備忘の都 2001 −MAY−  ◆

一面の焼野原、市松の浴衣着た女が、たったひとり、疲れてしゃがんでいた。
私は、胸が焼き焦げるほどにそのみじめな女を恋した。
おそろしい情慾をさえ感じました。
悲惨と情慾とはうらはらのものらしい。
息がとまるほどに、苦しかった。

枯野のコスモスに行き逢うと、私は、それと同じ痛苦を感じます。

太宰治「ア、秋」


186.煙突はなくとも愉しい我が家187.夢の島少女188.地上の星
189.ワイルダーならどうする?190.「青い空を、白い雲がかけてった」再読

備忘の都【目次】/ 備忘の都1999
平さんがゆく!/ 右團治画報/ トップページ




 186.煙突はなくとも愉しい我が家

2001/5/8(Tu)

朝、足許はふらつくものの熱は下がったので、奥さんに罵られ乍らも会社に出る。
何人かの同僚に「オレなら休むね」と云われる。ちぇっ。
そりゃ連休明けじゃなかったらオレだって考えたさ。
挙げ句、一日中席を立つ度に立ち眩みに襲われる始末。
いい齢して熱なんか出すもんじゃない。30男には後々までこたえる。

遅れ馳せ乍ら、ファットボーイスリム「CHOOSE YOUR WEAPON」のビデオクリップを観た。
いやー、すごい、すごいぞ、踊るクリストファー・ウォーケン
スーツ姿でお茶目にクールにダンス、ダンス、ダンスだ。とにかく凄すぎてテキストではとても伝えきれない。
往年の「日本一の無責任男」植木等をトリビュートした(ウソです)うるわしのステップ、躍動する肉体。
監督をやったスパイク・ジョーンズ、やはりただものではない(あ、「マルコビッチの穴」の監督さんです)。

尤も和製ウォーケン、松重豊は第三舞台の頃から本家に先んじて激しく踊ってたよな。
そういう意味ではすごい、すごいぞ、松重豊。福岡県民の鑑だ、誇りだ、ウォーケンだ。



処で、先月くらいにサンタクロースの出て来るドラマを書く事になった井沢先生がBBSでサンタクロースにまつわるエピソードを募集した事があったのだけれど、この度、めでたく脚本が完成して(ド「夏休みのサンタさん(仮題)」)、来月から撮入、7月か9月には1社提供のスペシャルドラマとして、日テレ系列で放映されるとの事。6歳くらいの男の子が主人公のヒューマン路線だそうで、大人のメインキャストは渡哲也、いしだあゆみ、八千草薫といった重鎮揃いで、今からオンエアが楽しみである。

しかし、話はこれで終わらない。
上記のサンタのエピソード募集の時に、ウチの奥さんが子供の頃、「サンタさんは煙突の無いおうちの何処から入って来るの?」と訊ねた時に、彼女のおかあさんはぬけぬけと「サンタさんは煙突の無いおうちのバアイ、換気扇を外して其処から入って来る」とまことしやかに説明して、いたいけな子供たちを騙した(よく云えば、子供の夢を守った)話を書いた。よくよく考えてみれば、設定に無理がありありなんだが(身体の関節を自由に外せる特技を持つとか)、さも当然そうに、しかも真顔でつかれる嘘に「純真な」子供たちは非常に弱い。
で、井沢先生は今回、換気扇のくだりを八千草薫さんが子供に話して聞かせる台詞として採用されたらしい。
奥さんに今迄聞かされてきた、おかあさんの子供たちを騙す手口には、なるほどと唸らされるものが多いのだが、まさか八千草さんの口を借りて語られる事になろうとは。おかあさん、こりゃ要録画ですか? テープのつめもしっかり折って。

あとは、時間の都合で問題のシーンがカットにならない事を祈るばかりである。




 187.夢の島少女

2001/5/13(Su)

