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加藤典洋(評論家)ふうに言えば、戦後日本の在り方の〝ねじれ〟が招いたことと言えるだろう。 辞任の理由は、防衛大臣がその講演会で、アメリカが長崎に原爆を落としたのは、ソ連の参戦を背景にしており、甚大な被害はあったが、「仕方のないこと」と発言したことだ。アメリカは「無条件降伏」のために原爆投下を意図的におこなったが、そのおかげで北海道をソ連と分割する悲劇を招かずにすんだ、と。 被爆者のみならず、「世間」から轟々たる非難を受け、最初は安倍首相ともども「アメリカの立場を代弁した発言」というような詭弁で切り抜けようとしていたが、そうはいかなくなって辞任した。 戦後、日本は、原爆を落としたアメリカ軍の駐留をうけ、(朝鮮戦争もあったが)驚異的な経済復興を成し遂げた。 懐が潤ってくるとあれやそれやの悪いことは忘れようとするのか、原爆投下は「記念日」に棚上げされてしまった。 原爆投下を強くアメリカに抗議するでもなく、「世界平和」のために「非核国」でありつづけようとした。 本来は、原爆投下をアメリカに強く抗議し、非戦闘民を焼き殺した罪科をアメリカに突きつけなければならなかった戦後、日本がアメリカの文化と経済に浮かれて、そのチャンスを失ったまま今日まできてしまった。 この〝ねじれ〟を容認してここまできたことが先の防衛大臣の発言をもたらしたのだとおもう。 おまけにアメリカの核に守られているのを承知しながら、「非核三原則」なるものを平気で唱えている。それを〝ねじれ〟ている、と言わずしてなんと言うのだろう。 戦後、日本は物事の本質を突き詰める作業をやめて、その場その場の場当たり的な処方箋を優先してここまできた。 だから、先の防衛大臣の「つい口が滑ってしまった一言」(確信犯的かもしれないが)を鬼の首でも取ったように責めたてている「世間」がぼくにはよくわからない。「世間」は物事をなし崩し的に処理して、戦後を生き延びてきたのではなかったのか。 あの吉本隆明(評論家)もたしか、自分は大衆の大多数が指し示す方向について行く。大衆の動向に追従していくのではなくて、それと緊張関係にあって対決しながら、どこまでもくっついていく、とどこかに書いていた。 それは、ふつう一般の人々の考え方や在り方がいつも正しいとは言えない、むしろ、誤ることがある。しかし、誤りを含めて、そういうふつうの人々との緊張した関係を通してでなければ思想は深まっていけない、という吉本隆明の思想を支える基本姿勢だ。 それに軍国少年だった吉本は憲法9条について、正義だと信じていた戦争が敗戦後、そうではないことを知り、戦争を心から恥じ、悔い、その結果として第9条を持つことができたとしたらそれはそれでよかった、それで戦争の元が取れたのだと、辛うじて自分を慰めてきた。と発言している。(たしか『わが「転向」』だったとおもう) 理念として第9条を大事にしていきたい、と吉本は言っているのだ。 戦中派の吉本としては、それで十分だろうが、それが戦後生まれの若い人に有効だろうか、という問題も当然おこってくる。 鶴見俊輔(評論家)は、戦後史を語り伝えようとしている相手は、自分たちを批判している若い学生たちであり、彼らは、わたし達の敵対者としてあらわれてくる、と言っているし、加藤典洋は「戦後を受けとる」という彼自身の80年代の命題としてこう語っている。 一度「伝える」ことを断念して「手放す」。大地の上におく。もし、それが「受けとる」に値するものであると判断されれば、それは、何者かに「受けとられる」だろうが、そこには、「受けとられる」ものの意味の変換が伴うはずである。「伝えよう」としたものは伝わらないかもしれないが、「伝えよう」とはしなかった形で、更新されつつ、それが「受けとられる」。 ──これが、「伝える」主体から「受けとる」主体への、客体ではなく主体から見た、バトンタッチの要諦なのではないか──と。