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21世紀型ジョン・ウェイン
2002/11/1(Sa)その1
妻が池袋方面に所用があったので、子守りがてらサンシャイン国際水族館へ行く。
悠都が映画館デビューを楽しみにしている「ファインディング・ニモ」の特集(「ニモを探せ!」)をやっている事もあって、彼のテンションは上がりっぱなしだった。
水族館の内容をいちいち活写する元気もないので、以下に画像で紹介しておく。
悠都以外へろへろになりつつ、「天丼てんや」で遅めの昼食。
水族館にオマージュを捧げる意味でも(ウソつけ)海老づくし丼をいただく。
6匹のぷりぷりとした海老を1匹ずつ食べていく愉悦。
ほんとうに美味しいものを食べる間だけ、至福の時間はやってくる。
その後、池袋西武でデパ地下スイーツ探検をした後、木場まで戻ってヨーカドーで散会したのが17時くらい。
北村薫「詩歌の待ち伏せ(下)」(文藝春秋)を購入した後、少し頭がズキズキしていたけれど、折角の映画の日なので、109シネマズ木場で「ティアーズ・オブ・ザ・サン TEARS OF THE SUN(2003・米)」を観る。
「ティアーズ・オブ・ザ・サン TEARS OF THE SUN(2003・米/アントワーン・フークア)」 109シネマズ木場
うーん、これはどう観てもアメリカの国策映画だねえ。以下、ネタばれサルまた失敬。
少なくとも、世界中から悪者扱いされて、実際、アフガニスタン、イラクの戦後処理に手を焼き乍ら、その立ち位置に戸惑いを隠せないアメリカ人がこの映画を観て「そうそう、《命令違反》してでも義を通すウォーターズ大尉の心意気、これこそがアメリカ魂だよ」と溜飲を下げ、「今までオレたちがやってきた事に間違いはなかった」などと自信を取り戻す事請け合いである。
元々この映画の骨格は「ダイハード4」なのだから、ブルース・ウィリス演じるウォーターズ大尉の命運は「災難」に巻き込まれ、満身創痍になっても尚逃げずに逆境から立ち上がり、遂には勝利を掴み取るジョン・マクレーンそのひとに重なる。
つまり、ブルース・ウィリスは21世紀型のジョン・ウェインなのだな。
ジョン・ウェインがひたすら頼もしかったのに比べて、ブルース・ウィリスはひとりの人間としての弱さを見せつつも、自己犠牲の代償として正義の為に弱者を守り抜く。それが21世紀型のマッチョな国アメリカという「神話」なのだ(ある意味、何処かの国の首相がうそぶいた「痛みを伴った」マッチョ像とも云える)。故に、映画の最后で涙を流して大尉たちを絶賛するのは、彼らに庇護されたナイジェリアの難民たちであり、純粋なアメリカ人ではない女性医師のリーナ・ケンドリックス(モニカ・ベルッチ)である。この辺、見事に正統派プロパガンダの手口である。
挙句、難民グループの中へ、反乱軍に殺された前大統領の息子アズーカ(サンミ・ロティビ)を含む周到さ。反乱軍から見れば内政干渉甚だしいウォーターズたちの「兵士である前に人間としての」ミッションも、反乱軍の虐殺の有様を克明に描く事でいとも容易く正当化する。ああ、きな臭い。純朴な米国の観客たちは絶対にイランやアフガンにこの映画の非人道的な反乱軍を重ねるぞ。
ウォーターズだけではない。海軍特殊部隊シールのメンバーは皆、正義感の塊だ。
しかし彼らが人間味溢れた美しい振舞を見せれば見せるるほど、僕の中の黄色信号が点滅を始める。
虐殺の村で乳房をもがれた母親の死水を取った彼らの怒りは、後に一丸となって自己犠牲に殉じていくトリガーとなる。その義憤自体は大層結構だが、彼らの正義とはパラレルに在日米軍の不埒な振舞も存在するのは事実だ。「悪いけど、そうじゃない米軍兵士も沢山いるんじゃねーの」と云わずもがなに頭が行ってしまう。
誤解を承知で云えば、劇中の彼らの勇気と行動は賞讃に値する。諸手を挙げて称えるべきだ。
ただこの美談を、今現在のアメリカの「世界戦略」と同一視すべきではない、それだけだ。
処で、フィオヌラ・フラナガンがリーナと共に医療活動に従事するシスター・グレイス役で出演しているが、スケジュールの都合なんだか編集の都合なんだか、反乱軍がセンターを占領した時に何故か彼女の姿が見えなくなる。個人的希望を云えば、もう少し活躍させて欲しかった。
映画が終わった後も頭痛が収まらなかったので、レイトショウは諦めて帰宅する事に。
電話を入れると妻も頭痛薬を服んで眠っていた。悠都に至っては爆睡モード。
人混み疲れかも知れない。
この項、続く。
「アンリ・シャルパンティエ」のプディング・シュー
2002/11/1(Sa)その2
東京に来て良かった事のひとつは、CX系の深夜番組「お厚いのがお好き?」が観られるようになった事。
小山薫堂と白井晃が好きな僕にはたまらないプログラムである。
少し前になるが、10月16日放送「#26 マルクス『資本論』」で、「資本論」をケーキで語る際に、象徴的に出てきたのが銀座にある「アンリ・シャルパンティエ」の直営店であった。
ケーキのゴージャスさも然る事乍ら、店舗のある築70年余のヨネイビル(都選定歴史的建造物)の格調高さはどうだ。
レトロモダンな外観、そして店内のジュエリー専用のようなショウケースに飾られた目に彩なケーキの数々は、ノータイ・ノージャケットの客を拒むような気品に溢れ、けッと吐き捨てる前に「行きたい」と思わせるに充分な異世界なのだった(ああ、おらァ田舎者のスノッブだとも)。
さすがに一人で行くのは気が引けるので(というか店のオーラが強すぎて、一人で入ろうとしたら50mくらい先に弾き飛ばされそうな気がする)、妻もしくは然るべきご婦人といつか行ってみたいものだと虎視眈々と狙っている次第(こういう時、女性に生まれればよかったなどとやくたいもない事を思う)。
だから水族館の帰り、デパ地下探検に寄った池袋西武のB1食品館〈ギフトデリカ〉に「アンリ・シャルパンティエ」が入っていたのは、神のお導きに他ならない。
カシス色のアート作品と云ってもいいロートレックに惹かれつつも(1個580円、ひーっ)、ビギナーらしくプディング・シュー(シュークリームでも1個250円)を選ぶあたりは小市民というよりは堅実派と呼んでいただきたい。
で、何だかどっと疲れた休日も、食後のお茶(菓子)に暫し癒してもらう訳ですね。
まず、姿かたちからして個性際立つフォルム。硬めに焼き上げられたシュー皮の上半分を四等分にカットしたものを、再構築するみたいに組み直した外観。中は中とて、上層部は生クリーム、真ん中にプチプリンの層を挟んで、下層部はぎゅうっと濃縮して閉じ込めたカスタードの3層構造になっている。ありていに云えば、プリンシューのアンリ・シャルパンティエ版なのだけれど、意外にもクリームとプリンの混合チームは甘さ控えめで全くくどくなく、さくさくしたシュー皮との相性もぴったりで、草臥れた身体に甘露のように染み渡るのであった。250円ぶんしっかり愉しませてもらいました。
これは2003年秋冬コレクション「しあわせはお菓子の中に」にも蛮勇を奮うべきか。
それにしても、価格帯がなあ…。と、すぐしぼむ蛮勇の意気地なし。
「パステル」のなめらかプリン
2002/11/2(Su)その1
連休2日目はおめざから始まる。ブツは、「パステル」のなめらかプリン。280円。
昨日、ギフトデリカ探検の折りに、妻が「食べた事ないのなら話の種に」と日記ネタを供出してくれたのがこれ。
妻が独身のOL時代によく買って食べたらしい。当時から行列の出来るプリンだったそうだ。
実際、発売10周年記念で、陶器仕様の「なめらかプリンロワイヤル」が今月末まで限定発売中。330円。
妻に云わせると、此処のなめらかプリンシリーズは確かに美味い。確かに美味いが、それは並みの美味さであり、280円という価格設定はどうかと思うし、ましてやそれに群がって行列をつくるのだけはずっと納得が行かなかった(て、よく食べてたんじゃないの?)。故にあなたも実際に食べて、その感想を共有して欲しい(以上、大意)、というもの。
成程、たかだかプリン1つに280円ってのは余程の自信か付加価値がないと、少なくとも2回目以降は買わない。
という訳で、そそくさといただく。
…んー、普通に、んまい。
ジャージー牛系のまろやかさな生クリームのスタイルがこれに近い。
でも、10年前に既にこの食(触)感を実現していたのであれば、なめらかプリン・ジャンルの創始者と云っていいのでは? …但し、その役目は280円という代償を考える時「終わってる」かもしれないけど(パステルのケーキはそもそも価格帯が少し高めに設定されてるようだし)。でも、もはや巷ではそういうもんだと「定番」と化しているのだ。
結論、美味い。
たまにすっごく食べたくなる味だと思う。たまァにね。
今日はお後が長いので(何しろ、映画を3本紹介しなくちゃならない)極々シンプルに此処まで。
この項、続く。
東京国際映画祭
2002/11/2(Su)その2
折角、都内在住になったのだから東京国際映画祭の一端にだけでも触れておかねばと、映画祭2日目NCFメディア・セレクション2003に出かける。渋谷駅前は小泉首相応援演説の(ためかどうかよく分からないが)人垣が加わって大混乱状態。とりあえずマニフェストだけ受け取って、渋谷シネフロントに走る。
昨夜、近くのファミマで前売を求めたらとっくに完売していて、改めて映画祭を舐めていた自分を反省したのだが、当日券も2本目「バーバー吉野(2003・日)」と3本目「ジョゼと虎と魚たち(2003・日)」は完売、あとはキャンセル待ちを残すのみとなっていて、当日のダッシュの遅さを重ねて反省する。
唯一、「ふくろう(2003・日)」のみ当日券が残っていたので迷わず購入、L列5番という殆ど会場の最後尾付近の席しか取れなかったのに、実際の会場は4割方空席で何だか釈然としないものを感じる。ダフ屋、頑張れよ、みたいな。
「ふくろう(2003・日/新藤兼人)」 渋谷シネフロント
卒寿を過ぎて尚、創作意欲盛んな新藤兼人監督の最新作。
しかも現在に到るまで半世紀以上もカネに苦労したひとだから、今回も低予算の工夫が漲っている。
何しろ、セットは開拓村の古い家屋ひとつきり。登場人物が家の外に出ると、物語そのものからフレームアウトする徹底振りだ(しかもそれが「象牙の塔」的空間の出来事を演出する装置として機能している)。要は、そのまま舞台化も可能な物語構造なのだが、これだとセット費も安価な上、ロケがないので(蓼科の風景や古家の取り壊し等、人物の入らないシーンでのみロケがアクセント的に用いられている)キャストの拘束時間を最短に圧縮出来る為、人件費も安価に抑えられる。
主役のふたり(大竹しのぶ、伊藤歩)は極貧にあえぐ設定なので、衣装も着たきり雀(大竹さんのワンピースが鯨幕を裁断して拵えるくだりには笑った笑った。美術監督の新藤翁のセンスがきらり光る)だし、家を訪ねる被害者の皆さんも季節労働者(木場勝己、柄本明、原田大二郎)に電気屋さん(六平直政、魁三太郎)、水道屋さん(田口トモロヲ)に警察官(池内万作)、引揚援護課の役人(蟹江一平、蟹江敬三のご子息らしい)と衣装にカネのかからないひとばかり。
本当に映画的な絵づくりだったのはラストの部屋の中で降りしきる雪くらい。
このシーンの為だけに塩野谷正幸、江角英明、上田耕一、松重豊といった役者がおそらく手弁当で友情出演している。
話を元に戻すと、つまり新藤翁は以上を満たして尚、面白い脚本というのを指向した訳である。
話自体はいたってシンプル。貧しさの余りに餓死しかけた母娘が一念発起して、家を訪ねる男共を彼女たちの肉体を代償に農薬入りの自家製酒で毒殺するワンシークエンスを、男の数だけ繰り返し描いて、1本の映画の中で10本の連続ミニドラマを観せるという手法である。たとえば「古畑」で毎回新しい犯人と古畑との頭脳戦のヴァリエーションを楽しむように、観客は新しい被害者と母娘の殺害に到るヴァリエーションを楽しむ。ゲスト・スターの個性の面白さと、観客にはすっかりお馴染みになったレギュラー陣(母娘)への愛着と、TV世代対応は万全だ(男を食い物にする美人母娘という設定自体、ある意味今の昼ドラ路線の延長と云って云えなくもないし…と、これは流石にムリがあるか・笑)。新藤翁、100歳までのカウントダウンを開始して尚、これだけの策士なのである。80年代を舞台にしたのもプロデューサーとクリエイターを兼ね備えたかしこい選択で、時代劇のようにカネもかからず、90歳の脚本家として携帯やインターネットと云った風俗から開放され、且つ理解出来る、ぎりぎりの「現代」だからだ。しかも開拓村問題という社会派なテーマを置く事でドラマに重厚感を醸し出す事に成功している。
尤も「80年代」を標榜しておき乍ら、ダム工事の現場のおじさん(木場勝己)が軽々しく「リストラ」を口にしたり、死体処理する母娘が喜納昌吉「花」を歌うという時代考証ミスを犯してはいるが、後者は歌う度に客席がどっと沸くのだから(先に書いた連ドラ効果も作用している)結果オーライだし、きっと前者は聞き逃すべきなのだろう。
「スワロウテイル」に引続き、今回も伊藤歩の裸は清らかで美しい。壮年スタッフの努力の賜物である。しかも「三文役者」も荻野目慶子でも感じた事だが、性を語り乍らも語り口が枯淡のそれなので、生々しいようで生々しくないのだ。もはや手の届かないものへの憧れみたいなものが間にフィルターとして介在しているかもしれない。そういう意味で伊藤歩のハダカ歴は誠に輝かしい。
上映後のティーチ・インは新藤兼人、大竹しのぶ、伊藤歩の3人がゲストだった。
マノエル・デ・オリヴェイラやレニ・リーフェンシュタールに並ぶ日本最高齢監督である新藤翁は矍鑠たるもので、話は幾分長いが、司会の女性の進行の気配を察して引く処は引くあたりが流石であった。
ティーチ・インの模様の詳細は東京国際映画祭を読んでもらうとして、可笑しかったのは伊藤歩をキャスティングした理由を問われた新藤翁が「主演にまず大竹ありきで娘役をオーディションした時に、演技の実力はよく分からないけれど、大竹さんが丸顔だったんで、細長い顔がいいだろうって伊藤さんを選びました」と発言した事。
