原子力安全のダブルスタンダードから決別を!
原発問題住民運動全国連絡センター事務局長 柳町秀一
はじめに
「原子力は本来的に危険性の高いものであるという姿勢に切り替え、現在実施されている安全対策で十分に大事故を防げるものかどうかを常に反問してみる必要がある」―これは、スリーマイル島(TMI)原発事故(一九七九年)の際、米大統領直属の事故調査委員会の事故報告の「総合結論」の一節である。ここには、原子力にかかわるものの基本的姿勢のあり方が示されている。
ところで、日本の原子力政策の基礎となる「原子力開発利用長期計画」(以下「長計」)が初めて策定(一九五六年)されて以来、今年は半世紀を迎える。「長計」策定以来、日本の原子力政策は、原発推進政策とプルトニウム利用政策を二本柱としてきた。普通の技術ならば、半世紀を経過すれば、成熟期を迎えるものである。それが、成熟期どころか、安全面でも経済面でも行き詰まりに直面している。原子力産業界は「不透明感強まる技術力維持と人材確保」(産業実態調査)と嘆かざるをえない「末期症状」を呈している。いまこそ、原子力政策をまともに見直すときであるが、国と電力会社はそれを回避して昨年、既定政策の堅持を柱とする「原子力政策大綱」を決定して、その「着実な推進」をはかっている。現状の行き詰まりの正面突破作戦であるが、憂慮すべきことは、原子力政策のこの末期症状と結びついて、いつ、どこで(原発、再処理工場等の原子力施設)、大きな原子力災害が起きるかわからない危険度が日増しに増大していることである。
それだけに、米TMI原発事故報告の冒頭の一節は、これまでにもまして日本では最大の教訓とすべきときであり、原子力安全に対する取り組みが喫緊な課題となっている。ところが、この原子力安全について、日本に国際基準にもとづく規制機関が存在せず、国内基準が世界とは異なるダブルスタンダードであることは意外に知られていない。さきに、金沢地裁は安全基準の一つである「耐震設計審査指針」(一九八一年策定―以下「耐震指針」)に欠陥があるとして、原発の運転差し止めを認める判決を初めて言い渡した。日本の安全基準が有効に機能しないとすれば、原子力の安全規制はただ成り行きに委ねられていることになる。これは未必の故意の犯罪ではないのか? 日本の原子力政策について、半世紀の歴史からの見直しが求められていることと合わせて、原子力安全のダブルスタンダードからの決別が強く求められる。
一、日本のダブルスタンダードの実態
○金沢地裁が「耐震設計審査指針」の欠陥を認定
現在、日本で運転中の原発は五十五基、建設中二基、着工準備中十一基である。
これらの原発はすべて軽水炉であるが、核分裂反応による熱と核分裂生成物質の崩壊熱の二種類の熱を制御することが、安全上の基本的課題である。現状の軽水炉は、本質的(構造的)に、核分裂反応の暴走による反応度事故から、また、配管破断等による冷却材喪失事故から重大な炉心損傷に至る苛酷事故(シビアアクシデント)の発生の危険を排除できない。前者のタイプの最大級のものがチェルノブイリ原発事故(一九八六年)、後者のタイプのそれがTMI原発事故である。これは、放射性廃棄物の安全な処理・処分技術がないことと合わせて、現状の原発技術が未確立とされる所以である。
ところで、これらの原発はすべて国の「安全審査」をパスして、設置されたものである。その審査の基準となるのが、原子力安全委員会の六十種類の安全審査指針類(基本的な指針類、これを補完する指針類、専門部会報告書等)である。これらは日本の原子力の安全基準である。
金沢地裁(井戸謙一裁判長)は三月二十四日、石川県志賀町の志賀原発2号機(改良型沸騰水型軽水炉=ABWR、一三五・八万`h)の耐震設計に問題があるとして、大地震による原発事故の際、周辺住民はもちろんのこと、もっとも遠方(約七百`b)の熊本の原告を含めた百三十五人(うち三人死亡)全員について「許容限度を超える放射線被ばくの具体的危険がある」と認定し、同機の運転差し止めを求める住民の訴えを認める初めての判決を言い渡した。