(『戦後から遠く離れて』) 先の国会では、「国民投票法」が成立し、自民党も民主党も憲法改正の手続きにはいりたいらしい。 ぼくは、この世の中「不変」なもの、「絶対」なものはなにひとつないとおもっているので、憲法を変えたければ変えてもいい、とおもっている。 護憲派の人たちは9条が変えられ、自衛隊が軍隊になり(自衛隊が軍隊でないと考えている善良な国民は何人いるだろう)、集団的自衛権が書き加えられ、アメリカのために戦争をしなければならなくなることを怖れているのだが、もし彼らの希望に反して、戦争したいという民意が多数となったとしても、それはそれで民主主義の結果なのだが、そうなると護憲派の人たちは、戦争は絶対悪だから、この部分だけは民主主義を認めない、と絶対主義者に変貌することを良しとするのだろうか。 改憲派の人たちは、今の憲法はアメリカから押しつけられたものだから、日本人の手になる自主憲法を、と唱えている。 それが「美しい国」と結びつけられるとちょっと気持ち悪いが、それはそれでひとつの民意だろう。 加藤典洋は『敗戦後論』(講談社)のなかで、現憲法がアメリカの核を背景に押しつけられた、という論を、展開している。 連合軍当局が彼らの手になる日本国憲法草案を日本側につきつけたとき、日本側に検討のため与えられた時間は、十五分だった、そうだ。 おまけに連合軍総司令部民政局局長ホイットニーが日本側に十五分の検討の時間を与え、隣のベランダに退いたとき、検討場所の家屋を揺らすように爆撃機が飛びかい、検討時間が終わったとき、ホイットニーはこう言ったという。 「原子力的な日光の中でひなたぼっこをしていた」と。 そのことを、戦後、日本に住みついたアメリカ人の政治学者、ダグラス・ラミスは「ホイットニーは日本人に対して、この新憲法が論拠や論証に裏付けられたすぐれた思想であることだけをのみ込ませようとしているのではない。この草案は、世界史における最大の、しかももっとも恐るべき権力、原子爆弾という権力によって裏付けられているのだ」と書いている。 それを受けて加藤典洋はこう主張するのだ。 「わたし達のこの平和憲法保持は、この「強制」の事実に目をつむることによって完遂された。わたし達はこれを擁護し、また否定しようとしてきたが、そのいずれも現実を直視したものではなかった。現実はどうだったか。わたし達は「強制」された、しかし、わたし達は根こそぎ一度、説得され、このほうがいい、と思ったのである。とすれば方法は一つしかない。強制されたものを、いま、自発的に、もう一度「選び直す」、というのがその方法である。(中略)つまり、いろいろな憲法論が提示されたが、そのうち、ただ一つ、この憲法の精神を尊重するがゆえに、この憲法をもう一度「選び直す」べきだという、この憲法の「ねじれ」に立脚した主張だけが、語られなかったのである。」 ぼくと同い歳の、中道右派の評論家は、もう10年以上も前に「この憲法をもう一度選び直そう」と言っている。 ぼくは彼のように世の中を解析して生きていくことを職業にしていないし、日常、そんなに憲法のことを意識したり、憲法が窮屈だなんておもわずに暮らしているので、憲法は選び直さなくてもこのままでもいいじゃないか、と単純におもっているのだが、国民投票法が成立した今、「この憲法を選び直す」という彼の論が実行されることになるのだろうか。 それとも「別な憲法にする」という民意が多数を占めることになり、なんだぁ日本人てこんなものなのか、と失望することになるかもしれないが、とりあえずぼくは、戦争で人が死ぬなんてばかばかしいことだとおもっているから、「この憲法を選び直す」ほうに一票を入れたいとおもっている。 で、アメリカと協力して戦争に力を貸しましょう、という憲法ができたら、どうすればいいのだろう。そのときはそのときで、国民投票法を楯に新しい憲法を作っていくという立場に立つだけだろう、きっと。 