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clear.gif (820 バイト) 地中海と紅海を結ぶスエズ運河は、アジアとヨーロッパを結ぶ海の近道です。東京、ロンドン間の場合、アフリカ南端の喜望峰回りより距離が5分の1も短縮できます。その戦略的価値から政治的な対立が絶えなかったのも事実です。それでは年間1万4千隻もの船が行き来する海の大動脈、スエズ運河を紹介しましょう。
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  アジアとヨーロッパの最短ルート
その大きさは?...アジアとアフリカの境界、紅海と地中海を結ぶのがスエズ運河です。エジプト領内に属し、その長さは運河北端の港湾都市「ポートサイド」と南端の商業都市「スエズ」を結ぶ全長90マイル(約167キロメートル)です。船の大型化にあわせて幾度かの改修が行われ、現在は大型タンカー(載貨重量15万トン)の通航にも対応した幅160〜200メートル、深さ19.5メートルの運河です。1970年代の拡幅増深工事には日本の企業も参加しました。スエズ運河を利用してアジアからヨーロッパへ航海すると、アフリカ南端の喜望峰経由にくらべて約4,000マイル(約7,400キロ)も航海距離が短縮できます。地中海と紅海の水面がほぼ同じ高さのため、パナマ運河のような閘門(ロック)の必要がなく、水の流れが小さいのも特徴です。

紆曲湾曲のあしあと...1859年、フランス人レセップスによって建設が開始され、1869年に開通しました。当初はフランス、エジプト両国が出資した「万国スエズ海洋運河会社」によって運営されていましたが、1875年に英国が財政難に陥ったエジプトから同社株の44%を取得して経営を支配するようになります。さらに英国は1882年に運河地帯を占領し、恒久的な英軍基地としました。以後、スエズ運河は英国のアジアに対する侵略支配に重要な役割を演じましたが、1956年のスエズ動乱(英仏両国のアスワン・ハイダム建設援助撤回を発端とするスエズ運河の利権争い)後にエジプトが国有化し、スエズ運河公社の管理下に置かれます。1967年の第3次中東戦争(アラブ諸国とイスラエル間の対立戦争)以来封鎖されていましたが、1975年に封鎖が解かれました。

 
 

行儀よく並んで行きます

   
   
運河通航のスピードは僅か7ノット(時速13キロ)、前後の船の間隔は1マイル(約1.8キロ)程度を維持して航行します。また狭い運河では追い越しができないため、数隻の船団<コンボイ>を編成して1列に並んで通航します。スケジュール通りに航行しているかどうかは一定間隔に設けられた信号所がチェックしています。

運河に入るまで...運河を通航する船は、予めスエズ運河管理局によって定めれれた時間までに、指定集合場所にアンカーを下ろします。その後、管理局によって運河を航行する順番が決められ、各船へ船団<コンボイ>名と<コンボイ>内での順番、そして出発時間が無線連絡されます。出発時間がくると水先人(パイロット)が乗船し、アンカーを巻き上げていよいよ運河へ入ります。ひとつの<コンボイ>は10隻から15隻の船団で、行儀良く並んで通航します。

 
軍艦は最優先
写真はイラク奇襲準備のため、遙々大西洋を渡ってペルシャ湾へ向かうアメリカ海軍です(2003年1月31日撮影)。ヒミツのベールに包まれがちな原子力潜水艦も、エジプト領海内ということで礼儀正しく水上航走していました。ところで軍艦は国籍を問わず国際条約で特別扱いされています。狭い運河の中では追い越しができないため、軍艦は緊急時の迅速な活動を考慮して船団<コンボイ>の特等席である最前列に並びます。
         
