備忘の都 2001 −APRIL−  ◆

走ったすぐ後は息が乱れるものです。
三〇過ぎるとなおさらです。
そういう時は、大きく深呼吸をして、
ゆっくりとお茶を飲むと、落ち着きます。

しかし一番いいのは、
三〇過ぎたら走らない事です。

古畑任三郎


171.一升餅は背負わねど172.はなればなれに173.本家取りの腕前
174.女優より映画が大事と思いたい175.コダマ、来たる

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 171.一升餅は背負わねど

2001/4/4(We)

で、悠都1歳の誕生日。
皆さんからいただいたプレゼントの数々は奥さんの「育児日記」にある通り。ありがたい事である。

今日は平日でおじいちゃんおばあちゃんの処へ行ける訳でなし、誕生日はささやかに家で祝う。
夕食のハンバーグとポテトサラダは悠都用の小さな食器を並べて、大人と同様、一人前に扱うというのが、今回の奥さんのテーマだったようだが、くだんの息子はハンバーグを口から取り出して、ぽろぽろこぼしたそれを、丹念に畳へと擦り込むのだった(それでも奥さんの話によると半分くらいは食べたらしい)。
誕生日ったって、本人は全く理解してないしなあ。「エスプリ」で買った激ウマのバースデー・ケーキだって、肝腎のケーキ部分はオトナしか食べられないし(彼には一応、トッピングの苺と蜜柑を食べさせた)、プレゼントも、本人が「理解して」喜べるようになるのは来年以降だから、ま、今日は僕ら両親の慰労会みたいなものだ。この一年、ほんとによく頑張ったね(とりわけ、おかあさん)、みたいな。「光陰、矢の如し」を実感する日でもある。

悠都は悠都とて病気ひとつせず、真冬でも蒲団から飛び出す寝相のまま、この一年を乗り切ってくれた。
今の処、あきれるくらいの健康体であると云っていい。本当にありがたい。
今夜は何事もない、このおだやかさこそがいとおしい。

しばらく、親バカ日記が続いたかも。
またマニアックなヤツに戻ります(おいおい)。
では、おやすみ。




 172.はなればなれに

2001/4/7(Sa)

今日は奥さんがこさえてくれた弁当を下げて福岡で映画を3本観る。
「ハイ・フィデリティ(2000・米)」「リトル・ダンサー(2000・英)」「DOA2(2000・日)」
久々に英ちゃんを映画に誘ったら出てきたが、博多駅のレイト以外はまるで別行動。
ゴダーラー(あるのか、そんなコトバが)の彼だけに、おめあてはアンナ・カレーニナのキュートな「はなればなれに(1964・仏)」
くだんの映画のポスターを観ると、踊るアンナ・カレーニナがハル・ハートリー「シンプルメン(1992)」しましまエレナ・レーヴェンソンみたいだったので、英ちゃんにその事を云うと、彼も「シンプルメン」を観た時、まず最初にこの映画を思い浮かべたとか。

「はなればなれに」は本邦初公開という触れ込みだったが、英ちゃん自身は、数年前にシネラでやった特集上映で既に観ているようだ。云われてみれば、そんな特集もあったような。アラン・ドロン主演の「サムライ(1967・仏)」とか(話はどんどん横にそれるが、ドロンは後年、「サムライ」という香水をこさえて売り出した。勿論、今でも売っている)。



各々が映画を1本ずつ観た後、合流して親不孝通り近辺を彷徨した挙句、とある年代物の喫茶店へ。
英ちゃんが麺類が食べたいというので、ふと「喫茶店の」スパゲティが食べたくなった。
マスターは細身で、肩まで伸ばした髪を後ろで束ね、口髭をたくわえたキング・オブ・マスターみたいなひと。
こういう処で出すスパゲティなら決して、茹で具合がアルデンテでどーのなどと無粋な事は云わず、生麺をフライパンで炒めて、ケチャップかなんかと和えて、上に目玉焼きを乗せてくれるに違いないと期待をこめてメニューを見たら、ちゃあんと 「ナポリタン」の文字が。「バジリコ」や「悪魔風」なんて無粋な名前は何処にも書いてない。よし、喫茶店かくあるべし。
ただ、気になるメニューがひとつ。スクランブル・スパゲティー
データに無い名前だ、スクランブル・スパゲティ…ひょっとして当店オリジナルか。
カウンターで接客していたママ(でいいんですよね、この場合)に訊ねる。

