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神の自叙伝 反省編・改正編・決断編
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 (English Version is now up)
An
Autobiography Of Good
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発行所:株式会社エムイーシー |
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定価 \3,500.- A5変形 522ページ ハードカバー
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宇宙創生と共に 神を仰ぎながら生物の頂点に立った地球人・人間が今ここに宇宙の神秘の扉の鍵穴に科学という鍵を入れてこじ開けようとしている。 もしもこの扉が人間の手で開けられたらその扉の向こうにいる『神の本当の姿』を見て驚くことだろう。 神はもう間もなくやって来る。その瞬間の前に、その姿を自ら、人間の前に現わすために自叙伝を書いた。と記しています。作者渾身の作品です。
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| わたしは
50億年前に 地球とともに 神として 生まれた その前
溯ること100億年前に 宇宙とともに
生まれたものがあったらしいが わたしは
そのことは 何も知らない わたしは この地球上に
すべての 物の支配者として 生まれた 最初の物は
水だった そして 水が 無い物ねだりをしたので つい
神心が出て 水の遊び相手を創った それが
土だった これが わたしの最初の間違いだった 土は
水にもて遊ばれて とうとう 逃げてしまった そして
水と 一線を画した それが 陸の誕生だった そして
水は対抗して 海を創った これが ボタンの
かけ間違いの はじまりだった この海と陸が
わたしの中にも生まれた そして わたしの中に
自由という悪魔が 生まれたようだ それ以来
わたしは 悪魔と同居している わたしが
何かしようとすると 悪魔が言う 自分にも
何かさせて欲しいと わたしは また 神心を出して
それを許す そして とうとう 悪魔に とんでもない物を
創らした それが 人間という 生き物だ わたしは
しまった! と思ったが 手遅れだった だが
悪魔の創った人間は まだ悪魔の心の中だけにいた わたしは
なんとかしなければ! と思って必死に考えた そして
海の中に 最初の 実体のある 生き物を 創った だが
陸も それを 欲しがった つい また神心が出て
陸にも生き物を与えた それが また わたしの間違いだった 陸の生き物の中に
悪魔が入りこんだ 悪魔の狙いは 実体のある人間を創りだすことだった 陸の生き物の中に
想像だけだった人間が入りこんだ あとは
悪魔の思う壷だった 悪魔が生んだ人間が
やりたい放題 わたしは 後悔して 反省しても
間違いの繰り返し それ以来 わたしは 何とかしなければ!
の繰り返しだ いつに なったら 悪魔と袂を分かつ時が来るのだろう 多分
わたしが 死なない限り 悪魔は 離れないだろう だけど
わたしは 死ぬ勇気が出せない そして つい
悪魔に迎合する 人間は 悪魔を神と信じている わたしは
思う 何とかしなければ! それが わたしの
終わりのない一生だ
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神の自叙伝 反省編 はじめに
ニーチェは「神は死んだ」と言って発狂しました。 なぜ彼はそう思ったのでしょうか。 神という存在自体が矛盾そのものだと思ったのではないかと私は思うのです。 人は生きることで悩み、苦しみ、そして生あるものには必ず死がやってくるという絶対なる事実に怯える。 逆に、幸せとか、喜びとかに絶対性があるのかと言えば、それは残念ながらノーと言わざるを得ません。 怯える死は絶対性がある。それなら生きることは果たして幸せなのか。 人生を楽しみなさい。とよく言われますが死という絶対的なものに怯える限り、人生を楽しむなんて不可能なことではないでしょうか。 それなのに、人類の歴史で人は変われど、処は変われど、時代は変われど、必ず登場するのが神の概念であります。 未だに人類の初期の生き方をしているアフリカやアマゾンの奥地にいる人たちにも神の概念はあります。 文明の先端をきっている欧米諸国や日本でも神の概念は厳然とあります。 それでは、神の概念は一体どういうところから生まれて来たのでしょうか。 それは、現象は様々であっても、人間が生きていく上で形而下的問題であっても、形而上的問題であっても、要するに苦痛、悩み、苦しみから解放されたいがために神の概念を創ったのではないでしょうか。 神なら救ってくれる。と思ったからでしょう。それなのに神の概念が生まれた太古の時代から未だに問題は解決されていない。 何かが間違っていると思わないのでしょうか。 こんなにずっと神を信じ、神に頼ってきた人類なのに、そのために何千、何万、何十万の宗教が生まれてきたのに未だに人間の苦悩はなくなっていない。