高知では、映画は自主上映団体の人たちのボランティアでしか見ることができないが、その団体の一つシネマ・サンライズの吉川さんから上映映画のチラシが送られてきた。 封を切ってびっくりした。『ベルイマン、再臨』──なんてことだ。おまけに『ある結婚の風景』の続編だなんて──幽霊と亡霊が一緒にやってきたみたいだ。(新作を撮っていたことは知っていたが) ベルイマンは20年も昔、『ファニーとアレクサンデル』(82年)を撮った後「やーめた」と宣言したのではなかったのか。いくら、ぼくがベルイマンのファンで、映画はベルイマンにつきる、と公言しているとはいえ、いまさら亡霊のようにやってくるなんて。 もっとも、『ファニーとアレクサンデル』以後、ぼくが見ることができたTV用のドラマ、84年の『リハーサルの後で』とか、他人の映画の脚本だけの92年の『愛の風景』とかはあり、ベルイマンは、舞台の演出に専念する、と言いながら、映画の世界を完全に捨てたわけではないようだったが。 牧師だった父親への屈折した感情を描きつづけたベルイマンは『ファニーとアレクサンデル』では悪魔のような牧師を登場させたし、父母の自伝的な脚本『愛の風景』では、父親である牧師の不実と偽善を描いた。もうそれで十分ではないか、とぼくはおもっていた。 この映画は「神の沈黙」を描きつづけていると言われているベルイマンの、それこそ最後の映画というふれこみだった。 しかたなく、7月19日、県立美術館ホールへ出かけた。 『サラバンド』(イングマール・ベルイマン監督、スウェーデン、2003年) ベルイマン85歳の作品である。 ベルイマンファンなら十分満足できる出来だったことが、かえって、なんとなくしゃくにさわったが、最後の最後、意表を突く終わりかたは「ベルイマン健在」だった。 冒頭、「イングリッドに捧ぐ」とクレジットが入ったのは、04年にガンのため死去したイングリッド・チューリンへの哀惜の一言だろう。 離婚して30年、年老いたマリアン(リヴ・ウルマン)は別れた夫ヨハン(エルランド・ヨセフソン)に会いに行くことにした。理由は、「あなたがわたしを呼んだからよ」ということになるのだが、ヨハンは息子と孫娘を抱えて「地獄の家」(ベルイマンの好きな設定だが)にいた。 30年振りに会った元夫は元妻を歓迎するでもなく、毒舌で迎える。相変わらずベルイマンの映画に登場する人物は観念的で自我意識が強く、他者との関係は愛憎のみを基準とする、という人物が多い。ヨハンもその範疇にはいる。 ヨハンの息子ヘンリック(50歳代後半という設定だろうか)は妻アンナが死んでから仕事を辞め、19歳になる娘カーリンのチェロの才能を活かすために音楽大学を受験させようとして、個人指導をしている、という導入。 なお、タイトルの「サラバンド」とは17〜18世紀にヨーロッパの宮廷で普及した古典舞曲のことで、とくにバッハの「無伴奏チェロ組曲第5番」の「サラバンド」は有名だそうで、映画では親娘がチェロの練習をしているシーンで使われていた。 なにが「地獄」かというと。 父と息子(ヨハンとヘンリック)は憎しみあっており、父と娘(ヘンリックとカーリン)は近親相姦に似た愛憎に絡め取られている、という設定があり、それが「神の沈黙」に繫がるのかどうかは、神を信仰していないぼくには分からないことだが、まあ、「地獄」様な家庭環境ではある。 ベルイマンはこういう設定が大好きである。イングリッド・バーグマン最後の映画出演作品となった『秋のソナタ』では、母さんは娘の私を愛してくれなかった、と娘が母親を非難すれば、母親は母親で、私も私で苦しかったからあなたなんかにかまっていられなかったのよ、と出口のない近親憎悪を描いたし、『沈黙』では、男に積極的な妹に嫉妬しつつ、オナニーで自分を慰めている中年女が、甥にむかって異国語で「精神」と告げたりと、その映画世界は独得なものがある。それらすべてが牧師であった父との格闘のせいとは限らないかもしれないが、父親への感情が通底孔として描かれているのだろう。 