室町幕府年表
西暦 年号  
1305 嘉元     足利尊氏誕生
1317 文保元年     足利家時、切腹
1318 文保2     後醍醐天皇、即位
1319 元応元年     足利尊氏、元服
1321 元享元年     後醍醐天皇、院制を廃す
1324 正中元年     後醍醐天皇の倒幕計画が露顕

<正中の変>
六波羅探題は土岐頼兼と多治見国長を殺し、日野資朝、日野俊基を捕え鎌倉へ送る
1331 元弘元年 9 5 足利貞氏、没(一説では6日)
足利高氏相続
    <元弘の変>
幕府は光厳(こうごん)天皇を擁立
後醍醐天皇、隠岐に流される
1332 元弘2 11   護良親王、楠木正成、反幕挙兵
1333 元弘3 1   赤松則村、挙兵
2   後醍醐天皇、隠岐を脱出
名和長年を頼る
  幕府は名越高家を大将に、大軍を発向
足利高氏も病み上がりで出兵を命じられる
3 27 足利高氏、鎌倉出発
途中、使者を後醍醐天皇へ送り、帰順を表明
4 8 新田義貞、兵をおこす
鎌倉を脱出した足利義詮(尊氏 子)参加
16 足利高氏、京着
22 新田義貞、鎌倉に攻め入り、北条氏滅亡
27 名越高家、赤松則村に敗れ戦死
29 足利高氏、丹波の篠村八幡で反幕の旗をあげる
6 5 光厳天皇廃され、後醍醐天皇還幸
  鎌倉幕府の死命を制した功により、後醍醐天皇より尊治の一字を賜り、足利高氏、尊氏に改名
1334 建武元年 11   護良親王、鎌倉へ護送される
1335 建武2 3   鎌倉宝戎寺、建立発願(北条一族の霊を弔うため)
後醍醐天皇発願、足利尊氏実行

宝戎寺
7   北条時行、挙兵
足利方を破り、鎌倉入り
足利直義(尊氏 弟)、護良親王を暗殺
11   朝廷の命により、尊良(たかなが)親王を奉じ、新田義貞、東国へ向かう(兵役7万)
12 13 足利尊氏、箱根を越え伊豆国府に攻め入り、新田義貞勢を破る
19 朝廷、新田義貞に帰洛を命じる
1336 建武3 1 11 足利尊氏、京に入る

北畠顕家、兵をおこし鎌倉を襲い、尊氏軍を急追
近江坂本で新田義貞勢と合流
30 足利尊氏、丹波に脱
2 12 足利尊氏、九州へ逃れる
途中、光厳上皇の院宣を入手
20 足利尊氏、長門赤間関着
25 少弐貞経、子息頼尚を尊氏を迎えに送る
29 少弐貞経、菊池武敏に攻められ自害
3 2 足利尊氏、多々良浜で菊池武敏を破り、太宰府に陣を構える
4 3 足利尊氏、九州出発
5   足利尊氏、厳島神社参籠
10 足利尊氏は海路、足利直義は陸路を進む
25 <兵庫合戦>
後醍醐勢の楠木正成一族、湊川で自刃
新田義貞、丹波へ敗走
27 後醍醐天皇、坂本に居を移す
6 14 足利尊氏、光厳上皇、豊仁親王と共に京に戻る
8 15 豊仁親王即位し、光明天皇となる
10 10 後醍醐帝、還京
足利尊氏との間に御和睦成立
新田義貞、越前金崎城に向かう
11 2 後醍醐帝、神器を光明天皇に授ける(実は偽器だった)
7 足利尊氏、建武式目を定める(31歳)
12 21 後醍醐帝、神器を棒持し、密かに京を脱出
吉野に御幸
南北朝の分裂が決定的となる
1337 2 3   高師泰率いる足利尊氏勢の攻撃に金崎城落城
尊良親王、新田義顕(義貞長子)、自刃
 恒良親王、京に護送される
 新田義貞、杣山城へ逃げる
8   後醍醐勢の北畠顕家、利根川で上杉憲顕、細川和氏を破る
12 23 北畠顕家、鎌倉攻略
1338 延元3     北畠顕家、西上を開始
5 22 北畠顕家、高師直勢と和泉で戦い討たれる
    新田義貞、越前藤島で斬波高経、斬波家兼勢に討たれる
8 11 足利尊氏、北朝から征夷大将軍に任ぜられる(33歳)
9   北畠親房(顕家父)、北畠顕信(顕家弟)、義良親王、宗良親王を奉じ東国へ   海路を取り、途中遭難する
1339 延元4 8 16 後醍醐天皇崩御、後村上天皇(義良親王)即位
10 5 足利尊氏、天竜寺開創に踏み切る
1341 興国2     天竜寺別院として、北等持院を開創
足利尊氏の死後、等持院と改称、足利家の菩提所となる

等持院の庭
6   北畠親房、高師冬を破る
12   高師冬、北畠親房らの拠る常陸の関、大宝両城の攻略に一応成功
1342 興国3 5   南朝の征夷大将軍、懐良親王、薩摩到着
6   懐良親王勢、足利尊氏方の島津貞久を破る
1343 興国4 11   関、大宝両城落ち、北畠親房、吉野に敗走
1344 興国5 3   足利尊氏、足利直義、高野山参詣
1347 貞和3     楠木正成の子正行、紀伊、河内などで活動開始
9 17 細川顕氏、河内藤時で楠木正行に敗れる
11 26 細川顕氏、摂津住吉で楠木正行に敗れる
12   九州で懐良親王の動きが活発化
1348 貞和4 1 5 楠木正行、河内四条畷で高師直勢に敗れ敗死
    後村上天皇、紀州賀名生(あのう)に避ける
幕府は島津貞久に薩摩の南朝方誅罰を命じる
1349 貞和5 6 7 足利直義、高師直の不破
 足利尊氏と足利直義が会議
 高師直は執事職を辞職させられる
8 14 高師直、足利尊氏邸を取り囲む
 和解、上杉重能、畠山直宗、遠流
    足利尊氏、足利直冬追討を命じる(以前より反師直的行動をとっていた)
  足利直冬:足利尊氏と越前の局の子、武蔵東勝寺に入れられていたが、足利直義の養子となる
足利直冬、九州に脱出
12   上杉重能、畠山直宗、高師直の指示で殺される
    足利直義の後を足利義詮が継ぎ、代わって次子足利基氏が関東に下る
1350 観応元年 6   高師泰、九州に向け出兵
    出家していた足利直義、大和へ脱出
10   足利直義、足利直冬、少弐、大友などを味方につけ、太宰府で挙兵
28 足利尊氏、高師直と共に大軍を率いて京を出発
11   足利直義、高師直・高師泰兄弟討滅名目で御教書を出す
12 13 足利直義、後村上天皇から論旨を与えられる
    高師冬、上杉憲顕に追われ甲斐に逃げる
  そのため足利尊氏、急いで京に兵を返す
1351 観応2 1 4 足利直義方の桃井直常、近江坂本へ討ち入る
15 足利義詮、京を放棄
桃井直常、兵を入れる
16 足利尊氏、足利義詮、四条河原で桃井直常と激突
  足利尊氏、足利義詮、播磨へ敗走
17 高師冬、上杉に追いつめられ自殺
2 17 足利尊氏勢、兵庫打出浜で敗れる
21 足利尊氏が申し出た和議が成立
26 高師直・高師泰出家、足利尊氏一行と京に向かう
 師直・師泰、途中上杉、畠山の兵に殺される
7 19 足利直義、政務を辞退
足利義詮がその職を代掌
8 1 足利直義、京を脱出
11 4 足利尊氏、足利直義追討軍を率いて東国へ
15 足利直義、鎌倉へ
1352 文和元年 1 2 足利直義、相模早河尻で敗れ降伏
2 10 足利義詮、北畠顕能、楠木正儀に追われ近江に遁走(とんそう)
26 足利直義、死去
3   足利義詮、京に戻る
1353 文和2     足利義詮、美濃へ敗走
6   足利直冬勢、増大
7   足利義詮、京に戻る
9 21 足利尊氏、京に到着
1354 文和3 4 17 北畠親房、死亡
12   足利直冬、南朝方大将として、京都奪還を目指す
足利尊氏、後光厳帝を奉じて近江武佐寺へ逃れる
1355 文和4 1   足利直冬、桃井直常、斯波氏頼、山名時氏と京に入る
2   足利尊氏、足利義詮、南朝勢を破る
 続く洛中の激戦でも勝利を得る
 後光厳天皇、京に戻る
1357 延文2 2   光厳・崇光上皇、直仁親王、南朝から帰京
1358 延文3 4   足利尊氏、背中にできた腫れ物が原因で病床につく
30 足利尊氏、病死(54歳)
足利尊氏の墓
(等持院)
5 2 足利尊氏、葬儀
8 23 足利義満、誕生
12 18 足利義詮、征夷大将軍に任ぜられる(29歳)
1359 延文4 7   九州南朝方、菊池武光、少弐頼尚を攻撃
8   筑後川の合戦
 少弐頼尚、敗れる
11   畠山国清、足利基氏の御名代として上洛
12 23 足利義詮、大軍を率いて京を出発
1360 延文5 4   畠山勢、紀州竜門山の四条隆俊を破る
5   細川清氏、楠木正儀の赤坂城を陥落させる
7   畠山国清、細川清氏、土岐頼康、佐々木道誉が仁木義長討滅を計画