かえって増えている。それなのに神にたいする概念は変わらない。 わたしは、神の概念を見直すべき、ときが今こそ来たと思うのです。 神の存在の有無を問うのではない。無神論を提唱しているのではない。 神の在り方を考え直すべきだと言っているのです。 今までの神の在り方を定義してきたのは、我々人間であったのですから、我々がその定義を変えることは出来るはずです。 中には、「とんでもないことを言う奴だ、神は人間ではない、遥かに大きい万能の存在であるのに、その神の概念を変えろとは。自分は神の啓示を受けたから、大いなる神の存在を知っている」とおっしゃる方たちがいるでしょう。宗教団体の教祖様たちはみんな口を揃えてそう言われるでしょう。 そういう方々に、敢えて訊ねたい。 ならば、あなたの信者の方々はみんな苦痛、悩み、苦しみはまったくないのですか。苦痛、悩み、苦しみがあるから、あなたのところへ来たのではないのですか。 それに対して、あなたは全部解消してあげることが出来たのですか。 何故、教団の中でもめごと、不満が絶えないのですか。何故、教祖様の後継者問題で争いが起きるのですか。一体あなた方の神は何をしているのですか。 この本質を、神を信じるあらゆる宗教団体の信者の方々によく考えて頂きたい。 わたしはこう思います。「神は決して万能ではない。神にも悩み、迷いがある。だけど神はわたしたち人間を含めて森羅万象すべてのものの為に一生懸命考えていてくださる有り難い存在である」 だから、神を困らせてはいけない。ときには我々人間が神を助けてあげなければならない。 どうやら、神というのはときには悪魔にもなる、地獄に我々を落とす冷酷非情なものである面を持っているものだと思えてなりません。 そうなると、今までの宗教の概念を根底から覆さなければなりません。 神はひょっとして、あなたにとっては非常に都合の悪い存在になるかもしれません。 そのとき、はじめて根本はあなた自身にあるということが解ってくるのではないでしょうか。 それが、悟りというものかもしれません。悟りとは何かを達成するのではなく、簡単な本質をただ知ることだとなると、誰でもすぐ悟ることが出来る。神の概念がその邪魔をしてきたのではないかと思うのです。 したがって、神の立場になって、神の本音を語ってみたいと思いました。 ただ誤解されては困るのですが、こういうわたしも、こういった考えに至ったのはほんの最近のことで、宇宙の中に存在する最も微少な粒子であるニュートリノに質量があるということが解明され、今まで宇宙はビッグバン以後膨張し続けてきたという説が絶対ではなくなりそうで、収縮もあり得ることが解ってきたという事実からです。 そうすると、上がり下がり、喜び哀しみ、幸・不幸、健康病気、……といった現象と符合する。 神の概念とは符合しなかったことが、やっと符合できたと思ったとき、神は「やっと、自分のことを解ってくれた、よかった」と言っておられるような気持ちになりました。 だから、僭越だとは思いましたが、表現してみようと思ったのであって、決してわたしが悟ったなんて思ったからではありません。
目 次 |
| 神の自叙伝 改正編 はじめに
「神の自叙伝」(反省編)では、人類から進化した人間が文明を開花していく中で最初は自然崇拝であったものが、だんだん人間的なものを崇拝するようになった結果、神という概念と共に宗教が興っていった過程を書き、その過程において人間がいかに地球レベルでは自然というか、つまり宇宙世界と乖離していくことが人間世界にも大きな不幸をもたらしたかを検証してみました。 その中で宇宙の意識がそれぞれのレベル、すなわち無限の世界、果てのない世界と言ってもいい絶対宇宙から、我々地球や太陽や銀河星雲を構成している全体宇宙、その中で我々太陽系恒星が無数にある星雲、また星雲の中に存在する太陽系恒星、そしてその惑星群とその惑星である地球、その地球の衛星である月。 これら7つの意識である「想い」が、それぞれの対応した星やその集団にどのような影響を与えてきたかを推論し、特に人間が住む地球の意識がその上にある太陽と、その下にある月との相対性を守りながら、地球に住む人間との関りにおいて神と崇拝されながらも、人間のご都合主義に振りまわされてきたかを象徴的に書いてみました。 ある意味で人間を創った結果、地球という星が逆に人間に振り回され、地球の意識が深く悩んでいく姿を描いてみました。 意識が悩むことは本来ありません。しかしそれは高いレベルの意識であって絶対宇宙とか大宇宙とか星雲宇宙といったレベルではそうでしょうが、肉体を持った、つまり一個体としての物体を持った星である太陽のような恒星になりますと意識だけではなく肉体をも持つ意識レベルになると悩みが生じる。そのあたりから意識の中に悩み苦しむ機能というか能力を持った心というものが、意識が多様化されて生まれてきました。そしてその意識の多様化した末端レベルに人間という地球上に住む生命体があり、その生命体と地球の意識の多様化した「想い」である心と、地球から物体として分化した月の意識の「想い」である心とがおりなす相対関係の中での葛藤、すなわち悩みの発生原因をそれぞれの立場で人間的に表現してみました。 その中で「反省」するということが、多様化した、分化した、言いかえればばらばらに無秩序になってしまった意識を結晶化させて、本来の悩み苦しむことのない意識に戻れることが出来る一つの方法である、と結論づけました。 しかし反省が反省だけで止まっていては、せっかく結晶化した意識もまた無秩序な状態の心にすぐに戻ってしまいます。逆にもっと高い意識レベルに上げていくためには反省だけで止まらず、常に正しい心に改めていこうとする姿勢が必要となります。 ここではそれを「改正編」として描いていこうと思っています。 高い意識への道距はまだまだ果てしのない遠いものであります。
