10章 大地のしずく  

 

 九月のある朝、昴と真理耶は新宿駅西口で待ち合わせ、西へ向かう電車に乗った。

 四十分程揺られて八王子で下車し、駅ビル内の食品売場で食べ物や飲み物を買った。

 駅前からバスに乗り三十分程さらに揺られて、ゴルフ場前というバス停で下車した。

 そこからさらにゴルフ場脇のかなり険しい小道を、汗をかきながらゆっくり登って行った。何処かで金木犀(きんもくせい)が香りを漂わせていた。

 三十分程歩いて、二人は小高い丘の上に立つ、一本の大きな楠の木の下に出た。

 振り返ると下方にゴルフコースが広がり、その遥か彼方に都心の風景が遠望できた。

「まだなの?」

 真理耶がバスを降りて初めて口をひらいた。

 真理耶にはリュックの荷が重すぎたんだと、昴は真理耶を愛しく思った。

「いや、もうすぐ、ここから見えるよ」

 先にたった昴が振り返って答えた。

「どこどこ」真理耶はパッと弾んだ声を発しながら辺りを見まわした。

 しかしまわりには楠の木が大きな陰を秋草の上に落としているばかりで、それらしき場所は見あたらなかった。

 見上げると秋晴れの澄みきった青い空に、白い雲が一つのどかに東の方へ流れているばかりだった。

「ここまでおいでよ、ほら」と、昴は今登って来た方向とは反対側を指差して言った。

 真理耶は最後のスロープを五、六歩登りきると感嘆の声をあげていた。

「まあぁ綺麗!」

 開発の波はこの丘の頂上を境に、反対側の南側はまだ手つかずの自然が奥深く続いていた、楠の木の下から南斜面にかけて赤、ピンク、白色のコスモスが咲き乱れ、ずっと下方に紺碧の水をたたえた湖が静かに横たわっている。

「ほら、あそこ、わかる?ぼくの生れ故郷」昴は指さした。

「ほんと、あるある、あそこなのね」

 二人が並んで見下ろす視線の先、湖の東岸あたりに、折からの風にサワサワとそよぐ一群の竹林が広がっていた。

「早く行こうよ、昴!」

 昴は腕時計を見た、すでに一時を回っている。

「近くに見えるけど、まえに一人で来た時ここから三十分以上はかかったんだ、ここらで弁当にしないか?」

「そうね」真理耶はすぐに同調した。

 二人は肩からリュックを下ろし、楠の木の下の木陰にシートを敷き、その上に食物や飲物を並べ腰を下ろした。

 おにぎりの前にまず、昴は缶コーヒーを、真理耶はコーラをゴクゴク喉を鳴らしながら一気に飲んだ。

 昴は立ち上がって、赤と白のコスモスを摘んで来て、真理耶の髪に差して言った。

「真理耶はコスモスがよく似合う」

「あら、マリヤ様の花は白百合なのよ」

「そう、でも僕の真理耶はやっぱりコスモスだな」

「どうして?」

「真理耶!コスモスの花言葉、知ってる?」

「ううん、百合なら知ってるけど」

「コスモスはね、乙女の真心、そして、調和、が花言葉、赤のコスモスは乙女の愛情、白のコスモスは乙女の純潔なんだって」

「そう、知らなかった」

「それにねぇ、英語ではコズモスって発音して、宇宙って意味もあるんだ、調和という花言葉はそこから来ているんだ」

「宇宙って調和なのね、ねえ、昴、生きてて一番幸せだなあって感じる瞬間って人によって色々だけど、真理耶はねこう思うの、素敵な季節に素敵な自然の中で大好きな人と食事をしてる時だって、人間は皆んなその瞬間を持つために、勉強したり働いたり苦労したり泣いたり悲しんだりしているんじゃないかなって、でも一生に一度だけでもそんな瞬間を持てたらこの世の中は生きてる価値があると思うのよ、昴はそんなふうには思わない?」

