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160.檀
2001/3/21(We)
…ああ、忙しい忙しい。でも仕事は捗らない。
沢木耕太郎「檀」(新潮文庫)読了。
僕にとっての檀一雄は、檀ふみの父であり、深作欣二の映画「火宅の人(1986・日)」の緒形拳でしかなかった。
著作だって「火宅の人」以外は「リツコその愛」「リツコその死」位しか知らないし(しかもタイトルのみ)。
告白するまでもなく、僕は全くの檀一雄白痴と云ってよい。
だから、沢木の「檀」を読むのに尤も相応しいテクスト「火宅の人」は僕の中に無く、あくまで深作「火宅の人」を前提に読み進んだ。故に一人称「私」で語られる檀ヨソ子さんの視点は、僕の中では常にいしだあゆみの視点であり、ヒーさんは原田美枝子なのであった。無論、檀ふみは檀ふみ自身だったけど、南田中の義母はさすがに檀ふみでは読み替えなかった(笑)。映画自体、10余年前に(それもビデオで)観たものだし。
「夫唱婦随」というコトバは綺麗事ではないのだな、としみじみ思う。
彼らのような凄まじい戦闘史を重ねた夫婦でも、互いの身勝手が巻き起こす修羅と愛憎を通り抜けた先に、おだやかな日々と、本来なら再起不能になる筈だった古傷をどうにか誤魔化し乍らでも完遂したい夫婦関係がある。夫婦とはつまり幾星霜を経て、それほどまでしても失いたくない関係に昇華されるという事なのか。「夫唱婦随」は戦友同志になった夫婦にだけ与えられる最大級の賛辞なのかもしれない。少なくとも、ヨソ子さんは間違いなく夫を愛し、彼に付き従って来たのだ。そのエネルギーたるや、我々凡夫たる男には到底敵わない。いや、全く敵わない。
これは檀ヨソ子の自伝の体裁を取り乍らも、まごうかたなき沢木の渾身のノンフィクションである。
決して彼女自身のゴーストライターに留まってはおらず(何しろ、むしろ彼女が封印してしまった筈の記憶をこじ開け、彼女を揺さ振り、遂には夫へのゆるぎない思慕を再確認させた張本人である)、檀ヨソ子の生霊を我が身に憑依させ、彼女の代わりに重い口を開いたイタコと化している(これは、決して褒め言葉である)。そして彼女の回想の辿り着く先が初々しいまでの恋文というのも、母ではなく妻として生きた彼女をより生々しく、そして好ましく実感させるあたりが、やっぱり沢木という作家の筆力なのよね。
という訳で、これは檀ふみとの結婚を迫られている山田のぼるくんにこそ是非読んでもらいたい。
脱線1。
そう云えば一昨日、関口宏の東京フレンドパーク2のゲストがくだんの檀ふみと阿川佐和子だったというのも、何かの西手新九郎だろうか。
檀さんが並外れて大きいのと、阿川さんが小柄なのとで、殆どアボット&コステロ張りの凸凹振りであった。阿川さん、檀さんの足をさんざん引っ張るだけ引っ張ってケロッとしてるあたり、育ちの良さが滲み出ていて、なかなかいい感じ(笑)。何故か無意味にフットワークだけ軽くて、おどけてファイティングポーズを取るあたりが年齢を超越して可愛らしい。…檀さんもタイヘンですね。
脱線2。
「檀」の作中、檀一雄夫妻がテレビ出演するくだりがあるのだが、そこで同じゲスト出演者として「羽仁進・左幸子夫妻」の記述が出て来る。
そうか、羽仁未央のおかあさんは左幸子であったか。云われてみれば、おお、目許がぴたりと重なるではないか。いやあ、知らなかった事とは云え、辺見えみりと西郷輝彦の目許がぴたりと重なった時くらいの衝撃であった。へえ、そうだったんだ…。ま、それだけなんですけど。
今日の読書:沢木耕太郎「檀」(新潮文庫)
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