Diary 備忘の都 2003 May

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それがオケピ!第四回 春風亭鯉昇・桂平治落語会特殊クレーン、その名はファントム
ビオラ奏者の謂れなき受難ともしびからほのおへめぐりあう時間たち
ケイト露出度調査隊、露出以前に驚愕するOFF電映画チルソクの夏
最后は自虐がモノを云うそれがブハラ!ジャンル外道
ケイト露出度調査隊、キャシー襲撃に死すほんとうの備忘録

 それがオケピ!  2002/5/4(Su)


待ちに待った「オケピ!」観劇。
2000年の初演は、子供が生まれて5ヶ月そこそこという事もあり、僕ひとりで大阪日帰りツアーを敢行したが、再演は妻のお膝元・名古屋公演が実現したので、妻実家に悠都を預かってもらって久々に夫婦して観劇を楽しむ。

とは云え、息子はこれまで両親のいずれも不在の状態で2時間と過ごした事がなく、且つ甘ったれなので、昼間とは云え、陸路往復合わせて6時間もの両親空白地帯に耐えられるか少々不安だったが、5月に入ってからの3日間というもの祖父母にべったり状態だったので(それでも定期的にチチハハの存在を確認にくるあたりが実に用心深い)、10時過ぎ、おかあさんたちに悠都をイトーヨーカドーに連れ出してもらっている隙に遁走を図る。寄り道はおろか、食事もお茶もせず、行って芝居観て帰ってくるという強行軍。というのも電車の往復だけで2時間弱かかるのと、「オケピ!」の上演時間が破格に長いからなので、贅沢を云えた義理ではない。

全国的に有名な吉川幸枝(確か「マネーの虎」にも出てた)の経営する「よし川別館」やら「よし川エノテカ」、「レトワール・ドゥ・ジェアン」やら(この辺一帯を「よし川ビレッジ」と云うらしい。いつか3500円のランチコースくらい食べてみたいかも)の脇を抜けて、開場のちょっと前に愛知厚生年金会館に到着。あきれる程長い行列を横目にコンビニで弁当を買って、そのへんで軽くお昼をすませる。
適当な処を見計らってロビーに入り、終演後ヘタに足止めを喰らわないようにまずは物販に走る。
パンフレット2000円、スーベニールパンフレット1000円、テーマ曲CD1000円、ライヴCD4000円。ま、たまの事ですから。

座席は夢の最前列。但し、右端の2席だけど(1階F列46、47番。正確には右端から2番3番)。
初演を観た時は2階席最後尾で、オペラグラスが手放せなかったので、感慨もひとしおである。
端っこなので、特にドラムの温水さんやパーカッションの小橋さん、ファゴットの岡田さんあたりの姿が見えにくいのと、音のバランスも悪いけど、ほんの数歩程、足を踏み出すと足許は本物のオーケストラピットで、三谷さんが「ありふれた生活」でもピックアップしていた23種類30個の打楽器を操るパーカッション奏者小竹満里さんの頭頂部と彼女を取り囲むティンパニーとその他諸々の打楽器を覗く事が出来る。但し、今回は東京公演で好評だった三谷さん自らのアナウンスがなくなっていてがっかり。大河の脚本書きが佳境だったのか。まさかスポークスマンとしての道化に対する自己嫌悪でやめたとかだったらイヤだなあ。

芝居の冒頭から、いきなり白井さんの声が嗄れていて心配したが、どうにか最后までコンダクターの大役を乗り切ってくれた。座長且つ喋りっぱなしの難役だけに何とか無事ツアーを務めあげて欲しいもの。上演時間は、第一幕110分、休憩20分、第二幕80分、計3時間半と全くの初演並み。三谷さんの60分短縮の野望は叶わなかったが、舞台そのものの完成度は単なる再演に留まらぬ、確実に「よりよい方向へと」進化を遂げたものだった。
以下、前回と今回の違いを思いつくままに挙げる。

・大先生(声)が聡美夫人から、美輪サマへ。桜田淳子の物真似が聴けなくなったものの、大先生らしい気性の激しさを窺わせる事で、後半のオケピのささやかな抵抗「倍テンポのダンスナンバー」がより効果的に。

・舞台がシンプルになった(前回は劇中劇「ボーイ・ミーツ・ガール」が行われている舞台上の足だけ見えていた)ぶん、本物のオケピ(服部さん指揮)が客席に対してオープンに(というか、オケピの定位置にオケピが出来た)。前回はカーテンコールで、舞台がせりあがって本物のオケピが登場する仕掛けだったので、上演中は今回みたく服部さんの頭さえおがめなかった。

・楽曲が大挙して増えたので、ミュージカルとしてより音楽面から補強されたかたち。「ミュージシャンのタコについての考察1,2」「気になって演奏どころじゃない」「恋のサポティ」「It's My Life」など。既存曲も大きな変貌を遂げた曲が数曲(「Who Are You?」「ハーピストの理想と現実」など)。初演の会話を歌詞に取り込むなど音楽劇としてかなり進化。残念なのは、前回布施さんが歌っていた「リフレイン」がなくなったこと(「It's My Life」に差し替えられた)。ウワサされるサントラ版にてボーナストラックとしての収録希望。

・ハーピストは名前もキャラも大きく変更(東雲→如月)。当然初演の松さんにはサンポールや米袋を怪力で空けるシーンはなし。

「ただ一つの歌」のウサギの出産シーンが超強力にヴァージョンアップ。間奏劇に前回なかった善次盆お買い上げのエピソード追加。ドラマーがドットコムシステムで売る商品を洗剤から漢方薬に変更した事で、ファゴットの脂肪肝とリンク、エピソードの深みが増して大団円性(カタルシス)が強まった。加えて、チェロ奏者の買い忘れ(お米)も再演での新設定。これにより、ウサギの出産への伏線、天海さんの男らしいキャラの補強が行われた。
あと、天海さんのセクシーボディに思わず頬を赤らめ、カトちゃんの意外な声量(何よりカーテンコールのきっかけの「コンダクターーーーッ!!」)や、相島さん温水さんの意外な歌唱力にオドロき(逆に寺脇さんの歌はどうか・笑)、布施さんの何人も寄せ付けぬ歌唱力にまたしても鳥肌を立てた事を追記しておく。

この日のマチネ公演ではスタンディングオベーションが鳴り止まず、トリプルアンコールが実現した(ちなみに名古屋・大阪は東京より総立ち率が高いらしい)。尤も、さすがに3度目は皆控室に戻ってしまっていたらしく(何しろ2時間後には夜公演。小日向さんが何かの雑誌で「1日昼夜舞台に7時間も立つと吐きそうになる」と答えていた)、最初に白井さんたちが出てきてから全員揃うのにかなり時間がかかったが、それもまた由(よし)。如月さんが点呼を取ると「オーボエがいないよ」と共演者たちから笑い声。仕方がないので、ハンド・イン・ハンドで布施さんの代わりに天海さんと寺脇さんが舞台上の布施さんのジャケットの袖をつないで最后の挨拶をしてくれた。

そう云えば、ロビーには鈴木京香と優香から花が来ていた。
何故に優香から、と思いきや、後日大河のキャストが発表されて得心する。ある意味、フライングだったか。

取るものもとりあえず、地下鉄を乗り継ぎ、名古屋駅からパノラマスーパーのパノラマビュー席を陣取って犬山駅へ直行する。玄関に走ってきた悠都は泣いてこそいなかったが、心底安堵した表情だった。ちょっと心配になり始めた頃だったか。おとうさんおかあさんの話だと、不安に錯乱する事無く一日庭で土いじりして遊んでいたらしかった。おかげでパパとママは存分に楽しむ事が出来ました。ありがとね。

夜、家人が寝静まった後で、ひとりライヴCDを聴いて、更に余韻に浸る。


 第四回 春風亭鯉昇・桂平治落語会  2002/5/10(Sa)