運河で分断された都市開発
運河を航行していて気付いたのはシナイ半島側の都市整備の遅れです。アフリカ大陸側は灌漑施設の充実によって緑が豊富なうえ道路や鉄道網が発達していますが、シナイ半島側は砂漠に覆われている部分が多く、インフラの整備も遅れているようです。アジアとヨーロッパを身近にした運河ですが、皮肉にもシナイ半島の過疎化を生んでしまったのかもしれません。蛇足ですがシナイ半島開発の遅れは、アラブ諸国とイスラエルの紛争も影響しています。写真はアフリカ大陸側を運河に沿って走る鉄道と鉄塔線です。
           
 

通過は1日がかりです

 

 

   
全長約90マイル(167キロ)をゆっくり通航するため、運河部分の通航だけで約12時間を要します。加えて運河へ入るまでの待機時間や、すれ違いのために途中でアンカーを下ろすこともあるため、スエズ運河の通過は船にとっては1日がかりの一大イベントです。長丁場のため、水先人(パイロット)は運河の中間点で小型ボートでやって来る別のパイロットに交代します。運河ではこの2組のパイロットが船の指揮を行いますが、運河入口および出口付近は港湾地区となるため、別のパイロットの担当となります。すなわち、スエズ運河では4組ものパイロットが入れ替わるため、狭い運河内でエンジンを停止しなければならないパイロット交代時は、緊張が走ります。
 
プール付きの大豪邸?
オイルダラー、いや「キャナル」ダラーによるものなのでしょうか、雑然とした住宅が多い運河沿いで、珍しく豪邸を発見しました。プールに浸かりながら目の前を往来する大型船を見晴らす気分は、ここだけでしか味わえない「デラックス仕様」なのかも。
     
アッラーへの祈りを欠かさないパイロット
禁断の激写!、写真はメッカの方向を向いてアッラーへお祈りするパイロットです。イスラム教では1日5回、メッカ礼拝を遵守するよう義務づけています。狭い運河で礼拝のために船の指揮を中断するのは危険なのでは、と思われるかもしれませんが2名のパイロットが交代で礼拝するためご安心を。因みに写真の赤布は礼拝用のものではなく、もちろん共産党の赤旗でもなく、船で使われる国際信号旗「B旗」です。私は当時、パイロットが無造作に置かれたこの旗(船の備品)に触れているとき、「このオッサン、親切にも旗を畳んでくれるのかぁ〜」と勘違いしました。そしてフィリピン人当直員に「旗を畳むのを手伝ってやってくれ」と指示してしまいましたが、その直後に礼拝が始まったので、きまり悪い思いをしました。フィリピン人船員の笑いをこらえる姿もコミカルでしたが、危うくアッラーがヘソを曲げて船が座礁するところ(?)でした。
   
           
 

運河の信号所

   
   
運河沿いには一定間隔で通航船のスケジュールをチェックする信号所が整備されています。船が信号所の前を通過する度に、その船の計画通過時刻を表示し、水先人(パイロット)へダイヤ維持状況を知らせます。電光掲示板(写真)は、一番上の表示が後続船の通過予定時刻、一番下がその船の通過予定時刻です。運河内は7〜8ノットのスピードで航行しますので、後続船まで10分間というのは、船間距離が約1.2マイル(約2.3キロ)であることがわかります。
   
           
 

船からの見晴らし

   
   
運河の幅は160〜200メートルです。広く感じられるかも知れませんが、一般に大型船(幅30〜50メートル)の安全可航幅は約500メートルとされているため、実は相当ギリギリな幅なのです。写真のとおり船の船橋から眺めると、その狭さが実感できます。大型船の回頭半径は500メートルに達するため、狭い運河内でのエンジントラブルや舵故障は即、衝突座礁につながります。また大型船の長さは200メートル以上に及ぶため、横向きに座礁した場合、運河を封鎖してしまうという最悪の事態も想定されます。そのため運河通航中は確実な操作を行うため、手動操舵を使用します。

ところで運河はほとんどの部分が直線です。周囲に山や高い建物がないため、ほぼ360度、地平線まで見渡せます。都市開発が遅れているシナイ半島側(写真の右側)は、一面砂漠に覆われているのに対し、アフリカ大陸側は灌漑設備の整備によって緑に恵まれており、近代都市が続いているのが特徴です。