きっと奥さんが育児日記に詳しく書くだろうから詳細は省くが(おいおい)、九州に帰省中のE崎さんち(F田家)に悠都を連れて行く。
E崎さんとフレンチ・ディナーをしたその夜に産声を上げたのが悠都で、この逸話はE崎家及びF田家でも或る意味語り種になっているようだが、E崎さんと悠都の再会もほぼ1年振り。E崎さんは彼が赤子のうちに会いたいと云っていたが、ええ、こんなにどたどた走り廻る幼児に成長してしまいました。勝幡でも感じた事だが、きゃあきゃあはしゃいでよそんちの探検をしているようでも、黙っていると定期的に僕の膝に戻って来る。そういう意味では客ウケを考えて行動している赤子なのかもしれない(オトナのような奴だ)。それにしてもE崎さん夫妻だけでなく、F田おとうさんおかあさん、そしてF田家の愛犬チョビにもたいそう可愛がっていただき、夫婦して恐縮する。全くありがたい事である。

しかし、皆さん仰る事だが、確かに悠都のこの人懐こさは間違いなく武器である。
僕らもそれに助けられたり、目を白黒させたりの毎日だ。

処で、E崎さんには、遊◎機械/全自動シアター「食卓(テーブル)の木の下で」のパンフを買ってきてもらう。
前回公演の「メランコリー・ベイビー」と云い、E崎さんが遊◎機械ファンになってくれて本当に良かった。



昨日、通りがかった時に気になっていた「パティシエ・プチ・トリアノン・オーロラ折尾店」へ立ち寄る。
少なくともオープンは今月に入ってからの筈である。建築中、妙に小洒落た外観だったので「夢追い人(ヘアサロン)」ではないかと妻とウワサしていたら、予想に反してケーキ屋であった。どうやら小倉南区北方にあるお店の2号店らしい。

自然光を取り込んだテラスと木のテーブル、今は準備中のようだが近いうちにカフェもやるのだろう。賢いチョイスである。
で、何がすごいったって、「16区」の三嶋さんから届いた花籠が飾られている。ひょっとして此処のパティシエは「16区」出身者なのか。確かにダックワーズは置いてあるけど、じゃこれは三嶋仕込みの味なのか。お値段150円は、味が同んなじならこっちの方がうんとお得なんだけど。
価格帯はぼちぼち or ちょい高めといった処。でも、気になるほどではない。
とりあえずお試しに、「ラ・フランス」とあとひとつ(名前を忘れたので今度調べとく)を買う。
母の日という事で、カーネーションの切り花。ちゃんとつぼみなのが心憎い。

夕食后、さっそく珈琲のお供に頂くが、どちらも旨い。これは久々のヒットかも。
高須へ行く楽しみがこれでまたひとつ増えた。



深夜、NHKアーカイブス佐々木昭一郎「夢の島少女(1974)」を観る。
ヒロイン・中尾幸世を始め、職業俳優を使わないドキュメンタリータッチのドラマなのだが(あ、でも、友川かずきは出ていたな。ちなみに音楽は僕らの池辺晋一郎先生であります)、風俗だけではなく、少女・小夜子(中尾幸世)を執拗に追うカメラ、赤い浴衣、水を呑む毎に上下する白い喉許、ズームされる素足、襟足、うなじ、あえぎ声、血の滲む傷口を舐める口許と糸を引く舌…他のひとはどういうか知らないが、メルヘン或いは叙情にからめとるような、少女に対するカメラの剥き出しな情欲、この余りにも「70年代」的エロスの炸裂振りに、思わず最后まで観てしまった。何か英ちゃんみたいなひとは必見の作品かも。