この判決の最大のポイントは、安全審査指針の一つである「耐震指針」の欠陥を初めて認めたことである。司法レベルで、日本の原子力の安全基準の一つが欠陥ありとされた。金沢地裁判決は志賀2号機に対するものではあるが、その事情は、すべての原発に通じるものである。日本のすべての原発の耐震対策の見直しは急務である。
日本は世界有数の地震国であるが、原発の大半は、地震予知連絡会が重点的に観測している「観測強化地域」または「特定観測地域」という地震常習地帯に立地している。それだけに、事態は深刻である。
ところで、「耐震指針」の破綻は、すでに、適用当初から露呈していた。
「耐震指針」は、中部電力・浜岡原発では、浜岡3号機増設時(東海地震の警告時)から適用された。「耐震指針」では、二つの大きな地震―@最強の地震に備える(設計用最強地震)、A限界的な地震に備える(設計用限界地震)とされ、この二つの基準地震動を作成することになる。しかし、この二つの地震動の記録はないのであるから、経験式等にもとづいて評価、作成される。設計用限界地震による耐震設計値は、設計用最強地震のそれより大きいのが当たり前だが、浜岡3号機への適用では、逆に小さく出たのである。中部電力は、設計用限界地震による耐震設計値を、設計用最強地震のそれに適切な余裕を見込んで定めざるをえなかった。「耐震指針」が科学的装いを凝らしていても、核心部分が通用しなかったのである。東海地震(プレート型地震)の震源域の直上に、浜岡1〜5号機という巨大原発群が出現することは常識的にはあり得ないことであるが、「耐震指針」の欠陥が利用された結果といえよう。
また、阪神淡路大震災をもたらした兵庫県南部地震(一九九五年一月)の岩盤上の地震動の記録は、日本原発ではもっとも大きい地震に備える浜岡原発の耐震設計値を超えた。これは、「耐震指針」の基礎の崩壊を示したものであった。住民運動は、浜岡原発の運転停止と「耐震指針」の見直しを要求してきた。
原子力安全委員会は、「検討会」を設置して、「耐震指針」の「妥当」報告まで出したが、世論の批判におされて、二〇〇一年以来、見直し作業をせざるをえないところに追い込まれ、この夏にも、「新耐震指針」を決定するとされる。地震学、工学の新知見が正しく反映されたものとなるかどうか、注視しなければならない。
いまひとつ、安全審査指針の代表的な「立地審査指針」を見てみよう。
この指針は、原発の立地に当たって、@「技術的見地から見て最悪の場合には起こるかもしれないと考えられる重大な事故(重大事故)の発生を仮定しても、周辺の公衆に放射線障害を与えないこと」、A「技術的見地からは起こるとは考えられない事故(仮想事故)の発生を仮想しても、周辺の公衆に著しい放射線災害を与えないこと」などの基本的目標をクリアすることが求められている。これによれば、この「安全審査」を合格した原発は、技術的に起こりえない事故まで仮想して「安全」とされているのだから、言葉通り理解すれば、これ以上の大事故はないはずである。国と電力会社は、この「安全」宣言を振りかざしている。
しかし、国民はこれをまったく信用していない。この指針がいう「重大事故」や「仮想事故」をはるかに超える、スリーマイル島原発事故やチェルノブイリ原発事故という苛酷事故が現実に起きたことを知っているからである。この国民の直感的反応は、まったく常識的である。
また、この指針は、「立地審査の指針」として、@「原子炉の周囲は、原子炉からある距離の範囲内は非居住区域であること」、A「原子炉からある距離の範囲内であって、非居住区の外側の地帯は、低人口地帯であること」、B「原子炉敷地は、人口密集地帯からある距離だけ離れていること」と明記している。「ある距離」が数字で示されていれば、これほどわかりやすい指針はない。米国の原発などは、これがわかりやすい立地となっているが、日本の原発の立地では、「非居住区域」とか、「低人口地帯」とかは、いっさい考慮されていない。人口過密地域に近接・集中して立地している。「立地指針」に沿っていない。おかしなことである。それは、@とAの「ある距離の範囲」、Bの「ある距離だけ離れていること」を判断する目安として、「距離」ではなく、「目安線量」を考慮するとして、ごまかしているからである。