「あたし、そんな理由で選ばれたんですかァ」
と少なからずショックを受けた伊藤さんが愛らしかったですね、ハイ。
暫くHMVを冷やかして、鬼束ちひろ「いい日旅立ち・西へ」を視聴して、新しい歌詞を確認したり。
それから「バーバー吉野 〜その町の少年は皆、同じ髪型をしていた…(2003・日)」の列へ。
もたいまさこの主演映画というと「北京的西瓜(1989)」以来ではないか(且つ2作目)。
という事で、もたいファンであれば迷わず本作を観なければなるまい。
キャンセル待ちだったが今度はD列16番というティーチイン的には好位置をゲット。
実際、上映前の舞台挨拶では余りの近距離に小躍りする。
こっそり携帯で写真を撮るひと多数(僕は遠慮しときました)。
ゲストは荻上監督、もたいさん、それから米田良くん(主役)を除いた子役全員。
「バーバー吉野 〜その町の少年は皆、同じ髪型をしていた…(2003・日/荻上直子)」 渋谷シネフロント
第13回PFFスカラシップ作品だが、悪い意味でのインディーズ臭が皆無。
子供映画としても、目線の高さがちゃんと「少年」している上に、素人集団からきっちり演技を引き出している(撮入前にロケ先合宿を敢行して、子供たちを土地に馴染ませると共に、友達同士の親密な空気を築き上げたのだそうだ。おかげで出演者のひとりは小学校の卒業式を欠席してしまったようだが)。
荻上監督、若い乍らも、なかなかの実力派である(尤も、ティーチインではガチガチに緊張していた)。
初期設定こそ、或る田舎町では少年が全員「吉野刈り(ネーミングセンス抜群)」なるおかっぱ頭で暮らしており、彼らの頭は町で唯一の散髪屋「バーバー吉野」の女主人(もたいまさこ)が一手に引き受けていた…という絵的にも「光る眼」的なシュールなものだが(村祭りでは、おかっぱの少年たちが稲刈り後の田んぼに整列してウィーン少年合唱団のように賛美歌を歌う)、奇抜なのは出発点だけで、其処から「伝統」というだけで大きな顔をしている因習との闘いやら、思春期に差し掛かる少年たちの自我やら、母子愛やら(吉野少年が「吉野刈りはキライだけど、お母さんが皆んなの敵になるのはイヤなんだ」と涙を流すシーンはこの映画のキモである。また息子を見守るもたいさんがいい表情をしてるんだ…)きわめてオーソドックスなドラマが展開される。
丁寧できめこまやかな演出は非常に好感が持てるが、リストラされたが家族に云い出せずにいるお父さん(浅野和之)などという通俗な設定が出て来ると、ちょっと白けたりする(大人になっても、奥さんへの愛から唯一吉野刈りを通すという設定はなかなかいい)。「リストラ」はともかく「云い出せずにいる」あたりはもっと料理出来たのではないかと思う。
キレイにハゲているのに頻雑に散発に訪れるご隠居(桜井センリ)や、不意に真っ当な事を云って悩んでいるひとの背中を押してあげるケケおじさん(森下能幸)や、町を愛してやまないもたいさんの各種ディテールなど、この映画は監督の性善説と、町や人への愛情に満ちていて、観ていて心地よい。
思えばこの映画の町と人は大林作品の「野ゆき山ゆき海べゆき(1986)」のそれらと何処か似ている。尤も、「野ゆき…」に出て来る町の方が魔窟度が高いというか、より伏魔殿と化していたけれど。
ティーチインでは、意外にももたいさんが一所懸命喋っていた(監督の緊張を見て取ったのかもしれない)。
「私はこの作品を観るのは今日で3回目なんですが、観る度に私の中の【女優・もたいまさこの】評価が上がっていて、手前味噌ですが、今日に到っては『うん、なかなかいいんじゃない』と思えました」
そのあと、最前列で一緒に映画を観た子供たちから「どうして僕らが選ばれたんですか」と素朴な質問が出たのに対して、監督が「絵的なバランスを考えてのっぽやデブを選びました(で、質問した少年がそのデブ)」と身も蓋もない答えを返したのが可笑しかった。あ、あと、もたいさんの左手の薬指でキラリと光る指輪がひときわ目を引きましたね。
続く3作目「ジョゼと虎と魚たち(2003・日)」は競争率が甚だしく高かったので(朝の時点でキャンセル待ち整理券が30枚出てた)、残る1本は映画祭を離れて、長らく懸案だった「ドッペルゲンガー(2002・日)」を観る事にして、TUTAYAを冷やかした後(何だか冷やかしてばかりだが)Bunkamura方面に移動する。
この項、続く。
ドッペルゲンガー
2002/11/2(Su)その3
灯りが点り始めた文化村通りを歩くと、「劇場版スカイハイ」の大きなパンフレットを抱えた若い一群とすれ違う。
女優としての釈由美子が悪くないのは熟知しているが、何しろ北村作品は「あずみ」が「あずみ」だったのでそれ程食指が動かない。優先順位を考えた時、そもそも観に行く暇などあるのか。
妻に遅くなる旨、電話を入れた後、シネ・アミューズのロビーで、コンビニで買ってきたパンと午後の紅茶で超・遅めのお昼を済ます(もう殆ど夜である)。此処には大昔来た事があるが、何を観たんだか、とんと思い出せない。
「ドッペルゲンガー(2002・日/黒沢清)」 シネ・アミューズ
「回路」「アカルイミライ」と作品的に行く処まで行った、黒沢清の新作。
相変わらず、好き嫌いが大きく分かれそうな作品で、監督自身は本作をコメディと位置付けているようだが、僕はナンセンスだと思う。苛烈で凶悪なナンセンス劇。そういう意味では「赤塚不二夫的」という但書付きでコメディなのだな。いくら何でも柄本明のアレはないだろう(て、これは褒めている)。神の視点(物語)は個々の運命を嗤うが、銀幕のこちら側ではそれを笑う余裕が持てなかったりする。
黒沢監督はジャンル映画を装った「黒沢清」映画を撮る作家だが、狙いがホラーにあっても非ホラーにあっても常に寓意に満ちた物語を撮るひとである。たとえば傑作「アカルイミライ」では、美しくも危険なクラゲをガジェットに、クラゲと若者の立ち位置を重ねて、旧世代の感傷を薙ぎ倒すように彼ら(クラゲと若者)が強い生命力で台頭していくさまを描いた(と、僕は勝手に解釈している)が、本作のキー・ガジェットを敢えて問うならば、ギミック(人工器官)とでも云えばいいのか。早崎(役所広司)が心血を注ぐ人工人体(欠損した身体を補填する)、早崎や由佳の弟・隆志(鈴木英介)という人格自体を(いい意味でも悪い意味でも)補うドッペルゲンガー(何しろオリジナルの抑圧された欲望を勝手に実現していく。嗚呼、佐藤仁美の運命や如何に?)、そして遂には早崎の、何処か満たされなかった人生そのものに、ドッペルゲンガーのギラギラした生命力がギミックとして作用を始め、彼及び由佳(永作博美)の人生の「完成形」に向けて疾走を開始する…(と僕は勝手に解釈する)。
兎に角黒沢作品ってヤツは、種明かしなんて無粋は行わず(そもそも種がなかったりだってする)余白と行間をふんだんに物語に投入する事で、自作を、色んな解釈を好き嫌いなく捕食する巨大アメーバみたいにしてしまうので、ひとによっては僕と全く異なる映画読みをしている筈だ。早崎のドッペルゲンガーひとつを取っても、最終的な早崎がオリジナルだったのか、ドッペルゲンガーだったのかという判断は観客に投げっぱなしだ(以下、思いっきりネタばれに走るので注意)。
早崎が君島(ユースケ・サンタマリア。ある意味「アカルイミライ」の浅野やオダギリを継承したようなキャラである)に逆襲された後、鼻のあたりにギプス(?)をして再登場するが、あれはオリジナルの早崎が君島に負わされた傷なのか、分身の早崎がオリジナルに負わされた傷なのか、最后まで正解を与えてくれない。
ひとつだけ云えるのは、再登場してからの早崎はより分身にキャラが酷似して、最終的にはオリジナルが全霊を傾けた人工人体を破壊してしまう。アレを、オリジナルにすり替わった分身がオリジナルへの意趣返しにやったと取るのか、分身が死んだ事で一体化したオリジナルの早崎の中で既成の価値観が毀れたと取るのかで(或いは他の僕の思いつかない解釈)、物語は全く違う貌を見せる。
でも、監督のいらえはいつだってただひとつ。…「お好きなように」
これはある意味、ダンディズムと云っていい。
だから、黒沢作品はクセになる。でもって、一般ウケしない。
処で、「アカルイミライ」でも車のシーンでオダギリジョーと藤竜也の目線の先の「ミライ」がばらばらだという寓意を含んだ画面分割をやっていたけど(画面分割を行う事自体、黒沢さんの一映画ファンとしての悲願だったらしい)、今回はひとりの役所広司をふたりに見せるイリュージョンとして効果的に用いている。これ、観どころなだけに、コンテが大変だったと思う(勿論、ゴジラ芝居のような一人芝居と格闘した役所さんには「スパイダーマン」のウィレム・デフォー並みの敬意を払いたい)。
上映終了後、ロビー内に展示してある、劇中で使われた人工人体を見物する。
これは、「バトルロワイヤル」の迷彩服と違って生徒の数だけ映画館に配るという訳には行かないからなあ。
実際に座って記念写真をどうぞとはあるものの、独り身の淋しさ、現物だけカメラに収めて済ます。無論、大のオトナなので「…こ、此処に永作のお尻があたったのかァ」などと中学生のような感慨は起こらない(あたりまえだ)。
11月に入ったばかりだというのに、夜の渋谷には一足早くクリスマスが来ていたので、思わずパチリ。
珍名さん、いらっしゃい(其ノ壱)
2003/11/4(Tu)
子供の頃、押坂忍の「特ダネ登場!?」が好きだった。
特にオープニングの「珍名さん」の「苗字当て」は本当に楽しみだった。
思えば、影の声が熊倉一雄だった事が、面白さを引き立てるスパイスに一役買っていたのかもしれない。
というような枕はさておき、ふと思い立って、珍しい苗字なんてェものをネット検索してみた。
はっきり云って自分の無知を恥じ入る程沢山見つかった。
尤もネット検索のおそろしさは、余りのヒット数に生半可な珍しさでは感覚が麻痺していく事か。
元々知っていた、「小鳥遊(たかなし)」や「月見里(やまなし)」が可愛らしく思えてくる。
珍しい苗字と云っても、難読度から大きく以下の3つのカテゴリーに分けてみる。
a) 難読苗字(Aランク)
漢字の音訓読みのそこそこの基礎では全く役に立たないケース。
上で紹介した「小鳥遊(たかなし)」や「月見里(やまなし)」はまさにこの例。
b) 難読苗字(Bランク)
漢字の音訓読みの基礎がそれなりにあれば、まあ読めなくはないケース。
ただ教えてもらわなければ、わざわざそうは読まない。
というか、試しに読んでみたら読み方は当たったけど、でもね、けどね、ホントにいいの?…てヤツ。
C) 非難読苗字
読むのに苦労はしないが、苗字とは思えない苗字。
d) カナ混じり苗字
たとえば「城ヶ崎」とか「堀ノ内」等、三文字苗字の間にカタカナが来るものは、とりあえず予想の範囲内だが、苗字の一番最后に送り仮名の如く、平仮名や片仮名が入ってくるケース(一番最初もあるのかも知れないが、現時点では見つけていない)。
という訳で以下に、上記選定基準で僕が独断と偏見で「厳選した」珍しい苗字を紹介する。
尤も、苗字によっては他の読み方や他の漢字を当てるものも多々存在するが、紹介対象は自分の琴線にヒットしたもののみである。更に尤も、今回調べてみて個人的に新鮮だったものを選んだので、万人にとって珍しいかどうかは保証しない。結局、珍しさ度などというものは個人に帰するものなので。
尚、難読苗字は白字にしておくので、読み方はカーソルで領域を選んで「答え合せ」してみてください。
a) 難読苗字(Aランク)
まずは軽ーく(笑)漢字2文字パターン20連発。
01.垂髪 → うない
02.歌枕 → かつらぎ
03.明日 → ぬくい
04.埋樋 → うずんべ
05.神呪 → かんの
06.男全 → おまた
07.日外 → あぐい
08.属増 → さかんぞう
09.粟冠 → さっか
10.街風 → つむじ
11.王生 → いくるみ
12.牛尿 → うばり
13.花表 → とりい
14.月出 → みかづき(ひたち)
15.樹神 → こだま
16.毛受 → めんじょう
17.心像 → こころやり
18.儁侃 → じゅんか
19.村主 → すぐり
20.南足 → きたまくら
ね、眩暈してこない? …既にお腹いっぱいじゃないかと思われ(笑)。
にしても最后の「南足」、考えオチだけどどうしてまたこんな苗字が生まれたのやら…。
お次の5つは音だけ聞くと滅法普通なのに、漢字にすると「え?」というパターン。
尤も、此処では漢字を先に披露してしまう訳だけど。
21.空 → きのした
22.綱 → わたなべ
23.競 → わたなべ
24.雪 → すずき(きよし)
25.吉小神 → よしおか
26.臥龍岡 → ながおか
お次は漢字3文字、行ってみましょう。
27.顔曉玲 → がんしょうりん
28.豆腐谷 → とらたに
29.出雲郷 → あいたかい
30.栗花落 → つゆり
31.王道練 → おどんねる
32.温泉津 → ゆのつ
33.下温湯 → しもぬり
34.行々林 → おどろ
35.本強矢 → もとすねや
36.鶏冠井 → かいで
37.飯酒盃 → いさはい
38.売豆紀 → めずき
39.神来社 → からいと
40.桜小路 → さくら
41.大工廻 → だくじゃく
42.青天目 → なまため
43.笑可内 → おかしない
44.口分田 → くもで
45.仲村渠 → なかんだかり
46.西風館 → ならいだて
47.卍山下 → まんざんか
48.腹黒丸 → はらぐろうまる
49.算用子 → さよね
50.飛計路 → ひけじ
いずれ劣らぬインパクトだけれども、とりわけ「49」「50」の字ヅラの美しさったらないね。
調子に乗って漢字4文字以上というのもこんなにあるぞ。
51.王来王家 → おくおか
52.春夏秋冬 → ひととせ
53.東西南北 → よもひろ
54.角大鳥居 → すみお
55.宇治土鈷 → うじとこ
56.武士垣外 → ぶしがいと
57.右衛門佐 → よもさ
58.道祖瀬戸 → さやんせと
59.御菩薩池 → みぞろけ
60.上打田内 → かみうったない
61.前伊礼門 → まえいれいじょう
62.勘解由小路 → かでのこうじ
63.大身狭屯倉田部 → おおむさみやけのたべ