計画が仁木義長の耳に入り、足利義詮邸を警固するが、佐々木道誉によって足利義詮は脱出
  仁木義長、伊勢に逃げる
  仁木義長、南朝に起伏
この騒ぎの張本人は畠山国清との風評が広まり、畠山国清は鎌倉に下る
1361 康安元年 9 23 細川清氏、若狭に逃げ落ちる

細川清氏:足利尊氏死去以来、執事として足利義詮の補佐を勤めるが佐々木道誉と守護職や所領を巡り確執が生じる

佐々木道誉、細川清氏が叛心を抱いていると足利義詮に告訴
足利義詮、これを信じ、後光厳天皇を奉じ今熊野に居を移す
これを知り討手を怖れた細川清氏は若狭へ
10   細川清氏、南朝に降った
11   畠山国清、足利基氏に背き伊豆へ去る
12   南朝方、四条隆俊を大将として、楠木正儀、細川清氏、京に迫る
足利義詮、天皇を奉じ近江へ難を避ける
26 南朝方、京を引き上げる
  京を掌握しながら、1ヶ月と滞在しなかった
29 足利義詮、京へ戻る
1362 貞治元年 1   細川清氏、四国阿波へ落ちる

山名時氏、足利直冬、備中、備前で幕府側を押す<
  足利義詮、軍勢を派遣、鎮圧に努める
2   後光厳天皇、京へ還幸
7   細川清氏、従兄の細川頼之と戦い、戦死
22 幕府、足利直義を祭る大倉二位明神と号する祠を天竜寺のそばに建てる
  3月6日足利義詮が腫物で病床についたのが原因?
9   足利基氏、畠山国清を箱根合戦で破る
 畠山国清、足利基氏に降った
1363 貞治2 9   山名時氏、幕府に降伏
  足利直冬、遁走
1364 貞治 7 10 光厳天皇、崩御
1366 貞治5 7   斯波高経と佐々木道誉の対立
  佐々木道誉、足利義詮に訴え出る
  足利義詮、斯波高経を慰撫
  斯波高経、足利義詮の屋形の門を固め、騒ぎの隙をみて越前へ落ちる
8 8 斯波高経、病死
1367 貞治6 4 26 足利基氏、病死
9   足利義詮、病む
12   足利義詮、病死(38歳)
足利義満、後を継ぐ(9歳)
  細川頼之、執事となる
1368 応安元年 3   後村上天皇崩御、長慶天皇即位
4 15 足利義満、元服
12 30 足利義満、征夷大将軍に任命される
1369 応安2 1   楠木正儀、足利義満に降る
2   三井寺、叡山対南禅寺争いの対策上、細川頼之と土岐頼康の間に不和が生じる
1370 応安3 12   土岐頼康、離京、美濃へ去る
1378 永和4 3   足利義満、室町新邸へ移従(いし)
1379 康歴元年      十市遠康の騒動
  興福寺と抗争
  寺からの訴訟により、足利義満は斯波義将、吉見氏頼、一色範光を派遣
2   洛中騒動
  諸大名が細川頼之退治として騒動を起こす
  足利義満、土岐頼康の誅伐、京極高秀追討の御教書を出す
  斯波義将、土岐頼康と結び、細川頼之対決の意思表明
足利義満、斯波義将側に立ち、斯波義将帰京
  細川頼之、失脚
    足利氏満(関東管領)、謀反を決意
3 8 管領、上杉憲春、謀反を思いとどまる手紙を書き切腹
  足利氏満、逆心を捨てる
  しかし、その話が京に伝わる
  足利氏満、足利義満に対し「告文」を送る
鎌倉管領を憲春の弟憲方が継ぎ、騒ぎは鎮まる
4 14 細川頼之に下国の命が下る
16 細川頼之、讃岐へ戻る
28 斯波義将、管領に任ぜられる
10   足利義満、春屋妙葩を南禅寺に住ませ、僧録司とする
  僧録司:全国の禅刹を統括、住持、役僧の任免を司る権限の極めて大きい役
春屋妙葩の夢窓一門は、飛躍的な発展

南禅寺
1382 永徳2 4   後小松天皇、即位
後円融上皇は院政
1385 至徳2 3   足利義満、禅殺宝幢寺を建てる
落慶供養
1386 至徳3 2 12 足利義持、誕生
1391 明徳2     細川頼之、養子頼元と共に上洛
4   斯波義将に代わって、細川頼元が管領

細川頼之らの上洛は、すでに1389(元中6)年頃から足利義満によって準備されていたと思われる
1392 明徳3 3 2 細川頼之、病死
8   足利義満、相国寺を建てる
落慶供養

相国寺
10 2 南朝の後亀山天皇、帰洛、嵯峨大覚寺に入る
5 神器の帰座

1382(永徳2)年頃には南朝は戦いでふるわず、そんな中南朝天皇の交代が行われた
慶天皇譲位、後亀山天皇即位

そうした動きを見て、足利義満、和睦交渉を再会
(和睦条件)
  ・三種の神器を譲国の儀式で北朝の後小松天皇に渡す
  ・以後、大覚寺(南朝)、持明院(北朝)両統が交互に皇位につく
1393 明徳4 4   細川頼元、管領を辞任斯波義将に代わる
1394 応永元年 6 13 足利義教(よしのり)、誕生
8   長慶法皇、崩御
9 24 相国寺、炎上
  11月より再建
  1399(応永6)年9月15日、落慶供養
12 17 足利義満、征夷大将軍を辞す(38歳)
足利義持、後を継ぐ(9歳)
25 足利義満、太政大臣に任ぜられる
  太政大臣:令政上の最高官
1395 応永2 6 20 足利義満、出家(39歳)
  後小松天皇の制止をも振り切る

斯波義将、義種、今川仲秋、大内義弘、細川頼元など武家と、花山院通定、徳大寺実時、山科教言(のりとき)、九条経教ら公家の間でも、義満を追って出家する者が相次いだ
1397 応永4 4   足利義満、北山第(金閣)工事着手
金閣寺

金閣寺裏の船着場
8 5 足利義満、明へ遣明使を派遣
1407 応永147 24 足利義量(よしかず)、誕生
1408 応永15 5 6 足利義満、病死(51歳)
  供養:等持院、埋葬:相国寺
1411 応永18     後小松天皇、崩御
1412 応永19 8   持明院統、称光(しょうこう)天皇即位
古来、天皇代替時には、年号改元があったが、足利義持は改めさせなかった
南北朝合体の時の条件を破られ、大覚寺統の旧南朝党が各地で兵を起こす
足利義嗣、伊勢で挙兵した北畠満雅と結び、足利義持を倒そうと画策
  あっけなく鎮圧、足利義嗣、行動を起こすに至らず

