備忘の都 2001 −APRIL−  ◆

体をかなり疲れさせても、夜中には何度も目が覚めた。
闇の中だ。誰も見てはいない。
しかし、自分が見ている。
しっかりしろと歯を食いしばり、泣かなかった。
屋根の上は、降るような星空かもしれない、と考えた。

北村薫「スキップ」


176.映画館サバイバル177.アラベスクという作劇
178.生まれて初めて観た映画179.青い空を白い雲がかけてった
180.長さんづくし

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 176.映画館サバイバル

2001/4/13(Fr)

中間にシネコンが出来てから(98年後半以降)、黒崎で映画を観る事が絶無になった。
理由は到って明快である。曰く、

・自宅から車で片道15分かからない。
・駐車場代が要らない。
・黒崎で公開される作品を全て含んで余りある上映作品数。
・20:30以降のレイトショウは一律1000円(土曜は1200円)。

僕個人は、映画館が古いかどうかには特に拘ってはいなかったのだが、上映作品数とコストパフォーマンスの上で黒崎を完全に凌駕してしまった。勿論、新設館だから、音響を含めた上映設備にも雲泥の差がある。シネコンの台頭で沢山のロードショー館が潰れていくのに、それなりの感傷はあったものの、映画「消費者」としての僕は強欲であり、紛れもなく資本主義原理のひとであった。人情でシネコンを袖にする程、懐に余裕も無ければ、義侠心も持ち合わせていない(個人的に映画館の誰かと親しかったなら別だけれど)。変わり身は早かった。そして、それは付近の映画ファンも押し並べてそうだったのだと思う。

最初は黒崎松竹が潰れた。最終上映作品は「のど自慢」だったのではないか。
そしてややあって黒崎文化劇場1が、2が櫛の歯が抜けるように閉館し、よもやと思っていた黒崎ロキシーまで(黒崎にある映画館の中ではいちばん垢抜けていた)が映画館を閉めた。その間、2年とない。堰を切ったような淘汰振りである。黒崎文化の1など、ロビーを改装してまだ間も無かったのに。黒崎に残る映画館は、とうとう黒崎東宝1・2と黒崎中央大劇だけになってしまった。

しかし、黒崎文化1はそのまま負けてた訳じゃなかった。
元々黒崎にあって、小倉の昭和館くらいには侠気のある小屋ではあった(いや、全く北九州ローカルな話題ですまん)。ごく稀に、しかも2、3ヶ月遅れとは云え、単館系のフィルム(「トレインスポッティング」とか)をかけたりもしたのだ。決してのんべんだらりと構えた映画館では無かった。
そして、去年「シネ・ワールド黒崎」として上映形態をテコ入れして再スタートを切ったのである。
いわゆる2番館だ。公開当時、収益実績のあった人気作品のみを800円で上映する。価格帯といい、天神で云うところの「ソラリアシネマ2」方式ですね。少なくとも、シネコンと価格差では水をあけられる。僕のようなレイトショウ狙いの人間にとっても、とりこぼし作品の救済にもあてられる(えてして人気作品に限って、見逃すケースがままある)。
と云いつつ、今日までT中さん共々(笑)ついぞ顔を向けた事が無かった。

此処までが枕である(いや、本文は短いので安心していい)。

今日、会社帰りにくだんのシネ・ワールド黒崎で「グリーン・デスティニー(2000・米中)」を観てきた。
こないだアン・リーの前作「楽園をください(1999・米)」(日本での公開順は前後してたんだけどさ)を観てから、一度は見逃したこの作品を無性に観たくなったのだった。丁度その頃、天神東宝ではアカデミー賞のからみで凱旋ロードショーしてはいたが、他の鑑賞計画との兼ね合いで、あろう事かこちらまで見逃してしまった。僕は一度ならず二度までもチャンスを棒に振っていた。

処が、映画の女神は僕を見捨てなかった。
彼女は三度微笑んだ。それがシネ・ワールド黒崎だった、という訳。

映画はたいへん面白かった。 「初恋のきた道(2000米中)」の一途な少女兵器とはまた違う、負けん気の強い「ファム・ファタル」兵器、チャン・ツィイーの華麗なアクションを堪能出来たし。夜更けの甍の波の上を飛魚のようにすべっていくワイヤーさばき(というかクレーンさばきというか)も、「マトリックス」ファンのウチの奥さんには応えられないであろう絵ヅラであった(観せてやれなくてごめんな)。しなる竹の上に乗って、のアクションは、さすがに無理がありありだったけど。
今后のスケジュールだと、5月半ばに「17歳のカルテ」をやるらしい。これ行こうかな。

