名言集




"" Despite -or rather because of-its vast weaponry and huge military establishment....the modern military state cannot defend the lives and property of its subjects against attack by any other modern state. All it can do is exact revene...""(John H. schaar)



 『現代国家はその巨大な兵器と途方も無い兵力にもかかわらず―あるいはむしろそれゆえ・・・他の現代国家の攻撃に対し自国の生命と財産を全く防衛し得ない。その国家が成し得るのは的確な報復のみなのである・・』
 この言葉は非常に私の心を打った。これは20年以上昔に書かれた本の言葉であるが、今でも、いや今でこそ十分に通用する。殺人者を殺しても殺された人は生き返らない。国家が防衛のために最強の軍備を揃えたところで、いや揃えたからこそそれはその攻撃力ゆえに使用することを許されないのである。そして最後の一文。的確な報復のみであると綴るこの文章はイラク戦争の皮肉を述べているとも思えるほどだ。最強の軍事大国アメリカ。先日ブッシュの再選が決まったわけだが、今のままではきっと立ち行かなくなるであろう。20年間人間は全く進歩していないわけではないのだ。
 確かに冷戦は終わった。もはや世界は一大国の時代に入っている。だからこそ世界世論に耳を傾けないと間違い無く自分に帰ってくると思うのである。それが本当のテロの教訓ではないだろうか。



人の一生は重き荷を負って遠き道を行くが如し。急ぐべからず、不自由を常と思えば不足なし。心に望みおこらば困窮したるときをおもいだすべし。堪忍は無事長久のもとい。怒りを敵と思え、勝つ事ばかりを知りて負くるを知らざれば害その身にいたる。己を責めて人を責むるな。及ばざるは過ぎたるに勝れり。(徳川家康)



 幼い頃から人質としての生活を強いられた徳川家康の心の根底にあったのが忍耐という言葉であろう。欲を出すことなく二番手の位置にいれば必ず一番手が転げ落ちる。織田信長、豊臣秀吉ではなく、『泣くまで待った』彼こそが、結果として他の二人がなし得なかった徳川時代300年の基礎を作り上げたのであった。現代の我々にも十分教訓として学ぶ事の多い言葉である。



過ちて改めざる、これを過ちという(論語)



これは非常に有名な孔子の論語にある言葉である。実に当たり前の事を言っているように思うが、これがなかなか難しい。自己の過ちを認めたくないという気持ちが心に生じる事の如何に多いことか。もう一度自らの行動を顧みる必要を感じる言葉である。



臣はもと布衣、躬ら南陽に耕す。いやしくも生命を乱世に全うして、聞達を諸侯に求めず。先帝、臣が卑鄙なるをもってせず、猥りにみずから枉屈して、三たび臣を草廬の中に顧みて、臣に諮るに当世の事をもってす。これに由って感激して、ついに先帝に許すに駆地をもってす。(『出師の表』諸葛亮孔明)



南陽で野望を抱く事もなくひっそりと暮らしていた孔明のもとへ、劉備は3度も草廬に訪ねるという礼を尽くした。みずからの高貴な身分すら顧みずに、地位も名声もなかった彼に対してとったこの行動が彼を感動させたのである。みずから師と仰ぐ人物に対しては最上の礼を尽くす事の大切さが窺える名文である。



天下は一人の天下にあらず、天下の天下なり。天下の利を同じくするものは天下を得、天下の利をほしいままにするものは天下を失う(六韜)



天下というものは決して君主一人のものではない。あくまで天下は天下のもの、全人民のものである。それを独占しようとする指導者は部下の信を失い、失敗する。上に立つものは個人的な見地からではなく、できるだけ集団全体としての益を考えて行動しなければならないというよい戒めである。



危急存亡の秋に際会するや、部下は仰いでその将帥に注目する(統帥綱領)