これでは、はじめに原発の建設・運転ありきで、安全基準が策定されている疑いを捨てきれない。
○「苛酷事故は起こりえない」―新たな「安全神話」
日本の安全基準が国際基準と明確に異なることを示す契機となった出来事がある。国際原子力機関(IAEA)の国際原子力安全諮問委員会(INSAG)が、米TMI原発事故、旧ソ連チェルノブイリ原発事故の教訓をまためた「原子力発電所のための基本安全原則(INSAG―3)」の国際的提起に対して、日本が反対し、国内実施を拒否してきたことである。
IAEAは一九八八年三月、「原子力発電所のための基本安全原則」の実施を加盟国に勧告した。IAEAは、苛酷事故対策(アクシデントマネージメント)として、@事故が起きても苛酷事故へ拡大することを防止する対策(フェーズT)、A苛酷事故に至った場合、その影響を緩和する対策(フェーズU)をとることを通じて、一原子炉当たりの苛酷事故の発生の定量的な安全目標として、「既設炉に対して 10-4 \炉年(一万年に一回)」「新設炉に対して 10-5\炉年(十万年に一回)」を実現するよう提起した。
原子力安全委員会は、シビアアクシデントの研究はつづけるとして、一九九〇年二月、原子炉安全基準専門部会共通問題懇談会は中間報告を発表した。そこには、「十分な安全確保対策が実施されている我が国の原子力施設においては、現実にシビアアクシデントが起こるとは工学的に考えられない程度にまで安全性が高められている」と記述されている。「日本では苛酷事故は起こりえない」とする新たな「安全神話」が登場する契機となった。
当時、日本の原発の苛酷事故の発生確率について、確率論的安全評価(PSA:Probabilistic Safety Assessment)の手順にもとづいて試算したところ、いずれも、IAEA安全目標を大きくクリアしたという。いつものことだが、この結論だけは広く宣伝されたが、その根拠が示されたことはない。通産省関係者は「日本の原発をアメリカなどと同等に扱わないでくさいよ。一桁も二桁も日本は上ですよ」と言い放ったものであった。しかし、これは机上の計算でしかない。係数の取り方ひとつで計算結果は大きく異なるのである。
原子力安全委員会は一九九二年五月、「アクシデントマネージメント」の実施を、通産省と電力会社に要望し、通産省は、電力会社に対して、二〇〇〇年までに原発ごとに実施する「アクシデントマネージメント」の検討を指示した。電力会社は一九九四年三月末までに、運転中・建設中の原発ごとの「アクシデントマネジメント検討報告書」を通産省に提出した。しかし、苛酷事故の取扱いは、公的な安全規制の対象ではなく電力会社の「自主的活動」とされる。
「検討報告書」の提出は、IAEAの勧告にもとづいて、世界の苛酷事故対策が形をとって出てくる時期を迎えて、日本でもやっていることを見せるアリバイ証明でもあった。日本の苛酷事故対策は、「起こりえない」ことを前提とした「念のため」のもので、矮小化されたものでしかない。「検討報告書」では、いずれも、冒頭に、「当機はIAEA安全目標を達成」と宣言した。なんともたいへんな「自主的活動」ではある。
○「IAEAのプラント状態の定義」にある苛酷事故を除外
IAEAは一九七四年、「動力炉の安全性にかかわる多くの局面に関して加盟国にガイダンスを提供する計画」を策定した。「原子力安全基準計画(NUSS)」である。それらは、「安全原理」(英文文書銀色表紙)、「安全基準」(同赤色表紙)、「安全指針」(同緑色表紙)、「安全手引」(同青色表紙)に分類されて刊行された。これらは原子力安全基準諮問委員会(NUSSAG)の検討・承認を前提に、「安全原理」と「安全基準」は、IAEA理事会の承認を受けて、「安全指針」と「安全手引」は、事務局長の権限によって発行された。
