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用便、願いまァす
2003/3/1(Sa)
映画の日の土曜というのは、繁く映画館に足を運ぶ映画ファンにとっては性質(タチ)が悪い。
雨が降ってれば、客足も悪かろうなどとは大きなマチガイで、開演ぎりぎりに飛び込もうものなら、にわか映画ファンで足の踏み場もない会場からしめだしを喰らう。実際、今朝はそうやってシネテリエ天神「ラベンダー 薫衣草(2000・香)」の初回を見逃した(わはははは)。
やむなく、予定を大幅に変更して、KBCシネマで「スコルピオンの恋まじない THE CURSE OF THE JADE SCORPION (2001・米)」、「刑務所の中 (2002・日)」と、60代後半でバリバリ現役のおじさん達が主演(ウディ・アレン:1935年12月1日生まれの67歳、山崎努:1936年12月2日生まれの66歳)の映画2本で我慢する。それでも2本目の「刑務所の中」では、シネマ1の108席が全て埋まってしまった為、通路であぐらをかいて観るはめに(こんなのはアジア・フォーカスのソラリアシネマ以来である)。
「スコルピオンの恋まじない THE CURSE OF THE JADE SCORPION (2001・米)」
1940年の良きアメリカの時代のNYが舞台の、全く「他愛ない」ラブコメディ。
この「他愛ない」というか、ふやふやな力の抜け具合がまたいい味になっている。ハリウッド・クラシックは出来の巧拙は置いといても、こういった毒にも薬にもならない喜劇の宝庫に相違ないと、未だ観ぬ鉱脈にわくわくしている次第。「コンスタンチノーブル」に「マダガスカル」と、それにしても全く「どうでもいい」映画である(笑・決してケナしている訳ではないが、勿論手放しで絶賛している訳でもない)。でも50年代に製作されたまま、陽の目を見ずに今まで埋もれていた作品だと云われても、それなりに説得力がある、これはそういう作品。ヘレン・ハントもダン・エイクロイドもシャーリーズ・セロンも徹底的に何処かで観たような(共同幻想的)類型キャラなのだが、それはこういうコメディを作る上で不可欠な要素だとも云える。
少なくともそういう意味で、本作の作劇はきわめてヒッチコック的かもしれない。
処でヘレン・ハントって「恋愛小説家」の時に心からいい女優だなと思ったのだが、「ハート・オブ・ウーマン」からこっち、ちょっとこのテの役廻りが多過ぎる気が。確かにキツめで、とうの立ったクール・ビューティーなんだけど。
「刑務所の中 (2002・日)」
崔洋一監督作品の中でも屈指の傑作と云っていいんじゃないか。
僕は「マーカスの山」より「犬、走る」より本作を断固支持する(「東京デラックス」に至ってはあまり印象に残っていない)。
とにかく、キャラが聳え立つ映画である。本来狂言回しとしてしか機能しない筈の山崎努の、このキャラの立ち具合はどうだ。およそ究極のネガティヴな状況下での、単なる「良かった探し」を超越した極北的ポジティヴ(笑)。決して自虐ではなく、其処は塀の中に立ち現れた、一大レジャーランドなのだ。独居房に入れられて尚、「これはかけがえのない思い出になる」「あー、まるで温泉だァ」といった綺羅星の如き、満足の染み渡る独白の数々に幾度膝カックンさせられた事か。
原作漫画が花輪和一の発明した前代未聞の刑務所版「地球の歩き方」だとするならば、この映画は崔洋一の発明した刑務所版「ぶらり途中下車の旅」なのだ。ある意味、「トンデモ」に匹敵するコペルニクス的展開なアプローチと云ってしまっていいだろう。
ビリー・ワイルダーが存命なら、「Shall We ダンス?」同様、誰彼構わずに絶賛してくれたと思う。かの映画の如きカタルシスはないが、全篇にアルファ波とペーソスに満ちた笑いが隙間なく散りばめられている。誤解を恐れずに書くなら、これはガロ作家という独特の視点がものした、ある種の奇跡である。
役者は例外なく良かったが、此処は敢えて草薙良一のおとぼけ加減を特筆しておく。
あ、椎名桔平扮する医官はピンポイント乍ら反則的面白さだった。これは観ないと損をする(笑)。
とにかく上のような按配で3本目は断念し、ギガ天神で筋肉少女帯「筋少の大海賊 vol.2」を、ジュンク堂でカルステン・ラクヴァ/柴田陽弘監訳・眞岩啓子訳「ミッキー・マウス ─ディズニーとドイツ」(現代思潮新社)を買い、ソラリア・ステージをひやかしてから帰路につく。
雨の日の遠出は色々と面倒くさい。
タコサクと桃カステラ
2002/3/2(Su)
朝飯のあと、ソラリアステージの「ジャミン・カー」で買ってきた「タコサク(タピオカのココナッツミルクプリン)」「バナナ春巻チョコレートアイス添え」でおめざにする。シティ情報ふくおかの最新号が天神デパ地下特集だったので、中でも気になるタコサクを選んだのだが、雑誌で紹介してあるモノを買おうと胸がときめくうちは(とは云え、たかだか200円そこそこだが)まだまだ大丈夫だなあと妙に腑に落ちたりする。ヘンにろうたけて、何がどうだっていいじゃないと妙に落ち着いたモノ云いをするよりは、年甲斐もなくミーハーでスノビッシュで腰が落ち着かない方を選びたい。
近頃、物欲への情熱が薄れ気味なので、特に危機意識があるのかもしれない(それって爺ィっぽいでしょ)。
くだんのタコサク、なかなか旨し。但し、味が余りに濃厚なので脇にチェイサー代わりのお茶要。
バイ・トーイをミキサーにかけてこさえたウルトラマリンに染まったタピオカは昔なつかしラムネを思わせる。
バイ・トーイの独特な香りと、その上にどっちゃりかかったココナッツミルクプリンの強烈な甘さが織り成すB級グルメな猥雑さがまた格別。(これは褒め言葉なのだが)「駄菓子」テイストにクラクラしそうになる。これがアジアン・スイートの面目躍如なのだな。バナナ春巻もチョコレートを掻き分けて舌に主張する酸味がクセになる感じ。
そのうちに是非、ジャミン・カー本店でプーケット・スタイルのタイ料理を堪能したいと思いを馳せたり。
今日は妻が「ロード・オブ・ザ・リング/二つの塔」を観に行く事もあって、一日中悠都につきあう。
妻を送った後、高須へ給油に行き、折からの晴天に誘われるようにそのまま遠賀川河川敷に足を伸ばす。処々足元がぬかるんでいたので、案の定、悠都が泥んこになったりしたが、釣りびとやジョガーやツクシ採りの家族連れを横目にしばしのんびりと過ごすのもたまには悪くない。
いざ帰る段になって悠都が駄々をこねたが、どうにかだまくらかして家へ連れ帰って、おしめを代えると妻を迎えに行って、おむらいす亭でオムライス食べてダイエーで日用品買って、帰宅して、そのまま悠都とふたり、17時まで3時間以上寝てしまう。て、オレは子供か。
処で今年も佐世保のYさんから桃カステラが届いたので、夕食後にわしわしといただく。
(実は夫婦そろって、この季節が来るのを指折り数えて待っている)
悠都が生まれてから、数も3個から5個に増えたのがまた何ともありがたい。
筋少の大海賊 vol.2
2002/3/4(Tu)
週末に買った筋肉少女帯「筋少の大海賊 vol.2」(2003/2/20発売)を聴いている。