「あのう、スクランブル・スパゲティとはどういう…?」
「和風スパゲティなんです。スパゲティの上にベーコンと玉子で拵えたスクランブルを載せて、刻んだ和葱とじゃこを振り掛けて」
「ほほお(和風なのに、スクランブル…)、じゃそれをひとつ」

出てきたスパゲティはなかなか美味であった。
スパゲティにかかった荒引きの黒胡椒がぴりりと効いて旨い。
しかも、ちゃんと麺が炒めてあるし(此処がポイント)。
英ちゃんが頼んだミートソースに目玉焼きが載っていないのにちょっと不満。

英ちゃんにO迫くんの子供の話など聞く。
2歳になったこころちゃんの写真を見せてもらう。思っていた以上に可愛い(元より父親が金城武系のきりりとした眉と大きな瞳の持ち主なのである)。彼女がすこやかにのびのびと育つことを、遠い九州の空より、おじちゃんたちは心から心から願ってやまないのだった。いや、本当に。



それから再び英ちゃんと別れて、僕はKBCへロングラン街道驀進中の「リトル・ダンサー」、彼は一足先に博多駅へ行って「連弾」を観る(さんざん薦めといた)。ちゃんと予告で泣いた処で同んなじように泣く。お父さんの愛に泣き、お兄さんの愛に泣く。(組合のリーダーやるくらいには)いい齢して弟に「I Miss You」って泣ける兄を見せられたら、オレなら泣く。息子の、弟の夢を叶えたいというスポイド一滴ぶんの濁りすらない無償の愛ってヤツに、それこそいい気になって泣く。周囲にひとがいなかったら声をあげて泣きたかったくらいだ。ああ、泣くって気持ちいい。
ってオレ、かなり疲れてるかも。



レイトショー30分前に英ちゃんと映画館前で合流。
残り30分で「ふきや」での夕食をすませる。客の少ない「ふきや」は快適である。
で、今日のメイン・イヴェント(?)「DOA2」
前作ラストのインパクトには敵わなかったものの(というか、どうしても比べたら後発の部が悪い)、三池映画としてはまだまだ前進あるのみ、という感じで、絶える事無き創意と野心が過剰に溢れた怪作という点においては、決して前作にひけを取らない。いやあ、オープニングの前作を引き継いだような地球の絵に目を丸くし、塚本晋也演じるマジシャン東野の怪演を辛抱強く楽しむ長廻しに呆れ果て、それから竹内力の登場シーン、CGバリバリの羽根を散りばめた疾風と、数え上げればいつまで書いても日記が終わらない。馬並次郎が、分度器が、ちんこ棒が、そしてBOO/HOO/WOOの中に棲む「少年」が、あらゆるイメージと莫迦騒ぎの奔流と要所要所でカマイタチを起こす「泣きのドラマ」に、NAKA雅MURAの脚本がレイプされてしまったような映画である。大体、三池映画において、脚本は何処までサバイバル出来ているのだろうか。所詮、撮影の叩き台としてしか機能していないように邪推するのだけど。
ひとつ云えるのは、観てる最中も凄いが、この映画は後から肝臓に来る。
時間がたつにつれ、オレの中の傑作度指数が上がっていく。これってどういう事?
しかし、ずっと眉間にシワを寄せたままの竹内力の顔がそのうち着ぐるみに見えてくるから不思議である。

0時半くらいに帰宅。
奥さんとおみやげのお好み焼きを突ついて、風呂に入った後はもう意識がない。

今日観た映画:「ハイ・フィデリティ(2000・米)」「リトル・ダンサー(2000・英)」「DEAD OR ALIVE 2 逃亡者(2000・日)」



 173.本家取りの腕前

2001/4/8(Su)