すっかり初夏の恒例行事となった、この落語会。
という訳で、去年同様、父母を連れてたかだか車15分程度の道のりを、頭痛がするような珍道中(親子などというものは幾つになっても、愛憎表裏一体、悲喜こもごも、うだうだあるものなのだ。で、決してヤでもないから不思議である)を切り抜けて、唐人町商店街は甘棠館笑劇場へ。珍道中であった為、開演に間に合わず、折角の鯉昇師匠のマクラを一部聴き損ねたが、主催者である粗忽家勘朝さんと、落語会のスタッフをしている旧友たちの助けを借りて、どうにか親父の車椅子を客席後方に収納させる事に成功する。多謝。にしても相変わらず鯉昇師匠のマクラは最高である。腹を抱え乍らも上手いなあ…と唸る事しきり。

番組は以下の通り。

 鯉昇「馬のす」
 平治「源平盛衰記」

 ─仲入り─

 平治「湯屋番」
 鯉昇「御神酒徳利」

やっさんの「源平」は和香子さんのリクエスト(本人がマクラで振っていた)。
脇でビデオを廻していたとんくんに、「源平?」と囁いたら、「どうして分かった?」とオドロかれる。
別に種明かしという程の事でもなく、やっさんがマクラの中で「地噺だから、面白くないかもしれない」と云っていた由。やっさんの地噺のレパートリーで思いつくのは、文治師匠直伝の「源平」「お血脈」の2題で、且つ知名度、ネタをさらっておかなくてもある程度すぐに演れる、というと自ずと「源平」になる。「ま、伊達に管理人をやっている訳ではない」などと、とんくんにはうそぶいておく。

「湯屋番」はこないだの独演会以来初めてではないか。ちゃんと統計を取った訳ではないが、ネタおろしした中でも、やっさんが得意噺として練り上げていくネタはやはり、文治師匠直伝のものが多い気がする。前座時代から、高座脇で聴き続けている、というのもあるのか。それにしても「源平」から感じていた事だが、声が嗄れているようだと思ったら、昨夜とことん盛り上がったらしい。詳しくは、当日の本人の言を参照の事。

結局、予定通り4題で、3時間たっぷり。12時開演で終わったのが、15時過ぎ。
飛行機が18時で打ち上げもちゃんとやるというから、これまた例年通りの強行軍。
自分は父母を連れ帰らねばならないから、ちょっと食指が動きつつも、辞去する。

あ、でもその前に楽屋へ行って、やっさんと鯉昇師匠にご挨拶。
やっさんには次回の噺の穴に「湯屋番」をリクエスト。やっぱり直に聴いちゃうとね。
鯉昇師匠には、最初のネタのタイトル(「馬のす」)を訊ねる。
其処で暫し、「す」とは何か談義。僕はてっきり、尻の穴の事かと思ったんだが、あっさり却下。
この噺は、先代文楽師匠が馬の助時代からの得意ネタで、馬の助が毛を抜く噺だから「馬のす」という、まさに小噺そのものな由来もあれば、それとは別に歌丸師匠が、馬の尻尾の毛のことを「す」と云うんだと教えてくれた話もしていただく。鯉昇師匠の「自分で演ってるネタの由来も説明できなくてお恥ずかしい限りです」と相変わらずの腰の低さに、却ってこちらが恐縮したり。

後ほど三省堂「大辞林 第二版」で、調べて見ると、

 す 【〈馬尾〉】
 (1)馬の尾の毛。細工に用いるときの称。ばす。
 (2)馬の毛などを縦横に編んだもの。
 (3)〔(1)を用いたところから〕釣り糸。

おおっ、さすがは歌丸師匠。ちなみに釣り糸を意味するテグスは「天蚕糸」と書き、「テグスサン・カイコなどの幼虫の体内からとった絹糸腺を、酢酸につけて引き伸ばし、乾かして作った糸。」とある。いや、調べてみるものである。

親父んちで妻子と合流、しばらく孫と祖父母で戯れてもらってから帰路。

久々に香椎「サントノーレ」。2ヶ月振りくらいじゃないか。相変わらず笑顔で出迎えてもらう。途中、ご主人も顔を出してくれたり。名前と装いも新たなモンブラン・ジャポンとモンブラン・フレンチ(「朝デス」か何かでおすぎが絶賛して以来、人気商品になったそうで、おめでとうございます)、それにこの季節を待ちかねていたマンゴープリンなどを買い込む。北九州でも美味しいパティスリーを探し続けているが(最近では「パティスリー・ヒロ」が収穫であった)、やっぱり此処のは群を抜いて旨い。妻も云っていたけど、アタリか大アタリばかりで、ハズレがないというのは凄い事。嗚呼、此処のお店が我が家の斜向かいにあれば…ある意味困るか(笑)。


 特殊クレーン、その名はファントム  2002/5/11(Su)その1


今月最初の映画観賞。シネコン公開系が溜まりに溜まって、溢れたのがこぼれ落ちている状態なので、迷わず中間に出向いて「あずみ(2003・日)」「X−MEN2 X2 (2003・米)」の2本。来週の週末は仕事をせざるを得ない空気だし、5月の観賞本数は10本に満たないかも。

さて、「あずみ(2003・日)」である。

北村龍平の長編デビュー作「VERSUS ─ヴァーサス(2001)」は博多駅レイトショウ公開だったので見逃しており、彼の既観賞作品は「Jam Films(2002)」の中の「the messenger ─弔いは夜の果てで」短編1本きりなのだが、実はその印象がすこぶる悪かった。主演が北村一輝なのはポイント高いが、MTVならともかく、やおいっぽいだけの思わせぶり映画を観せられてもというのが正直な感想。ただ巷でも「VERSUS」のアクションシーンは評判だったので、「アクションを見せてくれる」活劇大作としての(邦画として、というバイアスはかかっているが)期待をしていたのも事実。上戸彩の可能性は「金八先生」で立証済みだし。

で、結論から先に書くが、あずみと最上美女丸(オダギリジョー)の決闘シーンだけは一見の価値あり。
とりわけ特殊クレーン《ファントム》の、世界が360度回転しつづける殺陣は圧巻の一言。
だから北村監督は今後アクション専門の監督としてキャリアを積んでいくという方向性もあると思う。
初っ端から不穏な書き出しをしているが(笑)、そもそも小山ゆうの漫画が原作だし、元より世界を構築するリアリティについて、柳田理科雄的指摘で糾弾するなんてナンセンスだが、そういうのは抜きにしてもこの作品、一観客として物語に乗っかるとっかかりとしてのリアリティが欠如している。

映画冒頭で日々、山中で最強のアサシン集団になる為の修行に励むあずみの衣服の「おろしたて」の白さはどうだ。仲間たちも衣服こそ小汚いものの、何かこざっぱり感が拭えない。彼らのたたずまいの何処にも、これまで連続して過ごしてきた「背景」が見えない。近年公開された「たそがれ清兵衛」「助太刀屋助六」といったベテラン監督の作品群と比べてみても、巨匠たちが当然のように着こなした課題がまるでクリア出来てない。

最低限のリアリティってヤツについては僕自身もひどく説明しにくいのだが、たとえば長く幽閉された筈の美女丸の衣服が「おろしたて」の純白なのは許容できるのだ。美女丸にまつわる「嘘」は一旦走り出した物語に対してストップをかけない。むしろデフォルメした物語として、ヒールたる彼の美しさ妖しさいかがわしさを強調する為には必然のガジェットでさえある(たとえば「どら平太」における菅原文太ら演じる親分方の着物とか、斬り合いをする屋敷の襖や壁、ああいう誇張はアリなのだ)。

