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黒崎から映画館が消える日
2002/6/6(Fr)
昨日、タウン情報「ふくおか」を見て、本日付で「黒崎中央大劇」「シネワールド黒崎」が閉館する事を知る。ちなみに最後の上映作品はそれぞれ「戦場のピアニスト」「クリスティーナの好きなコト」と偶然、いずれも観そびれた映画ばかりだったが、仕事の都合と今日で最後の「魔界転生」とを天秤にかけて、黒崎行きはあきらめる。で、不覚にも気付いていなかったのだが、「黒崎東宝」がこれに遡る事1週間前の5/30付で一足先に閉館していた(最終上映は「あずみ」他)為、本日を以って黒崎から映画館が完全に消える事となる。
自分が北九州に来た時には、黒崎には6館(黒崎東宝は2館あったので正確には7館)の映画館があったが、此処3、4年という短い間に黒崎松竹が消え、黒崎ロキシーが消え、巻き返しを図るべく名画座としてのシネワールド黒崎が生まれたり、遅れ馳せ乍ら一部で単館系公開作品を流したり、名画特集上映をやったりしたものの、その努力も虚しく(というか「遅すぎた」のだ)、ついには戸畑や中間のシネコンにそのシェアを完全に食われてしまった。
さすがになくなってしまうとなれば、切なくもあるが、それが時代の趨勢というものであり、一映画ファンとしては感傷や侠気だけで、交通の便や番組のチョイス、各種サービスを度外視してまで黒崎に通う事は出来なかった。これが嘘偽りなき僕の本音である。オープン1年目のコムシティが、あろう事か来週末で閉鎖してしまう事を思えば、黒崎のゴーストタウン化は避けられないのかもしれぬ。
余談だが、小倉でも小倉東映、小倉東宝がその幕を閉じた。
本気で昔乍らの映画館は昭和館1・2のみとなる。此処もかつては僕の常宿であった。
そんな感傷を抱きつつも、レイトは結局、中間にて「魔界転生(2003・日)」の最終日。
お恥ずかしい話だが、僕はまともに深作版を観ていないので、今回の平山版と単純比較してどちらがいいの、悪いのという話は出来ないし、特撮の稚拙さが作品の優劣の全てでもないし(確かに平山版の冒頭で繰り広げられる「島原の乱」のド迫力はCG合成の賜物であるが)、先んじた深作版の印象の強さが平山版にとって不利にはたらくのはある程度いたしかたないと思う。けれど平山さんが「是非、深作さんに観て欲しかった」と語った自負は買っていい。
それこそがまさに平山秀幸という演出家の持ち味だと思うのだが、本作は物語自体が「柳生十兵衛が並み居る剣豪と勝負して、遂には宿敵天草四郎とあいまみえる」というRPG色豊かで、且つけれん味に溢れるのと拮抗するかのように、きわめてオーソドックスなつくりをしており、そのオーソドックスの堅牢さ振りには目を見張るばかりだ。何と云えばいいのか表現に苦しむのだが、そうだな…僕はその昔、市川雷蔵映画祭で雷蔵さま主演の映画を立て続けに観た事があるのだが、平山版「魔界転生」には、「大菩薩峠」や「忍びの者」、或いは「眠狂四郎」といった往時(50〜60年代)の時代活劇の持った空気感が見事に再現されている(山田洋次の「たそがれ清兵衛」はまたちょっと違う)。映画としてのはみだし方、はしゃぎっ振りまで何だか時代劇全盛期のそれなのだ。これは(60代後半以上の)往年の時代劇ファンも満足出来る映画なのではないか。
観る前は妻と「天草四郎を演らせるならGacktくらい妖し度が高くないと深作版のジュリーに対抗出来ないよねえ」などと懸念した窪塚洋介も、意外にはまっていて良かったかも。無論、佐藤浩市は安心して観ていられる柳生十兵衛さ加減。どうでもいい話だが、麻生久美子(クララお品)の「私(わたくし)の身体を使って転生なさいませ」程ぐっと来る殺し文句もそうないのではないか。実際、「死ね」という意味が含まれている処が、極上の殺し文句たる所以でもある(ばか)。それにしても、ろっぽかったです。
古田新太(宝蔵院胤舜)はまんま新感線演技が映画の中で成立しているという幸福さ(いや、もう鳥肌もんですよ)。さしもの名優・長塚京三も、老いた姿とは云え武蔵の風格は見られなかったが、芒の穂の大海という平山演出が効を奏してかなり印象的なシーンになったのでは。しかし、麿さんのアレはありなんですか(ちなみに深作版はどうだったのか、非常に気になる処)。
これを彼の最高傑作とは云わぬが、誠に平山秀幸恐るべし、である。
僕もこの「魔界転生」を深作監督に観せたかった気がする。
ヤァヤァ・シスターズが行く!
2002/6/7(Sa)その1
今日はひとりで福岡へ、まずはKBCシネマ。
「ヤァヤァ・シスターズの聖なる秘密 DIVINE SECRETS OF THE YA YA SISTERHOOD (2002・米)」。
こっれはすっげえ好きィっ、みたいにやたら促音を多用してしまう程、愛すべきタイプの映画。
以下、わしわしとネタばれ満載で話を進める。
これは母(エレン・バースティン)と娘(サンドラ・ブロック。本作の彼女は可愛い)の「和解」の物語である。
表面上、仲良く喧嘩するふたりには、実は最終的にはどうしても相入る事の出来ない深い亀裂が横たう。
それは実際には映画の後半で明かされるのだが(ゴメン)、錯乱したキッチンドランカーの若かかりし母親(アシュレー・ジャド)が幼い子供たちを鞭打ち、折檻する阿鼻叫喚のドメスティック・バイオレンスにあった。娘にとって、母親は愛し乍らも理解出来ない遠い存在だった。いつか自分たちを捨てて、遠くに行ってしまうのではないかという不安の対象であった。それは娘の中にトラウマとして深く刻まれており、良くも悪くも自身の人格形成の礎となった。
そして作家として大成した彼女は、自分の幼少期を通して見た「母親像」を舞台にした。
自分の代わりに世間の表舞台に立ってくれたと喜んでいた娘の仕打ちに激昂する母親ヴィヴィ。
母親を愛し乍らも、自分の気持ちは曲げられない娘シッダ。
そんなふたりの仲を取り持つべく、出動したのが母親が幼い頃、生涯の友4人で結成したヤァヤァ・シスターズの元気な婆さま3人(マギー・スミス、フィオヌーラ・フラナガン、シャーリー・ナイト)という次第。
シッダはヤァヤァ・シスターズの「輝かしい」歴史を紐解く事で、母ヴィヴィの華やかなりし青春と挫折を知る。
彼女が戦争で恋人を奪われ、空虚な結婚をしたこと。
女優という夢をあきらめ、本意ではなかった主婦として子育てに明け暮れたこと。
10代までのキラキラしていた彼女は、それからのくすんだ(ように思える)自分自身とのギャップに煩悶していたこと。
勿論、自分の結婚が間違いだったという、そんな単純な話ではない。
夫(ジェイムズ・ガーナー)は献身的に自分を愛してくれる。子供たちとも相思相愛だ。
決して家族を愛していない訳じゃなかった。それはシッダ自身がいちばんよく知っている。
でも、それでも、「こうじゃない人生」への可能性を捨てきれない。それが苛立ちとなって酒に溺れる、発作的に家出をする。「めぐりあう時間たち(2002)」のジュリアン・ムーアはとうとう自分の人生を選んだが、ヴィヴィは彼女を愛してくれる家族の許に思い留まる。幾許かの後悔の残滓を懐にしのばせたまま。
母と娘の「和解」は、母親の女性としての真実を、娘が同じ女性として共感する処から始まるようだ。
尤も、これは娘が自分の夢をなしとげた女性だったから、というのもまた大きい処。
と、まあこれだけ書くと、母娘の物語だが、生涯変わらぬ友情の物語であり、老人パワーの物語であり、そして自らの過去を暖かく振り返る回顧の物語でもある。この映画の売りのひとつは潤沢な役者陣だと思うが、各キャラの各世代をさまざまな女優が演じる事で、のべ登場人物の数はかしましい事このうえなく、そして華やいでいる(ヤァヤァ・シスターズは3世代の女優12人で演じ分けている)。
どの世代が欠けても成立しないが、何より今の婆さまたちの頑張りと云ったらない。
若い頃からのヘビースモーカー振りがたたって、酸素ボンベを常備する、辛辣だが機知に富んだキャロ(マギー・スミス)。このひとの台詞はいちいち気(と厭味)が利いていて、ダイアローグライターの職人芸を見せつけられた感じ。
あと、息詰まるカーチェイスまで披露してくれるティーンシー(フィオヌーラ・フラナガン)。
このひとは「アザーズ」の女中頭の名演がまぶしくて、キャストにこのひとの名前があったから本作を観たと云ってもウソではない。実に凛々しく頼もしいおばさまを嬉々と演じている。
あと、シッダの婚約者コナー(アンガス・マクファディアン)のいい味も忘れ難い。
犬も食わない母娘喧嘩に巻き込まれ、恋人に結婚を絶望され、その母親に「僕らの結婚の邪魔までするな」と戦いを挑む愛らしさ。このひと、何処かで観た事があると思ったら、「リベリオン(2002)」の黒幕だった。全然キャラが違うので気付かなかったよ。
何年かに一度こういう映画に出会えるから映画館通いはやめられない。
こういう映画──たとえば「夕べの星」とか「ホテル・ニューハンプシャー」とか。
…え、お分かりにならない?