田舎を嫌って都会に出たものの(湯船に使った小夜子がおばあちゃんに西洋の歌を教える回想シーンが泣かせる)、妻子ある男に溺れ、ついには都会に馴染めず、都落ちしていく少女。そんな「たかが」小娘も、少年にとっては「されど」神秘的な小宇宙であり、庇護の、そして崇拝の対象なのだ。
印象に残る台詞は殆どない(必要としない)。それよりも、ああ、このエロティシズム。かつて、つげ義春(実は、あすなひろしもそうかもしれない)の作品や、あるいはガロで見かけた四畳半マンガの背骨にシャム双生児の如く宿命的につながっていた、あのエロティシズム。映画少年が自主製作映画の中のヒロインへの恋慕を惜しげもなくフィルムに焼き付けるように、純粋であり乍ら、憧憬と自虐と劣情がないまぜになった、あの視線。恋する少年だけが感じ、表現する事が可能な少女の色香。
故にあらゆる世代に潜伏する「恋する少年(おじさん)」たちの琴線に触れまくりの1本と云えよう。

でも、びっくりしたのは本篇放映終了后、ゲストに小夜子を演じた中尾幸世さん(ラジオドラマ出演などを経て、現在は朗読の仕事をしているそうな。勿論、佐々木作品以外に女優業をやったことはないとの事)が出た事。撮影当時高校3年生と云うことは、2001年現在で45歳になる筈だが、非常に小憎らしい齢の重ね方をしている。肥満や醜悪のダークサイドに身を堕とす事無く、背筋をぴんと伸ばした、清楚だが自己主張をおろそかにしない、大人の女性が其処に居た。目尻の皺まで味方につけた、45歳齢相応の女性の美しさ。そして、声質は18の頃と殆ど変わらぬ、こわれもののような幽けさ。これで朗読をなりわいとしているというのか。少年たちの夢や浪漫を壊さない、稀有且つ理想的な有り様というか。加々見アナの代読する佐々木さんのメッセージを聞き乍ら、涙をこぼす姿が実に絵になる。

誠にNHKアーカイブス、侮りがたし。
再来週は少年ドラマシリーズ「星の牧場(1981)」らしいぞ(脚本は別役実御大だ)。




 188.地上の星

2001/5/15(Tu)

以下は、某鉄鋼メーカーの裏話(今回は田口トモロヲの声で読む事をお薦めする)。
此処のさる製品部門が作る主力製品のひとつに、酒類飲料類、あるいは缶詰として使用する「罐」がある。
正確には製罐する前のブリキの切り板をこしらえるたものを別の製罐メーカーが加工して「罐」に仕上げる。

さて、此処に某飲料メーカーの某コーヒー缶が3つあると思って欲しい(今回は徹底的に伏せ字です・笑)。
これらの缶コーヒーの表面には、高光沢エンボス加工が施されている。
エンボスというのは、凹凸の文字や模様等を付加する技術の事。光沢エンボスとは、缶の表面を光沢が出るように、てかてか、つるつるに仕上げる仕様。それが「高」光沢だと云うのだから、表面のてかり度は推して知るべしだろう。

処で、某コーヒー缶のデザインは、コーヒーの種類によって、3種類に大別される。
某鉄鋼メーカーの符丁で「銀」「金」「その他」と名付けられたデザインは、また、高光沢エンボス度の高さ順をも意味する。

「銀」のコーヒー缶は、缶の表面にせいぜい透明なコーティングのみを施した、缶そのものの素(す)のメタリックな感じを強調したデザインであり、当然乍ら「銀」に使用されるブリキ表面の高光沢エンボスは最上級の仕上がりが要求される。
「金」のコーヒー缶は表面に、更にゴールドの塗料をコーティングするため、メタリック感は必要なものの「銀」程は表面がぴかぴかに磨かれていなくてもOKというもの。
「その他」は、「黒」だの「緑」だの、メタリック感を無視していいコーティングなので、光沢エンボスなどは最低限保証出来ていればいい(これだけのヒントでも、ひょっとすると缶コーヒー通のひとには判るかもしれない)。