 
戦勝記念碑と現役の戦車たち
パレスチナ問題を抱える中東地域。エジプトも4度の中東戦争を経験しているため、運河沿線には軍事施設が目立ちます。私の見た演習風景はちょっとかったるそうなムードでしたが、エキゾーストノートを奏でながら砂漠を疾走する戦車は一見の価値があります。因みにイギリス人は、これらエジプト軍の戦車が悠々自適に砲身を運河へ向けて整列することに、無性に腹が立つそうです。古〜き良き、大英帝国の時代は終わったのだけれども、旧植民地に銃器を向けられるのは、やはり気にくわないのかな。


運河と共に生きる人々
中東地域最大の人口を抱えるエジプトは、産油国にも関わらず、あまり豊かではありません。中学生用の歴史資料集で見かけそうな、古代エジプト遺跡とあまり大差のない町中を市民たちが行き交います。特にガラスのない建物は古代エジプト時代の<重要文化財>と混同してしまうかも。写真は運河沿いのフェリー乗り場へ向かう人々です。

     
テロに目を光らせる兵士
運河、観光、原油に支えられたエジプト経済。冷戦後、イスラム原理主義運動が増えつつあるエジプトでは、航行船へのテロは大切な運河収入を失い、エジプト経済に致命的な打撃を与えかねません。そのため、写真のように運河へのテロを警戒する兵士が、厳しい面立ちで警備しています。1997年には、観光名所ルクソールで原理主義過激派によって日本人11人を含む観光客65人が殺害される事件が発生し、観光業が大ダメージを被ったことから、政府はテロに神経を尖らせています。
   
           
 

大陸をむすぶ架け橋

   
   
写真はスエズ運河を縦断し、アフリカ大陸とアジア大陸を結ぶ唯一の道路大橋です。これまで、運河を渡る交通手段は運河5ヶ所に設けられたフェリーと、運河南部のトンネルだけでした。しかし運河を航行する船舶の合間を縫って運航されるフェリーは、事故の危険が懸念されていたため、国民はこの橋に期待を寄せています。

この橋は2001年10月9日に開通しました。砂漠と運河をバックにしたこの橋は、橋脚の高さが世界最大のクフ王のピラミッドと同じ約140メートル、外観はオベリスク(古代エジプトの記念碑)をイメージしているなど、古代エジプト風の壮大な斜張橋です。このプロジェクトは日本政府の無償援助工事で、鹿島建設、日本鋼管、そして新日本製鐵の手によって建設されました。水面から橋桁までの高さは巨大オイルリグの通過も考慮して70メートルあり(横浜ベイブリッジは55メートル)、航路限界としては世界一の高さです。

 
ムバーラク平和大橋ができるまで

シナイ半島はアジアとアフリカを結ぶ重要な地点に位置しているものの、パレスチナ問題による紛争、また半島と本土を分断し東西陸上交通の妨げとなっているスエズ運河の存在という2つの障害により、これまでその開発は大幅に遅れていました。しかし1994年、エジプトは「シナイ半島開発計画」をスタートさせ、シナイ半島の潜在的な資源を有効に活用し、農業、鉱工業および観光業の推進を目標としました。この開発計画を円滑にすすめるために架けられたのがこの橋です(写真はJICAホームページより)。
     
この橋、その名も「Japan - Egypt Friendship Bridge」
橋の中央に掲げられた看板によると、橋の名は「Mubarak Peace Bridge(ムバーラク平和大橋)」で、現エジプト大統領ムバーラクから名付けられています。主橋梁部は日本政府の無償援助で建設されたため、別名「Japan - Egypt Friendship Bridge(日挨友好大橋)」と呼ばれています。
   
           
 

すれ違いはここで

   
   