それを云うなら、あずみの「おろしたて」の白さだって…と反論されそうだが、あの部分では嘘のTPOが守られていない。あずみという少女の、結果的に行き倒れた母を捨て、言葉も分からないうちから殺人マシンとして叩き込まれている境遇を強調するならば、たとい映画としてはヒロインの初登場シーンであったとしても様式美としての純白の奏でるウソが、ややや、と観客を腰砕けにしてしまう(此処でしつこく語っているリアリティというのは、上戸を徹底的にしごいた殺陣が意味するそれと同義である)。そんなかぶくための様式美など、5人の旅立ちの処で見せつけるんだっていいじゃないか。もしくは物語がずっとくだって大ラスの蒲生であってさえいい(実際、マントは此処から身に付ける)。何よりもそういうことは僕ら観客を物語にひきつけてからにしてくれ。

ま、以下、思いついたままつらつらと。

満を持して登場願った佐藤慶(南光坊天海)の重厚さは、くどいまでの背景のCG合成の軽薄さのおかげで台無しである。特技シーンのルールとしてチラリズムは常套であって、見せ惜しみしないと途端にトホホな絵づくりが露呈する、これはその残念なケーススタディ。ああ、折角の慶さんなのに。

坂本幸作こと佐野泰臣(ゆら)は、人の好さそうな顔立ちが災いしてか、冒頭数分で敗退。尤も、最後の試練として与えられた仲間同士の斬り合いという極限設定は、同じく彼が出演した「バトルロワイヤル」に酷似しており、彼のような好人物キャラは、悲惨な末路を歩むしかないらしい(「BR」ではかなり早い時期に彼女と心中していた)。

名前の扱いこそ(不当に)小さいものの、佐敷三兄弟の長兄を演じた遠藤憲一の存在感の穿ち方たるや、他者の追随を許さず。そのインパクトにおいて、さしもの竹中直人(加藤清正)も伊武雅刀(浅野長政)もエンケンには敵わなかった(但し、死に際は三人三様にカッコよかった)。あのぼそぼそと連打する早口の下衆加減やよし。同んなじひとが映画予告編のナレーター市場を独占している事の不思議。

加藤清正の右腕、井上堪兵衛役の北村一輝、これまた生来の人の好さが光る飛び猿役の松本実、の好演も捨て難し。この映画、脇を固めるひとびとにホント恵まれてる。映画は何つってもキャスティングなのである。

徳川・豊臣両陣営のいずれにも万人を頷かせる正義がある訳でなく、各陣営のひどひとが魅力的であればある程、物語の不条理さと哀しさが増す、というのが本作の通奏低音。でも、まさに其処が不完全燃焼な処が脚本と演出の力量不足を感じる所以か。とは云え、絵づくり含め、熱い野心を感じる演出には、まだまだこれから伸びてくひとなのだと実感。

「あずみ2」も間違いなく観るので、製作スタッフの皆さん、引続き精進よろしく。

それはそうと、僕の前に上戸ファンらしい(上映中開いたケータイの待受が上戸だった)ムサい男2人組、上映中に「大声で」しゃべりまくるわ、隣に座っているひとを押しのけて、何度もトイレに立つわ、アフリカツノガエル以下のマナーで、周囲の観客の堪忍袋の尾を緩め続けた。ああいうのこそ、誰かが刀の錆にしてくれないものか。

この項、続く。


 ビオラ奏者の謂れなき受難  2002/5/11(Su)その2


続けて、「X−MEN X2 (2003・米)」

前作も面白かったが、今作も血沸き肉躍る面白さ。処で何気にオールキャストのこの作品、ウルヴァリン役のヒュー・ジャックマン(「ニューヨークの恋人」の貴族演技との落差がスゴい)、説明不要のパトリック・スチュワート、イアン・マッケラン、ハル・ベリー、今回津波を割って卒業(尤も次作でしれっと復活したりして)のファムケ・ヤンセン、そしてアンナ・パキンと(皆が皆、好事魔のようだが)主演級の役者を惜しみなく放出している点では「スターウォーズ/エピソード1・2」に負けておらず、しかも(細かい難点も踏まえた上で)B級エンタの分をわきまえた好ましい娯楽大作に仕上がった。

人間対ミュータントの構図は、そのまま人種差別や同性愛差別の構図と重なり、実生活でもカミングアウトしているブライアン・シンガー(「ユージュアル・サスペクツ」)の演出(アイスマンことショーン・アシュモアが実家で自分がミュータントである事を告白した時の家族の薄情な反応に、監督自身の厭世な少年期を窺い知る事が出来る)、対人間強硬派マグニートーを演じるサー・イアン《ガンダルフ》マッケランの演技にも力が入る。ていうか、脱獄してからのマグニートーのチャーミングさ、セクシーさ、頼もしさったらない。そりゃ、あのおじさまになら、パイロ(アーロン・スタンフォード)だってついていくと思う。

夜は、ETVで遊◎機械/全自動シアター「クラス・オブ・アリス」(青山円形劇場)を録画しつつ観る。
去年の秋、右團治さんを誘って最前列かぶりつきで観た、遊◎機械最終公演である。
白井さんが「HR」収録と「ア・ラ・カルト」準備の3本立てで七転八倒していた頃の労作にして、遊◎機械というユニットの或る結実(であり乍ら、白井・高泉の或る通過点に過ぎない、今後の可能性の一里塚)が本作にある。美術の小竹信節さんが構築した三階建ての舞台は前衛で野心的だったが、席位置によって死角が多く、僕らの席からは特に浅野さんの部屋のシーンで何が行われているか殆ど分からなかったのが、今夜の放送でそのもやもやが解消出来た。
唯一心残りだったのは最終公演にも拘らず陰山さんが欠けていた事(勿論、続く「ア・ラ・カルト」には出演したけど、あれは青山劇場プロデュースだし)。
処で客演の小林隆が浅野さんを(一瞬だけ)手玉に取る活躍をするが、そんな彼をじっと観ていた妻が一言。

「…佐野のくせに」

──全国の心あるビオラ奏者は怒った方がいい。


 ともしびからほのおへ  2002/5/16(Fr)


金曜の夜、悠都の「もう暗いから映画館閉まってる」攻撃にも屈服せず、強い意志もてレイトショウ。
此処は地味故に長期公開が危ぶまれる渡邊孝好「ぷりてぃ・ウーマン(2002・日)」を選ぶ。

平均年齢69歳のおばあちゃん(淡路恵子/風見章子(御歳81だそうだ…)/草村礼子/イーデス《東レ太郎鯉》ハンソン/正司《生涯一竿運動》照枝/絵沢萠子/馬渕晴子)が集まって、年寄りの冷や水と囃され、疎まれ乍らも劇団を立ち上げた実話を、シナリオライター志望の孫である西田尚美の目を通して描く。劇中劇として上演される芝居が、末期癌のおばあちゃんが家族の理解の元、倒れるまで行商の魚売りを続けて、臨終の床で「最期まで好きなことをさせてもらって私はしあわせだった」と家族に云い遺して逝く、というお話で、それを子供らに愛され乍らも煙たがられている老人たちが演じるのを、子供らや劇団立上げにいい顔をしなかった役場の職員たち(益岡徹が好演。そしてこんな処でも市川実日子がフラダンスなんか踊ったりしている)を含めた客席中が感動して涙を流す、というアイロニー。

渡邊監督はいつのまに山田洋次や宮崎駿みたいな一見、変わらぬ愛を謳いつつ、実は…みたいな老獪な演出家になったのだろう(これは決して褒めて書いている)。少なくとも一度は人間ってヤツに絶望していないと(しかも強く人間ってヤツを愛していないと)、こういう奥行きのある話は撮れやしない。

それはそうと役者が素人役者を演じるという二重構造に、さしものベテラン女優陣もかなり苦しんだのではないか。とりわけ草村さんはもうけ役でしたね。

淡路恵子と云うと、一般のオールドファンには社長シリーズの銀座のマダム女優かもしれないが、僕は「狗神(2000)」での衆人に老醜をさらす事も厭わぬ女優魂と演技力に胸打たれていたので、今回の映画主演は実にめでたい。セーラー服姿の似合うおばあさんというのもそうはいないのではないか。