午前中に、北村薫「スキップ」(新潮文庫)読了。
昨日など、映画と映画のインターバルに、駐車場に戻って、車でこの本を読んでいた(ばか)。
聞けば、英ちゃんもそうやって高橋源一郎を読んでいたようなのだが。

快作。これを今まで積ん読していたのが全くお恥ずかしい。
これは等身大の女性が遭遇する綺麗事ではない「夏への扉」であり、一度起きてしまった「スキップ」は交通事故と同じで二度と取り返しがつかない。一ノ瀬真理子が読み飛ばしたこれまでの25年は決して補填されないし、桜井真理子がこれから経験する筈だった未来も、「彼女」が居なくなった以上、僕らが知りうる限り、決してあがなわれる事はない。17歳の真理子が「スキップ」を真正面から受け止め、42歳からの人生を受け入れる他に選択肢はなく、彼女の夫と娘もまた、同じく岐路に立たされる。その過酷な運命が背景にあってこその、一ノ瀬真理子という女性ののびやかさ、うつくしさが物語の内壁を音楽のように流れていく。

多くのひとが(北村薫への賛辞のひとつとして)指摘するように、男性が女性の心情をこまやかに表現すること自体は、僕自身、それほど困難だと考えてはいない。とりわけ、本作のように生きることに真摯な女性を描こうとする時、実を云えば表現上の性差は、読み手にとって「あとからついてくる」。ましてや、本来読者が最も感情移入しやすく拵える筈の主人公なら尚の事、女性として、というより、人として「うつくしく」描き、読者の共感を得た時点で、性別などは読み手側で都合良く補完してくれる筈のものなのだ。勿論、共感に阻害を来たす「ぼろ」を出さない事が絶対条件だから、北村薫が優れた語りべ、ストーリーテラーなのは云うまでもない。物語をなすコトバの配列もまた平易であり乍ら、美文である。僕らを共感させることのテクとしては、例えば一人称小説の困難さに(25年前の)17歳の女の子の語彙、感受性を通して物語を構築しなければならない「縛り」がある。語彙の豊富さは彼女が文学少女であった設定で補い、25年前より後の文化・風俗から生まれた語彙は彼女の中から徹底的に排除し、むしろ空白期間の無知から生まれる齟齬の可笑しさを如何に効果的に読者に提示するか。これは作家の感性の柔軟さだけではなく、もっとロジカルな一ノ瀬真理子という女性の構築が要求される話だ。彼女に息づく風俗を、作家の記憶によってのみ頼って書いたというエピソードも、後で掻き集めたデータ偏向主義でないぶん、却って彼女の持つリアルさを肉付けしていく。つまり、これは全て計算された上での叙情であり、詩心なのだ。

ちなみに本作はBS2でかつてドラマ化された事がある。
まともに全話通して観てはいないが、松坂慶子、酒井美紀の2人だけは今回つい宛て読みした。
でも、読み終えた後で、僕の胸に残った真理子の女性像は阿川佐和子であり、檀ふみなのであった。
天真爛漫な万年文学少女と云えば、僕には彼女たちの笑顔しか浮かばない。
分かっていただけるだろうか。



処で、あれだけ戯曲集を出さない三谷さんなのに、第45回岸田國士戯曲賞受賞作という「浮世の義理」もあってか、あの三谷幸喜「オケピ!」(白水社)がついに戯曲として発売されると聞いて、黒崎クエストに押っ取り刀で駆けつける。店員に検索してもらうも、残念乍ら現時点では未発売(4月中旬発売予定)。ま、それはいい。本やタウンで注文するから。