運河はマンザラ湖、ティムサ湖、ビター湖を利用して、スエズの地峡を貫いており、ほとんどの部分が一方通行です。しかしビター湖、そしてカンタラ市とイスマイリア市の間に設けられたふたつの水路では、対面通航が可能です。電車と同様、先に複線区間に入った<コンボイ>が待機側となり、係船索(ロープ)を用いて水路上で待機します。この時、係船索の展張に活躍するのが後述の<ボートマン>ですが、狭い運河での係船作業は危険なうえ大仕事です。通常、ふたつの水路がある区間でのすれ違い時には、小型船が多い<コンボイ>側が待機組となり、大型船で組まれた<コンボイ>は広いビター湖で待機組となるようにスケジュール調整されます。

 

   
     
電子海図上ではこのように見えます
対面通航部分は、単線鉄道の複線区間によく似ています。写真は電子海図上のレーダ映像ですが、円内右下が本船で現在上方(北行き)へ向かって航走中です。前方にある緑色の点は先行する船、左側の 水路上に見られるたくさんの点は、すれ違いを待つ船です。
   
           
 

ボートマンの本業は?

   
   
複線区間で対向船とすれ違う際、水路上に船を係留して待機することもあります。その際、係船索の展張にボートが必要なため、運河入航前にスエズ港湾局が認可した専用ボートを作業員とともに船に積み込まなければなりません。このボートに乗り込む作業員を<ボートマン>と呼び、その微笑ましいパーソナリティから世界中の船乗りの間で語り継がれて(?)います。

 
よく見るとガラクタばかり?
水路での係留作業がなければボートマンの仕事はありません。そこで内職として土産屋を開きます(こっちが本業?)。ピラミッドの置物から日本円の値札がついた釣り具まで、雑多な商品群が自慢で料金は交渉次第です。買い物のコツはできるだけみすぼらしい格好をし、イスラム教の慈悲に訴えて値引きを迫ることです。小生は当日、一番ボロいつなぎ服を羽織って髪をボサボサにし、交渉開始。顔つきから韓国人と間違えられたため、韓国人になりすまして大幅値引きを獲得しましたが、しれじれと日本製デジカメを出したことから日本人であることが発覚してしまいました。
     
華麗なほど低い労働生産性を誇る、ボートマンたち
たとえ係留する予定がなくとも、大型船では必ず2隻のボート(計6名のボートマン付き)を取らなければなりません。スエズ運河は数少ないエジプトの基幹産業のひとつであるため、その利権を巡って多くの業種が蔓延ります。必要以上に多くの税関、官憲職員が乗船し、また水先人、電気技師(ただ照射灯のスイッチを入れるだけ)、ボートマン、そして人員輸送用ボートの運転手など、多くの人々が運河に関わっています。
   
           
 

運河を横切る渡し舟

   
   
運河に架かる橋はほとんどないため、運河を隔てた市民の交流は渡し舟で行われます。写真のように連なる大型船の合間をぬって、小型の渡し舟が足早に行き交います。
 
トレーラだって運べます
頼りなさそうな渡し舟ですが大型トレーラやタンクローリ、建機も積み込みます。小型で収容能力が低いため、フェリー乗り場前には大型トラックの長蛇の列が見受けられます。
 

パイロット下船

   
   
北行きの船は「ポートサイド」、南行きは「スエズ」の街を最後に、運河に別れを告げます。パイロット下船後、編成(コンボイ)は解散され、各船のエンジンは全速前進に入れられます。その光景はさながら「ヨーイ、ドンッ!」で走り出すランナーたちのようです。大型タンカーが道を譲りながら俊足コンテナ船が先行し、瞬く間に運河を共に渡った僚船たちは視野から消えて行きます。
   
         
運河南端の都市、スエズ
写真はエジプト北東部の都市「スエズ」でアラビア語では「スワイス」と呼びます。スエズ運河の南端に位置し、紅海のスエズ湾に臨む商業の中心地です。首都「カイロ」ならびにスエズ北端の街「ポート・サイド」へ鉄道が通じています。16世紀、オスマン帝国の海軍貿易の基地で、スエズ運河開通により発展してきました。

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