「NUSS計画」のもとで、原子力発電所に関連する五つの「安全基準」と五十五の「安全指針」が「IAEA安全シリーズ」として作成されたが一九八六年、最初の刊行以来の教訓を考慮するために、改訂し再発行することが決定された。改訂された「安全基準」は一九八八年六月、IAEA理事会で承認された。
日本は、IAEAのこれら「安全基準」「安全指針」の改訂作業に対応するために、国際安全基準専門委員会(石川迪夫委員長)および五つの基準分野―「政府組織」「立地」「設計」「運転」「品質保証」の分科会を設置して改訂作業に参加した。
これらの「安全シリーズ」の受け入れは、加盟国の責任においてなされるものであるが、「安全シリーズ」が加盟国により使用され、各国の法律上および規制上の枠組みの基礎として受け入れられ、尊重されるべきことは当然のことであろう。
ところが、改訂された『原子力発電所の安全基準‐政府組織』『同‐立地』『同‐設計』『同‐運転』『同‐品質保証』の五基準分野の日本語訳が国際安全基準専門委員会と各分科会メンバーによって行われ、一九九〇年七月発行されたが、それぞれの冒頭部分に、IAEA文書とはまったく関係がない奇妙な一頁が挿入されている。それは、「IAEAのプラント状態の定義について」と題する文書であり、表示した図とともに挿入されている。
「原子力発電所のプラント状態区分図」に示されるように、日本の「プラント状態の定義」がIAEAのそれと違うことが示されている。
IAEAでは「運転状態」(「通常運転」と「予想運転事象」)と「事故状態」(「事故」と「シビアアクシデント」)に区分しているのに対して、日本では、「通常運転」と「異常状態」(「運転時の異常な過渡変化」と「事故」)に区分し、IAEAの「事故状態」という区分はない。つまり、「シビアアクシデント」を「事故」の枠外に置いているのである。
五分野の『原子力発電所の安全基準』は、この「IAEAのプラント状態の定義」を前提にして書かれているが、日本語訳を読む場合は、その部分は、日本の定義に置きかえて読めと断っているのである。また、原子炉輸出等に当たっては、世界の基準は日本とは違うことを教えてもいるのである。典型的なダブルスタンダードである。
日本は、原発の運転状態の定義から、原発事故ではもっとも恐れられる苛酷事故の発生の危険を、あらかじめ除外しているのである。
二、日本に存在しない独立した安全規制機関
○「立地・設計・建設・試運転・運転・廃止措置」段階の規制は?
日本学術会議主催のシンポジウムが二〇〇五年六月二十六日、日本学術会議講堂で開かれた。「安全をめぐる現代的課題―JCO事故を掘り下げる―」と題したシンポジウムである。事故当時、原子力安全委員として、現場指揮した住田健二大阪大学名誉教授が「事故からなにを学ぶか」と題して報告したが、その内容は興味深いものであった。
冒頭、「…ある意味で最後の機会だと思われるので、これまでの報告では避けられてきた視点からの問題指摘について、お叱りを受ける覚悟でそのいくつか取り上げさせていただきたい」と断りながら、五項目にわたる真摯な提言をしている。
住民運動にとっても学ぶものが多い報告であるが、もっとも印象的だったのは、「多重規制の階層を増すことが、本当の安全確保に寄与するのか」の部分でふれた「安全審査」体制についての氏の指摘である。
「あまり知られていないことだが、国家としての原子力安全規制で、いわゆる原子力関連施設の設置審査を二段階審査として行っているのは、世界中で我が国だけである。ドイツのように州政府と中央政府が役割分担している例はあるが、設置許可で同じような内容をというのは他に例がない」
