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Iesus Nazarenus Rex Iudaeorum

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新しい契約

自宅聖餐式のすすめ



重要なお知らせ(現在、私は教会に所属したため、自宅聖餐式はやっていません)

一人で、聖体拝領行うことは、私的なミサ(missa privataと呼ばれ、司祭・牧師が行う場合であっても、カトリック・プロテスタント共に異端視されています。自分の救いのみを考えているうちは救われないこと、使徒教会でもグループで愛餐会の意味合いが強かったこと、神への礼拝は複数で行っていること主がパンを分けているということ、様々な理由が挙げられます。一人では愛やゆるしは生まれないことから、2人以上で行うことが望ましいと思います。ただ、緊急避難的に、一人で聖餐式を行ったからといって、はあなたを罰するような方ではありません。近所の教会を早めに見つけ、教会へ行くようになったら、一人での聖体拝領は教会のきまりにしたがって、やめましょう。



以下のような方は読み進んでください。

・近所に、自分にあった教会がない方へ

・家族の都合などで、教会へいけない方へ

・教会の人間関係に疲れてしまった方へ

・教会の様々な弊害(権威主義、組織優先、司祭・牧師の限界、等など)に疑問を持たれている方へ

・カルト教団などで、教会不信に陥ってしまった方へ

・離島、経済的理由などで、司祭・牧師がいない教会の方へ

・その他、イエスキリストを救い主と認める多くの方へ

+自宅聖餐式のすすめ

ようこそ、「新しい契約」(自宅聖餐式のすすめ)にいらっしゃいました。

ここにあなたがいらっしゃったのは、興味本位のこともあるでしょうし、教会の教えに疲れ、主を求めていることもあるでしょう。このHPは以下のような方々のためにあります。また、特定の教団、教会への勧誘を目的とするものではありません。

十一献金もなければ、信者も獲得しなくてもいいです。主にのみ繋がっていけるようにすることが目的です。そのようなお金があったら、ユニセフにでも寄付してください。みな、主にあってひとつ、ということがいいたいだけです。

ただし、その人なりの縁のようなもの(神のわざ)によって、すんなり気に入った教会が近所に見つからない人が多くいることも事実です。なお、洗礼の有無については、主が特にこだわったという記載がないことから、私も拘らない事としました。洗礼を受けていようといまいと、主は救ってくださると考えます。逆に、弊害として、自分はクリスチャン(洗礼済み)だから、何派だから、正当派だからとかで、自分たちだけが救われる、とすることのほうが危険な感じがしますし、一方に対しもう一方は常に救われないこととなり、論理的に矛盾していますし、主の教えとも異なると思います。

教会に属していない人々の間での聖餐というのは、天上の不可視の教会に属する人々による、制度化されていなくとも可視的な(一時的なものであれ)共同体を形成するもの達による、その共同体の共同意思としての聖餐である以上、十分に肯いうるものである様に思われます。

「ミサ」「聖餐式」、この名称を使用すると、その名称に思い入れのある方もいらっしゃるので、私は「新しい契約」と呼ぶ事にしました。

我々が存在するこの世は仮の姿であり、国籍は天界にあるのです。天上の教会に心があるのなら、我々がどこの教会に属していなくても、主は、我々が自宅で聖体拝領を行うことを罰するような方ではないと、思います。

また、福音書のどこにも、私の使徒伝承による正統派教会からのみ、そのパンを受けなさいという記述がないこと、むしろ、「広場でお教えを受けた」=正統派教会としても、狭い戸口から入らなくては難しいのです。また、後のものが先になり、「東西南北」(カールラーナーの包括主義と思われる)から来て、宴会の席につくと言われているのです。

さらに、「先生や教師と呼ばれてはならない」、と主ははっきり言われています。これは、司祭や牧師(先生や教師)だけが、聖体拝領を行うことができるという我々のいわれなき誤解をはっきり否定しています。我々は、一人一人が主と直接に繋がっているのであり、聖職者の介在は本来必要ないというより、主は求めていないのです。また、「知識のかぎ」についても、特定のだれか(司祭など)が専有することを厳しく諌めています。神学校を出ている、司祭・牧師の免許がある、そうしたことは、すべて人間がつくったきまりごとということも自明のことかと思います。

すなわち、いかなる司祭、牧師であっても完璧ではない、ましてその組織としての教会となればなおさらのこと。どの教会の、あるいは司祭によるパンは聖変化するが、他の教会のパンは聖変化しないなどと主が言うでしょうか。神学校へ行っていない単立の教会のパンは聖変化しないのでしょうか。他の教会や牧師、司祭に対する批判は慎むべきと思います。過ちは赦さなければ、自分の過ちも赦してもらえず、裁くものは裁かれるのですから。つまりは、完全な祭司は主お一人であり、その他は、どの教派であっても、主から見れば、みな救われてほしい、ということになるのかと思うのです。


聖体を求める事に躊躇すべきではないと思います。「うるさい友人」のように日々求めていきましょう。

祈りだけでは、限界があります。主がそうしなさい、と言って下さっている以上、聖体拝領の秘蹟に、甘えることも必要かと思います。その秘蹟により、我々の人智を超えたところで、主は、我々を試みに陥らないようお導きくださることでしょう。

主への愛、隣人愛が心から実践できるようになるために、神聖きわまりない秘蹟である聖餐式を常に行い、自身が主の食卓に招かれるようになりたいものです。

 参考にしたのは初代教会のミサ最古の資料と言われる「聖ヒッポリュトスの使徒伝承」(オリエンス宗教研究所)を中心としました(以下、伝承と略。1章〜43章まであるので伝承7のように略記する)。少し高いですが、興味のある方はご購入ください。http://www.oriens.or.jp/

+本当に聖餐式を自宅でやっていいか

聖書の言葉

カトリック G・ネラン司祭 信徒がミサを捧げることの見解

内村鑑三の見解

+聖体拝領とは

マリア・ワルトルタ及び聖イグナチオ    マリア・ワルトルタについては、パンプキンさんのHPをご覧下さい。聖イグナチオはカトリックのイエズス会(日本では、フランシスコザビエルで有名)の創設者です。

聖餐式の形態(カトリック、正教、マリア・ワルトルタ、ヒッポリュトス)

聖餐式の準備

聖餐式の・式次第、解説

Iesus Hominum Salvator ΙΗΣ  In     Hoc    Signo  

Iesum Habemus Socium

「新しい契約」は、既存のカトリック、正教、プロテスタントなどの特定の教会・教団とは一切関係がありません。

リンク、引用などは、ご自由にどうぞ。

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