「命短し、恋せよ乙女」論
2002/4/12(Sa)その2
山崎拓を伴った自称トトロ現知事の選挙演説を横目に、徒歩にて博多駅に移動して、その足で「blue (2001・日)」。
先々週の「ラヴァーズ・キス(2002)」に続く市川実日子主演作。
偶然だとは思うが、「ラヴァーズ・キス」同様、クラスメイトの遠藤(小西真奈美)に恋する女子高生桐島役(映画では彼女たちは互いを苗字の呼び捨てで呼び合う)。ふたりとも実年齢は20代半ば。セーラー服着て誤魔化せるギリギリの線じゃないか。先の竹内結子もそうだが、製作者の側でも、ある女優さんに抱くイメージ(空気感)や解釈なんてのは案外似通ってるものなのかも。そいで、演らせたいタイミングも重なるから、「せーの」で、死に別れの恋人だの、同性に思いを抱く女子高生だの、同んなじようなオファーが押し寄せるんじゃないか。彼女たちに関して云えば、いずれの作品も一定以上の水準作ばかりなので、悪くないキャリアを積んでいるとは思う。
それはそうと市川実日子である。「実日子」と書いて「みかこ」と読む。
これまた強烈な個性の持ち主である市川実和子の2歳違いの妹だが、この姉妹には、ふたりして強い目力(めぢから)がある。桐島かれん・のえる姉妹以来(いずれの姉妹も背高、手足長なモデル体型だし)、いやメジャー度から云えば空前の目力かもしれず。とりわけ妹・実日子の瞳まわりの力強さと来たら、金子國義の描いた少年・少女の放つ眼光にさえ立ち向かえるんじゃないか。加えて、あの凛々しくもすがしい眉根に宿る意志の強さには圧倒されるばかりだ。彼らに男装させて、長野まゆみの小説をドラマ化したら面白そうだなと妄想したり。
「blue」「ラヴァーズ・キス」に共通するのは、彼女の恋愛に対する誠実さの純度の高さだ。口にすると気恥ずかしい「無償の愛」というヤツを、市川実日子はその目力とぶっきらぼうさだけでいともたやすく体現する。遠藤とのキスシーンに官能がない訳じゃないが、生々しさを感じさせないのは、彼女がまだオトナとして出来上がっていないからだろう(これは最高の褒め言葉のつもり)。
これは「コンセント(2001)」で「体当たり演技」した姉の実和子にも感じた事だが、生々しくない、というリアリティは確かにある。たとえば、腕をもいでも、血飛沫の代わりにウレタン屑が出てくるんじゃないか、みたいな。「命短し、恋せよ乙女」の「命短し」とはつまり、少年のような少女のようなこの生々しさのないリアルに、徐々に血肉がついて、性別の不確かなネオテニーの時代と決別して、何処から見ても匂い立つような女性性に落ち着く事ではないかと勝手に解釈している。魔法が解けた、と云ってもいい。
フツウの女になることを選べなかった、永遠の「命短し、恋せよ乙女(別名・フシギちゃん)」というのが、実は戸川純や水森亜土なのではないかと踏んでいる。つまり、おしなべて「命短し、恋せよ乙女」は、ネオテニー限界を超えた分水嶺にて、真っ当だがフツウの女で終わるか、魂の純度は高いけどファム・ファタル(妖怪とか怪物とも云う)と化してしまうかという究極の選択を迫られる訳ですね。で、あっさり魔法が解けてフツウの女に戻ってしまったのが、たとえば相原勇とか、篠原ともえなのではないか(でも、個人のしあわせとしてはやっぱりフツウの女に戻るべきなんだよね)。
という意味において(うわあ、各方面からすっごく叩かれそう…)、市川姉妹は紛れもなく今が旬の「命短し、恋せよ乙女」である。で、本作は今が旬、且つ極上の「命短し、恋せよ乙女」が放つ、人生のある瞬間にしか許されていないチェレンコフ光を目のあたりに出来る映画だと思えばいい(其処には当然、安藤尋監督の作為が介在する)。後の人生で二度と繰り返される事のない美しい青が焼き付けられているからこそ、この映画は観る価値がある。出来れば、これを読んだひとにも目一杯「生々しくないリアル」を堪能していただきたい。
──今回はちと独りよがりが過ぎた(笑)。
そう云えば、この映画、オトナは学校の先生しか出てこない(演じるは、お久しぶりの河原崎建三に吉田朝)。あ、あと、遠藤の彼氏(村上淳)がいたな。主人公のふたりともに親の気配は感じられるのだが、決して姿を見せる事はない。彼らにとってごく近しいオトナを排除する事で(桐島の弟は出てくる)、「命短し、恋せよ乙女」たちの小さくて傷つきやすくて居心地のいい世界を切り取ってみせたのか。
ふきやで野菜のかぶりをふたつ作ってもらって、再びてくてくとキャナルに移動する。
この項、もひとつ続く。