日本の原子炉設置許可の手続きは、開発官庁の第一次審査(原発等実用炉ならば経産省、研究炉ならば文科省、舶用炉ならば国土交通省)、原子力安全委員会の第二次審査を経て、設置許可が出される仕組みである。住田氏は、この二段階審査は日本だけのものとまず指摘し、JCO事故に触れながら、「なんといっても、手薄な人材を、さらに形を整えるための建前主義でその力を分散してしまっている実態を否定できない」と批判している。そして、「規制面からの貴重な指摘は、多重審査を行えば獲得できるのではなく、むしろ審査作業の密度の問題だ」として、「むしろ全力を一段に集中して、十全を期するという世界中で行われている常識的対応を、もう一度日本でも考える時期ではないか」と提言している。
IAEAの『原子力発電所の安全基準‐政府組織』は、「規制機関の役割と責任」のなかで「規制機関は、その国境内の原子力発電所の立地、設計、建設、試運転、運転及び廃止措置における原子力安全に関連した全ての問題について、政府としての全ての監視、管理に対する責任を持たねばならない」としている。これが、世界中で行われている常識的対応なのである。このためには、この責任を果たしうる十分な権限とスタッフを擁した規制機関でなければならない。米国の原子力規制委員会(NRC)は約三千人のスタッフを擁し、原子力施設の立地から廃止までのすべての段階について、一元的に安全規制に当たっている。
日本には、原子力施設のこれら主要な段階を一貫して、一元的に規制に当たる機関は存在しない。
世界では、米国ならば、立地段階からNRCが安全規制に責任を負うが、日本では、これに当たるものはない。立地段階で「地元同意」が求められるが、最終的には立地関係道府県知事の同意にすべての責任が負わされることになる。しかし、この段階の原発の安全問題に対して、知事が責任を負える資格も能力も持ち得ないことは自明であろう。
また、原子力関連施設設置時の二段階審査にしても、原子力安全委員会の審査は、設置段階の、しかも「基本設計のみ」に限定されている。JCO事故があった一九九九年時点で、原子力安全委員五人全員常駐となったが、専門委員二百四人は全員非常勤、事務局は専従十八人というきわめて貧弱なものであった。その後、事務局は百人に補充されたが、貧弱な事情に変わりはない。
さらに、電力会社の自主検査における虚偽報告などが発覚して、これらの検査に当たる原子力安全基盤機構が原子力安全・保安院のもとに設置されたが、この規制の多重化は、一元的規制に反しており、しかも、電力会社等からの社員が多くを占めることから、安全規制への公正性の保障がない。
原子力安全委員会の『平成十五年版 安全白書』が「国と事業者の責任についての国際原子力機関(IAEA)の規定」と題して、次のように書いている。
「原子力発電所については、その立地、設計、建設、試運転、運転及び廃止措置における原子力安全に関連した全ての問題について、国として監視、管理に対する責任を持つとしています」
さきのIAEAの関連文書と比較してみよう。国語の試験ではないが、IAEAの文書の主語は「規制機関」であり、その「役割と責任」は明確である。「安全白書」の文書では、「規制機関」の主語が消されている。原子力安全にかかわる基本的枠組みについての紹介を、このように、狡知に違えてする原子力安全委員会の安全感覚が根本から問われよう。これは原子力安全委員会がたまたま間違えたというものではない。あらゆる説明会、シンポジウムでも同じ使い方をしている。
○推進機関から独立は規制機関の重要な内容
IAEAの『原子力発電所の安全基準‐政府組織』は、「規制機関の役割と責任」として、「規制機関は原子力の推進に対して責任を負ってはならない。また、加盟国内のこの責任を有する組織から独立していなければならない」としている。
住田氏の指摘には、この推進機関からの独立についての直接の言及はないが、「世界中で行われている常識的対応」に、その意味は含められるといえよう。
一九九一年五月、新潟県刈羽村で、柏崎刈羽原発への「プルサーマル計画」導入をめぐって、住民投票が行われ、「プルサーマル反対」の住民の意思が明確に示された。新潟県巻町の住民投票につぐ勝利であった。
