴えているのだが、それとともに〈原点〉は、「けっして想い出すことのできない記憶」「死に侵された時間性がぼくたちから隠している」領域にこそ、「世界と分離しない広大な感情の渦につつまれて」存在しているのだともいっているのである。 つまり、渡辺のいう「快楽の原点」「記憶の原点」の出発点と到着点はともに「死に侵された時間」、すなわちまさに「ぼくたち」の「記憶」という領域にあるといっているのである。「記憶」から出発し、再び「記憶」へと立ち向かい「死に出会う」という、このみょうに矛盾したロジックを、かつて、わたしはどうしても理解することができないでいた。いまでも、手放しでの賛同はしていない。もとより〈一九六〇年六月〉という歴史に対して渡辺武信ら〈六〇年代詩人〉たちが傾斜していった動機や理由、その意味について、その翌月に生を受けたわたしなぞが口をさし挟むべきことはなにもないということくらいは、わたしとて百も承知である。しかし、いかなる歴史であろうとも、それを見つめる表現者の目は常に〈記憶〉と名づけられる〈個人的な関心〉によってけわしく彩られているはずであり、それを跳び越えてたちあげられた動機や理由はしょせんは詭弁でしかないだろう。 渡辺は、前掲のエッセイで〈記憶〉という概念の脆さを〈体験の意味〉という概念で補強し、それは「あらゆる映像、感触、物音、香りの融けあったものとしてぼくたちの肉体をひたしている個別的記憶から自分の意識をひきはなし、体験をいわば虚構化することによって生まれてくる」。その心象を「言葉のもっともひろい意味で、思想、と名づけることが許されるだろう」としているが、いかにも苦しい弁明にとどまっている。そしてというべきか、ひたすら〈記憶〉によって発語するという姿勢(これこそ六〇年代的ポーズではないのか?)はこの詩人みずからの感受性をはげしく責めあげたのか、渡辺武信の発することばはしだいに政治的・思想的求心力を喪失してゆき、いよいよ不可避的に歴史からそぎ落とされてゆく人間の悲惨を描くようになっていったのである。 とつぜん崩れるタンスや立上がる椅子 そのまわりをネズミのように走りまわる言葉や音たち それら日常や異常の一切を外へ きみの街きみの位置きみの土地の外へ スチールロッカーや天下国家の外へ ブラウン管のちらつく映像の外へ運びだす時 置き去りにされた死者たちは したたかな娼婦のように微笑を浮かべ 進行する腐敗に耐えつづけて まだ ゆっくりと首を振っている (「首都の休暇」) ここには、渡辺武信の初期の作品を彩った朝のイメージのひろがりとみずみずしいことばの飛躍はすでにない。ここに描かれているのは、「とつぜん崩れるタンスや立上がる椅子/そのまわりをネズミのように走りまわる言葉や音たち」など血走った「日常や異常の一切」に様相を変えた(ほんとうは何も変わっていない。まさに『変身』の世界だ!)平穏無事な〈日常〉の風景におびえ、それらを「きみの街きみの位置きみの土地の外へ/スチールロッカーや天下国家の外へ/ブラウン管のちらつく映像の外へ」、知覚しうるあらゆる世界の欄外へそれらを運び出そうとしてあぐね「ゆっくりと首を振っている」「置き去りにされた死者たち」の姿である。「死者たち」とは、すなわちあらゆる風景を〈異相〉としてとらえ世界の彼方へ運び出そうとしている「ぼくたち」であり、「快楽の原点」と「記憶の原点」の融合という名の知的パラダイスの残影の謂いである。〈一九六〇年六月〉は、ついに渡辺武信にとって、表現の方位を決定づける原体験たる思想とはなり得なかったようである。いやむしろ、 『彼のいう、ぼくたちの「快楽の原点」と「記憶の原点」は、彼の詩の出発においてすでに微妙なずれを持って始まっていたのである。「六月の記憶をかがやく告発に組織する」と彼が言い切ったとき、彼は決してストレートにその一行には繋がらず、彼自身の不安に満ちた「快楽の原点」に帰っていく。