備忘の都 2002 JUNE

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ぷちウッチャきナンチャき

 ぷちウッチャきナンチャき  2002/6/20(Th)


会社で後輩Fくん(21歳。ウチの妹よりも若い)と世間話をしていて、大学時代に小学生の兄弟の家庭教師をしていた話になった。
当時、熊本の老舗デパート鶴屋の中元セールで売り子をしたのが縁で親しくなった林さんの小学生の息子の家庭教師をしていたが、ご主人の転勤で、週に二回ごはんまでごちそうになっていた「美味しい」バイトを失う事になり、いきなり財政が悪化するかと思いきや、とんとん拍子で次の家庭教師の宛てが見つかった。

誰の紹介だったかもはや忘れてしまったが、今度もまた小学6年生と4年生の男の子。
お父さんは郊外で産婦人科医院を開業していたが、子供たちは進学を考えて熊本市内のおばあちゃんち(整骨院)の3Fでウィークデーを過ごし、週末だけ実家に帰っていた。美人のおかあさんはテラノを駈って橋本龍太郎似のおとうさんと子供の間を行き来していた(片道45分程度だけど)。玄関を開けるといつも2匹のヨークシャテリアの爪がかさかさとフローリングの床を擦る音がして出迎えてくれた。

子供たちは勉強こそたいして出来なかったが(ま、だから僕の需要があったのである)、可愛かった。
尤も出来ないと云っても、小学生のうちの「出来ない」は決して実力そのものではない事は、中学以降の僕自身がちゃあんと反面教師として実証している。でも、おにいちゃんはとりわけ算数が苦手だった。ビックリマンシールは大好きだったけど。
当時の僕は今にも増して短気だったから、子供たちには決して佳い先生ではなかった筈だが、彼らは「先生、先生」と犬っころのようになついてくれた。僕は家庭教師というよりは小学生を引き連れたお山の大将だったような気がする。

林さんちのように皆んなで食卓を囲むことはなくなったが(元々それが趣旨ではないし)、お医者さんちはやっぱりブルジョワなのだった。たまに子供たちの帰りが遅れると「先生お腹空いたでしょ」と店屋物のうな重(肝吸い付)や天丼が出た。たまにカウンターでいただく天麩羅屋や、フレンチレストラン(個室)、目の前でシェフが肉を焼くステーキハウスも連れてってもらった。貧乏学生にはまるで無縁の夢の世界であった。はっきり云って小じゃれた店の味は全部、このお宅で教えていただいた。その割に子供の成績はちっとも上がらなかった。子供の遊び相手をして月に3万円もらってたような気がする(いや、勿論勉強はしていたんだよ)。一緒に「金八先生(PART3)」を観て感動したり(おいおい)、ドラえもんの映画に連れてったり(今とやってる事がまるで同じである)とか。最後の日に彼らが撮ってくれたポラロイドのスリーショットは今でも大事にアルバムの中にしまってある。

今会えば、ちょうど目の前にいる後輩くらいの歳だ。
会ってみたい気もするけど、果たして憶えてもらっているんだか。

「いえ、たぶん、そのひとの方が年上ですよ」とFくん。

大学4年の時に小6と小4で、あれから11年。
成程、兄(23歳)は彼より年上だ。弟がようやく同い年か。

ふと思い立って、子供たちの名前をGoogleで検索してみる。
大学進学していれば、間違いなく医学部の筈だから、或いは大学の研究室サイトか何かで彼らの近況が分かるかもしれない。
比較的珍しい苗字なので、そうそう同姓同名はいない筈。

まず、兄で検索してみる。ヒット数0。実は彼については昔も試した事があった。
次に弟で検索すると3件ヒット。どれも九州内の某大学の医学部の弓道部のサイトのものだ。
見ると、弓道部の副主将をやっている。
サイト内にあるweb日記を手繰ると、彼の実家が熊本のあの産婦人科である事が分かる。まさかこんなにあっさり見つかるとは。
アルバムのページにコンパの写真など置いてある。一枚一枚にキャプションはついていないが、おそらく彼だろうと思われる、育ちのよさそうな青年がマイクを握って歌っている。小学4年生の頃しか知らないけれど、確かに面影がある。大きくなったなあ、おい、などとちょっとじいんときたり。勿論、今更連絡を取るつもりはないけれど、昔の教え子が元気なのを知るのが、こんなに嬉しいとはね。おにいちゃんの方も元気にしてるといいなあ。

インターネットでやる、プチ「あの人はいま」。
本当に時たまだけど、思いがけないものに再会出来るしあわせというのは、確かにある。





 
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