缶表面の光沢、ツヤなんてものはそもそもかなり微妙な話なので、現実問題として鉄板の光沢度をチェックする機器・センサー類というものは存在しない(或いは高額の開発費用に見合う生産量ではない)。で、結果どうなるかというと、検査員が己が目をかっぽじいてチェックするんですな。コイルを切板にした段階で、コイルの最初の方、中程、終わりの方からそれぞれサンプルとなる鉄板を取り出して、表面に曇りがないか、くすみがないか、一枚一枚光に翳して眺めすがめていく。月平均300tある生産量に対して、検査員2名。勿論、交代要員なんてなし。何処だって人手不足なのだ。

とは云え、検査基準がいかに微妙でも厳しい事に変わりはないから、ちょっとでも擦過があれば「銀」は「金」に、度合いによっては「その他」にランク落ちさせざるを得ない。「銀」の生産歩留率が半分強というから、高光沢エンボスの板を作るのが、どれだけ難しいかが知れる。そして困った事に「銀」はレギュラー缶、つまり、いちばん売上げ(即ち生産量)が多い品種なのだ。問題なのは「銀」の生産が思ったように捗らない事と、結果的にメーカー側の需要の少ない「金」「その他」ばかりがじゃんじゃん生産されて、不要在庫を抱えてしまう事。結果、製罐メーカーからは「金」「その他」はもう要らないから「銀」をください、とクレームがつく始末。具合の悪い事に、高光沢エンボス缶は、このコーヒー缶の独自仕様なので、別の用途に使い廻す事すら出来ない。
そして、泣きっツラにハチと云うか、「銀」「金」「その他」に素材としての価格差はない。基本的にメーカー側は全て「銀」仕様を要求しているのだから、仕方ないと云えばそれまでだが、実際「金」「その他」コーティングに「銀」レベルの仕上がりは全く不要なのである。

しかも、コカコーラみたいに何年も缶自体のデザインが定着しているならともかく、今回の某コーヒー缶のデザインが長きに渡って高光沢エンボスである保証は何処にも無い。実際、今回のデザインに変わったのだって今年の1月の話だ。今後売上げが落ちるような事があれば、缶のデザインの一新或いはこのシリーズ自体の一新だってないとは云い切れない。

先述した2人いる検査員の1人である某マネージャー氏が悲しげに呟く。

「しかも、この製品って表面が結露し易いんですよ。
どういう事かと云うと、よく冷えたコーヒー缶だとすぐに表面が白く曇るから、
高光沢かどうかなんて誰も気にならない

彼は4月に今の部署に赴任して以来、業務の大半を「これ」に費やしている。
管理職だし、この業務を他の人間に委譲したくとも、何せ人がいない。
話によると、高光沢エンボス缶というのは、今回デザインを担当した若い女性デザイナーの発案によるものらしい。彼女の拘りは強く、この線だけはどうしても譲れないんだそうだ(ま、そうでしょうね)。それならそれでせめて「銀」をレギュラーに選ばなくったって良かったのにィ(とは云え、コーヒー的には、より本物志向の強い製品を「金」にするというのは、話として分からなくもない)。かくて某マネージャー氏の終わりなき挑戦は続く。

「いつか○○さんの苦労も、NHKの『プロジェクトX』で紹介される日が来るかもしれませんし」

って、それは何か慰めているつもりなのか → オレ(うわあん、慰めたつもりだったんだよう)。

某マネージャー氏は力無く笑って、検査作業の待つ工場へと帰っていった。
彼の話を聞いた僕らが昼休み、某缶コーヒーの「その他」を呑んだ事は云うまでもない。




 189.ワイルダーならどうする?