彼は「六月」に絶望も挫折もしなかった。彼がもっとも手に入れたかったものは「快楽の原点」、たかが「六月」によって崩されぬ自我へのあくなき執着ではなかったのか』 という清水昶氏による明晰な評言によって、〈六〇年代詩人〉渡辺武信の苦渋はもっとも共感をもって優しく語られているし、その指摘にはわたしも異論を差し挟む箇所がない。(「猟犬の研究」・現代詩文庫35『渡辺武信詩集』収録・思潮社)。 ここで断っておきたいのだが、わたしは何も、渡辺武信の作品とその思想の不備をあげつらい、詩人の知的実験が失敗に終わらざるを得なかったということをことさらに強調するためにこの小文を書いたのではない。むしろ実験の結果がどうであるにせよ歴史の流れに拮抗するように言葉を紡いでいくという困難な闘いにひとり身を挺したこの詩人の姿そのものが、反歴史的なというか、まさにみずみずしいめざめの明かりのように感じた、きわめて個人的な感想を書きとどめようとしたにすぎない。 ※ さて、『変身』の中で、なぜグレゴール・ザムザは巨大な毒虫に変身したのか、作者はその理由について一切語っていない。突然の〈変身〉に気がついた朝から無惨な死に至るまでの数日間のグレゴール青年の動揺と、あらゆる世界から何者かの力によって隔てられてしまったみずからの存在の不安はじつに細かく描かれているのにもかかわらず、である。カフカはなぜ、グレゴール青年が巨大な毒虫に〈変身〉をしてしまったその理由を描かなかったのか。こんな疑問が、おそらくはわたしたちを詩に、美に、輝く闇に誘っているのであろう。 明日、目覚めたとき巨大な毒虫になってはいないだろうか? そんな無邪気なおびえこそがわたしたちにあいまいな生の理由を問いつめてやまなくなるのである。 〈死児〉は誰か 吉岡実試論 戦後詩が、表現という行為にたいする確固たる意味を喪い、形骸化した思想と言語空間を呈するようになってすでに久しい。詩がわたしたちの前にあらわれるとき、とうぜん個々の思想や情感を伝達するための媒体としてのことばを伴っているわけだが、いつの頃からか、ことばは思想や情感をすみやかに伝達しうる媒体、もしくは記号ではなくなってしまったようだ。 詩人の感性といえば聞こえはいいが、ようするにむやみに増殖していく観念の生態を持て余した脳髄から絞り出された土着信仰にもにた方法論と意匠は、ことばから、あらゆる意味と思想を内包し増殖していくダイナミズムを奪いとってしまった。痩せた方法論と修辞によって詩が生成されるのであるならば、わたしたちのことばはいったいどんな美と血と永遠の擬卵を産み落とすことができるというのか、現在に依らないことばと思想がどれほど堅牢で儚い調べを紡ぎだすというのか、わたしは知らない。 吉岡実によって描かれた夥しい作品群は、そうしたことばへの意味の干渉をきっぱりと拒絶している。意味とか思想とか、あるいは倫理とかいった精神性 を否定するというのではなく、あらゆる精神性のようなものを詩のことばに被せることを、吉岡はいっさいしていない。詩はことばである。ことばが詩である。吉岡実にとって、ことばこそが唯一絶対の意味であり、世界を支える思想であり、かれが詩を書くための倫理そのものであったのだ。 ぼくが今つくりたいのは矩形の家 そこで育てあげねばならぬ円筒の死児 勝算なき戦いに遭遇すべく 仮眠の妻を起してはさいなむ 粘土の肉体を間断なく変化させるために 勃起とエーテルの退潮 湿性の粗い布の下で夜昼の別なくこねる ぼくは石炭の凍る床にはいつくばい 死児の哺乳をつづける 浪費と愛をうけつけず発育しないもの ぼくの腕力の埒外に在り 正体も見せず固くかさばる死児 それは光栄に匹敵する悲劇 ぼくの魂の沈む城の全景を占め 美しいメモリアルとして立ちつくす (「喪服」) この作品は、けっして吉岡実の代表作とはいえないが、諧謔としてのことばと意味の力学とその美学といった吉岡の修辞と思想の特性が、作品全体にちりばめられた初期の秀作のひとつである。