未発表ライヴ音源13曲入り3000円はお得なようだが、ライヴレコーディングされた訳ではなく、メンバーが記録用に保管してあるカセットテープがマスターなので、その音質は、心無いファンがテレコを持込んでひそかに録音したものと大差ないくらい劣悪である。筋少のコアなファンでなければとてもお奨め出来ない(僕もおいちゃんのサイトで遅れ馳せ乍ら発売を知り、とるものもとりあえず購入したので、音質情報にまでは手が廻らなかった。ま、音源からして推して知るべしなのだが)。
本来暮れに出た「vol.1」を先に買うべきだが、天神中廻って「vol.2」しか見つけられなかった。メジャーバンド関連とは云え、こっそりと発売されたインディーズ盤だしね。
2枚のアルバムの発売に合わせ、これまで2回の2人筋肉少女帯(内田雄一郎、本城聡章)によるトークショー「筋少の大海賊サミット」が開かれたそうだが(2回目は橘高をゲストにミニライヴも行ったらしい)、そんな情報は「特撮」のサイトをこまめにチェックしていても、全然引っかからない。オーケンの公開日記であるのほほん不定期通信は定期的に読んでいたが、大海賊のだの字も出て来なかった。
「筋少の大海賊」。この企画には何処にも大槻ケンヂがいないのである。
脱退したとは云え(だが、少なくともくだんのサミットにキツタカはゲスト出演したのだ)、事実上活動休止中の(90年代の)筋少にとっての大槻ケンヂは、ジェネシスにとってのピーター・ガブリエル、いや、フィル・コリンズである。バンドとしての回顧企画に、核となるべきメンバー不在のまま、残メンバーや当時を良く知る市川哲史(「音楽と人」初代編集長)が語るバンド史は即ち、かくも「大槻ケンヂ」の不在の大きさを強く深く浮かび上がらせる、という意味できわめて腑に落ちる、面白いイヴェントとなった。今回、オーケンに打診があったかどうかは謎だが、少なくとも彼が「他メンバーと共に」筋少を語るのは時期尚早なのだろう。「対自核」で筋少の過去作品をセルフカヴァー出来たのと、問題が根源的に違うのかもしれない(「vol.2」のライナーで市川さんは「大槻はバンドへの帰属意識が薄い」と書いたが、果たしてそうか。もっともっと個人的な和解が必要、というか幼いわだかまりのような気がするのだけど)。
「vol.2」のライナーによると、「vol.1」で2人筋肉少女帯になったいきさつが書いてあるそうだが(うっ、気になる)、折角だからついでに「内田、特撮脱退の真相」も教えてくれんかね。ドラマー太田との関係はともかく、オーケンvsキツタカの「サンフランシスコ」共演がふたりの修復完了とするならば、古くからのファンとしては、人づてに互いの近況を確認するのみで直接話をしていないように思えるオーケンvs内田の関係がいちばん気になるのだ。
話がそれた。「筋少の大海賊 vol.2」の話である。
筋少でCD化されているライヴ音源で今思いつくのは「筋少の大水銀」収録の「風車男ルリヲ(シングルのC/W)」くらいで、そういう意味でも今回のライブ音源集はとても貴重なのだが、加えて今回収録された「バラード禅問答」が、僕が筋少を初めてライヴで聴いた「'93.6.14 福岡都久志会館」録音盤だというのがひときわでかい(ちなみに「vol.1」に収録された「リテイク」は僕が筋少を最後にライヴで聴いた「'96.5.8 福岡スカラエスパシオ」録音盤だったりする)。一ファンとしてバンドと共有した瞬間と再会出来ると聞かされれば、そりゃあ買ってしまう。本アルバムには収録されていない「死んでゆく牛はモー」での、オーケンののびやかな歌声を昨日聴いたように思い出せるのも、「福岡都久志会館」録音という一点の付加価値による相乗効果だ。音質問題が分かった今でも、同じ理由で「vol.1」も買おうと思う。
さて、オーケンの手許には、この2枚のアルバムは届いているのだろうか。
届いていたとして、聴いてみたりするのだろうか。
処で井上瑤さんの訃報には驚かされた。癌でずっと闘病中だったらしい。
暮れにゲーム用でハロの声をあてたのが最后の仕事だったとのこと。嗚呼、セイラさんが逝ってしまいましたね。
西田敏行、心筋梗塞で倒れる。Y田さんが「探偵ナイトスクープ」で顔色が悪いので気にしてたそうだ。
生命には別状がないそうでまずは一安心だが、ゆっくり休んで今年も「釣りバカ」を続けてもらわねば。
西やんこそは、邦画界を背負って立つ、真の意味の屋台骨なのだから。
B級映画であればこその匠
2002/3/7(Fr)
払暁、犬山帰省の妻子はタクシーで高速バス乗り場へ。
いつもとタイムスケジュールが異なる故、昨夜から今朝にかけての妻は低血圧を踏み越えた気合の入り方。
身支度の省力化で服のまま寝かされた悠都が興奮してなかなか寝付かなかったのは誤算だったけど。
んで、起こされるなりタクシーに押し込まれた悠都が、半べそ顔で僕に手を振るのがちと可哀想だったり。
ま、おじいちゃんおばあちゃんの顔を見たら一瞬で機嫌も直るんだが。
仕事では色々気の重い事ばかりだが、此処は逃避と(おいおい)レイトショウで「ビロウ BELOW(2002・米)」。
「潜水艦映画にハズレなしの法則を打ち砕く、初の『ハズレ』作品か?」との何処ぞの前評判も何のその、本作の監督デヴィッド・トゥーヒーは「アライバル/侵略者(1996)」「ピッチブラック(2000)」と撮る映画撮る映画僕の琴線を揺さぶってくれる期待値大のフィルム・メーカーだし、社内でも数少ない映画同好の士であるN嶋さん(ちなみに彼女の観賞傾向はサスペンス系&ホラー系に優先度あり)からも「面白かったですよ」とお墨付きをもらったので、迷わず最終日の最終回に滑り込む。
で、結論。観て良かった。フェイバリット・ムービーがまた1本増えた。
どうやら僕はデヴィッド・トゥーヒーの映画魂とひどく相性がいいらしい。
この監督の撮る映画は所謂ハリウッド大作に非ず、そのポジションは常にB級作品を嗜好するが、自身を育んだ過去の作品群のテイストを「品良く(此処、重要)」自作に取り込み、上手に料理してくれる。たとえば「ピッチブラック」は、かの「エイリアン2」の変奏曲乍ら、ただの換骨奪胎に留まらぬ、フーダニットの意外性と世界観の構築において極めて上質のSFサスペンスに仕上がっていた。実を云えば、脚本家デヴィッド・トゥーヒーは本家たる「エイリアン3」のシナリオにも名を連ねている。尤も、脚本家としての経歴は「ウォーターワールド」「G.I.ジェーン」と華々しいんだか、はかばかしくないんだか、よく分からないキャリアだったりする。
そして、この「ビロウ」だ。僕は本作にも「エイリアン・シリーズ」のリスペクトを見る。
ひとりまたひとりと犠牲者が倒れる中、巨大な密室且つ迷宮である潜水艦(宇宙船)からの脱出劇。得体の知れない恐怖と裏切り者のフーダニットが織り成す驚愕の真相。招かれざる客であるヒロイン・クレア(「シックス・センス」「ラッキー・ブレイク」のオリヴィア・ウィリアムズが好演)はまさしくリプリーそのものだ。実はこれらの構図は前作「ピッチブラック」にもぴたりと当てはまる。
そして本作の主題が「エイリアン・シリーズ」の後追いに過ぎないとしても、本作の価値は前作「ピッチブラック」がそうであったように数多ある本家取り以下には貶められない。それはたとえば「刑事コロンボ」と「古畑任三郎」の関係に似ている。過去の名作に敬意を払い、自分なりの方法論で同テーマに挑む際に、問われるのは志の高さだ。そしてデヴィッド・トゥーヒーにはその「志」ってヤツがある。売れ線だから焼き直すのではなくて、自分がオリジナルを強く愛しているからこその挑戦なのだ。尚、断るまでもないが、此処らあたりは全て僕の妄想である。