足利義嗣:
足利義満の寵愛を一身に受けていた。義満死後、義持はよき兄であったが、生前の父と共に居た時の絶頂気分が忘れられず、兄に敵対心を抱く
1416 応永2310   <上杉禅秀の乱>
関東公方:足利持氏 対 叔父、足利満隆
重臣上杉一族:山内 対 犬懸(いぬがけ) 対 扇谷(おうぎがやつ)
同族間での勢力争い
   ↓
関東管領職、犬懸上杉禅秀(氏憲)と、足利持氏が些細なことから対立
足利持氏、管領職を上杉禅秀から山内上杉憲基(のりもと)に代える
  上杉禅秀激怒
  足利持氏、上杉憲基 対 足利満隆、上杉禅秀 に分断
   ↓
足利義嗣、関東府の不穏な動きをキャッチ
京都でも兵を挙げる旨の密書を、足利満隆らに送る
   ↓
足利満隆、上杉禅秀、足利持氏邸と山内邸を急襲して追放する
鎌倉の支配権を握る
   ↓
足利義嗣の挙兵は失敗
高尾の神護寺へ逃れ、出家し、遁世を装う
   ↓
足利義嗣謀叛の報に、足利義持は我が耳を疑うが、ひとまず相国寺林光院に監禁
   ↓
足利義持、事件の背後関係を調べる
畠山満則、斯波義淳、山名時熈(ときひろ)、土岐康政、赤松満祐(みつすけ)、富樫満成(みつしげ)など有力守護の他にも、公家衆、僧徒も名を連ねる
   ↓
足利義持、激怒
林光院に火を放ち、足利義嗣を焼き殺す
   ↓
足利義嗣に加担した者も罰する
   ↓
幕命を受けて、駿河守護今川憲政、信濃守護小笠原政康の支援を受け、山内上杉憲基、巻き返す
   ↓
上杉禅秀の天下も、わずか3ヶ月で終わる
1417 応永24 1 10 上杉禅秀一族男女42人、従者57人を道連れに、鎌倉雪ノ下で自殺
足利持氏、関東公方の座に戻る
1419 応永26 6   <応永の外寇(がいこう)事件>
朝鮮の兵船数百艘が突如、対馬を襲撃
九州諸豪族と激しい戦闘を交える

実は、倭寇(わこう)といわれる海賊の横行に手を焼いた朝鮮の大宗(たいそう)が海上強盗集団を一掃する為に出兵させたものだった
しかし、当時の日本人の驚きは大変なものだった
7 20 足利義持、日明絶交の国書を出す
  『応永の外寇』が原因?
1423 応永30 3 18 足利義持(39歳)、将軍職を足利義量(17歳)に譲り、出家
1425 応永32 2 27 足利義量、病死(19歳)
1428 応永35 1 8 足利義持、病に臥る
 足利義量に先立たれてから、深酒もし、すっかり衰えをみせる
18 足利義持、病死(43歳)
  火葬・埋葬:等持院、位牌:相国寺
遺命により、6代将軍のクジ引きが青蓮院義円、大覚寺義昭、相国寺永隆、梶井義承で行われる

青蓮院義円、6代将軍に決定(35歳)
3 12 青蓮院義円、還俗して名を義宣と改める
1429 正長2 3 9 足利義宣、元服
3 15 足利義宣、征夷大将軍に任ぜられ、名を義教(よしのり)に改める

関東公方の習わしだった新将軍祝賀使節を足利持氏は送らなかった
■同じ足利尊氏の子孫でありながら、足利義詮の系統が将軍職を独占継承していることに対する不満
■足利義持の死後、嗣子が居ないことに密かな望みをかけるが、クジにより新将軍となった足利義教に対する憎悪
などが原因とされている
永享元年 9   永享と年号が改元されるが、足利持氏は翌年8月まで旧年号を用いる

幕府が行っていた鎌倉五山住持任命を勝手に行い、幕府側の大掾(だいじょう)氏、山入氏の討伐を始める
1430 永享2     弥光天皇崩御、後花園天皇即位
従来の室町幕府は、皇位継承に介入したが、足利義教は後小松上皇の意志に委ねる
1431 永享3     足利義教、九州統治に乗り出す
  九州勢力:大内、大友、少弐、菊池
  九州探題:渋川満直(無力同然)

大内盛見(もりみ)を京都に招き、手ずから刀を与え、九州統一を託す
大内盛見:応永の乱で幕府に反抗、足利義満に殺された大内義弘の弟
6   大内盛見、大友、少弐、菊池らと戦い筑前深江の戦いで少弐に敗れ戦死
大内盛見の甥、持世、持盛兄弟の相続争い
  大内持世:足利義教支持
  大内持盛:少弐と結ぶ
1432 永享4 9   足利義教、富士遊山と称し、駿河守護今川範政(のりまさ)の館へ
かつて足利義満が関東公方足利氏満の態度を確かめる為に駿河に下向した先例に習う

予想通り、足利持氏は出向いて来なかった
足利義教、足利持氏誅戮を心中深く覚悟
1433 永享5 4   大内持世、持盛を殺す
8   大内持世、筑前に侵攻
少弐満貞を破る
9   大内持世、筑前で大友持直を破る
続いて豊後に突入、大友の余党を掃討
室町幕府、九州統治権の確立に成功
1434 永享6 2 9 足利義勝、誕生(千也茶丸)
6 8 足利義教、日野家の権勢強大化を嫌い、日野義資(よしすけ)を殺害

日野義資:妹大方殿は足利義教の正室重子は足利義教の側室、足利義勝の母

比叡山の衆徒が幕府に嗷訴(ごうそ)をかける
  足利尊氏以来、幕府は親密な関係を深めることに苦心していた
  幕府の低姿勢に馴れた僧徒は乱暴狼藉をこととする

足利義教、幕府威信の為にも彼らの横暴の断固粉砕を考える
足利義教、諸大名に命じて撃退させる
8   比叡山僧徒が、鎌倉足利持氏と通じているとの風聞がたつ
足利義教、近江の六角満綱、京極持光に命じて、山門を囲ませ攻撃態勢をとる
  僧徒、降参
1435 永享7 2   だが、怒りの収まらない足利義教、衆徒の主謀者4人を騙し、首を刎ねる
足利義教の復讐を恐れた僧徒23人、根本中堂に火を放ち自殺
7 12 足利義教の四男、政知(義澄の父)誕生
先例に従い、幼くして北山の天竜寺香厳院に入室
1436 永享8 1 2 足利義政、誕生(三寅のちに三春)
1438 永享10 6   足利持氏の嫡子、賢王丸の元服
京都の将軍の偏諱(へんき)を受けるしきたりを無視、鶴岡八幡宮で行う

管領上杉憲実(のりざね)が、意見を差し挟むと足利持氏、上位討ちにしようとする
  上杉憲実、領国上野白井城に引き上げる
8 15 <永享の乱>
鎌倉攻撃のチャンスをみてとった足利義教

源氏の氏神石清水八幡宮の放生会(ほうしょうえ)を、足利持氏征討群の集結日と定める
   ↓
戦況ははじめ雌雄を決しがたかった
   ↓
斯波、土岐の支援を受けた上杉持房(禅秀の子)を主将とする幕府軍が戦闘に加わると、足利持氏方みるみる劣勢となる
   ↓
足利持氏方、幕府方に寝返る者も続出
   ↓
足利持氏、鎌倉永安寺に入り、髪を下ろして恭順の意を表す
1439 永享11 2 10 足利持氏、永安寺で自害
28 足利義久、報国寺で自害
(上杉憲実、足利持氏の助命と、足利義久の関東公方相続を懇願するが認められず)
足利義久:足利基氏以来の関東府、4代100年で滅んだ