64.山代相楽郡日佐 → やましろのさがらのおこりのおさ
ちなみに長い名前になると、b) 難読苗字(Bランク)でも、そのインパクトは少しも衰えない。
65.牟田上東 → むたかみひがし
66.遊井名田 → ゆいなた
67.美田賀鼻 → みたがばな
68.蟻九部羅 → ありくぶら
69.竹之木進 → たけのきしん
70.文殊四郎 → もんじゅしろう
71.東御子左沢 → ひがしみこひだりざわ
72.左衛門三郎 → さえもんさぶろう
何しろ「69」「70」に到ってはフルネームと云われても絶対に分からない。
これだけの苗字の人が一同に会すると(差別的な意味では決してなく)もはや其処は日本ではない気がする。
処でこのネタ、さすがに1回きりでは尽きそうにないので、難読モノでも今回敢えて手を出さなかった数字モノや、このまま捨て置くには忍びないモノたち、更にはC)やd)の美味しい処をピックアップするという事で、次回へ続く。
今夜、八重洲の牛角で
2003/11/5(We)
会社がハネた後、焼肉「牛角」八重洲店で大学時代の友人と一杯。
(と呑めない僕が書くのも変だが、具体的にはごはん(大)を2杯食べた)
名古屋在住のセトロさんが、東京国際映画祭のついでに出張に来たので(東京滞在中に映画を10本余観るのだ。どちらが主かは考えるまでもない)はるさんと3人でメシでもという事になったのだが、これまで上京の折には彼らに世話になっていた事を思うと、何だか不思議な気分である。
外食は肉に限るはるさんの希望と外食はリーズナブルな価格に限る僕の希望とを取って、ヤサはチェーンの焼肉居酒屋「牛角」。渋谷で「愛の大地 愛的天地(1973・台)」のジュデイ・オングに「魅せられた」セトロさんの到着が遅れたので宴の開始は22時だったが(予定は21時半)、学生時代に部会の後でそのまま学食になだれ込んだ15年前(!)と全く同じ感じ。ネギ塩ロースにタン塩にさがり、チョップ、日南鶏、茸盛り、イカの塩バタ、にんにくホイル焼き、きゅうりのキムチにクッパ、トマトサラダとモンブランアイスその他に到るまで店のフードメニューの主だった処はあらかた押さえつつ、駄法螺と映画話に興じて、あっという間に2時間が過ぎた。明日は皆んな仕事だし「そろそろ終電が」ってんで、そぼ降る雨の中、「じゃ、これっきりという事で」といういつものはるさんのセリフと共に散会。
久し振りに会った感慨や余韻など微塵もない処が嬉しい。
明日、仕事で大手町に来るというはるさんと昼飯の約束をして別れる。
はるさんと云えば、彼が店に入ってきた時、丁度悠都と電話してる最中だったので、替わってもらったのだが、こないだの「ハンニバル」以来はるさんを愛してやまない息子は、勝手にはるさんと水族館へマグロを見る約束をした(事にしていた)。電話口のはるさんは雰囲気が一転、親戚のおじちゃんのようだったのがいと可笑し。
処で深夜、セトロさんから以下のようなメール。
「処で(宴席で)名前の出なかったのはダニー・デビートとキルスティン・ダンストでした」
三十路も半ば過ぎると脳の引き出しのたてつけが悪くなる(ていうか此処5年程ずっと悪い)。
何だって映画者が3人も揃ってい乍らダニー・デビートとキルスティン・ダンストが出てこないのだ。
「ほれ、ペンギン男だよ、ペンギン男!」
「ローズ家の戦争の、ほれ」
「ツインズの兄ちゃん演ってた、ほれ」
「スパイダーマンの彼女の、ほれ、『チアーズ』に主演した余り華のない…」
てな掘り具合である。外堀を埋めつつ、決して核心に攻め入る事の出来ないもどかしさ。
思い出したらメールを送らずにはいられなかった彼の矜持たるや…て程のものでは全然ないが、何処かに脳の建具屋さんがいないものかとはしみじみ思う。
せめてダニー・デビートくらい、つるっと口にしたいんだが…。
神田カブール食堂
2002/11/7(Fr)
本社研修で上京したイモちゃんとメシでも食おうと退社後、アフガニスタン家庭料理「神田カブール食堂」へ。
此処は「世界がもし100人の村だったら」を書いた池田香代子さんを始めとする「難民ネット」が運営しているお店で、アフガン難民のユノスさん夫婦が厨房に立っている。元々は植木不等式さんの日記の食譜で読んで旨そうだと思ったが最初で、ネットで調べると価格もリーズナブルだし、こないだの「ハンニバル」で非洋食系外国料理に目覚めた事もあって、丁度、虎視眈々と狙っていた処。
加えて、会社からのアクセスは家に帰るより近いくらいだったので、迷わず此処に決めた次第。
会議が長引いたので、少しイモちゃんを待たせてしまった上に、営団地下鉄のチョイスを間違えて(電車内滞在時間が1分と最短だったので丸の内線淡路町駅を選んだのだが、唯一淡路町駅のみ、ホームページの地図のフレーム外なのだった。という訳で初めてのひとは急がば廻れ、最寄駅は千代田線新御茶ノ水駅か、都営新宿線小川町駅をオススメします)、小川町近隣を明後日の方向に多少珍道中をしてしまったが、電話でお店にナビをしてもらってどうにか大きなスポーツ店が並ぶ大通りまで辿り着く。
脇の細い路地に入ると、すぐに目立つ青い文字の看板が。
ダイワビルB1。地下に向かう階段の突き当たりにアラビア文字の看板があって、まずは店内へ。
店を入ってすぐ左がカウンター、その奥が厨房でユノスさん夫妻が忙しく立ち働いている。民族衣装を来た日本人スタッフが男女1名ずつ2名。右手前は小さな民芸品を売るスペースがあって、その奥に座敷席が続いている。左手奥にはふたりがけのテーブル席が2、3。突き当たりの壁にはこの店のシンボルとも云うべき、スズキコージの手によるカブール食堂壁画が色鮮やかに、僕らを歓迎してくれる。
予約をしなかったせいか(電話したら今日は間違いなく座れると云われたので「予約しますか」と訊かれた時に「いいです」と断ったのだった)、絨毯の座敷席ではなく店中が見渡せる壁際のテーブル席を勧められる。今思えば、座敷を所望すればチャージ出来たのかもしれない。
折角こういうお店に来たのだから乾杯するのにも珍しいものをと、イモちゃんは乳酒(500円)なる牛乳のリキュールを注文する。壁に貼ったメニューには「シルクロードの中央アジアの国々で愛飲されてきた」とある。僕も匂いだけ嗅がせてもらったが、鼻につーんとくる感じが酒の強さを誇示している(実際、彼は一杯しか呑まなかったのに、店を出る時は「ぐらり」と来たようだ)。僕は無難に(?)ペプシコーラ(250円)で乾杯する。──「ほいじゃ、おつかれさまでした」
という訳で、以下に、相も変わらず雑な食譜。
【写真左】ウズベキナン NAN E UZUBAKI 400円。ケシの実とシアダナ(黒ゴマのような粒)を乗せたウズベク民族のナン。勿論、此処のナンは自家製のタンドールで焼いたもの。大人でも一抱えはあろうかという大きさで、これがどかんとテーブルに置かれるインパクトったらない。さすがにお代わりには行きませんでしたね。カレーやカバブのお供に最適。
【写真中】ブラニカチャル BURANI KACHALOO 650円。ポテトのトマト風味ヨーグルト添え。他に茄子のヴァージョンもあり。この皿がいちばんクセがなくて食べ易かった気がする。普通にお惣菜で出てきてもいいですね。
【写真右】シャミカバブ SHAMI KABAB 1串 650円。ひき肉とトマトの串焼き。カバブ(肉や野菜を焼いたもの)は何種類かあったが、ビギナー的にはこれで正解だったような。要するにアフガン風ハンバーグなんだけれど、スパイスがばりばりに効いていて、大人の鑑賞に耐え得る辛さであった(何だそりゃ)。焼きトマトも、食感こみでなかなか美味しかったが、取り分けにくい(串から外そうとするとトマトがぷしゅっと潰れるのだ。尤も、普通は、男同士で分け合って食べる類のものではないかもしれない)。
【写真左】ナレンジパラウ NARENJ PALAW 小皿(1人前) 500円。長粒米にオレンジの皮、ピスタチオ、アーモンド、牛肉を入れたアフガン風炊きこみごはん(パラウ)。メニューにはこれとカベリパラウ QABELI PALAW(こちらは具が、ににんじん、ほしぶどう、牛肉)があって、イモちゃんはレーズンがNGフードだった為、内容の確認を怠ったままナレンジパラウを選んだのだが(オレは「オレンジの皮」って処にずっと引っかかってたんだけどさ)、これはこないだ食べたクスクスくらいのイヤーンな衝撃(笑)。「口に合わない」という点では、イモちゃんと激しく同意する。…だって、オレンジ味なんだもん。あと、長粒米の口あたりがまるで性に合わないというのもある(それじゃ全くクスクスだよ)。尤も、カベリパラウもレーズン味のイヤーンな甘さなのかもしれないが、レーズンはカレーに馴染みがあるから。
【写真中】コルメモルグ QURMA E MORGH 600円。鶏肉のコルマ(カレー)。さらさら系のインドっぽいカレーだが、辛さはそれ程でもない。これはナレンジパラウとの相性もよく、ヤツ(オレンジ野郎)の活路をようやく見出したって感じ。これは鶏肉こみで、普通に美味しかったなあ。
【写真右】カバブデギ KABAB E DEGI 750円。牛肉と野菜の鍋焼き。この時点までは「まだお腹空いてるんですよねえ。今日はがんがん行きますよ」と頼もしい発言をしていたイモちゃんがこれを口にした途端に白旗を振り始める。別にまずいのではない。むしろ「!」がつくくらい美味しいのだが、ヴォリュームが半端じゃなかった。何でこんなに牛肉を大盤振舞するかね。て、こういうのを逆恨みというのだ。
【写真】フェルニ FERNI 350円。牛乳のプディング。満腹でもデザートだけは口に入れなければってんで牛乳のプディングを。イモちゃんはマスト MAST(自家製ヨーグルト)をプレーンで(300円)。このフェル二、芳香が凄かったので「何のハーブを使っているんですか」と女性スタッフからカウンターの向こうのユノスさんに聞いてもらうと「ローズウォーター」といういらえが返って来た。そっか、これは薔薇の花の香だったか…。プティングは結構弾力があって、トッピングのピスタチオのアクセントが効いていた。
結局、イモちゃんが乳酒以外、酒を呑まなかった事もあって、おあいそは2人でこれだけ食べて、消費税込みで5000円ちょっと。一人頭2500円と少したァ、なるほどリーズナブルである。
イモちゃんの宿泊先が木場だったので、共に東西線に揺られて、明日はお台場と靖国神社に行くという彼と、駅で別れる。久しぶりにゆっくり話も出来たし、「へぇ」と感心する事や考えさせられる事も多々あって、今宵も愉しい夜だった。
イモちゃん、ありがとね。
小沢昭一的シネマのこころ
2002/11/8(Sa)その1
お昼前に大手町からJR山手線に揺られ、新宿経由で京王線に乗り換えて下高井戸まで。
駅周辺に限って云えば、古い商店街とタウン情報誌で特集されそうな小洒落たエリアが同居した住宅街で、なかなか住み心地が良さそうな町である。駅東口傍らに見つけた、オープンテラスを開け放った石釜のピッツァ屋は今度妻子を連れて本気で来てみたい一軒。
今日は、下高井戸シネマにて特集上映「小沢昭一の小沢昭一的シネマのこころ」。
小沢昭一自らが自身の出演作26本を選び、3週間かけて連日2本立てでお送りする豪気な企画で、昨夜の前夜祭では小沢さん本人が壇上でトークをしたらしい。また事ある毎にトークゲストが登場して、今宵など矢野誠一、加藤武両御大が登場するにも拘らず、チケットぴあで最終日まで買える前売券を購入すれば、2本立て1000円の格安プログラム。
ちなみに僕は駅近くのファミマで前売を買った。今日の2本は両方共ニュープリントだし、商売っ気は皆無と云っていい。
尤も、今夜は末広亭夜席が控えているので、トークは見送り。実を云えば、加藤さんには出演作「金髪の草原(2000)」で色々とお聞きしたい事があったのだが、やっさんには変えられない。
「越後つついし親不知(1964・日/今井正)」 下高井戸シネマ
社会派の名匠今井正と云えど、僕にとっては中学の時に天草で観た「ひめゆりの塔(1982)」以来。当時はまださだまさしを聴いていなかったので、田舎の映画館故、選択肢がなかったのだと思う。しかも殆ど印象に残っていない。だから「越後つついし…」が今井正を意識して観た初めての作品となる。
水上勉(このひとの著作も読んだ事がない。宮本輝との対談を目にしたくらい)の同名小説の映画化。
冬は雪で閉ざされる北陸越後の寒村から伏見の造酒屋で働く留吉(小沢昭一)と権助(三國連太郎)。そして越後で老いた姑(北林谷栄)の世話をし乍ら、夫の留守を守る留吉の妻おしん(佐久間良子)の3人を軸に三人三様の深き業(カルマ)。物語は、危篤の老母の元に帰った権助が、衝動的に仲間の妻であるおしんを陵辱、何も知らない留吉を翻弄する序盤のパートを権助、中盤戦、妊娠を夫に知られるまでの慚愧と煩悶を、少女時代や思春期の回想を挟みつつおしん、妻の秘密を知って発作的に彼女を死なせてしまって以降、終盤のまさかまさかのネクロフィリア(!)と因果応報ラストまでのパートを留吉と、三者の視点がリレー形式で語られていく。唐突なラストだけは余韻代わりに今どきの長ったらしいエンドロールが欲しかった気がする。
典型的な小悪党の権助(三國さんが脂でギラギラした色欲の塊を好演。何しろ老母の湯灌の最中におしんの脚を思い出して欲情するから始末が悪い)の投げた理不尽な一石によって、貞淑な妻だったおしんと誠実な働き者だった留吉が愛欲と運命のダークサイドに転落していくさまは「運命のいたずら」だけでは片付けられない、或る種の必然すらも匂わせる。特におしんが母として生きる決意をする長き開悟迄のプロセスは、流石は今井正である。
役者往来。
何よりも佐久間良子(当時25歳)の無敵の色香と、女優バカと云っていい役者魂をディスカバー。
何が体当たりったってこの映画に主演したお三方の苦行苦痛は如何ばかりか。中でも佐久間さんの雪山レイプ、寒中川浸り、小手先ではない野良仕事百種、そして文字通りの「塗炭の苦しみ」を観れば、たかだかもろ肌脱いで「体当たり演技だ」「女優開眼だ」などとは口が裂けても云えない筈だ。この先、このひとを見る目が変わるなあ。
