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217.携帯哀歌
2001/9/12(We)
出社すると会社中の人間が寝不足の模様。そりゃそうか。
ビルの瓦礫の下にはまだ沢山の被災者が救援を待っている筈だが、世界貿易センタービル倒壊の余波を受けて周囲のビルも次々と崩落している為、救助作業は遅々として進んでいない。二次災害の危険を思えばやむをえない状況である(実際、沢山の消防隊員や警察官が犠牲になっている)。それでも携帯電話を持つ被災者の何人かは家族に電話して自分の無事を知らせていると聞く。携帯の出始めだった阪神の震災の頃を思えば、移動体通信の普及による僥倖を喜ばずにはいられない。
けれど、くだんのハイジャックされた飛行機から自分の夫や母親に電話をかけた乗客の話を聞くと、さすがに辛く苦しい。
ひとが今から死ななければならない時、いまわの際に自分のいちばんたいせつなひとに「愛している」と伝えられる事は本当にしあわせな事なんだろうか。いや、しあわせには違わないんだけれど、残される側が無力感、敗北感に打ちのめされる事を思うと非常に切ない。愛するひとを喪うという「リアル」は、極まれば極まるほど残されたもの自身の「それから」を殺してしまう気がする。
じゃあ、そういう機会などなければよいかと問われれば、それには憤然とノーを唱えるのだけれど。
よく分からなくなってきたので、我と我が身に置き換えてみる。
たとえばマンハッタン島の瓦礫の下にわたしの大切な誰かが助けを待っているとする。
其処は危険区域に指定されていてどうしても近付けない。
初めは元気だったそのひとも日ごと弱々しくなっていくのが電話越しでも判る。
わたしにはなす術もないまま、やがてその日が訪れる。
死期を悟ったそのひとは最后のから元気を振り絞って、ひとしきり軽口を叩いてから、不意に「ありがとう。最后まであなたと話せて良かった」とだけ告げて、電話は静かになる。幾ら呼びかけても、二度と応答は、ない。それですべてだ。
それでも、わたしはそのひとと電話が出来た事をしあわせだと感じますか。
そのひとの言葉が真心から出たのだとしたら、わたしの「これから」はしあわせですか。
リチャード・ドーキンスは決して夢を語らないが、愛がなるほど利己的遺伝子の所作だとしても。
ひとりで逝かなければならないそのひとを、電話越しでもいいから看取ってあげたいんだろ。
最后までそのひとを愛するものとして可能な限り寄り添っていたいんだろ。
電話をかけてきたハイジャック機の乗客は最期の最期に想いを告げる事が出来て、少なくとも本望だった筈だ。
無力な自分に出来るのは、そんな最期の告白を全身で受け止める事くらいだから。
その行為が仮に自分の「これから」の全てを奪って、そのひとにしてあげられないあれやこれやをひっくるめた自分の無力さと生涯向き合い続ける事になっても、そうやって自分の未来と引き替えに誰かを引き受ける行為が、おそらく「いとおしむ」という事の証左である。
「しあわせ」という尺度はスカラー値では計れないからね。
元気な我が子の寝顔を見ていると強く深くそう思う。
米国ではイスラム教徒への暴行事件が相次いでいるという。
きりきりと歯痒い。そうじゃないんだよ。
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