足利義教、鎌倉から脱出した足利持氏の遺子、春王、安王、永寿王の探索を命じる
   ↓
春王、安王、下総の結城氏朝の結城城にて挙兵
   ↓
幕府軍、半年がかりで落とす
春王、安王、京都へ護送される途中、美濃垂井で斬られる
   ↓
永寿王、信濃に潜んでいたが、探し出される
足利義教は、永寿王を殺そうとするが、管領細川持之の意見に折れ、上杉憲実に預ける
1440 永享12 5   足利義教、一色義貫(よしつら)、土岐持頼を大和の陣中で暗殺

一色義貫(よしつら)、土岐持頼:
足利義教の命により大和国豪族間の抗争を収めるため出陣、三年がかりで鎮守の功をあげ、凱旋目前での上位討ちだった

室町幕府は、有力守護の連合政権でスタート。その為、幕府における守護の発言力は極めて強かった。有力守護等は不遜な態度で、何度も命に逆らった。
今回のこの見せしめ的な足利義教の殺人行為に諸大名は戦慄
以後、足利義教に対して口を差し挟む守護は誰も居なくなった

足利義教、幕府の威信回復に成功
1441 嘉吉元年 6 24 <嘉吉の乱>
足利義教、赤松満祐(みつすけ)により暗殺される(48歳)

赤松満祐:播磨、備前、美作(みまさか)三ヶ国の守護職

1427(応永34)年、足利義持により所領を奪われそうになる
(この時足利義持は赤松家庶流の持貞を愛し、満祐の所領を与えようとした)
しかし持貞は寵童の掟である女犯の禁を犯し、義持によって殺される
→赤松満祐、所領を失わずに済む

足利義教、貞村(持貞の甥)を寵愛し、赤松満祐の所領を貞村に与えるとの風聞がたつ
一ヶ月前に、一色義貫、土岐持頼が暗殺された事もあり赤松満祐、次に殺されるのは自分ではないかという不安で眠れなくなる
   ↓
恐怖にこらえきれなくなり、将軍暗殺を決行

幕府は赤松満祐追討軍をなかなか発しなかった
   ↓
将軍職をめぐるトラブルを懸念した為、管領細川持之は何よりも先に、千也茶丸(足利義勝)を後継者と定め、政局の安定をはかる
7 6 足利義教、葬儀(等持院)
将軍暗殺という事件から参列者も少なく、大名では細川持之だけだった

赤松満祐、足利義尊(直冬の孫)をたて、京都を攻めようとする
8 19 赤松満祐、山名持豊を中心とする赤松征伐群と戦いが始まる
9 10 赤松満祐、木山城を落とされ、一族69人とともに自害
1442 嘉吉2 6 29 管領職、細川持之から畠山持国に代わる
8 4 細川持之、死去
11 7 足利義勝、征夷大将軍に任ぜられる(9歳)
1443 嘉吉3 7 13 足利義勝、赤痢にかかる
21 足利義勝、死去(10歳)

諸将は管領畠山持国邸に集合、後継者選定会議を開く
足利義勝の弟、三春(義政)に決定(8歳)
29 足利義勝、葬儀(等持院)
1445 文安2 3 24 畠山持国に代わり、細川勝元、管領となる(16歳)

細川勝元、富樫泰高を援助、三春に要請し加賀の守護にする
1446 文安3 9   加賀の守護を巡り、富樫教家、泰高兄弟に争い
  富樫教家:三春、陰で援助
  富樫泰高:勝利

三春の富樫教家援助を知り、細川勝元は管領辞職を申し出るが許されなかった
12 13 三春、後花園天皇より、足利義成(よししげ)の名を賜る
1449 宝徳元年 4 16 足利義成、元服
29 足利義成、征夷大将軍に任命される(14歳)
1450 宝徳2     足利義成、15歳で側室を持つ
  今参局(いまはりのつぼね)、義成より10歳以上年長
  義成が赤ん坊の頃からそばに侍していた
1453 享徳2 6 13 足利義成、義政と改名(18歳)
(武人的な名前よりも、仁政を行い文事を重んずる人間になりたいという願望から)
1455 康正元年 1 9 今参局、女子を出産

この頃「三魔」という言葉が言いふらされる
--- 三魔 ---
■御今
■有馬:足利義政の近習で、特に寵愛されている
■烏丸(からすま):日野氏の一族で、日野氏を通じて権勢の座にすわる

足利義政の政治に干渉し、思いのままに振舞うのを諷刺したもの
8 27 足利義政(20歳)、日野富子(16歳)を正室に迎える
1458 長禄2 12 26 足利政知、23歳で、いきなり還俗させられる
鎌倉公方の足利持氏の子、成氏が幕府に反抗的な態度を示した為、討滅にあたらされた
1459 長禄3 1 9 富子、男子を出産するが、生まれてすぐ死亡
   ↓
今参局の呪詛の為と風評が立ち、今参局は島流しとなる
   ↓
富子、死刑宣告を足利義政に迫り、今参局、犬上郡甲良荘の寺にて切腹
1461 寛正2 10   足利政知、関東諸将に足利成氏討伐の御成書を送り加勢を募るが、足利成氏の勢力はあなどりがたく、足利政知は関東に入れず、伊豆堀越にとどまざるを得なかった
---足利政知の子、義澄が伊豆で誕生したのはこうしたいきさつの為
1462 寛正4 7 14 富子、女子出産
1463 寛正4 7 20 富子、女子出産
重子(足利義政の母)、重病
   ↓
急いで今参局の追善供養を行う
8 8 重子、死亡
1464 寛正5 11 25 足利義政、男子が生まれなかった為、足利義視(よしみ)を養子とする

足利義視、最初は断るが、もし男子が生まれても将軍にはならないという誓書を交わして還俗する
1465 寛正6 11 23 富子、足利義尚(よしひさ)出産

次将軍として足利義視を養子として迎えていたが、男子が生まれ、足利義政、富子は実子に将軍を継がせたくなる
1466 文正元年 7 29 足利義視の子、義材(よしき、後の義殖)、誕生
1467 応仁元年 5 20 応仁の乱での東軍、西軍との呼称が定まる
26 応仁の大乱の幕が下りる(1477)
[東軍]足利義政:細川勝元、日野勝光
[西軍]足利義視:山名宗全、大内政弘、伊勢貞親

<赤松>
嘉吉の変後、滅ぶ
細川氏が援助、赤松満祐の甥、則尚、摂津、播磨で所領を得る
   ↓
山名宗全、足利義政の命を無視、赤松則尚を討つ
   ↓
1458(長禄2)赤松満祐の弟の孫、次郎、家督を継ぐ
1465(寛正6)12/26 赤松次郎元服
足利義政から偏諱を与えられ、赤松政則と称す
   ↓
以後、赤松氏は細川氏の味方として活動

<山名>
嘉吉の変後、赤松氏討伐で勢力回復
山名宗全、精力的な活動を開始

<細川>
政敵、畠山持国を失脚させようと策略を巡らす
山名宗全の娘と政略結婚
   ↓
畠山氏の勢力を失墜させる
しかし畠山持国の死によって局面は一転
   ↓
山名宗全と細川勝元、主導権を巡り勢力争いを展開
   
   <斯波>
斯波義敏、義廉の間に内紛

義廉:母が山名家の出、山名宗全は娘と結婚させ味方にしようとする
1466(文正元)7/16 義廉、義敏の家臣を捕らえて殺す
   ↓
義敏、足利義政に訴える
足利義政、伊勢貞親らに処置を任せる
   ↓
伊勢貞親、義敏を斯波家の当主とするように進言
山名宗全は怒り合戦の準備を始める
   ↓
8/3 足利義政、日野勝光を使として山名宗全をさとす
義廉との婚約を破棄させる
   ↓
8/25 義敏を越前、尾張、遠江三国の守護に補任