それから発見だったのだが、若き石橋蓮司は中村獅童にクリソツである。Vネックセーターで現れた時は思わず息を呑んだ。更に、隣家の雄鶏とくっついて隣の庭で卵を産む雌鳥を追い立てる北林谷栄、「バッバー!」の駄々っ子のようなイントネーションが愉しい殿山泰司、ロシアっ娘との情事を回想する東野英治郎の驚異的な描写力に、蚊帳の中へ果敢に間男を挑む豪農松村達雄、それを長箒で追い廻す沢村貞子に、大根を投げつけられる佐藤慶の木っ端振り等々、まさしく名演展覧会。
「英語に弱い男 東は東、西は西(1962・日/春原政久)」 下高井戸シネマ
テキスト表記では分かりにくいが、メインタイトルは「東は東、西は西」で(映画は田代みどり(よく知らないが、60年代に活躍したロカビリーの女性シンガーらしい)が通う高校の英語の授業で「East is east,West is west.」を日本語訳するシーンから始まる)「英語に弱い男」はサブタイトル。今で云う「2時間ドラマ」くらいのスタンスで作られたであろう、数多あるプログラム・ピクチャーの中の1本。こんな機会でもなければ、まず絶対に観られない。
「江戸っ子寿司」の頑固親爺、庄助(小沢昭一)と向かいにある洋食寿司「レッドフィッシュ」(スシ・バーの先駆者だ)のマスター、大吉(藤村有弘)とのドメスティック vs 舶来かぶれ対決を、庄助と息子の担任(何だか過去のある吉行和子おしとやかヴァージョン。ちなみに小学生の息子は青影こと金子吉延である)とのじれったい恋など交えつつ、予定調和の大団円に向かって面白可笑しく描く。対決ったって町内祭の行事を神楽にするかツイスト大会にするかとか、アメリカ資本のシティホテルの地下出店の権利をどちらが獲得するか(人の好い不動産屋に扮するは我らが榎木兵衛)といったもので、物語自体の出来は、日本情緒や伝統に固執している筈の庄助が店舗獲得の為に英語の勉強を始めるというトンチキなシチュエーションから推して知るべき、勢いだけで一気呵成にこさえあげたコメディー(推測)。
これは小沢・藤村の芸人対決を堪能すべき映画。
今回、喜劇人としての藤村有弘は若干コメディリリーフ気味で(尤も単なる人情喜劇に、アメリカ的な乾いたテイストを持ち込んだのは間違いなくこのひとの功績)、むしろ小沢昭一の随処に繰り出す熊八的アドリブと小業が群を抜いて面白い。中でもゴーゴー喫茶で馴染みの芸者にツイスト指南してもらうくだりの小沢の踊りは白眉。ツイストの手や腰の動きを行水に見立て、見えない手ぬぐいで背中を流し乍ら器用に腰を振るさまは爆笑してもし足りない。このシーンだけでも隙あらば、何処かで観て欲しいくらい。それにしても小沢さん、実年齢より10も年上の役が実にぴたりとはまっている。
2本目が終わったので、慌てて駅へ(たって駅まで徒歩2分程度だが)。
末広亭昼席の鶴光師匠と米丸師匠くらいは聴くつもりだったが、どうやら無理っぽい。
この項、続く。
新宿末広亭上席・夜
2003/11/8(Sa)その2
新宿駅に到着、慣れぬ駅構内を右往左往していると当のやっさんから「もう(寄席に)入った?今日はよろしく」のメールが入ったので「まだ新宿駅でーす」とだけ打ち返して地上に出ると、駅前の広場で浜田まき子が「日本の政治を新宿から発信しましょう」と訳の分からない演説をぶっている処だった。新宿も雲霞の如く人が沸いているが(ええ、私もそのひとりです)やはり渋谷とは人の種類がだいぶ違う。同じ混雑でもこちらの方が幾分居心地が良い。
これまで寄席そのものは浅草演芸ホールしか行った事がない。
新宿末広亭は、入り口でやっさんと待ち合わせした事はあるけれど、入るのは今回が初めて。やっさんも云っていたが、両脇に桟敷席があったりして昔乍らの演芸場を彷彿とさせる。末広亭に到着したのは昼席がハネた直後だった。桂米丸と桂平治の2枚看板という絵ヅラもなかなか見られないのではないか。東京かわら版持参割引で2500円。折角なので最前列ど真ん中の席をキープする。所謂「かぶりつき」というヤツである。始まりは17時からだが、15分前に前座の小まささん(小柳枝師匠のお弟子さん)が「雑俳」を始めた。幕下の試合観戦みたいなものか。
以下、本日のプログラム(代演部分は記憶に頼って書いているので確度低し)。
瀧川鯉橋
以前、春風亭鯉奴時代に右團治さんの落語会で噺を聞いた事があるが、格段に腕を上げましたね。
口調や品の良さは悉く鯉昇師匠譲り。師匠の芸を愛してやまないんだろう。
で、面白かった事は覚えてるんだけど、何を演ったかを思い出せない(おい!)。
やはりこまめにメモを取るしかないのか。
コントD51
代演。香川けんじ&まさしの兄弟コンビ。「半農半芸」で農業も営むという変わったコンビ。
東京に息子を訪ねてきたおばあさんが、おまわりさんをつかまえて息子役を演らせるというもの。
最初に設定ありきで後はアドリブで進行するオーソドックスなコントだったが、結構ツボにはまって大笑いする。
春風亭柳好「看板のピン」
右團治さんと一緒に真打昇進したひとなので、何となく親近感を感じたり。
短い噺乍ら、しっかりと聴かせる落語。
桂南なん
風貌といい、フラといい、故・枝雀師匠のような独特の個性をお持ちの師匠(来週やっさんが独演会で演る「長命」は師匠の稽古による)。ネタの名前は分からず(誰か教えて)。結婚してお金を管理してあげると云い寄る商売女の真意を図る為、おじさんの入れ知恵で人殺しをしたから大川に身投げしようと持ちかけて、狸同士の化かし合い、互いに大きな石を落として誤魔化して帰ってきたら店の前でばったり会ってしまって気まずくなる噺。
若倉健(漫談)
ネタの大半は50代以上向け(投票だよ、おっかさん)。ま、ついていけるけど。
けれど渡哲也のモノマネは本当にそっくりだった。
三遊亭左圓馬「選挙風景」
小渕さんを総理にした当選請負人、草津節の替え歌が全開。
三遊亭遊?「寄合酒」
代演。ごめんなさい、お名前を失念。やはりメモを取るべきだった。
松旭斎八重子(奇術)
代演。ハワイアンマジックのひとなので、高座が瞬時に常磐ハワイセンターと化す。
プラスワンで助手のアロハの老人が交互でネタを演ったが、元々素人筋のひとらしくネタ割れ早し。
ロープマジックで油断していたら「あなただけ喋らなかったでしょう、どうして」といじられてしまう。つい、自分が最前列に座っている事を忘れていた。
大ラスは壱万円札をボールペンで突き刺して、穴を塞ぐというマリック張りのテーブルマジック。
曰く「寄席でこの手のネタはお客が見えにくかったりするんですけれど、今後はコインにペンを指したりといったマジックにも、チャレンジしていくつもりです」
三遊亭圓輔「火焔太鼓」
代演。大ベテランの噺家さん。駆け足で聴くコンパクト版「火焔太鼓」。
桂文治「掛け取り」
まさか寄席で師匠の「掛け取り」が聴けるとは。しかもお囃子入りで喧嘩まで。
マクラの「首が回らない」の由来なんて、立派なトリビアだよなあ。
少なく見積もっても70へぇはあるんじゃないか。
でも、師匠にトリビア(ムダ知識)なんて云ったら叱られちゃう(意外にトリビア、ご存知だったりして)。
狂歌のくだりで師匠が数秒ほど絶句したのではらはらする。あとはいつものグレードで笑かしてくれる。
やっさんの話だと、この番組が始まって以来ずっと左円馬師匠が「掛け取り」を演っていた為、実は師匠自身、演りたくて演りたくて仕方がなかったらしい。でも、この話には続きがあって…(以下、続く)。
─お仲入り─
桂伸治「ぜんざい公社」
そもそも大の甘党である伸治さんが「ぜんざい公社」を演っている事自体が面白い。
マクラの彼岸どきには甘いものに困らないというくだりでは客席が大いにウケていた。
宮田章司(売り声)
代演。売り声は、寄席芸というよりはもはや伝統芸。
後半になる程、ヴァリエーションに富んだネタが出てきて感心。
三遊亭小圓右「初天神」
代演。アメ屋に来た処まで(品さだめまで)。小ネタびしばしで、桂一門とはまた違う型。
春風亭小柳枝「蟇の油」
何たって云い立ての見事さと酔っ払ってからの崩れ振りとの落差。
見世物小屋のくだりで「売り声」とだぶったけど、ネタ帳では其処まで見えないからお気の毒。
翁家喜楽・小和(太神楽曲芸)
代演。かぶりつきの席にいると、包丁切っ先を縦に積み上げて大皿を廻すだとか、頭上の卵をコップに落とすだとか、いちいちハラハラさせられるネタばかり。しかもご老体だし(実際は少しも危なっかしくはなかった)。小和さんの甲高い大声は結構ツボ。
桂平治「尻餅」
今日のやっさんは噺も然る事乍ら、何たってマクラが凄かった。
寄席では同じ日のうちに似た噺をしてはいけないという決まりがあって(たとえば「牛ほめ」が出ていたら「子ほめ」は出来ないetc.)それをコントロールしているのがネタ帳で、出演者は当日のネタ帳を見て、その日の高座にかけるネタを決めるという噺から、
「今夜は土曜日の夜ですし、特別にネタ帳をお見せしましょう」
と、あろう事か前座さんにネタ帳の現物を持ってこさせた。「おぉ」と、どよめく会場。「62おぉ」くらいか。
やっさんは、今日は折角晦日ネタを用意してきたが、ウチの師匠が「掛取り」を演ってしまったので…と続けて、
「とは云え、そんな事でネタを変更するようなアタシではありません」
思わず、席から転げ落ちそうになる。
「こんな事は年に1、2度あるかないかですから、どうか皆さんも楽しんでってください」
って、何食わぬ顔で陰陽ネタから「尻餅」に入っちゃった。
これには腹を抱えて笑った。ネタかぶりという「掟破り」自体をネタにする二重の「掟破り」。
しかも、高座に上がった時点で文治師匠はまだ楽屋に居らしたというから(実際にはやっさんが高座に出てったタイミングで帰られたらしい)全く「心臓」である。噺自体も桟敷にゲラの女性のグループが居り、彼女たちが牽引役となって客席は爆笑の渦であった。
しかし、大トリで下ネタかいっ。…いや、確かに下ネタは好きなんだが → やっさん。
夜席がハネて(「釣りバカ」最新作に出演してしまった里光さん始め、出演者自ら深夜寄席の呼び込みをやっていたが、私服なのでバイト学生にしか見えないのが何とも。誰かの「知られざるスターが何と4人も出演!」という台詞に思わず噴き出す)、やっさんのおごりで「大小原」(多謝)。
メンバーはマイタウンジュンのマスターや知り合いの女性お3方に、高校の同級生Sくんの弟さん、そして夜の部の前座を務めた春風亭小まささんの総勢8名。
土曜の夜と酉の市からの流れで店は激混みだったが、「大小原」のマスターのご好意で座敷にテーブルを用意してもらう。
とても此処では書けない、落語界の裏話色々。
いやー、すんごく面白かったんだけど、絶対に公開出来ない。
でも、ひとつだけ差障りの無い処(?)を披露すると、移動芸術祭の座組みを決める時に柳昇師匠が亡くなられたせいで、学校寄席の苦手な文治師匠がこの秋、学校寄席を回る事になった。処が、いざ高座に上がるとマクラで、生徒たち相手に扇子や手ぬぐいの使い方をこまめに教えたので、「あれだけ嫌がってた師匠があそこまでやってる」と楽屋では大いに盛り上がった。
「落語では扇子を箸に見立てて蕎麦やうどんを食べたり、こうやればほら、とうもろこしにもなる」
と扇子にかぶりついてみせる師匠。
楽屋に残った芸人が一斉に突っ込んだ。「落語に、とうもろこしにかぶりつく噺なんかありませんっ!」
──芸協の会長まで務める大看板のおもてなし精神に思わずハグしたくなる瞬間である。
オレがその場に居合わせたなら、絶対高座まで駆け寄って嫌がる師匠を抱きしめてたね。
宴席の中途で、ホークスファンの集いの流れで前助さんがへべれけになった知り合い(赤いトラ縞のネクタイ着用)を連れて現れるが、席が空いてないのでやむなく退場。酩酊したおじさんは一旦靴を脱いで僕らのテーブルに座るが、前助さんに説得されて退席する時はサンダル履きだった。…皆で止めたのだが、そのまま立ち去ったおじさんの靴とサンダルの行く末は如何に。
24時近くになって、皆んなして慌てて大小原を辞去。
(最后まで残っていたのはやっさんとSくんの弟さんと小まささんと自分の4人)
新宿駅でやっさん達と別れて、大江戸線の飯田橋経由最終に飛び乗ったのが24時を少し廻った処。
間一髪で最終に乗り遅れる愚だけは避ける。携帯メールで妻に平謝りして25時前帰宅。
あー、息切れするくらい楽しい夜だった。
「アトリエ・ド・ペリニィヨン」のシブースト
2003/11/9(Su)
悠都がインフルエンザの予防接種の後からこっち、微熱が続いている。
食欲は落ちていないので余り心配はしていないとは云え、外で遊ばせる訳にはいかないし、其処までの元気もないみたい。掌を握ると常に寝る前みたいにあったかいし、洟も止まらないようだ。
予防接種がどうとか云う前に、どうやら本格的な風邪らしい。
本当は昨日に引き続き、「小沢昭一の小沢昭一的シネマのこころ」へ行くつもりだったのだが、すっかり寝坊してしまったので(11時起床・笑)今日は休観日と位置付け、おそ昼を食べた後、散歩がてらケーキ工房「アトリエ・ド・ペリニィヨン」へ行く。…と思ったら、悠都に手を引っ張られて向かった先はマンションの玄関からほんの1〜2分歩いた場所にあった。何だ、コンビニより近いではないか。
可愛らしいけれども、意外に小さな店先。細い路地のような入口のケーキ工房が隣接していて、すぐに悠都が窓にへばりついて、パティシエの華麗な仕事振りを見守る。妻の話では、其処が彼の指定席らしい。
妻のお目当てだった、大振りの、マロンのタルトや洋梨のタルトは既に売れてしまっていて、今日はもう作らないとの話だったので(僕らが来た時点でショウケースは半分くらい空にだった)、僕はシブースト(350円)、妻はバナナとりんごのタルト(320円)を選んで、その足で部屋に戻ってコーヒーを入れる。
タルトは妻が分けてくれなかったので、味の感想は次回に譲るが、シブーストの方は本当に美味しかった。
3層構造の上層はカラメルプディングなのだが、口あたりが淡雪のようなフワフワ感。間にオレンジのカットフルーツを挟んで、最下層はミルフィーユを思わせるパイ生地で拵えた土台。濃厚だが上品な甘さ。こんな地味なこじんまりとした場所に、此処まで美味しいケーキが潜んでいていいんですか。と、これは大袈裟でなく、そう思う。