本作の瑕瑾は、観客側の視点であるヒロイン達を支えている「この艦は呪われている」という部分が余りにスマートではない処くらいか。此処は確かにちょっと違和感を憶えた。尤も、それこそがドゥーヒーがB級ムービーの監督足り得る所以なのかもしれない。幽霊話そのものはそれが物語の大前提なので何ら問題ない(しかも、本作の霊の描き方は中川信夫的怪談テイストな、恐怖におののいた者が勝手に自爆するパターンで、其処は艦内の酸素濃度が薄くなった為に幻覚を視たのかも、という説明さえつける事が可能だ。さすがにタイガーシャークが帰巣本能の如く「現場」へ戻るくだりは超常現象に帰結せざるを得ないけど、これまた中川テイストな因果応報譚とも云える)。更に事件の真相に到る謎解きは緻密でロジカルできちんと一級のミステリーになっていて(ベニー・グッドマンの「Sing,Sing,Sing」!)、そこで得られる痛快さはある種、「アザーズ」のあの感動にも通じる。
かてて加えて、善悪分け隔てなく人物造形に愛がこもっているのもいい。
一見脳味噌筋肉質の典型的ヤンキーのようでいて実は…のルーミス(ホルト・マッキャラニー)はどうだ。チューイングガムの代わりの如きヨーヨー、つまみ食いのオイル・サーディンと小道具もスナップが効いている。折り重なる死体の中で気が抜けたように靴を磨くブライス(ブルース・グリーンウッド)の変貌振りと、靴磨きという伏線そのものにしてやられる爽快さ。
この映画はそんな観客知の驚きと喜びに満ちている。
て、もうベタ褒めですね。
銀幕芸人マイケル・ムーア
2002/3/8(Sa)その1
一日中、小雨が降ったりやんだり傘が手放せないイヤな空模様。
妻子のいるいないに拘らず、この週末もマイペースに福岡映画行。
あまりの前評判の高さ故、初回を観とかないとこないだの「刑務所の中(2002・日)」の二の前になるぞと、まずは「ボウリング・フォー・コロンバイン BOWLING FOR COLUMBINE (2002・カナダ米)」。映画の日でもなく、しかも初回なのに客の入りは8割強。ある意味、昨今の反米気運を一気に背負ったような映画だから、日頃映画を観ない客も捲き込んで動員しているのかもしれない。何しろ、時の人ブッシュJr.も出ているし(て、ニュース映像だけどな)。
「電波芸人」という多少古めかしい、TVタレントを揶揄した言葉があるが、マイケル・ムーアは「銀幕芸人」である。このひとは「ジャーナリスト」というよりも「芸人」と呼びたい。尤も「芸人」を蔑称で使っているつもりは毛頭なくて、たとえば「独裁者」を自作自演したチャーリー・チャップリンの振舞いこそ「芸人」の「芸」そのものだと思っている。蛇足になるが、あの高名な反戦映画に、後にPTAから「食べ物を粗末にして」と目の敵にされるドリフターズのパイ投げのオリジナルが含まれるのは皮肉という他ない。しかも本編を観れば分かるが、くだんのシーンはユダヤ人ネタの延長線上にあるのだ。「笑い」とは、かくもギリギリの処でこそ成立する。
アメリカという国の美点のひとつは、自己批判性というか、強大な権力を批判ないし非難するそれらの表現・行為の自由を「資本主義に抵触しない限り」許すだけの懐の深さにある。人種や性別に関するタブーについても、基本的に「自虐ネタであれば」エンターテインメントとして受け入れられる。そして米国民であり、且つ自身がNRAの生涯会員でもあるマイケル・ムーアにも、この自虐ネタの法則があてはまる。この映画が合衆国を含む全世界で受け入れられた理由のひとつは、間違いなく本作がエンターテインメントに徹している事にある。マイケル・ムーアは決して銃問題と敵対する側にあるのではなく、その内側に棲んでいるひとなのだ。この映画の面白さの幾ばくかはその彼が自らの腹を切り開いて患部を蝶々結びにして見せている面白さなのだとも云える。ひとつ云えるのは、この面白さを成立させるには、「芸人」自身にそれ相当の覚悟が要る。その覚悟如何で「芸人」の価値が決まると云っても過言ではない。
芸人としてのチャールトン・ヘストンの価値は、ティム・バートン版「猿の惑星(2001・米)」で、猿にまで扮装して人間の発明した武器のおそろしさを訴えた事だろうか。「フォルテ TOWN & COUNTRY (2001・米)」では、銃を振り回すサイコ親父ミスター・クレイボーンを演じて全米にライフルの恐ろしさを改めて知らしめるのに貢献したし。ただ彼の自己批判が「そこまでの人」なのは(というか、あのひとアルツハイマーなので、果たして何処まで理解してこの2作品のオファーを受けたかはギモンである)、本作を観ればよーく分かる。
この映画が教えてくれるのは、人は信念(己が信じた正義)に従って生きる時、他人の諫言は耳に入らないという事。残念だが人は正論に論駁されて改心したりしない。義に生きる限り、相対化された善悪など屁の突っ張りにもならない。「どうやらこれ以上話しても無駄なようだ」で席を立ってしまうのを、僕らはどんな手を使っても制止出来ないのだ。そしてまたブッシュJr.も正義のひとである。彼もまた己が信念に突き動かされて行動している。信念の背景に中東の石油の利権やらイスラエルやらがある事は、少なくとも彼がマイクの前に立つ時、これっぽっちも脳裏にはよぎらない。
言葉にするのもシャクだけれど、やがて始まるイラク侵攻(大体「武力行使」って何だよ)を止めるのは、譬えて云うなら「どうやらこれ以上話しても無駄なようだ」と席を立つブッシュを呼び止めるようなものだ。世界中で沸き起こっている反戦運動も、沢山の人々の呼びかけ自体が彼の足を止める事は決してない。けれど、それでも反戦(反銃)という立場表明は、その行為は無意味ではない。マイケル・ムーアがアポなし取材をして、映画を撮る事には重要な意味がある。ただそれは、苗木に水をやり、森を育てるような途方もない持久力を伴う行為なのだ。だから冷めてはいけない、あきらめてはいけない。僕らは僕らの出来る事を出来る限り続けていくしかない。それはもうひとつの「戦争」、終わりの見えない「戦争」である。気負いすぎた余り、ゆめゆめスーパーマンなど目指さないように、他人の中にスーパーマンなど求めないように。
それにしてもカナダの銃保有率と事件発生率の因果関係は気になるなあ。
マイケル・ムーアにイチ銀幕芸人としての続報を期待する。
などと、とりとめのない事を考えつつ、次までの繋ぎにギガ天神に移動。
人だかりが出来ているので何かと思えば、藤井尚之がインストアライヴをやっていた。藤井弟のサキソフォンの生音を聴き乍ら、長妹の携帯に電話すると、姉妹して丁度天神コアの8階「卵と私」で遅昼を食べているというので(隣のビルだ)合流して一緒にオムライスを食べる。
歯医者を予約しているという次妹と別れて、長妹を連れて、彼女たちに渡すホワイトデー用のケーキ(に決めていた)探し。三越地階のホワイトデー特設会場の中から「実りの季(とき)」でケーキを2種類選ぶ。味は知らんが、見た目がかわいらしいのは確かだ。
そう云えば最寄の書店で、悠都の写真が掲載されている「はっぴーママ福岡」の最新号を探して、くだんのページを探すが、当の悠都は僕の親指程の大きさだった。わざわざ大橋まで写真撮影に行った割には贅沢な使い方だな、おい。それでもふたりの叔母はぶつぶつ云い乍ら、頼んでもいないのに甥っ子のちっちゃい写真が載った雑誌を買っていったね。