この住民投票のさなかに、資源エネルギー庁長官と原子力安全・保安院長が同席して、住民説明会が行われた。前者はプルサーマルの意義、必要性などを強調したのに対して、後者は安全性を強調した。エネ庁長官が推進派の頂点に位置することは自明であるが、安全・保安院長は「規制機関」であるとして、柏崎刈羽原発へのプルサーマル計画を認可した説明責任を果たすというものであった。この両者の掛け合い≠ェ「プルサーマル推進」で一致していたことはだれの目にも明らかであった。
住民運動の抗議で、その後、両者の同席はなくなったが、推進官庁の長―経産相のもとに位置する原子力安全・保安院が、推進機関から独立した規制機関たり得ない事情に変わりはない。原子炉設置段階の第一次審査の役割を担い、その設置許可の説明責任を負うとなれば、それ自体、推進機関のなかでの「安全係」程度のものでしかない。規制機関とは似て非なるものである。
高速増殖炉「もんじゅ」について、最高裁は二〇〇五年五月三十日、名古屋高裁金沢支部が「もんじゅ」のナトリウム漏れ事故、蒸気発生器伝熱管破損事故などの「安全審査」に看過しがたい過誤があるとして、原子炉設置許可を無効とした判決(二〇〇四年一月二十七日)を破棄し、住民の控訴を棄却する判決を言い渡した。この最高裁判決は、@原子炉設置段階の安全審査の対象は基本設計のみに限定されること、A具体的な施行方法などは工認許可段階の審査に委ねられること、B工認許可は主務大臣が行うものとする、日本の独特の「安全審査」体制を追認したものであった。名古屋高裁金沢支部の判決は、この「安全審査」体制の判断を誤ったとした。
最高裁判決は、設置段階の審査は、「基本設計のみ」を対象とすればよいとしているが、これは安全審査の形骸化、手抜きの勧めである。また、最高裁判決は、設置段階の審査と工認許可段階の審査との二段階規制論を追認し、しかも、工認許可段階の認可は開発官庁の長の主務大臣が行うとしていることは、この規制論自体が一元的規制に反するとともに、「原子力の推進に対して責任を負ってはならない」とするIAEAの基準にまったく反するものであることは明白であろう。
JCO事故直後、不破哲三日本共産党委員長(当時)が衆院本会議代表質問(一九九九年十一月二日)でも、この問題を取り上げたが、小渕首相(当時)は、その国際・国内状況もわからず、まともに質問に答えることができなかった。
この点で、日本には、IAEA安全基準にもとづく、原子力安全についてすべての段階を一貫して規制に当たる規制機関、しかも、原子力の推進機関から独立した規制機関は存在しないのである。このことは、日本も批准した原子力安全条約にも規定されていることで、日本は条約義務に違反している。
日本の原発事故調査は、事故に直接利害関係がある当事者同士(電力会社、認可行政、メーカー等関係者)による調査が一般的である。特別に調査委員会が設置されるときもあるが、これも当該原子炉設置の審査に直接かかわった専門家らが堂々と顔を出している。これでは、事故原因の公正かつ徹底した究明はできない。事故再発防止の保障もない。
日本学術会議は二〇〇五年六月二十三日、「事故調査体制の在り方に関する提言」を公表した。調査目的、事故調査機関、初動調査体制、調査権、事故責任(刑事責任)を問う範囲、事故調査機関の権限、調査補国書の使用制限、情報公開の在り方、インシデント報告など九項目にわたっている。刑事責任優先の調査から事故再発防止へ、事故調査の在り方を根本的に変えることと合わせて、事故に利害関係をもたない第三者機関による調査の確立が緊要である。
これでは、原子力の安全の保障はなく、原子力の危険から国民の生命と財産を守ることはできない。原子力安全のヘソを外したダブルスタンダードは断じて許されない。
三、「原子力政策大綱」の「着実な推進」の危険
○プルサーマルなど老朽原発酷使の危険
「原子力政策大綱」は、ほぼ五年ごとに改訂された「長計」(第一回〜第九回)を昨年、名称変更したものである。「長計」策定以来、原発推進政策とプルトニウム利用政策の二本柱からなり、「大綱」でも、既定政策の堅持が基本である。国と電力会社は、「大綱」の「着実な推進」をはかるとしているが、原子力政策のあらゆる局面の行き詰まりに直面して、その根本的見直しの道を回避して、開き直りの正面突破作戦に出たのである。