悠都はタルトについていたバニラビーンズの香りがかなりカルチャーショックだったらしく、黒いビーンズをつまんだまま、飽きずにずっと匂いを嗅いでいた。
午後はやっさんのHPのスケジュールを更新したり、コンポを設置したり(コンポの方は95%妻が仕上げた)。右團治さんのサイト更新まで力及ばず。こちらもかなり更新が滞っているので、後を妻に託す。
第49回桂平治独演会
2003/11/13(Th)
やっさんマンスリー其ノ弐は、お江戸上野広小路亭にて「桂平治独演会」。
東京の地の利は、定時退社が叶えば、どうにか落語会に行ける処。
東京在住になったからには、最低、年に2回あるやっさんの独演会にだけは顔を出したいと思っているのだが、早速希望が叶った。まさか、マンスリーになるとは思っていなかったが。
やっさん自身が主催する独演会は当然、今回が初体験。
やっさんが主催する独演会は「基本的に」ネタ卸しの会であり、これを機に持ちネタを増やしている。今回で云うと「蛙茶屋」は文治師匠(師匠自身、先月に音源を「朝日名人会」ライブでCD化したばかりだ)、「長命(短命)」は桂南なん師匠に教わった。文治師匠から直伝のネタを貪欲に発表しているのが、最近の特徴だと思う。個人的にも、文治師匠のネタは全部やっさんにものして欲しいので、この傾向は大歓迎だ。
さて、今回は曰くつきの49回目。実は本来の49回にあたる前回に、池袋の大きな会場が取れたので、一足先におめでたく50回記念独演会をやっちゃったのだ。しかもネタ卸しではなく、夏をテーマに「青菜」など得意ネタを並べて。とは云え「遊星より愛をこめて」ではないので、49回目をすっ飛ばす訳にも行かないって事で、しかも仇花のような49回目へのお詫びの意味もこめて(というのは僕の勝手な推測)ネタ卸しにテーマ性を持たせて「ちょっと色っぽい噺」。要するに下ネタ特集である。個人的には末広亭で聞いた「尻餅」から続く下ネタ3連チャン。
勿論、上野広小路亭も初めて。
行ってみて分かったが、鈴本と同じ通りにあって、両者の距離は歩いて5分とない。
開場10分後くらいに辿り着くと、ビルの入口に設えた受付の処に、受付のお姉さんの隣に黒紋付のやっさん本人が居て、お客さんひとりひとりに挨拶をしている処だった。ひとまず大威張りで当日料金2000円を払うと(て、当日料金を200円安く勘違いしていて恥をかく。それは来週の二人会だった)靴を持って2階の下駄箱に収めて3階会場へ。予想したよりこじんまりとしていて、此処で演っている定席を聴くのはちょっとリッチかもと思う(しかも平日は1000円だし)。
初っ端は前助さんで「元犬」。
このひとは、ご隠居さんとか大旦那さん、所謂、熊八っつぁんや与太郎に物を教えたり面倒をみたりするポジションの人物造形に秀でている。若手がそういった役回りのひとを演じるとどうしても薄っぺらくなってしまうのだが、前助さんの噺は其処が実に安心して聴く事が出来る。やはり前座キャリア自体が、二ツ目ぶんくらいあるひとだからなあ。月例「大小原寄席」も頑張ってください。
お次が快治さん、ネタは「井戸の茶碗」。
中継ぎにしてトリに演ってもいいような、この大ネタ。
僕は快治さんは前座噺しか聴いた事がなかったので、ちょっと新鮮な感じ。
相変わらず、つかみの一言が快治さん独特で結構。ぼそぼそっと客を引き込んでゆく感じ。快治さんには彼独特のフラが生まれていて、長い噺もちゃんと聴かせ処を押さえていたけど、ちょっとかみ過ぎ(笑)。ネタをさらってから間もなかったのかもしれない。
でも今回の収穫は、仲入り明けの曲独楽の三増れ紋さん。
女流曲独楽の最若手で(何しろ妻より歳下だ)、明日の曲独楽界を背負っている。
曲独楽界を背負うためには、芸人さんの若返りも勿論のこと、客層の新陳代謝も切実な問題な筈で、彼女は若い世代との架け橋を担わなければならない位置にいる(いや、マジで)。伝統を守りつつ、若い人がこちらを振り返る話芸、キャラづくり。ネタの失敗(未熟さ)も笑いにしてしまうのは、師匠筋から見ればご法度なのかもしれないが、それをお客に許させる空間を舞台に作り出すのもまた才能である。実際、ちょっとファンになってしまいました(マンションは買ってあげられないけど)。石橋蓮司ファンな処も高得点。
さて、やっさん。いずれの噺とも横綱相撲に相応しい二席。
ご隠居と熊さんの会話ひとつ取っても、熊さんのさほどでもない小ネタ「ボケ」をリアクションの力で笑いを起爆させる。ホンが今イチなら演者の力量がモノを云う。特に古典落語では、当時は可笑しくても今の客には通じない話が多数ある。其処を身振り手振り表情が放つ空気感で、客の笑いを引き出すのだ。
例えば、先に演じた「長命」だと、ご隠居が、物わかりの悪い熊さんに隔靴掻痒な譬えをしてから繰り出すお決まりの「…短命だよ」の、鼻の下を伸ばして因果を含めるあのストップモーション。あれで客は面白いように腹をよじらす(勿論、僕も腹が苦しかった)。
「蛙茶屋」の半ちゃんもやっさんの為に生まれたようなそそっかしいキャラで、実にお見事。
「蛙茶屋」は、艶笑噺であり乍ら、素人芝居の噺なので、劇中劇として素人歌舞伎をお囃子入りを演じるのがひとつの見せ場になっているあたりが、「掛け取り」同様文治師匠の直伝らしいというか。師匠は型を真似るだけでは納得しないひとだから、これを稽古するに際しては歌舞御曲方面の勉強が必須だった筈である。
さ、これで安心して桂文治3「蛙茶屋/お血脈」を買う事が出来る。
実は恥ずかし乍ら、文治師匠の「蛙茶屋」を聴いた事がないのだ。
独演会がハネると、階段の踊り場から事務所に続いていて、客入れ同様、やっさんがひとりひとりのお客さんに客出しの挨拶を丁寧にしていた。お客様は神様、ってのは本当なのねと実感。
やっさんに「今夜はどうする?」と訊ねられたが、明日も会社なのと、来週「二人会」で三度(みたび)落語会に顔を出すつもりなので、後ろ髪を引かれ乍らも辞去する。やっさんとの宴席は愉しいから、毎週じゃ勿体無いんだよ(笑)。
東京ゴッドファーザーズ
2003/11/15(Sa)その1
今朝のおめざは、妻が朝、ちょちょっと近所の「アトリエ・ド・ペリニィヨン」へ走って(笑)買ってきた洋梨のタルト。
トッピングされた、細かく刻んだピスタチオの目も彩な若緑色に食べる前からわくわくする。
朝からどっしりとした重い美味しさがたまらない(褒めている)。
ひとつを家族で分けても充分な「重厚感」。朝からしあわせなひととき…。
という訳で、お昼前に家を出て、新宿方面へ向かう。
本日の1本目は、「東京ゴッドファーザーズ(2003・日)」。
上映館である新宿ピカデリー4は座席数が44席しかない為、毎回立ち見が出ているとの事で、整理券(7番)を押さえ、時間まで紀伊国屋で過ごす。5分前に劇場に行くと狭い階段を何処までもひとが連なっていて暗澹な思いになるが、整理券が若かったので、難なく最前列中央をゲットする。
左隣の席に高校生くらいの半可通がふたり座って「あのOVA、メカデザイナーが○○○なんだよ」「へえ…」「云われてみれば、ミサイルの飛び方なんかまさに○○○そのものだったよ」「へえ…」などという聞きたくもない会話が耳に飛び込んできて、軽い眩暈をおぼえる。それはメカデザイナーの功績を称える前に、作画(原画)とか演出(絵コンテ)の手柄ではないのか。と、声に出してツッコミを入れる訳にも行かず、人知れず懊悩する(莫迦)。彼らの会話は万事がそんな調子で場内の照明が落ちた時には心から安堵した。
「東京ゴッドファーザーズ TOKYO GODFATHER(2003・日/今敏)」 新宿ピカデリー4
「パーフェクトブルー」の評判は知っていたものの、福岡では当時単館レイトのみ公開だったので観る機会を逸し、中間で「千年女優」を観て「うむむ」と唸らされた。今敏監督は客層を選ばない映画を撮れるひとなのだ。「アニメ」という間口さえ取っ払えば、往年の口うるさい映画ファンをも充分取り込める作家性がある。本作は図らずもそれを証明する作品である。いずれ名画として認定されることは疑いがない。…こいつァ凄えや。
まず主人公の(ひとりである)ミユキ(岡本綾)がホームレスの女の子(家出少女)という新しいヒロイン像が目からウロコだ。更に梅ちゃんに宛書したとしか思えないハナちゃん。もしも本作が海外で実写化されたら、ハーヴェイ・フィアスタインにオファーするしかない。あ、方向性は違うがネイサン・レインという線もある。現代を舞台に活劇を描くのは難しい。特に神経を使うのが「携帯電話」の存在だ。いつでも何処でも連絡を取れるのでは、物語としての緊迫感が一気に失せる。この映画はホームレスという設定を用いる事で、「『携帯電話』のない現代」を構築する。ミユキは不自然さなく行方不明になれるし、残ったハナちゃんとギンちゃん(江守〈黒騎士〉徹)もまた心置きなくオロオロと物語を自在に迷走出来るのだ。
ホワイトクリスマスの新宿の美しさも生半可なバジェットの実写では到底敵わない。
実写が大変なのは晴れ待ちや雪待ちだけでなく、晴れても雪が降っても、狙った通りの絵が取れるとは限らない事にある。アニメーションは技量さえあれば、天候までも狙った通りに物語(演出)に寄り添わせる事が出来る。そんな当たり前のことを次々と連想させる作品である。
たとえばクリスマスの夜に暖かい部屋で観たい映画としては「素晴らしき哉、人生」に匹敵する傑作だと思う。この映画は間違いなくあたたかな心持ちでベッドに入れる事を約束してくれる。自分探しの旅、捨てたもんじゃないぞ人生、絶妙に配置されたご都合主義、小粋なラスト……そういう定番としてのウェルメイドの各要素を全て兼ね備えている(OPやEDに見られるベタな演出も含めてだ。ウェルメイドってのはベタじゃなくちゃいけないが、何処もかしこもベタじゃあいけない)。
声優陣も主役の3人だけでなく、脇役の隅々に至るまでいい(此処では特に「千年女優」から続投の飯塚昭三と可哀相なタクシーの運転手役の山寺宏一だけピックアップしておく)。
褒め言葉なら、ゾンビのように潰しても潰しても後から沸いて出てくるが(処でどうにかならないか、その喩え)、決してマニアの間で噂される作品で終わって欲しくない。世界配給されて、映画ファンでないひとでも「東京ゴッドファーザーズ」の名前を聞いただけで「ああ、あの…」と云ってくれるネームヴァリューを持って欲しい。この映画にはそれだけの力と権利がある。
いい心持ちになったので、駅へ向かう途中、ふと目に入った新宿中村屋の店頭売りのカリーパンに飛びつく。
この項、続く。
小沢昭一的シネマのこころ(2)
2003/11/15(Sa)その2
新宿でのんびりしていたら意外にもたついてしまったが、どうにか上映5分前に下高井戸シネマ到着。
先週に引続き、「小沢昭一の小沢昭一的シネマのこころ」から2本を鑑賞。
ロビーに、明日のトークゲストである佐藤忠男夫妻を発見。支配人に名刺を貰っていた。
「しとやかな獣(1962・日/川島雄三)」 下高井戸シネマ
恥をしのんで告白するが、巨匠・川島雄三の作品は本作が初見(当然「幕末太陽傳」も未見です)。
原作・脚本は新藤兼人。舞台化可能な密室劇(僕が知っているだけでも東京乾電池が舞台化している)という意味では老境に達した同じ作家の最新作「ふくろう」を観たばかりなので、或る意味創作のピークを見せつけられた思いだ。縦横無尽のカメラワーク(山岡久乃がジュースを取り出すのを、パントリーの内側から映すが、これって「キッチン」の冷蔵庫のシーンを撮る四半世紀も前の話だ)や、主要キャラが全員、自我の肥大した悪党共であるピカレスク劇であったり、悲劇と喜劇が表裏一体をなしているなど、2作には共通した「手口」も多いが、何たって脚本の出来が黒澤作品で云えば、「天国と地獄」と「夢」くらいには違う(50歳と90歳の新藤さんが創作を競っていると思えばいい。更に「しとやかな獣」は時代が後押しした面もある)。しかもそれを川島雄三が咀嚼して、より軽くより重い「重喜劇」を体現した。そう、これはもう「奇跡」と呼んでいい。川島作品で、極北にあるような本作を最初に観てしまって本当に良かったのか。傑作の誉れ高い「貸間あり」が実際、霞んで見えたので、少し危惧している。
先にも少し書いたが、これは時代が産んだ映画でもある。
日本の高度成長は他国の戦争の上に胡座をかくかたちでエスカレートしていった。手段を選ばぬ拝金主義と、それを正当化する為の詭弁は昇り龍故に、かしましくトリビアに彩られ、空虚なウィットとエスプリとに満ちている(伊藤雄之助の日常会話のウンチク王振りは殆どくりーむしちゅー上田並みである)。団地の外では常に米軍機の轟音が灰色の空を震わせ、戦後混乱期を意味する「あの頃」に戻らない為、一家総出で刹那の空腹を満たし、未来を決して省みない。
つまりこれは1962年当時の日本国家そのものをこの一家に仮託した辛辣な寓話であり、伊藤雄之助一家の詐欺まがいの内情は当時の日本政府の実態を揶揄したものなのだ。
…じゃないかと思う、たぶん。
(作品にまつわるお勉強はこれからします。ハイ)
処で映画は全篇に渡って猿楽能になぞらえてあり、要所毎に囃子が奏されるのだが、浜田ゆう子、川畑愛光の姉弟がTVから流れるツイストに合わせて踊り始めると、それに被さるように囃子の音が大きくなるにつれて、夕闇迫るベランダ越しに腰をくねらせるふたりの影が奉納舞に見えてくる見事さ。若尾文子や高松英郎が独白し乍ら昇降する、白い階段の通路は能の舞台に続く花道なのかもしれぬ。
余談だが、年増女(若尾文子)にイカれて300万円貢いだ息子(川畑愛光)の気が知れないと嘆く父親(伊藤雄之助)に「ほら、腐りかけた果物は甘い、みたいなものですよ」と喝破する山岡久乃の鮮やかさ。以前、井沢先生の処の掲示板で「原節子のたぷたぷした二の腕に、何故そそられるか」という話で盛り上がった事があるが、まさか40年前にあっさり山岡さんに片付けられていたとは。しかし、このひとは「ありがとう」も「渡る世間は鬼ばかり」も、そして「しとやかな獣」も皆んな同じキャラな処が凄い。特に本作ではその強かさというか、日本のお母さん的威丈夫さが後でレバーに効いてくる仕掛けだ。