職場の義理と掟で選挙演説を聞きに行く長妹と別れて、歯の治療を終えた次妹を再び呼び出す。
この項、続く。
活劇芸人ジェームズ・ボンド
2002/3/8(Sa)その2
地下街で次妹と待ち合わせてからタイムテーブルの都合でAMCキャナルシティ13に移動する。
「戦場のピアニスト THE PIANIST (2002・ポーランド仏)」が観たいと渋る彼女にあーだこーだと因果を含めて「007/ダイ・アナザー・デイ DIE ANOTHER DAY (2002・英米)」。さすがは初日、最初はスカスカだった客席も映画が始まる頃にはほぼ満席となる。
元々007シリーズは敬遠の対象だったのだが、前作「ワールド・イズ・ノット・イナフ(1999)」で、そのばかばかしいまでのおめでたさ(大風呂敷広げ)振りと娯楽に徹するその姿勢にいきなりシビレてしまった。強いて譬えれば牛追い祭を観に行くようなものなのである。ピアース・ブロスナンになってからのMがジュディ・デンチなのもいいし、劇中で行われたQ(デズモンド・リューウェリン)の引退は後継者Rとして僕らのジョン・クリースの登板を召喚した(お約束だけどバーチャル訓練ネタ、大好きでした)。次回作あたりで秘密兵器の説明をし乍らシリー・ウォークか魚ダンスをやるんじゃないかと僕は睨んでいる。と思って調べたら、元々Qに引退の予定は無く、本作からQ&Rでコンビを組む予定だったらしい(デズモンド・リューウェリンは前作撮影後、不慮の交通事故で亡くなっている)。もしかすると007シリーズには神様が味方についているのかもしれない。但し、うんと不謹慎な神様が。
今回、金総書記が怒った云々はともかく、幾ら何でもかの国の扱いが華やかすぎ(しかも、また人工衛星にレーザー光線かよ、とこれは喜んで罵っている)。これは有事立法の是非にからんで巷でどう云われようが作品自体の出来としては去年の邦画の中でも収穫だった「宣戦布告(2002・日)」においても同様で、北朝鮮は夏木マリをその象徴にハイテクで、常に日本よりも先手を打ち、戦術に長けていて…みたいな底知れぬ敵であり乍ら結構スタイリッシュに描かれている。
かの国が底知れぬのはともかく、あの潤沢なカネ回りはない。断じてない。現実にはローテクの極北、経済状態は青息吐息で、身体中にダイナマイトをくくりつけてライターを握り締めているような水際外交でかろうじて自我を支えている国に、あんなカネにモノを云わせるような戦術は取りようがない。確かに「窮鼠猫を噛む」的な凄みは感じさせるけど、それだけじゃ「圧倒的な敵」描写が出来なくて、映画として絵にならないからなあ。
ひょっとして金総書記、この(製作側が意図しなかった)壮大なる厭味にこそ激昂したんじゃあるまいか。そりゃ怪しいハングルを始めとする敵役の似非コリアン振りも充分腹立たしかったと思うが、ハリウッド映画の非欧米圏描写の無理解・無神経振りは今に始まった事じゃない。仮に無い資金を捻出して「プルガサリ2」を撮るのなら(是非、撮ってくれ)グレートブリテン経由NY島来襲篇になるに相違ない。案外、山田洋次に打診来たりして。やっぱりそういうのは中野昭慶さんじゃなきゃ無理でしょう。いや、今ならイキのいい若手監督が沢山名乗りをあげますぜ(などと妄想はとめどなく続く)。
処でリー・タマホリの監督作品というと「スパイダー ALONG CAME A SPIDER (2001)(モーガン・フリーマン演じる犯罪心理捜査官アレックス・クロスシリーズの2作目である)」くらいしか観た事がないのだが、よくよく思い出すと裏切り者フーダニット映画という事では「ダイ・アナザー・デイ」と共通していたり、というかネタ的にもかなりかぶっている気が。監督本人がそれと気付かぬ間にその作劇(というか物語の展開)は繰り返す。全くの余談だが、このひとはかつて「戦場のメリークリスマス(1983)」で第一助監を務めた事がある。いやにルサンチマンにまみれたひとだと思いきや、こんな処にも大島の亡霊が。
次妹ともどもその腹がよじれるくらいのバカ全開(冒頭の北朝鮮サーフィン上陸作戦が後半の危機脱出の伏線になっているなどと誰が想像しえよう)とバカ迫力に充分満腹してから、博多駅方面で遅めの夕食をとった後、百道まで取って返して長妹を拾ってから、送りがてら姪浜の次妹のアパートへ。
車中、長妹が「同僚に何だかんだ云っても仲良し兄妹なんだね」と云われた話を披露したので、次妹とその「何だかんだ云っても」ってのは何を云っているんだと小一時間程問い詰める。何処でどんな風に扱われているか分かったもんじゃない。て、そりゃお互いさまか。
ほんの少し休むだけのつもりで次妹の部屋にあがったのだが(ホントウか?)、ホワイトデー用に妹たちへ渡したばかりの「実りの季(とき)」のケーキ各種の試食大会をやり(おいおい)、そのまま東京ヴォードビルショー「アパッチ砦の攻防(決定版)」鑑賞会へ突入した頃は既に23時を廻っていた。当然爆笑のうちにビデオが終わり、「泊まってってもいいよ」という申し出をありがたく辞退して北九州に帰り着いたのが午前3時。
さすがに風呂にも入らず、ふとんへもぐりこむ。
ハロー、ダークネス
2002/3/9(Su)
起きたら迂闊にも昼前であった。
悠都に叩き起こされる事のない、ゆるゆるとした寝覚め。
昨日と打って変わって晴天だったが(そう云えば次妹は天気が悪そうだからと今日友達と予定してたドライブを中止したんじゃなかったっけか?)、何だか億劫で(単なる寝不足)暫くは「アパッチ砦の攻防(決定版)」のビデオを見直したり、風呂に入ったりとだらだらと過ごすが、こんな事じゃあいかんと一念発起し、中間に「ダークネス DARKNESS (2002・スペイン)」を観に行く。て、こればっかりです。
これまた金曜日N嶋さんに、ホラーは好きで滅多に怖がらない私が結構怖かった、という惹句に惹かれ、観るのを決意した作品。本作の監督ジャウマ・バラゲロのデビュー作「ネイムレス/無名恐怖 (1999・スペイン)」は観損ねていたので、多少「出遅れた」という焦りもあった。後々ずっと付き合っていくようになる監督であれば、とっとと出逢っておかなければ損である。
ホラー映画のテクのひとつは、観客の目線たる主人公にとって本来頼みの綱であるべき人物を「不条理なまでに」無理解なキャラに仕立てて、観客までも主人公の目線で苛々させる事だ(脱線気味の譬えで恐縮だが「8時だョ!全員集合」の探検物や怪談物で志村けんだけがお化けなり何なりを目撃するが、それを報告してもリーダーであるいかりや長介が全然取り合ってくれない、というアレである。客席の子供が志村と一緒にいかりやの無理解を責める黄色い声は全て計算されて其処にあった)。観客の精神に安寧を与えないのはホラー映画に不可欠な要素なのである。
この映画では、その役をレジーナ(アンナ・パキン)の母であるメアリー(レナ・オリン。登場からヤバ気な空気を醸し出している)が一手に引き受ける。このひとはとにかく取り合わない。夫の神経症発作で手痛い過去があり乍ら、娘がどんなに父の不審を説いても一切受け入れない。実際に夫が錯乱して騒ぎを起こして尚、娘の諫言を「あなたは私たちのしあわせが妬ましいのよ」などとよく分からない罵倒を投げつけるばかりだ。この異常なまでの頑迷さの説明は一切ない(強いて云えば、あるモノが発する悪魔的パワーってヤツですか)。賢明なる観客諸氏はただアンナ・パキンと共に、胸を掻き毟られつつも愚昧な母親の為に手をこまねいて運命の刻(とき)を待つ他ない。