肉親の感情は理性では制御できない。 父親ヘンリックは娘カーリンを最高の音楽大学に入れたくて特訓をし、祖父ヨハンはコネクションを使って著名な指揮者の楽団に入れようとする。 カーリンの争奪戦である。 賢明なカーリンは父の望みも、祖父の申し入れも断って、たぶん、そんなに有名ではない楽団のテストを受けて採用されて父親の元から去ってしまう。「ソリストで注目されるよりも大勢の人と音楽をつくっていきたい」と言い残して。 娘を失った父親は自殺を図るが、ぶざまにも未遂に終わる。 祖父は死にきれなかった息子をバカにし、息子の自殺未遂が孫娘の耳に届き、孫娘が罪悪感を持ってしまうことを怖れる。自分が父親のもとから去れば父親は死んでしまう、と娘は怖れていて、そのことが現実になったのだ。 ベルイマンの映画ではおなじみの愛憎劇の顛末が、ここでも繰りかえされている。一片の愛情すら感じられない父と息子(ほんとうは、互いに自分の姿を見てしまうから拒否しているだけだろう)、憎しみあうことだけが親子関係を繫げている父と息子、ベルイマンは82歳になっても、悪魔のような父から逃れられないでいる。 そして必ず、冷静な傍観者、たぶん、ベルイマン本人がそうでありたいと願った人物が出てくる。 『秋のソナタ』では娘の夫の牧師だったし、今度の映画では、声なき声に導かれるかのように「地獄の家」に来てしまった元妻のマリアンである。それと、既に死んでいるヘンリックの妻のアンナの写真である。 とくに写真の中のアンナは世俗の欲望の起伏を澄み切った目で見つめている。 このアンナにヨハンが心ひかれていたらしい気配があり、そのことがヘンリックにはおもしろくなかったらしい描写もあったが、ヨハンは息子ヘンリックの全てを否定している(裏返せば、全て肯定している)、という「地獄の家」のなかで、アンナの目差しだけが、常にやさしい。 神がどうのこうのと、ぼくには分からないが、アンナは、神の目差しなのだろう、きっと。 このへんでベルイマンの評価が分かれるのではないだろうか。あの蓮実重彦(評論家)は、ベルイマンは映画に映画以上のことを求めている、と否定的だったが、人間には、誰に何を言われようが譲れないものがある。 先日、スウェーデンで暮らしている、小学、中学、高校と同級生だった男が日本に帰ってきて、いろんな話を聞いたが、ベルイマンは黒澤明なみの巨匠ではあるがポピュラーではなく、スウェーデン人の奥さんもあまりベルイマンは見たことがない、と言っていた。神の問題は、スウェーデンでの牧師の立場は、強い信頼を寄せられている職業でもなく、デブ、酒飲み、稚児遊び、と揶揄されているらしい。(もっとも、日本人の彼の偏見が幾分かははいっているだろうが) 映画に話を戻すと、マリアンが帰るという日の夜明け前、ヨハンは昂ぶる感情を抑えきれず目覚める。長い間の息子との確執がそうさせたのかもしれないのかな、とおもったが、あのヨハンがそんなことで心かき乱されることはない、とおもいなおして、ヨハンの心情を推測したが、よくわからなかった。(他者に対して強い精神性を見せる人ほど、心のなかは弱いものだ、と言えるかも知れないが、ベルイマンが、いまさらそんな手垢の付いた人物像を描くはずがない、とおもったが、どうしてもヨハンの心の弱り方が理解できなかった) マリアンを起こしたヨハンはマリアンに勧められるまま裸になり、裸になったマリアンとベッドを共にする。 映画史を飾ってきたリヴ・ウルマンとエルランド・ヨセフソンが全裸になっていくシーンはびっくりしたが、そのシーンは老いの醜さと潔さがない交ぜになったいいシーンだった。マリアンもヨハンはこれですこしは生きていくことができる、そういう希望を与えてくれるシーンだった。 エピローグ。日常に戻ったマリアンの独白。 ヨハンからはあれ以来連絡がなく、生きているのかどうかも分からない、ということが知らされる。 そして、娘マッタに会いに行ったことを語りはじめる。