それにしてもこの作品の不思議は、単館スレスレの公開規模の映画に見合わないキャストの潤沢さである。
松竹のプログラムピクチャーではあるまいし、実に細かい処にまで、顔の知れたひとが配置してある。先に挙げたひと以外にも、山田邦子、津川雅彦、風吹ジュン、岸部一徳、斉藤洋介、竹井みどり、すまけい、蛭子能収、高橋ひとみ、出川哲郎、チューヤン、山田隆夫、高田聖子、佐藤允、風見しんご、土屋久美子、ミッキー・カーチス、鈴木正幸、秋野太作、金子貴俊、田村元治と、にどんな偶然がいたずらして此処までの豪華キャストが揃えられたのか。何もかもがこの映画に味方したのかもしれない。何処を取っても幸運な作品である。

23時に帰ると、息子は寝ずに父の帰り(というか土産のアイス)を待っていた。やれやれ。


 めぐりあう時間たち  2002/5/17(Sa)その1


休日出勤して人事関係のよんどころない仕事。
柄にもなく脇目も振らずに5時間以上書き物を続けたので、心底くたびれる。

家人には予め断ってあったので、夕方から中間に出向いて映画2本をハシゴする。

まず、前売り券を買っておいた「めぐりあう時間たち THE HOURS(2002・米)」
監督は、息子に好きなバレーをさせる為に、工場の仲間に背く父の泣き顔にもらい泣きが止まらなかった「リトル・ダンサー(2000・英)」のスティーヴン・ダルドリー。いかに前作の評判が良かったとは云え、いきなりこんなハリウッドでも滅多にない豪華キャストで映画撮らせてもらえるとは立身出世な事である。

作家ヴァージニア・ウルフと彼女がものした、彼女の鏡像のような人生を歩む「ダロウェイ夫人」。物語は1923年のヴァージニア・ウルフ自身(ニコール・キッドマン)と、1951年のローラ・ブラウン(ジュリアン・ムーア)、2001年のクラリッサ・ヴォ―ン(メリル・ストリープ)といった、ヴァージニア・ウルフやダロウェイ夫人と生き様の重なるふたりの女性を軸に、彼女たちの人生の転機となる一日を、時系列にザッピングしていく。30年、80年先の彼女たちの人生を操るかのような「ダロウェイ夫人」。観客は、過去と未来のキルトを幾つも重ねた大きなうねりの中で、死や生と向き合う事の生々しさ、不思議さを、自分自身にも訪れるかもしれない「或る一日」として体験する。

何しろ、旨い手管である。

何より凄いのは、三人が生きるそれぞれの時代毎に、絵の空気が違うこと。だから各時代が入り乱れても、観客が混乱しない。特にふたつの時代を挟む1951年の世界は、古き良きアメリカをイメージしたかのような、くっきりとした原色がアクセントになっていて、演出の巧みさにうむむむと唸るばかり(黄色い壁にトニ・コレットの、目の覚めるようなドレスやローラが焼いた青いケーキetc.)。

ただ瑕瑾なのは、ヴァージニア・ウルフのパートのみ実は1923年と彼女が入水する1941年とふたつの時代があって、映画は先に1941年の入水から始める為、そのあとの1923年で観る側(少なくとも僕)はかなり混乱する。
彼女は精神を病んだ上に、自殺衝動のあるひとだし、加えて日常をノーメイクで通した女性なので老け具合が分かりにくい為、彼女のパートで時系列をシャッフルされると、映画が始まって暫くは最初の入水が未遂に終わっただけなのだと勘違いしてしまう。ていうか実際、僕は勘違いした。

この作品は語り始めると幾らでも長くなるので、いっそ「何も語らない」攻撃に出るが、ローラ・ブラウンという女性の「生」への衝動が本作のキモのような気がする。道徳的には決して肯定出来ないが、「死んでるみたいに生きたくない」とはどういう事なのか。睡眠薬で自殺を決意した彼女を襲った津波の幻影は、そして彼女を愛する家族も、彼女にとって「生」への証ではないのだとしたら。ふと、瀬戸内寂聴はこの映画をどう観るのだろうと思った。きっとウチの妻は彼女のような女性を決して許しはしないだろう。
そしてローラ・ブラウンの「生」衝動の先に、AIDS末期で余命に希望がないにも拘らず、友人クラリッサを悲しませない為にだけ長らえてきたリチャード(エド・ハリス)の「死」の衝動があり、これらの未来の物語を予見したヴァージニア・ウルフの「死」の衝動がある。しかし、これらの「生」と「死」の衝動の境界線は、自らの強い意志で選び採る、という点において、実は等価である。──かもしれない。

何も語らないと云いつつ、此処まで語らせてしまう、これはそういう映画なのだと、そう思いねえ。
て、さすがにちょっと苦しいか(笑)。

ミランダ・リチャードソンとかクレア・デインズ、ジェフ・ダニエルズにジョン・C・ライリーと、とにかく息もつかせぬ豪華共演に眩暈を覚え乍らも、彼らの誰ひとりとして物語の流れを乱さず、それぞれが映画のピースのひとつに収まる事を由とする、これはチームワークの映画でもある。

但し、本作は観終わった後でレバーに効いてくるので、ハンカチなんか用意していかない事。
何だ、大したことないじゃん、なんて勝手に失望しない事。ローラの「生」衝動のように「感動」という言葉で括れない、得体の知れない感情が来るのを瞠目して待つがいい。

この項、続く。


 ケイト露出度調査隊、露出以前に驚愕する  2002/5/17(Sa)その2


お次が、「エニグマ ENIGMA(2001・米)」
ミック・ジャガー初プロデュースなんてのは、後世、どうでもよくなる話である。

第二次世界大戦中、独軍の開発した暗号システム「エニグマ(謎)」に取組む英国暗号解読チームの活躍(世界史的には「暗躍」)を描きつつ、でも結局、いちばんの謎は「女性」ね(でも、肝腎のクレアに扮したサフロン・バロウズがファム・ファタルとしての資質に欠けている気がする)、みたいなとんでもない処に着地する暗号ミステリー・サスペンス。まあ、それはいい。物語のクライマックスたる謎解き部分は、暗号の基本が理解しきれず今イチついていけなかったが、SABU監督のような容姿の数学者ジェリコ(ダグレイ・スコット)も奮闘してるし、諜報部のいけ好かない英国紳士野郎(ジェレミー・ノーザム)もいい味出してる。元海軍で顔を吹っ飛ばされたらしいアイパッチのメンバー、解読チームのその他大勢が魑魅魍魎揃いなのもなかなかツボを突いている。

でも、問題はそんな事じゃあ、ない。
全ては、日本版のポスターでも全面に押し出されているケイト・ウィンスレット(眼鏡っ娘、ヘスター・ウォレス)にある。

ケイト・ウィンスレット露出度調査隊を自認する身としては(その割に未見作品目白押しだが)、今回はかなり食い足りない(というか、そのスーツド振りにむしろ驚いている)。最近公開された「アイリス(2001・英)」でも、子供を産んでいっそう磨きのかかった(巨大化した)爆裂ボディーを惜しげもなく披露していた(もはや惜しんだ方がいいと思うのだが)。いや、今回の片鱗というか予兆はあった。何しろ、全裸で川を泳ぐ姿は、かつて人魚と見まがわれたマナティのようだったし(人魚そのものではない処がポイント)。本作では珍しく、ノースリーブのブラウス止まりという、傍が心配してしまうくらいの低露出度なのだが、問題はスーツを着た姿(ガタイ、と云った方が相応しい)の、まさしく小山のようなシルエットである。生真面目な眼鏡っ娘という設定故、地味なスーツ姿でいる異が多いのだが、今「タイタニック」を撮ったら、後姿とシルエットだけならキャシー・ベイツの役もこなせる筈である。全然、誇張になっていない処がオトロシイ。