映画自体はハウスものの一ヴァリエーションで、子供を使っている処がキモかな。
ただ本作の本当の怖さは、皆既日蝕が訪れ、闇が家を支配してからの「何でもあり」度数の高さに他ならない。ロジックが崩れ、闇の中で結束しあうべき家族も友も、誰が本物で誰が影なのか、観客側にも全く見当がつかない。時間軸がねじれ、母親もカルロスもドッペルゲンガーが跋扈する無法地帯の前に、観客は整合性を打ち立てる機会を与えてもらえない。デビット・リンチの怪作「マルホランド・ドライブ(2001・米仏)」が物語の後半、唐突にそれまでの整合性が音を立てて崩れ、各キャラが前半とは違う姿で暴走を始めるが、あの時の恐怖に似ているかもしれない。物語は見る間に決壊して、あっという間に闇(悪魔)が世界を圧し潰してあっけなく終わる、これはそういう映画だ。本作にスプラッタへ移行する前の70年代のホラーテイストを感じるのは、僕だけか。
アンナ・パキン(水泳部)が何をするでもなく、チラリズムのエロシズムを醸しているのもホラー映画の定石。
そもそもエロスに限らず、見せ場をチラリズムの積み重ねで旨く構築出来ているのが、極上のホラー映画の条件だと思うのだが、そういう意味では及第点。ただ慾を云えば、ラストは「え? …うわァ」じゃなくて、いきなり「うわァ」と来て欲しかった。実際僕の周りでもあっけに取られた客は多かったし。
祖父アルベルトを演じたジャンカルロ・ジャンニーニ(「CQ(2001・米)」の敏腕プロデューサー役)が個人的には買い。孫娘の家族への強い愛を知って、彼女を解放する、悪魔への魂の売りっ振りは見事。ただ、これを孫娘の愛の力に感動した、と誤読した観客も少なからずいる気がする。
池澤夏樹(文)/本橋成一(写真)「イラクの小さな橋を渡って」(光文社)を買う。
出た時から欲しかったが、購入留保していたもの。ダイエーで買出しして給油したらもう20時。
カゾリンはリットル当たり5円ほど高騰している。これも皆んなブッシュJr.のせいだ。
夜は久々にIRCで瀬戸口くんとチャットして、はるさん札幌拉致事件を知る。
イラクの小さな橋を渡って
2002/3/11(Tu)
「はるさん札幌拉致事件」のその後については、彼のマブダチである英ちゃんにメールで消息を訊ねた処、少なくとも2月末現在の時点で東京の自宅に戻っている事を確認、はるさんが決して道民になった訳ではないのを知って安心する。
それにしても暫く皆んなと逢っていないなあ。
池澤夏樹(文)/本橋成一(写真)「イラクの小さな橋を渡って」(光文社)読了。
日曜お昼の「ジェネジャン!」で戦争と平和について若い人を集めて討論大会みたいな事をやっていたのだが、其処での或る女子高生と堂本光一の以下のような会話が印象的だった。
「え、戦争ってもう終わったんじゃないの? だって終戦記念日ってあっじゃん」
「それは第二次世界大戦の話だろ。それからも世界中で戦争は起き続けているんだよ」
「えー、じゃ平和だったの日本だけって事じゃん」
その後、彼女はスタジオ中から「んな事云ってるキミがいちばん平和なんだよ」と突っ込まれていたが、僕の友人にも大学時代に原爆記念日が何の日かも、そもそも原爆が日本に落ちた事すら知らない子がいた。それを非常識と片付けるのは容易いが、確実にこの国でも(肌身に感じて、という意味でなく)「戦争を知らない」若い世代が生産されている事だけは認識していた方がいいし、戦後教育の限界を思い知る必要がある。
池澤さんの文章は平易だし、テキスト量も敬遠する程沢山ではないし、「ナージャの村」を監督した本橋成一の撮った写真はどれも美しいし、まずは写真を眺めるだけでもいい。そしてイラクで暮らす人々の人懐こさ、瞳の美しさ、町並みに流れる空気のあたたかさを感じられたら、次に彼らの上に爆弾が落ちるとはどういう事かを想像してみて欲しい。
前回の戦争でアフガニスタンに降り注いだ「誤爆」という名の、あたかも「事故」ででもあるかのような報道のひとつひとつが、無数の民間人を殺傷した「戦争犯罪」である事だけは忘れてはならないし、「武力行使」と云い回しはソフトでも、彼らがやろうとしている事は、この本の写真に載った人々の人生を少なからず狂わせていく事だけは、少し想像力を働かせれば小学生でも分かる。この戦争はイラクの名もなき家族たちを散り散りに死に別れ、生き別れさせ、生き残ってからもいつ果てるとも知れない生きていく為の戦いしか与えてはくれない。この写真の中で浮かべている彼らの笑顔がそう安々と取り戻せるとは思えないし、そんな事はブッシュJr.の手には決して負えない大仕事だ。
僕らには決して戦争を押しとどめる事は出来ないけれど、「武力行使」が始まった時に何が起きているかだけは想像出来る。9・11のテロそれ自体は断じて許してはならないが、かの出来事はあくまでそれまでの「武力行使」の帰結なのだ。武力で憎しみを根絶やしに出来ない事くらい、どうして世界を動かす程の大役を負かされた大人たちに分別がつかないのか。
これが日本が追従しようとしている「武力行使」とやらである。
北朝鮮の脅威への後ろ盾が背景にあるとは云え、僕らは国をあげてイラク国民が災禍に遭う事を奨励しようとしている。
この国に果たしてそこまでの想像力と覚悟があるのか。
この本は少なくともその一助になれると思う。彼らもまた愛すべき隣人に他ならない。
月イチ徹夜の法則
2002/3/14(Fr)
昨日は障害対応の為に8人がかりで完全徹夜して帰宅が朝の8時過ぎた上に、しかも障害原因が特定出来ていなかった為、3時間ほど寝てから昼から出社して対応した挙句、結局原因は不明のままという何とも後味の悪い顛末となった。…ううむ。
処で正月明けてからこっち、毎月ほぼ1回の割合で完全徹夜が発生している。それぞれの障害の間には一切因果関係はないのだが、これだけ定期便のように続いてくれると、何だか呪われてるんじゃないかと思いたくもなる。
19時過ぎ退社。
妻へのホワイトデーの準備がまだだったので、この冬最后の灯油を買った後、「シェ・マツオ」でフルーツ・ロールと書店で野地秩嘉「スイス銀行体験記」(ダイヤモンド社)を購入して帰宅。ネタがない時に書籍ネタに逃げてしまうのは誠に申し訳ないが、とりあえず妻の琴線に触れるチョイスだったようで一安心。
さすがに今夜のレイトショウは断念する。ばたんきゅー。
抱擁、そして卒業
2002/3/15(Sa)
キャナルシティにて、福岡では此処でしか公開していない作品のハシゴをする。
最初はグウィネス・パルトロウ主演の「抱擁 POSSESSION (2001・米)」。
監督は「ベティ・サイズモア NURSE BETTY (2000・米)」の未見も手痛いニール・ラビュート。
本作を観て、その後悔が増した。それくらいには皆さんにオススメしたい文芸ラブサスペンス大河。