それはヨハンと会ったことときっと関係があるだろう、と。 ここからがベルイマンの真骨頂である。この余白のようなシーンが。 マリアンとヨハンには娘が二人いる。ひとりは成功して夫と共にオーストラリアにいる。もうひとりは心を病んで療養所にいる。 場面は療養所の個室。娘のかけているサングラスを外し、娘の頰に触れるマリアン。 ふたたびマリアンの独白。 「娘の肌に初めて触れた気がする」 マリアンは、娘と和解したのだ。『愛の世界』では父と母を和解させなかったベルイマンが、母と娘を和解させたのだ。 それがなんだと言われれば、そんな映画はたくさんあるし、珍しいシーンではないとしか言いようがないが、ベルイマンにとっては、たとえ母と娘であっても「和解」は事件なのだ。(それは、父と息子が和解したことを意味するのだから) そういうところがきっと、蓮実重彦の言うように、ベルイマンの映画は映画以上の何ものかでありたいと醜く歪んでいる、のだろう、きっと。否定するものではない。 しかし、ファンというものは、そういうベルイマンに拍手を送る人たちのことを言うのだろう、きっと。 最後に技術的なことをふたつ。 この映画は登場人物が五人である。おもしろいのは、画面に登場するのは必ず二人である。三人以上が同時に登場することはない。それはたぶん、この愛憎劇が一対一の関係で成り立っているということだろう。父と息子の憎しみあいの場面のなかにカーリンが入ってくると強い感情が削がれて、濃密な画面が損なわれるとでも言うかのようだ。そして、第三者が入ることのない画面は、常に愛憎の標的にされているし、それがベルイマンの狙いだったのだろう、きっと。 もうひとつ。純白の背景をバックにカーリンがチェロを弾いているシーンがあるが、そのシーン、カメラがどこまでもどこまでも引いていき、どんどんスピードをまして、最後にはカーレンは豆粒から極小の小ささになってしまうのだが、そのシーンは、祖父と父親にその才能を無限に期待されているカーリンが、自分の才能を冷静にみつめると、祖父や父の期待通りにはならないのではないか、という不安を象徴する画面として印象的だった。 ついでにもうひとつ。 最近の映画はセリフで説明することを避け気味である。観客に想像してもらおう、というふうに、画面状況の説明を避けている映画が多いが、この映画はマリアンの独白ではじまり独白で終わる。おまけに元夫と再会する場面では、画面のこちら側の観客にむかって元夫がどんな姿で眠っているのか説明までする。この古典的な方法論を否定的にとる人もいるだろうが、イブ・ウルマンの語り口を聞いていると、彼女は次に何を語るのだろうか、という期待感が(たとえたいしたことを語っていなくても)映画を前に押し出してくれて、ベルイマンの意図がどうであれ、楽しめた。 7月21日、メフィストフェレスへ、うらりゅう・ピクチャーズ主催の映画『幽閉者』(足立正生監督、2006年)を見に行く。三回公演の一回目だったせいか観客は10名程度。 2000年3月、足立正生がレバノンで解放されたとき、「まだ映画は撮れるぞ」とTV画面にむかってぼくはつぶやいたが、その足立正生の映画である。 1972年5月30日、三人の日本赤軍兵士が、イスラエルのテルアビブ空港で銃を乱射し、24人が死亡し、100人近くが重軽傷を負った。ふたりは自爆したが、岡本公三は生き残り、イスラエルの刑務所に幽閉された。この映画はその岡本公三の体験と監督足立正生の体験をふまえてつくられた、という触れこみ。 足立正生は60年代、アングラ映画をつくっていたそうだが、高知にいたぼくは見たことがない。彼の名前を知ったのは、当時ピンク映画で活躍していた若松孝二という監督の脚本を書き出してからで、たしかペンネームは「出口出」だったとおもう。 今から40年以上も昔、ぼくは旭町にある高校に通っていた。電車通りをはさんだ南側に玉水町という旧遊郭街があり、その一角に、アサヒ劇場というピンク映画専門の映画館があった。