ま、それだけなら、昔の美人女優がダークサイドに堕ちただけの話なのだが、彼女の彼女たる処は、首から上がデビュー作「乙女の祈り(ニュージーランド米・1994)」から全く変わらぬ美貌を護持し続けている処だ(尤も撮影当時でも、まだ25〜26なんだけど)。映画会社も心得たもので、だからポスター・チラシ類は彼女の、〈首から上ビューティー〉に思い切り依存している。首から上ケイト・ウィンスレット、首から下キャシー・ベイツという、およそありえないスタイルを維持しているのが彼女という稀有な演技派女優なのである。「死の翼アルバトロス」で、不二子がルパンに向かって叫んだ「顔だけシリアスにならないでよっ」を思い出したのは、決して僕だけではあるまい。そりゃ、この首から下ではファム・ファタルのクレアは演じられんわなあ。

ケイト・ウィンスレット露出度調査隊としては来月福岡公開の「ホーリー・スモーク(1999・豪米)」を粛々と、更なる期待をこめて待つのみである。

最后に一映画ファンに戻って話をするが、無線傍受部の女性が、「本当に私たちの仕事は役に立っているのでしょうか」とジェリコたちに問いかける。勿論、と答えると安堵したように「私たちにとって、戦争とはこの『ピーピーピー』だけですから」とにっこり笑う、其処んところが実に美しい。
作劇としては確かにベタなんだけど、僕はこんなベタなドラマにいちばん弱いのである。

黒崎で、ハンター・S・フルガム「試すな危険!冒険野郎 ハンドブック」(早川書房)最相葉月「あのころの未来─星新一の予言─」(新潮社)を買う。本をまとめて(ってたかが2冊だが)買うと、とてもしあわせな気持ちになれる。僕は極めて安いオトコなのかもしれない。


 OFF電映画  2002/5/23(Fr)


金曜なので会社を早めにフケて、息子にOKを戴いてからレイトショウで「シカゴ CHICAGO (2002・米)」

これくらい悪いウワサを聞かない映画も珍しいが、成程、心置きなく愉しめる娯楽ミュージカル。
少なくとも、判る範囲では「ほーれ、こんなスゴいCG使ってます」信号も出てなかったし、主要キャストは吹替なしで歌って踊ってたし、音もジャズとビッグバンドでまとまってたし、50年代に作られたと云っても別におかしくないゴージャススタイルのエンタ作品(和田誠さんあたりが喜びそう。て、実際どうだったんだろう)。至って王道、却って新鮮、誰もが諸手を上げて歓迎しても不思議のない芸風。それだけにレニー・ゼルウィガー、キャサリン・ゼタ=ジョーンズ、リチャード・ギアは、ブロードウェー公演並みの特訓が続いたに相違ない。

所謂、物語としてのストレート・プレイと、舞台としてのミュージカルが交錯する作劇に、ふと「千年女優」の回想と楽屋オチが行き来するスタイルが重なる。ミュージカル部分は本当にイッツ・ア・ショウ・タイムで、辣腕弁護士ビリー・フリンが女体キャデラックを乗りこなすシーンは圧巻である(いや、唖然とさせられる)。

それにしてもジョン・C・ライリー(ロキシーの夫、エイモス)までピエロのメイクで歌いあげるとは思わなかった。居ても居なくてもいい男の悲哀を絶唱する「ミスター・セロファン」。彼は「めぐりあう時間たち(2002・米)」でも、善人でマイホームパパであるものの、妻ジュリアン・ムーアの眼中に入ってこない、気の毒な夫を演じており、今ハリウッドでも一、二位を争う一流の「さえない夫」男優と云える(尤も、彼と一位の座を争っている「さえない夫」男優は寡聞にして知らない)。

1920年のシカゴを舞台に、名声、というか世間の注視を浴びたい女たちの人生ジェットコースター模様をレニー・ゼルウィガーとキャサリン・ゼタ=ジョーンズがけれん味たっぷりに演じる。この作品には、所謂善人とか正義の徒とかは一人も出て来ず(物語の殆どは刑務所と法廷で占められる)、マスコミに振り回され、自己顕示欲と打算と裏切りとその他思いつくかぎりの人間の弱さの見本市みたいな処で、ばたばたと無様にあがくロキシーとベルマたちが可愛く思えてくるからこそ、ラストシーンで、転んでも只では起きない女たちがマシンガンをぶっ放つ雄姿が小気味良い。

いや、存分に愉しめました。
ただ、本作公開前に、映画館で予告編を始める前に「シカゴ」本篇のシーンを繋いで作った「映画の上映前に携帯を切れ」というCMがヘビーローテーションで流れていた為、劇中でメインテーマが流れる度に、携帯の呼び出し音の幻聴が聴こえてくるのにはまいった。その度にリチャード・ギアが眉をひそめるのが脳裏をよぎるし。余りに印象的なのもよしあしだ(ちなみに今、OFF電CMで使われているのは「ザ・コア(2003・米)」なので、安心して観ていられる)。


 チルソクの夏  2002/5/24(Sa)その1


昨夜のうちは、天神に出てモーニングショウで「シベ超3」観て、マイク水野とぼんちゃんの舞台挨拶とサインと写真をGETしようと考えていたが、ふと「そんなものGETして何になる」と、ある意味もっともな虚無感に襲われ夜更かしに走ったので、結局、週末は中間で至極真っ当な新作を2本観る事にする。

まずは、本日から九州地区先行ロードショウの「チルソクの夏(2003・日)」

去年の大林映画「なごり雪」に続く「なごり雪」映画。前回はライターである伊勢正三が映画の冒頭、顔出しで生ギター演奏を始めて、別の意味で度肝を抜かれたが、今回はシンガーであるイルカ版だが(しかも1番はハングルで歌っています)、イルカ本人の歌唱シーンはないものの、主人公の女の子たち(水谷〈SENOBY〉妃里、上野〈てるてる家族〉樹里、桂亜沙美、三村恭代)の担任としてカメオ出演しています。

姉妹都市である下関・釜山が年に一度共同開催する陸上競技大会を七夕(チルソク)の逢瀬になぞらえて、天の川のように日韓の民族間に横たう溝を背景に、下関の陸上少女と釜山の陸上少年の「今は絶滅したかもしれない」切ない系ラブストーリー(韓国人である安クンが自国の選手団の前で、アカペラで「なごり雪」を歌って、廊下に連れ出されるシーンはさすがにぐっと来る)。監督・脚本は「陽はまた昇る」の佐々部清。

映画は総じてよく出来ている(思えばデビュー作「陽はまた昇る」もプロジェクトXネタとは云え、安心して感動に浸れる作品であった)が、他の多くのこの手の作品同様、主人公の女子高生4人の「生態」が、どうにもおじさんが頭で拵えたファンタジーに思えてしまう(そう云えば、去年の「なごり雪」も凄かった)。時代が入ったと云えば聞こえがいいが、女子高生がまるでおばさんのようなリアクションを返しているではないか。

…と、此処まで書いた処で、これが今から四半世紀前の物語である事に思い当たる。今のおばさんの「おばさん」という生態(ライフスタイル)が即ち、彼女たちが70年代の多感な頃にかたちづくられたとするならば、そう不自然な話でもなかったりする。映画は別に現在の女子高生を描いている訳ではないし(但しエピローグで、郁子の生徒たちに、韓国選手の携帯のメアドを聞き忘れたとはしゃがせるのは、脚本の巧みさである)、もっと云えば女子高生という風俗が描きたかった訳でもなかろう。とは云え、釜山観光する(高校時代の)郁子たちが、現地の少女同士が腕を組んで歩いているのを見て「レズじゃないの」などと揶揄しつつ、次の場面で嬉々として腕を組んで歩いている処はやっぱり可愛い(あほ)。