書棚で「オケピ!」を捜していて、ふと気になった本がある。
片山恭一「世界の中心で、愛をさけぶ」(小学館)
ぱらぱらめくってみるに、恋愛小説らしい。帯文を佐藤正午が書くくらいには佳い作品なのかもしれない。
でも、悪いけど僕はタイトルだけでパスだな。
ハーラン・エリスン「世界の中心で愛を叫んだ獣」のロコツでハンパな本家取りなのが、どうにも鼻持ちならない。
いや、確かにオリジナルの「世界の中心で愛を叫んだ獣」自体、かなりインパクトの強い、はっきり云えば胸を打つタイトルである。何だか使ってみたくなるのもよく解る。少なくとも、庵野がエヴァの最終話として「世界の中心でアイを叫んだけもの」を選んだのは監督の選択眼として卓見だったし、「アイ」や「けもの」と表記を変えたアレンジ・センスも見事であった。そもそもこの時点でハーラン・エリスンそのひとの認知度が、SF者以外にどの程度あったやら(まあ、今もだけど、少なくとも、同タイトルのハヤカワ文庫が思い出したように売れ出したのは知る人ぞ知る事実)。つまり、タイトルの出所が何処から来ているのかもセンスのひとつなのだ。
そして、エヴァという多大な経済効果をもたらしたメディアを透過した事によって、「世界の中心で愛を叫んだ獣」を使用するセンス自体は、同タイトルが一度巷に溢れたが故に、「とっておきのコトバ」を選別する労力としての困難さは消え失せた。ましてや評論集や特集を組んだムック本ではなく、「青春」と「恋愛」をリンクした創作(小説)を出すのに、それをまんま使うセンスは、逆に安易すぎて眩暈がしてくる。そのコトバ選びの安直さがぷんぷんに匂うが故に、僕のような人間は「けっ」と云ったきり、決してレジには持って行かない。

映画のタイトルが歌のタイトルに、歌のタイトルがコミックのタイトルに、そして小説のタイトルになる事などままある。僕はそれらの多くを愛しているので、詰まる処、コトバ選びのセンスに尽きるのだと思う。僕は恋愛小説に「世界の中心で、愛をさけぶ」というタイトルを持ってきた、そのセンスがイヤなのだ(これがオリジナルで考えられたタイトルなら、話は別である。それくらい使いたい誘惑に駆られるコトバの連なりなのは重々承知している。だから誘惑に敗北した、そのなれの果てを見せられるのが、どうも生理的に歯痒いようだ)。たかだか本家取りにだって腕が要る。本の出会いはタイトルからと云ってもいい。中味が良くたって、タイトルと仲違いしてしまえばどうしようもない。僕らは初っ端から擦れ違った訳だ。つくづく本との出会いは縁なのである。

と、別に買いもしない本のために、此処までチカラをこめる事もないのだが、つい。
ひょっとして(しなくとも)疲れているのかもしれない。

で、結局(元々買う気だった)北村薫「ターン」(新潮文庫)を買ってすごすごと帰る。すごすご。

第一章だけちょこっと読むが、近頃には珍しい二人称小説である(僕など恋歌の歌詞でしかお目にかからない)。プロットだけ聞くと、小松翁の「こちらニッポン」や石ノ森先生の「サイボーグ009」で島村ジョーが奥歯にある加速装置が故障して、ひとり時間の流れから取り残されたまま失意と孤独の日々を送るという短篇を思い出したのだけれど(内容的にはむしろ後者に近いのかもしれない)、まさか二人称とは。地の文と主人公とでかけあいもやっているし。

今日の読書:北村薫「スキップ」(新潮文庫)



 174.女優より映画が大事と思いたい

2001/4/9(Mo)

H高さんの沖縄土産で、久し振りに「ちんすこう」を食べる。
ちんすこう。名前の由来は2説あって、たいへん珍しいという「ちん」、或いは高級という意味で「黄金」の金(きん)が転じた「ちん」、「すこう」はいずれも「お菓子」の意。何しろ琉球語だから「すこう」は「お菓子」だと抗弁されれば、やまとんちゅう的にはまァ、それまでだ。
処で、イギリスには「スコーン」というお茶のお供がある。原材料は小麦粉と砂糖とバター(ま、それに玉子も入るか)なんだが、「ちんすこう」だって原材料は小麦粉と上白糖とラードなのだ。「スコーン」と「すこう」、偶然にしては、ほら、何か不思議な類似性を感じないか?(笑)
いや、どちらが先とは云わん。どちらが先とは云わんが、シルクロードを越え、大陸を流れ流れて南蛮渡来の「すこうん」なる菓子ありて、などという逸話があったっておかしくはない(おかしいって)。
或いは、大航海時代に植民地から茶を巻き上げている時に、東の果てで見つけた宮廷菓子「すこう」が意外にお茶請けにイケるではないか、という事で欧州に広まって「すこう」→「すこうん」→「スコーン」になったらなったで結構楽しくはないか(何だそれは)。