「そうだな、うんそう思うよ、真理耶ってすごいな、でも一度だけってのは少なくないかい?」昴は一語々々考えるように言った。

「かもね、でも一度だけでも、そんな素敵な瞬間を持つことが出来れば、苦しい時でもそれを思い出として、生きて行けると思うのよ」

「そうか、きっと世界中には生まれて一度もそんな瞬間を持てないまま、死んで行く人も沢山いるんだろうな、その瞬間が今だね、僕たち・・」

 真理耶はおにぎりを口元で止め、昴をじっと見つめながら頷いた。

 食事がすむと二人はあおむけに寝転がって、流れる雲を眺めながらしばしまどろんだ。

 そよ風が楠の木の葉を揺らし、赤トンボがつがいで秋草の上を飛びまわり、何時の間にか小さな蟻たちが、二人がこぼした米粒を、木の根元近くの巣穴へせっせと運び込んでいる。

 ツグミが近くの空でしきりに囀(さえず)り、その声を風がさらって一瞬静寂がおとずれる。

 目覚めた時、残暑は一段と厳しくなっていた。

 二人は急いで荷物をまとめると、ヤマハギやシオン、ネリネ、オミナエシなど秋の草花が咲きほこる、道のない斜面を用心深く降りていった。

 湖のほとりに着いた頃は、二人とも汗をびっしょりかいていた。

 岸にたたずんで湖面を見つめていた真理耶が、振り返って、

「私、泳ぎたい!」と昴に言った。

「おいおい、泳げるのかい?だいいち水着は買ってないんだろう」

「真理耶、平気!」

 言い終わらないうちに真理耶はリュックを放り投げ、Tシャツを脱ぎGパンを脱ぎ、ためらいもなく真白なパンティまでも脱ぎ捨てて、あっと言う間もなく一糸まとわぬ生まれたままの姿になって、水の中へ飛び込んだ。

 十一才とはとても思えない、真理耶の豊かな裸身に圧倒されてぼんやりしていた昴も、我に返ると、身に付けていたものをすべて脱ぎ捨て、見事なクロールで先を行く真理耶の後を追った。

 湖水は思いのほか冷たくは無かった、水鳥が何処かでチッと鳴いた。

 水からあがって、湖畔を半周近く歩いて辿り着いた竹林は、折りからの西日を浴びて明るく輝き、深緑に苔むした林の中へ、長く黒い影を斜めに幾筋も落としていた。

「やっと来たわね、だいぶん寄り道しちゃったけど」

 真理耶は好奇の目で、あたりの竹をゆっくり見回しながら言った。

「どのあたりかしらね?」

「ここだよ」

「あら、早いじゃないの、見つけるの」

「うん、僕はなんどか来てるからね」

 真理耶は、昨年の笹の落ち葉をカサカサと踏み鳴らしながら、昴の側へやって来た。

 そこには、あたりに生えているものより一段と太く見事な猛宗竹が、三本空に向かって伸びていた。

「ここに寝かされていたんだって」

 昴はその三本の竹の三角点の真ん中に立って言った。その声が竹林の中にリンと谺(こだま)した。

「ここ?、ここなのね、ここなのね」

 真理耶は声を詰まらせながらしゃがみ込み、その場所の笹の落葉を両手ですくい上げ頬ずりするようにして呟いた。

 真理耶はこの時、はっきりと昴は生まれた時から本当に一人ぼっちだったのだと思った。

 荷物をその場所に残して、二人は再び水辺へ散策に出た。

 西の空に広がった夕焼け雲が湖面を茜色に染めていた、風もなく穏やかな夕暮れだった。太陽が沈み地上に闇が支配し始めても、空はいつまでも明るかった。

 二人は薪を集めて戻って来た。

 一坪ほどある三本の竹に囲まれた空間に、まわりから集めた落葉を厚く敷きつめ、その上にシートを敷きスリーピングバッグをセットして、その夜の寝ぐらは完成した。

 昴は、家から持参したバッグからカードラジオや二インチのミニテレビ、携帯電話、モバイルのミニノートパソコンを取り出し、それぞれ利用出来るか確認すると又バッグにしまいこんだ。

 真理耶はリュックから食物や飲物を出して並べた。

 コールマンのランタンを灯すとすっかり夕食の準備は整った。

 食事をしていると、カサコソと音がするので一寸驚いて見回すと、リスがこちらを見ていた、二人は思わず見交わして笑った。昴がパンの切れ端を投げてやると、一度姿を消してすぐまた現れ、パン切れを食わえると森の闇に走り去った。