<畠山>
持国、実子がなく弟持富の子政長を養子にする
1450(宝徳2)6/26 妾腹に生まれた義就に所領を譲る
   ↓
持国の家臣の中では政長のもとに結集する者も多かった
1468 応仁元年 12 5 足利義視、管爵を剥奪される
1471 文明3 8 3 足利義政、富子、不和により別居
足利義政、細川勝元邸に移る
1473 文明5 1 21 伊勢貞親、没
3 18 山名宗全、没
5 11 細川勝元、没
    両軍主将の逝去により、戦乱は終熄にむかう

1444(文安元)から続く水害、干害、冷害、地震による飢饉、土一揆の最中でも、足利義政は酒宴や連歌の会を催していたが、応仁の乱の際もそうだった
12 19 足利義尚、征夷大将軍に任命される(9歳)
1474 文明6 3 3 足利義政、小河邸宅へ移る
1476 文明8 6 15 日野勝光、中風で死去
11 13 室町殿焼失
富子、小河邸に移る---→ 一時、足利義政と仲直り
1477 文明9     足利義視、義材(よしき、後の義殖)父子、美濃国守護土岐成瀬に下る
10 20 足利義政、富子、再び不和
足利義政、聖護院の山荘へ移る

富子、公家、将士相手に金貸しを始める
---兄、日野勝光の死去により、蓄財傾向がひどくなる
1480 文明12     足利義覚(富子の末子)、片目失明
富子、京都の御霊社に末社を造って、今参局を祭る
4 14 足利義尚、日野勝光の女子を正室に迎える
12 15 足利義澄、伊豆の堀越で誕生
---清晃、義遐(よしとお)、義高、義澄と改名
1482 文明14 2 4 東山山荘、造営工事開始(銀閣寺)


東山山荘(銀閣寺)
1483 文明15 6 27 足利義政、東山山荘へ引越
1487 長享元年 5 28 足利清晃8歳の時、伊豆から京に入る
---伯父の足利義政が、父が居た天竜寺香厳院への入室を勧めた為
9 12 足利義尚、出征

六角高瀬が近江の荘園を押領
家臣達の訴えを聞き入れる
1488 長享2 7   足利義尚、義熈と改める
1489 延徳元年 3 26 足利義尚、陣中で病死(25歳)
    足利義尚死去により、足利清晃にも波風が立ち始める
足利義政や細川政元にかつがれ、義尚の後継者として矢面に引き出される清晃10歳

しかし義材を担ぐ日野富子らの反対にあい失敗
1490 延徳2 1 7 足利義政、死去(55歳)
深酒による中風と足利義尚死去のショックが重なりノイローゼになる
7 5 足利義材、第10代征夷大将軍に任ぜられる
応仁の乱で父足利義視が西軍についたことにより、細川政元は反対BR> 足利義政の弟の子、清晃(10歳)をおすが富子などの反対にあう

その後も足利義材と細川政元の対立は続く
1491 延徳3 1 7 足利義視、死去(53歳)
1492 明応元年 8 23 足利義材、近江鎮定を終える
---足利義尚が陣中で死去した六角高瀬征討
将軍最初の仕事だった
1493 明応2 2 15 足利義材、畠山基家征討に向かう
---応仁の乱後も畠山義就、基家父子対畠山政長の対立は続いていた
3 20 足利義材が京を留守にしている間に、細川政元、足利清晃をたて叛旗をあげる
   ↓
京で足利義材方武将の屋敷や寺院に火を放つ
足利義材の弟周嘉を殺害
   ↓
京が一段落すると、足利義材のもとへも細川政元の部下が向かう
   ↓
細川勢の攻撃を受け、畠山政長自害
子の畠山尚順は紀伊国に逃げ延びる
   ↓
足利義材、降参
4 23 細川政元、足利清晃を前将軍義尚の御所遊初軒に迎え入れる
28 足利清晃、還俗して義遐(よしとお)と名乗る(14歳)
    足利義遐、義高に改名
6 29 細川政元、足利義材を小豆島配流と決定
足利義材、その夜、風雨に紛れ警護番を殺害し遁走
   ↓
畠山政長の武将、越中の神保長城を頼る
能登守護・畠山義統、加賀守護・富樫政親、若狭守護・武田元信、越前守護・朝倉貞景ら、足利義材のもとに集まる
   ↓
九州筑後守護・大友義右は足利義材に応じるが、反対派の父大友政親に毒殺される
1494 明応3 4 27 足利義高、征夷大将軍に任命される
1498 明応7 9   足利義材、上洛の準備を終え越中を出発、朝倉氏の一乗谷朝倉館に入る
この頃、足利義材は名を義尹に改める
1499 明応8 7 20 足利義尹、畠山政長の子、尚順と越前を出発
敦賀に3ヶ月滞在の後、近江の坂本に布陣
    京都では細川政元が足利義尹に応じた延暦寺を攻め、幕府近親の内通者に対しては屋敷や土地を没収して足利義尹と対抗
11 21 幕府は細川政春、守護・六角高頼らに近江坂本を攻めさせ、足利義尹軍を河内に敗走させる
   ↓
足利義尹は周防の大内義興を頼り、山口に下向
1500 明応9     細川政元と足利義高の不和
9 28 土御門天皇、崩御
1501 文亀元 1   細川政元と足利義高の和解
4   細川政元と足利義高、再び不和
  細川政元の時として常軌を逸する性格が起因したのではないか?
1502 文亀2     実子のなかった細川政元は、前関白・九条政基の子を養子とし、澄之と名乗らせる
7 12 足利義高、義澄に改名(22歳)
20 足利義澄、左近衛中将に叙任

細川政元は、将軍の名称があれば十分と任官に反対する
足利義澄、細川政元の間柄はますます険悪になる
1503 文亀3 5 20 細川政元、澄之が細川家と関係がない為、阿波・細川成之の孫、六郎を跡継ぎ、澄元とする
   ↓
細川家家臣が澄之方と澄元方で争い始める
1504 永正元     細川澄元の家督相続がきっかけで、細川氏の家臣は二分して争う
澄元を支持する摂津守護・薬師寺元一が政元に引退を迫る事件にまで発展
しかし、薬師寺元一の計画は水泡に帰す
1506 永正3     阿波に在国する細川澄元が家宰の三好之長を連れ上洛
細川澄之、澄元の対立はいよいよ露骨となる
1507 永正4 4   細川政元、若狭守護・武田元信に丹後の一色義有討伐の助勢を頼まれ、丹後に出張
5   一色義有による阿弥陀峰城の守りは固く、細川澄元、三好之長とともに帰京

帰京後、三好之長は細川澄元を盛り立て、家臣の薬師寺長忠(元一の弟)や香西元長を無視し専権を振るう
6 23 薬師寺長忠、香西元長両氏は、丹波の細川澄之をたてることに決し、細川政元を殺害
   ↓
その後、薬師寺長忠、香西元長らは細川澄元と三好之長の反撃にあい、細川澄之は討たれ、一味は四散
12 15 足利義尹、大内義興に擁立され、畿内の争乱に乗じて上洛の途につく

足利義尹は、1500(明応9)年より肥後相良氏、薩摩島津氏、肥前渋阿氏、安芸毛利氏、豊後大友氏、近江京極氏、伯耆山名氏、丹波一色氏らに内書を送り、活発な上洛運動を展開  
    細川澄元、足利義澄に足利義尹との和議を勧めるが、義澄それを拒否
    足利義尹に抗しきれないと判断した幕府は足利義尹追討を諸氏に命じ、細川成之、高国を動かし、大内義興との和議を試みる
  諸氏:応える者なし
  細川高国:足利義尹に内応(細川澄元に反発)
1508 永正5 4 10 細川高国、摂津、丹波、伊賀の軍勢を率いて京に入る