学校の帰り、若松孝二の映画が掛かるたびに通っていた。 ピンク映画というのは現在のアダルトビデオみたいなもので、意味もなく男女の絡みが出てくる映画である。高知では、現在でも「小劇」という劇場がピンク映画を掲げて健在である。 足立正生は脚本家としては優秀だったらしく、若松にかわいがられてたくさんの脚本を書いた、と若松の自伝『俺は手を汚す』(ダゲレオ出版)に書いてある。 60年代半ば、若松孝二のピンク映画は高校生のぼくにとっては少々アナーキーだった。 時代と添い寝してみよう、と言うかのように即物的な社会をベースにしながらも、「おい、そこの若いの、テメエの人生それでいいのか、テメエを縛っている鎖が見えるのか、テメエを遊ばしておもしろがっている世間が見えるのか、テメエの脳みそをふやかせている制度が見えるのか、そんなもの叩き壊せ。壊せなきゃおまえの負けだ」というような映画を撮っていた。 それが、左翼系のアングラ映画を撮っていた足立正生と組むことになり、本来持っていた「時代への痛烈な批判」と共に、天皇制にまで踏み込むような映画を撮りはじめた。 それが「昔は、いくらか映画で何かできるんじゃないかという感じがあったけど、67年・68年から70年にかけて、もう映画じゃなにも起こらないんだということがわかった。実際何も起こらなかったしね。俺の映画を見て、意識の上で何かを生みだしたってことはあるかもしれないけどね。」(前掲『俺は手を汚す』より) 71年、カンヌ映画祭の監督週間に二作品が招待された若松は大島渚、足立とカンヌへ行く。その帰り、大島渚と別れた若松と足立はパレスチナに行くことになった。 足立の思惑は分からないが、若松は自著で、当時はベトナム戦争をやっていて、日本の運動家はベトナム一辺倒だったからパレスチナゲリラの活動を撮ってきたら問題提起になるし、日本のTV局が高く買ってくれるかもしれない、とベイルートの重信房子の世話でPFLP(パレスチナ解放人民戦線)と接触して、『赤軍─PFLP・世界戦争宣言』を撮ることになる。 若松はフィルムを背負って日本に帰るが、足立はレバノンに残る。そのとき若松は日本の新聞記者から千ドル借りて足立に渡している。 その年、若松の元を尋ねてきた岡本公三に若松は金とパスポートと飛行機代を世話している。岡本は翌年テルアビブ事件をおこしている。当然公安がやってきたが、逮捕状持ってこい、と追い返した、と自著に書いている。 なお、足立正生は75年1月、若松に70万円都合つけてもらって日本を出ている。 その後、足立は重信房子の日本赤軍に合流し、97年にレバノンで逮捕、00年に釈放、日本へ送還、1年の刑を終え自由の身になった。 一方、岡本は無期懲役で服役していたが、85年イスラエル兵との捕虜交換でレバノンへ。イスラエル兵を殺した岡本は「アラブの星」となって「英雄」扱いで自由の身になり、現在はレバノンに滞在しているらしい。 これらがこの映画の周辺の話である。 映画はテルアビブ空港でテロを起こし、死にきれなかった岡本公三がイスラエルの刑務所に監禁されるが、その「幽閉」の一部始終を、岡本と足立の体験から再現した、という触れこみ。 裁判のとき、岡本は「死んでオリオンの三つ星になる」と言ったと当時の新聞に載ったが、その2ヶ月前に生まれた長男にぼくはオリオンの名にちなんだ名前をつけていたので、そんなこと言うなよ、とおもった記憶がある。 映画は全編イスラエルの刑務所のなかという設定で、前半部分が拷問につぐ拷問、後半部分が刑務所のなかで精神が錯乱していく過程──が丹念に描写されていた。 