映画が終わってから、井筒屋で妻子と合流して帰る。
早朝起きも明日でようやく終わり。段々、朝起きられなくなってたんだよねえ。

今日観た映画:「グリーン・デスティニー(2000・米中)」



 177.アラベスクという作劇

2001/4/15(Su)

ようやく早朝出が終わっても、休日は今日だけ。
明日は普通に出勤でしかも土曜まで出勤で、挙句、土曜は早朝出だ。

一日しかないお休みを有効に使うべく、家族で博多駅方面へ。
紀伊国屋で、一週間もの間、懸案だった三谷幸喜「オケピ!」(白水社)を捕獲し(平積みになっている!)、ネット上で見つけてずっと気になっていた記事の載った雑誌関係など拾い読みしていく。
「ドラマ」だか「シナリオ」だかの最新号にこないだの「3年B組金八先生スペシャル」のシナリオが掲載されていたので、さっそく斜め読み。おおっ、僕がドラマを観てて感動した「一人前のひとりぼっち」だとか「死に意味などない」「死に意味をこめるな」の台詞が何処にもないではないか。さてはあれらは全て武田さんの創作であったか。小山内先生がかつてインタビューで「暫くすると武田さんが台本に無い台詞を云うようになったので、(書くのを)もう辞めようと思った」と述懐されていたが、あれはつまりはこういう事であったのだな。でも、方便としての「死に意味などない」はなかなか秀逸な台詞だと思うので、小山内先生が激昂していないといいな。そうですか、次回シリーズは2002年ですか。って、もう来年じゃん。

近頃、悠都の絶叫癖が甚だしい。退屈するとすぐにありったけの音量で「あー」と声をあげる。
(あの広大な)紀伊国屋福岡本店でも、今奥さんがどのへんを移動しているかがはっきり解る。誰か奴の背中にボリュームのつまみをつけてくれないものか。ミュートのスイッチでもいい。奥さんは泣く泣く紀伊国屋を後にして、井筒屋方面へ去っていった。尤も此処で横着こいたぶんを、僕は後ほど「ふきや」で十二分に支払う事になる。ていうか、悠都を連れて「ふきや」へなんかもう二度と行くもんか(そう吐き捨てたら奥さんの口がすっかり「∩」の字になった・笑)。

すっかりくたびれ果てた奥さんを北海道牛乳ソフトクリーム(250円也)でなだめてから、親父の処へ。



親父はハハの付き添いの元、マンションの駐車場でリハビリの歩行訓練をしていた。
半月振りくらいで会うせいか、前回より歩みの速度がだいぶ早くなっている。
毎日1時間くらい此処でこうして練習しているんだそうだ。
病気の自分と向い合って前向きなのはいい事だ。我が父乍らえらい、と思う、ホント。
悠都に初節句の兜を買うんだとはりきっているのでお言葉に甘えておく。

その後、妹たちも揃って寿司など。
彼女たちは僕らがいつも唐突に来るのでぶーぶー云っている。
だって、前もって連絡すると一日がかりになるんだもん。18時半頃、暇を乞う。



夜、三谷幸喜「オケピ!」(白水社)読了。
到る処で三谷ファンを標榜している割に、買ったその日の内にシナリオ(今回は戯曲)を読み終えてしまうのは初めてだったりする(「気まずい二人」は当日読み終えたが、あれはシナリオというスタイルを取った対談本である)。尤も、連ドラはともかくも舞台に関しては、三谷さんは上演台本を出版しないスタンスの作家だから、これまでに巷に出た戯曲は、キャラメルボックスがからんだ「天国から北へ3キロ」ぐらいではないのか。あと、かつて白水社の「しんげき」に収録された作品に「12人の優しい日本人」「ショウ・マスト・ゴー・オン(初演)」「99連隊」があるが、いずれも現在は入手不可能。で、僕はそのどれも手に入れていないので、三谷作品の上演台本を読むのは、実質今回が初めてであった。