これが世に云う(云わん、云わん)「珍スコーン」説である。



明日から土曜までは仕事の関係上、4時45分起きとなる。
が、そこはそれ、23時から楽しみにしてたNHK「夢伝説〜世界の主役たち」だけは観て寝る。
第2回「アルフレッド・ヒッチコック 恐怖の構図」
これはいつかも書いたと思うが、ヒッチコック監督作品の全53本(とりあえずTVシリーズの「ヒッチコック劇場」は除く)とワイルダーの全監督作品(勿論、脚本作品も視野には入れる)をDVD収集するのが、コレクターとしての僕の最終目標である。
尤も、現時点で1本も持っていないし(今の処、DVDはフェイバリットな90年代邦画と洋物アニメのみ)、そもそも両監督ともDVD化されていない作品が山ほどあるのだが、まあ、だから長い目で見た「最終」目標なのですね。
という訳で、ヒッチコックは必須科目の上に、ナビゲーターは三谷さん(と山田五郎)なので、。

・「サイコ (1960・米)」のバスルーム・シーンのカット割り。

主演女優のジャネット・リージェイミー・リー・カーティスのおかあさんです)曰く「あのシーンの撮影だけで7日間かかった。出来上がった映画を観て、初めて監督が狙っていた効果が理解出来た」。あの短い時間に80以上ものカット割りをしてるんだから、そりゃ撮影中には何の事だか分からなかっただろう。ちなみに三谷さんは学生時代、トリュフォーのインタビュー本の中にある「サイコ」のバスルームのカットが全公開してあるページの通りに、8mmで撮影して編集して試写した処、仕上がった内容は「本当に恐かった」んだそうだ。

・「鳥(1963・米)」でのヒッチコックと主演女優ティッピ・ヘドレンの確執。

グレース・ケリーがモナコへ去った後、ヒッチが白羽の矢を立てたのが無名のCFガールだったティッピで、彼女もブロンド美人。
「鳥」で日に何時間も、顔めがけて、生きた鳥をぶつけられ(だから、あの映画での恐怖の表情は演技でも何でもなかったりする)、ついには目の下に傷を負ったティッピは「こんな仕事やめてやる」と反旗をひるがえす。つったって、たかが無名女優に超・有名監督、結局はヒッチのペースで映画は完成し、映画祭には揃って出席したものの、ふたりの(というか、ティッピのヒッチ不信による)溝は既に深まっていた。
続く「マーニー 赤い恐怖(1964・米)」(ショーン・コネリーが若いっ)で、ティッピと彼女を映画における駒のひとつとしてコントロールしようとした監督との亀裂は決定的となり、女優は監督のもとを去っていく(無論、その後の彼女の「活躍」なんてない。尤も、娘がメラニー・グリフィスのおかげで(笑)、10年くらい前に「パシフィック・ハイツ」に母娘共演してたっけ)。

VTRのあと、「この件は知りませんでしたね」とヒッチコック・シンパの三谷さんは告白した後で、
「でも、でも、これは監督に刃向かったティッピの方が悪いですよ。だって、彼女そんなにたいした…」
「女優じゃない?(笑)」
「ええ。こう云っちゃ何ですけど、所詮、綺麗なお人形さんですよ。それなのに」

ヒッチコックの一女優を意のままにしようとする演出態度に問題がない訳ではないが、傑作をつくるためなら、(こう云っちゃなんだが)その程度の器しかない女優さんには我慢してもらわないと、という三谷発言は至極、芥川の「地獄変」みたいな非人道的且つ芸術至上主義な言い草だけに、一言一言の歯切れは悪いものの、気持ちはよく分かる。少なくとも此処ではどう謗られようと「女優より映画が大事と思いたい」
元々、一女優の魅力で見せる映画なんて、ヒッチはこさえてこなかった、それは確かな事実。
あくまでストーリーテリングの妙、映像魔術の妙が、ヒッチコック映画の真骨頂だ。
奇しくも山田五郎が喝破していたけれど、ヒッチにとって、ブロンド美人は彼の映画における単なる「記号」に過ぎなかったのかもしれない。