 食事がすむと真理耶は、

「私、おしっこしてくる」

 と言って立ち上がり、光の奥へ行って用をたした。

 昴の方を振り返ると、そこだけが辺りの暗闇の中でひと際明るく輝き、光のドームが三本の竹を伝わって空へ伸びている。

 真理耶はかぐや姫の物語を思い出していた、この竹林はもしかしたら宇宙と地球を自由にワープ出来る秘密の場所かも知れない、そして昴は十七年前ここに捨てられたのではなく、本当は宇宙からやって来て、ここの竹の中から生れたのかも知れないと思った。

 食事をすますとやることがなくなった、二人して寝袋に入って夜空を見上げると三本の竹の真上に星々がのぞいていた。

 長いこと無言でじっと見つめていると、竹林が星空へ向かってぐんぐん上昇していった。

 昴がランタンの灯を消すと、二人は銀河の真っただ中にいた。

 昴はまたもや同じ体験をしたと感じた、今度は、一人っきりでなく真理耶と一緒に。しかし、それは蛍ではなかった、竹林の中を小さな無数の星の残像が浮遊していたのだった。

「静かね・・・東京の近くにこんな場所があるなんて嘘みたい・・」

「うん、静かだね、僕のビルも窓を閉めきると、静かになるけど、その静けさは本物の静けさではないんだ、何ていうか、心が寒くなっていくような静けさ」

「静けさに、本物とか嘘の静けさってあるの?真理耶、そんなこと言う人初めてよ」

「あるんだな、本物の静けさには、生きてる音が伴うんだ、心が安らぐような」

「静かって言うのは、音がないから静かなんじゃないの?」

「真理耶、松尾芭蕉という人、知ってる?」

「名前だけは聞いたことあるみたい」

「その人の俳句に、静かさや、岩にしみいる、蝉の声、って句があるんだ」

「ふーん、何かわかる気がする、真理耶・・・」

「ほんとに?なら嬉しいよ僕」

「でも、昴が考えている静かさと同じかどうか、わかんないけどね」

「・・・・・・・・」

 昴は真理耶の手をぐっと握りしめた。

どうしたの?」

「ほら、聞こえないかい?」

「何が?」そう言って真理耶は耳を澄ました、そしてにっこり微笑して言った。

「聞こえる聞こえる!」

 夜の闇の静寂の中で、森は生きていた。

 梢を渡る風や湖の小波やふくろうや秋の虫たちが、ひそひそ、ひそひそとしきりに囁きあっている、それらはメロディを帯びて、まるで昴と真理耶のために子守歌をうたってくれているようだった。

 二人は、やさしく心地よい大自然の懐に抱かれて、やがて深い眠りに落ち、二人もまた自然の一部と化していった。














以上6点は、国営昭和記念公園のコスモスの丘にて平成17年10月撮影


コスモスは私の好きな花の一つですが、この章の中で、昴少年が真理耶のことを「コスモスのようだ」
と言う場面があります。コスモスは漢字で「秋桜」と書き、さだまさし作曲・山口百恵の歌でよく知られ
日本では秋に咲く桜として親しまれています。コスモスは英語では宇宙という意味もあり、キリスト教
の聖母マリヤは神の子を産む宇宙的な存在と考え、私はこの作品で真理耶もそのような存在として
昴少年に真理耶のことを「コスモスがよくにあう」と言わせたかったのです。
人を花に例えることは、日常でもよくあることですが、詩や小説など文学の世界でも珍しいことではあ
りません。その中でも私が好きな日本の青春小説で、明治時代に書かれた伊藤左千夫の「野菊の墓」
という作品の中で、主人公の政夫と民子が互いに「民さんは野菊のような女だ」、「政夫さんはリンドウ
のような人だ」と言い合う場面があります。とても素敵なシーンですが、私はあまりそのことに拘らずに
「宇宙の蛍」の中で、真理耶のことを昴少年にコスモスと例えさせることは、私には必然だったからです。
因みに上の写真は、河口湖に遊びに行った時に撮ったものですが、あいにく赤と白のコスモスではなく
ピンクのコスモスなので、次回今年の秋にはちゃんとした赤白のコスモスを撮影して、このページを更新
したいと考えています。でも、上の写真の、湖水を背景に風にそよぐピンクのコスモス群は、私にはさな
がら、おとめ座銀河団の渦巻き銀河群のように見えるのですが、いかがですか?それにしても、「野菊の
墓」と私の「宇宙の蛍」とでは、おなじ青春小説とはいえ、男女関係はこんなにまで変化したのかと我な
がら驚くばかりです。