三谷さんはあとがきで、口を酸っぱくして自分は読み物として戯曲を書いている訳ではないので、舞台の現物を観ずして戯曲を読んだだけで作品の面白さは計れないのにィと、かなり無念そうなトーンで綴られている。「オケピ!」の戯曲が出ると聞いて、三谷さんの主義にも雪解けムードが、などと思ったがさにあらず、ご本人は不本意で不本意でたまらなかったのだ。やっぱり。

僕は当の舞台を実際に楽しんでいるから、予備知識無しでこれを読むひとには、勿体無いです、と云う他ない。
僕如きがことわるまでもなく、舞台は役者とホンと演出と美術と衣裳と音楽と大道具小道具、そしてお客のアンサンブルだ。ましてや「オケピ!」はミュージカルだ。楽曲の魅力が歌詞だけで表現出来る筈が無い。やはり「オケピ!」の戯曲は、実際にミュージカルを観たひとだけが読むべきものかもしれない。そして、それは選民思想なんかではなく、希望した客が全員、あの舞台を楽しめる事を前提に(せめて)全国30箇所くらいで一ヶ月程度のロングラン公演を打ってもらいたいと切に願う。せめて、再演は「君となら」「笑の大学」で試みた全国行脚くらいはやってもらわなくては(確かに演劇はペイしないんだけどさ、三谷ブランドなら少なくとも客の不入りはないよね)。ただでさえプラチナ・チケットの三谷作品、まずは舞台を観てください、ったってどうあがいても劇場に辿り着けない地方のファンには、不条理な「正論」なのですよ、三谷さん。せめて、演劇のアンサンブル要素から「お客」だけ取り除いた、録画媒体のビデオ化(出来れはDVD化)というのは僕らの切実な願いであります。

あと、本体に挟んであった別冊子に岸田賞の選評が載っているのだけど、各々の選考委員のコメントから三谷幸喜という作家の演劇的位置が浮かび上がってくるのがかなり面白い。三谷さんがある意味で異端なのは、余りにもハリウッド・クラシックス的正攻法で洒脱な喜劇を書く人材がこれまで日本に存在しえなかった現実が、彼の作品が持つポピュラリティと反比例するかのように作家性をマイノリティたらしめている。要するに理想像としては描けても実際には誰も耕せなかった区画に立つ唯一無二の存在が三谷さんなのだ。それはおそらく(今回の選考委員のひとりでもある)井上ひさしすらもやり遂げていない。そりゃ野田さんが両手放しで絶賛する筈だ。佐藤さんがひそかなる悋気病みを心情告白する筈だ。商業演劇のメインストリート、喜劇の王道を歩むという才気と努力は、確かにプロからも斜に構えていないで賞賛するに値する筈なのだ。

別役先生曰く、物語のアラベスクを織り成す妙。
アラスベクとは作劇のジャンルとして、旨い云い廻しだと思う。
物語を構築する、理想的な構造体のひとつではないか。



三波春夫さん、前立腺癌で死去。享年77歳。
今年の年賀状に21世紀音頭を使った身としては、感慨が深い。
嗚呼、ルパン音頭が聴きたいぞ。合掌。

今日観た映画:「風花(2000・日)」
今日の読書:三谷幸喜「オケピ!」(白水社)



 178.生まれて初めて観た映画

2001/4/16(Mo)

河島英五さん(48)、小島三児さん(62)と訃報が続く。
小島さんというと、トリオ・ザ・スカイラインよりも僕的には角川映画「晴れときどき殺人」の警部役の方が印象に残っている、ってマニアックですか(そうでもないよね)。肝臓疾患に腎臓疾患、どちらも現役ばりばりのさなかに倒れたおふたりであった。合掌。

久々に井沢先生のBBSでおしゃべり。
ドラマ「つま恋」情報や、ドラマの配役決定プロセスまでのお話など聞かせていただく。
うーむ、大杉漣さんが照於とは(まだオフレコらしい…って先生、書いちゃってますよ)。
いつも丁寧にフレンドリーにかまってくださるので、居心地良く居させていただいている。鶴亀鶴亀。