この項、続く。
ケイト露出度調査隊、南へ
2002/6/7(Sa)その2
100円バスで博多駅に移動、毎度毎度のふきやで昼食。
14時半からシネリーブル博多駅で「ホーリー・スモーク HOLY SMOKE(1999・米豪)」。
先着200名、謎のチョコレートプレゼント。
今まで、カステラ(「ムッシュ・カステラの恋」)とか観光土産っぽいタオル(「船を降りたら彼女の島」)とかゴミ袋(「Stereo Future」)とかゴムじゃないコンドーム「サガミオリジナル」(「メルシィ!人生」)とか辛ラーメン(「カル」「リベラメ」始め、色んな韓国映画)とか映画本篇との因果関係の分からないものを貰う事は決してなかったが、こいつだけはさっぱり分からない。
物語はインドでカルト宗教(サイババがモデルっぽい)にはまった若い娘(ケイト・ウィンスレット)を、家族が強引に故郷のオーストラリアに連れ戻し、アメリカから連れてきたカルト脱会請負人(ハーヴェイ・カイテル)を使って、砂漠のど真ん中にある避難小屋に彼女を監禁して洗脳解除プログラムを行おうとするのだが、利発で小生意気な若い娘の色香に迷った請負人が「逆転移」してしまって、娘ともども冥府魔道を彷徨うという、いかにも「ピアノ・レッスン」を撮ったジェーン・カンピオンらしい官能どがちゃか。ラストはエロスよりカオスが勝ってしまうあたりも、この監督らしい処。
「ショコラ」「赤い薔薇ソースの伝説」でもあるまいに、何故にチョコレート。
勿論、劇中、ガジェットとしてのチョコレートは出てこない。官能系だから、媚薬替わりにチョコレートっていうのも、余りに無理があるし、ハーヴェイのパートナー、パム・グリアが魅力的なチョコレート色の肌だからっつうのもなー、ハル・ベリーじゃないんだから。この映画を観たひと、誰か正解を教えてくださいな。て、それほどこだわる事でもないのだが。
さて、ケイト露出度調査隊の調査報告をせねばなるまい。
何しろ、今回は特Aランクです。お見逃しなく、っておいおい。
カルト宗教のビデオを観たショックで、心の支えだったサリーを脱いで全裸になって失禁し乍ら(さすがに失禁そのものは音だけで表現しているが)、ハーヴェイに縋る姿はある意味、「スペース・バンパイア」のマチルダ・メイの数百倍は恐ろしい。「日陰のふたり」での「胎児半分」出産シーンにも迫るインパクトと云っていい。彼女のフィルモグラフィーとしては「タイタニック(1997)」で大メジャーになった後で、入れ食い状態のオファーの中からインディーズ作品で「グッバイ・モロッコ(1998)」、本作、「クイルズ(2000)」とその余りにも惜しげのない連続脱衣記録に、ケイト露出度調査隊としては驚嘆を隠せない。しかも、下半身キャシー・ベイツなのに、である。本作でも劇中、ハーヴェイが「ダイエットしたがる女性は実際には彼女が気にするほど太ってはいないものだ」などとケイトに語りかけるシーンがあり、これはあきらかにジェーン・カンピオンの悪意なのではないか。さすが、同性の監督は容赦ァないやね、みたいな。
映画は先に書いたように、ハーヴェイの箍が外れ暴走する事で、彼の信じるものと愛慾がしっちゃかめっちゃかになる、というクソ面白くもない結末。彼女のドレスを身にまとい、ピエロのような姿で彷徨する姿は、何だか昔のATG映画を観ているようだ。ケイトの女優としてのひたむきな姿勢と卓越した演技力(これはハーヴェイもそう)、それにあのヒューズの飛んだ露出がなければ(おいおい)、到底看過出来ない類のお話。「ピアノ・レッスン」といい、僕はジェーン・カンピオンの描く「女性映画」がどうも苦手のようです。
懐ろ具合も寂しい事だし、映画はこのへんにして、香椎「サントノーレ」で明日誕生日の妻のケーキを買って帰宅。
ママのたんじょうび
2002/6/8(Su)
今日はママのたんじょうび。ママはレディなので年齢は書きません。
パパとはるとくんは、おめでとうの気持ちと日頃のお世話に感謝をこめて、ママと小倉にお出かけしました。
リバーウォーク北九州のフード・パオで〈スウィーツアベニュー〉や〈餃子の小径〉、〈麺ロード〉を冷やかしてから、紫川を隔てたお向かいにある紫江’s「小倉聘珍樓ANNEX」へ、お昼を食べに行きました。お店のひとが「30分ほどお待たせする事になりますが、よろしいですか」と訊ねるので、せっかくの待ち時間を利用して、貸しボートで川遊びをする事にしました。ふとっちょのパパにはライフジャケットがコルセットのようにきゅうきゅうと身体をしめつけるのが辛かったけど、親子3人、全く舵取りがいうことをきかない足漕ぎボートに乗って大騒ぎしているうちに、あっというまに30分が過ぎてしまいました。ちょうどボートを降りた処で、お店のひとから「たいへんお待たせいたしました。お席がご用意できました」と電話がかかってきました。
「聘珍樓」では、はるとくんのような油断ならない男の子がいる親子連れには、必ず個室を用意してくれるので、パパもママもにわかゴージャスな気分が味わえます。これを「おとなのサービス」といいます。
今日のテーマは「ぷちぜいたく」なので(「聘珍樓」でお昼をたべるだけで目的は達成しているのですが)、いつものように(と云っても来たのは2回目)シェフご自慢のお昼のコースA・B(各3500円)をばらばらに注文しました。
お昼のコースA
1.三種前菜の盛り合わせ
2.鶏肉とえのき茸入りフカヒレスープ
3.シュウマイ
4.季節野菜の蟹肉あんかけ
5.大海老のチリソース
6.チャーシューとレタスのチャーハン
7.杏仁豆腐「杏雲(あんずぐも)」
お昼のコースB
1.三種前菜の盛り合わせ
2.海鮮入りフカヒレスープ
3.大根もち
4.季節野菜のXO醤炒め
5.牛フィレ肉とアスパラの炒め
6.五目炒めそば
7.杏仁豆腐「杏雲(あんずぐも)」
冷たい烏龍茶をいただいたあと、次々と供される料理の数々。一皿一皿の量もちょうど良く、A・B両コースのべ十二皿がテーブルをにぎやかに彩ります。これを「ぷちぜいたく」と云わないで何としましょう。「牛フィレ肉とアスパラの炒め」のロースのやわらかいこと、「五目炒めそば」の細麺の意外な自己主張、そして気を抜くと泣いてしまいそうになる「杏雲(あんずぐも)」のおいしさ。
このお店の杏仁豆腐は、ちょっとばかりすごいです。
賽の目切りではなく、出来立ての豆腐をスプーンですくって積み上げた姿は、まるでざる豆腐のように大盤振る舞いで気前がいいのです。「どうです、お客さん」と得意満面のシェフの笑顔が見えるようです。ミントのさわやかさがシロップに染み込んでいて、口に含むと口の中までほのかにさわやかになります(この「杏雲」はとってもおいしい杏仁豆腐の素としてお店でも売っているそうです。5人前280円。聘珍樓の杏仁豆腐の素「杏雲」を有意義に食べるためのプロジェクトなどというページもあります)。どんなに悲しい時でもおいしいものを食べるとすっかりしあわせになれるという、分かりやすいママがとびきりのスマイルになってくれたので、パパもはるとくんも大喜びです。
「ぷちぜいたく」とは云え、美食のちからは偉大ですね。
レジがなく、テーブルで支払うというのもこのお店のステキなところ。
ママがお店のひとに「実はたんじょうびなんです」と耳打ちすると、暫くして戻ってきたお店の人の手には陶器の紹興酒の入った紙袋が握られていました。「料理長からの心づくしです」、ママがスペシャルでにこにこしたのは云うまでもありません。
本当はリバーウォーク北九州で買い物したかったのですが、おばあちゃん─パパのママ─からもらったサンダルを履きおろしたママは靴擦れが出来て足が痛かったので、井筒屋のデパ地下だけ冷やかしておうちに帰りました。