処で、肝腎の小沢さんは物語冒頭、息子が勤めるタレント事務所所属のジャズシンガー、ピノサクという顔見世興行のような賑やかな役回りで暴れるだけ暴れて後は出てこない。でも、小沢さんがこの作品を選んでくれてよかった。
映画上映後、個人的に今日のメインイヴェントである中山千夏(僕にとっての千夏さんはじゃりん子チエであり、「驚異の世界」のナレーターなのである)と矢崎泰久(元「話の特集」社主にして編集長)のトークショー。
小沢昭一そのひとが一応のテーマの筈だが、おふたり共云いたい放題。
ネイキッドってのは、聴いててとても愉しい。
「しとやかな獣」に主演していた若尾文子の話から、彼女のご主人である黒川紀章が如何に嫉妬深いかという話になったのだが、おふたり共それぞれ黒川さんと知り合ってみて「ホント、ヤなヤツだよねー」の異口同音に場内爆笑。
「だからアタシ、あんなひとが何故あんな綺麗なひとと一緒になれるのか不思議で不思議で」
「いや、だいぶ草臥れてから一緒になったから余り羨ましくはない」
…さしもの僕も凍りつきました。矢崎さん、怖いものなさすぎるー。
ちなみにお友達である筈の五木寛之氏も「宗教に走っちゃったようなヤツはもう相手にしない」で切り捨てておられました。処で病に倒れた野坂さんの方は順調に寛解へ向かっておられるらしい。
小沢さんに関して云えば、昔はたいへんな風俗マニアで、しかも安易に「本番」に流れることなく、如何に手管を行使してサービスの奥義を見せるかに、芸能に携わる者の視点から厳しく臨んでいた(小沢さんに啓蒙されていちばん衝撃だったのは「コスプレ」らしい)という、千夏さんが眉にツバつける話から、風俗卒業後は専ら競馬通いに勤しんで月イチで矢崎さんとお馬を観にいっているが、彼は元々尻フェチだったので、馬も逞しい尻を観に行っているのだと何処までも下ネタに着地するのがおぢさんらしいというか何というか。
千夏さんは千夏さんで、昔から小沢さんと青島(幸男)さんを見ると、小男で目がつりあがっていて、抜け目なさそうで実は間抜けだみたいな感じが、江戸っ子っぽい気がするのだそうだ。彼女は昔から「江戸っ子」というとこのおふたりを思い浮かべるらしい。「尤も、片方のひとは大っキライなんですけど」…そう云えばそんな話もありましたねえ。
10分の休憩のあと、ゲストのおふたりも客席に座って、次の映画も観ていく事に。
「貸間あり(1959・日/川島雄三)」 下高井戸シネマ
何しろ古いフィルムなので、肝腎な処で台詞が飛びまくるのはご愛嬌。
(だからこそカワシマクラブの存在は貴重と云える)
原作は井伏鱒二。映画化作品として今平の「黒い雨」は余りに有名だが、実は森繁の「駅前旅館」もこのひとの作品と聞かされると、僕らの世代には新鮮なオドロキがある。井伏作品は「厄除け詩集」くらいしか読んだ事がない。いや、本当にモノを知らない事の恥ずかしさをこの齢になって実感している。
川島映画は未見だったくせに、都度、川島監督の武勇伝や作品論は読み齧っていたからか、本作の与田五郎(フランキー堺)が憎からず思っている津山ユミ子(淡島千景)からひたすら逃げるさまが「幕末太陽傳」のラスト、更には川島監督自身と重なる。五郎は自分が何者でもない「ゲテモノ」である事を恥じ、ユミ子と向き合う資格がないと、学生時代の友人小松 (加藤武)の手を振り払い、別府から鹿児島へと逃避行を続ける。映画的には浪花千栄子に「そのうち捕まるんじゃないのかい」などと云わせる事でふたりのハッピーエンドを暗示させるかに見せかけ、その実、洋さん(桂小金治)に「さよならだけが人生だァ」と立ち小便させてきわめてドライに物語を閉じる。つまり、五郎は逃げっぱなしのままであり、「川島もまた何者かから逃げ続けていたのだ」と、識者が書いていた気もするが原典不詳、「川島も逃げた」のくだりはうろ覚えである。でも、彼が逃げることそのものに憑かれていたのは確かだ。
ボロアパートが舞台の群集劇。養蜂家にしてロイヤルゼリーのバイアグラもどきでひともうけを企む山茶花究、本当にバスター・キートンのように憮然と、けど抜け目ない保険屋益田キートン、闇屋にしてローラーガール(?)清川虹子、どけちの料理人(コンニャクとキャベツ巻だけだけど)桂小金治、彼の上を行く因業大家浪花千栄子にご隠居沢村いき雄、元祖不思議ちゃんのような市原悦子に、3人のパトロンを上手に行き来する乙羽信子、年中発情期の西岡慶子(あの、鼻に抜けていく欲求不満の溜息はイヤでも耳に残る)に悩まされる宝珍堂こと渡辺篤、ブルーフィルム売りの藤木悠に、そして忘れちゃならない写真マニアの万年受験生小沢昭一。宛ら魑魅魍魎のお歴々が各自自由に暴れる暴れる。
賑やかなこのひとたちの交通整理をする為に映画は費やされていると云ってもいい。実際、主役のフランキー堺も物語の交通整理役だったりする。物語の何処にでも顔を出し、皆に振り回され乍らも、皆が持ち込む難問をひとつひとつ乗り越えていくひとりプロジェクトXなのである(尤も、最終的には「自分自身」から逃げ出しちゃうのだが)。
兎に角「アチャラカ」だとか「軽妙洒脱」だとかはこの作品のためにある。この軽さは強みである。
帰宅すると、妻子は駅弁フェアに行ってきたとかで鱒寿司とイカめしで夕食。
食後には新宿中村屋のカリーパン(1個150円)。ていうか、ちっとも食後になってないし。
お子様ランチが生まれた場所
2003/11/16(Su)
昨日とは打って変わって小春日和の青空が広がる。
けれど、遅く起き出して、部屋の片づけは妻に任せっぱなしで、日記をつけたり、HPの更新をしたり。あ、遅い朝メシにとチーズクリームのシチューは拵えたな(面倒くさいのでフライパンで作った)。なかなか子供にはウケがよかった。
このまま、一日を終えてしまうのも勿体無いので、15時くらいに家を出て、地の利で30分程で(といっても、内15分は徒歩なので、その近さは推して知るべし)日本橋三越本店へ遅昼(夕食?)を食べに行く。
知っているひとは知っているが、日本橋三越本店は「お子様ランチ」発祥の地である。
細かい話は、お子様ランチ物語やみつこし大辞典に詳しいが、昭和5年には既にスパゲティやコロッケやハムを取り巻いて、富士山のかたちをしたごはんの上に旗が立っていた。
という訳で早速、くだんのお子様ランチを出す4Fのカフェ&レストラン「ランドマーク」に入る。
今はともかく、昔デパートと云えば庶民にはハレの舞台だった(今でも「サザエさん」にその片鱗が残っている)。レストランと云えど例外ではなく、家族で囲んだテーブルに供される皿は、遊園地のように賑やかで新鮮で、皆を喜ばせなければならなかった。少なくとも、スタッフはそんな使命感に燃えていた。日本橋三越には今も、そんなサプライズを一皿にこめてやるという矜持みたいなものが感じられる。メニューは和・洋・中・寿司・そば・喫茶と多岐に渡り、悪く云えば節操がないが、その節操のなさこそ、食のワンダーランドたる条件とも云える。
まず驚いたのが、子供の前に置かれた紙製のランチョンマット。
子供から見て一番奥にあたる外周に沿って、動物のイラストが描かれてあり、更には各動物は足許を除いて切り取れるようになっている。ミシン目通りに切って谷折りにすれば、動物たちが立体的にぐるりと子供を取り囲む格好になる。
この心意気こそを「遊園地仕様」と云う。
悠都は傍で見ていて可笑しいくらい三越の術中にはまっていた。
お子様ランチは3種類中(各800円)、いちばんポピュラーな富士山Ver.(あとは寿司がメインとかサンドイッチがメインとか)。
赤いD51(似ても似つかないがそう書いてあった)は煙突からドライアイスの白い煙を吐いて登場、悠都の目の色が変わったのをしかと見届けた。富士山は尾根がケチャップライスで山頂は雪をあらわす白ごはん。スパゲティ、エビフライ、ハムとチーズとレタスを挟んだブレッドにポテトフライ。そしてオレンジジュースのマグカップ。これを喜ばない子供はええとこのぼんぼんだけである(誰がエテ公やねん)。
親は親とて中華御膳など頼む(あ、妻はカキフライ定食だった)。
麻婆茄子をメインディッシュに、トレイを溢れんばかりの棒々鶏、海老チリ、シュウマイ、中華スープ、杏仁豆腐と各種小皿や器が並んだこちらも「大人の遊園地」の風格。程よく(決して「安い」味ではない程度に)グルメで、程よくジャンク。誠にデパートのレストランの信条を体現したメニューと云える。
結果、非常に満足して店を出たのだが、何かが足りない気がしてならなかった。
帰り際にショーウインドウを見て気づいた。
「…あ、ウチのお子様ランチ、富士山に旗がなかった」
画竜点睛を欠く、シェフも疲れが出たのだろうか。気づかぬ僕らも僕らだが。
かくて、お子様ランチは雪辱戦(?)を余儀なくされたのだった。
デパ地下でお茶菓子など物色してから帰宅。
都内に住んでいるしあわせを噛みしめねばなるまい。
ちなみに夜食は戸棚に残っていたラーメン茶漬けで済ませる。
処で、これってまだ売ってるの?
旬菜酒房Ginzaかなえ
2003/11/17(Mo)
今夜は業務サイドで我が部門が大変お世話になったMさんが今月末で寿退社されるので、後任のM2さんの顔繋ぎも兼ねて旬菜酒房Ginzaかなえ(八重洲店)にて歓送迎会。しかし、今月は酒も呑めないくせに宴席が多いぞ(会社だけじゃなくて個人的な約束が重なったのも大きい)。来週末は同期会で築地方面へ。再来週は職場の忘年会で日本橋のインド料理、ベリーダンス付(ベリーダンスの方は上司のAさんのたってのご所望)。
こ、これが東京ということなのか。
職場が大手町にある関係上、自然、日本橋で店選びをする事になるが、此処はそういったお店の層が厚いので、チョイスにはまるで困らない上、呑み会ではなく、個人で食事を楽しむと考えた場合、なかなかのお店が軒を連ねている。今夜のGinzaかなえもそんな小じゃれた和風創作料理の一軒で、丁寧な食譜は省略するが、値段の割になかなかのコースだったので(税・飲み放題込 7,000円を決して安いとは思わないが、料理はそれだけのクオリティだったと思う)、備忘の為、メニューだけは記しておく。
◆かなえ冬日和の宴/冬の味覚 和牛と蟹の込々コース【9品】◆
【先付け】 特選 季節の前菜(アン肝と生湯葉、京茄子の煮付等オードブル4品)
【お造り】 蟹と鮮魚の盛り合わせ
【揚げ物】 蟹と穴子の一本揚げ 抹茶塩仕立て
【口直し】 柚子風味の氷菓子
【魚河岸料理】 浜茹でたらば蟹盛り
【一品料理】 和牛ロースの朴葉(ほおば)味噌焼き
【蒸し物】 蟹と生雲丹の茶碗蒸し
【お食事】 『土鍋炊き』ずわい蟹のおこわ飯
【水菓子】 料理長おまかせ甘味(冷製おしるこ)
唯一写真を撮ったのは、蟹と穴子の一本揚げ 抹茶塩仕立て。
インパクトのあるヴィジュアルと、穴子の旨さがほくほくと光る一皿。
とにかく「蟹の込々コース」の名に恥じない蟹尽くしで、蟹と生雲丹の茶碗蒸しの掘れば掘っただけ蟹肉が出てくる豪快さや熱々の土鍋が饗されて、各自で取り分ける蟹おこわの蟹肉埋没度の異常なまでの高さに歓喜する。浜茹でたらば蟹盛りはクラッシュド・アイスを敷いた上に蟹の爪が草木とアレンジしてある假屋崎省吾仕様。シャーベット状の蟹肉を引きずり出して喰らう趣向。和牛ロースの朴葉(ほおば)味噌焼きは七輪とその上で焼かれる巨大な朴葉(ほおば)のえんじ色という演出の面白さを堪能すべき一品。肉自体は特筆する程旨くはなかった(一応、霜降肉だったが、蟹に比べると誠に凡庸な味)。
しかし、こう家族抜きで外食(しかも美食)が続くと妻子に後ろめたいのも本当。
確かにこういうおつきあいも仕事の一環ではあるが、旨いものを食べるとこの愉悦を家族と共有したいとつい思ってしまうのは、オレが根っからの家庭人間だからなのか。…そんな上等なものとも思えないが。
美味しい話ついでに、今読んでいるマイケル・ルーマン/渡辺葉訳「料理人誕生」(集英社)に、個人的にツボにはまった美食レシピが出てきたので、以下に紹介する。
生のトリュフは高価すぎるため、僕たちは缶詰のトリュフを使う。
料理長は残念そうに鼻に皺をよせて言った。
「一ポンドが八百ドルもする代物だけれど、生のトリュフが手に入ったらお米の中に保存するのよ。お米がトリュフの風味を引き出すから。卵を二つくらいそのお米の中にうずめて、冷蔵庫に入れておくの。卵は殻を通して呼吸するからトリュフの風味が移るのよ。その卵でスクランブルエッグを作るの。うんととろ火で、優しく、優しくスクランブルにする。お皿に盛って、パン・ドゥ・ミのトーストとシャンペンを添えるといい。大切な人と二人で食べるととびきりロマンティックな大晦日の夜食になるわ」
このふたりきりの夜食のインパクトは「怪盗ルビイ」で真田広之が食べたキャビア丼、というひとりきりの夜食のインパクトに匹敵する。独り占めするよろこびと、共同正犯のよろこび、いずれ劣らぬ「後ろめたくも」贅沢な食卓だが、確かにこのオムレツは独りきりより大勢よりふたりきりで食べたい。
中央青山監査夫人
2003/11/18(Tu)
仕事中の話。ふと書類を挟んだクリアファイルのロゴに目が行った。
中央青山監査夫人
其処で何故か、中央青山監査夫人を名乗るに相応しいひと → 美輪明宏 → 鹿鳴館に赴くような派手なドレスの美輪がオフィスに現れて羽根のついた扇子越しに役員一同を叱りつける →「こ、これは財務上やむをえない処置でございまして…」→「お黙りなさいッ!」と一喝、脅えて動けなくなった手近な役員をひっつかむと頭からムシャムシャ → かくて役員はひとり残らず中央青山監査夫人の餌食に(もはや、夫人でも何でもない)…と、埒もない妄想がとめどなく連鎖したのだが、正解は、
中央青山監査法人
であった。
以降、「中央青山監査法人」の文字を目にする度に美輪さんの高笑いが聴こえる筈だ。
ああ、刷り込みって恐ろしい(て、オレぐらいか、んな莫迦は)。
俳優の江見俊太郎、肺癌で死去。享年80歳。
悪役俳優として名を馳せたが、個人的には何と云ってもNHK「とっておきの青春」で唐沢さんのお父上役がベストであった。これまでの悪役の印象を一掃するような、育ちの良さを滲ませた軽妙で愛らしい演技が胸に残って、それから一気にファンになった。娘の縁談の破談を詫びに来た緒形拳との哀しくも可笑しいやりとりが今も胸に甦る。