ちなみに3回も出てくる、将来その筋でお宝映像として認定されそうな程、露出過多な女子更衣室シーンは、監督が「昔から、女子更衣室を一度覗いてみたいという願望をかたちにしただけ」とあっさりコメント(脚本段階では5シーンあった処を、助監たちにせめて3シーンに削ってくれないかと泣きつかれたらしい)。役得、という言葉はこの為にあるのだな。

台頭を始めたカラオケに職を追われる、流しのギター弾きの郁子の父(山本譲二)のエピソードもいい。場末のバーのマダムの夏木マリがまたいい。前作といい、佐々部清という演出家はそうやって時代の空気を描く能力に長けているようだ。あと、高樹澪は決してウルトラ女優だけではないんだと、25年後の郁子として「背筋を伸ばした、真っ直ぐな瞳」で証明している。

全くの余談だが、プロローグとエピローグの現在(2003年)をモノクロで、キラキラしてたあの頃(1977〜78)をカラーで、という語り口は、最近では張藝謀の「初恋のきた道(2000・米中)」が記憶に新しい(此処で中川信夫の「亡霊怪猫屋敷(1958・日)」を持ち出した処で誰一人分かってくれるものか)。

この項、続く。


 最后は自虐がモノを云う  2002/5/24(Sa)その2


続けて「8Mile 8MILE(2002・米)」
席についてから気付いたのだが、客層が圧倒的に10代後半。20代前半ではなく、厳密に10代後半。
PG12指定なのを考えると、ほんと、狭い世代の少年少女が押し合いへし合いしている勘定になる。
主演のエミネム(何故かイライジャ・ウッド顔である)って、そんなに人気者なの?

上映スケジュール上、やむなく(というのも病んだモノ云いである)選んだ控えバッターだったのだが、これが良かった!
さすがは「L.A.コンフィデンシャル」のカーティス・ハンソン、ダークな感触の名手である。

「8Mile」とはミシガン州デトロイトの都心と郊外、黒人と白人を分断する「8Mile(エイトマイル)」ロードのこと。
物語は荒廃したデトロイトの街で、明日のラップ・スタア(ひと昔前ならロック・スタア)を夢見る少年が、まんま浜田省吾「MONEY」みたいな境遇を乗り越えて(少なくともブリタニー・マーフィ扮する彼女・アレックスはあの歌と響きあう処が多い気がする)、ラップ・バトルの勝者になるまでを描く。物語後半の見せ場となるラップ・バトルってのは、日本でいう「詩のボクシング」を、喧嘩上等、即席で完成度の高いラップをパフォーマンス、対戦者をやりこめる事で、聴衆(観衆)の支持を競うというもの。白人である主人公のB・ラビット(エミネム)は、黒人音楽のラップにあっては圧倒的マイノリティだから、対戦者も聴衆も全部黒人の中で(とは云え、バトルのホストは彼の親友だったり、要所要所に舞台を盛り上げる仕掛けは配置されてある)、ラッパーとしての才能(スキルとセンス)だけで勝ち上がっていくのだから、映画的カタルシスとしては完璧だ。

「L.A.コンフィデンシャル」から続投のキム・ベイシンガーの、どうしようもない母親の、そのどうしようもなさがまたいい。母としてより女として生きる事を優先する彼女は、定職にもつかず、ビンゴにうつつを抜かし、小学校にも上がらない娘を抱え乍ら、息子の先輩と同棲している(オトコは当然、母親のカネ目当て)。我が家であるトレーラーハウスの立ち退きを命じられているにも拘らず、あくまで刹那を生き抜く「人間的に弱い」女性なのだ。仕事から疲れて帰ってきた息子に、彼女は恋人とのセックスの悩みを打ち上げる。聞きたくないと振り払っても、「セックスの相性はいいんだけど」と、母は部屋まで追いすがってついてくる。

「彼、クンニをしてくれないの」

ばぁん!…彼女の鼻先で、大きな音をたててドアが閉まる。
これですよ、この最悪さ加減(それでも息子が最后に頼るのはウツケの母親しかいない、家族という名の業)。
でも、これがラビットを大人にする発条になる。彼は、地に足をつけて暮らすことと真剣に向き合い始める。
ラップバトルの勝者になった彼が、舞い上がる仲間の群れから出て、残業をしにプレス工場へ帰っていく。
路地の暗がりに消えていく彼の背中は、まさにハート・オブ・ダークネス、浜省のシャウトが聴こえてきます。

妻が愛してやまない「浜勝」で早めの夕食後、黒崎で本を買って、更に「パティスリー・ヒロ」に寄り道する。
此処の、「タヒチ」という名前のマンゴープリン、これは旨いです。プリンの上にココナッツミルクの層、クリスタルなジュレと、デラウェアと木いちごとブルーベリーをひとつずつあしらったもの。是非、香椎「サントノーレ」と、マンゴープリン頂上対決をやらせてみたい。


 それがブハラ!  2002/5/25(Su)


妻が、僕が積ん読している最相葉月「あのころの未来―星新一の預言―」(新潮社)を斜め読みしているうちに、「ドリーとブハラ」の章に突き当たったという。

章の冒頭、この連載のイラストを描くフジモトマサルさんから、「最近、ブハラという種類の鳩を知ってたまげた」とメールが届いたので、紹介されたページを覗くと、「茶や黒やまだらの鳩の写真がずらり。しかも頭がない、のっぺらぼうだ。実は王冠のように頭頂部の羽毛が逆立っているため頭がうずもれてしまっているのだが、一見すると首から上が見当たらないのである」とある(名前の「ブハラ」はかの鳥の産地がトルキスタンのブハラである事に由来している)。

で、この章の最后にフジモトさんの手になるブハラのイラストが載っているのだが、30余年生きてきて、およそ想像した事のない形状に、イラストだけでたまげさせられた。まさに最相さんの書いている通りなのだが、全てが羽毛に覆われ、七面鳥の頚(くび)を刎ねたようなザビエル襟に、オットセイの腕のように地面を這うような羽根。これが本当ならアフターマンに出てくる10億年後の世界を闊歩している鳥のようないかがわしさである。ヨーロッパでは鳩の育種改良が盛んだったようで、育種改良の成果については例えば中国の金魚の多様性を思えばいい。

これに、妻が憑かれてしまった。
何としても実物が見たい。フジモトさんが紹介したというサイトを探し出したい、と検索を試みるものの、どうしても当該ページがヒットしない。ひょっとして日本語サイトにはないんじゃないか、と僕。
「いっそ、最相さんの公式サイトを探し出して質問してみては?」

妻は膝を打つと、じきに最相さんが主催する生命科学技術情報サイト「受精卵は人か否か」を見つけた。
質問箱というページがあったので、場違い乍ら「文中にある『フジモトさんが紹介してくださったホームページ』のURLを教えてください。」と泣きを入れた、それが昨日の深夜の事。

で、今夜、ノートを開いたら、朝の11時過ぎに、早速最相さんからお返事が届いていた。
何て親切なうえに、何て迅速なひとなんだ。さすがは二代目アイロン・マスター。
クラフト・エヴィング商會「じつは、わたくしこういうものです」(平凡社)参照)
最相さんのメールは自著を読んだ事へのお礼をしたためた後、