これは原作(A.S.バイアット)のせいでもあるんだろうけど、物語の骨格が非常に宮本輝的だと、宮本ファンなら思うんじゃないか(僕は思った)。19世紀ヴィクトリア王朝の頃を生きた、英文学史に残る(勿論、作中の偽史ですよ)有名詩人ランドルフ・ヘンリー・アッシュ(ジェレミー・ノーザム)と女流詩人クリスタベル・ラモット(ジェニファー・エール)のスキャンダラスな秘めたる恋の顛末を、それぞれの詩人の研究者ふたり(アーロン・エッカート、グウィネス・パルトロウ)が(ヒロインは女流詩人の子孫でもある)辿る旅を通して、100年隔てたふたつの恋の行方と、100年前の恋の秘密を暴く、ミステリー仕立てのラブロマンス…とストーリーの概略を追っただけで、ほら、宮本テイストでしょ。加えてふたりの詩人の遺した作品を含め、英文学偽史のディテール構築が芸術の域に達しているが故に漂う格調の高さと、二組の主人公の運命に呑み込まれていくさまがまた宮本文学と通底するというか。
物語後半のファーガス・ウルフ教授(トビー・スティーヴンス。「007/ダイ・アナザー・デイ」の将軍の息子、変身後の彼に続いてのヒール登板。日本でいうと寺島進系のエッジの効いた表情をしています)とアッシュ蒐集家(トレヴァー・イヴ)の墓荒しにまで発展する、ラモットの手紙攻防を巡る、ちょっと「通俗的」な部分も含めて、きわめて宮本的だと思うんだが、どうだろうか。
心ある宮本ファンは本作がビデオになったあかつきには、是非共観るべし。
グウィネス・パルトロウというひとは、鼻が大きくてキツ目の顔立ちなのだが(ありていに云うと「美人」ではないと思う)、映画の中の彼女は、研究者からただの恋する女として、自分の殻を一枚一枚剥ぎ取る度に、油断しているとアーロン・エッカーより先に彼女に恋しそうになる。この大きい鼻がいい、てな事を云い乍ら(ばか)。いちばんおしまいのアッシュと少女の秘めたる出遭いまで、大切に取っておきたいシーンが満載の良作。
お次は公開作が続く長澤雅彦監督の「卒業(2002・日)」。
監督第一作「ココニイルコト(2001)」は、下町都市としての大阪を、地に足のついた浮遊感とでも形容したい、絶妙なバランス感に打ちのめされたウェルメイドな作品だった為、その後もご贔屓として、続く「ソウル(2002)」「13階段(2003)」とつきあってきた。以上2作はアクション、サスペンスとジャンルは違えど各々手堅い作風に好感が持て、短期間にして安定した水準作(しかも多作)を供給する映画職人にのしあがった感がある。そして本作が「はつ恋(脚本)」「ココニイルコト」と続いた三部作の完結編と位置付けて製作されたラヴストーリーと聞けば見逃す訳にはいかない。いかなかったのだが、だがしかし…。
「卒業」は、長澤初脚本作品「はつ恋(監督:篠原哲雄)」と物語構造が酷似している。この日記でも常々語られる事だが(笑)、作家はどうやら自分の最初に紡いだ物語(或いはテーマ)の変奏曲を奏で続ける宿命にあるらしい。母親(原田美枝子→登場せず)の死をきっかけに、まだ見ぬ父親(真田広之→堤真一)を探し当て訪ねる娘(田中麗奈→内山理名)という基本的骨格、父親は社会的には落ちこぼれたダメ人間なのだが本当はいいヤツで、母親は彼のよき理解者で、娘との出会いをきっかけに次のステージに踏み出す事が出来る。更には長い空白を抱えた父娘の疑似恋愛(を観客に想起/期待させる)、などなど。
で、本作では観客と娘の側には思い切り明らかになっている「父娘」という謎を、父親にだけ最后まで明かさないという、或る意味ハードボイルドな手法をとる。観客の側は突っ張らかっていた麻美(内山理名)が真山(堤真一)に真相を告白する、或いは別のルートから真山に真相が伝わってしまうのを今か今かと待ちわびるが、長澤はストイックなまでに寸止めに終始する。観客はあーじれったいと身をよじりつつも、ま、こんなチャンドラー張りのダンディズムもありかな、と承服はさせられる。父娘が名乗りをあげて、ひしと抱き合うなんて、粋じゃないものね。
でも云わせてもらえば、この映画もまだ粋じゃない。
描かれるべきストイシズムやダンディズムが、結局チラリズムに堕ちていて、計算が見え見えなのだ。
アリキリの石井扮する無口なバーテンも、谷啓扮する散歩の老人も、物語としての意図はスケスケなのだが、そのおさまりが悪過ぎて、狙いまでは観客に届くものの、何だか意図が物語のスパイスとして結実していないぶん、無粋が際立つというか…おお、今回は酷評しているなあ。
堤真一の(物語前半では観客の感情移入を許さないまでの)ダメ男っ振りも、元来苦手な内山理名の突っかかり振りも本作では好感が持てたし、映画自体は僕の好きなテイストなので、これはひとえに監督の多作がまねいた作劇の詰めの甘さと製作環境の劣悪さに起因するものなのかと、邪推してみるテスト。あ、この映画の夏川結衣はとてもいいです。この監督は妙齢の女性を可愛くけなげに撮るスキルに本当、長けていますね。
あ、これだけは云っとかなきゃ。告白なきまま、思い出の公園で別れるラストシーンの美しさやよし。
此処での内山の表情と降りしきる雪のあたたかさに立ち会えただけでも本作に付き合ってきた甲斐があるというもの。
これまでさんざん勿体振った挙句に手に入れたダンディズムというヤツが、この絵づくりを以って報われるのだな、うん。
ゴールデンタイム開戦
2002/3/20(Th)
午前中の会議から帰って来ると、開戦していた。
前回の湾岸戦争の時と同様、米国は自国時間で、夕食後から就寝にかけて皆がリビングでくつろぐ時間を見計らって開戦した。所謂ゴールデンタイムに大統領演説をぶつければ、最大公約数的に自国民に優しいアナウンスにはなる。その理屈は分からなくもないが、プレッツェル片手にテレビを観る米国民と開戦されたイラク国民との落差を思う。
尤もそんな僕にしてから、お昼の弁当をせっせと開く訳で。
別に夜通しニュースに齧りつくつもりもないので、レイトショウで「タキシード THE TUXEDO (2002・米)」を観る。
成龍映画でアクションシーンにVFXを初導入したと聞けば、何だか時代の趨勢を感じなくもないが、別にジャッキーがついに楽を始めたという訳ではなく、肉体酷使のアクションは健在のまま、アイテムとしての「タキシード」を活かすがためのVFXなので、スピルバーグがジャッキーに本作を打診したのも娯楽映画のプロデューサーとしての冷徹な計算が其処にある。
処で主演とは云え、アジア人であるジャッキーの設定には「シャンハイ・ヌーン」に引続き、相変わらず首をひねりたくなるけれども(謎解きにしてから彼の「中国訛り」がカギだ)、それはハリウッドを足がかりに世界を目指すものの宿命だから仕方がない。しかし、冒頭の幸福のあごひげは何とかならないか。
それよりまさか物語のエンディングで「八木田さんの恋」の遠隔ギャグに出くわすとは(三谷さん、鼻たーかだか)。
しかも映画ならではな、無駄に大きいスケール感、秘密組織CSAスタッフ総力戦(重機持出し有)で、主人公ジミー・トンが画廊の女性をデートに誘うのを手伝うという余りにもバカバカしいシチュエーション。
本作の面白さはこのワンシチュエーションに尽きると云ってもいい。
此処で活躍する、ジャッキーの主人であるクラーク・デブリン(ジェイソン・アイザックス)の無邪気な善良さと、ジャッキーとのざっくばらんな主従関係は小気味良いのだが、不意にはたと先のアジア人問題に収斂していく。たく、米国人ってヤツにはさらさら悪気がないのである。
余談だが、本作のヒロインであるジェニファー・ラヴ・ヒューイット、ちょっと痩せすぎてない?