これはどうやら長編詩「死児」の原型のようだし、ことばそのものがもつあらゆる意味を排することによって立ちあがってくる観念の〈美しいメモリアル〉を構築しようとしている点において名作「僧侶」の系譜に繋がるものでもある。やはり愛着があったのだろう、詩人はこの作品を詩集『僧侶』(一九五八年)に収めている。 吉岡実の詩は、じつにスリリングにわたしたちの前に立ちあらわれる。最初の一行が読者の前に立ちあがろうとするとき、すでに次の一行が重い鎌首をもたげて立ちあがってきている。アブストラクトなことばとことばが混沌とした生理の世界に墜ちていく。そのとき、すでに描かれている世界の秩序を全否定するかのように、あらたな詩句が矢継ぎばやに投げかけられる。「形態は単純に見えても、多岐な時間の回路を持つ内部構成が要求される。能動的に連繋させながら、予知できぬ断絶をくりかえす複雑さが表面張力をつくる」(「わたしの作詩法?」)瞬間である。不吉なことばとイメージが増殖していくエロスをわたしたちは見つめる。しかし、不調和の美学に立つ吉岡の詩を読み解くことはたやすいことではない。 「矩形の家」をつくりたいという「ぼく」はなぜ「円筒の死児」を育てあげなければならないのか?「勝算なき戦いに遭遇」するために、なぜ「仮眠の妻を起してはさいな」み、「夜昼の別なく」繰り返される「勃起とエーテルの退潮」を認める性の放逸が必要なのか?そもそも「浪費と愛をうけつけず発育しない」「正体も見せず固くかさばる」という〈死児〉とはいったいなにものなのか?作品を読みすすめるごとに、次々に素朴な疑問が湧いてくる。しかし、詩人はそれらの疑念にたいする解答をいっさい用意していない。 「矩形の家」とか「円筒の死児」とかの隠喩がもつ意味や、偏執的な性愛や非生産的なかずかずの行為をささえる根拠を問うことは、吉岡実の詩を読むさいにかならずしも必要ではない。ましてや、詩句が意味の伝達よりその破綻と再生産を目指しているいじょう、かれがさしだすマテリアルな言語様式に異を唱えることは、まさに意味のないことである。 「だからわたしたちはピカソの女の顔のように、あらゆるものを同時に見る複眼を持つことが必要だ。中心とはまさに一点だけれど、いくつもの視点をつくり複数の中心を移動させて、詩の増殖と回転を計るのだ。暗示・暗示、ぼやけた光源から美しい影が投射されて、小宇宙が拡がる」(前掲書)のである。詩は理解され解釈されるものではなく、感受されることによって増殖をするたましいの暗黒なのである。 そんな意匠にかかわる疑念より、わたしが目を見張るのはむしろ、吉岡実の詩がそなえている肉感的なリアリズムである。「僧侶」にせよ「死児」にせよ、先にひいた「喪服」にせよ、吉岡実の描く作品には、読者の理解を拒むかのように偏執的かつ醜悪な情景が展開されているにもかかわらず、おそらくは生理的な次元においてわたしたちの共感を呼びおこす、という点である。 四人の僧侶 井戸のまわりにかがむ 洗濯物は山羊の陰嚢 洗いきれぬ月経帯 三人がかりでしぼりだす 気球の大きさのシーツ 死んだ一人がかついで干しにゆく 雨のなかの塔の上に (「僧侶」) グロテスクで意表をつく僧侶たちの営為と黒魔術的に展開する状況設定が、いかに非現実的な、あるいは観念的な想像の世界であろうとも、この作品に触れるとき、わたしたちは奇妙な充足感ーー快感といってもいいだろうーーを得ている自分じしんに出会ってしまっている。たとえば、映画のなかで暴力や姦淫などの犯罪や、禁忌を犯す人物を見るとき、わたしたちはそこにかれによって果たされた自分の欲望を見いだしている。