ブハラの図版をご覧になりたいということでしたので、以下のURLをご参考までにお知らせいたします。これがフジモトさんがご紹介くださったHPだったかどうかは定かではないのですが、pigeon breedあたりで検索すれがほかにもいろいろと見つかると思います。

http://bokharas.org/photo1.htm
とあった。あきれた事にフジモトさんのブハラのイラストは何処までも写真に忠実なのだった。
此処を覗いたあなたも、行って驚いて欲しい。ていうか、絶対呆れる事請け合い。
慾を云えば、逆立った羽毛を剥いた間抜けヅラが(きっと普通の鳩だと思う)気になる処。
しかし、本のことで分からなければ直接著者に訊けばいい、で本当に教えてもらえる21世紀に感謝。
ていうか最相さんに感謝、だな(実力行使に出た妻にも感謝。こうして日記のネタになったし)。
──オレ、積ん読やめます。

昨夜からブハラを探る妻の脇で読んでた三池崇史他編「三池崇史の仕事1991〜2003」(太田出版)読了。
ああ、監督の新作「極道恐怖大劇場 牛頭 GOZU(2003)」が観たいよう。
久々に木村進(二代目・博多淡海)の雄姿(だといいが)も観たい。
ひとまずこの本の御蔭で三池さんがよしもと新喜劇マニアなのはよーく分かったし。
尤も、カンヌ出品作のくせに(PFFのオープニング上映作でもある)Vシネだから、これはもうDVDを買うしかないらしい。


 ジャンル外道  2002/5/30(Fr)


最速上陸歴代3位の台風が近付いていようが、いや、だからこそ予定通り映画を観るべく18時半に退社。

途中、新装開店後初めて、「エスプリ」に顔を出す。
カフェ・スペースを設けたりはしなかったものの、店内が心地好く広くなった。但し、19時前だというのにショウケースはすっからかんだったので、やむなくストックのあった純生ロール12cm(500円)を買う(エスプリのケーキの上品な旨さというヤツはスポンジとクリームの出来に起因しているので、初心者には是非、お奨めしたい)。近頃、妻が夜の甘味をシャットアウトしているので、これは明日のおめざかおやつになる筈。

息子をなだめて(最近はあきらめが早い)、映画館へひとっ飛び。
今夜は、「ダブル・ビジョン DOUBLE VISION/雙瞳(2002・香台米)」

この作品は、本来北京語なのに日本公開は広東語吹替版に字幕な上に(だから、口が合ってません)、尺も5分程切られているという、日本での扱いが非常に不遇な超常サスペンス(アジア映画としては米資本が5億円強投入されている大作である。だからCGがちょっと五月蝿い)。
しかもAMCなかまでは、公開初日から夕方からの2回しか上映してくれていないという三重苦。

以下、どかんとネタばれ含む(て、いつもか)。
ジャンル映画としてのつかみは「セブン(1995・米)」。見立て殺人モノのヴァリエーションなのだが、本作ではそれが「道教地獄輪廻説」にあたる。「雙瞳(ダブル・ビジョン)」なる眼球に二つの瞳がある(加えて、不治の大病にかかっている)人物が、閻魔の呪いとしての五地獄(寒冰獄・火坑獄・抽腸獄・抜舌獄・穿肋地獄)を行う事で、全知全能不死の超人になるという、きわめて出自の怪しい預言実行を企む、潤沢な資金を背景に持った新興宗教(オウム真理教がモデルらしい)の教祖と崇める「雙瞳」の少女と、台湾刑事&FBI捜査官との攻防という、これだけ書くと何処となく「二十世紀少年」のようなお話。
で、見立ての元ネタがちーとも分からんだけに、大団円のラストにあんなオチをつけられても、蛇足感の方が強い(このオチ故に「サイキック」ではなく「超常」サスペンス、となる)。尤も、あった方がいいような気もするのだから、僕の評価もどうかとは思う。

道教地獄輪廻説の五地獄(オウムでいう「ポア」にあたる)の実現は、ダニ媒介で脳内に並外れた麻薬作用を及ぼす細菌を、ターゲット(新聞沙汰になった「犯罪者」たち)に侵入させ、幻覚が与える仮想現実に、五感から勘違いさせて死なせる手口まではいいんだが、恣意的な幻覚の舵取りは雙瞳がテレパシーで行っているという超常現象による説明が「後半になって」出て来るので、これを猟奇ミステリーとして楽しむべきか、超常サスペンスとして楽しむべきか、大いに迷ってしまうのだ。

観客がジャンル映画としての観方をロック・オン出来ないという意味で、これをジャンル外道映画と名付けたい。三池作品のような確信的なジャンル破壊とは異なり、これは作劇的未熟さによるものだからだ。一応、伏線らしきものとして、映画の冒頭に雙瞳の胎児を提げておく事で、物語の中の常ならざるものを暗示しているのだが、たとえば「悪霊島」に出て来るシャム双生児は別に何もしやしないのである。いっそ、双子を取り上げた医者や看護婦たちがその場で頭を抱えてうずくまるとか、それくらいやっておいてくれたら、せめて邪眼としての雙瞳を認知出来たのにと思う。

けれん味もたっぷりあって、決して面白くない映画ではないのだが、下手に見立て殺人などと、ロジカルな謎解きを期待させるからいけないのだ。製作サイドの悪気のない(意図しない)「夢オチ」的欠陥、ジャンル外道のジャンル外道たる所以である。ナイト・M・シャマランの一連作の凄さは、超常サスペンス(ホラー)と思わせておいて、最后の最后に真っ当なミステリーたる、極めてロジカルなサプライズを持ってくる事である(尤も「サイン(2000・米)」のオチの苦しさは、シャマランが別の地平にシフトしていく事を予感させるが)。

デビッド・モース(「大衛摩斯」と書くらしい)はキャラが立っていたので、観客の予想を裏切るという意味では、作劇として、彼の退場の手口は充分「あり」だったと思う。最后にレオン・カーファイ(梁家輝)と対決する、唯野未歩子を10も若くしたかのような、雙瞳の少女もインパクトがあってなかなかよろしい。方々探したものの、結局彼女の名前は分からずじまいであった。熱烈歓迎詳細情報。処で、寒冰獄の犠牲者となった会社社長の顔面アップを見て、晩年の土居まさるを思い出したのは僕だけか。

小雨の中、帰宅。台風と云っても要らぬ心配だったようだ。


 ケイト露出度調査隊、キャシー襲撃に死す  2002/5/31(Sa)その1


朝、台風は去っていたが雨降りだったので天神に出るのは日曜に延期。

朝イチで1本だけ映画を観る。
ジャック・ニコルソン主演「アバウト・シュミット ABOUT SCHMIDT(2002・米)」

今回もネタバレ全開で進めていくが、この映画は初老を迎えた世代には積極的にお奨め出来ない。
何しろ、ひたすら仕事に励んだ平凡な男が、せっせと退職まで勤め上げて、気が付けば、第二の人生とは名ばかりの見事に希望のない、仕事人としても父親としても必要とされない、彼にとって死ぬまで終わらぬ冬の日々が続く事に、折り合いをつけて生きていく覚悟をする、その冬支度のような物語なのだ。

しかも、シュミット氏の場合、退職まもなく呆れる程あっさりと、フロア磨きの最中に奥さん(演じるジューン・スクイブがまた、驚くほどオーラがない。これもまた演技力なのか)が亡くなってしまう。「ふと気付けば、家の中に居るこのばーさんは誰だ?」と腹の底で罵倒していた奥さんでも、亡くなるとなれば話は別で、普段は空気のようだった夫唱婦随のありがたさを思い知らされたかと思うと、昔の書簡から奥さんと親友(レン・キャリオー)の20年前の火遊び(結局、未遂っぽい)に激昂して家を出たりする。いや、娘の住む町に向かうだけなのだが。この大人気なさ、可愛らしさ。

そして、60半ばを過ぎての自分捜しの旅は愉しさよりも切なさと喪失感ばかりが募る。
旅の中での幾つかの発見は、妻への感謝を含め、未来ではなく過去に向かってこそある。