後はそうねえ、三谷さんの「『北北西に進路を取れ(1959)』は僕にとって最高のコメディ」発言とか。
確かに、主人公が次から次へトラブルに巻き込まれるというスタイルは、三谷さんが愛するコメディの黄金パターンそのものだ。
「僕はヒッチコックにサスペンスやホラーなどとジャンルに拘らずに、ヒッチコックにしか撮れないコメディを撮って欲しかった」という叶うことなき嘆息も、ヒッチのファンとしては至言でしたね。

という訳で寝たら、今頃になって悠都が元気になる。
こら、髪を引っ張るな。上に乗っかるな。…かくして夜は更けてゆく。




 175.コダマ、来たる

2001/4/12(Th)

早朝4時45分起きも3日めともなると、じわじわと身体に来る。ああ、オレってやわな奴。

瀬戸口くんから「もののけ姫」のコダマのぬいぐるみが届く。
ネット通販らしく、メッセージも特にないが、悠都への誕生プレゼントらしい。
本当にありがとう。うう、何だか催促したみたいで。
会誌の仕事全然進んでないのに、ううう…。

処で、このぬいぐるみ、瀬戸口くんはおそらく現物確認をしてはいないと思うのだがかなりシュールな出来映えである。
ま、元々のキャラ自体かなりシュールなシロモノなのだが、こいつも決して負けてはいない。
まず首から下のへなへな度に比して、頭部が大きくて本気で重い。首がぐらぐらしているフリークス感がヘンに可愛い(顔はシンプル過ぎて却って怖いんだが)。胴体に鈴を埋め込んであるらしく、身体を揺さぶると鈴が鳴る(原作のコダマは頚が回転すると同時に鈴を転がしたような音を立てる)。悠都的にもかなり遊び応えのあるぬいぐるみになりそうだ。



北村薫「ターン」(新潮文庫)読了。
SFとしてどうよ、と云われれば、本人も「付記」で告白しているように、「くるりん」の設定は、「二人称の孤独の中で過ごさねばならなくなった真希」というシチューエーション、彼女の心の動きをじっくり書き込むための、あくまでも「お膳立て」であり、それ自体に主眼を置いたものではない。ただ、作中で真希自身が自分会議のスタイルを取り乍ら、自身が納得行くように、世界の成り立ちに理由付けをなしていくさまは、聡明でロジカルでそれなりに腑に落ちる。「魚が生きていく為には水槽に水が必要なのよ」あたりは秀逸です。
全体を通して俯瞰してみれば、物語はアクシデントを装った運命論に導かれていく一大メロドラマの様を呈している。時空を超えた大河恋愛劇であり乍ら、仰々しさを排し、ささやかな心の交流に見るダイナミックなうねり、というか。北村薫というロマンティストの強みは、類稀なる表現力にある。しかも、決して小難しくない。モノ書きとしては理想的な使い手と云える。
とどのつまりが、今回も満足させてもらいました。してやられたって感じ。

処で、この作品も秋に監督:平山秀幸、主演:牧瀬里穂の映画として劇場公開されるので、真希は当然マキセで宛て読みした。
実際、マキセでしっくり読めたので、キャスティング的には旨い処を押さえたんじゃないか。
僕は平山さんが監督した「中学教師」「愛を乞う人」も大好きなのだが(「学校の怪談」はなァ…)、さて今度はいかなる仕上がりになっていますやら。何しろ、原作はこんなに手強い。絵的には、無人と化した東京をどう描くかが楽しみだ。
例えば、ピンポイントだけ見せるのに黒沢の「回路」がどれだけ上手だったか、効果的だったか。

今夜から犬山に、奥さんの大伯母にあたるMITSUKOさんが滞在するらしい。
せっかくオレゴンからいらしているのに、悠都を逢わせて差し上げられないのが残念。
せめて、あと半月ほど遅ければなァ(って敢えてGWを外されているのかもしれんが)。

今日の読書:北村薫「ターン」(新潮文庫)


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