帰り道、荒生田のスピナマートでブラッドオレンジの瓶ジュースを買って帰りました。
パパが夕食後のケーキの時に飲みたいんだ、と駄々をこねたからです。
夕食のあと、昨日パパが「サントノーレ」で買ってきたバースデーケーキにろうそくをともして、はるとくんとパパで「ハッピーバースデー」を歌いました。はるとくんは自分でもろうそくの火を吹き消したかったのでもう一回「ハッピーバースデー」を歌いました。バースデーケーキはチョコケーキでチョコレートの壁で囲った中に、色とりどりのカットフルーツを散りばめた上からパウダーシュガーをふるったもので、まるで宝石箱のようにキラキラしていて、「サントノーレ」のパティシエのおじさんの美意識が光ります。もちろん「たんじょうびおめでとう」のプレートには年齢は書いてありません。繰り返しになりますが、ママはレディだからです。
ママはしあわせな気持ちで一日を過ごす事が出来ました。
…だったらいいな、とはるとくんは思いました。もちろん、パパもです。
みんながいい夢を見られますように。
シズル感のある記憶
2002/6/14(Sa)
雨だねえ。なので、映画は中間で1本だけ観る事にする。
1000円前売券を買っといた「恋愛寫眞 Collage of Our Life(2003・日)」。
こう云っちゃなんだが、映画作家としての堤幸彦が本当に開花した記念碑的作品。本作で提唱されたという「堤幸彦真人間プロジェクト」は伊達じゃなかった。個人的には歴代堤作品の中でも俺オスカーを差し上げたい(ちなみに俺準グランプリと3位が順不同で「新生・トイレの花子さん(1998)」「トリック 劇場版(2002)」)。
堤作品の特徴と云えば、徹底的な楽屋オチ、悪ふざけに加え、映像コラージュがあるが、今回はサブタイトルにも据えた通り、巣立ちのタイミングをあぐねているカメラマン(松田龍平)の「片想い」と「自立」を16mm、8mm、24pハイビジョン、ビデオ、スチール、ポラロイド、デジカメの絵をコラージュする事で、彼の人生のある輝いた瞬間を、綺麗な一枚絵にしてみせてくれた。若者が自分の部屋の壁一面を好きなアイドルや映画のポスターや、恋人や友達や家族のスナップで埋め尽くした、あの感じ。そうして賑々しくも、今、目の前に居ない、ニューヨークに暮らす昔の恋人(即ち自分自身)と対話する彼の孤独で真っ直ぐな自意識が、とりわけそういった切なさに身悶えした心当たりのある、僕を含めた沢山の男たちの胸をちくちくと突いてくる。ヒロインが「静流(シズル)」といやにヴァーチャルな名前で、対する男が「誠人(マコト)」という名前なのもそこらへんを意識しているのか、などと思うのはちと穿ち過ぎか。
男が昔の恋人(広末涼子)の名前でカメラマンとして独り立ちするラストは、誰にも奪えない彼女の思い出と引き換えに、二度と満たされることの無い孤独を手にするという、切なくも甘やかでほろ苦くも鼻の奥がつんとする、つまりは(僕のような・笑)ロマンティストな男たちの琴線をちぎれんばかりに揺さ振ってくれる。挙句、そんな切なさカタルシスでふらふらになっている処へ容赦なく山下達郎の「2000トンの雨」が降り注ぐ。間違いなく瞬殺である。
ガジェットが蜜柑とかマヨヌードルとか庶民ぽくて全然オシャレじゃない処をディテールの積み重ねでオシャレに仕上げている処も気に入った(結局、ジャンクの極北マヨヌードルが美味か否かが徹底的に棚上げされているのがいかにも堤的。これは一度食べてみるしかあるまいと思った時点で既に僕らの負けである。ていうか、多分それなりに旨い)。
これを傑作と云わずして何と云おう。
堤さんのこれまでのキャリアは全てこの一本に収斂される。いや、マジで。
松田龍平、デビュー作「御法度」の時は本当にどうしようかと思ったが、「青い春」に本作と確実に役者っ振りを上げてきている。ていうか顔も声もおとっつぁんに生き写し過ぎ。実際、母親(松田美由紀)に「ちょっとォ、やめてよね」などと嫌がられる事もあるらしい。きっと声帯模写も形態模写も空前絶後の旨さだぞ。
それはそうと、松田龍平と広末涼子のあひる唇同士のキスシーンのやわらさ具合は必見だと思う。
あと、小池栄子のルサンチマン全開の演技も観どころ。哄笑も鮮やかに闘魂漲るキレ具合。
などと充分愉しんだ処で帰宅、妻子を拾って、折尾「ポルタ・ロマーナ」にて昼食。
久々のアンジェラ(牛肉のクリーム煮パスタ)に舌鼓を打つ。此処はデザートが2種類選べるのがいい。
それから戸畑BEST電器に移動して、注文していた「えいごリアン」「えいごリアン2」DVD−BOXを買う。各5本組の全10巻。これで悠都は一日中ユウジやジャニカを堪能出来る。加えて妻が気前良く「第十七捕虜収容所 STALAG 17 (1953・米)」「めぐり逢い AN AFFAIR TO REMEMBER (1957・米)」のDVDを買ってくださる。合計40000円ちょっとの買い物。妻の豪気さにいっそ心配になるが、ま、心配になるくらいが我が家の家計には丁度いい。
鏡の女たち
2002/6/15(Su)その1
父の日なので、親父の処に顔を出す。
…のは、妻と子供にまかせて(おいおい)、シネリーブル博多駅で映画を2本。
まずは、寡作の巨匠、吉田喜重の「鏡の女たち (2002・日)」。
主演は勿論、喜重夫人である大女優、岡田茉莉子。
もうね、喜重作品と云えば岡田茉莉子、篠田作品と云えば岩下志麻、伊丹作品と云えば宮本信子、新藤作品と云えば乙羽信子、辻仁成と云えば南果歩(あ、これは最初のうちだけだった)と、夫の監督作品に女優である妻が出演(主演)する夫唱婦随体制が映画づくりには欠かせない。例外で思いつくのは三谷幸喜・小林聡美夫妻くらいである。
それはともかく、結論から云うと僕は素直にこの映画を楽しめなかった。
24年前、子供を出産した直後に失踪した娘(田中「黒い雨」好子)が記憶喪失のまま見つかった、というミステリータッチの導入から、やがて母(岡田茉莉子)、娘、孫(一色紗英)三代に連なる、広島原爆の悲劇と、それでも尚生きようとする生命力としての女性性(じょせいせい)を正面から見据えた巨匠の意欲作には、けれど作劇に必要な何かが欠落している気がして、どうしても銀幕と自分を隔てる距離感を拭い去る事が出来なかった。
センスが古い、と書いてしまうのには抵抗があるが、他に言葉が浮かばない。
熊井啓監督の「愛する(1997)」「日本の黒い夏 冤罪(2001)」の2作品を観た時にも、同様の感覚に襲われたのだが、老匠が現代劇に、しかも自身よりも若い世代の機微みたいなものに取組む場合、監督・脚本両方を独占してしまうのは如何なものか。その時代の切り取り方が余りに前時代的だと、折角の主題そのものに辿り付く前に観客が萎えてしまう。時代(現代)ってヤツを切り取るのは、大方において、老人の仕事ではない。特にこの手の映画は作家のものだが、観客を口説き落とすには、脚本の一部を若手に任せるくらいのバランス感覚が要るのではないか。各世代に向けてメッセージを発信しようとするなら尚の事、プロデューサーとしての冷静な目が欲しい。老いて鈍化した、世俗的なものへの嗅覚を、もっと自覚すべきである。
たとえば、母、娘、孫それぞれの自己を喪失した関係性を描くのに、不穏、というか、観客にβ波を投げ続ける不健全な音楽が鳴りっ放しなのが、いかにも一世代昔の演出らしく非常にくどくて耳障りである。絵づくりだけではそんなに自信ないのか、と思ってしまう。広島の図書館で原爆資料のパネルが運ばれていくシーンに一切のBGMを排除し、係員の足音だけが耳鳴りのように響く、あの演出の冴えが隅々にまで欲しかった。
