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鬼神
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鬼神 ルノーの妹 NOBUNAGA 果てしない彷徨 さようなら!

copyright.gif 鬼 神 上・中・下

新田論小説鬼神(上)
新田論小説鬼神(中)
新田論小説鬼神(下)

発行所:株式会社エムイーシー 

本の注文ページへ定価 上・中・下 各\1,800.-(税込)
A5変形  平均227ページ  ソフトカバー

  何故 新田論は、あくなきテーマに拘って世に挑戦の矢を放つのか。 それに対する返事は、怒りである。
  小汚い、悪臭を放つ、人間のこころの中に潜む鬼を、公衆の面前に引きずり出すことでしか、薄汚れた腹わたを浄化することができないからである。
  人間すべてが保つている、この薄汚れた腹わたを浄化しない限り、真の永遠の平和は望めない。
真の平和は、政治や経済や、ましてや宗教で得られるものではない。
  自己の平和が、他人(ひと)の平和と鎖で繋がれていく延長に、真の平和が存在する、その探求のために、ひとりの鬼が旅立った。何かに突き動かされて。
   この作品のテーマは地球上に誕生したユニークな生命体である人間が、その誕生した母体である地球のみならず、宇宙全体に厳然と在るルール(掟)を無視し、自分たちの勝手な掟を、人間社会に押しつけるだけでなく、地球、宇宙に対しても当てはめようとする傲慢さに警鐘を鳴らすことであります。
  我々人類の辿ってきた道は、常に平和を標榜しながらも、実は平和を避け、じめじめした暗闇の地獄の世界を楽しんできた歴史ではなかったでしょうか。
  少なくとも、そう思われても仕方ないほど殺伐とした出来事の連続でありました。
本当に我々人類が望んだ世界であったのでしょうか。
  答えはノーでしょう。では何故?
  その理由は、人類が人間になったとき、すなわち、他の生物と同じ類に入っていた人類が、その世界と袂を分かち、個別の意識を持ったからではないでしょうか。
  人と人の間にいるから人間と、誰が名づけたか知りませんが、そこに個別の意識を強烈に感じるのは著者だけでしょうか。


 (プロローグ)

  かつて国常立命(クニトコタチノミコト)ありて、天御中主命(アメノミナカヌシノミコト)を表の世界の創造神として差し向けた。
 それ以来、天御中主の天を採って天津神(アマツカミ)と称し、その後継者に天照命(アマテラスノミコト)を日の本の支配者として降臨させた。
 いっぽう、国常立の国を採って国津神(クニツカミ)と称し、その後継者に須佐乃男命(スサノオノミコト)を日の本の真の支配者として降臨させた。
 しかし、天津神は国津神を邪魔者とし、日の本から追放した。
 そのときから、この日の本の国は奇妙な国になり、今その奇妙さが極致に達するに至った。
 そして国津神は、表の世界を好しとせず、裏の世界を好しとして裏の世界の大神(オオカミ)を、丑寅の金神(ウシトラノコンジン)として、表の世界の掃除役を引き受けた。
 その時から、国常立命は、厄神と言われるようになった。
 今ここに、厄神が表の世界に登場し、大掃除をすることになった。
 厄神は、人間の姿形に変装して、世界の大掃除を開始する。
 地球の平和を願う厄神が、2001年4月1日に、日の本の地に足を踏み入れたその場所は………。
 鬱蒼とした竹林の奥深く、厄神は降り立った。
 その時、ひとりの男が 歩いていた。頑丈な体を持っていて、明晰なる頭脳を具えたその男に、厄神は憑依(のりうつっ)た。
 その男の名前は、鬼神(おにがみ) 四郎(The Devil)と言う。
 憑依の瞬間、The Devil は ニタッ と笑った。その時からこの物語は始まる。