コメディエンヌとしての熱演振りは買いますが、僕には今ひとつのセックスアピールでした。
恋善の麻婆豆腐
2002/3/21(Fr)
春分の日にして、3連休初日。
連休中、映画も1本くらいは観とくかと、朝から中間に行く。
「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン CATCH ME IF YOU CAN (2002・米)」。
スピルバークの前作「マイノリティー・リポート(2002・米)」は最終日に駆け込んだが、今度は公開初日の朝イチである。しかし原題カタカナ化タイトルは憶えにくいのでキライである(だからと云って「博士の異常な愛情」みたいに直訳誤訳で寿限無なタイトルばかりになってもそれはそれで困ったものだが)。
僕の記憶では「リバー・ランズ・スルーイット(1992・米)」あたりが、そういった原題カタカナ化タイトルの走りだと思うのだけど、知っているひとがいたら教えてください。
「マイノリティ・リポート」の感想の折、本作への期待を縷々書き綴った記憶があるが、良く出来た映画であった。少なくとも、140分という長さにもだれずに映画が終わってしまうのは、娯楽映画として力のある証左である。巷では、撮影期間の短さ(56日)を神業のように褒め称えているが、邦画では撮影期間が1ヶ月を切る事すら珍しくないので(むしろ56日も撮影期間が取れる映画が、これまで日本に何本あったかを数える方が早い)、そこはハリウッドでもやれば出来るんじゃんくらいにしか思わない。実際、拙速ではなく良質な仕上がりになっていたし。
テンポ由(よし)、OPのアニメ(タイトル:カンツェル+ディガス)と巨匠ジョン・ウィリアムスらしからぬコンテンポラリージャズな音楽がまた由(よし)。回想形式が効果的だったかどうかはともかく、主演のふたりも文句のない弾けっ振りだった。特にFB捜査官ハンラティを演じたトム・ハンクスの、宮仕えの悲哀と追跡者の情熱をブレンドした銭形イズムを極めた佇まいはどうだ。クリスマスの晩に話し相手がいなくて電話をかけてきたフランクの孤独を喝破し、荒涼としたオフィスでたったひとり痛快そうに声をあげて笑うさまの意地悪さと優しさと共犯者意識のないまぜになった空気を出せるのは、もはや彼しかいまい。
難癖を承知で不平を云えば、物語が少しウェットに過ぎた事。
僕はドライなスクリューボール・コメディを期待していたので、クリストファー・ウォーケン演じる父の「武士は食わねど高楊枝」的な浪花節や、仏女優ナタリー・バイが演じた母親の幸福な再婚家庭を窓越しに見乍ら捕縛されるフランクなんて、僕は観たくなかった。薄っぺらだと謗られてもいいから、もっともっとスマートな物語でも良かったんじゃないか。ちょっと拗ねてて、淋しがり屋で素顔が素直なんて、それじゃ「理由なき反抗」のジェームス・ディーンだよ。非常にスピルバーグらしいと云えば、らしんだけどね。
…以上、単なる云いがかりでした。
夕方思い立って、夕食は先日会社のHさんがイチ押ししていた「中華料理 恋善」(小倉北区黄金)にする。
17時半に行って、席についたと同時に満席になる。入り口付近の行列を見て、改めて人気店の威力を知る。
Hさんから薦められた「独特ラーメン(570円)」に加えて、此処はチャーハンや一品料理も旨い店と聞いていたので、カニ肉入りチャーハン、酢豚、麻婆豆腐、胡麻団子、それにネットで手に入れたサービス券利用の焼き餃子と頼む。独特ラーメンはあっさり系の高山ラーメンみたいな感じで、僕の胸にはそこまで響かなかったが、焼き餃子のオーソドックスな旨さに始まって、酢豚の肉のさくさく感にめまいを覚え、チャーハンの噂に違わぬ美味加減に思わずわななく。
でも本当に真を打つべきは此処の麻婆豆腐であった。
こいつこそ「独特」麻婆豆腐とネーミングさせていただきたい程の逸品である。
見た目から違う。色は僕らが思い描く麻婆豆腐の辛そうな赤というよりは、子供の頃食卓に出たハヤシライスのルーのようなまったりした赤みがかった明るいブラウンで、コーンとマッシュルームのスライスが入っている処がただならぬ殺気すら感じさせる。加えて特筆すべきは主役たる豆腐で、賽の目切りになっておらず、薄く板状に切られた焼き豆腐(!)が4枚、たれの上にでーんと鎮座ましましている。
すこぶる素朴にして正攻法な酢豚の滋味を堪能した直後だったので、そのB級グルメ感漂わせるアヴァンギャルドな一皿に思わず腰が引きかけたのだが、口に入れるとこれが旨いのである。当初は明るいブラウンの色に違わぬまったりとした味が舌に広がったあと、クセになる辛さがじわじわ攻めて来る。その感触がたまらなく、いい。加えて焼き豆腐が表に出て往来に発表したくなるくらい旨いのだ。隣のテーブルでは麻婆丼を頼んでいて、そちらの豆腐は賽の目切り(≠焼き豆腐)だったので、この僥倖は麻婆豆腐単体でなければ味わえないらしい。
さすがに胡麻団子までは手が廻らず持ち帰りにして包んでもらう。アラカルトで頼んで5000円弱、お腹に入りきれなかった胡麻団子を差し引くとほぼ4000円くらい、3人家族にはお手頃なお値段と云えよう。
近いうちに機会を見つけてまた来るべし。家族3人誓いも新たに帰途に着いたのだった。
天本英世氏通夜参列記
2002/3/24(Mo)
昨夜、アサヒコムで天本さんの訃報記事を目にした時、北九州で亡くなったのは神様のお導きかも、と真剣に思った。
何しろ、通夜・葬儀告別式会場である「カトリック若松教会」は若戸大橋を渡って車で数分、全行程でも会社を出て10分そこそこの場所にある。さすがに明日の正午に予定されている告別式は無理でも、19時からの通夜なら、会社を早めに退ければ全然射程距離の範疇である。朝、妻に「通夜に参列するかも」と黒いスーツに合うグレイのカッターにアイロンをかけてもらって出社した。
18時半に退社後、ベスト電器で、都合一ヶ月半待たされた種ともこ「in」を購入後、若戸大橋を越えて、国道沿いの書店の駐車してから、紫雲閣の「天本家」の看板をたよりに、結局開始10分程前には教会に辿り着いた。
意外に閑散とした受付脇には「ペトロ 天本英世儀 通夜会場」の立て看板。
そうか、天本さんの洗礼名はペトロというのか。
駄目元で記帳だけでもと、おそるおそる受付で「一般のファンなんですが、参列させてもらっても構いませんか」と訊ねた処、「どうぞどうぞ」と快諾いただき、おっかなびっくり一般受付にて記帳を済ませ(此処で香典を用意してこなかった事を激しく後悔する)、建物内に入ると通夜会場に続く短い廊下には「原田芳雄」「本田博太郎」「ミッキーカーチス」他沢山の、天本さんと共に現在の日本映画を支えるいぶし銀の役者たちの花輪で溢れ返っていた。
会場入り口で通夜を取り仕切っている紫雲閣のスタッフから「通夜・葬儀・告別式ミサのしおり」を受け取り、会場後ろに臨時で並べられたパイプ椅子の列のいちばん後ろ、新聞社やテレビ局といった報道関係者が総勢10名前後忙しそうに立ち働いている脇へ控えめに着席する。