この映画のキモは、母と娘と孫の三世代がそれぞれに抱えた喪失感を、原爆投下故に本意ではない人生を選んだことに対する母の懺悔を通して、想像を絶する深い悲しみの中でも生きていく(生きてしまう)女性の強さ、不思議さを謳うシーンにこそある。別にカネをかけて、原爆の惨状を再現してみせなくても、原爆ドームの前の川を流れる燈籠と、語り部としての岡田茉莉子の力量だけで、それは充分に伝え得るのだ。そして広島で一度は彼女たちから去っていったかに見えた喪失感が、娘の再びの失踪というかたちをとって、それが容易ならぬ翳りである事を示唆し、遂には現代人が統べて抱える喪失感にまで踏み込んでいく。ほーら、いい映画じゃないか。
物語としての結論を出さずに終わる居心地の悪さは先に指摘した音楽の使い方と同じで作家自身の意図であり、意図自体にとやかく云うつもりはない。かなり厳しい事を書いたのは、つくづく勿体無いからだ。センスは時に垣根になる。
処で、本作が室田日出男の遺作となった。
骨と皮ばかりにさらばえて尚、かくしゃくたる故人の役者魂はしっかと目に焼き付けた。
この項、続く。
プロジェクト・ラ・マンチャ
2002/6/15(Su)その2
引続き、「ロスト・イン・ラ・マンチャ LOST IN LA MANCHA (2002・米英)」。
これは噂にたがわぬ傑作。成程「ハート・オブ・ダークネス(1991・米)」(実はLDで持っている)よりうんと面白い。
日本を席巻した「プロジェクトX」なるドキュメント方式は、未だ現在進行形の「プロジェクトX」予備軍というスタイルでテレ東「ガイアの夜明け」を生み出した。困難な目標に向かって、喘ぎ、汗と泣きべそをかいて、遂にはそれをやり遂げる美しさは、同じく「喘ぎ、汗と泣きべそをかく」同朋として骨身に沁みる。但し、どんなプロジェクトにも中島みゆきの「ヘッドライト・テールライト」が流れてくれるとは限らない、それが本作だ。
映画はテリー・ギリアムの新作「ドン・キホーテ」製作現場に降り注ぐありとあらゆる苦難(資金、体制、天災、病魔)が、クランクインしてわずか1週間とちょっとで、映画プロジェクトそのものを頓挫させてしまう(最后は完了保証人と保険会社が法廷で争う処まで雪崩れ込む)さまを描く。個人の努力や責任をはるか超えた処にある、幾つもの風車のかたちをした何者かが、スタッフ・キャストの涙ぐましい献身を嘲笑うかのように、ギリアム(撮影当時61歳というのに驚いた)の途方も無い夢をゆっくりと握り潰していく。とどめはドン・キホーテを演じるジャン・ロシュフォールが病気で契約した撮影期間の乗馬が不可能になる事なのだが(彼自身、英語圏映画に出るという事で7ヶ月の語学特訓をこなしていたのだ)、まあ次から次へと面白いように困難が立ちはだかる。ギリアムのようなポジティヴ・シンキングマンでさえ、「バロン」を上回る悪夢の前にはなす術も無い。
やっぱり今回の遠因は前作「ラスベガスをやっつけろ!(1998・米)」にあるんじゃないか。
アレの出来(興行成績含)でハリウッドから総スカンを食らって、アメリカでの資金調達が困難になったんだと邪推するなあ。ギリアム擁護派の僕でさえ、さすがにあの映画は分からんかった。実際の処、ジョニー・デップは納得しているのか(「ドン・キホーテ」のオファーを受けた処をみると、少なくともギリアムとの仕事は気に入っているらしい)。
現在、ギリアムは保険会社から映画権を取り戻すべく資金調達に奔走しているそうだ。
かくして「ドン・キホーテ」は終わらない。テリー・ギリアムというドンキホーテも、そして映画製作というドンキホーテも。
Y田さんから携帯に「蕎麦を打ったので、玄関のドアに吊るしておきました」と有難い連絡。
ふきやで玉子のかぶりを2パック買って、親父の処へ。
一足先に着いていた悠都が大暴れしていて、ジジババは目がなくなっていた。孫に勝る父の日はなし。
柳昇師匠、逝く
2002/6/16(Mo)
春風亭柳昇師匠が亡くなった。享年82歳。胃がんだったそうだ。
柳昇師匠は先ほど鬼籍に入った天本英世氏同様、てっきり亡くならないひとだと思っていたので言葉も出ない。
師匠の具合が悪いのは、やっさん越しに知ってはいたが、すぐに復活するものと妙に安心していた(思えば、暮れの桂平治独演会のゲストをドタキャンして胃を3分の2切ったのが、事の始まりであった。その後師匠は、あろう事か晦日前には退院して今年の初席をこなしてしまうのである)。こないだの二人会で鯉昇師匠とお話させていただいた時は、何ともないような事を云われていて、実際マクラでもさんざん師匠をネタにされていたが、その時点で病気の事をご存知だったのかもしれない。鯉昇師匠や柳太郎さんの心中やいかばかりか。
やっさんのショックも大きいよな。
小さん師匠や志ん朝師匠の時もショックだったろうが、柳昇師匠の場合は身近度がまるで違う。
上で書いたように、独演会のゲストに声をかけるくらいには親しくさせていただいていたのだろうし、師匠への愛情は、やっさん自身の得意ネタに声帯模写がある事でもよく分かる。実際、高座でもよくくすぐりに使っているし、NHKの新人演芸大賞を「平林」で獲った時も、途中、柳昇師匠が出て来るくだりの効果ったらなかった。やっさんにとっての柳昇師匠はまさに、お世話になりっぱなしのご近所のご隠居そのものだったんじゃないかと思う。
そう云えば、ついこないだ、ゆうきまさみが本人のサイトで「究極超人あ〜る」で毒島さんのモデルにした天本英世さんが亡くなった事を嘆いていたと思ったが、これで校長先生まで(しかも師匠はOVAで声優までつとめた)逝ってしまった事になる。これもまた悲し。
僕自身を省みれば、結局、柳昇師匠の高座を聞けなかった後悔に尽きる。
(小学生の頃からテレビやラジオで「春風亭柳昇」の名を聞くと、慌てて見聞きしたものだ)
妻と結婚した年、夏に北九州で昇太師匠との親子会を演るというのでチケットまで買って楽しみにしていたが、ちょうど前日か前々日に祖母が亡くなってしまった。縁がなかったのかもしれない。
やっさんの真打披露パーティーで、壇上で食事する柳昇師匠と歌丸師匠にお願いして、とんくんと4ショットで写真を撮らせていただいたのが、思えば唯一の第三種接近遭遇。大切にしなくっちゃ。
「大きな事を云うようですが、春風亭柳昇といえば今や我が国ではあたくし一人です」
もっともっと、ずっと大きな事を云っていてほしかった…合掌。
追記、葬儀委員長は文治師匠が務めるそうである。
台風6号
2002/6/19(Th)
何年振りかで台風が北九州を直撃した。
明日北海道で開かれるシンポジウムに参加するため、今日の午前中移動の予定を組んでいたSさんは予定を変更して朝イチの便のキャンセル待ちに乗っかって無事、かの地に辿り着いたと連絡があった。
台風の最接近は14〜15時あたりだったのだが、14時過ぎぐらいに職場の棟から別棟への連絡路脇の大木が風でぽっきり折れた。脇にあったガードレールが折れ曲がり、木の根っこがアスファルトを砕いて持ち上がった姿は壮観だったが、若い女子社員中心に携帯付カメラで記念写真大会になるのはどうか(まあ分からんではない)。ひとや車が居たら間違いなく大事故になっていた事を考えると余り盛り上がってもいられないのである。バリケードのように道路を塞いだ大木は、2時間後には撤去、傾いだ切り株となった。ウチの親会社は全く仕事が早い。
それはともかく、古いオフィスの壁に取り付けられた換気扇が、外の突風に煽られる度に轟音を立てて回転するのが非常に怖かった。不意にガラガラガラガラガラーっとがなりたてるので、すこぶる心臓に悪い。
17時前に会社の厳戒警戒態勢解除。
台風はかくして萩に去り、温帯低気圧への道を歩んでいった。
それはそれとて、今夜も帰宅は22時を過ぎるのだった(がっくし)。
メラニーは逝ってよし!