先日は、黒崎の映画館事情を書いたが、今日は僕が子供の頃の映画館事情。
僕は高校を卒業するまで、大分県の宇佐市に住んでいた(今でも実家は此処にある)。
宇佐市に映画館など無く、映画を観ようと思ったらいちばん近くても、お隣の中津駅近くにある2館続きの映画館に行く他無く、しかも2館では上映作品など知れている。作品を選ぶのなら、列車に乗って、別府・大分に出るか、小倉まで足を伸ばすしか無かった。で、悲しい事に実は今でもその状況は全然変わっていない。町中にレンタルビデオ屋があるだけ、まだましという事にはなるのか。

しかし、正確に云うと、宇佐市に映画館は最初から無かった訳ではない。
テレビが無く、映画が人々の娯楽だった時代というのは、そりゃ宇佐市にだってあった訳で、少なくとも僕が知りうる限り、かつて一館だけだが、僕が小学校に上がってすぐくらい(昭和50年あたり)までは市内に映画館はあったのだ。其処は「春海座(しゅんかいざ)」と云った。
しかも春海座は当時僕が住んでいた四日市地区の東新町にあった。
子供の足でも、歩いて5分かかったかどうか。ただ、僕の記憶の中でも既にうらぶれていたけれど。
春海座は名画座であった筈だ。筈だ、というのが口惜しい。何しろ、僕が7歳くらいの頃の記憶だけを頼りに書いている。でも、映画館の前の交番の掲示板のようなショーウインドウに貼られたスチール写真は常に白黒のそれだったし、そうそう派手な看板が出る事も無かった。
邦画がメインだったのか、意外とゴダールやトリュフォーのようなヨーロッパ映画が巾を利かせていたかは、もはや定かではない。宇佐の片田舎だし、たぶん大衆大衆した番組をかけていたのではないかと思うのだが、たかだか一館しかないのに結局潰れたくらいだから、館主の趣味が色濃く反映されていたのかもしれない。

僕はたったの一度だけだが、この春海座で映画を観ている。
正確に云うと、僕が憶えているのがその一度きりなんだけど。
事の真偽は親父に訊く他ないんだが、たぶん親父もすっぱりと忘れているだろう。
幼稚園、或いは保育園に通っていた頃だと思う。おそらく5、6歳といった処。
おそらく地方の市民センターに巡回で来るようなプログラム。TVアニメや特撮を何本かセットで流す安い番組で、ビデオがあたりまえになった今では、すっかり廃れてしまったかもしれない。

僕が憶えているのは、観たのが「帰ってきたウルトラマン」の第13、14話「津波怪獣の恐怖東京大ピンチ!」「二大怪獣の恐怖東京大竜巻」(津波怪獣シーモンス、竜巻怪獣シーゴラスの夫婦怪獣登場)だったという事。おそらく、二話続きの物語を(50分程度)劇場版に再編集したもので、作品自体の出来も良かったからだろう(ちなみにこの夫婦怪獣という主題は後に「タロウ」のキングトータス、クイントータスで繰り返される。そういうのを「焼き直し」とも云う)。でも、5歳や6歳の子供の集中力は作品の出来とはまた別だからね。
初めて観に行く映画だというので、かなり興奮して、本編が始まってすっかり退屈したのを憶えている。途中で帰ったんじゃなかったかな(笑)。つきあった親父の方こそ災難だったろう。尤も、あのひとは怪獣番組にはまるで感心のないひとなので息子に「出よう」と云われた処で「…やっぱり」と呟いたくらいでさほど苦にはならなかったに相違ない。

で、今になってみると気が早いんだけど、当時の僕に悠都が重なるのね。きっと歴史は繰り返される。

そして数年して「春海座」は取り壊され、小児科の医院に変わり、何度かお世話になった後、当の小児科もなくなって今は…何になってるんだっけ? って程度の印象だからランドマークじゃないのは確かだな。未だ宇佐市に映画館が出来るという話は聞かない。そろそろ10号線沿いにシネコンのひとつも出来たっていい頃だとは思うんだけど。

少なくとも、次に僕が意識して映画館に行くのは中学3年生になってから、別府まで友達3人で行った「さよなら銀河鉄道999」まで待たねばならない。あとは、学校の授業の一貫で、皆んなで講堂に入って巡回映画を観たくらい。とりあえず僕が憶えているのは、中山節夫の「ブリキの勲章(1980)」とか。それにしても愚にもつかぬ思い出話を長々としてしまった。こんなネタ、誰が面白いというのか。…たまにはいいか。