2001/5/18(Fr)

キャメロン・クロウ/宮本高晴訳「ワイルダーならどうする?」(キネマ旬報社)、遂に読了。
読めば面白いんだが、B5判という恐ろしく持ち運びに不向きなハードカバーなのが災いした。

映画監督キャメロン・クロウが一介の映画ファンに戻って半ば強引に、名匠ビリー・ワイルダーから彼の映画づくりに纏わるよしなしごとを聞き出す、所謂「聞き書き」本なのだが、それをドキュメント「キャメロン・ミーツ・ワイルダー」として齢94(当時)のワイルダー翁の現在と、筆者自身が老監督と友情を育んでいくプロセスを活写する事によって、凡百のインタビュー本に終わらせていない。自分が九州在住でなければ、文治師匠にお願いしてやりたくてうずうずしている理想の極北が、まさにこの本と云える。尤も僕の場合、もうちょっと文治師匠の基礎知識を学ぶ必要があるのだけれど。

でも、この本のドラマ部分というか、基本的な構成って、三谷さんの「バイマイセルフ」を彷彿とさせる。
尤も、あの戯曲はこの本が本国で出版される3年も前に発表されたけど。
むしろ、工夫のしようによっては、逆に本作の戯曲化だって全くナンセンスという訳でもない。
勿論此処で語られている映画づくりの美味しい大部分を取捨選択しなきゃならないけど、それはそれで老監督と彼の一ファンである若き監督の交流だけ抽出しても充分面白いドラマが出来上がると思う。案外、何年か先、ワイルダーが鬼籍に入った後(いや、無論、ワイルダー翁には後20年程元気であって欲しい)に彼の伝記映画としてこの本のスタイルを取ってみるというのもキャメロンなら出来るんじゃないか。それはそれで面白いかも。

あと余談だが、ワイルダー翁はこの本でも周防さんの「Shall We ダンス?」を大絶賛している。
そりゃ日本人である三谷さんが会いに行った時に「ありゃあ良かった」とベタ褒めする訳だ。

嗚呼、それにつけても悔やまれるのは、本作でもちょくちょく触れられている、脚本執筆中にワイルダーから様々なアドバイスや示唆を受けた、キャメロンの新作「あの頃、ペニーレインと(2000・米)」を観損ねた事だ。結構、巷での評判も(かなり)良かったし、今からでもいいから中間が拾ってくれないかな(て、実は近々上映する計画があるらしい)。



処で、話はちょいとそれる。
本の末尾でワイルダーのフィルモグラフィーにキャメロンが一作ずつ丁寧に解説文を書いているのだが、「お熱い夜をあなたに(1972・米)」の解説にこんな一節がある。

長年にわたって巧妙に検閲の目をかいくぐってきたワイルダーがここでは冒涜的な言葉を使い、わずかだが裸も画面に出している。それぞれに意味がこめられ、用い方にところを得てはいるものの、それでもどこか年配の大人がはじめて悪態をつくのを見るような落ち着きの悪さが感じられる。

これを読んで僕ははたと膝を叩いたね。これこそユリイカですよ。
キャメロンの感じた「…」って、はからずもそのまま此処最近の三谷戯曲(とりわけ「温水夫妻」「竜馬の妻とその夫と愛人」。無論「オケピ!」にも片鱗はあった)を観て、僕がずっと蟠っていたもやもやしたものの正体を見事に云い当てている。
尤も、ワイルダー当人にしてみれば、検閲との闘いの中で「必要だったからこそ」工夫に工夫を重ねた表現だったのであり、検閲がゆるやかになった今、そういった工夫は意味をなさないではないか、という反駁はあったのかもしれない。しかし元が何であれ、きわどい表現、物語をエレガントな箱に押し込む方法それ自体がワイルダー・スタイルとなり、ファンはそういった優雅で、計算しつくしたスタイルをこそ尊び、愛した。
そんなファンの目からは、ワイルダー・スタイルの逸脱は奇異に映るだけでなく、「忌憚なく書けば」、スマートでもなければ、緻密な作業の放棄(或いは、作劇に課した制約の放棄と置換してもいい)にも映る。ファン心理としては結構フクザツなのだ。