後年、中川信夫特集で「東海道四谷怪談(1959)」の直助を観た時は、その顔立ちの美しさと自分が見知っている江見さんとのギャップに吃驚したものだ。役柄的には色悪だったが(其処がいいのだ)、浮世絵から抜き出てきたような紅顔の美青年であった。惜しい役者さんを亡くしたと、心からそう思う。──合掌。
今夜のデザートは銀のぶどうの11月限定「あっぷるぱんぷきんのロールケーキ」。
「あっぷるぱんぷきん」なるカボチャのケーキではなく、カボチャクリームに林檎の甘露煮の果肉を織り込んだクリームのロールケーキ。甘露煮はシナモンが効いていて、果肉の酸味とカボチャクリームのやわらかい甘さが口の中でちょうどいい具合にブレンドされる。…朝の空気も昨日から急に冷たくなったし、もう冬なんだねえとしみじみ。
フランシスコカステラ2号
2003/11/20(Th)
妻が「横浜文明堂楽天市場店」で「横浜文明堂2003年『おためしセット』大 」を購入したので、今宵からお茶請けは文明堂ウィークに突入する。ひとまず今夜は愉快な店長フランシスコ平川氏イチ押しのフランシスコカステラ2号を、これまた文明堂で買い求めた北欧紅茶(ティーセンター・ブレンド)で。
妻の話によるとフランシスコカステラ2号は、文明堂の古いアーカイブス(土蔵?)から発掘された大昔のレシピの復刻版で、店長曰く「時代に逆行したな口当たりの重さ」で、その特徴はカステラ底面にザラメがじゃりじゃりしている処にある。開封してブツをひっくり返すと、成程、石畳のようにザラメが敷き詰めてあって、口に入れた時のじゃりじゃり感と来たら他に形容のしようがない(いや、旨いんだ、これが)。
口当たりも店長が太鼓判を押す重たさで、軽薄短小な現代に挑戦状を叩きつけるような重量級の甘さと云っていい。て、自分で書いていて何云ってるんだか殆ど分からないが、とりあえず美味しいので、まだのひとは試してみるように。
スリランカ生まれ、スウェーデン王室のおぼえもめでたいトップブレンダー、バーノン・モーリス氏(誰だそりゃ、というツッコミはともかく、紅茶に同封してある冊子のいかがわしいペン画の肖像がまたよし)の手による北欧紅茶も、香りは高いが決して強くなく非常に飲みやすい。文明堂、いい商売をあきなっている。
処で悠都だが、彼はカステラ底面のザラメを見た途端「あ、これ、犬山で食べたカステラだ」と喝破した。
ある意味、こんな微妙な特徴でもカステラ十把一絡げではない処が、3歳児の記憶は油断ならない。
──でも、これが食べ物だからだという話はある o(^-^)o
お久し振りの煉瓦亭
2003/11/22(Sa)その2
19時前に「シャンハイ・ナイト(2003・米)」がハネてから、妻に電話すると銀座三越にいるとの事だったので、自分が居たシャンゼリゼの隣、プランタン銀座で待ち合わせ。あとで二ヶ所は目と鼻の先と知るが、何しろ僕には土地勘がない(目指す映画館をいちいち「ぴあ」の地図と首っぴきで確認している有様だ)。結婚前は東京でOLをしていた妻に云わせると、銀座は比較的町自体の変化が小さいので、道に迷う事がないのだそうだ。
木村屋でパンを買ってきたという妻子と合流、すっかり電飾が溢れたマロニエ通りを抜けて、久しぶりに(と云っても、僕は10年近く前に妻と一度ハヤシライスを食べに来たきりだ。彼女はその後しげく通ったようだが)銀座3丁目「煉瓦亭」で夕食と洒落込む。おお、何だか古川ロッパみたいじゃないか(古いな、おい)。当時は(あれは、シネスイッチ銀座で「アイ・ショット・アンディ・ウォーホル」を観た帰りだった)ハヤシライスとオニオングラタンスープ目当てに行ったのだが、その時初めて「元祖オムライス」なるものを知り、早速妻と試してみたのだった。
案の定、店の前は寒いというのにテーブル待ちの行列が出来ていたが、結婚式の二次会をやっているらしいお向かいの店で挨拶している花嫁のノースリーブが寒いかどうかを夫婦で熱く語り合っているうちに(バカ)20分足らずで、入店出来た。悠都は何故か二階に行きたがっていたが、実際には、熊の頭部の彫刻が見下ろす踊り場を抜けて、地階のテーブルへと案内される。階下には鹿の頭部の剥製が飾ってあった。恐るべきは創業一世紀余の風格と、粋と古色蒼然とは紙一重という、ある種いなたいセンス。
此処はアラカルトのみの店という事もあって、コーン・ポタージュが700円、ハムエッグやベーコンエッグが1000円もするのだが(そんなに高いと却って気になるのだが、試す勇気が…)、メニューの殆どはファミレス並みの値段であり、そのへん洋食の老舗らしい気取りはない。店の内装(特に目の大きなギンガムチェックのテーブルクロスや時代の入った椅子といった調度)はむしろデパートの社食並みと云ってもいい。其処は頑固にスタイルを変えない。気取りはないが、矜持があるのだ。などと、御託はさておき。
昼食が遅かったという妻子は元祖オムライス(1250円)、僕はハンバーグステーキ(1250円。これにライス200円をつける)をオーダーする。昔はメニューに普通のオムライスと元祖オムライスと両方載せていたと思うのだが、いつの間にか元祖だけになっていた。隣のテーブルでは若いカップルが元祖オムライスをふたつ頼んで食べている処を見ると「元祖」が余りにも有名になりすぎたのかもしれない。
元祖オムライスとは、スパニッシュオムレツよろしく、溶き卵にごはんを混ぜ入れて、ライスオムレツとして仕上げたもの。元々はファミリーミール(厨房のまかない飯)であった。メニューにないとっておきのメニューを常連客に特別に出している内に評判になって明治35年、正式にメニューに載った。断るまでもないが、シンプルで分かりやすくて庶民向けで、何より確かにこいつは旨いのだ。
ハンバーグステーキはつけあわせがロールキャベツのキャベツだけVer.(コンソメで煮たのかな)とケチャップで和えたスパゲティ、そしてクレッソン。あ、ハンバーグの上に載せた目玉焼きもセルクル様のものでかたちを整えてあった。挽肉のほろほろ加減もドミグラスソースの旨味、風味、コクとも文句無しの出来。1250円という値段設定は逆に自信のあらわれか。いずれもとても美味しくいただく。
云うまでもないが、悠都は何食わぬ顔でおかわりを要求した。
「おかわり、頼んでよ」──そうはいくか。
この店のシンボルとも云える、巨大な骨董レジスター(知ってる?此処のお釣りは全てピン札が用意されているんだよ)で支払い待ちをしている間、ウェイターのおじさんが「男の子だね」と確認してから「これでいいかな」と悠都にオモチャの包丁と人参(切断部分がマジックテープで着脱可能になっている)のセットをくれた。彼は狂喜して、夜布団に入るまで決して手放そうとしなかった。オムライスよりむしろこちらの方に心を奪われたらしい。
クリスマス模様の街並みを散策し乍ら─これって銀ブラ?─(写真は真珠を専門に扱うジュエリー店MIKIMOTOのクリスマスツリー。妻は此処のツリーが大のお気に入りなのだそうだ)、今は亡き鈴木その子の巨大なポートレートを見上げつつ(かなり怖い)、バス停から都バスで自宅へ直行する。
今夜の「出没!アド街ック天国」は、何と清澄白河。
まさに瞬きひとつ出来ない1時間(笑)。
妻子が普段買い物にいく商店街や、我が家から超近距離のケーキ工房「アトリエ・ド・ペリニィヨン」(出たよ、シブースト)まで、等身大のタウン情報が満載。何しろ妻はメモを取り乍ら観ていた程だ(実は裏番組を録画中だったんだが、録画のチョイスを間違えたかもしれない)。
それにしても、まさか「あしたのジョーほう」を活用出来る日が来るとは。
もしも実際に活用したら、此処でレポートします。
料理人誕生
2003/11/23(Su)
おめざは、昨日「銀座 木村屋」で買ったあんパン(栗あん、粒あん、濾しあん)を、通販で朝、届いたばかりの神戸ダンケのバターブレンドコーヒーでいただく。
妻が某掲示板で見つけてきたのだが、「珈琲豆を焙煎直後にバターを染み込ませた世界で唯一のオリジナルカフェ」で、砂糖もミルクもなしで美味しくいただけると評判だったそうだ。ネット通販がなかったので、妻は直接お店に電話してお試しに小袋を注文したらしい。
バターの風味が特に強い訳ではない(むしろ、どれどれと探す感じ)が、マイルドで口あたりがよく、成程呑み易い。胃にもやさしい気がする。妻も気に行ったようで、早速今日会うK田さんへお土産用に、小瓶に詰めていたようだ。
妻は、学生オケ時代の友人Sさんがビオラを演奏する岐阜県交響楽団創立50周年記念「東京公演」を聴きにサントリーホールへ行ったので、日がな息子と留守番をして過ごす。
何でもこのコンサートのために池辺晋一郎御大が新曲を書き下ろしたそうで(「夢の跡へ」〜オーケストラのために〜(世界初演))、僕的にはイケシンの極寒トークが直に鼓膜に伝わるという何者にも替え難い栄誉に預かれるのが大きな魅力(妻の話によると実際にイケシンの親父ギャグで幾度となく客席にブリザードが吹き荒れたという。たとえ檀ふみを召んでも若村麻由美を召んでもハンプティ・ダンプティは元には戻らない。前日のゲネプロから先生のダジャレに生身を晒し続けたSさんのストレスや如何ばかりか…て、やっぱり僕は羨ましいけどねえ)。
息子のたっての薦めで「白雪姫」を二度観せられて(これは家事を命じられた動物たちのインチキを嗜めたり、食事前に手を洗わない小人たちへ反省を促す「徳育」映画なのだと思い知る。白雪姫は「おかあさんといっしょ」のおねえさんそのものである)、そのまま息子と昼寝して、起きたら外が暗かったので夕食の支度をして、湯張りしているうちに一日を終える。それにしてもメシを作っている間中、悠都がまとわりつくので閉口する。こんな甘ったれの淋しがりやに毎日つきあう妻のエネルギーたるや。
夜、ようやくマイケル・ルーマン/渡辺葉訳「料理人誕生」(集英社)読了。
これは映画化あるいは連ドラ化して然るべき作品だと思う。
料理のプロフェッショナルを育成する料理学校の生徒たちのビルドゥンクス・ロマンであり乍ら、取材で体験入学している主人公がアイデンティティ・クライシスに煩悶しつつ、自問自答を続けるビルドゥンクス・ロマンでもある。講師である各料理長たちも、料理に取り憑かれたひと、或いは料理と心中すべく予めインプットされた宿命的なひとびととして描かれる。「病」というと誤解を招きそうだが、やはり僕は「病」と呼びたい。但し、彼らのそれはもはや「仕事」ではなく「天賦」なのだ。「滅私」ではあっても「滅私奉公」ではない。「料理人」という特別な生き物が「料理人」という行動原理に則って「料理人」として研鑚し続けるさまは、個々が捩れ、偏ってはいるが、それ故に「美しく」彩々の光を放つのだ。
それでは「料理人の行動原理」とは何か?
CIAのメッツ校長はそれを「われわれは皿に価値観を盛るのだ」と表現する。
たとえばある芸術家の世界は、描いた絵や彫刻、その質に表れる。必ずしもそれと同じではないが、皿に盛る料理によって、またその味によって、われわれの料理人としての価値観が表れると私は思う。自分の家族のため、いや、他の誰のためでも同じだ。皿に料理を盛るとき、私は自分がこう言っているような気になる。「これは上手く仕上がった。おいしくて、身体に良い料理ができた。そうでなかったらこうして皿には盛らない。これは私自身が心からおいしいと思うもの、これは私の価値観、これは私の信じるものだ──これを食べて、微笑んでくれたらうれしい」と。
料理人は、料理を作るたび、自分の価値観を表現しているのだと私は思う。
一切の妥協を廃した、生きている限り続く自分自身との闘い。
先に「滅私」ではないと書いたが、逆説的に最も「私的」とも云える。アウトプットとしての「結果」が外側に向かって開かれているが故に、最大の「私的」はまた最大の「滅私」ともなるのだ。人生は修行だ、それは目を背けられない現実。タイトルでもある「料理人誕生」とは、つまりその覚悟──強い意志を持つ瞬間を云うのだ。
これは僕のような手ぬるい人間には誠に耳痛く胸元に切っ先を突き付ける人生叱咤激励の書である。
あしたのジョーほう血風録
2003/11/24(Mo)
勤労感謝の日。
朝、土曜日の日記を読んだ妻が慌てて「アド街」のあしたのジョーほうを活用すべく、折畳自転車を駆って、「庄之助」深川白河店(第13位)へ(僕は店の場所を知らないのだ)。
あしたのジョーほうのひとつは、この「庄之助」(大相撲立行司22代木村庄之助を祖父に持つ和菓子屋さん)の人気商品極上お赤飯「萬祝」2個1040円を24日に限り、「『アド街』観た」と云えば、先着50名に500円でご奉仕するというもの。
処が、くだんのお店は写真の通り、大行列。買い物はおろか、ショウケースにも近付けない有様。店のひとの話によると、ひとによっては夜が明ける前から店の前に並んでいたとか。急遽、予定を先着50名 → 80名に大幅に変更して大盤振舞対応するも、とてもさばけなかった、というのが真相らしい。
それでも「あたしだって9時前に来たんだから何とかして」とお店のひとと押し問答する、わからないおばさんを約一名発見したので、記念にカメラにおさめてきたと妻。相変わらずシュミがお悪い(て、公開する俺も俺だけど)。確かに半額は安いと思うが、其処まで血眼になる程のものでもない。
これが、あしたのジョーほうの実態と競争率である。
番組に取り上げられた地域の近隣住民は肝に銘じておくように。
で、妻は予め僕と相談して「庄之助」が×なら、次善の策として「アトリエ・ド・ペリニィヨン」でおめざを買うというミッションに臨機応変に対応、店のスタッフに無理を云って(開店前だった)「焼き菓子ならご用意出来ますよ」と栗のタルトを買って帰る。
此処のタルトは、栗の渋皮煮がコクと深みのある甘さで非常に美味しい。
トッピングの薄いごませんべいもオススメ。今の処、ハズレというものがない。
夕方、日本橋に出て、丸善で篠田節子「百年の恋」(朝日文庫)を、高島屋の地階のイタリア系パン屋「ペック」でチャパッタ・ミルティロだの、パーネ・インカセッタ・アラ・イングレーゼだの、パーネ・チポ・フォカッチャだの、舌を噛みそうだが、試食して気に入ったパンを買い込む。
g@me.
