「おとうさん,臍の緒,切られますか?」と入船さんが鋏を差し出した。
「いえいえ,結構です」思わずぷるんぷるんと首を振る。
「本当にいいですか」と先生。
「本当にいいです」と僕。
先生は残念そうな顔をして「じゃあ私が切りましょう」と臍の緒に鋏を入れた。
臍の緒ってこんなに白いものなのねとしげしげと眺める。看護婦さんがまだ血まみれの赤ちゃんを手早く拭いて白いアフガンで包んだ。
「じゃ,こちらで体重計ったりしますから,どうぞおとうさんもついていらしてください」
まだ分娩台に残る奥さんにさよならを云って,先生や看護婦さんと共に沐浴室へ入る。
ベッドにつける名札をこしらえる看護婦さんが,奥さんの名前を書き乍ら,
「もう赤ちゃんの名前はお決めになりましたか」
「はい,『はると』です」
「どういう字を書くんですか」
「悠久の『悠』に都はるみの『都』です」
「ゆうきゅうの…ゆ…すいません,こちらに書いてください(笑)」
先生がガーゼ様のもので,ずっと泣き続けている赤ちゃんの身体にこびり付いた血を軽く拭き取ってから,両手を握らせたり,胸元に聴診器を当てたりするのを脇からじぃっと眺める。羊水がまだ幾分残っているらしく,先生は赤子が泣くのも構わず,彼の口や鼻に容赦無くチューブを差し込んでいる。出産直後から比べるとだいぶ顔に赤みが差してきたみたいだ。手足,特に指先はおじいちゃんのように皺々である。萎びたとうがらしと云うか,まだ本来の内容量が入っていない容れ物といった感じ。爪のかたちは綺麗。両親共に呆れるくらい爪のかたちが悪いことを思えば,ひとまず爪だけは親を乗り越えている。
「それにしても…」と,僕は思わず口に出して呟いた。
「犬山のおとうさんに似てるなあ」
男の子が女親に似るのは世の常とは云え,其処を飛び越えてむしろ母方の祖父に生き写しである(あ,勿論,犬山のおとうさんはお元気である)。
目を閉じていると分からないが,ひとたび開けると大きくて黒目がちな二重まぶた,鼻筋,小さな口許と顎のかたち,そして顔の輪郭と何処を取り上げても犬山のおとうさんである。ううむと唸って,それからつい噴き出してしまう。この子だけは違うベッドに紛れ込んでも,必ず見つけ出す事が出来る。絶対に取り違えたりしない。取り違えよう筈が無い。嗚呼,是非早いうちに犬山のおとうさんにこの子を見せてあげたい。きっと諸手を上げて喜んでくださる筈。
体重は3296g,ま,標準サイズらしい。身長は高めで頭周りと足のサイズは大きめ。
「骨太でがっちりしたお子さんになられますよ。さあ,暫く抱っこされますか」
「え?いいんですか」
「いいですとも」
産着を着せられ,タオルで包まれた我が子を造作も無く手渡される。
こんな産まれたての赤ちゃんを抱くのは20数年程前の妹たち以来だったが,この手が覚えているというか,別に怖くは無かった。首ががくんと垂れないようにすることだけ気をつけて,自分の二の腕を枕に息子の頭を乗せる。3296gプラスアルファの身体が僕の両腕にずっしりとでも,ふわりとでもなくのしかかる。確かに赤ちゃん一個ぶんの重さをもって。
彼は僕の胸に預けられた途端,今まで火がついたように泣いていたのが嘘のようにぴたりと泣き止んだ。
沐浴室を出て,壁際の椅子に子供を抱いたまま腰掛ける。
分娩室はふたつ並んでいて,さっきまで空室だった手前の分娩室にもさっきお隣だったおかあさんが入っていく。ご主人と目があって会釈する。ご主人は生まれたてのウチの子を見て小さく微笑んだ。処で,隣の分娩室からは,出産前と変わらぬ奥さんの悲鳴が未だに響いてくる。
「おまえのおかあさん,まだ何処かが痛いらしいぞ」
勿論,生後1時間に満たない赤ちゃんが「そいつァ弱った」などと答える筈がない。
大きな目を見開いたまま,邪気の無い顔できょろきょろしているだけである。
時折,額に皺を寄せてあくびをするのだが,其処で思い切り犬山のおとうさんが復元される。いや,別に直接おとうさんがそうやってあくびをするのを目撃した訳ではないが,きっとこんなお顔であくびするのではないかと想像させるに足る説得力ある,あくび顔なのだ。それにしても,げに油断ならぬはヒトゲノムである。
いつまで経っても分娩室に入れてもらえないのと,奥さんの痛がりようがあんまり激しいのとで不安になり始めた頃,やっと赤ちゃんともども分娩室に通される。奥さんの頬にはまだ涙が光っていた。聞けば,産後の子宮収縮による痛みとのこと。赤ちゃんが生まれても,そうそう簡単には痛みからは解放されないものなのらしい。
隣のお産にスタッフが民族大移動して,若い看護婦さんが一回ビデオカメラで僕らの様子を撮りに来たのと,時折,ふたつの分娩室を仕切る壁から入船さんが様子を覗きに来る他は2時間ほど,親子3人捨て置かれる。深夜の出産ラッシュ。とは云え,出産はTPOを選ばないのだから仕方がない。それにそもそもほっとかれた処でたいして苦にもならない。
さすがに3296gを抱き続けて腕が痛くなってしまったが,そのまま彼を新生児室につれていくのも惜しい気がして,奥さんと色々な話をした。結局,正味3時間半,第三者的には呆れる程の安産だったようだ。彼女のおかあさんもそうだったというから血は争えない。僕なんか出てくるのに2日を要したそうだ(しかもなかなか出てこないので,山ほどの陣痛促進剤を投与された挙句,鉗子で引っ張り出された。生まれたばかりの僕の頭は包帯でぐるぐる巻きにされていて,それを見たウチの両親は生きた心地がしなかったらしい)。
隣のお産が落ち着いた頃に,赤ちゃんを新生児室に見送って,先ほど奥さんが横になっていた分娩準備室(今日の午前中までは病室に空きがないらしかった)に通される。左のベッドからは,陣痛に呻く別のおかあさんの声。話したいことは色々あったが,奥さんも疲れていたし,お隣に悪いので適当な処で切り上げて,僕ひとり部屋の外に出た。
かくて,あれよあれよという間に父親になってしまった。
実感はねえ…あるんだかないんだか。ただひたすら子供がいとおしい。
疲れた身体を,待合室のソファに横たえる。
吹き抜けのガラス張りの天井から見える空は,もう夜が白み始めていた。