夜、やっさんとちょこっと電話などする。
やっさんや右團治さんが上がる高座の数が増えると、何だか我が事みたいに嬉しい。
その割に、現実にふたりの高座を聞いた回数は笑っちゃう程少ないのが瑕瑾なんだけどね。

「そう云えば、こないだのNHK、べーやんと一緒だったんだよね」
「うん。CD貰っちゃった」
「ぐび…(思わず息を呑んだ音)」

そーだよなァ、楽屋、一緒だったりしたんだよなァ。
ブツは演歌かも知れないけど凄く羨ましい。嗚呼、アリス復活おめでとう。




 179.青い空を白い雲がかけてった

2001/4/22(Su)

のんびりした日曜日(尤も、7時には顔の上に悠都がかぶさってきて否応無く起こされた)。
風は強かったものの天気になったので、悠都を連れて、脇田海水浴場へ。
海風は冷たく、白波が立つ程だったが、晴れた青空に碧色の海が美しく、カップルや家族連れが結構来ている。
波打ち際はともかく、浜に続くテラスみたいな処で、悠都を遊ばせる。
若い女性が通る度に嬌声をあげて彼女らに追いすがる我が息子に頭を抱える。いつのまにそんなに歩けるように。
おねえさんたちは皆笑顔で返してくれる。手を振り、満面の笑みのバカ息子。赤子は得だなあ。
帰りに駐車場脇の魚直売所で、生け簀で泳ぐイサキをその場で3枚におろしてもらう。
ちなみに1匹2500円の処を、奥さんが眼力で1960円まで下げさせた。やんややんや。

という訳で、夕食はイサキのムニエル。
奥さんにリクエストして、ムニエルの下にフィットチーネのクリームソースを敷いてもらう。
肉厚でふわふわして、言語道断に旨い。たまには高い魚を食べなきゃですね。



夜、漫画家のあすなひろしが亡くなったという記事に仰天する。
それも、3月22日には他界されていたらしい。肺がんで、享年60歳との事。
喪主にはお母さんの名前がある。とうとう最后まで独身を通されたのか、と何となく納得する。
コミック・トムに不定期で載った宮沢賢治の童話シリーズ(「よだかの星」「セロ弾きのゴーシュ」)を最后にあすな先生の作品にはついぞお目にかかっていなかったし、いつぞやさださんが「あすなさんは世間の美しくなさに絶望して筆を折った」と云うのを聞いていたので、引退したものと諦めていた。
小学校高学年、少年チャンピオンの黄金期、先生の「青い空を白い雲がかけてった」は僕のバイブルであった。先生の描く青春の儚さ、其処に立ち現われる憤り、そしてそれらを繋ぐウィットやエスプリを愛していた。今の僕を形成する原風景のひとつと云っても過言ではない。

瀬戸口くんが教えてくれたあすなひろしのファンサイトでは、「あすなプロジェクト」なる、あすな先生の著作の自主復刻計画が、先生公認の許、行われていたらしい(継続中)。今度、実家に帰ったら押し入れを探索して、久々にツトムとヨシベエに再会せねば。
あすな先生が亡くなった事で(というのも皮肉な話だが)秋田書店が「青い空〜」文庫化に乗り出さないかなあ。




 180.長さんづくし

2001/4/23(Mo)

土曜出勤のぶんの代休。何だか思い切り休日モード。
朝から中間で奥さんと子守りを交代してそれぞれ映画(「ギャラクシー・クエスト(1999・米)」「隣のヒットマン(2000・米)」)を観た後、ユニクロで奥さんの買い物につきあって、八幡「エスプリ」を廻ってから、家でお茶したのが、16時ちょっと過ぎ。