2002/6/22(Su)その1
土曜はトラブルで早朝4時半〜9時半を会社で過ごし、1日の予定がただ崩れになった。
(帰宅が「エスプリ」の開店にぶつかり、ル・ロ・フリューイが買えたのだけは怪我の巧妙であった)
まだ疲れが癒えないので(歳だね)つましくも中間で映画を2本観る。
1本目は、久々のラブコメ「メラニーは行く! SWEET HOME ALABAMA(2002・米)」。
この映画、キャッチコピーが「女性共感度=100%!男性不満度=100%?」。宣材チラシはもはやメラニー絶賛大会で、中でも島田律子の「可愛いだけの女なんてもう古い。(中略)そんな幸せになるために一生懸命な女って素敵じゃない?男性諸君、メラニーのような女こそ『いい女』なのだと早く気付きなさい!」などはその典型だろう。
いや、彼女が宣材を意識して提灯持ちの発言をしているのは承知の上だ。
ではメラニーがやった「幸せになるため」の一生懸命が何だったかと云えば、
1.虚偽のプロフィールで過去を隠したこと
2.NY市長の息子の求婚に、過去の結婚を清算すべく故郷アラバマへ帰省、夫を頭ごなしに罵ったこと
3.夫を窮地に追い込んで離婚届にサインさせようと彼の貯金を無断で使い込んだこと
4.計画が思い通りに運ばず酒の勢いで(忘れたくてダサい過去である)旧友たちを悪く云ったこと
5.結婚式のヴァージンロードまで来てから公衆の面前で新郎を振ったこと
6.公衆の面前で新郎の母であるNY市長を殴ったこと
7.夫に「あくまで強気の態度で」復縁を迫ったこと
といった処なのだが、これは「いい女」というよりは、強運で強欲な女なだけでしょ。
(ただ仕事だけは実力で現在のデザイナーの地位を築いた訳で、此処は確かに憧れの対象)
特に4.はひどい。中でも昔から何かと彼女の味方になってくれたボビー・レイ(イーサン・エンプリー)がゲイである事をバラしたのは「ひととしても」最低。アラバマは南部の保守的な町なのだ。これから先も此処で暮らし続ける彼への思慮がないにも程がある。
むしろ、彼女が究極の選択を迫られるふたりの男がとことん「いい男」である。
しかも徹底的に「メラニーに都合のいい」男でもある。
夫(ジョシュ・ルーカス)の7年越しの真摯な努力には胸を打たれるし、ニューヨーク市長の息子(パトリック・デンプシー)などヴァージンロードでドタキャンされても、彼女を痛罵するでなく静かに身をひいてくれる。「立つ鳥後を濁さず」で、この先もメラニーのいい思い出として残るし、アフターケアも万全だ。
彼のおかあさん(キャンディス・バーゲン)の反応など却って真っ当なのだが、そこは南北戦争今昔、ヤンキーが敵の本拠地に出向いている悲しさ、我が非を棚に上げた母子の手によってどさくさにフクロにされてしまう。
しかも、それが劇中、爽快なシーンとして描かれるあたりがより一層疑問符。
結局、世の女性は彼女の強運(都合のいい人生)に羨望するだけなんじゃないか。
成程、ヴァーチャルにメラニーを体験したいという女性は多いかもしれんが。それはただの妄想系。
でも映画の最后でメラニーが夫に復縁を迫った時、そのまま雷に打たれるんじゃないかと思ったひとは僕だけではないと思うんだが(ちなみに映画の冒頭、10歳の彼らが実際に落雷に遭うシーンがある)。監督のアンディ・テナントが其処をやってくれたら(勿論、死ぬ必要は無い。真っ黒けになって口から煙を吐く程度で結構)、それなりの名作の予感もあったのに、ま、所詮、其処までの映画。
処で主演のリーズ・ウィザースプーンはそんなにキュートなのか。俺の目はそんなに節穴か。
「カラー・オブ・ハート(1998)」で姉さんを演じてた若い頃のふっくら加減が、頬肉がそげたことで小顔のウィレム・デフォーになってしまった(今後はデフォ子ちゃんと呼んでもいい)。はっきり云って演技力は普通なのに、デフォー顔というハンデを背負って、ヤなオンナをキュートに演じるには、彼女には荷が重過ぎる。
ただ、ティファニー本店を貸し切っての求婚は映画史上類を見ないバブリーなプロポーズかもしれない(オーマイガー)。俯瞰で眺めたティファニーの広々とした店内、各部署の店員が穏やかな笑みを浮かべて一斉にショウケースから指輪を取り出すさまは鳥肌が立つ程、壮観である。このシーンだけは長く残りそうですね。
この項、つづーく。
北京ヴァイオリン
2002/6/22(Su)その2
メラニーを忘れるべく、「北京ヴァイオリン TOGETHER/和[イ尓]在一起 (2002・中)」。
前作「キリング・ソフト・ミー(2001)」(はっきり云ってヘザー・グラハムのシルクを使った鬱血遊戯しか思い出せないのだが)で、良く云えば「芸域を広げた」、悪く云えば「ハリウッドシステムに呑まれた」、らしくない没個性官能サスペンスを撮り上げた陳凱歌も、ご当地に戻ると水を得た魚のように、かくもあたたかい人情噺をこさえてくれた。無論、其処には芸術と人間性との葛藤といった「覇王別姫(1993)」なスパイスもぴりりと効かせてある。
さてもハリウッドシステムで映画を撮る事の難しさよ。
此処10年程は「花の影(1996)」「始皇帝暗殺(1998)」と華やかさや壮大さのひとだった陳凱歌が、ヴァイオリンという異物を介在させつつも久し振りに市井の親子の情愛を描いた。チュン少年(タン・ユン(唐韻))のソリストとしての才能を伸ばしてやろうと涙ぐましい努力を続ける父親(リウ・ペイチー(劉佩奇))の姿は「リトルダンサー」の父子を彷彿とさせるが、此処にヴァイオリンの師であるユイ教授(陳凱歌当人)が、音楽家としてのチュンの第二の父親的存在としてふたりに割って入る。教授は見出した少年の才能を開花させる為ならば、どんな方法も厭わない。そのせいで父子の仲が引き裂かれようとも、少年の音楽家としての可能性をこそ選ぶ。
と来ると最終的にチュンが父親とヴァイオリンとどちらを選ぶかは、観客の誰もが予想がつくのだが、要はそれをどう感動的に見せるかで、この映画は観客の琴線というヤツをよーく心得ている。今度ばかりは陳凱歌の手管に完敗したって感じ。尤もこんな敗北感なら幾らでも味わいたい。
以下、ネタばれになるが(未見のひとは読み飛ばしてください)、チュンの出生の秘密と当時の父親の決意を、現在の少年の決意とカットバックして描くことで、父親が田舎へと旅立つステーションは、彼のライバルだった少女が立つ国際コンクール予選の晴れ舞台とぴたり重なり合う。劇場の聴衆と駅の雑踏とがいつかシンクロして、少女は世界の檜舞台に、そして少年は今まで男手ひとつで自分を育ててくれた父親の為だけに一世一代の演奏をするのだ。
難を云えば、駅での演奏シーンが俯瞰で広く大きく撮れていれば、もっと感動的な絵になったのにという事。たとえばテリー・ギリアムの「フィッシャーキング」の駅のホールが一瞬にしてダンスホールに変わるシーンのように(尤もそんなムチャをするからギリアムは映画が撮れなくなるんだが・笑)。このへんが非ハリウッド資本の限界なのだな。
この映画、褒め処に事欠かないのだが、何しろ各登場人物のキャラが実に立っている。
チュンの最初の恩師であるチアン先生(ワン・チーウェン(王志文))の愛すべきカーディガンのよれっ振りと髪の寝癖っ振りとがさつっ振り(故に最後の授業で身なりを整えて、音楽家としてチュンのヴァイオリンにピアノの伴奏をつける処が活きてくる)。とにかく一旦見つけた靴下をベッドの下に返すくだりは大笑いしました。
そして、チュンの姉貴分となるリリ(チェン・ホン(陳紅))の華やいだ美しさ。
チェン・ホン(陳紅)は名前を見ても分かる通り、実生活でも陳凱歌のパートナーなのだが(主にTVドラマで活躍する女優らしい)、ま、現場でいちばん叱られただけあって、コケティッシュな麗しさ、愛らしさが際立つ。
チュンが選んだ明るい色のカットソーを身に付けたあと、姿見に向かって頭に巻いたカーラーをぱらぱらぱらぱらーっと無造作に指で払い落としていく仕種が、いかにも作為に満ち溢れてるものの佳いのだ、これが。きっと何度もテイクを重ねたんだろーなーと思いつつも、つい見とれてしまうのだった。
と、「北京ヴァイオリン」でメラニーの口直しが出来たので満足して、階下の書店で江國香織「薔薇の木 枇杷の木 檸檬の木」(集英社文庫)を買って帰る。
夕餉どきのハグ
2002/6/24(Tu)
近頃、家族が揃った夕食時には必ず悠都が僕の肩を抱く。というか肩を組んでくる。
「何で肩を触るんだよ」と云うと「じゃ、こっちならいい?」と腕や背中をぺたぺたと触る。
近頃、パパの帰宅が遅いのは確かだが、そんなになつかんでもと思う。勿論、悪い気はしない。
それからパパが家にいると、彼のママへの態度が一段とひどくなる。
妻が彼を叱ると「あっち行け」などと罵るのだ。僕がいない時は絶対云わないらしい。
決して僕が煽ってるとかそういう事ではないのだが、どうもパパがいると気が大きくなって増長するようだ。
でも、愛息の乱心はママをかなりへこませるので、出来ればもう少し節度ある態度で臨んで欲しい。
そろそろ息子も保育園へ行きどきなのかもしれない。
処で、お昼休みに読んだ人生逆相談の種ちゃんの次のコメントにふと目が止まる。
形式があるから、てれずにできる。すごいですね。
そういえば結婚記念日とかもそうなんでしょうね。
うちは一回もしないうちに結婚時代おわっちまったぜ!ちぇっ!