部下は重大な局面であればあるほど将帥を頼りにする。よって将帥は常に泰然自若として部下の不安を取り除かなければならない。上に立つものが先頭に立って意気を見せれば部下も勇気をもって事にあたることができるものである。自らの心境すら簡単に表にあらわしてはならないところが将帥の辛さであり、力が問われるところである。



むしろ鶏口となるも牛後となるなかれ(戦国策)



蘇秦の合従の策を象徴的に表している語である。大国の後ろを追従してその属国となるよりも、弱小国を率いて戦えという厳しい言葉であるが、核心に迫るものがある。実際大きいものの後ろについていくだけではやがてその影に隠れてしまい下手をすると取り込まれてしまう。それよりはリスクを顧みずに小さいものを取りまとめるリーダーとなる。それは一見わざわざ自らを苦しい状況におくという行動に思えるが、そうではない。理由は必要ないのだ。苦しい道を選ぶ魅力がこの言葉にある。



統帥の根源は指揮官の決心にして、命令は決心実行の重要手段なり(統帥綱領)



将に求められる資質として非常に重要である決心について述べた文である。決断を下すと言うことは非常に難しいものであるが、これが円滑に行われてこそ集団が秩序だって動くことができる。つまりこれができるものこそ上に立つものであり、逆に言うと上に立つものはこれができないとならないということである。誰しも上の立場として立ち振舞うことを余儀なくされる場面があるだろう。そんな時に意識しておきたい言葉である。




一、天下静謐たりといへども、遠近の諸国に目付けを置き、常にその風儀を覗せらるべき事。
一、名作の刀脇差等さのみ好まれまじく候。その故はたとひ万疋の太刀刀をもたりとも、百疋の槍百丁には勝れまじく候。しかれば、万疋を以って百疋の槍を百丁求め、百人に持たされ候はば、一方は相防ぐべき事。(『朝倉敏景十七箇条』)




朝倉敏景は、北条早雲とともに戦国時代のさきがけと言える人物である。この敏景の残した家訓には彼の将としての心構えが示されている。まず今回取り上げた一つ目では情報収集の重要性を教えている。当時の世はたとえ一見平和のように見えてもいつ敵が攻めてくるかわからないということを忘れてはならないと戒めている。そして敏景の考え方を最もよく表していると思われるのが二つ目である。武器は実用性を第一とし、名刀よりも安い槍を百本揃えろと教えている。敏景の戦国武将としての合理的な考え方が窺えて実に面白い。かくして下克上、常在戦場の時代が幕を開くのである。


吾らの詞もその理あり。さりながら身を全ふして幾度も主君の先途に立ち、高名分捕りするこそ勇士の本意と言い伝ふ。しかれば今この薬を呑みて後日の汚名を思はんより、これを服して命を継ば君への忠節至極たるべし。異国の越王勾践は呉王夫差の石麻をなめて会稽の恥を雪がれしといふ事自他以ってよく知る所なり。(甘利昌忠『関八州古戦録』)



甘利昌忠は武田家譜代の重臣の家に生まれ、信玄が北条氏政野要請にこたえて出陣した際に従軍した。この言葉はその時城方の一斉射撃によって重傷を負った家臣彦次郎に対し発せられた言葉である。当時、葦毛の馬糞汁は、腹部の槍傷などの特効薬と信じられていたので、従者が負傷した彦次郎にそれを飲むように勧めた。しかし彦次郎は武士の恥として頑として飲もうとしない。それを聞いた昌忠が彦次郎のもとに赴いて上記のように諭したのである。だが彦次郎はそれでも飲もうとはしなかった。すると昌忠はなんと柄杓を取って自ら馬糞汁を飲んで見せたのである。部下のためにここまでする将。甘利衆が将のために命を捨てて戦ったのも頷ける。その後彦次郎が命を取り留めたのは言うまでもない。



人の落ち目を見て攻め取るは、
        本意ならぬことなり(上杉謙信)