わたしはフロイド理論なぞはよく知らないが、わたしたちの精神のもっとも深いところには、ありとあらゆる欲望とエゴが渦巻いているだろうし、ゆえにわたしたちは人間として生きている、ということぐらいは理解しているつもりだ。吉岡実は、そうした人間の本源的な生態と欲望を鮮やかに描きだすためのことばを持った、数すくない詩人のひとりであると、わたしは考えている。わたしたちは吉岡実の詩を読むことによって、自分じしんの欲望を追体験することになるのである。 吉岡実いぜん、あるいは戦前においても吉岡の詩ににた作品を書いたモダニズムの詩人はいた。そのおおくは不自然なイメージの飛躍を痩せたことばに押しつけ、みずからが〈前衛〉であることを誇っていた。〈前衛〉とは、シュールレアリズムであり、ダダイズムであり、あるいは政治の匂いする理念的なことばたちであった。しかしそこに詩はなく、吉岡実のことばのもつ本源的なエロスと正統的ないかがわしさが描かれることはついになかった。もとより中庸に美を求めるわが国の詩精神にほんらいの〈前衛〉は存在しなかったのだし、詩が人間が裡にかかえる欲望とエゴイズムを赤裸に描きだすようになるためには、やはりくらい絶望の時代を通過する必要があったということなのだろうか。 吉岡実のもっともすぐれた理解者である詩人・飯島耕一氏は、「吉岡実の詩」という文章のなかで次のように述べている(現代詩文庫14『吉岡実詩集』・思潮社)。 「彼の詩は、非常にとおくから、あるいは極端に近くから、物や人間を見ている視点から出てくる。彼は見る人であり、触れる人である。行動の人ではない。彼の近作はパンジャマン・ペレの詩に通じる(彼自身はペレの詩を読んだことはないだろう)が、ペレのように社会的政治的行動に走ることはあるまい。非常に帰納的であって、演繹的な人ではない。彼の詩は、難解で特殊に見えても、普遍性を極端に求めるところから来る」 この正確でたおやかな批評に思わず唸ってしまったのは、けっしてわたしだけではないはずだ。吉岡実のいっけん難解な表現は、じつにもどかしく思えるほどに堅実な認識のうえに立ったものだったのである。 「自然界は人間の俗界よりすぐれている」 稲妻の走りまわる沼の面へ 「ほとばしる水晶体」 野をたどる父よ 行灯のあかりのなかで 母が生むものが ほおずき色の人間であるならばcc 「見ることは驚くこと」 あけぼのの横雲の下で 青草はおびただしい蛍を生む 自己か他者 「いずれかが幽霊である」 (「野」) ここまで書いてきてこんなことを言うのもおかしいが、わたしはこれ以上吉岡実の詩について書く気がなくなってしまった。当初は吉岡実の作品をテキストに過剰な意味とイメージをことばに押しつけ自家中毒におちいってしまっている今日の詩の状況についても一言いってやろうと考えていたのだが、やめにした。「死児」から「ほおずき色の人間」へと移行していった詩人の戦後の遍歴について考えていたところだが、そうしたことを考えるようになったじてんで、吉岡実について論考する資格をわたしは喪ってしまったのだ。吉岡実はじつに夥しい詩を書いてきたが、実際にはそんなに多くのことを描いてきたのではなかった。むしろ「矩形の家」で繰り広げられる性の饗宴であり「死児の哺乳」であり、「僧侶」たちのくらくて愉快な儀式であった。それら〈目に見えるもの、手にふれられるもの、重量があり、空間を占めるもの、実在〉する世界こそをしじんは描こうとしていたのであり、その意味を問いつめることはむしろ煩わしいことであったのだ。 ことばを意味伝達の媒体としないことで、詩を成立させるというスペクタクルを吉岡実はその作品によってわたしたちに示したのである。グロテスクで端麗な小宇宙にわたしたちは驚きかつ嗤うえいえんの「死児」となっている。
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