僕は「種の友」に入っていないんで、此処しか情報源がないのだが、種ちゃん、今ひょっとしてシングル?
コトの真偽はどうあれ、何だか「おおきなもの 〜Tomokoからの風景」(シンコーミュージック)を本棚の奥から引っ張り出して、再読したくなった。最近ゲンキがガス欠気味なんで、あの頃の「音楽」躁状態の種ちゃんから有り余るゲンキを分けてもらいたい。
夜、名古屋章(享年72歳)と山根赤鬼(享年67歳)のダブル訃報を聴く。
「ピタゴラスイッチ」ファンの妻は百科おじさんの声を誰がやるのか心配している。
そういう事じゃないと思うんだが。とまれ、合掌。
タイムリミット
2002/6/25(We)
たまたま早く帰宅したら、丁度、TBSの2時間サスペンス林海象「タイムリミット(2003)」が始まる処だった。
ドラマの存在自体は主演のひとりである、緒形さんのサイトで見知っていて、是非観たいと思っていたのでまさに間一髪で助かった。近頃、余りラテ欄に目を通してないからなあ。
「CAT’S EYE(1997)」以降、メジャーな舞台に出てこない林海象はデビュー作「夢みるように眠りたい(1986)」以来、一貫して探偵アクションへのリスペクトに満ちた映画を撮り続け(「探偵・濱マイクシリーズ(1994〜1996)」「海ほおずき(1997)」「流れよ我が涙、と探偵は言った(2002)」)、たとえば探偵が出て来ない「CAT’S EYE(1997)」にしても、怪盗が探偵役も兼ねるピカレスクロマンであり、今回のスペシャルドラマはその系譜に連なる。また爆弾使いの金庫破り(竹野内豊)と彼を護送する刑事(緒形拳)のバディ・ムービーとしての側面も持つ。
脚本はメインライターに利重剛(爆発物処理班の指揮官として出演もしている)、音楽は利重つながりで恋愛映画の秀作「クロエ(2002)」の今野登茂子(元プリンセスプリンセス)、脇を固めるキャストも佐野史郎、千石規子、原田芳雄、北村一輝とまさに家内制手工業の布陣である。
海象監督、テレビドラマは初めてらしいが、この作品はスマッシュヒットでした。
彼がこれまでに作った全作品を並べてもかなり上位にランクされる出来だと思う。
何か吹っ切れたというか。作りこみのバランスの悪さが彼の弱点なんだが(そのありがたくない代表作に「ZIPANG(1990)」、あと「CAT’S EYE(1997)」もそーだな)、今回も北村一輝のスナイパー振りとか、火野正平演じるヅラ代議士の典型的自己チュー振り(意外なキャスティングだった)とか、明らかにヤり過ぎている処は散見されるのだが、どうにかギリギリの線で作品世界を壊さずに成立している。冒頭の「ミッション・インポッシブル」張りの金庫破りからこれは絵空事ですよと高らかに宣言したのが良かったのかもしれない。
お話はシンプルで分かり易いし、キャラ造形が見事。
特に、緒形拳扮する規律正しく融通が利かない加山刑事はどうだ。
もしかしてキャラ設定自体の魅力でこのホンのオファーを受けたんじゃないかと思える程。物語の暴走のためにキャラを破綻させる事もなく、首尾一貫して堅物であるという「制約」の面白さ。ちなみに緒形さんは犯人はともかく、刑事役は殆どした事がなかったらしい。
竹野内豊が演じた水沢の色付けも主人公らしく、なかなか拘っている。
父親が花火職人で自分もいつか天下一の花火職人を目指しているという背景も手伝って、金庫破りや爆弾解体に神経を集中させる時には、必ず志ん生の「たがや(隅田川の花火大会の噺)」を聴いている。で、「たまやー、かぎやー」のくだりで見事に仕事を仕上げる心憎さ。こういうあざとさは大好きなんですよ。
しかし、さすがはテレビ、監督も久々にこんな豪華キャストで撮ったんじゃないか。
麻生祐未の勿体無さ過ぎる使い方、京野ことみの余りに「らしい」娘っぷり。
加山の妻役のいしだあゆみさんが、ヘレン・カーペンターみたいに痩せていたのだけが気がかり。
かけすのサミー、逝く
2002/6/27(Fr)
もう25日の訃報になるが、声優の八代駿逝去。享年70歳。このひとも脳梗塞。
若いひとには「くまのプーさん」でお馴染みである。CMにプーさんが出る度に八代さんの声が聴けたし、去年、ディズニーランドでパレードを観た時もしっかり八代さんがまったり口調でプーさんを演じていた。ディズニー公認プーさんの声優(尤も僕などはその配役にかなり違和感をおぼえたひとり)。
僕らの世代にとっては「トムとジェリー」のトムであり、「いなかっぺ大将」の西一(にしはじめ)であり、「山ねずみロッキーチャック」のかけすのサミーであり、「仮面ライダー」のアブゴメスを始めとするショッカーの怪人群の非人間性を支える貴重な声優であった(「仮面ライダー」は首領の声を同じテアトルエコーの納谷悟朗が務めていた縁もあって、沢りつお始めテアトルエコー所属の役者さんが大挙してショッカー怪人を演じていた。あと、意外な処で上田耕一(ギルガラス)がいたり、老人になってから役者として花開いた谷津勲がレギュラーだったり)。
しかし何と云っても「トムとジェリー」のトムである。
子供の頃から繰り返し再放送で八代版トムを味わってきた僕らには、このひと以外にトムの声は考えられないのに、LDもDVDも其処らへんを見誤った。僕がかのDVDを全部揃えてい乍らなかなか観る気にならないのはそのせいである。ナレーターの谷幹一始めテレビシリーズのオリジナル声優が元気なうちに全部吹替えをやり直したってよかったのだ。八代さんが亡くなった今、その野望は潰えた。タイムスリップグリコの果てなきマニアック嗜好を見るにつけ、つくづくDVD化するタイミングが早過ぎたのだと思わずにいられない。
テアトルエコーのお芝居は昔、二度程観た(「正しい殺し方教えます」「馬かける男たち」)。
納谷悟朗も熊倉一雄も沖恂一郎も安原義人も沢りつおも活躍してくれたのに、このひとだけが出てくれなかった。
ああ、順番とは云え、無性に切ない。僕らは一体どれだけの名優を失えば神様に許してもらえるのか。
トムさんと西一とかけすのサミーと、アマゾニアとキノコモルグとゴースターとハエ男とユニコルノスとミミズ男とギリザメスとギラーコオロギとアブゴメスとモスキラスとサソリトカゲスとサボテンバット(て、探せばこの手のデータはすぐに見つかるものですね)に。万感の想いを胸に、合掌。
夕食後、お中元でいただいたアルルのシュークリームを食べる。んまいんまい。
夜中に妹たちから電話がかかってきて、バカ話にまぎれて色々と。何やかやと切なかったり。
温帯湿地のエクスタシー
2002/6/28(Sa)その1
シネリーブル博多駅にて、塚本晋也の新作「六月の蛇 A SNAKE OF JUNE(2002・日)」。
画面からは濃密な大気がこぼれ、生暖かな雨が時にかそけく時に激しく降り続ける。
今日のようなまたとない梅雨空の午后にこそ観るべき映画。夕暮れ以降だと尚良い。
塚本監督がパンフに「この映画が出発点であり、ひとつの到達点なのです」と序文を寄せていたが、まさしく自画自賛に値する、彼の集大成とも呼ぶべき傑作で、今後長く皆に語り継がれる、邦画史に残る作品と云っていい。「双生児」も「バレット・バレエ」もこの映画を作る為の前段だったと、断言しちゃう程、観ていて盛り上がってしまったオレ。