一人娘(ホープ・デイヴィス)はセオリー通り、仕事に夢中で実家に寄りつかず、それでもようやく仕事先の町で結婚を決めたものの、その肝腎のフィアンセはねずみ講ビジネスに手を染めているわ、人は好さそうだが見るからにおつむが弱そうだわで(「ベスト・フレンズ・ウェディング」のターモット・マルロニーが、このウォーターベッド売りの天然筋肉バカを怪演)、この結婚に初めから反対だったのだが、娘は元々父親を蚊帳の外に、母親と縁談をずいずい進めてきたこともあり、父の諫言などはなから頭にない。
「今頃になって意見する気?」の台詞にたじろぐシュミット氏。

そして娘に疎まれ乍ら迎えた披露宴で「父親のスピーチを」と司会者からマイクを渡されるのだが…ジャック・ニコルソンは観客の大方の予想を裏切って、決して爆発しない。
ジャック・ニコルソンは、彼特有の何かやらかしそうな一触即発な空気を漂わせ乍らも、スレスレの処で、新郎とそのイカれた家族たちを、オトナの態度で褒めちぎり、挙句、この結婚を祝福してみせ、ついには娘の涙まで勝ち取ってしまう。
それがつまり彼にとっての冬支度であり、冴えない余生を送る覚悟を決めた、という事なのだ。

確かに映画は彼の嬉し涙で終わるが、それは決してハッピーエンドではない。
それは冬支度を終えた彼が最初に目にした一通の冬便りのようなものだ。
暖炉の炎があたたかくはぜた処で、冬が遠のいた訳ではないのだ。

面白おかしくもやがて哀しい、おとうさんの見るに忍びない孤独。
持ち味のエキセントリックさを抑え、小市民に徹したジャック・ニコルソンの「花嫁の父」演技はまさに絶賛に値する。
もう一度云っとく。退職を控えたひとや退職したばかりのひとは決して映画館に足を運んではいけない。
ましてや妻に先立たれた旦那さんや、一人娘を嫁に出したおとうさんは絶対観賞禁止である。
間違いなく首を吊りたくなるけど、いい映画です(何て着地だ)。

余談だが、ジャック・ニコルソン、前作の「プレッジ(2002・米)」に続いて、今回も見事な退職演技(あるのか、そんな演技が)。ちなみにこの「プレッジ」も物語として一縷の救いもないが、寓意に満ちたという意味で「アカルイミライ」に匹敵する傑作なので、後味は悪いんだけど、ビデオを借りてでも観て欲しい1本。
いつかこの映画についてもゆっくり語りたい気分。

ひとつ云い忘れていたが、「首から下、ケイト・ウィンスレット」のキャシー・ベイツがフィアンセの溺愛母ロバータを殆ど芸術の域で演じているのでお見逃しなく。何しろ、ケイト露出度調査隊は、マダム・ロバータの遮光式土偶めいた禁断のグラマラス・ボディにあえなく圧死した事を告白しておく。あの裸体遭遇はひたすら交通事故のようなものであった。

雨降りの中帰宅して、昨日買った純生ロールでお茶にして、夕方までずっと読書して過ごす。
両親から相手にされず、ひとりママゴトをしている悠都が「それじゃ映画1本観てアイスクリーム買って帰ってくるからね」と襖の向こうへ消えたのに思わず噴き出す。彼の父親像を如実にあらわすひとコマがこれかい。ま、特に反省はしない。(彼の為に)アイスを買う、というオプションが忘れずに入っているあたりが、父への変わらぬ信頼と希望が見てとれるからだ(おいおい)。ただ、保育園に通い出して、友達とママゴトをする場合、このシチュエーションは全く通用すまい。

夕方、悠都を連れて「パティスリー・ヒロ」へ明日のおめざを買いに行く。
此処の味を覚えてから、この店への道すがらにある某パティスリーから足が遠のいた。某パティスリーには申し訳ないが、更に5分程車を走らせるだけで済むのであれば、我が家は迷わず「ヒロ」を選ぶらしい。本当はこないだ食べた「タヒチ(マンゴープリン)」に食指が動いたのだけれど、コーヒーのブランマンジェとレアチーズ、それから悠都用にやわらかプリン。店のおねえさんが息子の顔を覚えたらしく、ずっと目を細めていた。

帰宅して、妻に「浜勝行く?」と訊ねたら、あっさり夕食は浜勝になった。
妻は本当に「浜勝」好きである。此処のトラジャコーヒーが旨いと浜勝のサイトに賞賛メールを送って喜ばれた程。

夜になっても、ひたすら読書。
宮本輝の小説は、サロンに集まった人々のさまざまな話題が去来するのを脇で拝聴している感じ。
読み手はひたすら、ウェイティング・バー「アバンティ」の教授の如く、グラスの氷をカラカラ鳴らす。
「さーて、ゆっくり聞き耳を立てる事にしましょうか…」

この項、続く。


 ほんとうの備忘録  2002/5/31(Sa)その2


さて今月観た映画は以下の10本。但し、5月の頭10日は1本も観ていない。
その代わりという訳でもないが「オケピ!」とやっさんの落語会に行っているな。
(連番は今年に入ってからの通算)

 44.「あずみ(2003・日)」5/11(Su)
 45.「X−MEN2 X2 (2003・米)」5/11(Su)
 46.「ぷりてぃ・ウーマン(2002・日)」5/16(Fr)
 47.「めぐりあう時間たち THE HOURS (2002・米)」5/17(Sa)
 48.「エニグマ ENIGMA (2001・英)」5/17(Sa)
 49.「シカゴ CICAGO (2002・米)」5/23(Fr)
 50.「チルソクの夏(2003・日)」5/24(Sa)
 51.「8mile 8MILE (2002・米)」5/24(Sa)
 52.「ダブル・ビジョン DOUBLE VISION/雙瞳 (2002・香台米)」5/30(Fr)
 53.「アバウト・シュミット ABOUT SCHMIDT (2002・米)」5/31(Sa)

尚、今月読了した本は以下の5冊。
お恥ずかし乍ら、宮部みゆきは初読(妻はファンだっていうのに。映画なら金子さんが撮った「クロスファイア(2000・日)」を観たけど。たいそう(映画の)評判の芳しくなかった「模倣犯(2002・日)」は諸般の都合で観そびれたので、慌てず騒がず地上波放送を待ちましょう)。「地下街の雨」は「世にも奇妙な…」テイストの入った短編集。妻の話では、彼女の短編集は皆そうだという。ま、ヒマを見つけて妻の所蔵している文庫でも漁りましょう。

 渡辺満里奈「満里奈の旅ぶくれ 〜たわわ台湾」(新潮文庫)
 宮部みゆき「地下街の雨」(集英社文庫)
 近藤史人「藤田嗣治 『異邦人』の生涯」(講談社)
 三池崇史ほか編著「三池崇史の仕事 1991〜2003」(太田出版)
 宮本輝「約束の冬(上)」(文藝春秋)

宮本輝「約束の冬(上)」(文藝春秋)は、今日書店に平積みしているのを見つけ、取るものもとりあえず上巻だけ買って、午後から半日かけて一気呵成に読み上げたもの。個人的嗜好で語らせてもらえば、輝さんの近作では「草原の椅子」に匹敵する面白さ(このひとの著作はどれもリーダビリティが高いのだが)で、下巻を買って来なかった事が悔やまれるが、むしろ完徹夜更かしを防げた、とも云える。処で、読んでいて、はっとさせられたのが次の一文。

俺も死ぬときには癌で死にたいな。お前が味わった苦しみとか、死を覚悟したときの心のありさまとかを、俺も通過して、死ぬ瞬間てものを、お前とおんなじように越えて行きたいよ。俺はいったい何歳で死ぬんだろうね。
今日観た「アバウト・シュミット ABOUT SCHMIDT (2002・米)」と西手新九郎つながりらしい。どうも夫などというものは妻よりも先立っておくのが得策なようだ。




 
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