ぼくなど一日も耐えられないだろう拷問と、現実と幻想が交差するなかで岡本公三が、あるいは足立自身が「生きつづけて」きた姿を示すことで、生きることの意味を問い直していたのだろうし、映画のチラシにあるように、拷問によって、「オレがオレでなくなっていく」「オレは一体何者なのか」という問いや、「世界はオレを受け入れない、しかしオレもまた世界を受け入れることができないでいる」という認識は世界中どこにでも、いっけん自由に暮らしていると錯覚している人々のなかにも、自覚的無自覚的にしろ存在している認識であり、それは、60年代、「荒野も密室である」と言った若松孝二の世界観を思いださせるものであり、この映画で、足立もまた、密室と荒野の関係を問い直していて、観客ひとりひとりの喉元に、「個の在り方」を突きつけようとしていた映画で、それはそれで足立の意図が率直に伝わってきた。 と、肯定的な書き方をしてきたが、映画だけを見れば岡本公三の、あるいは、足立正生の内面は確かにそうだろうし、観客であるぼくたちが自由な身であるという保証はなにひとつない、という訴えも、それはそうだろうが、では、殺されたイスラエル人の内面はどうなのか。宗教と領土を楯に戦っているイスラエル人ではあるが、非戦闘員まで無差別に殺したあげくの一方的な方法論で良しとしていいのだろうか。 もっとも、映画では、日本赤軍の三人はイスラエル兵士だけを狙ったが、混乱したイスラエル兵士が民間人を撃った、というほんとうはどうだかわからないセリフがあり、自己の正当性を語っていたのだが。 ぼくは、殺されることはあるかもしれないが、人は殺したくない、とおもってここまで生きてきたので、信念が殺人と結びつくことはぼくのなかでは、ない。 それに、登場人物がステレオタイプ的で「映画」という虚構のなかでは安っぽい人物造形しか見せてくれなかったことが残念だった。 低予算のため、ゴラン高原は会話だけでしか現れないし、日本人が外国人役を演じているのはしかたないにしても(荻野目慶子がパレスチナゲリラ役で出ていたのはお愛嬌だった)、イスラエル軍の幹部将校や、イスラエル軍の監視役、イスラエル側の聖教者、日本人の大学教授、幻想のなかで現れてくる伝説の革命家やテロリスト、みんなステレオタイプ的で、演技やセリフは笑って見るしかない、という残念さがあった。 が、はじめて足立正生の映画を見られて、まあ、よかった。足立正生という人はこういう人だということがすこし分かった。 岡本公三役は、団塊の世代の夢物語を描いたNHKの「プロジェクトX」のナレーションで名前を知られるようになった田口トモロヲが熱演していた。大変だったとおもう。 若松孝二が出ていたらしいが、どこに出ていたのか分からなかった。 なお、いま、NHKの朝の連続ドラマ『ドンド晴れ』で主役を張っている比嘉愛未が出てきて、びっくりした。キスシーンのおまけ付き。
7月21日、ギャラリーファウストで苅谷礼(27歳)絵画展「Line」を見にいく。南国市出身でベルリン在住だそうだ。 一見、美しかった。白も黒も、美しかった。ぼおっと眺めていたい美しさがあった。 綿布の上に岩絵の具で描かれているようだ。 遠い山並みの下に小さな集落、川が流れ、雲が流れ、作者は自然との親和力のなかに身をおき、自然を咀嚼しながら自然を写しとっている。 そこには、だれにとっても本来性であるべき「暮らし」がある。 自然が、自然であることの自由の内部にヒトの自由がある。苅谷さんの脳の外側に自然の自由があり、その自然の自由の懐で苅谷さんの脳がヒトの自由の存在を問いかけている。 苅谷さんのなかで、風景が、自由という抽象になり、それを描く苅谷さんも、自由という抽象のなかに具象としての「自然と私」の在り方を模索している。 抽象が具象に変わる瞬間、そのとき、苅谷さんは風景の向こう側の自然と、そこに暮らす人々の共生の姿を、自らの自由を保障してくれるものとしてキャンバスに定着させる──そんな印象を受けた。 夕方になると、村と山嶺に暗闇が訪れる。あたりは潤黒の闇に閉ざされるが、闇も畏れることはない。闇という自由がなければ、明という自由もないのだから。 苅谷さんは自由と対話しているのかもしれない。 7月30日、89歳、ベルイマンが亡くなった、と新聞の片隅に載っていた。 おなじ日、ミケランジェロ・アントニオーニも亡くなったと。94歳。 |