2002/11/28(Fr)
今日から妻子は3泊4日で犬山に帰省。
「晩飯どうしようかな(僕)」「豪遊でもしたら(妻)」という事で、深川ギャザリアの「陳建一麻婆豆腐店」でささやかに「豪遊」する。つっても、いつも食べるB.陳建一麻婆豆腐に、四川風ゆでワンタン(紅油抄手)と陳建一オリジナル杏仁豆腐を追加したに過ぎないんだが(これらメニューはディナーのみ)。
しかしいつも思うのだが、B.陳建一麻婆豆腐は辛さ〈普通〉を謳ってい乍ら、生半可な辛さではない(ごはん、スープはお代わり自由)。僕は麻婆豆腐の辛さには耐性があるつもりでいたが(小倉の四川飯店で食べてた麻婆豆腐は此処迄辛くなかったと思う)、正直味覚と痛覚ぎりぎりの処で綱渡りしている(それがまた快感なのだが)。辛さ〈最上級〉のA.正宗麻婆豆腐は一体何処まで辛いのか。尤も試すつもりは全然ない。紅油抄手は小倉の大盤振舞で食べたのと同じ味噌だれが懐かしい。杏仁豆腐はフルーツやクコの実が入ってないぶん、豆腐そのもので勝負する一品。麻婆豆腐で灼かれた舌に癒し系の心地好い仄甘さ。甘露、甘露。
此処のお店は女性の配膳スタッフと厨房で鍋を振るう男性スタッフとに分かれているが、自分が認識した範囲で全員中国のひとであり(四川省出身かどうかまでは謎)、片言の日本語が異国情緒も漂わせつつ耳に快い。陳さんの薫陶よろしく皆がフレンドリー且つ全力でサービスしてくれるので非常に好印象。そういう処もリピーターを呼ぶ魅力のひとつ。
「豪遊」を名乗るくらいなので、腹が続けてレイトショウへ雪崩れ込む。
深川ギャザリアと109シネマズ木場は地続きなので、こういう時(は滅多にないんだが)便利である。
「g@me.(2003・日/井坂聡)」 109シネマズ木場
「ミスター・ルーキー」や「マナに抱かれて」を撮っても、やっぱり井坂聡はサスペンスよね、という事で不安2/3、期待1/3で観たのが本作。「[Focus]」を、とまでは云わずとも、せめて「破線のマリス」級の職人芸は堪能したかったのだが…うーん、どうだったのかなあ。
以下、ネタばれ前提で書いていくので未見の人は厳重注意。
物語は完全犯罪としての「狂言誘拐」と、その裏に仕掛けられた真相(第一のどんでん返し)及び、雪辱戦(第二のどんでん返し)と、ミステリーの謎解きとしては3部構成からなる。処がこの映画、肝腎の「狂言誘拐」のプロセスで、第一のどんでん返しがある程度読めてしまうのだ。故に観客側からすれば緊張感がないし、第一のどんでん返しで素直に驚けない。佐久間(藤木直人)の詰めの甘さと来たら、葛城邸の塀を乗り越えた一事を以って、樹理(仲間由紀恵)の身許を疑いもせず、確認もしない。警察の捜査のくだりはふたりの妄想だし(ガッツ石松と椎名桔平の楽屋オチには笑ったけど)、警察が動いているかどうかの確認も行わぬまま計画を進めている。アンティークドールのBBSだって、樹理の身許がはっきりしなければ何ら確実な手段ではない。
「策士、策に溺れる」を地で行く佐久間の青さの歯痒さったらない。
そして、これはミステリーの常道なのかもしれないけど、「第一のどんでん返し」で葛城社長(石橋凌)、手の内を明かし過ぎ。「ライフ・オブ・デビッド・ゲイル(2003)」のように、人生に後腐れがないのならともかく、これからものうのうと暮らしていくつもりなら、嬉しそうに妻(大塚良重)なんか紹介するもんじゃない。葛城社長もまた無邪気に佐久間は白旗を挙げるものと信じ込んでいる。はしゃぎ過ぎて次のラウンドで敗退する頭脳犯の見本市みたいな映画とも云える。
それでも、雪辱戦の「最後に愛は勝つ」に到る観客への奸計と結果沸き上がるカタルシスはまんまと成功しているし、ラストスパートまでの仲間由紀恵はぶっちぎりで愛らしいしで、「終わりよければ全てよし」だとは思うが、最初の減点が響いて、プラマイ及第点でどうだ(キライじゃないんだよ)。
という訳で、次回作まではついて行きますよ。
端役往来。
ミカドビールのエージェント生瀬勝久、警官役の小日向文世、佐久間の後輩にしてテレビ局勤務の大倉孝二、明かりを消した会議室で、姿は見えども声だけで分かる並樹史朗などピンポイントに今が旬の役者さんが大挙して出てくる愉しさ。それから、珍しくIZAMが物語のキーを握るチンピラ役で出てくるのだが、演技派というべきなのかな、これは。
8つ目の尿道結石
2002/11/29(Sa)
一日中、雨。寒くてつい、CDなどセレクトして聴き乍ら、夕方までだらだら過ごす。 (本多俊之「シンバイオシス」なんて、結婚以来、初めて聴き直したんじゃないか)
妻子不在でもなければ、レイトショウへ行く気が起きないではないかと自らを叱咤し、17時を過ぎてから半蔵門線で渋谷まで。清澄白河駅から20分もあれば、190円で渋谷へ行ける。腰が重いほうがウソなのだ。
雨降りの渋谷は、人口密度が高い分、傘がアーケードを作れるくらい連なっていて歩きにくい事夥しい。
「昭和歌謡大全集(2003・日/篠原哲雄)」 シネ・アミューズ
僕にとっての篠原哲雄はいつまでたっても「月とキャベツ」であり「洗濯機は俺にまかせろ」なのだが(篠原作品自体は去年の「命」「木曜組曲」含めて殆ど観ている。とりわけ「オー・ド・ヴィ」を観逃したのは失敗だった。理由は「Seventh Anniversary セブンス・アニバーサリー(2003・日)」の処で後述)、村上龍原作のある種キワモノな作品を此処まで見事に撮り上げるとはね…。
本作を観て思い出したのが村上本人が監督をした「だいじょうぶマイ・フレンド(1983)」である。
所謂「村上文学」を映画化する難しさを、この作品の出来が語っている。
それが文学として成立していても、物語自体の破天荒さが容易い映像化を許さない。手管と仕掛けによっては、演劇という空間において有効かもしれない(「昭和歌謡大全集」に関しては蜷川さんが実証してみせた)。「破天荒」と真面目に取り組もうとすれば、トンデモ側へ軌道をそらす事なく(「だいじょうぶマイ・フレンド」は残念乍らあっち側に墜落してしまった)、確信犯として「破天荒」をかたちにする必要がある。高橋源一郎「文学」を映画化した山川直人「ビリー・ザ・キッドの新しい夜明け(1986)」はそういった意味における「大」成功作ではないか。
結論は冒頭に書いてしまったが、篠原監督は「破天荒」を歯切れ良いテンポと、ある種の擬似演劇空間を作り出す事で、観客にこの映画世界の約束事をほぼ違和感なく手渡す事に成功している。登場人物のセリフが、それぞれチーマーらしくなく、おばさんらしくなく、どいつもこいつも村上龍の分身らしく小賢しいレトリックを使いまわすのも、これは特殊なムラカミ空間なのだと割りかし自然に納得させてくれる。これは篠原マジックと云ってもいい監督の功績だと思う。
何でもありのムラカミ空間故に、市川美和子の心霊少女フシギちゃん、内田春菊の無意味な二役、樋口可奈子の自慰行為さえも正当化される。これらを可能にするキーマンとしての自衛官古田新太の愚直さ加減、トカレフや核爆弾まで手配する古道具屋原田芳雄のアンチおばさん加減は可笑しくも方法論として極めて正しい(「ナインソウルズ」といい、松田龍平&原田芳雄がっぷりよつなコラボが続く)。ベタついた昭和歌謡の数々も映画にぴたりとはまっているが、尾崎紀世彦「また逢う日まで」は「博士の異常な愛情」の「We'll meet again」を狙いすぎ。
ちょっとショックだったのが鈴木砂羽が「おばさん」として出てきた処(森尾由美、細川ふみえももはやおばさん扱いなのか)。老け役なのかとも思ったが、33歳とほぼ実年齢(本当は31歳)。スナックで10歳くらい年下のイケメンにナンパされて「『おばさん』をからかうつもり?」などとうろたえたのにもかなりショックだった(バツイチだからって、そんな風に卑下して口に出すものなの?)。
トイレでコトにいたっている時に、彼女の背中のピップエレキバンに「油断」などと烙印したオトコにも「分かったような事を云いなさんな」と思ったが、それを「油断」と断じられる若さと、云い返せずにいる若くなさ。いつの間にか認める辛さが分かる側に立ってしまった…。
逆に岸本加代子は僕から見てもおばさんになった。頭では理解出来るけど、何だか淋しいような。
「Seventh Anniversary セブンス・アニバーサリー(2003・日/行定勲)」 シネ・アミューズ
全くもってお恥ずかしい話だが、劇場で行定勲作品を観るのはこれが初見。
「ひまわり」、「贅沢な骨」はレイトショウだったので時期を逸したとも云えるが、「GO」や「ロックンロールミシン」すら観損ねてしまった。今流行りの言葉で云う処の「痛恨の極み」というヤツだ。以降はレイトショウだろうがモーニングショーだろうが骨惜しみせず映画館に駆けつけるつもり(早速、年末に幻のデビュー作「OPEN HOUSE」がレイトショウ待機している)。
さだまさしに「8つ目の青春」という歌がある。
恋に真っ直ぐだが不器用な先輩が、失恋を重ねる度にその痛手(負のエネルギー)を、乗っているトラックを大きくする事で人間的成長を遂げていく(別に仕事がトラックの運転手な訳ではない)。タイトルの「8つ目」とは七転び八起きから来ている、非常にポジティヴなコミックソングである。
この映画では、トラックが尿道結石に置き換えられる。
主人公ルル(小山田サユリ。未見の篠原哲雄「オー・ド・ヴィ」ではヌードを披露したらしい)はある意味、「奇跡の海」のエミリー・ワトソンくらい不幸を自分に引き寄せる、思い込みが強い割に鈍感だという天然キャラなのだが、彼女は失恋すると心のしこりが結晶化して、ウミガメの産卵宜しく痛みと共に結石を排尿する(ご丁寧にも産み落とした「石」は全て標本にしておっしゃれーにディスプレイしてある)。映画はてっきり、彼女の儀式を中心にした恋愛物語になると思いきや、ルルの7つ目の尿道結石「Seventh Anniversary」の指輪が雑誌に載ってしまった事で、失恋尿道結石のブームへと物語(の興味)がシフトしてしまい(まさか宮台真司が出て来るとは思わなんだ)「世にも奇妙な」のテイストで着地する。
こちらは七転び八起きと云うよりは七転八倒のビターズ・エンド。
結石ブームのパートでは幾つかのエピソードが語られるが、中でも手塚とおる&中島ひろ子の愛が深い故に報われぬ挿話が秀逸。物語に深みを与える豊原功補&森下能幸の借金取りコンビの存在がまたいい。ただ、手塚が出てきた処で、ラストシーンが予測出来てしまうのも事実。キャスティングはほぼ完璧と云っていいが(指輪職人の武田真治、家庭教師の池内博之といったゲスト出演もいいが、泌尿器科医が諏訪太郎なのは見逃してはならない)、とりわけ韓国映画に負けないくらい美少女が集結しているのは声を大にして強調したい処。
最后に作劇上、気になった点をひとつ(思い切りネタばれするんでヨロシク)。
火葬場で焼き上がったルルの遺体に女子高生やひと儲けを企む男たちが文字通り、ハイエナのように群がって、彼女を「けがす」のだが、幾ら寓話とは云え、あそこだけはいただけない。菜箸様の長い箸を用いてですら、遺体から放つ熱気は耐えがたいのだ。焼いたばかりの骨を素手で漁るなんて、絶対にありえない。血眼になったひとびとの喧騒からゆっくりと天平(柏原収史)がフレームアウトしていく(物語がようやくルル個人に帰ってくる)、という演出意図はよっく分かるが、最后の最后で引いてしまった。
ま、ちょっとだけどね。
上映終了後、映画の主題歌「The day you lit my heart」を歌うcuetracksのアコースティックライヴ。
ついでという訳でもないのだろうが、ルル役の小山田サユリの舞台挨拶付(つっても、cuetracksの曲の感想を、撮影裏話にからめてちょこっと語った後は、脇で一緒に演奏を聴いただけだった。テイーチインのたぐいは一切無し。まあ、終電の時間も近かったしね。それにしても小山田サユリはちっちゃいひとであった)。
アコースティックライヴと云いつつ、フラッテール氏がサンプラー(でいいの?)を駆使していたので、バンドサウンドではないだけで、非常に厚い音であった。確かにイチローさんはアコギを弾いていたけど、フランシス・マヤのセルフコーラスさえかぶせてたし。
M1:The day you lit my heart
M2:AQUA
M3:Like A Bird
フランシス・マヤ(顔がえらく日本人離れしてるなあと思ったら、お父さんが英国人らしい。このひとも小山田さんに負けず劣らずちっちゃい)の透明感に溢れ、かつ伸びやかなヴォーカルに胸をゆっさゆっさと揺さぶられる。3曲それぞれ良かったが、個人的には日本語詞だった「AQUA」が特に胸に響いた。思わずCDを買いそうになるが、すんでの処で理性が動いて(縁があれば、また買う機会もあるさ)映画のプレスだけ買って、霧雨の降る夜のBunkamura通りを、沢山の傘を潜り抜けるように、半蔵門線へ急ぐ。
24時ちょっと過ぎに帰宅。みそラーメンとオムレツ作って食べる。
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