足利義澄、岡山城の九里氏を頼る
細川澄元、三好之長、近江に逃れる
27 足利義尹、泉州の堺につく
6 8 足利義尹、8年ぶりに京の地をふむ
7 1 足利義尹、大内義興の推輓により、前例のない征夷大将軍再任となる
1509 永正6 6 17 足利義澄派の三好之長が近江から京都侵入をもくろむが、細川高国、大内義興に攻められ敗走
10 26 子刻(PM11:00〜AM1:00の間)、足利義澄方は足利義尹の暗殺を計画

寝所に刺客を送るが、失敗に終わる
1511 永正8 5 12 足利義澄、細川澄元、播磨の赤松義村らと再度京をねらう
7 13 阿波に敗退した細川澄元、足利義澄を将軍に復帰させるべく京に迫る
   ↓
和泉での戦いは勝利するが、その後の舟岡山での戦いで撃破され四国に退却
   ↓
この舟岡山の戦いで大内義興、細川高国の支配体制が確立
8 5 足利義晴(亀王丸)誕生
父、足利義澄が流浪中であったのと、近江の守護六角高頼が足利義尹方についたことから、朽木植満に警固され、播磨の赤松義村に預けられる
14 足利義澄、流浪先の近江岡山で病死(32歳)
24 足利義尹、大内義興、細川高国らと一時丹波に退いていたが、舟岡山で細川澄元らを破る(この間、足利義澄は近江の岡山で病死)
   ↓
この戦いは大内義興、細川高国の畿内における地位を安定させた
9   足利義澄の死より1ヶ月後、義澄一家が身を寄せた九里氏は、六角高頼、定頼父子に謀殺された

足利義澄を擁立していた三好之長、細川澄元は、次に遺児亀王丸を引き出し、足利義尹と和議を結ぶ
1513 永正10     足利義尹改名、義殖を名乗る
この頃から健康が優れず、有馬温泉に出かける
2 14 播磨の亀王丸(2歳)は和議の証に剣馬を幕府に送る
亀王丸を迎えた赤松義村は、守護代の浦上氏と対立
   ↓
京の細川高国は、将軍義殖を追い、亀王丸を将軍に据える為、浦上村宗に亀王丸の入京を頼む
   ↓
浦上村宗は対立する赤松義村のもとより亀王丸を奪い、細川高国の要求に応える
1517 永正14 10 23 足利義殖、帰京

大内義興は在京費用の不足や領国平定の為、山口へ帰還
---細川澄元が四国で京の隙をうかがっている状況下で、大内義興の帰国により混乱を招くことは必定だった
1519 永正16 9 29 足利義殖、淳和奨学両院・源氏長者となり栄誉を極める
11 6 細川澄元、四国勢を引き連れ、摂津兵庫につく
細川高国は、三好之長と対陣中の瓦林正頼救護に駆けつけたが敗退
   ↓
足利義殖は、近江の京極・六角氏に京都の守護を命じる
   ↓
細川澄元は入京後、足利義殖に忠誠を誓うが、細川高国の振舞を憤り、和泉に奔った
1521 大永元年 7 6 亀王丸、浦上氏らに警固され入京
28 亀王丸、足利義晴に改名(11歳)
9 17 浦上村宗、家臣の岩井、花房、菅野らに命じ、室戸において赤松義村を暗殺させる
12 14 足利義晴、細川高国を加冠親とし、元服式をあげる
15 足利義晴、第12代征夷大将軍に任命される
足利義殖、征夷大将軍解任
1523 大永3 4 7 足利義殖、阿波の撫養(むや)で死去(58歳)
1526 大永6     細川家の内輪もめ
香西元盛が細川高国に寵愛されているのを腹立たしく思っていた細川尹賢は、元盛の右腕矢野宗好を買収、元盛が細川澄元などの阿波衆に内通している旨の偽文書を作らせ高国に讒言
6 13 細川高国、細川尹賢の偽文書を信じ香西元盛を殺害
細川尹賢の陰謀を知った香西元盛の兄波多野稙満は丹波八上城に、弟柳元賢治は同国神尾城に立てこもる
   ↓
兄弟は細川晴元(澄元の子)と連絡を取り、細川高国と対立
11 4 細川尹賢、丹波攻略に向かう
13 細川高国、細川尹賢と合わせ1500名の軍勢を率い、丹波攻略に向かう
18 柳本の神尾城を取り巻くが、夜討をかけられ首級20余を討ち取られる
その上、京勢の丹波守護内藤国貞、赤松氏らが柳本方についた為、細川尹賢以下の過半が敗北
   ↓
丹波勢に呼応して、故細川澄元の牢人らが摂津中島で蜂起
12 13 丹波勢に応じた和泉守護細川澄賢、三好一族の四国衆、堺に到着
京勢に脅威を与える
1527 大永7 1   幕府は対策を練り、浦上氏らに出陣を呼びかけるが、丹波勢の進撃は迅速で、山崎を落とし、鳥羽に着陣
2 12 危機に瀕した足利義晴は本圀寺に座を移す
13 京勢、桂川での戦いで大敗
14 足利義晴、細川高国、武田元光らと守山に難を避ける
    細川晴元、三好元長、足利義晴の異母兄弟義維(よしつな)をかつぐ
---義維は皮肉にも父義澄が怨み抜いた義殖の養子となり、将軍を目指す
6 17 足利義維、左馬頭、従五位を任ぜられる
  左馬頭:将軍就任の前段階の位
    足利義維任官を耳にした守山の足利義晴は、足利義維を討つ為、坂本に布陣
六角定頼、朝倉教景らが合流
東山の若王寺に陣を敷いた時には5、6万人、東寺に陣を移した時には8万人に膨れ上がる
しかし、このまま合戦は年末まで続く
1528 享禄元年 1 17 六角定頼が間に入り和睦の兆し

足利義維方、柳本賢治、三好政長が徹底抗戦を主張、三好元長は停戦を主張
三好政長:途中で和議交渉からおりる
三好元長:堺に行き細川晴元に和睦を勧めるが反対される>
   ↓
和睦不成立
足利義晴、ひとまず坂本へ退く
    柳本賢治、細川高国余党の討伐を進め、仲間である三好元長方の伊丹氏を殺害
三好元長、柳本賢治の行動を憎み、阿波に帰国
    調子に乗った柳本賢治は、足利義晴を上洛させ、堺の足利義維と和睦させようと図るが、三好政長や細川晴元の賛意を得られず失敗
   ↓
面目を失った柳本賢治は、大徳寺において髪を切り、播州三木の別所氏のもとに寄留
    足利義晴と近江へ没落した細川高国は、兵を募る為遊説の旅に出ていた

柳本賢治が播州に居た頃、細川高国は浦上村宗の三石城に居た
3年ぶりの出会いだが、細川高国は刺客を差し向け、柳本賢治を暗殺
1531 享禄4 6 4 天王寺合戦
天王寺から尼崎に敗走した細川高国は、京屋に潜んでいたところを密告され、広徳寺で自害させられる
   ↓
細川晴元、河内の守護代木沢長政をひきだす
   ↓
木沢長政、三好元長と対立
   ↓
細川晴元、木沢長政、本願寺証如光教の力を借りて、堺の顕本寺で三好元長を自害させる
   ↓
三好元長が自害した時、足利義維付きの侍8人が殉じ、70人余りが討ち死にした
足利義維も自害を決意するが、細川晴元の手の者に制止される
   ↓
足利義維、先に三好元長を弁護した細川晴元の兄弟細川持隆に迎えられ、阿波に帰り義冬と改め、平家公方と称す
   ↓
摂津、河内、和泉、大和の一向一揆衆、光教の制止を振り切り、細川晴元、木沢長政に鉾先を向ける
   ↓
細川晴元、一向衆と対立していた法華衆徒を利用し立ち向かう
1532 天文元年 8 24 細川晴元、舅の近江守護六角定頼と法華衆ら3、4万を糾合、山科本願寺を焼き払う
本山を焼き打ちされた門徒は勢力を盛り返し、細川晴元を淡路に敗走させる
   ↓
木沢長政、京の21ヶ寺の法華衆徒を引き連れ門徒衆を敗走させる
   ↓
やがて一揆衆の蜂起が下火になり細川晴元、池田城に戻る
                        ↓
木沢長政らと堺の本願寺光教を攻め大阪へ奔らせる
1532 天文2 6 20 本願寺光教、細川晴元、和解
   ↓
こののち、三好元長の子長慶が一揆方に加わり小競り合いが続くが、4年後に終結
1534 天文3 6 8 足利義晴、近江尚通の娘と婚儀(24歳)
1536 天文5 3 10 足利義輝、南禅寺で誕生(幼名、菊幡丸)
1546 天文15     菊幡丸、義藤に改名、元服(11歳)
  加冠役、六角定頼
足利義藤、第13代将軍になる
     細川晴元、細川氏綱をたてる河内衆・遊佐氏一党の討伐に向かう
   ↓
  その最中、足利義藤、河内衆と内通
  前将軍義晴、近衛稙家ら公家衆、幕臣900余騎と北白川城に入る
   ↓
足利義晴、義藤父子、四国衆の晴元から河内衆に乗りかえる
---(変心の理由)
四国衆が遠国で、なかなか上洛せず、不忠の行為が多いためだという