下品な笑いはある意味、簡単である。其処には綿密な計画は余り必要無いからだ。
作劇として、ある下品な表現がどんなに意味を持とうと、効果的であろうと、ファンのジャッジは境界線上のならざるを得ない。
ましてや、三谷さんの作劇スタイルは検閲との闘いから生まれたというよりは、彼が愛するハリウッド・クラシックや昔の外国ドラマのスタイルから生成された部分が大きい。
勿論、三谷戯曲は三谷戯曲なりの変化や進化があって然るべきで、下ネタが即彼の作品の品質低下に繋がる訳じゃないのは今更断るまでもない。でも、やっぱり太宰が昔の温水夫人との閨話を持ち出すくだりでは目が点になったし、松兵衛と虎蔵が競うかのように寝室でのおりょうの様子を活写するシーンでは開いた口が塞がらなかった。

女が女たる部分を語り始めたのは、三谷さんにとってある意味、作劇上の「解禁」になったって事なのだろうか。
やっぱり、女ってヤツは魔物なんですか → 三谷さん。

今日の読書:キャメロン・クロウ/宮本高晴訳「ワイルダーならどうする? ─ビリー・ワイルダーとキャメロン・クロウの対話」(キネマ旬報社)



 190.「青い空を、白い雲がかけてった」再読

2001/5/19(Sa)

福岡在住の妹たちは僕と違って、宇佐の実家に帰るのが好きである。
親父が身体を悪くして両親共々福岡に居ようと、月イチは実家で過ごす。
だから、4月末に会った時、長妹に故・あすなひろし物件のサルベージを頼んでおいた。
という訳で今日の午後、妹に会った折りに、あすな物件をしかと受け取る。
おーし、ブツは無事であったか。

「青い空を、白い雲がかけてった」全3巻、「サムの大空」(それぞれ秋田書店)の全4冊。
古い順に、本の縁が手垢で黒くなっているのが解る。何しろ、繰り返し愛読したシリーズのひとつである。
もはや記憶が定かでは無かったのだが、「風と海とサブ」全2巻(秋田書店)は見つからなかったようだ。
蔵書しているつもりだったが、勘違いだったか。返す返すも買っておかなかった事が悔やまれる。

夜、家に帰ってから、悠都そっちのけで、「青い空を…」を読み浸る。
奥さんは奥さんで、妹から借りてきた篠原千絵「天は赤い河のほとり」(小学館)の未読(99年以降発売)ぶん6〜7冊に没頭しており(途中で1冊ぶん抜けていて泣いていたが)、そりゃ途中で悠都も癇癪を起こして泣き喚くわなァ。分かる分かる。

「青い空を…」は、繊細なタッチで綴られた青春マンガの金字塔であると同時に、洗練されたギャグマンガでもある。
いや、ギャグを積み重ねた隙間に青春の痛みや光と影が垣間見えると云っても過言ではない。
あすなギャグの数々は原稿が描かれてから四半世紀経った今読み返しても、全く色褪せない。
無論、時事ネタ、CMネタが多数含まれるので、世代的に通用しないであろう部分も無くは無いが、緩急自在なコマ運びとテンポの良さ、ダイアローグのセンスの良さは、時代を凌駕する。今でも充分耐え得る、いや通用する。

少年チャンピオン梁山泊期の熱い波に背中を押されるように、常日頃の彼の作品よりも余計にギャグが投入されたのかも知れないが、鴨川つばめ同様、あの頃のあすなひろし(つまり、これ以降のあすなひろしから失われていく)にしか描けなかった青春(生活)ギャグマンガが単行本として3冊にまとめられたのは、作者にとっても読者にとっても幸福な蜜月時代だった(実は「青い空を…」も単行本未収録作品が後期に数本ある)。

15年振りに読み返して、15年前までと変わらずに読めたのが何よりも嬉しかった。
夏子先生は相変わらず可愛いオトナの女で、ツトムのとうちゃんは今でも充分に頼もしい大人の男であった。
作品は決して思い出に美化などされていなかった。僕が保証する。今読んでも十二分に面白い。
秋田書店は今からでも、未収録作品も余さず取り込んだ上、即刻文庫化すべきである。

今日観た映画:「東京マリーゴールド(2001・日)」「東京攻略(2000・香)」


備忘の都を旅する この頁のTOPへ