 <前編>

 <後編>

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 「鬼神(十部作)」執筆にあたって

  各部の題名の通り、この作品のテーマは地球上に誕生したユニークな生命体である人間が、その誕生した母体である地球のみならず、宇宙全体に厳然と在るルール(掟)を無視し、自分たちの勝手な掟を、人間社会に押しつけるだけでなく、地球、宇宙に対しても当てはめようとする傲慢さに警鐘を鳴らすことであります。
 我々人類の辿ってきた道は、常に平和を標榜しながらも、実は平和を避け、じめじめした暗闇の地獄の世界を楽しんできた歴史ではなかったでしょうか。
 少なくとも、そう思われても仕方ないほど殺伐とした出来事の連続でありました。
本当に我々人類が望んだ世界であったのでしょうか。
 答えはノーでしょう。では何故?
 その理由は、人類が人間になったとき、すなわち、他の生物と同じ類に入っていた人類が、その世界と袂を分かち、個別の意識を持ったからではないでしょうか。
 人と人の間にいるから人間と、誰が名づけたか知りませんが、そこに個別の意識を強烈に感じるのは著者だけでしょうか。
 ユニークな生命体と申しあげたのも、皮肉を込めて言ったのであります。
 しかし、普段の人間は、そんな意識を持って毎日を生きているでしょうか。
 たとえば、最近起こったKSD事件を、みなさんはもう忘れてしまっているでしょう。 それよりもロッキード事件の方がよく憶えているのではないでしょうか。
 おかしいと思いませんか。
 ロッキード事件は、もう20年以上も前の事なのに、まだ脳裏に残っている。KSD事件は、まだ1年も経っていないのに忘れてしまっている。
 それは何故でしょう。
 答えは、個別意識を持った人間でありながら、その意識を眠らせているからです。
 自然と、地球と、宇宙と敢えて袂を分かってまで自己の道を選んだ人間が、その一番大事な個別の意識を眠らされて生きているからです。
 では一体誰が眠らせているのでしょう。
 それは、この愚かさを知り抜いた一部の冷酷で狡猾極まる人間によって眠らされているのです。
 「KSD事件は、忘れさせろ」、「ロッキード事件は忘れさせるな」と指令している人間のグループがいるからではないでしょうか。
 マスコミはその指令に従って、情報操作をして、一般大衆を操っているとしか思えません。
 新聞やテレビで連日放送すれば、大衆は騒ぎだすが、放送を止めれば、すぐ忘れてしまう人間の性癖を知り抜いた実に卑劣な行為だと思えてなりません。
 そして、それに加担した人間たちだけが、洗脳されている一般大衆に気づかれないように搾取して、この世的成功をおさめているのが現実社会ではないでしょうか。
 KSD事件とロッキード事件を考えてみて著者は、この卑劣な連中に憤りを感じるのです。この卑劣な連中が、無力な民主主義の中で合法的(彼らのつくった彼らの都合に合わせた法律)に権力を握り、一般大衆である我々から搾取していることに、もういい加減、目を覚まさなければなりません。
 そのために警鐘を鳴らしているのです。
 民主主義憲法の下の三権分立など、このKSD事件を考えてみて、まやかしそのものと思えて仕方ありません。
 ロッキード事件で一国の総理大臣をも血祭りにあげた司法権力が、KSD事件では、ロッキード事件と同質のグラマン事件では、何をしたのでしょうか。闇から闇に葬ったとしか思えません。
 司法権力の公正さを疑わざるを得ないと感じるのは著者ひとりだけでしょうか。
 ところが巷の書店で見かける氾濫した低劣な書籍を買いあさるのは、我々一般大衆であるのです。
 我々一般大衆が、あまりにも愚かであるが故に、卑劣な連中に搾取されているのです。
 もういい加減に目を覚まそうではありませんか。
 著者の「心の旅の案内書」「神の自叙伝」そして「鬼神」は、人間となった人類が、絶対に忘れてはならないものを忘れてしまったことに対する警世の書であります。