参列者は意外な程少なく、親族が10名くらいに僕のような一般参列者を合わせても全員で50余名といった処で、建ってまだ間もないのか真新しく静謐な会場の半分近くが空席で、パイプ椅子の列はいっそ不要であった。僕の隣に座っているご夫婦は非ファン系一般参列者らしく、何だか居心地悪そうにしている。
ちなみにあきらかに天本ファンと分かるひとは僕以外には一人だけ。ジーパン姿でおどおどといちばん後ろのパイプ椅子に着席したのですぐ分かった。僕とてスーツ姿ぶんだけ堂々と振舞っていたものの、圧倒的なファン参列者の少なさに、心細かったのは確かだ。尤も、これだけ参列者の母数自体が少ないと却って故人のためにも賑やかしに過ぎなくても来たのは正解だったとも思ったり。いかにも孤高な天本さんらしいと云えば、そうなのだけど。
さすがに参列者は地元の人々ばかりのようだったが、祭壇に頭を向けた棺の両脇に、各界著名人の花が、森をなしていた。
僕が憶えているだけでも「北野武」「森田一義」「岡本喜八」「円谷一夫」「坂東玉三郎」「熊川哲也」「真田広之」「和田誠」と文字通り、錚々たる面々。円谷プロ関連では、廊下には「円谷粲」の名前もあったけど、新聞報道で冠されていた「死神博士(仮面ライダー系)」の名前は確認出来なかった。全くの余談ですが、黒いレースで顔を覆っているご婦人が並んでいるのを見て、さすがは教会だなあとバカな事を感心したり。
通夜は事前配布されたしおりに則り(儀式進行に際して司会者のセリフまで全て記述してある)厳かに進められた。
僕のようなものが参列者の末席とは云え、共に賛美歌を合唱し、司祭の説教(天本さんのスペインに関する著作を引用されておられた)に耳を傾け、白いカーネーションの献花までさせていただけた。「天本英世」という日本映画と子供番組を豊かにした至宝にして、日本中の少年少女の何人かのその後の人生をも変え得たこの巨人(イコン)を送る50余人分の1人に「選ばれた」事を或る意味、栄誉だとさえ思う。…やはり、神様はおいでになるらしい。
通夜の結びの遺族の挨拶で、葬儀委員長の若い男性が「天本さんは生涯無宗教でしたが、彼の愛してやまないスペインがカトリックだったし、それに天本さんはたいへんにマリア様をお好きでしたので、3日前にこちらの教会の手ほどきで洗礼をお受けになられました」と説明するのを聞いて、天本さんは死の間際に洗礼を受ける事でとうとうスペインと、そしてロルカの詩と添い遂げる事が出来たのもしれないなあなどと思ったり。こんな事口にするべきではないのかもしれないが、ひょっとすると洗礼すら彼一流の「方便」だったのではないか。いずれにしても、余人に天本さんの真意は図れぬ。
続けてマイクに立たれた喪主である天本さんのお姉様は、小柄乍らかくしゃくたる老婦人で声質も、何処か天本さんそのひとに似ていた。マイクの音声が入っていないにも拘らず、型どおりの短い挨拶をされてそうそうに引っ込まれたのもまた天本さんのお姉様らしい。いや、これはファンの勝手な思い込みに過ぎないが。
通夜のあと、「故人と最后のお別れをしたい方は柩の処までおいでください」のアナウンス。
少し逡巡したけれど、結局ひとつ深呼吸してから祭壇へ向かう。
俗世から解き放たれた天本さんの死に顔は、一言で云い表す言葉を持たない。
その顔に長患いによる病やつれは見えなかったものの(天本さんは去年脳梗塞で倒れ、一事回復したもののまた病院でリハビリを続けていた)、口ひげとあごひげとをたくわえ、あたかも本物の仙人と見まごう小さくしぼんだ風貌の何処にも、生前の天本さんの生命力を見出す事は出来なかった。欧州にある殉教者の遺骸のような、幾星霜を経て、遂には現世を超越してしまった顔かたちに、思わず息を呑んでしまった事だけは告白しておく。
亡くなったのはわずか昨日なのに、天本さんは空蝉だけを遺して早くも遥か彼方へと旅立ってしまった。
トレードマークの帽子をつけたままだったのが、僕らに遺していった赤い糸というか唯一のチャンネルというか。
テレビ局のインタビューに応える弔問者を脇目に教会を辞去する。
出口で貰ったブラックコーヒーで、口唇に少しやけどをつくる。滞在時間は正味40分。
これはもう通夜に参列したが故の宿命なのかもしれないけれど、テレビ画面で、銀幕で折りに触れ、天本英世という役者が僕をフラッシュバックする度に、柩の中のあの、この世から失われてしまった天本さんの空蝉を思い出すのだろう。
慥かに斯くあれかし。アーメン。
ほんとうの備忘録
2002/3/31(Mo)
朝から会社関係と友人関係と訃報が2つ(いずれもご本人ではなく親御さん)。
この週末に一気に花開いた、七部咲きの桜の美しさがが何だか暴力的にすら見えてくる。
子供の具合がちょっと悪かったりして、多少ウツが入ってるのかもしれない。
さて今月観た映画は以下の13本。これもオクサマと悠都の内助の功あればこそ。
とは云え、仕事に多忙の暗雲垂れ込める春以降もこんなに順調だとはゆめゆめ思っておりません。
(但し連番は今年に入ってからの通算)
19.「スコルピオンの恋まじない THE CURSE OF THE JADE SCORPION (2001・米)」3/1(Sa)
20.「刑務所の中(2002・日)」3/1(Sa)
21.「ビロウ BELOW (2002・米)」3/7(Fr)
22.「ボウリング・フォー・コロンバイン BOWLING FOR COLUMBINE (2002・カナダ米)」3/8(Sa)
23.「007/ダイ・アナザー・デイ DIE ANOTHER DAY (2002・英米)」3/8(Sa)
24.「ダークネス DARKNESS (2002・西)」3/9(Su)
25.「抱擁 POSSESSION (2001・米)」3/15(Sa)
26.「卒業(2002・日)」3/15(Sa)
27.「タキシード THE TUXEDO (2002・米)」3/20(Th)
28.「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン CATCH ME IF YOU CAN (2002・米)」3/21(Fr)
29.「ラヴァーズ・キス(2002・日)」3/29(Sa)
30.「船を降りたら彼女の島(2002・日)」3/29(Sa)
31.「アカルイミライ(2002・日)」3/29(Sa)
今年に入って読了した本は以下の5冊。
云うても、1冊は漫画コラム系だし薄い本も多いので、相変わらずの月3冊ペースか。
しかも本自身のリーダビリティに助けられての「5冊」。
尤も、面白い本ばかり読んでいる証左とも云える。積ん読多数は云わずもがな。
池澤夏樹(文)/本橋成一(写真)「イラクの小さな橋を渡って」(光文社)
ゆうきまさみ「ゆうきまさみのはてしない物語 〜天の巻」(角川文庫)
吉田音「Bolero 世界でいちばん幸せな屋上」(筑摩書房)
実相時昭雄「ウルトラマンの東京」(ちくま文庫)
吉田篤弘「つむじ風食堂の夜」(筑摩書房)
子供は軽い食あたりだったようだ。妻も胸がムカムカするらしい。
今の処、僕は無事なのだが、ふたりで拾い喰いでもしたんじゃねーの?
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