それから、いかりや長介「だめだこりゃ ─いかりや長介自伝」(新潮社)を一気呵成に読み上げる。

いやあ、長さんの真っ直ぐさというか、生真面目な人柄が滲み出た本である。
帯に「純情いかりや長介」の文字があるのも成程、頷ける。
四流ミュージシャンから四流コメディアン、そして素人同然の俳優へ。自分如きなど自叙伝で語るに価しない人間なのだ、と呟く長さんの語り口に謙遜が発するいやらしい匂いは微塵もない。このひとは「自分(とドリフのメンバーたち)には秀でた才能などない」という崖っ淵のコンプレックスと責任感の重圧を発条(ばね)に、駆動力にがむしゃらに走ったひとなのだ。若い頃からリーダーの地位を割り振られ、脇目も振らずひいひい云い乍ら、ギャグを絞り出し、かたちにし、指揮し、組み立てては生放送で全部吐き出しては御破算にしてしまう、そんなプロセスをウン十年繰り返したひとなのだ。

長さんによるドリフのメンバー観を見るに、放映されたコント(芝居)のアウトプットとしての才能は個々人に認めているものの、所謂「木曜会議」でアイデアをひねる、クリエイティヴが要求されるインプット面で頼りにしていた人間はいないと感じていた事が分かる。唯一の例外が新メンバーである、19歳年下の「ボーヤ」志村けんであり、志半ばでドリフを去ったすわ親治であった。

ドリフのコントを産み出す過程において、イニシアチブを取っていた長さんに対して、クリエイター志村けんの台頭は、或る意味、本質的なグループの世代交代を告げるものだった。主導権を握る人物はふたり要らない。ましてや、そのふたりが師弟関係にあるなら尚の事だ。それが外側からの意向とは云え、結局は「全員集合」の終了と「加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ」の番組交代というかたちになって現われた。

でも、かと云って、ドリフターズという枠組(及びメンバー同士の位置関係)が消滅する訳ではないし、長さんがいかに年齢的なピークを過ぎたとは云え、それが喜劇人生命を終えたという事に直結する訳では毛頭ない。ましてや志村さんにとっては、四半世紀経った処で「いかりや長介」はいつまでも乗り越えなければならない壁であるべき存在なのだ。その関係性は疑いもなく「愛」と呼んで構わないと思う。と、同時にそれは深く相容れない「溝」でもある訳だ。つまりは、それが今のドリフターズ。
長さんも自分に対してはやんちゃなままの「愛弟子」志村さんを微苦笑して見つめる他なく、志村さんもまた、角が取れ、いつしかすっかり丸くなった「師匠」長さんを今更扱いかねている。でも、この関係性はおそらく一生ものなんだろうな。
これはドリフターズという、グループの絶頂期にメンバー交代劇を経験し、且つ後を任された愛弟子がメンバーとして劇的に「化けた」という特異な歴史と最長不倒記録を持つグループならではの特殊性なのだ。

リーダー役から解き放たれた長さんの飄々とした佇まいは年輪も加わって、昔の彼には無かった「顔」だ。
そして、その顔は映画・ドラマ界にとってかけがえのない財産である。大切にしなくちゃいけない。



という訳で、夜は長さん主演の月曜ミステリー劇場「告発弁護士シリーズ 弁護士猪狩文助〜時の剣〜」を観る。
折角なのでこうなったら今日はとことん長さんづくしでいかなきゃ。今夜のレイトショウ行きは延期。
ちなみに監督は「ひき逃げファミリー(1992)」「ISOLA 多重人格少女(2000)」の水谷俊之だ。

僕が和久峻三に入れ上げて、原作を読んだのはもはや中学の頃。
あれから20年近く経ったかと思うと我乍ら呆れ返る。
その頃の僕は猪狩先生を作中の描写から勝手に花沢徳衛さんをキャスティングしていた。
それから一回ドラマ化したけど(森繁さんだったか…うーん、自信ない)よもや長さんが猪狩先生を演る時代が来るとは。
何しろ、原作者の和久先生御自身がもはや長さんより年上だったりする。
やはり、長さんのキャラに合わせて、猪狩先生の性格設定も幾分ギラギラした(笑)ものに変わっている。
戸塚さんが手塚理美というのは云い得て妙だったが、夏目理恵子=原千晶というのは如何なものか。
尤も、今後シリーズ化されるという事なので、これから徐々に馴染んでいくんだろう。
しかし、またどうして香西かおりが。

今日観た映画:「隣のヒットマン(2000・米)」
今日の読書:いかりや長介「だめだこりゃ ─いかりや長介自伝」(新潮社)


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