戦国の世、駿河の今川氏真、関東一帯を支配下に置いた北条氏康が、共に内陸で塩に乏しい甲府の武田に対して塩止めをしたことがある。経済的な制裁は当時としては敵の力をそぐ有効な手段として当然のことである。しかし謙信は違った。当時の適正価格で塩を武田家に売ったのである。上杉謙信は謀略、だまし討ちの横行していた戦国の世にあって義というものを非常に大事にした稀有の武将である。真っ向から攻め、そして強い。この言葉はそんな武将としての謙信の清廉さを感じさせる言葉である。


人は城 人は石垣 人は堀
       情は味方 仇は敵なり(武田信玄)




武田信玄は他の大名のように大きな城を造らなかった。
それは、信頼する家臣こそが、国を守るもとであるという考え方からである。
信頼されると家臣は、より忠義に励む。
このような理由から信玄の軍団は戦国一の名をほしいままにしているのである。


是非に及ばず候(織田信長)



織田信長は本能寺にて不本意な最期を遂げる。
常人なら未練がましく逃げることを考えただろう。
しかし、信長は、光秀なら敵うまいと瞬時に判断し、最後に槍を持って戦った。
そしてしばらくすると屋敷に火を放ち、自刃した。なんとも潔い。
花の慶次という漫画にこんな話がある。
昔、甲斐の蝙蝠という伝説の忍びがいた。
本能寺にて信長の首を取ろうと進入した。
それに気がついた信長は、全身に炎をまとい、こう言った。
「わしの首ほしくば、地獄まで供をせい。」
信長の最後は美しかった・・・そうな。



七年の病なければ
三年の藻草も用いず
雲無心にしてくぎを出るもまたをかし
詩歌に心無ければ月下も苦にならず
寝たき時は昼も寝
起きたき時は夜も起きる
九品蓮台に至らんと思う欲心なければ
八幡地獄におつべき罪もなし
生きるだけ生きたらば
死ぬでもあらうかと思ふ
(前田慶次)


前田慶次は、戦国無双の歌舞伎者で、諸国を放浪し、最後には上杉家に落ち着く。
しかし、資料は少なく、知る人も少ないのが実情である。
彼の生き方は、我々から見てもまさに痛快で、戦国時代の枠にとらわれていない。
そんな彼の人生をまさに絶妙に表現したのがこの言葉ではなかろうか。


月よ、われに七難八苦を与えたまえ(山中鹿之助)


山中鹿之助は、戦国の世を生き抜いた、ゲリラ的戦法を得意とする武人である。
尼子十勇士の筆頭であり、主家再興の忠誠心は、他に類をみないものであろう。


我人に勝つ道は知らず
我に勝つ道を知りたり
(柳生宗矩)



柳生宗矩は将軍師範として剣術を教えていた人物である。
新陰流の開祖柳生宗厳の第5子である。
秀忠は、宗矩にかなりの信頼を寄せてたことが知られている。



五月雨は
梅雨か流れか
ほととぎす
わが名をあげよ
雲のうへまで
(足利義輝)


足利義輝は、足利13代将軍ながら、剣豪として名を馳せた人物である。
その壮絶な最後は実に凄まじく我々の心に残る。
周りを敵に包囲され、義輝は、種々の名刀を自分の周りに突き刺して、敵をばったばったと倒し、切れ味が悪くなると刀を交換し、戦ったという。
最後は後ろから足を払われ、もんどりを打って倒れ、いっせいに刺された・・・という。



おもしろき
こともなき世を
おもしろく
すみなすものは
心なりけり
(高杉晋作)


高杉晋作はご存知奇兵隊を作った人物である。
その晋作は死に際し、「おもしろき こともなき世を おもしろく」と書いて力尽き、筆を置いた。
これに野村望東尼が「すみなすものは 心なりけり」と続けた。
晋作は「おもしろいのお」とつぶやいて目を閉じた。
27歳8ヶ月の波乱の生涯であった。













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