                        平成十三年四月一日
 


「鬼神」終わりにあたって

 本年2001年4月1日に「鬼神」第一部(神がかりの殺人鬼)を書き始めました。
 物語も2001年4月1日から始まることにし、そのときに十部作と決め、タイトルだけを決めました。
第一部  神がかりの殺人鬼
第二部  人間の掟
第三部  地球の掟
第四部  人間の平和
第五部  地球の平和
第六部  宇宙の掟
第七部  宇宙の平和
第八部  自己の平和
第九部  永遠の平和
第十部  死の平和
 そして第五部までを書き上げたところで前編として出版するつもりでおりました。
ところが、第五部までの前編は、ハードボイルドなタッチの小説になっており、わたくしがテーマとした作品の意図は後編にあり、前編はその序章にしか過ぎないはずでありましたが、内容の強烈さが余りにも目立つ結果になってしまいました。
 このまま前編だけを出版すれば、主題の後編を縛りつける恐れがあると感じたわたくしは前編の出版を取りやめ、後編まで一気に書き上げることにしたのです。
 「鬼神(十部作)」執筆にあたって でも書きましたが、この作品の完成を、わたくしの55歳の誕生日であります2002年1月27日と決めておりました。
 すなわち10ヶ月で十部作を書くつもりで始めたのです。
 わたくしは、自己の存在を残しておきたい衝動に駆られて昨年2月の何日かは失念いたしましたが、それまで文を書くことなど考えてもいなかった筆無精が「心の旅の案内書」の原稿を書き始めたのです。
 「継続は力なり」がわたくしの座右の銘でありまして、とにかく少しでもいいから毎日書き続けようと決心したのです。
 そして、気がついたら7月には書き上げることが出来ていたのです。
 奇跡とも思うほどの速さに驚きました。
 そして本にしようと思い、昨年9月20日から本格的に編集に入りましたら、ある日、「神の自叙伝」という言葉が浮かんできたのです。
 そして当時、ある立派な画家の先生に「神の自叙伝」という作品を書いてみたいと思っていると相談したのです。
 その先生は「神の自叙伝」というタイトルだけで驚かれ、わたくしに作品の主旨を聞かれました。
 「人間の歴史を考えてみますと、常に神の存在が随所に現われていますが、もし本当に神というものが存在するなら、神は人間が勝手に造りあげたいろいろな自分の名前や姿を何と思われるでしょうか。
 『わたしのことを知りもしないで、見たこともなくて、人間の都合だけで勝手なことを偉そうに宣ふな!』と思われるのではないでしょうか。
 昔の八百万の神様なら、先祖様を崇めることなのでいいのですが、最近の十数万を超える新興宗教の氾濫をどう思われるでしょうか。
 わたくしは、神がもし存在したらの仮定で、その想いを自叙伝風に書いてみたいのです。」と答えました。
 そうして「神の自叙伝」を昨年10月21日から書き始め、本年2月25日に書き上げたのであります。
 その時も、最初に各部のタイトルを決めました。
第一部 反省編
第二部 改正編
第三部 決断編
第四部 実行編
第五部 終幕編
 そして第三部までを「神の自叙伝」として出版いたしました。
 その(終わりに)の替わりに第三十九章「決断から実行・終幕」及び「神の自叙伝 Intermission」として(第四部 実行編)、(第五部 終幕編)は2020年から始まるのでしばらく休憩といたします。で閉じました。
 しかし、わたくしは2020年まで生きているか分かりません。
 実は「鬼神」十部作は、「神の自叙伝」(第四部 実行編)(第五部 終幕編)であるのです。
 自己の存在を残しておきたいという衝動のエネルギーは、この三つの作品を書き終えることで完全燃焼いたしました。
 ただ、この作品を世に出すかどうかはまだ決めておりません。
 理由は、余りにも内容が過激であるからです。
 所詮、わたくしも人の世に生きておる凡夫であることを認めざるを得ません。
しかし、今は魂の充足感を味わっております。

                                         平成十三年十一月十六日     新 田   論

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