将軍の動きを察知した細川晴元、三好長慶らの四国勢は3万の軍勢を率いて上洛、北白川城に迫り将軍、足利義藤方を圧迫
   ↓
細川晴元、一旦摂津に引き返すが、幕府方だった六角定頼の一万の軍勢を加えて、再度北白川城を取り巻く
   ↓
1547 天文16 7 19 足利義藤、北白川城に火を放ち、坂本へ難を避ける
細川晴元、その後反転、天王寺の舎利寺の戦いで河内衆を破る
   ↓
足利義藤、細川晴元に和睦を申し入れ、翌年帰京
        三好長慶と三好政長の対立が再発
   ↓
  父、元長が討死した時、政長が暗躍したことによる
   ↓
足利義藤、東坂本の常在寺に移る
足利義晴は抗戦を説き、中尾山に城塞を築く
                 ↓
  中尾城の普請には細川晴元、六角定頼があたる
1550 天文19 5 4 足利義晴、穴太(あのう)の為、死去(40歳)
足利義藤、父義晴の遺志を継ぎ中尾城に入城

---長慶の微妙な立場
本来、敵は三好政長であって、決して主君の細川晴元や将軍ではない
   ↓
六角義賢(定頼の子)を通じて義藤に和議を申し込むが取り上げられず
12 20 長慶、やむなく中尾城攻撃に踏み切る
   ↓
足利義藤、中尾城を焼き、坂本に奔り、堅田、朽木谷へと移る

長慶、京に入り政権の座に座る
細川晴元、3000余の軍勢を率いて相国寺に布陣するが、長慶方の攻撃をうけ敗走
   ↓
足利義藤、反撃を無駄と悟り、長慶に和睦を申し入れる
   ↓
長慶、条件付きで快諾
---(条件)
晴元は三好家の主君なので助命、ひとまず高国の子氏綱をたて、成人後晴元の子、聡明丸(当時5歳)をもりたてること
1552 天文21 1   足利義藤、三好家の家臣に迎えられ、二条御所に入る
 この日、細川晴元は剃髪、心月一清と号し、若さへ出奔
        ↓
   従者はわずか80余名だったが、あっ口を遊説、勢力を増やし京都進入をもくろむ

足利義藤、大文字山近くに霊山城築城
1553 天文22 2 26 三好長慶、細川晴元の戦闘、山城の鳴滝で行われ、長慶方勝利
   ↓
長慶、清水寺において、自分に対して異心のある奉公衆6名の身柄を足利義藤に要求
                                 ↑
                              晴元に内応           
3 8 足利義藤、霊山城に入城、長慶との和を破る
8 30 足利義藤、三好長慶との戦いに敗れ、朽木谷へ退く
   ↓
このまま1558年まで、18〜22歳までの5年間を山深い朽木谷で過ごす事となる
1554 天文23     足利義藤、改名 義輝
1558 永禄元年 5 3 足利義輝、細川晴元以下3000余の軍勢を率い坂本へ移る
6 9 足利義輝、三好長慶、白川口において戦闘
  両者、多大な被害を出す
   ↓
足利義輝、長慶方に心移りする者も現れ、劣勢の様相が濃くなる
   ↓
この状況を苦慮した六角義賢、三好長慶に和議を申し込む
                      ↓
先にも将軍から約束を破られているので、二の足を踏むが、やむなく承諾
11 27 帰国した足利義輝は、相国寺において公武の参賀をうける
1561 永禄4 5 6 細川晴元、摂津富田の普門寺に迎えられ、三好長慶の庇護をうける
(足利義輝が晴元の赦免を願い出た為)
   ↓
長慶は、人質として養育していた晴元の一子、聡明丸を1558年2月3日元服させ、主君晴元との約束を守った。
この時、晴元は10年ぶりに子息信良(聡明丸)と再会を果たす
        三好長慶の強さの柱である三人の弟
  三好之康→本国阿波
  十河一存(そごうかずまさ)→讃岐の十河家を跡ぐ
  安宅(あたか)冬康→阿波、淡路、紀伊の海辺部を抑える安宅家に入る
      ↓
   逆心ありと松永久秀で讒言され自害
三人共、1561年からわずか3年の間に次々と病死、戦死、瀕死してしまう。

長慶の嫡男、義興、22歳の若さで亡くなる
   ↓
松永久秀が近仕する者を買収し、毒を盛ったと噂される
1564 永禄7 7 4 子息に死なれた三好長慶は、病気がちとなり飯森城内で行きを引き取る(43歳)
   ↓
松永久秀と三好三人衆(三好政康、長逸、岩成友通)、長慶の死を待っていたかのように、足利義冬の子、義栄(よしひで)を担ぎ出す
1565 永禄8 5 19 松永久秀、三好三人衆、二条御所の足利義輝を奇襲
                        ↓
           壮烈な戦いを繰り広げるが、非業の死をとげる(30歳)