末期癌のカメラマン飴口道郎(塚本晋也)が自分の担当になった電話カウンセラー・りん子(黒沢あすか)に目をつけ、ストーキングする事で、彼女が潔癖症の夫・辰巳重彦(神足裕司)とセックスレスの満たされぬ性生活を送っている事を突き止める。飴口はりん子の自慰を盗撮し、それをネタに彼女が決して夫にはあらわに出来ぬ「本当の自分」を剥き出しにする事を携帯電話で強要し、遠くから彼女の姿を撮り続ける。そして偶然から彼女の胸の不自然さを看破し、病院へ行く事を勧め、りん子は図らずも自らの乳癌に向き合わされる事になるのだった。
彼女は重彦に乳癌である事を告白するが、夫は妻の胸ばかりを心配して彼女の命を省みようともしない。夫はどろどろした現実が不得手で、自分の母親の最期すら妻に看取らせた程だった。夫婦がセックスレスな原因は大っぴらには明かされないが、夫がED(性機能障害)である事、妻がそんな夫を選ぶようなトラウマがあった事がそれとなく示される。
妻の乳癌という代償は大きいものの(夫の拳銃強奪というのもあるか)、この盗撮騒動をきっかけに「雨降って地固まる」、タナトスとエロスとが交わりあった先に、夫のED寛解があって、「めでたく」夫婦が合体して物語は閉じる。
こんな風な手口で愛と死を掛け合わせる事で、こうしてとんでもない奇蹟(モンスター)が生まれた。
これは紛れもない変態映画であり、紛れもない都市と孤独の癒し映画であり、紛れもない雨の映画である。
「水の女(2002・日)」と云い、近頃、雨の邦画にハズレがないなあ。
くどいようだが、褒め言葉ならば、掃いて捨てる程浮かぶ。
雨を始めとする溺れそうな湿度の空気感(湯船に浸かるりん子の顔中を鱗のようにびっしりと埋め尽くした細かい水滴、トイレの個室で抗うりん子をぐっしょりと濡らした気持ちの悪い汗と雨水)、乱歩ものに出てきそうな秘密倶楽部の一部始終、千乃ナイフ(古いなァ)みたいなサイボーグ陰部のチープさ故の猥雑さに潜むさまざまな隠喩、役者は演技力じゃなく存在感と見せ方だと改めて教えられた神足裕司のたたずまい、黒沢&神足という「美女とインテリ野獣」の妙、スタンダードの青く沈んだモノクロ画面の美しさ、それからそれから…。
全くの余談だが、寸原女史こと斉藤清子が、映画の冒頭、りん子が自殺を思いとどまらせた小学生の母親役で出演しているので、その筋のTSBマニアは要チェック。
映画が終わる頃、妻からメールで息子がギブアップとあったので、2本目の「ノボ(2002・仏)」は次週廻しとし、組みかけの山笠の山車など眺めつつ、ひとまず帰宅の途に。途中「サントノーレ」に立ち寄って「ロワールの果実」と「甘夏とオレンジの休日」を買う。て、名前だけじゃどんなケーキかさっぱり分かりません。
この項、続く。
亡霊と思い出とのはざまで
2002/6/28(Sa)その2
夕食後、中間でレイトショウ。「ムーンライト・マイル MOONLIGHT MILE (2002・米)」。
「ジャンヌダルク(1999)」以来、久し振りのダスティン・ホフマンを拝みに行く。
夫婦の痴話喧嘩を発端にした発砲事件の犠牲となった女性ダイアナ。
彼女の両親(ダスティン・ホフマン、スーザン・サランドン)と婚約者(ジェイク・ギレンホール)はいかにその悲しみの束縛から立ち直るか。しかも、両親が娘のフィアンセだったが故に、息子同然に扱って、悲しみから逃れるように縋っているジョーは、実は事件の3日前に彼女と別れ、許婚者から親友の間柄に後退していた…。
愛するひとが死んだ時、そのひとの死が余りに唐突で、奪われた感が強い程、後に遺された僕らは現実に戻ってくる事が出来なくなる。第三者から眺めた時、後に遺されたひとびとにとって先に逝ったひとは「思い出」を通り越して「亡霊」になってしまうのだ。この亡霊のくびきから解かれ自由になるには、多くの時間と力を費やさねばならない。この日記でも再三書いたが、人の親になって子供を亡くす悲しみは肌で理解るようになったので、仮にそういった事が起これば、僕自身、その「亡霊」から逃れるのは、余程大きなきっかけがなければ、不可能に近いと思う。
そもそも「亡霊」とは自分自身との対話に他ならない。
故に、ダイアナという亡霊は、ジョー(元カレ)とベン(父親)とジョージョー(母親)に全く違う貌(かお)を見せる。
ダイアナの両親を、なりゆきからとは云え、騙し続けている格好になったジョーは、夜な夜な元婚約者の言葉無き視線に苦しめられるし、成人した娘ときちんと大人として付き合えていなかった自覚のあるベンには、彼女に仕事人としての自分を見せる為に地上げに血道を上げる。本当に向き合わなければいけない時に、娘の目をきちんと見て話せなかった彼は、密かに抱えていた彼女への負い目を永久に消せなくなる。そしてエッセイストである母親のジョージョーは夫と自分をつなぐ娘を失った事で、とうとう言葉が紡げなくなってしまうのだ。
またスーザン・サランドンが雄弁で辛辣で愛情豊かで愛らしくていいんだ。
この映画は3人がその亡霊から自由になる装置として、婚約者ジョーとの疑似親子関係の崩壊が機能する。娘が凶弾に倒れたのは、父親へ婚約解消を告げる為にダイニングバーで待ち合わせたからで、しかし婚約解消の真実を受け入れる事で両親はようやく娘という「亡霊」を「思い出」に昇華する事が出来るという、何とも皮肉な構造。
ジョーは新たな恋人バーティー(エレン・ポンペオ。彼女もまたベトナムに行ったまま行方不明になった恋人キャルの亡霊に縛られていた)とてらいなく旅発ち、両親たちもまたそれらを含めた全ての現実を受け入れる事で、日々の暮らしに帰還するという結末は余りにアメリカ的に過ぎる。
とは思ったものの(但しイタリア語の貼り紙を小道具にしたラストシーンは大好き)、これを「ベルリン天使の詩(1987)」のリメイクである、あの「シティ・オブ・エンジェル(1998)」を撮ったブラッド・シルバーリングが現時点で提示出来る解答と思えば、それはそれで作家としての成長のあとが見られるというか。
商業不動産の事務所を畳むことを決めたベン(ダスティン)が旅発つジョーへ手向けた言葉がいい。
「娘には云えなかった言葉を君に贈ろう」と彼は「息子」の額をそっと抱き寄せキスする。
そして、力強く囁くのだ。──「GO(行きたまえ)」と。
バーティーの恋人がベトナム戦争に行ったという設定からか1973年のマサチューセッツ州が舞台なのだが、70年代の空気感はよく出ていると思う。主人公のジョーが何をしていいか分からなくなっているあたりも時代とリンクしているし。彼は典型的なマージナルで、そのうえスロースターターなので(そのくせ、バーティーへのアタックは急速だ)観ていてじれったいが、故にクライマックスの法廷シーンが活きるのだろう(と思いたい)。
にしても検事補でホリー・ハンターが出ているのはひたすらゴーカ。
家に帰って、3時半頃まで、「FNS27時間テレビ」を観る。
真のお目当てはさんまと中居のトークだったのだが、今年も泥酔した鶴瓶師匠が遂にフリチンを出してしまう。
(妻はたまたまノートのモニタを見ていて難を逃れた)
実質的なお咎めはあるまいが、大昔のテレ東差止め事件といい、まさしく酒禍のひとである。
土産代わりの元夫殺し
2002/6/29(Su)
のんびりと日曜日。
尤も、のんびりしすぎて、中間で初回映画を観に行くも、お目当ての上映がとっくに始まっており、やむなく前売りを買っておいた「チャーリーズ・エンジェル フルスロットル CHARLIE'S ANGELS: FULL THROTTLE (2003・米)」。今日の手出しこそなくなったものの、これでその映画を観る機会が当分失せた事だけちょっと悲しい。