原発では、老朽原発の徹底した酷使が始まる。「高経年化」対策を施して、三十年の設計寿命のものを六十年に延長するもの。
米国では、TMI原発事故以後、廃炉はつづいても新規原発はないにもかかわらず、二十一世紀に入って、原発による発電電力量の最高記録を更新している。「定期検査期間の短縮」と「定期検査インターバルの延長」による「長期連続運転」、「運転ライセンスの延長」、「定格熱出力増強」、「オンラインメンテナンス」などを通じて、稼働率九〇l台を実現したことによるもの。徹底した老朽原発の酷使が示されているが、日本はこれを手本にしている。
しかも、これらの老朽原発でプルトニウムを大々的に燃やすプルサーマル計画が、九州電力・玄海3号機、四国電力・伊方3号機、中国電力・島根2号機、中部電力・浜岡4号機で二〇一〇年からの導入が計画されている。ウランの有効利用などと宣伝しているが、実際は、深刻化する日本の過剰プルトニウム事態の解消のため以外のなにものでもない。プルサーマルは、炉心のアクチニドの放射線量が低濃縮ウラン炉心に比べて、たとえば、アメリシウムは二十六倍以上に増える。アルファ線、ベータ線、ガンマ線、中性子など放射線量が格段に増幅される。それだけ、労働者被曝が増大し、苛酷事故時の被害ははるかに深刻にならざるをえない。また、日本のように、大規模にプルトニウムを原発で燃やした経験はどこにもない。いきなり営業炉での実験にならざるをえない。さらに、老朽原発の中性子脆化を格段に促進する。プルサーマルは「百害あって一利なし」である。
米国は安全規制財産を食いつぶしながらの老朽原発の酷使であるが、それも限度があるというもの。日本のように、安全基準もまともでなく、独立した規制機関もない状況で、「高経年化」対策やプルサーマルが始まれば、ひとたまりもないであろう。
○六ヶ所再処理工場はモラトリアムを
再処理・高速増殖炉線も、三月末からの六ヶ所再処理工場のアクティブ試験強行で、再処理の危険が現実の段階に入った。しかし、再処理すればプルトニウム過剰事態を加速するだけである。いま急いで操業する理由はない。エルパラダイIAEA事務局長は、イランや北朝鮮の核開発問題で、核不拡散体制が大きく揺さぶられている事態に、ウラン濃縮、再処理の凍結(モラトリアム)を提案しているが、日本がこれを無視して強行する必要もない。
「もんじゅ」の運転再開に向けた工事も強行されている。名古屋高裁金沢支部の「もんじゅ」設置許可無効判決が指摘した主要技術の安全問題について運転再開工事で考慮されることはない。「もんじゅ」事故の再発防止の保障はない。
「大綱」は、高速増殖炉の実用化の目途を「二〇五〇年頃」としたが、根拠はない。第三回「長計」は「昭和六十年代の初期」と記したのが次つぎと延び、第八回「長計」は「二〇三〇年」にまで延びた。第九回「長計」では時期を明記できなかった。もともと根拠があるわけではない。不透明状態が半世紀もつづいている。高速増殖炉は、「天然ウランのほとんどすべての利用を可能」(第三回「長計」」)とウソまでついて「将来の原子力の主流」(同)と位置づけられてきたもの。世界の主要国が撤退している中で、いまなお日本は夢追い≠つづけている。いいかげんに目覚めていいときではないか。
「大綱」の「着実な推進」が、原子力安全のダブルスタンダードのもとで行われことの危険ははかりしれない。しかも、活動期に入った日本列島の大地震に初めて見舞われる時期と重なることを考えればなおさらである。
日本の二十一世紀のエネルギーを、「大綱」の原子力政策に依存することは許されない。いまこそ、日本の原子力政策をまともに見直し、日本のあらゆるエネルギー資源を汲み尽くし、かつ、安全な原子力を含む新エネルギー開発など総合エネルギー政策を確立するときである。合わせて、原子力安全のダブルスタンダードから決別すべきときである。