義輝の弟で奈良の一乗院覚慶は細川藤孝に助けられ朝倉家へ亡命。還俗して義秋と改める
9   松永久秀と三好三人衆の不和
1566 永禄9 2   松永久秀 対 三好三人衆の戦いが始まる
   ↓
5   三好方、圧倒的優勢
   ↓
松永久秀、堺の会合衆に泣き付き講和を図らせる
6   足利義栄、三好三人衆の公園で上洛の路につく
12 7 足利義栄、松永久秀との戦いに勝ち進みながら摂津に入る
1567 永禄10 2   三好方の総大将、三好義継(長慶の子)、三好三人衆に不満を抱き、松永久秀に降参
4 6 三好義継、松永久秀、信貴山城に入る
    ↓
12 奈良の多聞城に立てこもる
5   三好三人衆、多聞城に火を放つ
10 10 松永久秀三好軍が陣取っていた東大寺大仏殿に火を放つ
  ↓      ↓
  ↓     堺の敗走
その結果、大和、河内、摂津を支配下におく
12   松永久秀、多聞城を大々的に修築。壮大な建物となる
   ↑
大和、河内の領民から莫大な資材と労力を徴発。寺院にも強制的に修理費を出させた為、領民の評判は甚だよくなかった
1568 永禄11 2 8 足利義栄、摂津富田の普門寺にて第14代将軍を任官(29歳)
                ↑
      松永久秀との戦いが終わらない為、上洛に到ってなかった
4 15 足利義栄、将軍就任を聞き、足利義秋(義輝弟)激怒。
元服し、名を義昭に改め上洛の決意を固める(31歳)
   ↓
朝倉義景が容易に動きそうにないのを見て、細川藤孝の意見に従い明智光秀を通じて織田信長に働きかける
7 22 足利義昭、岐阜の立政寺到着
27 足利義昭、織田信長と会見
9   織田信長、6万の大群を率いて岐阜を進発
26 足利義昭、織田信長、上洛
         ↓
   信長は更に兵を進め、三好三人衆の軍勢を畿内から追放
   松永久秀、三好義継→降服
10 8 足利義栄病死
   ↓
いくつもの説があり、死亡日、病名は定かでない
18 足利義昭、第15代将軍を任官
24 足利義昭、岐阜に帰る織田信長に感状と家紋、管領職を与える
                ↓
  感状と家紋は拝領するが、管領職は辞退
  その代わりに堺、大津、草津の港に信長の代官を置くことを願い出て許される
1569 永禄12 1 4 足利義昭、三好三人衆に本圀寺門前を焼き払われる
   ↓
和田惟政、池田勝正らが駆けつけ三好勢を撃退
   ↓
報告を受けた信長は岐阜から上洛、足利義昭の無事を祝う
14 織田信長「殿中御掟」と称する9ヶ条の掟書を定め、将軍や幕府の奉公人の権力行使を制限
2 2 織田信長、二条城の工事を開始
4 14 足利義昭、二条城に移住
    足利義昭、ことごとく信長に監視されることに不満を抱く
   ↓
信長に内密で諸国の大名に御内書を下し、援助を求めるようになる
10 16 織田信長、岐阜に引き上げる
12   織田信長、朝倉義景に年頭に将軍に参賀するように書信を送る
         ↓
      応じなかった
1570 永禄13 1 23 信長、5ヶ条から成る覚書を足利義昭に示し、承認させる
     ↓
この5ヶ条により、軍事権・政権・経済権に加えて刑罰の執行権も信長の裁断に任せることになった
   ↓
足利義昭、大名たちに密書を送り、将軍政権挽回の事前運動を始める
4 14 織田信長、二条城竣工祝を催す
   ↓
この機会に再び朝倉義景に出仕を命じていた
   ↓
信長は足利義昭との密書交換の件について詰問するつもりでいたが、朝倉義景は上洛しなかった。
20 信長、将軍の命に背いた武蔵上野を討つという口実で、大軍を率い若狭へ攻め入る
23 元亀に改元
25 信長、突然若狭から敦賀に殺到、朝倉方の城を攻め進む
   ↓
信長の妹、お市の方の婿である小谷城の浅井長政が、六角義賢と呼応して反信長の兵を挙げる
                            ↓
  信長は浅井長政へ断わりなく朝倉氏を攻めないという、長政との誓約を反古していた
28 信長、越前撤退
 ↓
30 入洛
5 21 信長、ひとまず岐阜に帰城
6 19 信長、大兵を率いて岐阜出発
 ↓
24 横山城攻撃
28 <姉川の合戦>
信長勝利
横山城を木下秀吉に守らせる
  ↓
この城を抑える事で、越前への通路を絶たせる事になる
    足利義昭、三好の残党や石山本願寺に救援を求める
                   ↓
             朝倉氏とは姻戚関係
8 20 信長、3万の大兵を率いて岐阜を出馬
 ↓
23 上洛
 ↓
25 三好勢を攻める
 ↓
9   摂津で石山本願寺の門徒と激戦
    ↓
信長の摂津進軍を知り、浅井・朝倉連合軍は3万の軍勢で織田方の宇佐山城を攻撃
    ↓
  織田信治、森可成、討死

信長、比叡山下の坂本へ兵を進める
   浅井・朝倉連合軍、兵を二分し、一部は比叡山で陣を構える
10 16 朝倉義景、2万の兵を率いて比叡山到着
   ↓
信長、宇佐山城に拠る
   ↓
石山本願寺門と、六角義賢も信長に対し攻撃に出る
12 13 正親町天皇より、信長と浅井・朝倉両氏に和融の勧告が出される
   ↑
 形勢が悪いとみた信長が、足利義昭を通し朝廷に奏請
1571 元亀2     信長、姉川から江南の朝妻までの水路を遮断
   ↓
浅井・朝倉との和議破れる

北陸の本願寺門徒、比叡山僧徒、長島一揆などが再び立ち上がる
5   松永久秀、信長に反旗を翻す
12 信長、長島を攻め、一揆軍に壊滅的な打撃を与える
 ↓
8   小谷山城を攻める
 ↓
9 12 突如、比叡山に侵攻、延暦寺を焼き払い僧徒千数百人を殺戮
1572 元亀3 3 5 信長、5万の大兵を動員、小谷山城を攻囲
   ↓
しかし、浅井長政が挑戦に応じない為、虎御前山に砦を築き長囲の陣を張る
      ↓
 朝倉景鏡(かげあき)が5,000、義景が15,000、計2万の大軍が越前から南下
10 3 武田信玄、足利義昭から信長打倒の密令を拝受、甲府を出馬
   ↓
徳川家康を攻める武田信玄と、信長を攻める浅井・朝倉連合軍、石山本願寺が足利義昭が中心となり連絡をとり、信長挟撃作戦を巡らせていった
12 2 長島一揆の残党が岐阜を攻めようとしているとの連絡を受け、信長、江北戦線撤収、岐阜に戻る
   ↓
何故か15,000の大兵を率いる朝倉義景は信長を追撃しようとせず、同時に越前に撤兵してしまう
19 武田信玄、徳川家康、三方ヶ原で決戦
         ↓
    散々に敗れ、浜松城に逃げ込む
1573 元亀4 1   武田信玄、野田城を陥落
2   信長、足利義昭に17ヶ条にわたる意見状を出す
      ↓
三好や伊賀、甲賀の土豪を配下に収め、兵を挙げる
《初めて仮面を脱ぎ、自分を表に出した》
26 信長、柴田勝家、明智光秀に命じ、足利義昭が砦を築いた石山を攻めさせ勝利
                        ↓
                      京に逃げ帰る
3 25 信長、足利義昭追放を決意。上洛し知恩院に陣をおく
      ↓
  かなわぬと悟り、朝廷に和議の勧告を奏請
4 7 信長、勅命に従い足利義昭と和睦、岐阜に帰る
12 武田信玄、労咳の為、甲府に戻る途中、信濃の駒場(こまんば)で死去(53歳)
   ↓
 遺言で3年の間、喪を秘する事をしたためる
    信長、武田信玄の病死を確認
5 22 信長、丹羽長秀に命じ軍船を急造させる
    ↓
  足利義昭の挙兵に備える
7 4 足利義昭、二条城で再び兵を挙げる
   ↓
しかし自分は宇治の槇島城に立てこもる
8 信長、二条城を包囲
 ↓
16 槇島に陣し、足利義昭を攻める

慌てた義昭は、いつもの手で天皇から和平勧告の論旨を下賜されようとしたが、それを予知した信長が御所への道筋の町を焼き払った為、使者を送れなかった
   ↓
義昭、2歳になったばかりの若君を人質として信長に降服
 ↓
山城の枇杷荘を経て、河内の普賢寺に護送され、そこで謹慎の意を表明
 ↓
その後、河内の若江に移される
28 天正と改元
8 1 足利義昭、あきらめきれず小早川隆景に足利将軍家再興の御内書を送る
   ↓
10   堺に移る
   ↓
10 再度、小早川隆景に御内書を送る
   ↓
1574 天正2 3 20 徳川家康に御内緒を送り、信長の悪口を告げる
   ↓
4   紀州に移る
   ↓
14 島津義久に御内書を送る
  その後も足利義昭は、毛利方や島津家へたびたび御内書を送る
        その後、信長が死に、織田家が二分し、このチャンスを狙ったが秀吉が関白太政大臣に任官
1587 天正15     遂に足利義昭は、秀吉の前に頭を下げる
     ↓
1588 天正16     出家。昌山道休と称し、秀吉に伊予の内に一万石を与えられる
     ↓
1597 慶長2 8 28 病死(61歳)



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