女優魂に裏打ちされたお色気アクション(サーフライドにモトクロス)とゆるい笑いとバカガジェットが満載。
話はB級、予算はA級のおバカ超大作っぷりは相変わらず。
一作目のファンには、ビル・マーレーの追っかけを除く全員が大喜びする事を請合う。
以下、思いつくままにつらつらと。
物語そのものの整合性について、辻褄がどうとか、此処はおかしいのではとか、突っ込む類の映画ではないので(「科学的に見て」等はもう論外!)、それを云えば、オープニングのモンゴル国境の人質(演じるは「ターミネーター2(1991)」でT−1000を演じたロバート・パトリックだ。老けたね、このひとも)奪回エピソードにしてから、?の嵐で、いっそアレをラストシーンにもう一本映画を作って欲しい位である(きっと幾らでも作れるし)。
個人的にはルーシー・リューの父親(おいおい)ジョン・クリースの、谷啓にも迫る名コメディリリーフ振りを買いたい。
「007」シリーズでレギュラーの座を獲得した彼はおばかスパイ映画のイコンとして燦然と機能する。
娘を医者だとばかり思っていた彼は、アレックスの恋人にしてハリウッドスターのジェイソン・ギボンズ(マット・ルブラン)の「彼女は、チャーリーズ・エンジェルなる高級売笑婦である」てな、いかがわしい真相に翻弄され、ジェイソンの説明を更に勘違いしたアレックスの「今まで黙っていてごめんなさい」のあとに続くフォローにいよいよ混乱していくが、この典型的な勘違いファルスも、目を白黒させて「イタチちゃん(娘の愛称)…」と呟くジョン・クリースの「受け」の名演あってこそ。
彼がカーテンコールでサービスする軽妙なダンスがシリー・ウォークならもっと良かったのに。
伝説のエンジェル、マディソン・リーを演じるデミ・ムーアはちょいと冴えないですねー。
主演3人のリスペクトは受けているものの、今ひとつ落ちぶれ感が払拭出来ないというか。
「G.I.ジェーン(1997)」で命運尽きて、「薔薇の眠り(2000)」も今イチぱっとせず、大物だけど鳴かず飛ばずよね、みたいな処が、本作でチャーリーと意見が合わずにダークサイドに堕ちたという設定と妙に重なってしまって、映画のためにカネかけてシェイプアップしたボディまで何だかうら寂しい。元夫のブルース・ウィリスみたいに作品の規模に拘らず、地味でもいい作品を選んでって欲しいもの(勿論、こういうバカ映画の出演は望ましいもののひとつ)。
出演者のロバート・パトリックに敬意を表してか、「ターミネーター2」のパロディでエンジェル3人が、ターミネーター張りに前屈みの全裸で登場するシーンがある。ギャグのために全裸になる、というのがハリウッド女優の心意気か(元々キャメロン・ディアス、ドリュー・バリモア共脱ぎっぷりは悪くない。特に佳作「ボーイズ・オン・ザ・サイド(1995)」で、椅子に縛り付けたオンナの敵を揶揄う為だけの目的で乳を出す悪ふざけ振りは圧巻である)。皆さん一流の女優さんだけあって、高額ギャラの意味をご存知というか、この映画に期待されているものをよく心得ていらっしゃる。
TVシリーズのジャクリーン・スミスがエンジェルOGとして、カメオ出演しているが(何故かメキシコの場末のバーのカウンターに座っていてディランの悩みを解決すると天に召される、って何だそりゃ)、そんなもん目じゃないのが、証人保護プログラムに護られた対組織犯罪最重要証人リストにアクセスする指輪を所持した政府要人として、マディソン・リー(デミ・ムーア)に殺される(ヅラ扮装している)デミの元夫ブルース・ウィリス!
エンドクレジットで目を凝らしても彼の名前を見つけられなかったので(単に英語力の問題だけか)他人の空似かとも思ったが、公式サイトで確認したので間違いない。
これから映画館に向かうひとは公私混同・公開骨肉の争いに注目せよ。なんつって。
ちなみにこの映画のプレミアにはブルース&デミ元夫妻&娘たち&デミの恋人アシュトン・クッチャーの6人で現れたというから、存外、本作のブルース・ウィリスは元妻への友情出演かも知れない。
映画がハネたあとは、いつも通りの親子水入らずのまったりした日曜日。平和である。
ほんとうの備忘録
2002/6/30(Mo)
さて今月観た映画は以下の11本。諸般の事情で「アンダー・サスピション UNDER SUSPICION(2000・米)」を観損ねたのは痛恨の極みだが、こういうものは縁なので。
(連番は今年に入ってからの通算)
54.「魔界転生(2003・日)」6/6(Fr)
55.「ヤァヤァ・シスターズの聖なる秘密 DIVINE SECRETS OF THE YA YA SISTERHOOD (2002・米)」6/7(Sa)
56.「ホーリー・スモーク HOLY SMOKE (1999・米豪)」6/7(Sa)
57.「恋愛寫眞 COLLAGE OF OUR LIFE (2003・日)」6/14(Sa)
58.「鏡の女たち FEMMES EN MIROIR/WOMEN IN MIRROR (2002・日)」6/15(Su)
59.「ロスト・イン・ラ・マンチャ LOST IN LA MANCHA (2002・米英)」6/15(Su)
60.「メラニーは行く! SWEET HOME ALABAMA (2002・米)」6/22(Su)
61.「北京ヴァイオリン TOGETHER/和[イ尓]在一起 (2002・中)」6/22(Su)
62.「六月の蛇 A SNAKE OF JUNE (2002・日)」6/28(Sa)
63.「ムーンライト・マイル MOONLIGHT MILE (2002・米)」6/28(Sa)
64.「チャーリーズ・エンジェル フルスロットル CHARLIE'S ANGELS: FULL THROTTLE (2003・米)」6/29(Su)
尚、今月読了した本は以下の2冊。
宮本輝「約束の冬(下)」(文藝春秋)
最相葉月「あのころの未来―星新一の預言―」(新潮社)
読みたい本は山程あるのだけれど、結局こんなもんですよ。
平日、夜更かしの悠都が起きてる時間(10時過ぎ頃まで)に帰宅すると彼を寝かせているうちに木乃伊取りが木乃伊になって、再起出来ないし(妻も「気持ちよさそうに寝ている」という理由で起こしてくれない)、息子が寝ている時間に帰ると、もはや読書する余力も残っていない。休日は映画を観に行かない限りは殆ど妻子と共に過ごしているが、息子は父親との時間に飢えているので、なかなか離してくれない。昼寝すらすっ飛ばしてつきまとってくれる。やはり、時間ってヤツは「えいや」で作らなきゃですね。
キャサリーン・ヘプバーン、逝く。享年96歳、死因は老衰。
僕が銀幕で直に彼女の姿に触れたのは彼女の最后の出演作であるリメイク版「めぐり逢い(1994)」でのウォーレン・ビーティーの叔母役のみ。音楽がエンリオ・モリコーネだったり、相手役のアネット・ベニング(ビーティー夫人)がかなり綺麗だったものの、映画の出来はオリジナルにはるか及ばないシロモノで、老キャサリーン(当時既に80代半ば)は震えが止まらず、その痛ましさのみに目が行ってしまった。不幸な出会いだったな。これから本当に輝いていた頃の貴女を追いかけます。合掌。
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