平成12年11月24日 新 田 論
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| 『神の自叙伝』反省編・改正編を終わって
わたしは、今まで、神の存在というものについて、じっくりと考えてきたことがありませんでした。 神という言葉自体が、人間の造語であって、もし神が存在するなら、何と思われているだろうかと、最近になって疑問が湧いてきました。神
、ゴッド、アラー、…世界 中の国で神のことを自分たちなりに命名しています。 もし、神が存在しないなら、これだけのいろいろな名前があっても不思議ではありません。それぞれの観念が創り出したものですから。 しかし、もし本当に神が存在したならば、我々人間は、その存在にいったいどう対処することが正しいことなのでしょうか。 自然の中で生きている動物は、どうでしょうか。 彼等は、神の存在を知っているのでしょうか。いや知らないでしょう。自然のルールを本能的に知っているだけでしょう。 しかし、少なくとも、彼等の方が、神の存在に近いところで生きているような気がしませんか。 人間が、神から一番遠いところで生きているように思えてなりません。 それ故に神の存在の有無を論議するのではないでしょうか。 動物たちは、神のそばで生きているために、神の存在を疑ったことがないのだと思うのです。 本当に、神の存在を知りたいのなら、もっと神のそばで生きてみることではないでしょうか。 それには、どうしたらいいのか。 次の決断編で検証してみたいと思います。
平成13年2月5日
新 田 論
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神の自叙伝 決断編 はじめに
神の自叙伝も、自叙伝という過去の出来事を遡り、振りかえり、これは良かったとか、これは良くなかったとか、そのためにはどうあるべきであったかという自叙伝の本来の意図としては、前の反省編・改正編で充分ではなかったかと思います。 しかし、何故、神が自叙伝を書かなければならなかったか。 それは、未来に対する警鐘が目的であります。そのための自叙伝であった訳であります。 そうすると、これから何を為さねばならないのかが一番大事なこととなってくるのであります。 そのために、決断・実行が要求される訳であります。 実行するには、言葉は必要ありません。 しかし、その前に決断が要ります。決断は明確に言葉に出すことであります。 この決断編では、実行すべきことを明確に言葉で表現することに重点をおいて、書いてみたいと思っています。 神の決意の程が、どれほどのものかを、読者のみなさんに少しでも、伝えられたら決断編の目的は達成できたということになるでしょう。
平成13年2月22日 新 田 論
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| 神の自叙伝−Intermission−
平成12年10月21日に、この「神の自叙伝」のペンを取りました。 それから約4ヶ月で(反省編)・(改正編)そして(決断編)を書きあげました。 実は(改正編)を書きあげた、平成13年2月5日、つまりほんの3週間前には、改正編を書くのに少々疲れまして、決断編はしばらく猶予下さい、と申しあげてきました。 ところが去る2月22日の朝に急に、書きたい想いが湧いてきまして、すぐに横にあったハンディーパソコンを引っ張り出して書き始めたのであります。 朝5時の出来事であります。 それから、取り憑かれたように書き続けまして、今、書き終えて、非常に充実感を感じております。 改正編の時のような疲れもまったく感じません。 多分、最終章の「決断から実行・終幕」で書きましたように、実行編は2020年にならないと書けません。それまではゆっくり出来ると思ったら、気楽になってペンの走りがスピードアップしたからだと思います。 昨年の10月21日に書き始めたのも、何かの突きあげを感じたからでありました。 今回の決断編も、考えてもみなかったのに、今、目の前に書き終えた原稿をつくづく眺めながら、人間の潜在能力の大きさに驚きます。 この「神の自叙伝」は、わたしが、常々疑問に思っておりました、神という言葉、概念に、いつかは自分で決着をつけねばならないと思っていたことが、潜在意識にあって、その突きあげで、書いたものであるのです。 書き終えて、書き始めた際には、考えられなかった神へのいろいろな思案が残像として、新たにわたしの心の中に刻印されたことは、この上ない喜びであります。 自己満足かも知れませんが、非常に心地良い気持ちがいたします。 それに加えて、更に神への信頼感が増したような気がいたします。
平成13年2月25日
新 田 論
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